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色々な見方を教えてくれるが、1人ひとりの記述が浅くて意外と印象に残らない。。

本当に偉いのか2.JPG本当に偉いのか―あまのじゃく偉人伝.jpg本当に偉いのか あまのじゃく偉人伝 (新潮新書)

 福沢諭吉、夏目漱石、坂本竜馬からアレクサンドロス大王やコロンブスまで、明治の偉人たちから始まって世界史、日本史に名を残した人まで、口上通り、「裸の王様」たる偉人たち(存命中の人物を含む)を"独断と偏見"でブッタ斬る―といった感じの本ですが、誰もかれも殆ど貶しているせいか、すっきりするどころか却って読んでいて嫌気がさす人もいるのではないかと余計な心配をしたりもしました。

 実際、Amazon.comのレビューの中にも、「独りよがり」「読むに堪えない」などの評があって、評価はイマイチみたいです。確かに、本当は偉くないという中に漱石だけでなく司馬遼太郎なども含まれていて、ほんとうは偉いという中に渡辺淳一や石原慎太郎がいるのはどうかと思ってしまう人は多いと思います(個人的には著者の以前からの夏目漱石批判には一部共感させられる面もあり、また、渡辺淳一は初期作品はいいと思うのだが)。

 中には当を得たりと思った部分もあったし、また、この人物についてこんな見方も出来るのだなあということを色々と教えてくれているという意味で(著者にとって極めて好意的な解釈かもしれないが)まずまず面白かったです。、取り上げられている"偉人"たちの中には全否定されているに近い人もいますが、ある部分は認めているようなケース(作家であればある作品は認めているケース)もままあって(どちらかというとこのタイプの方が多い)、その人物の著作やその他業績等をその人物のものに限って相対評価するうえでは参考になるかもしれません(例えば、「第三章 本当に偉いのか偉人伝 日本編」で取り上げられている宮崎駿について、初期作品の「風の谷のナウシカ」('84年)は"まぎれもない傑作"としているが、「もののけ姫」('97年)は失敗作とし、更にそれら以前の「ルパン三世~カリオストロの城」('79年)などは秀作としている)。

 但し、1冊の新書に大勢詰め込んだため1人ひとりの人物に関する記述が浅くなった印象もあります。すらすら読める割には意外と印象に残らないのは、自分によりどころとなる知識が少ないせいもあるかもしれませんが、著者自身が説明を端折っているせいもあるのでは。知識だけひけらかしているように見られても仕方無い面もあるように思えますが、著者自身はどう見られるかはあまり気にしていないのかもしれません。

 全般的には、取り上げているそれらの"偉人"たちについて「過大評価」されているのではないかという疑問を呈しているわけであって、全てを評価しないと言っているわけではないし、これだけそれぞれの人物に詳しいということは、それなりにその人の本を読んだり調べたりしたわけだから、意外と著者本人もどこかでその人物に関心や愛着を持っていたりもするのではないでしょうか。仮に著者にそう問うても、まあ、天邪鬼の本性からすれば、そんなことはないと言下に否定されるでしょうが。

《読書MEMO》
●目次
はじめに
第一章 上げ底された明治の偉人
福沢諭吉/夏目漱石/岡倉天心/柳田國男/幸田露伴/徳田秋聲/南方熊楠/大隈重信/西郷隆盛/森鴎外/樋口一葉/永井荷風/正岡子規/ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)

第二章 本当に偉いのか偉人伝 世界編
アレクサンドロス大王/クリストーバル・コローン(コロンブス)/ベンジャミン・フランクリン/イマニュエル・カント/ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル/ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ/ナポレオン一世/リヒャルト・ワグナー/ハインリヒ・シュリーマン/レフ・トルストイ/フョードル・ドストエフスキー/ガンディー/魯迅/ヴラディーミル・ナボコフ/ハンナ・アレント/ラングドン・ウォーナー/フォービアン・バワーズ/D・H・ロレンス

第三章 本当に偉いのか偉人伝 日本編
石田三成/井原西鶴/和辻哲郎/野上弥生子/福田恆存/中野好夫/丸山眞男/吉田松陰/中島敦/中野重治/上田秋成/坂本竜馬/伊福部昭/尾崎翠/井上ひさし/丸谷才一/十二代市川團十郎/十八代中村勘三郎/司馬遼太郎/中井久夫/宮崎駿/深沢七郎

第四章 誤解の多い偉人/評価保留の偉人
ヘレン・ケラー/ミヒャエル・エンデ/毛利元就/間宮林蔵/野坂昭如/グスタフ・マーラー/光明皇后/筒井康隆/平賀源内/カール・ポパー/谷崎潤一郎/川端康成/ノーム・チョムスキー/牧野富太郎

第五章 あまり知られていない偉人
荻野久作/兼常清佐/ジャン=バティスト・グルーズ/大久保康雄/石山透

第六章 本当は偉いぞ偉人伝
井伊直弼/伊藤博文/山本有三/渡辺淳一/円地文子/大乃国康(芝田山親方)/エミール・ゾラ/本居宣長/フランシスコ・フランコ/曲亭馬琴/野口英世/坪内逍遙/田山花袋/三木卓/石原慎太郎

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新人の要件は「若者でバカ者でよそ者」、芥川賞のキーワードは「顰蹙」か。

芥川賞の謎を解く.jpg芥川賞の謎を解く2.jpg
 
第79回(昭和53年上半期)の芥川賞選考委員会。左端から大江健三郎、開高健、安岡章太郎、丹羽文雄、瀧井孝作、中村光夫、井上靖、吉行淳之介、遠藤周作、丸谷才一の各選考委員。
芥川賞の謎を解く 全選評完全読破 (文春新書)

又吉直樹 芥川賞受賞.jpg 芥川賞の第1回から今日まで(第152回まで)の全ての選評を読み直して振り返ったもので、文春新書らしい企画的内容ですが、著者は読売新聞の文化記者です。因みに、最近話題になった人気芸人の又吉直樹氏の『火花』による受賞は、本書刊行の1ヵ月後に受賞が決まった「第153回」の芥川賞ということで、本書では扱っていません。

NHK「ニュースウオッチ9」(平成27年7月16日)より

太宰治23.jpg その又吉直樹氏が敬愛するという太宰治が落選して激昂したという有名なエピソードから始まって、選考の流れというか緊迫した雰囲気のようなものが伝わるものとなっています。実際、選考委員はその折々で真剣に選考に取り組んできたのでしょうが、どういった人がその時の選考委員を務めているかによって、結構、選ばれる側に運不運があるという印象を受けました。

 まあ、芥川賞が始まったばかりの頃は、受賞発表に呼ばれたマスコミであっても、それを記事にしなかった新聞社もあり、賞の創設者である菊池寛を憤慨させたりもしたようですが、そのくらいの世間の関心度だったということでしょう。賞をとれなかった太宰も、後に当時の自分を「野暮天」だったと振り返っていて、著者は、もし太宰が芥川賞をとっていたら、「天才幻想に憑りつかれ、明るさとユーモアのある中期以降の太宰はなかったかもしれない」としています。

吉行 淳之介.jpg 「第三の新人」と呼ばれる作家が、安倍公房松本清張 五味康祐.jpgと石原慎太郎、大江健三郎、開高健という戦後のスターに挟まれて芥川賞をなかなかとれず、吉行淳之介などは「今回は安岡・吉行の二作受賞で間違いない」との予想が出回って賞金をアテにして飲み歩いていたら、受賞者は五味康佑・松本清張だったという話などもちょっと面白かったです。

松本清張と五味康祐

 五味康佑は「薄桜記」が'12年にNHKのBS時代劇になるなど今でも人気。一方の松本清張も、芥川賞作家の中で最も多くの人々に読まれた作家とされているようですが(尤も、芥川賞作家であるという印象が薄いかもしれないが)、その松本清張が「ある『小倉日記』伝」で芥川賞をとった時、選考委員の坂口安吾が「この文章は実は殺人犯人をも追跡しうる自在な力」があるとして、推理小説界での清張の活躍を予見しているのは慧眼です。更に坂口安吾は、石川達三と真っ向から対立して、安岡章太郎などを推しています。石川達三は吉行淳之介の「驟雨」にも☓をつけていますが、吉行淳之介はこの作品で4回目の候補にしてようやっと受賞しました。後になって吉行が、選考委員(石川達三)の文学観に物申しているのが興味深いです。

吉村昭.jpg 吉村昭がいったんは宇野鴻一郎とのダブル受賞との連絡を受けながら、それが実は連絡の手違いで、最終的には宇野鴻一郎だけが受賞で、吉村昭は結局4回芥川賞の候補になりながらとれなかったわけですが、これについて、吉村昭が後に「落ちてくれた」と言い、「もし受賞していたら、全然違う作家になっていたと思います」と発言しているのも興味深いです。吉村昭は落ちたことを契機に記録文学に転じた作家で、それ以前の作品は「星への旅」などに見られるように、非常に"純文学色"の濃いものです。

村上春樹 09.jpg 本書では、太宰治、吉村昭の他に村上春樹も「賞をとらなくて良かった」作家ではないかとしており、村上春樹氏自身も、今は、芥川賞作家と肩書に縛られなくて良かったと考えているようです。その村上春樹の「風の歌を聴け」が芥川賞候補になるも選ばれなかった際の選評も書かれていますが、この分析については、本書でも紹介されている市川真人氏の『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか』('10年/幻冬舎新書)に詳しいです。

石原慎太郎 芥川賞.png 田中康夫氏が、「若者でバカ者でよそ者」を新人の条件として挙げたのを高橋源一郎氏が「うまいこと言う」と言ったとのことですが、確かに言い得ているかも(2人とも芥川賞はとっていない)。本書の著者の場合は、「顰蹙」という言葉を芥川賞のキーワードとして捉えており(それにしては大人しい作品が受賞することもあるが)、その言葉を最も端的に象徴するのが、選考委員の間で毀誉褒貶が激しかった石原慎太郎氏の「太陽の季節」であり、この人は選考委員になってからも歯に衣を着せぬ辛口発言を結構していて、やっぱり芥川賞を語る上では欠かせない人物なのだろなあ。村上龍氏の「限りなく透明に近いブルー」などもそれに当て嵌まるわけで、また村上龍氏も芥川賞選考委員として個性的な発言をしていますが、石原慎太郎氏の芥川賞受賞を社会的ニュースに高めた功績は、やはり大きいものがあると言えるかも(功績ばかりでなく、川端康成が危惧したような受賞が最終目的化するというで面もあり、"功罪"と言うべきか。別に石原氏が悪いわけでもなんでもないが)。

