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人類はなぜ戦争をするようになったのか。96歳の老ジャーナリストの自伝的エッセイ風社会批評。

希望は絶望のど真ん中に.jpg 『希望は絶望のど真ん中に (岩波新書)』 [10年]

 著者(武野武治氏)は1915年秋田県生まれで、本書執筆時点(2011年)で96歳。自伝的エッセイ風社会批評とでもいうか。一見して最近の世の中を大いに悲観しているようで、実はその中に無限の未来を見出そうとしていて、例えば、「ジャーナリズムは死んだか」という問いに対し、ジャンーナリズムはとっくにたばっており、それを生き返らせるために皆で命がけで頑張ろうというスタンス。まさにタイトル通り、希望を失わない楽天性がこの人の本質なのかも。

 著者は東京外国語学校を卒業し、報知新聞社秋田支局に入社した2年後に盧溝橋事件から日中戦争が始まり、東京支社社会部記者として北京から内モンゴルを取材した際に、中国民衆は日本に屈服することはなく、日本軍に勝利はないと確信したとのこと(但し、そんなことは記事には書けない状況だった)。

 中国から帰国後に報知新聞を辞めると朝日新聞社から声が掛かり、1940(昭和15)年に同社会部の遊軍となり、2年後にジャカルタ支局に異動、ジャワ上陸作戦に従軍するなどしますが、終戦を迎え、戦時にジャーナリズムが軍事国家の先鋒を担いだ反省から、自らにけじめをつけるべく朝日新聞を退社し、秋田に戻ります。そして1948(昭和23)年に横手市で週刊新聞「たいまつ」を創刊し、30年間にわたり主幹を務めるも、1978(昭和53)年に経営難により休刊(63歳)、その後も執筆・講演活動を通じて30年以上にわたりジャーナリストとして活動してきた人です。

 先ず「人類はなぜ戦争をするようになったのか」ということを、独自の人類史観から考察していて、人類の歴史は700万年前まで遡るが、約2万5000年前にひとつの系統のみが生き残り(言語を話すホモ・サピエンスの系統)、農耕が1万年前に始まり、5500年前にチグリス河流域に都市文明(国家)が発生、最も手っ取り早い富の拡大手段として戦争が始まったとのこと。

この辺り、クニの原初形態が「国際」となる過程が詳しく説かれていて興味深く、以下、大航海時代から帝国主義時代、20世紀へと、戦争と国家の関係史を追っていますが、戦争は国家間の権力抗争の決め手となるもので、戦争は人間の本姓であるとか、戦争は消費を促進し不景気対策の必要悪だとかいうのは、みんな支配者の嘘であるとのこと、これは、先の太平洋戦争でも同じことが言えるようです。

 続いて「人類に未来はあるのか」ということを考察していて(テーマがデカイね)、人類の余命は、世界中で大戦争が起り、核兵器で人類が死滅するとすればあと40年ほど、地球の寿命であるガス星雲化するまでとすればあと40億年あるとのことで、40年か40億年かは人類次第だという―確かに。

 著者の批判は日本の現状に向けられ、東日本大震災後の福島第一原発事故対応で明らかになった産業構造の腐敗、政治の無責任、科学技術者の退廃を糾弾するとともに、戦後の日本社会は過ちばかりが目立ち、日本人は真摯な反省と真面目な努力をどこに忘れてしまったのとしつつも、大局的に見れば「ヒューマニズム」そのものは人類が国家をつくるまでには存在していたが、国家が形成され欲望を達成しようとした5500年前に戦争が始まってヒューマニズムは地に堕ち、爾来、人類は戦争ばかりやってきたのを「進歩」したと錯覚していると―国家権力と結びついた金融経済もまた謀略と戦争を孕んでおり、資本主義の綻びはいつも戦争で償われてきたが、2008年のリーマンブラザーズの破綻は恐慌を予感させる危険な兆候であり、新自由主義の行き着く先は労働者の貧困化と奴隷化であって、あと一歩で国民の奴隷化に行き着くだろうとしています。

 そうした中、労働から疎外された若者は、同じ苦しみや悲しみを背負う若者とは協力する方向へ努力せず、秋葉原事件などを起こしたりして自滅する方向へ流れるのはなぜか―こうしたことを皆の問題として受け止め取り組もうと、若者と触れ合ってきた著者は、この問題を、希望と絶望、学習、コミュニティに分けて論じています。

 先ず絶望すべき対象にはしっかり絶望し、それを克服する努力を重ねて希望に転化してゆこう、希望は絶望のど真ん中に実在している。みんなで学習する時は対等に隔てなく意見を述べ合うことが大事である―というのが著者の結論であり、後半は啓発的であるともにやや抽象的なメッセージになっていますが、96歳にして、大いに絶望しつつもその絶望を突きぬけて、そこから前向きなメッセージを発信しているそのパワーが、そもそもスゴイなあと思いました。

 個人的には、終戦を迎えた際の朝日新聞社内の様子などの記述が興味深かったです(う~ん、日本人の国民性としての当事者意識の無さがよく分かる。新聞記者だって宮仕えなんだなあと)。
むのたけじ.jpg 全体としてはやや牽強付会なところもありますが、何せ96歳ですから、目の前で話されたらもう大人しく聴くしかないかも。この人、所謂"優秀老人"と言うか、ボケないタイプなんだろなあ。「書く」という行為は、ボケ防止にいいのかも。喋りもスゴクしっかりしている...。
むのたけじ「希望は絶望のど真ん中に」刊行記念講演(2011年)

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原発推進もオウムやテロと同じ世界破壊「信仰」?! 相変わらず、もやっとした感じの本。

夢よりも深い覚醒へ9.JPG夢よりも深い覚醒へ―3・11後の哲学.jpg            文明の内なる衝突.bmp  不可能性の時代.jpg
夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)』['12年]『文明の内なる衝突―テロ後の世界を考える (NHKブックス)』['02年]『不可能性の時代 (岩波新書 新赤版 (1122))』['08年] 

 自分のイマジネーションが著者に追いつかないのか、はたまた単に相性が悪いだけなのか、相変わらず、本当にもやっとした感じの本でした。

 朝日新聞に掲載されていた比較文化学者の田中優子氏の書評によると、タイトルの「夢よりも深い覚醒へ」というのは、著者の師匠である見田宗介の言葉だそうで、悪夢から現実へと覚醒するのではなく、夢よりも深く内在することで覚醒するという意味だそうです。

 著者によれば、阪神・淡路大震災とオウム事件は何かの終りであり、おそらく東日本大震災と原発事故は、その終わり始めたものを本当に終わらせる出来事であったとのことで、要するにこれらは、破局と絶望に一連の流れ上にあると。

 9.11(テロ・アフガニスタン)と3.11(震災・原発事故)を同種の破局であるとして、進化論を持ち出してどちらも「理不尽な絶滅」であるとしているのは、震災とテロを一緒くたにして何だかハルマゲドンを煽っているっぽいなあという気がしたのですが、著者の論点は、まさにこの"同一視"に依拠しています。

 著者が、9.11テロとそれに対するアメリカの反攻に内在する思想的な問題(ナショナリズム)を、「文明の衝突」というハンチントンの概念を援用して読み説いた『文明の内なる衝突―テロ後の世界を考える』('02年/NHKブックス)を著した理由は、9.11テロが世界同時性を持ちながら、日本の知識人にとっては対岸の火事であって実存的問題にならず、著者自身も、社会学者としての無力感に見舞われざるを得なかったとのことからではなかったと思います。

 そうした忸怩たる思いでいたところが、3.11によってやっと著者自身、「理不尽な絶滅」を実感することができたというところでしょうか。前著『不可能性の時代』('08年/岩波新書)に既にその傾向はありましたが、全ての事象を、この「理不尽な絶滅」へ強引に収斂させているという印象を受けました。

 著者は、『文明の内なる衝突』において、イスラームやキリスト教の中にある資本主義原理を指摘する一方、「資本主義は徹底的に宗教的な現象である」としていましたが、本書では、世界を破壊する否定の力への信仰がオウムであるとすれば、原子力もまた、その破壊潜在力への「信仰」ではないかとしています。

 「日本人の戦後史の中で、原子力は、事実上、神のように信仰されていた」とあり、原爆の恐怖を知って間もないはずの日本人が、活発な地震帯の上に50基以上もの原子炉を建設してきたことは、まさに「破壊への欲望」であり、これは、オウム、9.11テロと重なる―という論旨は、個人的にはかなり牽強付会に思えるのですが...。

 マイケル・サンデルの「暴走機関車」の例え話から始まって、原発問題を倫理哲学的に考察し、後半はカント、ヘーゲルを持ち出し、イエス・キリストの思想を持ち出し、「神の國」と現実をいろいろ行ったり来たりしているのですが、これ、サブタイトルにあるように思想哲学の本だったのか―(だとすれば、ある程度の牽強付会はありなのか?)。

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福祉国家とは何かを思い描く上での思考の"補助線"となる要素はある本。

世界一幸福な国デンマークの暮らし方.jpg 『世界一幸福な国デンマークの暮らし方 (PHP新書)』 ['09年] 

デンマーク.gif 福祉国家の代表格であるデンマークの社会福祉政策や学校教育のあり方、人々のものの考え方などを通して、日本社会が抱える貧困、政治、教育、社会、福祉などの様々な問題を考えるに際しての「補助線」を示した本と言えます。

 生まれた時から亡くなるまで医療費・教育費は無料というデンマークですが、所得税率50%(低所得者には軽減措置あり)、消費税率25%という世界一税金の高い国でもあり、国家財政の土台の部分で日本とはあまりに違い過ぎると見る向きもあるかも知れません。

 しかし、国家予算の75%が教育や福祉に使われているとのことで、税金に嫌悪感を抱きがちな日本人に対し、デンマーク人は「高福祉高負担税」と言うより「高福祉高税」という受け止め方らしいです。
 読んでみると、"連帯"と"共生"を当然のこととするその国民性が、政府の施策と相乗効果となって、この国を「世界一幸福な国」たらしめていることがわかります。

 教育の実態も日本とは随分異なり、高校進学率は約45%で、50%は職業専門学校へ進学するとのこと、大学入試も無いという―、これは、学歴よりも実力を重視する社会であるためとのことですが、試験が無いと言うことが、「他人と競ってでも(他人を蹴落としてでも)」という意識を生ませないのかも。

 この国が何より進んでいるのがノーマリゼーションで、ノーマリゼーションを最初に実施した国であるという自負もあるのでしょうが、本書に紹介されているこの国の障害者福祉などの充実ぶりは、日本と比べても天と地ほどの差があるように思えました。

 社会保障が整っているために離婚が多く、この国の児童虐待で最も多いのは、血の繋がっていない子に対する近親相姦であるという、「負」の部分にも少し触れてはいますが、全体としてはデンマークのいいことばかり書いてあるような気もし、著者がノーマリゼーションの実践提唱者であるパンクミケルセンの業績を後世に伝えるための財団の理事長であるとのことにも関係しているのかも。

 各章の冒頭にあるアンデルセンの童話から本文テーマに繋げていく構成には、ああ、旨いなあと感心させられましたが、1つ1つのテーマの切り込みは、やや浅い部分もあり、老婆心ながら、読者によっては「夢の国」の話で終わってしまいそうな危惧も感じました。

 著者自身は、デンマークの方が住みやすいとしながも、日本の方が好きだと―。
 デンマーク並みの「高福祉高税」が無理であれば、「中福祉中税」を目標としてみるのもいいのではと提言していますが、日本のおける制度をどうこうしたらという具体的なことには触れていません。
 但し、本書の内容自体が、福祉国家とは何かを思い描く上での思考の"補助線"となる要素はあると思います。

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独自の教育メソッドについて詳しいが、異文化論、地誌・風物生活誌としても楽しめた。

フィンランド 豊かさのメソッド2.jpg フィンランド 豊かさのメソッド1.jpg 『フィンランド豊かさのメソッド (集英社新書)』 堀内 都喜子.jpg 堀内 都喜子 氏(略歴下記)