 又吉直樹氏の『火花』は、「三島由紀夫賞」の選考の方で僅差での落選をしての芥川賞受賞ということで、落選したのが良かったのか。村上春樹の「風の歌を聴け」が、群像新人賞を、選考委員(佐々木基一、佐田稲子、島尾敏雄、丸谷才一、吉行淳之介)の全員一致で推されてとったのに、芥川賞選考に駒を進めたら、その年に丸谷才一、吉行淳之介の2人が新たに選考委員に加わったにも関わらず、強く推したのは丸谷才一だけで落っこちてしまったというのも、何かパターン的な流れのような気もするし、この頃は「該当作なし」が矢鱈多かった(第83回から第96回の間に受賞作が出たのが6回、「該当作なし」が8回)というのも影響としてあるのでしょう。

 村上春樹氏はノーベル文学書をとるとらないに関わらず、「芥川賞」の側が賞を与え損ねた代表格として語り継がれていくのでしょう。又吉直樹氏の芥川賞における位置づけも、氏のこれからの活動を経てみないと判らないですし、結局、賞を与える与えないの判断の時点である種"賭け"の要素があり、それが当たるかどうかはたで観ていて"外野席的"に面白いというのもあるかもしれません。

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軍医、作家ではなく、一家庭人としての鷗外の人間味が滲み出ている書簡集。

妻への手紙.JPG   森鷗外 妻への手紙.jpg    森鷗外.jpg 森鷗外(1862-1922/享年60)
森鴎外妻への手紙 (昭13年) (岩波新書〈第17〉)』『妻への手紙 (ちくま文庫)

志げ夫人.jpg 今年(2012年)は森鷗外(1862-1922/享年60)没後150周年。本書は、鷗外の二度目の妻・しげ(志げ)への書簡集で(最初の妻・登志子とは、別居後に離婚)、編纂者の小堀杏奴(1909-1998)は鷗外の次女です。しかし、長男(登志子との間の子)の名前が於菟(おと)で、長女が茉莉(まり)(作家の森茉莉)、次女が杏奴(あんぬ)で二男が不律(ふりつ)、三男が類(るい)というのはすごいネーミングだなあ。オットー、マリ、アンヌ、フリッツ、ルイと片仮名で書いたほうがよさそうなぐらいです。

 1904(明治37)年から鷗外の没年である1922(大正11)年までの手紙を収めていて、その多くは鷗外が軍医部長として従軍した日露戦争(1904-05)中のもので、とりわけ1905(明治38)年に集中していますが、この年は、(前年末からの)旅順攻略、奉天会戦、日本海海戦、講和へとめまぐるしい戦局の変化があった年。

 しかし、鷗外の手紙の中で戦局の報告は極めて簡潔になされており、後は「新聞を読むように」とかいった具合で、むしろ、妻の健康と日常の暮らしぶり、生まれたばかりの娘・茉莉(1903-1987)の成長の様子を窺う文章で埋め尽くされているといった感じ(茉莉は何が出来るようになったか、病気はしてないか、といった具合に)。
志げ夫人

森茉莉.jpg "しげ"とは1902(明治35年)、鷗外が41歳、彼女が23歳で結婚しており、結婚して3年、娘・茉莉が生まれて2年ということで(しかも妻との年の差18歳)、手紙文は読みやすい文体で書かれており、中には(娘に対して)でれでれ状態と言ってもいいくらいのトーンのものもあるのは無理もないか(鷗外の堅いイメージとは裏腹に、ごくフツーの親ばかといった感じ)。

 ドイツ留学時代に彼の地に残してきた恋人のことを生涯胸に秘めつつ、家族に対してはこうした手紙を書いていたのだなあというのはありますが、妻や子への鷗外の想いは偽らざるものであったのでしょう。

 鷗外の妻への過剰とも思える気遣いの背景には、小堀杏奴があとがきに該当する「父の手紙」のところでも記しているように、妻と鷗外の母との不仲(所謂"嫁姑の確執"があったことも関係しているのかも。

森茉莉(12歳) 1915(大正4)年
    
森鷗外 妻への手紙 奥.JPG 手紙の多くが、「○月○日のお前さんの手紙を見た」「その後はまだお前さんお手紙は来ない」といった文章で始まっているように、妻の方からも、近況を伝える返信を書き送っていたと思われ、その妻の手紙は公表されていないわけですが、鷗外が自らの手紙でその内容をなぞったりしているので、大方の内容の見当はつきます。

 鷗外は必ずしも戦地で常に多忙を極めていたわけではないようで、妻から手紙は鷗外自身の無聊を慰めてもいたのでしょう。写真の感想なども多く、そうした鷗外の気持ちを察するかのように、妻しげは、家族の写真などもしばしば送っていたことが窺えます。

 鷗外の手紙の現物は杏奴の死後にも多く見つかっており、その殆どは既に杏奴を通して公表され全集にも収められていたとのことで、杏奴による時系列の並べ順の誤り(ミス)などが一部に見られるものの、少なくとも日露戦争時の手紙はそのまま全部収められているとみていいのではないかと思われます。

 軍医、作家といった鎧を脱ぎ棄て、一家庭人としての鷗外の人間味が滲み出ている書簡集でした。

【1996年文庫化[ちくま文庫(森鷗外『妻への手紙』)]】

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日本の文学作家って、大所に情死を含め自殺した人が多いと改めて感じた。

別冊新評 作家の死.jpg 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
『別冊新評 作家の死―日本文壇ドキュメント裏面史』(1972/08 新評社)

 明治以降の作家の死を、死去当時の新聞記事や他の作家による弔辞、弔意文などから追った記録集で、こういうのを読んでいると、弔辞を読んだ作家が次は弔辞を読まれる側に廻っていたりして(要するに亡くなっていて)、まあ、人生には限りがあると、改めて「死」というものを意識させられます。

 昔はやはり、作家も一般人同様、肺結核などの病いで亡くなる人が多かったわけですが、そうした中で、自殺に関しては、突然のことだけに周囲の衝撃も大きかったようです(本書の中で一番ショッキングだったのは、拷問死した小林多喜二の、仲間の医師による死体検分記録だったが、これは別格)。

川端康成2.jpg ある人の説では、作家の自殺率が普通人より高いのは日本も海外も同じだそうだけれど(中国などは確かにそうだが、その原因には政治的なものが絡んでいることが多いようだ)、日本の場合、芥川・太宰から三島・川端まで、日本文学の代表格と言うか"大所"とも言える作家が自死していることが大きな特徴ではないかなあ。
 そもそも、この別冊特集は、川端康成のガス自殺(1972/04/16)が刊行の契機になっているようだし。

 芥川龍之介の自殺(1927/07/24)以前に自殺した作家というと、有島武郎の情死(1923/06/09)が思い浮かびますが、明治以降、最初に自殺したのは、詩人であり思想家でもあった北村透谷(1894/05/16)だったとのことで、一度喉を刺して死に切れず未遂に終わった半年後に、首吊り自殺したそうです

 一方、太宰治(1948/06/13)の情死は、当時の新聞記事などを読むと、無理心中に付き合わされた"事故"だったっぽいです。
 でも、その死に影響を受けて、田中英光みたいなオリンピックのボート選手としての出場経験のある作家まで、太宰の墓前で睡眠薬服用して手首を切って自殺する(1949/11/03)という事態になってしまうわけで、一部に連鎖反応的要素もあるかも。川端康成の自殺の一因と言われるのも三島由紀夫の割腹自殺(1970/11/25)だし...。

 三島が自決死したのは45歳の時。太宰の死は38歳で、田中英光の自死は36歳。芥川は35歳で、作家の自殺の"先駆的"存在である北村透谷となると25歳。こうなるともう、作家は早く死ななければならないという感じすらしてくる―。

 サブタイトルに「裏面史」とありますが、大概の人が自殺した人の生き方を見習いたいとは思わないのが普通であって、この辺りに"日本文学の不幸"があるとするのは、あながち悲観的過ぎる見方とも言えないのではないかなあ。

 記録としては貴重だと思うけれど、紙質等は保存版仕様ではなく、通常の月刊誌と同じである点が...(「別冊」だから仕方がないのか)。

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タイトルに呼応した内容である前半部分は面白く読めたが...。

芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか.jpg 『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか―擬態するニッポンの小説 (幻冬舎新書)

 「王様のブランチ」のブック・コーナーなどで分かり易いコメントをしている著者による本で、新書にしては300ページ超とやや厚めですが、すらすら読めてしまう読み易さでした。但し、タイトルの「芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか」という問いかけに呼応した内容は前半3分の1ぐらいで、この部分は面白く読めましたが、後は、「ニッポンの小説」全般についての著者独自の批評になっているため、やや「テーマが拡散している」ような印象も。

 村上春樹の『風の歌を聴け』('79年)と『1973年のピンボール』('80年)が、共に芥川賞の候補になりながらも最終的に受賞しなかったのは、それらの作品がアメリカ文学の影響を受け過ぎていたため、選考委員にはそれらの模倣のように受け止められたというのが通説ですが、その前に候補になり受賞もしている村上龍の『限りなく透明に近いブルー』('76年)も、佐世保を舞台にしたアメリカ文化の影響の色濃い作品であり、一体どこが異なるのかと―。

 著者は、加藤典洋の、戦後の日本文壇は「アメリカなしにはやっていけないという思いを、アメリカなしでもやっていけるという身ぶりで隠蔽している」という言葉を引いて、『限りなく透明に近いブルー』には、主人公の放埒な生活の背後に、アメリカに対する屈辱が秘められており、また、例えば、同時期に芥川賞の候補になった田中康夫の『なんとなく、クリスタル』('80年)も、主人公たちの享楽的な生活は、アメリカ的なものへの依存無しには生きられないという点で、その裏返しであると。

 つまり、自分たち自身は本質的には「アメリカ的ではない」という自己規定が前提になっていて、それに対して、村上春樹の作品は、主人公をそのままアメリカ人に置き換えても成り立つように、もはや日本人かアメリカ人かの区別は無くなっており、アメリカを対象化するのではなく、アメリカそのものである、そのことが選考委員の反発を買ったと―。

 つまり、戦後の日本人にとって、アメリカは「強い父」として登場してきたと言え、そのアメリカ=「強い父」の存在の下での屈辱や、その「強い父」の喪失を描くというのが、戦後の日本文学の底流にあり、村上春樹の作品は、その底流から外れていたために、受賞に至らなかったのだとしています。

 以降、そうした近代日本文学の特殊性を、太宰治の『走れメロス』や夏目漱石の『坊っちゃん』にまで遡って中盤から後半にかけて分析していて、そうした意味では必ずしも「テーマが拡散している」とも言えないものの、やはり、後半は、前半の村上春樹論ほどのインパクトは無かったように思いました。

 芥川賞のことは、近作『1Q84』にもモチーフとして出てきますが、自身が候補になった時の話は、『村上朝日堂の逆襲』('86年/朝日新聞社、'89年/新潮文庫)に書いていて、「あれはけっこう面倒なものである。僕は二度候補になって二度ともとらなかったから(とれなかったというんだろうなあ、正確には)とった人のことはよくわからないけれど、候補になっただけでも結構面倒だったぐらいだから、とった人はやはりすごく面倒なのではないだろうかと推察する」とし、受賞連絡待ちの時の周囲の落ち着かない様子に(自らが経営する店に、多くのマスコミ関係者が詰めた)自分まで落ち着かない気持ちに置かれたことなどが、ユーモラスに描かれています。

 前2作の落選後、長編小説(『羊をまぐる冒険』)に行っちゃったから候補にもならなかったけれども(芥川賞の候補になるには紙数制限がある)、中編小説を書き続けていれば、賞を獲ったようにも思います。

 吉行淳之介(1924-1994)なんか、群像新人賞に推して以来、ずっと好意的な評価をしていたみたいだし...(そう言えば、村上春樹もアメリカの大学で日本文学を教えていた時に、吉行作品をテキストに使っていたりしたなあ。相通じるものを感じたのかな)。

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ポピューラーなものからマニアックなものまで多彩。読み解きに引き込まれた。

偏愛文学館.jpg偏愛文学館 』['05年] 偏愛文学館 文庫.jpg偏愛文学館 (講談社文庫)』['08年]

 倉橋由美子(1935‐2005/享年69)が39冊の小説を取り上げた「文学案内」で、'96-'97年に雑誌「楽」(マガジンハウス)にて「偏愛文学館」として連載され、その後'04-'05年に文芸誌「群像」(講談社)にて連載再開されたものを1冊にしたものですが、彼女は『星の王子さま』の新訳を亡くなる前月に脱稿し、刊行直前の6月10日に亡くなっていて、本書も奥付では'05年7月7日初版とあり、こちらも著者自身は刊行を見ずに逝ってしまったのでしょうか。

 安部公房と並んでカフカの薫陶を受けた作家として、或いは、大江健三郎と並んで学生時代にデビューした作家として知られ、更には、日本的な私小説を忌避し、今で言う村上春樹に連なるようなメタフィジカルな世界を展開した作家として知られていますが、一筋縄ではいかない作家が自ら"偏愛"と謳っているだけに、自分には縁遠い作家の作品が並んでいるのかなと思いきや、意外とポピュラーな作品が多く、「読書案内」であることを意識したのかなあと。

 夏目漱石は『吾輩は猫である』と並んで愛でるべきは『夢十夜』であるとか、内田百閒の短編では「件(くだん)」が一番の傑作であるとしていたり、『聊斎志異』を愛してやまないとか、うーん、何だか親近感を覚えてしまい、丁寧な読み解きに引き込まれました。

 中盤の外国文学作品の方が、作品の選択自体に"偏愛度"の高さが感じられ、入手不可能に近い本を取り上げるのは気が引けるがとしつつ、マルセル・シュオブ「架空の伝記」を取り上げていて(話の中身は面白そう)、ジョン・オーブリーの「名士小伝」もそうだし、海外の作家で2回登場するのがイーヴリン・ウォーだったりします(日本の作家で2回登場するのは、この人の場合、やはり吉田健一)。

 一方で、そうした外国作品の中にジェフリー・アーチャーの『めざせダウニング街10番地』なんてのがあるのがちょっと意外で(日本の作品の中にも、宮部みゆきの『火車』があり、映画「太陽がいっぱい」と結末が似ているとしている)、読者を意識してと言うより、本人が本当に読むことを満喫しているのが伝わってきます。

 自殺した作家を原則認めないとしながらも、太宰治、三島由紀夫、川端康成は別格みたいで、よく知られている作品でも、作家の読み方はやはり奥が深いなあと思わされる面が随所にありました。
 一方で、カミュの『異邦人』の読み方などには、自分と相容れないものがありました。
 
 別々の雑誌の連載の合本であるためか、1作品について10ページ以上にわたり解説されているものもあれば3ページ足らずで終わっているものもあり、あれ、これで終わり? もっと読みたかった、みたいな印象も所々で。
 (単行本には、どちらの雑誌に掲載されたものか典拠が無いのが、やや不親切。結果的に追悼出版となり、刊行を急いだ?)

 【2008年文庫化[講談社文庫]】

《読書MEMO》
●紹介されている本
夏目漱石『夢十夜』
森鴎外『灰燼・かのように』
岡本綺堂『半七捕物帳』
谷崎潤一郎『鍵・瘋癲老人日記』
内田百閒『冥途・旅順入城式』
上田秋成「雨月物語」「春雨物語」
中島敦『山月記・李陵』
宮部みゆき『火車』
杉浦日向子『百物語』
蒲松齢『聊斎志異』
蘇東坡『蘇東坡詩選』
トーマス・マン『魔の山』
フランツ・カフカ『カフカ短篇集』
ジュリアン・グラック『アルゴールの城にて』『シルトの岸辺』
カミュ『異邦人』
ジャン・コクトー『恐るべき子供たち』
ジュリアン・グリーン『アドリエンヌ・ムジュラ』
マルセル・シュオブ「架空の伝記」
ジョン・オーブリー「名士小伝」
サマセット・モーム『コスモポリタンズ』
ラヴゼイ『偽のデュー警部』
ジェーン・オースティン『高慢と偏見』
サキ『サキ傑作集』
パトリシア・ハイスミス『太陽がいっぱい』
イーヴリン・ウォー「ピンフォールドの試練」
ジェフリー・アーチャー『めざせダウニング街10番地』
ロバート・ゴダード『リオノーラの肖像』
イーヴリン・ウォー『ブライツヘッドふたたび』
壺井栄『二十四の瞳』
川端康成『山の音』
太宰治『ヴィヨンの妻』
吉田健一『怪奇な話』
福永武彦『海市』
三島由紀夫『真夏の死』
北杜夫『楡家の人びと』
澁澤龍彦『高丘親王航海記』
吉田健一『金沢』

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 「素直」に「深く」読む。ジュニアに限らず大人が読んでも再発見のある本。

心と響き合う読書案内.jpg 『心と響き合う読書案内 (PHP新書)』 ['09年]

 '07年7月にTOKYO FMでスタートした未来に残したい文学遺産を紹介するラジオ番組『Panasonic Melodious Library』で、「この番組は文学的な喜びの共有の場になってくれるのではないだろうか」と考えパーソナリティを務めた著者が、その内容を本にしたものですが、文章がよく練れていて、最近巷に見られるブログをそのまま本にしたような類の使い回し感、焼き直し感はありません。

 著者については、芥川賞受賞作がイマイチ自分の肌に合わず、他の作品を読まずにいたのが、たまたま『博士の愛した数式』を読み、ああ旨いなあと感服、その後も面白い作品を書き続けていると思っていましたが、本書に関して言えば、とり上げている作品は「著者らしい」というか、「いまさら」みたいな作品も結構あるような気がしました。

 しかし実際読んでみると、優れた書き手は優れた読み手でもあることを実証するような内容で、評価の定まった作品が多いので、何か独自の解釈でも連ねるのかなと思ったら、むしろ素直に自らも感動しながら読み、また楽しんで読んでいるという感じがし、その感動や面白さを読者に易しい言葉で伝えようとしているのがわかります。

 むしろ「解釈」を人に伝えるより、「感動」や「面白さ」を人に伝える方が難しいかも。その点、著者は、作品の要(かなめ)となる部分を限られた紙数の中でピンポイントで抽出し、そこに作品全体を読み解く鍵があることを、著者なりに明かしてみせてくれています(作家だから当然かも知れないが、文章がホントに上手!)。

 作品の読み方が評論家っぽくなく「素直」で、それでいて、味わい方の奥が「深い」とでも言うか、冒頭の金子みすゞの『わたしと小鳥とすずと』(これ、教育テレビの子ども向け番組「日本語で遊ぼう」でよく紹介されているものだが)の読み解きからしてそのような印象を抱き、「心に響く」ではなく、「心と響きあう」読書案内であるというのはわかる気がします。

 こんな人が国語の先生だったら、かなりの生徒が読書好きになるのではないかと思いましたが、ジュニアに限らず大人が読んでも再発見のある本ではないかと。

《読書MEMO》
●第一章 春の読書案内 ... 『わたしと小鳥とすずと』/『ながい旅』(大岡昇平)/『蛇を踏む』/「檸檬」/『ラマン』/『秘密の花園』/「片腕」(川端康成)/『窓ぎわのトットちゃん』/『木を植えた男』(ジャン・ジオノ)/『銀の匙』/『流れる星は生きている』/「羅生門」/「山月記
蛇を踏む.jpg 檸檬.jpg 片腕.jpg 銀の匙.jpg 李陵・山月記.jpg
●第二章 夏の読書案内 ... 『変身』/『父の帽子』(森茉莉)/『モモ』/『風の歌を聴け』/『家守綺譚』(梨木香歩)/『こころ』/『銀河鉄道の夜』/「バナナフィッシュにうってつけの日」/『はつ恋』/『阿房列車』/『昆虫記』(ファーブル)/『アンネの日記』/『悲しみよ こんにちは
変身.jpg 銀河鉄道の夜 童話集 他十四編.jpg 悲しみよこんにちは 新潮文庫.jpg
●第三章 秋の読書案内 ... 「ジョゼと虎と魚たち」(田辺聖子)/『星の王子さま』/『日の名残り』/『ダーシェンカ』/『うたかたの日々』/「走れメロス」/「おくのほそ道」/『錦繍』/「園遊会」(マンスフィールド)/『朗読者』/『死の棘』/「たけくらべ」/『思い出トランプ
日の名残り.jpg 思い出トランプ.jpg 
●第四章 冬の読書案内 ... 『グレート・ギャツビー』/『冬の犬』(アリステア・マクラウド)/「賢者の贈りもの」(O・ヘンリ)/『あるクリスマス』/『万葉集』/『和宮様御留』(有吉佐和子)/「十九歳の地図」/『車輪の下』/『夜と霧』/『枕草子』/『チョコレート工場の秘密』/『富士日記』/『100万回生きたねこ』
グレート・ギャツビー2.jpg 十九歳の地図.jpg チョコレート工場の秘密 yanase.jpg 富士日記 上巻.jpg