フィンランド.gif 著者はフィンランドの大学の大学院(コミュニケーション学科)を卒業。在学中に本書を書き、帰国後に出版したとのこと。

 そのフィンランドという国は、国土面積は日本から九州を除いたぐらいで、全人口は北海道より少ないそうで、人口密度は日本の10分の1程度とのこと。ちょっとヒトが少なすぎるのではないかとも思ったりするけれど、国土の70%は森林で10%は湖だから、人口が集まっているところには集まっているのでしょうか(日本だって国土の80%が山地だが)。

 福祉国家として知られる国ですが、OECDによる子どもの学力調査でトップ、世界経済フォーラムによるの国際競争力ランキングで3年連続1位とのことで、後者の経済の方の1位は、ノキアなどのグローバル企業を有するものの、企業に勤める人は殆ど残業もしないため、著者自身も不思議に思っていて、失業率もやや高く、著者がこの国に住んでいた時は、それほど景気がいいと感じたことはなかったそうです(分析的には、国がIT産業に力を注ぎ、社会の情報ネットワーク化を推進したことで、90年代前半の不況から甦ったとしている)。

 一方、学力調査の方での"トップ"については、フィンランドの教育メソッドが、著者の留学時の体験も含め、保育園から大学教育まで紹介されていて、初等教育における「できない子は作らない」ための工夫や、制服も校則も無いという自由な中学・高校、質の高い教師とカリキュラム、授業料の無料、国民の生涯教育への高い意欲などが挙げられています。

 やはり、「落ちこぼれを作らない」という理念が、教育の全期間を通して貫かれているのが素晴らしいことだと思われ、女性の雇用機会が広くあり、育児をしながらも充分フルタイムで働けるというということ併せて、日本との大きな違いのように思えましたが、日本で常に問題視されながら解決の糸口が見出せないでいる問題が、この国ではクリアーされているだけに興味深かったです。

 税金が高い(使途がガラス張りで、その大方が国民の福祉や教育に還元されているため、国民の不満は小さい)、国土の広さに比べ人口が少ないなど、根本的背景が日本と異なるということはありますが、この国の文化、生活様式や、人々のものの考え方の特質に触れた後半部分には、著者自身が初めてこの国に来て、びっくりしたり感心したり違和感を覚えたりしたことが率直に書かれていて興味深く、制度や立地条件の違いよりも、まず国民性が違うのだなあと思わされました(両者の相互作用もあるだろうが)。

 同じヨーロッパでもラテン系民族のそれとも随分異なるようで、公の場では口数が少ないなど、部分的には日本人と似ているところもあり、それでいて、発言するときはハッキリものを言うなど(言わないと伝わらない。「トイレはありますか」と訊くと「あります」という返事しか返ってこないという話には笑った)、やっぱり違うところは違うと言う―フィンランド語は独自系の言語ですが、国民性も「独自系」だなあと思いました。

 フィンランド流子育て(赤ちゃんを外で昼寝させる習慣はテレビでも紹介されていた)や、国民の間で人気のあるスポーツ、本場のサウナの入り方なども紹介されていて、異文化論、地誌・風物生活誌としても読める楽しい本でした。
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堀内 都喜子2.jpg堀内 都喜子(ほりうち ときこ)
1974年長野県生まれ。大学卒業後、日本語教師等を経て、フィンランド・ユヴァスキュラ大学大学院に留学。異文化コミュニケーションを学び、修士号を取得。フィンランド系企業に勤務しつつ、フリーライターとしても活動中。

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社会時評らしくなってきた分、面白みを欠く。 書評に読みどころがあったのが救い。

ぼちぼち結論.jpg 『ぼちぼち結論 (中公新書 1919)』 ['07年]

 自分にとっては、解ったような 解らなかったような所があって、読み直すのも何だから次の本を買って読んでみる―といった感じもある養老氏の本ですが、本書は「中央公論」連載の時評エッセイ「鎌倉傘張り日記」の2005年11月号〜2007年6月号の掲載文を収録したもので、『まともな人』『こまった人』('03年・'05年/共に中公新書)に続く第3弾で、7年間の連載の完結篇。

 小泉首相の靖国神社参拝やイラク戦争の戦後処理問題に対する言及など、だんだん社会時評らしくなってきましたが、そうなればなるほど、イマイチ面白みに欠けるような気も...。この人、やはり、生命論とか自然科学寄りの話の方が面白い、とういう気が個人的にはするのですが。

 話の内容としては、納得できるものもあれば論理の飛躍を感じるものもありましたが、「結論」ということを特に意識した書き方でもないように思え、アメリカが言う「テロに対する正義の戦い」というのは見せかけで、石油供給の安全性確保が強迫観念となっているために米軍はイラクから引き揚げない(或いはサウジに駐留してビン・ラディンを怒らせる)というのは尤もだと―、でもこれが本書の結論とも思えないし。

ウェブ進化論.jpg 文中や章の間に挿入されている書評に面白いものがあり(これが本書の救いと言えば救い)、例えば、梅田望夫氏が『ウェブ進化論』('06年/ちくま新書)でネットの世界を「あちら側」、リアルの世界を「こちら側」として対比させ、既成の世界にいる人はグーグルなど「あちら側」で起きていることが理解できないとしたことを、養老氏自身は既成の世界でのアナロジーでこれを語ったとし(『バカの壁』のことか?)、自らを、「こちら側」の既成の人たちから放逐されている「あちら側」に属する人間だとしています。

 氏にとっての「あちら側」の世界とは「虫の世界」で、この本にある「ロングテール現象」の説明にも痛く感じ入った模様で、虫を「知られている順」に並べると同じくロングテールとなり、氏が指向しているのは、その尾っぽの先の(或いは裏の)まだ情報化されていない世界のようです(これが結論? 相変わらず、よくわからん)。

 【2011年文庫化[中公文庫〕】

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少子化の真因は「人口容量」の飽和化にあるというマクロ理論。「未来社会学」本。

日本人はどこまで減るか.jpg 『日本人はどこまで減るか―人口減少社会のパラダイム・シフト (幻冬舎新書 ふ 2-1)』 ['08年]

少子高齢化・人口減少.jpg '04年12月の1億2780万人をもって日本の人口はピークを迎え、'05年から減少に転じているわけですが、著者は「少子・高齢化で人口が減る」「子供が減り、老人が増える」「出生率が上がればベビーの数は増加する」といった、国内人口の減少に対する"通説"に論駁を加えるとともに、人口減少の理由として、生物学において動物の個体数減少の理由として提唱されている「キャリング・キャパシティー」(環境許容量が一杯になれば個体数は抑制される)という考え方を人類に敷衍し、但し、人間の「キャリング・キャパシティー」は動物と異なり人為的な文化的・文明的な容量であるため、そうした要素を勘案した「人口容量」として再定義したうえで、少子化の真因はこの「人口容量」の飽和化にあるとしています。

 著者によれば、人間の歴史において人口容量はそれぞれの経済発展や文明の段階ごと拡大しており、その結果として人類はこれまで5つの「人口波動」(増加と安定・減少のサイクル)を経てきたとしており、このことは日本だけの人口増加の歴史を見ても当て嵌まるとのこと、それぞれ減少・安定から増加に転ずる契機となったものを考察するとともに、現在は第5波の「工業現波」の時期であり、日本は人口容量が満杯になった「濃縮社会」であるとしています。

 総生息容量(P)=自然環境(N)×文明(C)
 人口容量(Ⅴ)=総生息容量(P)÷人間1人当たりの生息水準(L)
 著者の「人口容量」の公式はこのように表され、Pが伸びている時はLが伸びてもVにゆとりがあるが、Pが伸びなくなってLが伸び続けると、Ⅴが落ちるために人口は減少に転じるとのこと、Pが伸びない以上、Ⅴを上げるにはLを下げるしかなく、換言すれば、親世代は自らの生活水準を下げて子どもを増やすしかないが、それをしたくないために、生息水準(L)を維持して、子どもの方を諦める、それが晩婚・非婚という結婚抑制や避妊・中絶という出産抑制に繋がることになるらしいです。

 理屈としては面白いし、「格差社会」では人間1人当たりの生息水準(L)が低下するため人口容量(Ⅴ)は増えず、少なくとも人口容量を維持するためには、人口減少によって生じたゆとりが1人1人に適正配分されることが望ましいといった論は尤もであるという気がする一方、経済学でもそうですが、こうしたマクロレベルの理論は結局のところ全て"仮説"に過ぎないのではという気もして、その"仮説"に過ぎないものに基づいて、"近視眼的な"少子化対策などを批判しているのはどうかなあという気も。

 総生息容量(P)増大に繋がる新たな基盤文明(未来文明)へのブレークスルーとして、「新エネルギーの育成・創造法の確立・拡大」を掲げており、アルビン・トフラーの向こうを張ったような文明論は、著者の専門の1つが「未来社会学」であることと呼応しているわけだと読後に改めて気づいた次第。

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「おばさん」っぽい者同士(?)の対談は、"聞き手"である養老氏がリード。

逆立ち 日本 論.jpg 『逆立ち日本論 (新潮選書)』 ['07年] 私家版・ユダヤ文化論.jpg 内田 樹 『私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)』 ['06年]

 内田氏と、内田氏の『私家版・ユダヤ文化論』('06年/文春新書)の帯の推薦文を書いていた養老氏が、雑誌「考える人」で対談したもので、両者の本格対談は初めてらしいですが(養老氏、対談本多いなあ)、人気者2人の対談ということで、内容が濃かろうと薄かろうと、予め一定の売上げは見込まれたのでは。
 これを「選書」に入れるということは、「選書」の独立採算を図ろうとしているのであって、「選書」だからと言って内容が濃いわけではなかろう―という穿った気持ちで本書を手にしましたが、まあ、当たらずも遠からずといった感じでしょうか、個人的感想としては。

 本書の内容に触れようとするならば、元本である『私家版・ユダヤ文化論』にも触れなければならなくなるので、敢えてここでは割愛しますが、本書だけ読んでも、もやっとした理解度に止まるのではないかと...。

 「この対談では、内田さんに大いに語ってもらいたかった。だから私は聞き手のつもりでいた」と養老氏は前書きしていますが、前段部分は確かに、『私家版・ユダヤ文化論』についての内田氏による補足説明のような感じも。
 これが、元本よりも丁寧だったりするので(補足説明だから当然か?)、そう考えると元本の結論部分はやはり新書ということで紙数不足だったのかとも思ったりし、逆に、元本を読まずに本書に触れる人に対しては、やや説明不足のような気がしました。

 但し、内田氏によれば、内田氏自身の話したことはほぼ活字化されているのに対し、養老氏の喋ったことは半分ぐらい削られているとのことで、実際に対談をリードしているのは養老氏という感じ。
 中盤の時事批評的な話は、養老氏は『バカの壁』の2年前から社会時評を雑誌連載していることもあり、時事ネタへの"独特の突っ込み"はお手のものですが、ちょっと飽きたかなあ、このパターン。

 ただ、最後の方になって、養老氏が自ら言うところの「"高級"漫才」と呼べるかどうかは別として、何となく味わいが出てきたかなという感じで、相変わらず読んで何が残ると言い切れるようなものではないけれども、ヒマな時にブラッとこの人の対談とか読んで、頭をほぐすのもいいかな、と思わせるものがありました。

 内田氏が対談の冒頭、本書の企画は、編集担当が内田氏と養老氏が「おばさん」っぽいところが共通していると感じたことから始まったことを明かしています。
 その「おばさんの思考」とは、頭で考えたことではなくて、どちらかというと非常に身体感覚的で論理がふらふら揺れ、極端に言えば、どんな結論にいこうと論理の次元が変わろうと気にしないのが「おばさん」であり、話のユニットが、連想とか関連語で(垂直方向ではなく)水平方向に繋がっていくのが特徴であると。
 内田氏の発言の中では、この「おばさん思考」が自らの思考方法に、及び養老氏のそれについても当て嵌まるとして分析していたのが、最もしっくりくる指摘でした。

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全体の構成にはやや違和感を覚えたが、随所で考えさせられる点も。

私家版・ユダヤ文化論.jpg私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)』 ['06年] ユダヤ人.jpg J‐P.サルトル 『ユダヤ人 (岩波新書)