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 本を選んだのは新潮社。さらっと読める分物足りなさもありるが、個人的には楽しめた。

新潮文庫 20世紀の100冊.jpg 『新潮文庫20世紀の100冊 (新潮新書)』 ['09年]

 新潮社が2000年に、20世紀を代表する作品を各年1冊ずつ合計100冊選んだキャンペーンで、著者がそれに「解説」をしたものとのことですが、著者の前書きによれば、「100冊の選択におおむね異論はなかった。しかし素直にはうなずきにくいものもないではなかったし、読むにあたって苦労した作品もあった」とのこと。

 1冊1冊の著者による解説は実質10行足らずであるため、さらっと読める分物足りなさを感じる面もありますが、全体としてはよく吟味された文章と言えるのではないかと思われ、十分に(そこそこに?)楽しめました。

 個人的には、三島由紀夫の『春の雪』(1970年)の「人生のすべてをパンクチュアルに生きた人が、最後に破った約束」などは、内容に呼応した見出しのつけ方が旨いなあと。

 但し、前半・中盤・後半に分けるならば、とりわけ、前半部分の20世紀初頭の近代文学作品の解説が、作品の書かれた背景や他の同時代の作家との相関において、その作品の歴史的位置付けを象徴するような要素をピンポイントで拾っていて、文学史の潮流を俯瞰でき、作家の個人史に纏わる薀蓄などもあって、より楽しめました(著者の得意な時代ジャンルということもあるのか)。

 また、著者自身、これら100冊を「鑑賞」しようとはせず、むしろ「歴史」を読み取ろうとしたと述べているように、こうして様々な作風の作家の作品を暦年で並べて時代背景と照らしながら見ていくことには、それなりの意義があるように思えました(時折、海外の作品が入るのも悪くない)。

関川 夏央 『新潮文庫 20世紀の100冊』.jpg でも最後の方(特に最後の10年ぐらい)になると、例えば「1993年は『とかげ』(吉本ばなな)の年、そういうことにしよう」とあるように、ちょっと評し切れないと言うか(選んだのは著者ではなく新潮社、2000年1月から毎月10冊ずつこの100冊を刊行する上での商業的思惑もあった?)、「歴史」に"定位"するスタイルでは論じ切れなくなっている感じもし、著者のこの作業が2000年に行われたことを考えれば、その点は無理もないことかも。

 「100冊」と言うより「100人」とみて読んだ方がすんなり受け容れられる面もあるかと思われますが、亡くなって年月を経た作家は、彼(彼女)の生き方はこうだった、みたいに言い切れるけれど、生きている作家については、そうした言い切りがしくいというのもあるしなあ。

《読書MEMO》
●取り上げている本
1901年 みだれ髪 与謝野晶子
1902年 クオーレ エドモンド・デ・アミーチス
1903年 トニオ・クレーゲル トーマス・マン
1904年 桜の園 アントン・チェーホフ
1905年 吾輩は猫である 夏目漱石
1906年 車輪の下 ヘルマン・ヘッセ
1907年 婦系図 泉鏡花
1908年 あめりか物語 永井荷風
1909年 ヰタ・セクスアリス 森鴎外
1910年 刺青 谷崎潤一郎
1911年 お目出たき人 武者小路実篤
1912年 悲しき玩具 石川啄木
1913年 赤光 斎藤茂吉
1914年 道程 高村光太郎
1915年 あらくれ 徳田秋声
1916年 精神分析入門 ジークムント・フロイト
和解.bmp1917年 和解 志賀直哉
1918年 田園の憂鬱 佐藤春夫
1919年 月と六ペンス サマセット・モーム
1920年 惜みなく愛は奪う 有島武郎
赤い蝋燭と人魚.jpg1921年 赤いろうそくと人魚 小川未明
1922年 荒地 T・S・エリオット
1923年 山椒魚 井伏鱒二
1924年 注文の多い料理店 宮沢賢治
檸檬.jpg1925年 檸檬 梶井基次郎
日はまた昇る.jpg1926年 日はまた昇る アーネスト・ヘミングウェイ
河童・或阿呆の一生.jpg1927年 河童 芥川龍之介
1928年 放浪記 林芙美子
1929年 夜明け前 島崎藤村
1930年 測量船 三好達治
夜間飛行 文庫 新.jpg1931年 夜間飛行 サン=テグジュペリ
八月の光.jpg1932年 八月の光 ウィリアム・フォークナー
1933年 人生劇場 尾崎士郎 じんせいげきじょう おざきしろう
1934年 詩集 山羊の歌 中原中也
1935年 雪国 川端康成
1936年 風と共に去りぬ マーガレット・ミッチェル
1937年 若い人 石坂洋次郎
1938年 麦と兵隊 火野葦平
怒りの葡萄 ポスター.jpg1939年 怒りの葡萄 ジョン・スタインベック
1940年 夫婦善哉 織田作之助
1941年 人生論ノート 三木清
1942年 無常という事 小林秀雄
李陵・山月記.jpg1943年 李陵 中島敦
1944年 津軽 太宰治
1945年 夏の花 原民喜
堕落論 角川文庫.jpg1946年 堕落論 坂口安吾
1947年 ビルマの竪琴 竹山道雄
俘虜記.jpg1948年 俘虜記 大岡昇
1949年 てんやわんや 獅子文六
1950年 チャタレイ夫人の恋人 D・H・ローレンス
異邦人 1984.jpg1951年 異邦人 アルベール・カミュ
1952年 二十四の瞳 壺井栄
1953年 幽霊 北杜夫
1954年 樅ノ木は残った 山本周五郎
1955年 太陽の季節 石原慎太郎
楢山節考 洋2.jpg1956年 楢山節考 深沢七郎
1957年 死者の奢り 大江健三郎
点と線.png1958年 点と線 松本清張
1959年 海辺の光景 安岡章太郎
1960年 忍ぶ川 三浦哲郎
1961年 フラニーとゾーイー サリンジャー
砂の女 1962.jpg1962年 砂の女 安部公房
飢餓海峡 上.jpg1963年 飢餓海峡 水上勉
1964年 沈黙の春 レイチェル・カーソン
1965年 国盗り物語 司馬遼太郎
1966年 沈黙 遠藤周作
アメリカひじき・火垂るの墓1.jpg1967年 火垂るの墓 野坂昭如
1968年 輝ける闇 開高健
1969年 孤高の人 新田次郎
豊饒の海.jpg1970年 豊饒の海 三島由紀夫
1971年 未来いそっぷ 星新一
1972年 恍惚の人 有吉佐和子
辻斬り.jpg1973年 剣客商売 池波正太郎
1974年 おれに関する噂 筒井康隆
1975年 火宅の人 檀一雄
1976年 戒厳令の夜 五木寛之
蛍川 筑摩.jpg1977年 泥の河 宮本輝
1978年 ガープの世界 ジョン・アーヴィング
1979年 さらば国分寺書店のオババ 椎名誠
1980年 二つの祖国 山崎豊子
1981年 吉里吉里人 井上ひさし
1982年 スタンド・バイ・ミー スティーヴン・キング
破獄  吉村昭.jpg1983年 破獄 吉村昭
1984年 愛のごとく 渡辺淳一
1985年 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 村上春樹
1986年 深夜特急 沢木耕太郎
1987年 本所しぐれ町物語 藤沢周平
1988年 ひざまずいて足をお舐め 山田詠美
1989年 孔子 井上靖
1990年 黄金を抱いて翔べ 高村薫
1991年 きらきらひかる 江國香織
火車.jpg1992年 火車 宮部みゆき
1993年 とかげ よしもとばなな
1994年 晏子 宮城谷昌光
1995年 黄落 佐江衆一
1996年 複雑系 M・ミッチェル・ワールドロップ
1997年 海峡の光 辻仁成
1998年 宿命 高沢皓司
1999年 ハンニバル トマス・ハリス
2000年 朗読者 ベルンハント・シュリンク

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文学者の眼から見たサルトル像、小説・戯曲への手引。ボーヴォワールを嫉妬に狂わせたサルトル。
「サルトル」入門 (講談社現代新書)2_.jpg
サルトル入門.JPG「「サルトル」入門5.JPG 『「サルトル」入門 (1966年) (講談社現代新書)』 

 '07年から'08年にかけて松浪信三郎訳の『存在と無』がちくま文庫(全3冊)に収められたかと思ったら、'09年には岩波文庫で『自由への道』の刊行が始まり、こちらは全6冊に及ぶと言うサルトル-まだ読む人がいるのだなあという思いも。

白井浩司.jpg 著者の白井浩司(1917-2004)はサルトル研究の第一人者として知られたフランス文学者で、サルトルの『嘔吐』『汚れた手』などの翻訳も手掛けており、本書は、文学者・実存主義者・反戦運動の指導者など多様な活動をしたサルトルの人間像を捉えたものであるとのことですが、とりわけ、その小説や戯曲を分り易く解説しているように思いました。

 文学者の眼から見たサルトル像、サルトルの小説や戯曲へのサルトルとボーボワール.jpg手引書であると言え(とりわけ『嘔吐』の主人公ロカンタンが感じた〈吐き気〉などについては、詳しく解説されている。片や『存在と無』などの解説が物足りなさを感じるのは、著者がやはり文学者だからか)、その一方で、彼の生い立ちや人となり(これがなかなか興味深い)、ボーヴォワールをはじめ多くの同時代人との交友やカミュなどとの論争についても書かれています。

 彼は20代後半から30代前半にかけての長い修業時代に、まず、セリーヌの『夜の果ての旅』を読み、その文章に衝撃を受けて、その後いろいろな作家の作品を読み漁っていますが、カフカとフォークナーに特に共感したとのこと、また、映画を文学と同等に評価していて、カウボーイや探偵の活躍する娯楽映画も好きだったそうです(サルトルは映画狂だとボーヴォワールは書いている)。
サルトルとボヴォワール(来日時)

 彼の政治的な活動をも追う一方で、私生活についてもその恋愛観を含め書かれており、サルトルとボーヴォワールの2人の愛は有名ですが、サルトルはボーヴォワールと知り合った20代前半にはボーヴォワールに対してよりも年上の美女カミーユに恋をしており、また、ボーヴォワールと既に深い関係にあった30歳の頃には、3歳年下のボーヴォワールを差し置いて、12歳年下のオルガという少女に夢中になり、ボーヴォワールを嫉妬に狂わせたとのこと、そうこうしながら同時に『嘔吐』の原案も練っていたりして、ホント、精力的だなあと。

 60歳の時に「プレイボーイ」誌のインタヴューに答えて、「男性とよりも、女性と一緒にいる方が好き」で、それは「奴隷でもあり共犯者でもある女性の境遇からくる、女性の感受性、優雅さ、敏感さにひかれるからで」あると答えていますが、彼の恋愛観は一般には受け入れられていないと著者は書いています。

聖ジュネ(文庫)下.jpg聖ジュネ(文庫)上.jpg また、戦後も『聖ジュネ』などの文学評論の大作を発表しているものの、小説を書かなくなったのは、彼が政治に深入りしすぎたためであると書いており、この辺りは著者の見方が入っているように思えます。
 確かに、本書の冒頭には、「20億の飢えた人が地球上にいる現在、文学に専念するのは自分を欺くことだ」という'64年の記者会見での談話が紹介されてはいますが(同じ年、ノーベル文学賞を辞退している)。

 本書の初版が刊行された年にサルトルは初来日していて、各地での講演会は立錐の余地もないほどの盛況だったとのこと(そういう時代だったのだなあ)、一方、ホテルについた彼が最初にやったことは、老いた母親に無事着いたことを打電することだったそうで、彼のこうした行為や壮年になっても続いた女性遍歴は、父親を早くに亡くしたこととと関係があるのではないかと、個人的には思った次第です(彼には父親の記憶が無かった)。

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グレート・ギャツビーの"グレート"は反語である前にその通りの意味もあったのではないかと。
グレート・ギャツビー.jpg グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー) 和田誠.jpg グレート・ギャツビー 野崎訳.jpgグレート・ギャツビー 新潮文庫2.jpg 翻訳夜話.jpg
愛蔵版グレート・ギャツビー』 『グレート・ギャツビー(村上春樹翻訳ライブラリー)』『グレート・ギャツビー(村上春樹翻訳ライブラリー)』(装幀・カバーイラスト:和田 誠)/『グレート・ギャツビー (新潮文庫)』(野崎孝:訳)/村上 春樹・柴田 元幸『翻訳夜話 (文春新書)

First edition cover (1925)
The Great Gatsby.jpg 1920年代初頭、米国中西部出身のニック・キャラウェイは、戦争に従軍したのち故郷へ帰るも孤独感に苛まれ、証券会社でフランシス・スコット・フィッツジェラルド.jpg働くためにニューヨーク郊外ロング・アイランドにある高級住宅地ウェスト・エッグへと引っ越してくるが、隣の大邸宅では日々豪華なパーティが開かれていて、その庭園には華麗な装いの男女が夜毎に集まっており、彼は否応無くその屋敷の主ジェイ・ギャツビーという人物に興味を抱くが、ある日、そのギャツビー氏にパーティに招かれる―。

 1925年に出版された米国の作家フランシス・スコット・フィッツジェラルド(Francis Scott Fitzgerald、1896‐1940/享年44)の超有名作品ですが、ニックがパーティに出てみると、参加者の殆どがギャツビーについて正確なことを知らず、ニックには主催者のギャツビーがパーティの場のどこにいるかさえわからない、しかし、たまたま自分の隣にいた青年が実は...なんてところから、ニックとギャツビーの交遊が始まるという初めの方の展開が単純に面白かったです。

 しかし、この小説、中間部分は今一つ波に乗れなかったというか、自分が最初に読んだのは野崎孝(1917‐1995)訳『偉大なるギャツビー』でしたが、今回、翻訳のリズムがいいと評判の村上春樹氏の訳を読んでも、若干の中だるみ感は拭えませんでした(金持ち同士の恋の鞘当てみたいな話が続き、その俗っぽさがこの作品の持つ1つの批判的テーマであると言えるのだが...)。
 但し、ギャツビーという人物の来歴と、彼の自らの心の空洞を埋めようとするための壮大な計画が明かされていく過程は、やはり面白いなあと―。そしてラスト、畳み掛けるようなカタストロフィに―と、小説としての体裁もきっちりしていることはきっちりしています。

 ギャツビーにはモデルがいるそうですが、ニックとギャツビーのそれぞれがフィッツジェラルドの分身であり(ついでに言えば、妻に浮気されるトム・ブキャナンも)、そしてフィッツジェラルド自身が美人妻ゼルダ(後に発狂する)と高級住宅地に住まいを借りてパーティ漬けの派手な暮らしをしながら、やがて才能を枯渇させてしまうという、華々しさとその後の凋落ぶりも含めギャツビーと重なるのが興味深いですが、これはむしろ小説の外の話で、ニックの眼から見た"ギャツビー"の描写は、こうした実生活での作者自身との相似に反して極めて冷静な筆致で描かれていると言ってよいでしょう。

『グレート・ギャツビー』 (2006).JPG 新訳というのは大体読みやすいものですが、村上訳は、ギャツビーがニックを呼ぶ際の「親友」という言葉を「オールド・スポート」とそのまま訳したりしていて(訳していることにならない?)、日本語でしっくりくる言葉がなければ、無理して訳さないということみたいです(柴田元幸氏との対談『翻訳夜話』('00年/文春新書)でもそうした"ポリシー"が語られていた)。但し、個人的には、「オールド・スポート」を敢えて「親友」と訳さなかったことは、うまく作用しているように思いました。

 そうした意味では、タイトルを『グレート・ギャツビー』としたこともまた村上氏らしく、この"グレート"というのは反語なのだなあと。

『グレート・ギャツビー(村上春樹翻訳ライブラリー)』(2006)

 但し、野崎訳も'89年の「新潮文庫」改訂時に『グレート・ギャツビー』に改題していて、故・野崎氏に言わせれば、フィッツジェラルドは、親から受け継いだ資産の上に安住している金持ち階級を嫌悪し(作中のブキャナン夫妻がその典型)、自らの才覚と努力によって財を成した金持ち(ギャツビーがこれに該当)には好意と尊敬の念を抱いていたとのこと('74年版「新潮文庫」解説)。だから、"グレート"というのは反語である前に、敬意も込められていると見るべきなのでしょう。

日はまた昇る.jpg 村上氏はこの作品を"生涯の1冊"に挙げており、同じ"ロスト・ジェネレーション"の作家ヘミングウェイ『日はまた昇る』(この作品とシチュエーションが似てい翻訳夜話2.jpgる面がある)より上に置いていますが、傑作であるには違いないものの、個人的にはそれほどダントツにスゴイ作品なのかなあという気もしてしまいます。 

 因みに、先に挙げた『翻訳夜話』は、柴田氏と村上氏が、東京大学の柴田教室と翻訳学校の生徒、さらに6人の中堅翻訳家という、それぞれ異なる聴衆に向けて行った3回のフォーラム対談の記録で、村上氏は翻訳に際して「大事なのは偏見のある愛情」であると言い、柴田氏は「召使のようにひたすら主人の声に耳を澄ます」と言っています。

 レイモンド・カーバーとポール・オースターの短編小説を二人がそれぞれ「競訳」したものが掲載されていて、カーバーの方は村上氏の方が訳文が長めになり、オースターの方は柴田氏の方が長めになっているのが、両者のそれぞれの作家に対する思い入れの度合いを反映しているようで興味深かったです。

グレート・ギャツビー (愛蔵版).jpgグレート・ギャツビー 村上春樹翻訳ライブラリー2.jpg【1957年文庫化[角川文庫(大貫三郎訳『華麗なるギャツビー』)]/1974年再文庫化[早川文庫(橋本福夫訳『華麗なるギャツビー』)]/1974年再文庫化[新潮文庫(野崎孝訳『偉大なるギャツビー』)・1989年改版(野崎孝訳『グレート・ギャツビー』)]/1978年再文庫化[旺文社文庫(橋本福夫訳『華麗なるギャツビー』)]/1978年再文庫化[集英社文庫(野崎孝訳『偉大なギャツビー』]/2006年新書化[中央公論新社・村上春樹翻訳ライブラリー(『グレート・ギャツビー』]/2009年再文庫化[光文社古典新訳文庫(小川高義訳『グレート・ギャツビー』)】[左]『愛蔵版グレート・ギャツビー』(2006/11 中央公論新社)/[右]『グレート・ギャツビー(村上春樹翻訳ライブラリー)』(2006/11 中央公論新社)(共に装幀・カバーイラスト:和田 誠


グレート・ギャツビー 新潮文庫im.jpg華麗なるギャツビー 1974  .jpg「華麗なるギャツビー」(1976年/米) 監督:ジャック・クレイトン、出演:ロバート・レッドフォード/ミア・ファロー /ブルース・ダーン/ サム・ウォーターストン/スコット・ウィルソン/ カレン・ブラック/ロイス・チャイルズ/パッツィ・ケンジット/ハワード・ダ・シルバ/ロバーツ・ブロッサム/キャスリン・リー・スコット

新潮文庫(野崎孝訳)映画タイアップ・カバー(レッドフォード版・ディカプリオ版)

グレート・ギャツビー 新潮文庫2.jpgグレート・ギャツビー 映画.jpg「華麗なるギャツビー」(2013年/米) 監督:バズ・ラーマン、出演:レオナルド・ディカプリオ/トビー・マグワイア/キャリー・マリガン/ジョエル・エドガートン/アイラ・フィッシャー/エリザベス・デビッキ

華麗なるギャツビー 2013 _1.jpg
  

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「平安朝後宮生活」のガイドブック。著者の清少納言に対する評価は高いように思えた。

平安朝の生活と文学 (ちくま学芸文庫).jpg平安朝の生活と文学.jpg  池田亀鑑.jpg  池田亀鑑(いけだ きかん、1896‐1956/享年60)
平安朝の生活と文学 (角川文庫 白 132-1)』 ['64年/角川文庫]
平安朝の生活と文学 (ちくま学芸文庫)['12年/ちくま学芸文庫]

 国文学者・池田亀鑑は平安朝文学の大家であったことで知られますが、東大の助教授から教授になるまでに21年かかり、58歳でやっと東大教授になったものの、その翌年亡くなっています。
 その間に立教大学の教授なども務めた時期もありましたが、文献学から入り、古典文学の脚注や現代語訳に携わる時間があまりに長かったためか(『源氏物語』『枕草子』などは個人で完訳している)、または考え方そのものが当初は傍系だったのか、母校の正教授になる時期が遅れた理由はよく判りません。