 2007(平成19)年度・第6回「小林秀雄賞」受賞作。

 ユダヤ人問題の研究を永年続けてきた著者が、「なぜ、ユダヤ人は迫害されるのか」ということを論じたもので、第1章では「ユダヤ人」の定義をしていますが、「ユダヤ人はユダヤ教徒のことではない」としている時点で、「あっ、これ哲学系か」という感じでサルトル『ユダヤ人』('56年/岩波新書)を思い出し、案の定、「ユダヤ人は反ユダヤ主義者が"創造"した」というサルトルの考えが紹介されていました(そっか、この人、"元・仏文学者"だった。今は、思想家? 評論家?)。

 但し、「ユダヤ人とは『ユダヤ人』という呼称で呼ばれる人間のことである」という命題は、サルトルの言うほどに「単純な真理」ではないとし、レヴィナスの「神が『私の民』だと思っている人間」であるという"選び"の視点を示しています。
 レヴィナスは読んでいないので、個人的には、(お手軽過ぎかも知れないが)いい"レヴィナス入門"になりました(冒頭で著者が、自らの「学問上の師はユダヤ人」としているのはそういうことだったのか)。

 世界の人口の0.2%しかいないユダヤ人に何故、思想・哲学分野などで傑出した天才が多いのか、ノーベル賞科学系分野の受賞者数において高い率を占めるのか、といった興味深いテーマについても、サルトルとの対比で、レヴィナスの思惟を解答に持ってきていて、但し、こうしたサルトル vs.レヴィナスという形で結論めいたことが語られているのは終章においてであり、第2章から第3章にかけては、ユダヤ人陰謀史観が、「ペニー・ガム法」(自販機に硬貨を入れたらガムが出てくるのを見て「銅がガムに変化した」と短絡的に解釈してしまう考え方)に基づく歴史解釈であることを説明しています(ある種、情報リテラシーの問題がテーマであるとも言えるかも)。

 具体的には、第2章では、『シオン賢者の議定書』という反ユダヤ主義文書が19世紀末から20世紀にかけての日本人の反ユダヤ主義者に与えた影響や、エドゥアール・ドリュモンというフランス人の書いた『ユダヤ的フランス』というかなり迷妄的な本、並びに、その本に影響を受けたモレス侯爵という19世紀の奇人の政治思想や活動が紹介されていて、さながら、奇書・奇行を巡る文献学のような様相も呈しており、ある意味、この「トンデモ本」研究の部分が、最も"私家版"的であるととる読者もいるかも(自分も、半分はそうした印象を持った。実際には、「あくまでも私見に基づいて論じる」という意味だが)。

 全体の構成にはやや違和感を覚えましたが、随所にサルトル的な知性を感じ、その分既知感はあったものの、人間の嵌まり易い思考の陥弄を示しているようで、面白く読めました。
 一方で、レヴィナスの言葉を引いての著者の、ユダヤ人は自らが「神から選ばれた民」であるがゆえに、幾多の不幸をあえて引き受ける責務を負うとの考えを集団的に有している、という言説には、旧約聖書に馴染みの薄い自分には、ちょっと及びもつかない部分があったことは確か。

 本書は、学生への講義録がベースになっているそうで、「ユダヤ人が世界を支配している」というようなことを言う人間がいるが、そういう奇想天外な発想がどうして生成したかを論じるつもりが、「ユダヤ人が世界を支配しているとはこの講義を聞くまでは知りませんでした」というレポートを書いた学生が散見され、慌てて翌年に、文芸誌に「文化論」として整理し直して発表したものであるとのこと、そんな学生がいるのかなあ、神戸女学院には。

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師匠(見田宗介)の本より面白い。但し、後半は、共感するしない以前に、よくワカラナイ...。

不可能性の時代.jpg 『不可能性の時代 (岩波新書 新赤版 (1122))』 ['08年]  社会学入門−人間と社会の未来.jpg 見田宗介 『社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)』 ['06年]

 著者は東大の見田宗介ゼミ出身の社会学者ですが、見田氏が'90年代に、戦後の時代を「現実」の反対語により「理想の時代」('45〜'60年)、「夢の時代」('60〜'75年)、「虚構の時代」('75〜'90年)と区分したのを受け、本書ではこれを補強解説していて、この部分は比較的わかり易いし、師匠の近著『社会学入門』('06年/岩波新書)よりもむしろ興味深く読めました。

 学者で言えば柳田國男・折口信夫から東浩紀・吉見俊哉まで触れ、創作で言えば、浦沢直樹の『20世紀少年』の読み解きから、松本清張『砂の器』と水上勉の『飢餓海峡』の類似点指摘まで、事件で言えば、三島由紀夫事件からオウム事件まで、或いは少年N(永山則夫)から少年A(酒鬼薔薇聖斗)まで幅広く触れていて、見田氏の言う「社会学」という学問が「なんでもあり」の学問であることをよく表しているという点では、こっちの方がむしろ「社会学入門」と言えるかも知れません。

 但し、部分部分でナルホドと思わせられる点はあったものの(例えば、柳田國男が戦後に復活を求めた「家」は、結果的に「マイホーム」に置き換わってしまった(内田隆三)とか)、他者からの引用の部分にむしろ感応させられたかも。
宮崎勤死刑囚.jpg 著者はそれらにまたひとひねり加えていて、オタク論においては、東浩紀や大塚英志を参照しながらも、M(宮崎勤)の事件をもとに独自の身体論や疎外論を展開していますが、この辺りから(共感する部分もあったことは確かだが)牽強付会気味なものを感じ始めて個人的にはついていけなくなり、酒鬼薔薇事件('97年2月)後まもなく永山則夫の処刑(同年8月)が行われたということが、秋葉原通り魔事件('08年6月)から10日もしないうちに宮崎勤死刑囚の処刑が行われたことにダブったのが、一番のインパクトだったりして...(本旨ではない細部に目が行きがちになってしまう)。

 本書において見田宗介の忠実な後継者であるようにも見える著者は、「虚構の時代」の次に来たものを「不可能性の時代」とし、現代社会の特徴として「現実から逃避」するのではなく、「現実へと逃避」する者たちがいること、大衆文化の中で、破壊的な「現実」への嗜好や期待が広く共有されていること(218p)を捉え、それはむしろ、真の〈現実〉、真の〈破局〉に向き合うことを回避する社会傾向だとしていて、こうした"逃避"の行き先である「現実嗜好」、或はその裏返しとしての「破局嗜好」は、真の破局を直視することを避けようとするものであると―(そう述べているように思った)。
 破局への嗜好を、真の〈破局〉を直視することで断ち切ることに、普遍的な連帯への手掛かり(可能性)があるといった論旨でしょうか。

文明の内なる衝突.jpg 著者の本を読むのは、『文明の内なる衝突』('02年/NHKブックス)に次いで2冊目ですが、9.11テロとそれに対するアメリカの反攻に内在する思想的な問題を、「文明の衝突」というハンチントンの概念を援用して読み説いたこの本においても、テロリズムとナショナリズムの同位性などの着眼点は面白かったが、解決の手掛かりが抽象的であるように思えました。
 今回もテーマの一部としてこの問題は扱われていますが、対象とする問題の範囲が広い分、結論の抽象度は更に高まったように思います。
 後半部分は、共感するしない以前に、ワカラナイ部分が多すぎたというのが正直なところです。

《読書MEMO》
●現代社会は、二つのベクトル―現実への逃避と極端な虚構化―へと引き裂かれているように見える。(中略)究極の「現実」、現実の中の現実ということこそが、最大の虚構であって、そのような「現実」がどこにあるのかという想定が、何かに対する、つまり〈現実〉に対する最後の隠蔽ではないか。(中略)一方には、危険性や暴力性を除去し、現実を、コーティングされた虚構のようなものに転換しようとする執拗な挑戦がある。他方には、激しく暴力的で、地獄のような「現実」への欲望が、いたるところに噴出している(165-166p)

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読み易いが、読み易さと理解のし易さは別。抽象的で、構成上もモザイク的な印象。

社会学入門−人間と社会の未来.jpg 『社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)』 ['08年] 現代社会の理論.jpg 『現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)』 ['96年]

 前著『現代社会の理論』('96年/岩波新書)に比べれば読み易かったですが、社会学の入門書としてはどうかなあという感じで、読み易さと理解のし易さはまた別であるというのが、本書を読み終えた感想です。

 確かに前半部分、第1章「鏡の中の現代社会」と第2章「魔のない世界」は、文化人類学的な視点などを示していて(著者の専門は文化社会学)、学問の入り口に立つ人に社会学という学問の幅の広さを理解してもらう上では良いと思いましたが(社会学は"越境せざるを得ない学問"である著者は言う)、体系的に纏まっているわけでもなく、エッセイみたいな部分もあり、第3章の「夢の時代と虚構の時代」において、現代日本の"感覚"の歴史を割合に手際よく纏めているかと思うと、第4章「愛の変容/自我の変容」で短歌評みたいになったりして、「論」としての纏まりを感じたのは第5章の「二千年の黙示録」と、約40ページ9節に分かれる「補章」の部分でしょうか。

 第5章の「二千年の黙示録」で提示しているテーマは、「関係の絶対性」をどう超えるかということであり、これは、黙示録にある"バベルの塔"の崩壊以来、2001年の同時多発テロに象徴されるような、原理主義的な"イズム"の衝突をどう克服するかということだと解釈したのですが、その結論は、「補章」の最後にあるように、この著者特有の「〈至高なもの〉を解き放つこと」的な言い方に収斂されており、これに感動するか、韜晦されたと感じるかによって、本書への評価は分かれると思いました(この著者には、熱狂的な読者が多い。一般読者だけでなく、大澤真幸、宮台真司、小熊英二ら多くの見田ゼミ出身の社会学者がいる)。

 敢えて具体的(でもないが)、解決案的記述を探せば、「補章」の"間奏"にあたるという(「補章」は交響曲構成になっているらしい)第6節で、近代社会学における「ゲゼルシャフト(社会態)からゲマインシャフト(共同態)へ」という社会様態の段階理論を止揚し(人間のこれまでの全ての社会は「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」の複層構造にあるが、ゲゼルシャフトは虚構であり、それは微分化されたゲマインシャフトの相互の関係としてのゲゼルシャフトであると)、そこに「意思以前の関係」(要するに自由がきかない関係とういうこと)か「自由な意志による関係」かという軸を入れ、その第1象限にあたる「ゲマインシャフト/自由な意志による関係」を「交響体」(ゲマインシャフトだが自由がきかない「共同体」の発展系)として捉え、そこに活路を見い出しているようです(序章で既にこのことは述べられていた)。

 やはり抽象的? 大学の講義ノートを再整理したものらしいですが、その講義科目が幾つかに渡るうえに、すでに発表済みの論文等も織り交ぜていて、結果的に各章の関係がモザイク的な感じになっているように思いました(著者の信奉者には、それが綺麗な模様に見える?)。モザイクの部分部分はそれなりに、イイこと書いてあるのだが...。

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情報化・消費化社会がもたらす環境・資源問題は既にグローバル化した"常識問題"に。
やや古く、解決糸口も見えにくい。

現代社会の理論.jpg 『現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)』 ['96年]

 我々が生きる「現代社会」とはどんな社会か? その基本的な特質は何か? 本書は、社会学の方法を用いてその問題に迫った"名著"とされている本―ですが、自分との相性はイマイチだったかも。

 著者は、現代社会を「情報化/消費化社会」として特徴づけていて、例えば、我々が商品を購入する場合に、商品の機能や性能より、デザインやイメージから選択することがあるが、そうしたイメージはテレビCMなどで植えつけられたものであり、情報を通して欲望が喚起されたともとれ、情報は無限性を持つため、消費も無限に生み出される、そして、それに応えるようにモノも生産される―、その意味においては、現代の「情報化/消費化社会」システムが社会主義システムよりも相対的に優秀かつ魅力的だったことは確かであるが(ここまでは、計画経済の限界を説いた経済学者の先行理論と変わらない)、一方で、このシステムは、「大量採取」と「大量廃棄」を伴うために、環境・公害問題、資源・エネルギー問題、貧困・飢餓問題などの危機的な矛盾と欠陥を孕む、と言っています。