 本書は、平安朝文学の母体となった後宮生活の実態を、『源氏物語』『枕草子』などの当代作品を素材として概説したもので、「平安朝後宮生活」のガイドブックのようなものです。
 著者の没後に刊行された角川文庫版の定本となっているのは、'52(昭和27)年に河出書房の市民文庫の1冊として出されたもので、当時まだ、こうした後宮生活全般について書かれた本は世に無かったようです。

 平安京の様子、後宮の制度、女性の官位と殿舎、宮廷行事から公家たちの生活ぶりや、女性の一生がどのようなものであったか、服装美・容姿美・教養に対する考え方、生活と娯楽、医療・葬送・信仰まで、幅広く解説されていて、大家がこうした"概説書"を丁寧に書いているという点で、古典文学愛好家の間での評価は高いようです。
                                  
色好みの構造 ― 王朝文化の深層.jpg 最近、中村真一郎『色好みの構造』('85年/岩波新書)を面白く読みましたが、こうした本を読むにしても、平安朝の古典を読むにしても、一応、背景となる後宮生活の実態をある程度知っておいて損はないと思います。
 後宮生活に入る女性の動機が立身出世だったのに対し、清少納言のそれは「教養を高めるため」だったとか、興味深い記述がありましたが、全体としては、比較的地味な"概説書"で、結婚制度や妊娠・出産などについても書かれています。
 但し、「恋愛」とか「性愛」といったことには殆ど触れられておらず、意識的に"概説書"の域に留まることを旨として書かれているようです。

中村真一郎 『色好みの構造―王朝文化の深層 (岩波新書 黄版 319)

池田亀鑑 「枕草子」.jpg それでも専門家的立場からの私見が所々見られ、当時の後宮の女性は、やはり愛する人の正室となり添い遂げるごとが本望だったというのは、中村真一郎の『色好みの構造』の展開とは異なるものです。
 中村真一郎の池田亀鑑に対する評価がどうであるのかは判りませんが、作家によって書かれた『色好みの構造』も面白いけれども、むしろこちらの方が説得力あるようにも思えなくもないです。

 『色好みの構造』の中で、紫式部が、和泉式部は古典的教養にも理論的知識にも欠けるから、本物の歌人とは言えないだろうが「口から自然と歌が生まれてくる」タイプと評していることが紹介されていますが(部分的には"天然の才"を評価していることになる?)、本書では、紫式部は清少納言のことを「生学問」をふりかざす女と見ていたとあります(全面批判?)。
 しかし、紫式部から清少納言に贈られた歌への清少納言の返歌から、彼女が機知と教養を兼備していた女性であったことを、著者は推察しています(この辺り、著者は清少納言を高く評価しているように思える)。

      池田 亀鑑 『枕草子 (1955年) (アテネ文庫―古典解説シリーズ〈第14〉)』 弘文堂

【2012年文庫化[ちくま学芸文庫]】

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「色好み」を自ら体現したのは紫式部よりも清少納言、更にその上をいった和泉式部。

色好みの構造―王朝文化の深層.jpg 色好みの構造 ― 王朝文化の深層.jpg      中村真一郎.jpg 中村真一郎 (1918-1997/享年79)
色好みの構造―王朝文化の深層 (岩波新書 黄版 319)』['85年]

色好みの構造4.JPG タイトルからくるイメージとは異なり、かなりカッチリした内容の王朝文化論―、ではあるけれども、テーマが「色好み」であるだけに面白く読めました。
 
 著者によれば、平安朝における「色好み」という愛の形(性的習慣)は、今日から見ると、ほとんど特異で非常識なものであり、それは平安朝の生んだ愛の理想形であるとのことで、例えば、男が1人の女だけを盲目的に愛するのは、一種の病人でありモノマニアとして見られたとのこと。

 日本人の美意識は平安朝において完成し、以降は解体期であるとの見通しを著者は持っていて、平安朝の美意識を頂点とすれば、近世の「つきづきし」などもそのバリエーションに過ぎず、その美意識と不可分の関係にある「色好み」という"文明理想"は日本の伝統の根に潜み、今日でも我々の観念生活の中に残存しているかも知れないとのこと。

 しかし、「色好み」の頂点とされる『源氏物語』などの平安王朝文学を今日読み説くにあたっては、以降の儒教思想の影響、本居宣長の道徳的自然主義や明治期の日本的自然主義の影響などを経て、常に倫理観的なバイアスがかかったものにならざるを得なかったのではないかと。

 典型例が、光源氏が多数の女性に惹かれたのは「人間的弱さ」からであり、本来は1人の女性に対し貞節を守るべきだが、人間とは欲望に弱いものであり...とか、彼は1人1人の女性に対しては誠実だった...とかいったものですが、近代的感覚によって、光源氏の「色好み」の生活を現代の倫理観に調和させるのは無理があるというのが著者の主張です。

 著者によれば、平安期において「色好み」は隠しておきたい欠陥ではなく、1つの文明的価値であり美徳であったと。
 『源氏物語』の登場人物には実在のモデルが多くいて、それは当時週刊誌のように廻し読みされる「スキャンダル集」だったが、読者男女は、次は自分たちの秘事が暴かれるのではないか、この物語のモデルとなる名誉に浴したいものだ、という期待のもとに、新巻を待ち焦がれていたというのです。

 しかし、『紫式部日記』から察せられる紫式部自身の恋愛観は典型的な「色好み」とは言えず、むしろ、それを体現していたのは『枕草子』の清少納言だったというのが大変面白い指摘で、清少納言は相当な"発展家"だったみたい(作品においても、『枕草子』の「おかし」は『源氏物語』の「あわれ」よりも知的遊戯性の度合いが高いと著者は見る)。

 更にその上をいく「色好み」の女流は、『和泉式部日記』の和泉式部で、紫式部より遥かに気安く男性と付き合い、それを平然と人に見せびらかすとともに、清少納言のように色事の風情を楽しむだけでなく、いちいち相手に深入りし、情熱の燃え上がりを見せるというタイプだったらしいです。

 因みに、「色好み」の要件の第1は和歌の才能で、いかに優れた(凝った)恋歌が詠めるかということのようなので、ただ好色なだけではダメみたい。

  
 【2005年アンコール復刊[岩波新書]】

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ディベート方式の「歌合わせ」で、短歌の愉しみや特性がわかる。

短歌パラダイス.jpg 『短歌パラダイス―歌合二十四番勝負 (岩波新書)』 ['97年]小林 恭二.jpg 小林恭二 氏 (作家)

俳句という遊び―句会の空間.jpg俳句という愉しみ.jpg 楽しい句会記録『俳句という遊び』、『俳句という愉しみ』(共に岩波新書)の著者が、今度は、ベテランから若手まで20人の歌人を集めて短歌会を催した、その際の記録ですが、そのやり方が、室町時代を最後に今では一般には行われていない「歌合」の古式に倣ったものということです。歌合わせ自体がどのように行われ、どのようなバリエーションがあったのか詳細の全てが明らかではないらしいですが、本書でのスタイルは、ちょっと「ディベート」に似ていて面白かったです。

 『俳句という遊び―句会の空間 (岩波新書)』['91年] 『俳句という愉しみ―句会の醍醐味 (岩波新書)』['95年]

 2つのチームに分かれ、テーマ毎に詠まれた短歌の優劣を1対1で競い合うのですが、チーム内を、自ら歌を作って俎上に乗せる「方人(かたうど)」と、歌は出さずに弁護に回る「念人(おもいびと)」に分け、本来のプレーヤーである「方人」は批評には参加できず、一方、弁護人である「念人」は自分では歌を作らず、個人的に敵味方の歌をどう思おうと、とにかく自陣の歌が相手方のものより優れていることをアピールし、そして最後に、「判者」が勝負の判定を下すというもの。やっぱり、これは「ディベート」そのものではないかと。

 『俳句という遊び』の時と異なり、作者名は最初から明かされているのですが、面白いのは、思い余って作った本人が自分の歌を解説したりすると(「方人」は「念人」を兼ねることはできないので、これは本来はルール違反)、これが意外とエクスキューズが多くてつまらなく、弁護人である「念人」の自由な(勝手な?)解釈の方がずっと面白かったりする点であり、短歌という芸術の特性をよく表しているなあと。

 『俳句という遊び』の時と同様、2日がかりですが、2日目は3チームに分けて、チーム内でとりまとめをした上で作品を俎上に提出するなど、趣向を変えて競っています(1日目の方が、より「「ディベート」的ではあったが)。

 良い歌を作っても、それ以上の出来栄えの歌とぶつかれば勝てないわけで、ここでは、あの俵万智氏がその典型、著者も「運が悪い」と言ってます。(彼女は元々"題詠"が苦手なそうだが、この時作った歌「幾千の種子の眠りを覚まされて...」と「妻という安易ねたまし春の日の...」は、『チョコレート革命』('97年/河出書房新社)-これ、大半が不倫の歌だったと思うが-に収録されている。やはり、愛着があるのか)。短歌をそれほど知らない人でも、誰のどのような歌が彼女の歌に勝ったのか、見てみたいと思うのでは。

 一方、題が作者らに沿わないと良い歌が出揃わず、互いの相手方の歌に厳しい批評が飛びますが、それぞれが舌鋒鋭いものの、どこか遊びの中でのコミュニケーションとして、言う側も言われる側もそれを愉しんでいる(実際はピリピリした面もあるかと思うが、そうした緊張こそ愉しみにしている)という点では『俳句という遊び』と同じ「大人の世界」―。でも結局、負ける場合は、自陣の歌を褒める根拠が人によってバラバラになっていることが敗因となていることが多いのが、興味深いです。

 『俳句という遊び』に続いて、これまた"野球中継"風の著者の解説が楽しく、読み始めると一気に読み進んでしまう本ですが、だいぶ解ってきた頃に、「座」や「連衆」という概念に表される日本の芸術観の特性についての解説などがさらっ入っているのもいい。

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「俳句とは、詠む人間と読む人間がいて初めて俳句たりうる」―。確かに、と思わせる。

俳句という遊び―句会の空間.jpg 『俳句という遊び―句会の空間 (岩波新書)』['91年]  俳句という愉しみ.jpg  『俳句という愉しみ―句会の醍醐味 (岩波新書)』['95年]           

飯田龍太の時代.jpg 『俳句という遊び』は、飯田龍太(1920‐2007)ら8人の俳人が会した句会の記録で、句会どころか俳句自体が個人的にはあまり馴染みのない世界であるにも関わらず(メンバーの中でも名前を知っているのは高橋睦郎ぐらい)、著者(作家の小林恭二氏)の軽妙な導きのお陰で、読んでいる間中ずっと楽しめました(自ら"野球中継"に喩えていますが、ホントそんな感じ。或いは、将棋のユーモラスな盤解説みたいな感じも)。