 「大量生産→大量消費」という現代社会の図式は、実は「大量採取→大量生産→大量消費→大量廃棄」という全体図になっているのに、その始めと終わりの部分は我々の目には見えにくく、その"盲点"を指摘した点が、本書が"名著"とされている理由の1つでしょうが、本書の書かれた'96年時点では、本書に取り上げている「南北問題」とかで、「採取」と「廃棄」はそうした見えない地域へ押しやられて我々の目に触れにくかったということだろうか(個人的には、今現在ほど「環境/資源問題」がグローバルな問題になっていなかったにしても、当時においてもそれなりに問題視されていたように思うが)。

 後半部に、この「環境/資源問題」をどう乗り越えるかがテーマとして取り上げられていますが、バタイユなどを引くうちにだんだん抽象的な学術論文みたいになってきて、あまり具体的な解決案というものが、読んでも見えてきませんでした(結局、「モノからココロへ」ということが言いたかったのか?)。
 後半部では、スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか』 ('80年/朝日新聞社・'84年/朝日選書)から例証・反駁したゼネラル・ミルズ社のトウモロコシ原料商品「ココア・パフ」の話が唯一面白かったですが、読み物としては面白いけれど、あまりに楽観的すぎる気もして、こうした楽観性は、本書の随所に見られたような...。

 広告が商品に付加価値を付けることがやたら強調されていますが、広告があるがゆえに単一商品に対する(大量需要が生じて)大量消費が可能となり、それに応えるための大量生産が可能となり、よって商品の単価が下がるのであり(コマーシャルが流れると苦々しくテレビのチャンネルを切り替える人も多いと思うが、そうした人だって新聞の書籍広告には目を通したりする)、こうした伝達機能がなければ、商品はどれもプレミア商品にならざるを得ず、出版物の多くは稀覯本になってしまう―、本書では、広告のそうした「商品の単価を下げる」というベーシックな機能には、あまり目がいってないように思えました。

《読書MEMO》
(スーザン・ジョージ著『なぜ世界の半分が飢えるのか』より) 「私は週末に大スーパーに買い物に出かけ、ゼネラル・ミルズ社が、トウモロコシを1ブッシェル当たり75ドル4セントで売っているのを知りました(商品名は「ココア・パフ」)。先月のトウモロコシの1ブッシェル当たり生産者価格は平均2ドル95セントでしたから、消費者の手に届くまでに生産者価格の25倍になったわけです。(中略)トウモロコシ1ブッシェルを消費者に75ドル4セントで買わせるということについては、あきれた社会的な無駄使いであると申しあげたい。」(中略)
 ジョージが付記しているとおり、「アメリカの食料需給システムは、量的な消費をうながすという面ではほぼ限界に達している。だが、とるべき道としては、拡大か、あるいは停滞から崩壊に至るかしかないから、とにかくたべものの、「価格」を上げるほかはない。」というわけである。(中略)実際に、「豊かな」諸社会の食料需給が「量的な消費をうながすという面ではほぼ限界に達し」、市場的「価値」を上げるためには「おいしさ」の差異を競合するビジネスとなり、(中略)貧しい国の土地利用の形態を変え、家畜やその飼料のための土地を設定し拡大するために、人間のための(中略)土地を侵食し、「自然の災害」にさらされやすい辺地に追いやり、数億という人々の飢えの主要な原因の1つとなっている...(中略)
 この文脈自体はまったく正当なものであるが、「ココア・パフ」の事例自体には、この論理の文脈には収まりきらない部分があって、(中略)ゼネラル・ミルズ社は、この当時ブッシェル2ドル95セントであったというトウモロコシを、75ドル4セントで、25倍以上の価格で売ることに成功している。秘密の核心は、第一に(中略)食品デザインのマージナルな差異化であり、第二に、「ココア・パフ」というネーミング自体にあったはずである。「ココア・パフ」を買った世代は、「トウモロコシ」の栄養をでなく、「パフ」の楽しさを買ったはずである。「おいしいもの」のイメージを買ったのである。(中略)
 基本的に情報によって創り出されたイメージが、「ココア・パフ」の市場的価格の根幹を形成している。
 ゼネラル・ミルズ社が同じブッシェルのトウモロコシから25倍の売上を得たということは、逆にいえば、同じ売上を得るために、25分の1のトウモロコシしか消費していないということである。つまり、この場合、飢えた人びとのからの収奪はそれだけ少ないということである。(中略)情報化/消費化社会というこのメカニズムが、必ずしもその原理として不可避的に、資源収奪的なものである必要もないし、他民族収奪的なものである必要もないということ、このような出口の一つのありかを、この事例は逆に示唆しているということである。(143p‐145p)

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なぜアメリカ人の"巡礼地"となったのかを、文化社会学的に分析。ビジネス書としても人物評伝としても読める。

ディズニーランドという聖地.gif 『ディズニーランドという聖地 (岩波新書)』 ウォルト・ディズニー (1901-1966).jpg W・ディズニー(1901-1966)

 主にアメリカのディズニーランドの歩んできた道を描いた本書は、ビジネス書としての要素もウォルト・ディズニーの評伝としての要素もありますが、タイトルの通り、いかにしてディズニーランドがアメリカ人の「聖地」となり得たのかを分析した「文化社会学」的な本としての要素が最も強いと言えます。
 但し、ディズニーについて米国人などが書いた大概のビジネス書よりもずっと楽しく読め、しかも、'90年の刊行でありながら、その後に刊行されたディズニー関連の多くのビジネス書よりも、含蓄にも富んだものとなっているように思われます。

 著者は、米国の大学院に学んだアメリカ研究者(文化人類学者)ですが、もともとディズニーランドにはあまり楽しくない印象を抱いていたのが、たまたま仕事で東京ディズニーランド開設に関与することになり、また、そこで知り合った人に勧められてディズニーの伝記を訳すことになったということで、ディズニーランドのコンセプト、ウォルトの個人史を通じて、ディズニー文化とアメリカ人、アメリカ社会との関わりを探るうえでは、ピッタリの人と言えるかも(ディズニーに関わりながらも、普通のライターやマニアとは異なる冷静な視線がいい)。

Disneyland Railroad.jpgSanta Fe & Disneyland Railroad.jpg ウォルト・ディズニーの幼少時代は、家庭的・経済的に暗いもので、ディズニーランドは彼にとって単なる遊園地ではなく(映画プロデューサーが本職の彼には、遊園地を作るという発想は無かった)、そうした暗いものを全部裏返しにしたような、彼にとっても「夢の国」であったということを本書で知りました。

Santa Fe & Disneyland Railroad (Disneyland Railroad)

 共同作業で機械的に生産されるようになったアニメーションの仕事で行き詰っていたときに、鉄道模型にハマり、それで心癒されたウォルトの気持ちが、「サンタフェ鉄道」(ディズニーランド鉄道)に込められているとのことで、その他にも、ディズニーランドのアトラクション1つ1つの歴史や意味合いがわかり、楽しく読めます(東京ディズニーリゾートに同じものがコピーされているというのも、本書が親しみ易く読める理由)

The third most elaborate Pirate walk-through plan  circa 1963.gifWalt.gif ウォルトが最後に関与したアトラクションが「カリブの海賊」ですが、実際の"カリブの海賊"に勇ましい歴史などは無く(死因のトップは性病だった)、ウォルトの故郷を模したというメインストリートも、実は彼の故郷は殺風景な町並みであり、ミシシッピーの川下りで川辺に見える景色についても、同じことが言える―。
 つまり彼は、「本物の佳作」を作ろうとしたのでなく、「ニセモノの大傑作」を作ろうとしたのであり(ディズニーランド内の開拓時代風の建物や島などは、確かにそれらの殆どがセメントで出来ている)、そこに「死と再生」の意匠が反映されていると著者は分析しています。

 アメリカ人の方が日本人よりもアメリカの歴史を知っているだろうし、ディズニーランドにある多くのニセモノに気づくのではないかと思われますが、それでも、アメリカ人にとってディズニーランドは、どんな離れた所に住んでいても1度は行きたい「巡礼地」であり、訪れた人の多くが、ディズニーランドのゲートをくぐった途端に多幸感に包まれる...。
 どうしてディズニーランドが、アメリカの歴史と文化を象徴するものとしてアメリカ人に承認されるのか、本書を読み、アイデンティtティって、リアリズムじゃなくて"ドリーム(夢見=幻想)"なのだなあと(ディズニーランドででは"夢見"を阻害するものは徹底して排除されているわけだ)、そう思いました。

「ディズニーランド」.jpgディズニーランド(テレビ番組).jpg 因みに、ディズニーランドがアメリカでオープンする前年の1954年にテレビ番組「ディズニーランド」がスタートしており、日本では4年遅れで日本テレビ系列で放送が開始され、'72年まで続きました。
 番組の冒頭、ウォルト・ディズニー本人が喋って、ティンカー・ベルが「未来の国」「おとぎの国」「冒険の国」「開拓の国」の4つ中から、妖精の粉を振りかけたものがその日の番組内容のジャンルになるという趣向が懐かしく思われます。

「ディズニーランド」Disneyland (ABC 1954~61/NBC 1961~81/CBS 1981~83)○日本での放映チャネル:日本テレビ(1958~72)

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何でもかんでも「劣化」ということで括って個々の問題の解決に繋がるのならともかく...。

なぜ日本人は劣化したか.gif 『なぜ日本人は劣化したか』 (2007/04 講談社現代新書)

ヘラクレスの栄光.jpg  かつて、ゲームの世界では、RPGでは「ファイナルファンタジー」「ドラゴンクエスト」などの大作があり、個人的にはドラクエよりもFFの方が好きでしたが、ギリシャ神話が世界観をベースにした「ヘラクレスの栄光」というゲームも、なかなか味わい深いものがありました(「父親殺し」がテーマで、どちらかというと"オイディプス"よりむしろ"カラマゾフ"に近い)。

 こんな思い出を言うのは、たまたま昔のゲームのことを思い出したことぐらいしか、本書には個人的に印象に残る部分が無く、本書によると、こうしたRPGのビックタイトルは最近出てなくて、売れているのは「脳トレ」のような「短時間で手軽に遊べる」「脳年齢が若返る」といったゲームばかりだそうです。

 著者は、こうしたゲームの傾向をもって「コンテンツが劣化している」と言い、同様に、言葉の乱れを指して日本語は劣化しているとし、地べたに座り込む若者を見て体力も劣化しているとし、ともかく、おしなべて日本人の考える力が劣化し、知性は退廃していると、本書で述べています。
 「劣化」ということで括って個々の問題の解決に繋がるのならともかく、「劣化」を連呼するだけ連呼して、特に個人としての解決案を示さず、「これをなんとか食い止めねばならない」で終わっているため、拍子抜けしてしまいます。

いまどきの「常識」.jpg 一時、著者が「愛国心」について書いたものを何冊か読みましたが、『〈私〉の愛国心』('04年/ちくま新書)において精神分析のタームを濫用しながら"素人政治談議"、"床屋談議"をしているのにやや辟易し、それでも、『いまどきの「常識」』('05年/岩波新書)などは、世相をざっと概観するには手軽だったかなあと。
 しかし、本書においては、評論家がテレビや雑誌の限られた時間やスペースの枠内で、一般向けにどうでもいいようなコメントをしている(著者自身、その一員になりつつある?)、そうしたものを、ただ繋ぎ合わせただけという感じがします。

 最近の著者は、この類の本を量産しているようで、講談社現代新書でもこれが初めてではないようですが、新書が「劣化」しているのか?
 「売れるものはよいもの」という考えを著者は批判していますが、本人はどうなの、と言いたくなります(商売目的の粗製乱造なのか、本気で世直ししたいと思っているのか?)。

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民俗学的アプローチから歴史哲学的考察を展開。ユニークな視点を示している。

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか.gif 『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)』 ['07年]

 著者は世の中の近代化の流れに背を向け、20代から群馬の山奥の小村に入り、その地において、自然や風土と共同体や労働との関係についての過去と現在を見つめ、自から思索をしてきた異色の哲学者で、里山の復活運動などの"身体的"実践も行ってきている人。
 本書は、日本人がキツネに騙されたという話は何時頃まであったのかという、民俗学的な切り口から入り、実際、キツネの騙し方のパターンの分類などは、そうした興味から面白く読めました。