飯田龍太の時代―山廬永訣 (現代詩手帖特集版)』 ['07年]

 俳句は17文字しか使えないだけに、様々な決め事があるのでしょうが、そうした俳句に関する細かい知識が殆どなくとも十分に楽しめ、むしろ、17文字しかないだけに、俳人たちの一語一句に込める思いの深さに感嘆させられます(メンバーの批評や著者の解説を読んで、初めてナルホドと思うのだが)。

 ただ、本人の思い入れとは別に、一旦作者の手を離れると、同じ句でも、「なんだ、これ」と首を傾げる人も入れば、作者以上に(?)鋭い読みをして絶賛したりする人もいたりするのが面白いです。
 「正選」と併せて「逆選」もしているので、句会のメンバーから酷評され、著者も「何ら意味がない」「あえなく撃沈」みたいに書いている句もありますが、そうした中にも嫌味がなく、大人のコミュニケーションだなあという感じ。
 作者は、論評が終わった後に名乗るシステムで、「この句はここが弱い」とか言ってる評者が、実はその作者だったりするのもおかしい。
 俳句とは、こうしたコミュニケーションの文学なのだ―、そういうことを、知らず知らずのうちに理解させてくれる本でもあります。

 それでも、2日がかりで8人の俳人が評点の累計を競っているだけに、終わった後は、皆、疲れた〜という感じ(やはり、そうだろうなあ)。
 なのにこれに懲りず、新書本にすることを前提に、多少メンバーを入れ替えて、何年か後にもう1度句会をやっています(こちらは、『俳句という愉しみ』に収録)。

 1冊目の『俳句という遊び』の方の句会は、飯田龍太を求心力として催されている感じもするのに対し、2冊目の『俳句という愉しみ』は、飯田が抜け、物理学者で元東大総長の有馬朗人らの俳人、或いは歌人などが加わって、よりオープンな感じ。でも、有馬朗人にしてもそうですが、1冊目の飯田龍太にしても、上座に鎮座しているような雰囲気は全然なく、どちらも飄々としたいい感じで、そうしたものが全体の「座」のムードを楽しくしています。

 「俳句とは、詠む人間と読む人間がいて初めて俳句たりうる」(『俳句という愉しみ』(144p))―。確かに、と思わせるものがありました。

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『北回帰線』についての着眼点などがいい。もっと作品数を絞ってもよかった。

アメリカ文学のレッスン.jpgアメリカ文学のレッスン2.gif 『アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)』 ['00年] 北回帰線.jpg ヘンリー・ミラー 『北回帰線』

 アメリカ文学作品の紹介や翻訳で定評のある著者が、「名前」「幽霊の正体」「建てる」といった鍵言葉を設定し、その言葉から思いつく作品をいくつか挙げて解説したもので、「強引に三題噺的結びつけて語った」と前口上にあるように、キーワードからランダムに作品を拾いながら、アメリカ文学の全体像が何となく浮かび上がれば、といった感じの試みでしょうか。

 気楽に読めるけれども、それぞれの分析は鋭く新鮮で、著者自身は、1つ1つの作品について述べていることは研究者の間ではそれほど目新しいことではないと謙遜していますが、著者なりの作品評価も窺えて興味深かったです。

 但し、対象となる「アメリカ文学」と言ってもその幅が広く、メルヴィル、ヘンリー・ジェイムズ、エドガー・ポーなどから現代作家まで幅広く抽出していて、日本文学で言えば、江戸近世文学から村上春樹まで扱っているようなもので、その部分での散漫さは否めないような気もし、「破滅」「組織」「勤労」といった抽象概念をキーワードに多く選んでいるのも、少しキツイ。

 1つのキーワードについて、例えば、「食べる」であれば、ヘンリー・ミラーの『北回帰線』とカーヴァーの『ささやかだけれど、役にたつこと』に殆ど費やしていて、一方で、項によっては、並列的に幾つもの作品を取り上げている箇所もあり、この辺りも、方法論的にこれで良かったのか(著者自身は、型を気にせず楽しみながら書いている感じだが)。

 結局、個人的には、「性の世界」を描いたと思われている『北回帰線』が、ミーラー自身を模した主人公の視点で眺めると、「食べること」に固執した作品と見なすことができるという論が、意外性もあり、また、よく検証されている分、最も印象に残り、同じ項のカーヴァーの作品で、子供を交通事故で亡くした両親にパン屋がパンを食べさせる話を通して、「食べること」が持つ救いを示していることを解説した部分も、紹介の仕方が旨く、印象に残りました。

 大体、各項これぐらいに作品数を絞って、作品ごとにもっとじっくり解説した方が良かったのでは。

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国境の「駆け落ち婚」の村は、今や結婚産業の町。イギリスという国の複雑さ感じさせる面も。

イギリス式結婚狂騒曲.jpg 『イギリス式結婚狂騒曲―駆け落ちは馬車に乗って (中公新書)』 プライドと偏見.jpg 映画「プライドと偏見」('05年/英)
グレトナ・グリーン.jpgGretna Green 鍛冶屋.jpg 本書によれば、18世紀イングランドでは、婚姻が成立する要件として、父母の同意や教会の牧師の前における儀式などが必要とされ、一方、隣地スコットランドでは、当事者の合意のみで成立するとされていたため、イングランドの恋人同士が結婚について親からの同意が得られそうもない場合に、イングランドからスコットランドに入ってすぐの場所にあるグレトナ・グリーン(Gretna Green)村の鍛冶屋で結婚式を挙げ、形だけでも同衾して、婚姻証明書を取得し夫婦になるという駆け落ち婚が行われたとのことで、これをグレトナ・グリーン婚と言うそうです。[写真:グレトナ・グリーンの「鍛冶屋」

Gretna Green3.jpgGretna Green.jpg  「式を挙げてしまえば勝ち」みたいなのも凄いですが、そうはさせまいと親が放った追っ手が迫る―などという状況がスリリングで、オペラや演劇の題材にもなり、19世紀まで結構こうした駆け落ち婚はあったようで、また20世紀に入ってからは、このグレトナ・グリーンは、そうした歴史から結婚産業の町となり(「鍛冶屋」と「ホテル」の本家争いの話が、商魂逞しくて面白い)、今も、多くのカップルがこの地で式を挙げるとのこと。[写真: グレトナ・グリーンのポスター写真

 グレトナ・グリーン婚にまつわる話が、近年映画化されたオースティンの『高慢と偏見』("Pride and Prejudice")などのイギリス文学や、ハーレクイン系のロマンス小説のモチーフとして、当時から今に至るまで度々登場することを著者は紹介していますが、女性が憧れるのが制服の似合う「士官タイプ」の美男子という具合にパターン化しているのが可笑しく、女性の方は金持ちの令嬢だったりし、何頭建てかの馬車を誂えて彼の地へ向かうわけで、日本の駆け落ちとはかなりイメージ差がある?

On the Way to Gretna Green.jpg 但し、『高慢と偏見』で駆け落ち婚を図る五女リディアは、旅費にも事欠く様であり、結局、彼女の駆け落ち婚は未遂に終わるのですが...(この作品の主人公は、映画でキーラ・ナイトレイが演じた次女エリザベスということになるのか。この家の姉妹が皆、将校好きなのが可笑しい)。

 あのダイアナ王妃も、こうしたロマンス小説(オースティンではなくハーレクイン系の方)を耽読したそうで、また、アメリカのロマンス小説にも『グレトナ・グリーンへの道』というのがあるとのこと。

小さな恋のメロディ.jpg  実際に今の時代に、そんな故事に憧れこの地で式を挙げる女性なんて、通俗ロマンス小説にどっぷり浸ったタイプかと思いきや、グレトナ・グリーンの「鍛冶屋」や「ホテル」を訪れるカップルは、自分たちの結婚が「恋愛結婚」であることの証しをその地に求めているようであり、まだまだイギリスでは、結婚は家と家がするものという古いイメージが残っているということなのでしょうか(映画「小さな恋のメロディ」('71年/英)なども、そうしたものからの自由を求める系譜にあるらしい)。

  また、北アイルランドのベルファストを舞台に、それぞれカトリックとプロテスタントの家の出の恋人同士が駆け落ちする小説『ふたりの世界』('73年)が紹介されていますが、この2人が式を挙げるのがグレトナ・グリーン。イギリスという国の複雑さを感じさせるものがありました。

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著者と「同時代に同じ空気を吸っていた」先人たちの軌跡を通して、その「考える」スタイルを考察。

考える人.jpg 『考える人』 ['06年] 考える人 坪内祐三.jpg 「考える人 (新潮文庫)」 ['09年]

 '02年の季刊誌「考える人」創刊に際して、著者が編集者から「考える人」という連載を頼まれたというのが事の始まりで、以降5年間16回の連載を纏めたのが本書。

小林秀雄.jpg 著者が選んだ「考える人」16人は、小林秀雄、田中小実昌、中野重治、武田百合子、唐木順三、神谷美恵子、長谷川四郎、森有正、深代惇郎、幸田文、植草甚一、吉田健一、色川武大、吉行淳之介、須賀敦子、福田恆存となっていて(作家または文芸評論家ということになる)、著者なりに、これらの先人たちの軌跡を通して、彼らの「考える」スタイルを考察しているといったところでしょうか。

小林 秀雄 (1902-1983)

福田恆存.png 小林秀雄と福田恆存を最初と最後にもってきていることで、人選の性格づけがある程度窺える一方、中身はバラエティに富み、(植草甚一が「歩きながら考える人」であるというのは衆目の一致するところだが)武田百合子のような天性の人は、「見る人」であって「考える人」というイメージから外れるような気もしましたが、読んでみて納得、こうして見ると「考える」ということを既成の枠にとらわれず、むしろ自身の読書経験の流れにおいて、自らの思索と関わりの深かった人を取りあげているようでもあります。

福田 恆存 (1912-1994)

唐木順三.jpg それは、1958年生まれの著者が読書体験に嵌まった時分には在命していて、今は故人となっているというのが、もう1つの人選基準になっていることでも窺えますが(後書きには「同時代に同じ空気を吸っていた人たち」とある)、結構、そのころの受験国語で取りあげられていた人が多いのも興味深く、小林秀雄、唐木順三、深代惇郎(天声人語)などは、著者と同世代の人は何度かその書いたものに遭遇しているはずです(吉行淳之介にエッセイから入っていったなどというのも世代を感じる)。