 著者によれば、キツネに騙されたという話を聞かなくなったのは1965年頃だということで、そうなった理由として、
  ① 高度経済成長には経済的価値のみが唯一の価値となり、自然・神・歴史と自分との連携意識が衰えた、
  ② 科学的真理を唯一の真理とする合理主義により、科学的に説明できないことは迷信やまやかしとして排除された、 
  ③ テレビ゙の普及で与えられた情報だけ事実として受け取るようになり、自然の情報を読み取る能力が衰えた、
  ④ ムラの中で生きていくための教育体系(通過儀礼や年中行事など)が崩れ、受験教育一辺倒になった、
  ⑤ 自然や共同体の中の生死という死生観が変化し、個人としての"人間らしさ"を追求するのが当然になった、
 などを挙げていて、かくして日本人は「キツネに騙される能力」を失った―という、騙されなくなったことを精神性の"衰退"とする捉え方をしているわけです。

 本書を読み進むとわかりますが、本書でのこうした民俗学的な話は、歴史とは何かという歴史哲学へのアプローチだったわけで、著者によれば、日本人は、西洋的な歴史観=幻想(歴史は進歩するものであり、過去は現在よりも劣り、量的成長や効率化の追求が人を幸せにする)をそのまま受け入れた結果、国家が定めた制度やシステムが歴史学の最上位にきて、「キツネに騙された」というような「ムラの見えない歴史」は民俗学の対象とはなっても歴史としては扱われていと、そのことを指摘していて、そこでは、人間にとって大切なものは何かと言う価値観の検証も含めた歴史学批判が展開されており(645年に大化の改新があったことを知って何がわかったというのか)、併せて、近代的な価値観の偏重に警鐘を鳴らしているように思えました。
日本人の歴史意識.jpg
 著者は、民俗学の宮本常一、歴史学の網野善彦などの思想に造詣が深いようですが、個人的には、今まで読んだ本の中では、網野善彦の『日本中世の民衆像』('80年/岩波新書)などもさることながら、それ以上に、方法論的な部分で、西洋史学者・阿部謹也『日本人の歴史意識』('04年/岩波新書)を想起させられるものがありました(中世の民衆の「世間」観を考察したこの本の前半部分は、「日本霊異記」から10話ほどが抜粋され、その解説が延々と続く)。

 本書後半部分の思索は、人にとって「生」とは何か、その営みの歴史における意味は?ということにまで及んで深いが、一方で"キツネ"というアプローチが限定的過ぎる気もし、1965年という区切りの設定も随分粗っぽい。それでも、ユニークな視点を示しているものであることには違いなく、コミュニティ活動のヒントになるような要素も含まれている(具体的にではなく、思考のベクトルとしてだが)ように思えました。

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新味が無く、むしろキーワードへの牽強付会が目につく。

キャラ化するニッポン.jpg 『キャラ化するニッポン (講談社現代新書)』 ['07年]

 バンダイのキャラクター研究所の所長とかいう人が書いた本で、日本は「キャラ化」の方向へ向かっていると述べていますが、「キャラクターにハマる」ことと、「自らをキャラクター化する」ことを一緒くたに論じていて、その辺りの違いを、「キャラ化」というタームを軸に多くの事例を引くことで韜晦させてしまっている感じがし、何か、プランナーがプレゼンでスポンサーのお偉いさん達を煙に巻くときのやり方に似てる感じもしましたが、新書として読むとなると、牽強付会が目に付きました。

あなたは人にどう見られているか.jpg Amazonによると、この本を読んでいる人が他に読んでいる本として『あなたは人にどう見られているか』('07年/文春新書)などがあり、「キャラとしての私」というのは、要するに、そういうことを意識するというだけのことではないでしょうか。

 「仮想都市におけるアバターとしての私」などを通して、現実生活においても、「生身の私」と「キャラとしての私」のヒエラルキー逆転が起こるかもしれないという著者の論は、テクノロジーの面では講談社のブルーバックスなどにより詳しく書かれたものが多くあり、分析面においては、既に多くの社会学者や評論家が述べていることで、あまり新味がありませんでした。

カーニヴァル化する社会.jpg 結局、著者は何を最も言いたかったのか、世の中に警鐘を鳴らしたかったのか、自らの"洞察"を世に示したかっただけなのか、その辺りもはっきりしません。

 テーマはやや異なりますが、'76年生まれの社会学者・鈴木謙介氏の『カーニヴァル化する社会』('05年/講談社現代新書)もそうだったように、1つのキーワードに引きつけて何でもかんでも一般化してしまう傾向と、他書からの引用が多いわりには(むしろ、そのことにより)説得力が無いというのが、本書からも感じられたことでした(それぞれの著者にとって初めての「新書」であり、今後に期待したい)。

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分析は多面的で鋭いが、「特殊」か「普遍」かテーマが見えてきたところで終わっている印象。

「かわいい」論.jpg「かわいい」論 (ちくま新書)』['06年]Cawaii!(カワイイ) 2008年6月号.jpg 雑誌「Cawaii!(カワイイ)」

 ポケモンやセーラームーンなどのキャラクター商品で世界を席巻する「かわいい」大国ニッポンにおける「かわいい」とはそもそも何なのか、それが日本から発信されたことの意味を問ううえで、改めて「かわいい」を徹底分析した本。

 太宰治の「女性徒」から枕草子にまで遡って「かわいい」の来歴を探り、大学生のアンケート調査などからこの言葉の持つ多面性を示すほか、古今東西の芸術からグロテスクなものと隣り合わせにある「かわいい」の位置を示し、日本人の心性にある「小さく幼げなもの」への志向や、ノスタルジー、スーヴニール(記念品)としての「かわいい」、成熟することへの拒否の表現としての「かわいい」...etc 極めて多面的に「かわいい」の本質に迫ろうとしています。

CUTiE 2008年5月号.jpgゆうゆう 2008年6月号.jpg 但しここまでは、テーマの周囲をぐるぐる回ってばかりいるようにもやや感じていたのが、その後の女性誌における「かわいい」の分析において、ティーン層向け雑誌「Cawaii!(カワイイ)」、「CUTiE」から「JJ(ジェイジェイ)」、更には中高年向けの「ゆうゆう」までとりあげ、中高年向けの雑誌にも「大人のかわいさが持てる人」といった表現があることに着目しているのが興味深かったです。

雑誌「CUTiE」/雑誌「ゆうゆう」

 本書によれば、TⅤアニメの国内消費量は10%で、残り90%は海外での消費であり、日本発「かわいい」は消費社会のイデオロギーとして世界中に浸透し、例えば本書に紹介されている「ハイ!ハイ!パフィー・アミユミ」の如く、すっかり無国籍化されたかのように見えますが、一方で、米国などでは「キティちゃん」の卒業年齢が比較的早期にあるのに、東南アジアでは、大人になっても受容されるなど、その受け入れられ方に、地域によって差異があるという。

「ハイ!ハイ!パフィー・アミユミ」/ムック「もえるるぶ」
ハイ!ハイ!パフィー・アミユミ.jpgもえるるぶCOOL JAPAN オタクニッポンガイド.jpg 「かわいい」が日本の「特殊」な文化なのか((「かわいい」へのこだわりや、そこからいつまでも抜け出せないこと)、それとも「普遍」的なものなのか、興味深いテーマが見えてきたところで、本書は終わってしまっているような観もあります。

 '80年代に浅田彰、中沢新一らと並んでニューアカブームの旗手とされ、また、サブカルチャーにいち早く注目した著者の(映画論、漫画・アニメ論は近年の社会学者の必須アイテムみたくなっているが、この人の場合、年季の入り方が違う)、本書におけるスタンスは意外と慎重だったという印象。
                                    

 全体を通して鋭い分析がなされていて、秋葉原の「オタク」文化や池袋の「腐女子」文化の取材は面白く、また、「かわいい」がもたらす"多幸感"が、政治的道具になり得ることを示した終章は重いけれども、「分析」にページを割いた分、テーマが見えてきたところで終わっているという印象が、どうしてもしてしまうのですが。

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「バカの壁」のベースにある著者のスタンスのようなものは窺える。

まともな人.jpg 『まともな人 (中公新書)』〔'03年〕こまった人.jpgこまった人 (中公新書)』〔'05年〕

 雑誌「中央公論」に連載された養老氏の時評エッセイ「鎌倉傘張り日記」の2001年1月号〜2003年9月号の掲載文を収録したものです。氏の好きな昆虫標本作りを浪人の「傘張り」に喩え、こうした「日記」の先達として兼好法師を挙げていますが、半分隠居した身で、世評風の日記を"諦念"を滲ませながら書いているところは通じるところがあるかも知れません。

 「時評」と言っても、世の中で「あたりまえ」とされている固定観念の根拠の脆弱さを具体的に解き明かすために、三題噺のネタのような感じで世事をとりあげているので、批評の対象は「社会」ではなく、むしろ「社会」を受け入れている現代人のものの考え方にあるようです。ですから「社会批評」を期待して読むと肩透かしを食いますが、ベストセラーとなった『バカの壁』('03年/新潮新書)のベースにある著者のスタンスのようなものは窺えるかと思います。

 本書自体は『バカの壁』より後の刊行ですが、掲載文の大半は『バカの壁』の爆発的ヒットの前に書かれたものです。本書の続編『こまった人』('05年/中公新書)が「中央公論」2003年6月号〜2005年10月号掲載文を収録しているということで、ほぼ"『バカの壁』以後"という見方ができるかと思いますが、『こまった人』においても特に著者のスタンスに変化はなく、しいて言えば『こまった人』の方が、自分が過去に受けた処遇に対する恨み節や、世間に対するシニカルな見方、老境における諦念のようなものが強くなってきていて、「そんなことはどうだっていいか」みたいな締めで終わる文書も多く、より"自分寄り"な感じがします。

 そのためか、本書は最初、中公新書のジャンル分けで「哲学・思想」に入っていたのに、『こまった人』が刊行されると、"好評「養老哲学」第2弾"と銘打ちながらも、両方とも「エッセイ」にジャンル分けされているようです。

 『まともな人』...【2007年文庫化[中公文庫〕】/『こまった人』...【2009年文庫化[中公文庫〕】

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イスラーム原理主義とグローバル化する資本主義の共通項を指摘。

文明の内なる衝突.bmp                      サミュエル・ハンチントン 文明の衝突.jpg
文明の内なる衝突―テロ後の世界を考える (NHKブックス)』['02年] /サミュエル・ハンチントン『文明の衝突

9-11_Statue_of_Liberty_and_WTC_fire.jpg 社会学者である著者が、「イスラーム原理主義者」による9・11テロ後に、テロを前にしたときの社会哲学の無力を悟り、またこれが社会哲学の試金石となるであろうという思いで書き下ろした本で、テロとそれに対するアメリカの反攻に内在する思想的な問題を、「文明の衝突」というサミュエル・ハンチントンの概念を援用して読み説くとともに(ハンチントンは冷戦時代にこの概念を提唱したのだが)、テロがもたらした社会環境の閉塞状況に対しての「解決」の道(可能性)を著者なりに考察したもの。
September 11, 2001 attacks

 イスラーム原理主義とグローバル化する資本主義の対立を、その背後にある共通項で捉えているのが大きな特徴ですが、9・11テロ後のアメリカのナショナリズムの高揚を見ると、それほど突飛な着眼点とは思えず、むしろ受け入れられやすいのでは。
 世界貿易センタービルで亡くなった消防士でも国家のために「殉死」した英雄ということになっているけれど、彼らはまさか直後にビルごと倒壊するとは思ってなくて救出活動に向かったわけです。

 '04年に亡くなったスーザン・ソンタグの、「アメリカ人は臆病である。テロリストは身体ごとビルにぶつかっていったのに、アメリカ軍は遠くからミサイルを撃つだけだ」というコメントが多くのアメリカ人の怒りを買った背景に、アメリカ人のテロリストに対する憧憬とコンプレックスがあるというのはなかなか穿った見方のように思えました。

 映画「インデペンデンス・デイ」が引き合いに出されていますが、「アルマゲドン」なんかもそうかも(それぞれ、'96年、'98年の作品で、共に9・11テロ以前に作られたものだが)。

アルマゲドン1.jpgインデペンデンス・デイ1.jpg 「インデペンデンス・デイ」は、本国では独立記念日の週に公開されたそうですが、昔(ベトナム戦争)の飛行機乗りが最新鋭のジェット戦闘機を操縦できるものかなあと疑念を抱かざるを得ず、大統領(湾岸戦争の戦闘パイロットだったという設定)が飛行編隊の先頭を切って巨大UFOに戦いを臨むと言うあり得ない設定(9・11の時は、ブッシュ大統領は緊急避難して、暫く居所を明らかにしていなかったではないか)。

 一方、「アルマゲドン」で石油掘削員が立向かう相手は巨大UFOではなく巨大隕石(小惑星)ですが、新型スペースシャトルの名前が「インディペンデンス号 」と「フリーダム号」で、この映画も独立記念日の週に公開されています(個人的には、ブルース・ウィリス演じる"部下想いのリーダー"が、出立する前に政府にいろいろ要求を突きつけるシーンが、やたら臭いこともあって好きになれなかった。実際、ブルース・ウィリスはこの作品で、「ゴールデンラズベリー賞」の"最低男優賞"と「スティンカーズ最悪映画賞」の"最悪の主演男優賞"をダブル受賞している)。
 

1dollar_C.jpg 著者は、イスラームやキリスト教の中にある資本主義原理を指摘する一方、「資本主義は徹底的に宗教的な現象である」と見ており、そう捉えると、確かにいろいろなものが見えてくるなあという感じがしました(確かに1ドル札の裏にピラミッドの絵がある なあ、と改めてビックリ)。
 
 "赦し"を前提とした「無償の贈与」という著者の「解決」案は甘っちょろいととられるかも知れませんが、レヴィ=ストロースの贈与論などに準拠しての考察であり、最後にある「羞恥」というものついての考察も(著者はこれを「無償の贈与」の前提条件として定位しようとしているようだが)、イランの映画監督マフマルバフの、「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない。恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」という言葉の意味がこのことでわかり、個人的には興味深いものでした。

「インデペンデンス・デイ」2.jpgインデペンデンス・デイ.jpg「インデペンデンス・デイ」●原題:INDEPENDENCE DAY●制作年:1996年●制作国:アメリカ●監督:ローランド・エメリッヒ●脚本:ディーン・デヴリン/ローランド・エメリッヒ●撮影:カール・ウォルター・リンデンローブ●音楽:デヴィッド・アーノルド●時間:145分●出演:者 ジェフ・ゴールドブラム/ビル・プルマン/ウィル・スミス/ランディ・クエイド●日本公開:1996/12●配給:20世紀フォックス●最初に観た場所:有楽町・日本劇場(96-12-27) (評価:★★☆)

アルマゲドン09.jpgアルマゲドン.jpg「アルマゲドン」●原題:ARMAGEDDON●制作年:1998年●制作国:アメリカ●監督:マイケル・ベイ●製作:ジェリー・ブラッカイマー/ゲイル・アン・ハード/マイケル・ベイ●脚本:ジョナサン・ヘンズリー/J・J・エイブラムス●撮影:ジョン・シュワルツマン●音楽:トレヴァー・ラビン●時間:150分●出演:ブルース・ウィリス/ベン・アフレック/リヴ・タイラー●日本公開:1998/12●配給:ブエナ・ビスタ・インターナショナル・ジャパン(評価:★★)

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「きれいごと」は何の役にもたたないかという問いかけ、で終わっている?

いまどきの「常識」.jpg 『いまどきの「常識」』 岩波新書  〔'05年〕  香山リカ.jpg 香山 リカ 氏 (精神科医)

 各章のタイトルが、「自分の周りはバカばかり」、「お金は万能」、「男女平等が国を滅ぼす」、「痛い目にあうのは「自己責任」、「テレビで言っていたから正しい」、「国を愛さなければ国民にあらず」となっていて、こうした最近の社会的風潮に対して、はたしてこれらが"新しい常識"であり、これらの「常識」に沿って生きていかなければ、社会の範疇からはみ出てしまうのだろうかという疑問を呈しています。

 前書きの「「きれいごと」は本当に何の役にたたないものなのか?」という問いのまま、本文も全体的に問題提起で終わっていて、実際本書に対しては、現状批判に止まり、なんら解決策を示していないではないかという批判もあったようです。

 確かに著者の問題提起はそれ自体にも意味が無いものではないと思うし、精神分析医で、社会批評については門外漢とは言えないまでも専門家ではない著者が、人間関係・コミュニケーション、仕事・経済、男女・家族、社会、メディア、国家・政治といった広範なジャンルに対して意見している意欲は買いたいと思いますが、それにしても、もっと自分の言いたいことをはっきり言って欲しいなあ。

本当はこわいフツウの人たち.jpg より著者の専門分野に近い『本当はこわいフツウの人たち』('01年/朝日新聞社)などにも、こうした読者に判断を預けるような傾向が見られ、これってこの著者のパターンなのかと思ってしまう。
 すっと読める分、これだけで判断しろとか、「ね、そうでしょ」とか言われてもちょっとねえ...みたいな内容で、世の中の風潮を俯瞰するうえでは手ごろな1冊かも知れませんが、読者を考えさせるだけのインパクトに欠けるように思えました。

 社会の右傾化に対する著者の危惧は、『ぷちナショナリズム症候群』('02年/中公新書ラクレ)から続くものですが、今回あまり「イズム」を前面にだしていないのは、より広範な読者を引き込もうという戦略なのでしょうか。

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批評眼の大切さを教えてはくれるが、各論には納得できない部分も。

世間のウソ.jpg  『世間のウソ (新潮新書)』  〔'05年〕   日垣隆.jpg 日垣 隆 氏 (略歴下記)

 著者の問題関心は、「世間で常識と思われていること、ニュースとしてごく普通に流通していることに素朴な疑問を投じることからいつも始まっている」(205p)そうですが、確かに『「買ってはいけない」は嘘である』('99年/文藝春秋)以来、その姿勢は貫き通されているように思えます。

 本書は、タイムリーな事件や社会問題などを取り上げ、その報道のされ方などを分析し、根拠の危うさや背後にある思惑を指摘している点で、著者の"本領"がよく発揮されていると思いました。

 語り口が平易で、文章がしっかりしているし、冒頭に、宝くじや競馬の話など入りやすい1話題を持ってくるところなどうまいなあと思います(日本の競馬の"寺銭"が25%というのは、寡聞にして知りませんでした)。
 こうしたウンチクがこの本にはいっぱいありますが、そうやって読者を引き込むのも著者の戦術の1つでしょうね。

ウソ、鳥インフルエンザ報道のウソ、男女をめぐる事件報道のウソ、児童虐待のウソ、第三種郵便のウソから、オリンピック、裁判員、イラク戦争を通して見る他国支配まで15章にわたってとり上げていて、新書1冊に詰め込み過ぎではという感じもありますが、社会問題を読み解く参考書として読まれたことも、この本が売れた理由の1つではないでしょうか。

 詰め込みすぎて、テーマごとの掘り下げが浅くなっている感じもありますが(やや週刊誌的?)、ニュース情報の渦の中で何となくそれらに流されがちな日々を送る自分に対し、批評眼を持つことの大切さを教えてくれる面はありました。

 ただし、1つ1つの論には、警察の民事不介入という幻の原則のために、多くの児童虐待が看過されてきたであろうという指摘など、個人的に納得できるものもあれば、ちょっとこの見方や論法はおかしいのではというのもありました(「精神鑑定のウソ」の章は個人感情が先走って論理破綻している)。
 そうした意味では、この本自体が、本書のテーマのテキストになり得るということでしょう。
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日垣 隆 (ひがき たかし)
1958(昭和33)年、長野県生れ。東北大学法学部卒業。「『買ってはいけない』はインチキ本だ」(文春文庫『それは違う!』所収)で文藝春秋読者賞、「辛口評論家の正体」(文藝春秋『偽善系II』所収)で編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞・作品賞を受賞。メールマガジン「ガッキィファイター」ほか、ラジオ、テレビでも旺盛な活動を続けている。

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盲従でも全否定でもなく、自らの「考えるヒント」にすべき本。

街場の現代思想.jpg 『街場の現代思想』 ['04年/NTT出版] 街場の現代思想2.jpg 『街場の現代思想 (文春文庫 (う19-3))』 ['08年]

 哲学的エッセイであり、社会批評にもなっていて、著者の本の中では最も平易な部類に属する本です。

 「自分の持っている知識」の俯瞰的な位置づけを知ることが大事であることを説き、それを、既読の本がどこに配置され「これから読む本」はどこにあるかを知っているという「図書館の利用のノウハウ」に喩え、「教養」とは「自分が何を知らないかについて知っている」、すなわち「自分の無知についての知識」のことであるという、冒頭の「教養論」はわかりやすいものでした。

 第1章は、「家庭」で自然に獲得された「文化(教養)」と学校などで学習により獲得されたそれとの質的な違いを説き、「文化資本」の偏在により階層化する社会(東大生の親も高学歴であるような社会)では、「教養」を意識した段階でその者はプチブルならぬ"プチ文化資本家"となり、"(文化)貴族"にはなりえないという「文化資本論」を展開しています(読んでガックリした人もいるかも)。

負け犬の遠吠え.jpg 第2章は、酒井順子氏の『負け犬の遠吠え』('03年/講談社)の視点に対する共感で溢れ、第3章は、主に20代・30代の若い人の仕事(転職・社内改革)や結婚の悩みに対する人生相談の回答者の立場で書かれていますが、読み進むにつれて通俗的になってきて、まあその辺りが「街場」なのでしょうけれど...。

 自分のブログや地域誌に発表した文章の再編で、やっつけ仕事の感じもありますが、それでも所々に著者ならでの思考方法(乃至レトリック)が見られます。
 物言いが断定的でオーバー・ゼネラリゼイション(過度の一般化)がかなりあるので、これらを鵜呑みにせず、と言って全否定もせず、自らの「考えるヒント」にすべきなのでしょう。 

 【2008年文庫化[中公文庫]】

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「非婚少子化」の原因を一面において指摘している? 独身"ダメ男"分析に筆の冴え。

『負け犬の遠吠え』.jpg負け犬の遠吠え.jpg        少子.jpg     酒井順子.jpg  酒井順子 氏(略歴下記)
負け犬の遠吠え』['03年/講談社]『少子』 講談社文庫

  2004(平成16)年・第4回「婦人公論文芸賞」、2004(平成16)年・第20回「講談社エッセイ」受賞作。

 女の〈30代以上・未婚・子ナシ〉は「負け犬」とし、その悲哀や屈折したプライドを描きつつ、"キャリアウーマン"に贈る応援歌にもなって、その点であまり嫌味感がありません。 
 二分法というやや乱暴な手が多くに受け入れられたのも(批判も多かったですが)、自らを自虐的にその構図の中に置きつつ、ユーモアを交え具体例で示すわかりやすさが買われたからでしょうか?  
 裏を返せば、マーケティング分析のような感覚も、大手広告会社勤務だった著者のバックグラウンドからくるものなのではないかと思いました。 
 最初から、高学歴の"キャリアウーマン"という「イメージ」にターゲティングしているような気がして、このへんのところでの批判も多かったようですが。

 個人的に最も興味を覚えたのは、辛辣な語り口はむしろ男に向けられていることで、独身"ダメ男"の分析では筆が冴えまくります。 
 著者が指摘する、男は"格下"の女と結婚したがるという「低方婚」傾向と併せて考えると、あとには"キャリアウーマン"と"ダメ男"しか残らなくなります。 
 このあたりに非婚少子化の原因がある、なんて結論づけてはマズいのかもしれないが(こう述べるとこれを一方的な「責任論」と捉える人もいて反発を招くかも知れないし)。 
 さらに突っ込めば、「女はもう充分頑張っている。男こそもっと"自分磨き"をすべきだ」と言っているようにもとれます(まさに「責任論」的解釈になってしまうが)。
 
 著者はエッセイストであり、本書も体裁はエッセイですが、『少子』('02年/講談社)という著作もあり、厚生労働省の「少子化社会を考える懇談会」のメンバーだったりもしたことを考えると、社会批評の本という風にもとれます。 
 ただし、世情の「分析」が主体であり、「問題提起」や「解決」というところまでいかないのは、著者が意識的に〈ウォッチャー〉の立場にとどまっているからであり(それは本書にも触れられている「懇談会」に対する著者の姿勢にも窺える)、これはマーケティングの世界から社会批評に転じた人にときたま見られる傾向ではないかと思います。

 【2006年文庫化[講談社文庫]】
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酒井順子 (さかいじゅんこ)
コラムニスト。1966年東京生まれ。立教大学卒業。2004年、「負け犬の遠吠え」で第4回婦人公論文芸賞、第20回講談社エッセイ賞をダブル受賞。世相を的確にとらえながらもクールでシビアな視点が人気を集める。近著に『女子と鉄道』(光文社)、『京と都』(新潮社)『先達の御意見』(文春文庫)など。

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せっかくのとり合せなのに、両者の話が噛み合わず、中身がやや薄い。

「愛国」問答.jpg 『「愛国」問答―これは「ぷちナショナリズム」なのか 中公新書ラクレ87』 ぷちナショナリズム症候群.gif 香山 リカ 『ぷちナショナリズム症候群―若者たちのニッポン主義 (中公新書ラクレ)

 『ぷちナショナリズム症候群』('02年/中公新書ラクレ)の著者で精神科医の香山リカ氏と、『作家の値うち』('00年/飛鳥新社)などの著作がある文芸評論家の福田和也氏の対談です。
 福田氏は保守派論客とも目されていていますが、主義としてテレビには出ないそうです(と言いつつ、最近は出ている。香山氏の方は以前からよく出ていますが)。
 とり合わせの面白さで本書を手にしたものの、読んでみて中身はやや薄いという感じがしました。

 若者の右傾化現象を扱った『ぷちナショ』の内容を受け、またイラクへの武力行使開始の時期でもあり、主にアメリカの「世界支配」に対する日本人のアイデンティティのようなものがテーマになっていますが、両者の対談が噛み合っていない感じがしました。

 香山氏の若者の右傾化現象の分析は、感受性としてはいいと思うのですがあくまでも印象レベルにとどまっていて、"対談者"どころか"質問者"としても心もとない感じもありました。
 一方、福田氏はサブカルチャーを含めた博識ぶりを披露するかと思えば論壇ネタに終始したりで、香山氏の日本の独自の道はあるのかという問いかけに、必ずしもマトモに答えていません。

 福田氏があとがきで、対談中にコーヒー1杯しか出ず、終った後一緒の食事もなく、これで新書1冊が出来上がってしまうことを「貧しさ」と揶揄しているのが彼らしいと思いました。
 彼自身も、「こんなんでいいのか」みたいな気持ちがあったのではないでしょうか。

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論理的だが、アニメ、ゲームなどの物語や構造に「世界」を仮託し過ぎ?

動物化するポストモダン2.jpg 動物化するポストモダン .jpg          東 浩紀.jpg 東 浩紀 氏
動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)』 ['01年]

 本書では、アニメ、ゲームなどサブカルチャーに耽溺する人々の一群を「オタク」とし、「オタク系文化」の本質と、「'70年代以降の文化的世界=ポストモダン」との社会構造の関係を考察しています。
 著者はオタク系文化の特徴として「シュミラークル」(二次創作)の存在と「虚構重視」の態度をあげ、後者は人間の理性・理念や国家・イデオロギーなどの価値規範の機能不全などによる「大きな物語の凋落」によるとしたうえで、
 (1)シュミラークルはどのように増加し、ポストモダンでシュミラークルを生み出すのは何者なのか
 (2)ポストモダンでは超越性の観念が凋落するとして、人間性はどうなってしまうのか
 という2つの問いを投げかけています。

 (1)の問いに対しては、大塚英志氏の「物語消費」論をもとに、ポストモダンの世界は「データベース型」であり、物語(虚構)の消費(読み込み)により「データベース」化された深層から抽出された要素が組み合わされ表層のシュミラークルが派生すると。
 ただし、「キャラ萌え」と呼ばれる'90年代以降の傾向は、虚構としての物語さえも必要としておらず、自らの表層的欲求が瞬時に機械的に満たされることが目的化しており、著者は、コジェーヴがアメリカ型消費社会を指して「動物的」と呼んだことを援用して、これを「動物化」としているようです(つまり(2)の問いに対する答えは、ヒトは「データベース型動物」になるということ)。

 著者は27歳で『存在論的、郵便的-ジャック・デリダについて』('98年/新潮社)を書き、浅田彰に『構造と力』は過去のものになったと言わしめたポストモダニズムの俊英だそうですが、本書は、オタク系文化と現代思想の融合的解題(?)ということでさらに広い注目を浴び、サブカルチャーが文化社会学などでのテーマとしての"市民権"を得る契機になった著書とも言えるかも知れません。

 個人的には、アニメ、ゲームなどの物語や構造に「世界」を仮託し過ぎて書かれている気がしましたが、「萌え」系キャラクターの生成過程の分析などから探る(1)の著者の答えには論理的な説得力を感じました。
 著者自身も明らかにオタクです。中学生のときに、「うる星やつら」のTVシリーズ復活嘆願署名運動に加わったりしている(前著『郵便的不安たち』('99年/朝日新聞社)より)。
 ゆえに本書は、オタクから支持もされれば、批判もされる。物語の読み込み方が個人に依存することとパラレルな気がします。

 個人的には、オタクを3つの世代に分類し、10代で何を享受したかによってその質が異なることを分析している点が興味深かったけれど、最近の社会学者ってみんなアニメ論やるなあ(社会学の必須科目なのか、それとも著者のように、もともとオタク傾向の人が社会学者になるのか)。

新世紀エヴァンゲリオン.jpg機動戦士ガンダム.jpgさらば宇宙戦艦ヤマト.jpg《読書MEMO》
●オタクの3つの世代(10代で何を享受したか)(13p)
 ・'60年前後生まれ...『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』
 ・'70年前後生まれ...先行世代が作り上げた爛熟・細分化したオタク系文化
 ・'80年前後生まれ...『エヴァンゲリオン』

宇宙戦艦ヤマトdvd メモリアルBOX.jpg「宇宙戦艦ヤマト」●演出:松本零士●制作:西崎義展●脚本:藤川桂介/田村丸/山本暎一●音楽:宮川泰●原案:西崎義展●出演(声):納谷悟朗/富山敬/麻上洋子/青野武/永井一郎/仲村秀生/伊武雅之(伊武雅刀)/広川太一郎/平井道子/大林丈史/緒方賢一/山田俊司(キートン山田)●放映:1974/10~1975/03(全26回)●放送局:読売テレビ

機動戦士ガンダム dvd.jpg「機動戦士ガンダム GUNDAM」●演出:富野喜幸●制作:渋江靖夫/関岡渉/大熊伸行●脚本:星山博之/松崎健一/荒木芳久/山本優/富野 喜幸(富野由愁季)●音楽:渡辺岳夫/松山祐士●原作:矢立肇/富野喜幸●出演(声):古谷徹/池田秀一/鵜飼るみ子/鈴置洋孝/古川登志夫/鈴木清信/飯塚昭三/井上瑤/白石冬美/塩沢兼人/熊谷幸男/玄田哲章/戸田恵子●放映:1979/04~1980/01(全43回)●放送局:名古屋テレビ

新世紀エヴァンゲリオン1.jpg「新世紀エヴァンゲリオン」●演出:庵野秀明●制作:杉山豊/小林教子●脚本:榎戸洋司●音楽:鷲巣詩郎●原作:ガイナックス●出演(声):緒方恵美/三石琴乃/林原めぐみ/山口由里子/宮村優子/石田彰/立木文彦/清川元夢/結城比呂/長沢美樹/子安武人/山寺宏一/関智一/岩永哲哉/岩男潤子●放映:1995/10~1996/03(全24回)●放送局:テレビ東京


●「データベース型世界の二重構造に対応して、ポストモダンの主体もまた二層化されている。それは、シミュラークルの水準における「小さな物語への欲求」とデータベースの水準における「大きな非物語への欲望」に駆動され、前者では動物化するが、後者では擬似的で形骸化した人間性を維持している。要約すればこのような人間像がここまでの観察から浮かび上がってくるものだが、筆者はここで最後に、この新たなる人間を「データベース的動物」と名づけておきたいと思う」(140p)

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論壇が俯瞰できる「21世紀の論壇エンターテインメント読本」。

批評の事情.jpg 『批評の事情―不良のための論壇案内』 (2001/08 原書房)

 '90年代にデビューまたはブレイクした批評家を中心に論じていますが、全否定しているケースは稀で、全体に個々の良いところを探ろうという感じでしょうか。論客の力量を素直に認める姿勢は後味悪くはないけれど、こんな人まで褒めてしまっていいの?みたいなのも個人的にはありました。
 軽めのノリで批評としては弱い感じですが、ヒステリニックでないのが「案内」としては良く、内容的にも1人1人まとまっているように思えます。

 '80年代の浅田彰・中沢新一・四方田犬彦らのニューアカブームの後、'90年代の論壇はどうであったかを俯瞰し(社会・思想・芸術・文芸といった分野が主で、やはりサブカルチャー論の広範な浸透を感じる)、今後の読書等の指針にするには手頃な「21世紀の論壇エンターテインメント読本」(本書帯より)だと思います。

 登場する論客の多くが著者の生まれ年('58年)に比較的近い人たちで(例えば、'57年生まれ...山田昌弘・森永卓郎、'58年生まれ...日垣隆・大塚英志・岡田斗司夫・武田徹・松沢呉一・坪内祐三、'59年生まれ...宮台真司など。中島義道('46年)とか東浩紀('71年)も入っていますが...)、今後もマス・メディアなどを通じてこの人たちの言説に触れることは多々あるでしょう。

 著者は編集者兼フリーライターですが、本人に会った時の印象とかを大事にしている感じで(『インタビュー術!』('02年/ 講談社現代新書)という著書もある)、また、批評活動の領域はむしろ文芸評論ですが、論客の本の読み込みにそうしたものが窺える気がし、それが自分の肌には合いました。

 【2004年文庫化[ちくま文庫]】

《読書MEMO》
●取り上げている批評家
◆1.社会はどうなる?
宮台真司-90年代がはじまった/宮崎哲弥-アカデミズムとジャーナリズムのあいだで/上野俊哉-グルーヴの社会学/山形浩生-OSとしての教養/田中康夫-イデオロギーなき時代の指標/小林よしのり-「わかりやすさ」は正義か?/山田昌弘-社会学的手法の問題/森永卓郎-構造改革ラテン系/日垣隆-怒れ!笑え!虚構を突け!
◆2,時代の思考回路
大塚英志-物語の生産と消費をにらんで/岡田斗司夫-オタク批評の真価/切通理作-それでも「生きて」いくために/武田徹-「遅れてきた世代」の危険な思想家/春日武彦-「狂気」というものの仮面/斎藤環-虚構・現実・コミュニケーション/鷲田清一-ひととひとのあいだに充ちるもの/中島義道-哲学は闘いである/東浩紀-哲学ビルドゥングスロマン
◆3,芸術が表わすもの
椹木野衣-ポップカルチャーを生きるニヒリズム/港千尋-世界を再構築する眼/佐々木敦・中原昌也・阿部和重-セゾン系/樋口泰人・安井豊ー蓮實ズチルドレン/小沼純一-音楽を越境して/五十嵐太郎-建築界からのスーパーフラット宣言
◆4,ライフスタイルとサブカルチャー
伏見憲明-男制・女制/松沢呉一-ばかばかしいもので撃つ快感/リリー・フランキー-美女と批評/夏目房之介-面白さの正体/近田春夫-見たてが命!/柳下毅一郎-バッドテイストの作法/田中長徳-スペックでは語り得ぬもの/下野康史-評論の生まれるところ/斎藤薫・かづきれいこ-美容評論の夜明けは遠い
◆5,文芸は何を語る
福田和也-小林秀雄への道/斎藤美奈子-あなたの固定観念/小谷真理-ガイネーシスの可能性/小谷野敦-自虐的恋愛観/豊崎由美-書評の立場/石川忠志-ぶっとい文芸批評/坪内祐三-活字でしか味わえない世界を求めて

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神戸連続児童殺傷事件を発生直後に考察。持論へのやや強引な引き付けを感じる。

透明な存在の不透明な悪意.jpg 『透明な存在の不透明な悪意』(1997/11 春秋社) 宮台真司.jpg 宮台 真司 氏

 '97年に起きた神戸連続児童殺傷事件の「少年A」の逮捕直後に、著者がインタビューや対談を通じて事件を論じたものを1冊にまとめた"緊急出版"的な本ですが、起きたばかりの衝撃的な事件に対し、冷静に社会論的分析をしてみせる著者の"慧眼"に脱帽した読者も多かったかも。

 ただ個人的には、家族幻想の崩壊による社会の「学校化」とか、子どもの居場所が無い「ニュータウン化」社会とか、著者の持論を当て嵌めるのにちょうど良いケースだっただけではないかという気もします(持論への強引な引き付けを感じる)。
 「専業主婦廃止論」なども、そうした流れの中にあるかと思いますが、感覚的には言いたいことはわからないではないけれど、こうした事件を前にしたとき、あまり現実的な提案とは思えません。

 対談においても、吉岡忍氏が、「ニュータウン化」による"影の無い街"が、むしろ攻撃性や暴力性を露出するのかもと言えば、宮台氏は待ってましたとばかり「ダークサイドの総量一定論」を唱え、それにまた山崎哲氏(劇作家)のような人が、完成された街に育ったものには関与できる"現実の空間"が無く、「少年A」の犯罪はオウムの犯罪に通底すると続く...(113‐114p)。  
 こんな演劇論的な論筋だと、何でも"通底"してしまうのではないでしょうか。
 「ニュータウン化」論については、彼らの共感だけでなく、現実にその後も「ニュータウン」的な場所での少年犯罪などは起きていますが、マンションの機能的構造を見直そうという動きはあまり見られないようです。

 著者は、「酒鬼薔薇聖斗」が少年であることを想定できずに事件を"物語化"していた識者やマスコミを嗤い、彼をダーテーィヒーローにするなと言うけれど、その「犯行声明文」の文中の「透明な存在」という言葉が本書のタイトルにもなっているわけで、著者自身、「声明文」から受けた衝撃は大きかったのではないでしょうか。 
 「少年A」を「行為障害」と規定することは、著者の指摘どおり、「子供幻想」を温存するための社会的防衛機能が働いたのかも知れず、この「声明文」を改めて考察する意味はあると思いますが、そこから「子どもの自立決定・自己責任規制」論へ行くのは、著者独特の思考回路。

 著者は'92年からこのときぐらいまでは「ブルセラ・援交少女」肯定論を張っていましたが、豊富な社会学やサブカルチャーの知識とフィールドワークからの実感により、固定観念に囚われないユニークな視点を示す一方で、個人的には、論理の飛躍が多い人であるという印象が拭えません。

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個人主義(自尊心)についての読み応えのある「文芸社会学」的考察。

個人主義の運命  .jpg                         『ドストエフスキー』 ルネ・ジラール著.bmp
個人主義の運命―近代小説と社会学』 岩波新書 〔'81年〕   ルネ・ジラール 『ドストエフスキー―二重性から単一性へ (叢書・ウニベルシタス)』 ['83年/法政大学出版局]

 「文芸社会学」の試みとも言える内容で、3章から成り、第1章でルネ・ジラールの文芸批評における、主体(S)が客体(O)に向かう際の「媒介」(M)という三項図式の概念を用いて、主にドストエフスキーの一連の作品を、三角関係を含む三者関係という観点から読み解き、第2章では個人主義思想の変遷を、共同態(家族・農村・ギルド・教会など)の衰退と資本主義、国家(ナショナリズム)等との関係において理性→個性→欲望という流れで捉え、第3章でまた第1章の手法を受けて、夏目漱石の『こころ』、三島由紀夫の『仮面の告白』、武田泰淳の『「愛」のかたち』、太宰治の『人間失格』における三者関係を解読しています。

永遠の夫.jpg 第1章では、ドストエフスキー小説における「媒介者」を、主人公(S)が恋人(O)の愛を得ようとする際のライバル (M)や、世間(O)からの尊敬を得るために模倣すべき「師」(M)に見出していますが、主人公がライバルの勝利を助けようとするマゾヒスティックにも見える行動をしたり、「師」を手本とする余り、神格化することが目的化してしまったりしているのはなぜなのか(その典型的キャラクターが描かれているのが「永遠の夫」である)、その際に主人公の自尊心(この場合、個人主義は「自尊心」という言葉に置き換えていいと思う)はどういった形で担保されているのか、その関係を考察しています。

 第2章で興味深かったのは、ナショナリズムと個人主義の関係について触れている箇所で、国家は中間集団(既成の共同体)の成員としての個人の自律と自由の獲得を外部から支援することで、中間集団の個人に対する影響力を弱めたとする考察で、中間集団が無力化し個人主義の力を借りる必要が無くなった国家は、今度は個人主義と敵対するようになると。
 著者はナショナリズムと宗教との類似、ナショナリズムと個人主義の双子関係を指摘していますが、個の中で全体化するという点では「会社人間」などもその類ではないかと思われ、本書内でのG・ジンメル「多集団への分属により個人は自由になる」という言葉には納得。
 ただし、それによって複数集団(会社と家庭、会社と組合など)の諸要求に応えきれず自己分裂する可能性もあるわけで、ある意味「会社人間」でいることは楽なことなのかも知れないと思いました。

 第3章では、漱石の『こころ』の「先生」と「私」の師弟関係の読み解きが、以前読んだ土居健郎のものを引きながらも、それとはまた違った観点での(つまり「先生」とKとの関係を読者に理解させるために書かれたという)解題で、なかなか面白かったです。

 第1・第3章と第2章の繋がりが若干スムーズでないものの(「文芸」と「社会学」が切り離されている感じがする)、各章ごとに読み応えのある1冊でした。

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ロビンソン人間論を軸としたマルクス、ヴェーバー論。噛んで含めたようなわかりやすさ。

社会科学における人間.jpg       

      大塚久雄(1907-1996).jpg 大塚久雄(1907-1996/享年89)
社会科学における人間』 岩波新書 〔'77年〕

 資本主義の歴史研究を通して「近代」の問題を独自に考察した社会学者・大塚久雄(1907‐1996)は、マルクス経済学とヴェーバー社会学から独自の人間類型論を展開したことでも知られていますが、本書は'76(昭和51)年に放映されたNHK教育テレビでの25回にわたる連続講演を纏めたもので、人間類型論を軸としたマルクス、ヴェーバー論という感じの内容です。

ロビンソン漂流記.jpg 本書でまず取り上げられているのは『ロビンソン漂流記』のロビンソン・クルーソウで、著者は、初期経済学の理論形成の前提となった人間類型、つまり経済合理性に基づいて考え行動する「経済人」としてロビンソンを捉えており、マルクスの『資本論』の中の「ロビンソン物語」についての言及などから、マルクスもまた「ロビンソン的人間類型」を(資本主義経済の範囲内での)人間論的認識モデルとしていたと。そして、ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で前提としているのも「ロビンソン的人間」であるとしています。
『ロビンソン漂流記』 講談社青い鳥文庫

 プロテスタンティズムのエートス(世俗内禁欲)が「資本主義の精神」として伝えられ、資本主義の発展を支えたというヴェーバーの説がわかりやすく解説されていて、この「隣人愛」が"結果として"利潤を生じるという目的・価値合理性が最もフィットしたのは主に中産的生産者(ドイツよりむしろ英国の)だったとしており、資本家においては両者の乖離が既に始まっていたと―この点は今日的な問題だと思いました。

 著者の考えは必ずしも全面的に世に受け入れられているわけでは無いのですが(ロビンソンを植民地主義者の原型と見なす人も多い)、自分としては、大学の一般教養で英文学の授業を受けた際に、最初の取り上げた『ロビンソン漂流記』の解題が本書とほぼ同じものだった記憶があり、「ロビンソン的人間類型」論に何となく親しみもあったりもします。

 '70年代の著作でありながらすでに「南北問題」などへの言及もあり、大学ではほとんど講義ノートを見ないで講義していたとか言う逸話もある人物ですが、本人曰く「教室で一番アタマ悪そうな学生に向けていつも話をした」そうで、本書も、マルクスの「疎外論」やヴェーバーの「世界宗教の経済倫理」などの難解な理論にも触れていますが、その噛んで含めたようなわかりやすさが有り難いです。

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「働くということ」とはどういうことなのかを哲学的に考察したい人に。

2602150.gif近代人の疎外』 岩波同時代ライブラリー 近代人の疎外 (1960年).jpg近代人の疎外 (1960年)』 岩波新書

 本書は、ヘーゲルからマルクス、フロム、サルトルなどへと引き継がれた「疎外論」とそれらの違いを追うとともに、「疎外」が近代生活において重要な問題であることを、テクノロジーや政治、社会構造の変化といった観点から分析しています。

 とりわけ著者は、マルクスが初期に展開した、資本主義の拡大による労働力の商品化や搾取、いわゆる商品支配の増大によって「疎外」が生じたとする労働疎外論に注目し、歴史的要因への固執に対し批判を加えながらも、それがドイツの社会学者テンニエスの「ゲマインシャフト(共同社会)」から「ゲゼルシャフト(利益社会)」への変化を本質意志から選択意志への移行と関連づけた考え方と重なるものとしています。
 そして、この疎外を克服するための方法は、宗教でも哲学でも教育でもなく、社会構造そのものが変わらなければならないだろうとしています。

近代人.jpg 原著は'59年の出版。著者はドイツで経済学、社会学、哲学を学んだ後、ナチスに追われ米国に亡命した人で、本書で展開される著者の「疎外論」は、アメリカ社会心理学の系譜にあるかと思われますが、哲学的かつ広い視野での社会分析がされています。

 当初、岩波新書('60年刊)にあり、'60年代の「疎外論」ブームで版を重ねましたが、実存主義やマルクス主義の沈滞と同調して忘れ去られかけていたものが、ライブラリー版で復活したものです。

 イギリス人の日本研究家であるR・ドーアも近著『働くということ―グローバル化と労働の新しい意味』('05年/中公新書)の中で「ゲマインシャフト」から「ゲゼルシャフト」への変化に触れていましたが、株主資本主義が幅をきかす昨今、企業内で働く個人、およびその個人と他者との関係はどうなるのかというテーマは、ますます今日的なものになってくるかと思います。

 また、マルクス、テンニエスの社会思想やサルトルの実存哲学などをわかりやすく解説しているという点でも良書。
 翻訳もこなれているので 「働くということ」とはどういうことなのかを哲学的に考察したい人にも良い本だと思います。

《読書MEMO》
●疎外=自分自身にとって見知らぬ他人となってしまった人間の状態(新書3p)
●疎外された人間はしばしば大いに成功を収めることがある。それはある種の無感覚を生み出す。したがって、その人が自分自身の疎外を自覚することはなかなかむずかしい。(新書5p)
●政治からの疎外...朝鮮戦争で戦場の兵士に何故この戦争に加わっているのかを聞くと「まあボールが跳ねているようなものさ」としか答えられなかった。(新書64p)
●本質意志⇔ゲマインシャフト、選択意志⇔ゲゼルシャフト(新書86p)
●動物は肉体的欲望に支配されて生産するが、人間は、肉体的欲望から自由である場合に初めて本当に生産する〔経済学・哲学草稿〕。(新書108p)
●作家フォークナーのエピソード...個人攻撃は悪趣味だが、売れ行きの良い商品となる(裁判費用は損失勘定、売れ行き増加は利益勘定に)(新書123p)→著述家さえも商品支配の下にある

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