唐木 順三 (1904-1980)

田中小実昌2.jpg色川武大.jpg 田中小実昌と色川武大の近似と相違など、誰か論じる人はいないかなあと思っていたのですが(著者は編集者時代にまさに生身のその2人とその場にいたわけなのだが)、見事にそれをやっているし、吉行淳之介と芥川龍之介の対比なども面白かったです(この中で三島由紀夫が「考えない人」に分類されているのも、ある意味当たっていると思った)。

田中小実昌 (1925-2000)/色川 武大 (1929-1989)

 季刊でありながら執筆に苦労したようで、締め切りギリギリまで作品を読みふけり、あとは思考の赴くまま筆を運んでいる感じもありますが、
 ―その軌跡そのものがすなわち「考えること」のあり方であり、私の好きな「考える人」たちは皆そのような意味で「考える人」であったはずなのだから
 とし、単行本化にあたって殆ど手直しはしなかったとのこと。こうした姿勢は好ましく思えました(時間が無かっただけかも知れないが)。

 【2009年文庫化[新潮文庫]】

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その書き方をしたときの作家の意識のありようを追うという方法論。

小説の読み書き.jpg 『小説の読み書き (岩波新書)』 ['06年]  考える人.jpg 坪内 祐三 『考える人』['06年]

 作家である著者が、岩波書店の月刊誌「図書」に'04年1月号から'05年12月号まで24回にわたって連載した「書く読書」というエッセイを新書に纏めたもの。

 編集者の方から持ち込まれた企画で、著者自身は、原則、自分が若い頃に好きで読んだ小説を、いま中年の目で読み返して何か書く、という大雑把なスタンスで臨んだらしいですが、とり上げている作品が、「雪国」「暗夜行路」「雁」「つゆのあとさき」「こころ」「銀の匙」...と続くので、何だか岩波文庫のロングセラー作品を追っているような感じも...(実際、「読者が選ぶ〈私の好きな岩波文庫〉」というアンケートを、途中、参照したりしている)。

 そこで、文庫本の後ろにある解説みたいなのが続くのかなと思って読んだら、確かに作品の読み解きではあるけれども、その方法論に一本筋が通っていて、なかなか面白かったです。

 作品の中の特徴的な文体にこだわり、作中の文章一節、短いものでは1行だけ抜き出して、そうした書き方をしたときの作家の意識のありようのようなものを執拗に追っていて、その時、書き手が大家であるということはとりあえず脇に置いといて、著者自身が作家として小説を書く作業に臨むときの意識と照らし合わせながら、どうしてその時代、その時々にそうした文章表現を作家たちが用いたのかを探っています。

 実際、新書の表紙見返しの概説でも、「近代日本文学の大家たちの作品を丹念に読み解きながら、『小説家の書き方』を小説家の視点から考える。読むことが書くことに近づき、小説の魅力が倍増するユニークな文章読本」とあったことに、後から気づいたのですが、確かに、こうした方法論が、別の視点からの小説の楽しみ方を教えてくれることに繋がっているかも。

 前後して、坪内祐三氏の作家・評論家論集『考える人』('06年/新潮社)を読みましたが、坪内氏が1958年生まれ、著者(佐藤正午氏)は'55年生まれと、比較的年齢が近く(とり上げている作家では、吉行淳之介、幸田文がダブっていた)、この2著の共通するところは、考えの赴くままに書いているという点でしょうか。

 とりわけ、この著者は、知ったかぶりせず、読書感想文に近いタッチで書いていて、むしろ、"知らなかったぶり"をしているのではないかと勘ぐりたくなるぐらいですが、実際、知識不足から誤読したものを読者に訂正されていて(本当に知らなかったということか)、それを明かしながらもそのまま新書に載せている、こうした姿勢は共感を持てました。

《読書MEMO》
●目次
川端康成 『雪国』
志賀直哉 『暗夜行路』
雁 新潮文庫.jpg森鴎外 『雁』
永井荷風 『つゆのあとさき』
夏目漱石 『こころ』
銀の匙.jpg中勘助 『銀の匙』
樋口一葉 『たけくらべ』
豊饒の海.jpg三島由紀夫 『豊饒の海』
青べか物語1.jpg山本周五郎 『青ベか物語』
林芙美子 『放浪記』
井伏鱒二 『山椒魚』
人間失格.jpg太宰治 『人間失格』
横光利一 『機械』
織田作之助 『夫婦善哉』
芥川龍之介 『鼻』
菊池寛 『形』
痴人の愛.jpg谷崎潤一郎 『痴人の愛』
松本清張 『潜在光景』
武者小路実篤 『友情』
田山花袋 『蒲団』
幸田文 『流れる』
結城昌治 『夜の終る時』
開高健 『夏の闇』
吉行淳之介 『技巧的生活』
佐藤正午 『取り扱い注意』
あとがき

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手頃かつ感動的? 一葉に限らず、禿木、鷗外、露伴、緑雨も若かったのだと再認識。

ちびまる子ちゃんの樋口一葉2.jpg 『ちびまる子ちゃんの樋口一葉 (満点人物伝)』 〔'04年〕

一葉の四季.jpgトルコで私も考えた.jpg 漫画による樋口一葉の評伝で、冒頭や合間の解説にこのシリーズのキャラクターとしての「ちびまる子ちゃん」が登場しますが、メインである一葉の生涯のストーリー部分は、『トルコで私も考えた』高橋由佳利氏が描き、『一葉の四季』森まゆみ氏(作家・東京国際大教授)が全体の監修をしている、楽しみながら読めて一葉の生涯を辿るのに手頃な1冊。

 貧しい生活の中でも目標を失わず努力し、女性の職業選択の幅が狭かった時代に女流作家の道を切り拓いた彼女の真摯な生き様が、感動を以ってしっかり伝わってくるし、彼女をとりまく人たちの人物像も印象的でした。
 とりわけ、"なつ"(一葉)の才能を信じて地道に彼女を助ける妹"くに"の姉想いぶりや、一葉が病に倒れた際にその妹"くに"に斎藤緑雨が、お姉さんは「必ず歴史に名を残す」、だから万一の時も、書き残したものを捨てないようにと言うクダリはいいなあ。
 一葉の日記まで残っているのは、この2人の尽力の賜物かも(一葉が亡くなる前までに刊行されていた彼女の単行本は、生活費のために書いた手紙範例集『通俗書簡文』だけだった)。

 高橋氏の漫画は、『トルコで...』のような漫画家が自分の身近な話のときによく用いる"戯画調"(ああいうの、何と呼ぶのだろうか)ではなく、正統派に近い所謂"少女漫画風"で、一葉が思いを寄せた半井桃水が登場した場面では、「あんた、レオナルド・デカプリオか」と突っ込みを入れたくなる感じの美青年風の描き方。
 でも、「東京朝日新聞」の専属小説家として鳴らしていた桃水は当時31歳で、19歳の一葉から見ても、確かにその若さも含め魅力的だったのかも。

斎藤緑雨.jpg 他にも、一葉の周辺に主要人物が登場する度にその時の年齢が示されていて、「文学界」に書いて欲しいと平田禿木が一葉を勧誘したとき彼は20歳、「たけくらべ」が世に出て森鷗外や幸田露伴といった文壇の"重鎮"がそれを高く評価しますが、彼らにしてもその時はそれぞれ34歳と29歳、一葉文学の本質を「熱い涙のあとの冷笑」と見抜いた斎藤緑雨も当時29歳といったように、一葉だけでなく、その周辺の人たちも若かったのだなあと思いました。
斎藤緑雨 (1868-1904)

 緑雨は、森鴎外が創刊した文芸雑誌「めさまし草」の中で鴎外・露伴・緑雨の3人が評者として書いた合評欄「三人冗語」の中に、「(広い宇宙といっても間違いないものがふたつある)我が恋と、天気予報の『ところにより雨』」なんていう面白いフレーズがあったりする人ですが、この人も36歳で病のため早逝しています。

 "おさらい"のつもりに読んだ「学習漫画」でしたが、新たに気づかされた点が結構ありました。

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一葉研究の第一人者がわかりやすく解説。美登利が寝込んだ理由は...。

樋口一葉.jpg 『樋口一葉 (岩波ジュニア新書)』 〔'04年〕  一葉の四季.jpg 森 まゆみ 『一葉の四季 (岩波新書)

 森まゆみ氏の『一葉の四季』('01年/岩波新書)も、第1章が樋口一葉の生涯を解説したものでしたが、もう少し一葉のことを知りたく本書を手にしました。
 著者の関礼子氏は一葉研究の当代の第一人者で、その人が中高校生向けに書き下ろしたのが本書ですが、「薄幸」と「厚遇」という矛盾した評価が併存するこの作家のプロフィールを出来るだけ正確に描くこと、また、一葉が書いた日記・小説・手紙・和歌などを生き生きと読者に伝えることを趣意としています(関氏には『樋口一葉日記・書簡集』('05年/ちくま文庫)などの解説著書もあるが、本書はジュニア向けなので、極めてわかりやすく書かれている)。

 個人的には新たに知ったことが多くて面白く、森氏や関氏の著作を読む前は、森鷗外に認められて一躍有名になったと思っていたのですが、私塾「荻の舎」時代から先輩の田辺花圃に認められて激励され(花圃女史のことは森氏の本では一葉の才能に嫉妬していたように書かれていたが)、平田禿木から「文学界」グループに強く勧誘されこれがメディアデビューの契機となり、「にごりえ」を最も絶賛したのは内田魯庵だったということで、短い期間ながらもその間一応のステップを踏んでいるわけだ(ハナから鷗外が出てくるワケ無かったか)。

斎藤緑雨2.png 彼女をある意味最もバックアップしたのは、生前の彼女に対し厳しくその作品を批評した斎藤緑雨で、彼女の死後、全集の編集役として渾身の力を注いでいます(森氏は、一葉が結核で倒れなかったら、2人は一緒になってもおかしくなかった、と書いている)。

斎藤緑雨 (1868-1904/享年36)
                    
下谷龍泉寺町の住居であった二軒長屋.jpg 小学校を中退し、私塾で学んで、高等女学校卒の才媛作家たちを凌駕した一葉は、塾から出たスーパースターのような感じですが(森氏の本には、当時、公的教育より私塾の方がレベル高かったとある)、関氏が言うように、高等女学校に行っていたら逆に平凡な作家で終わっていたかも。
 短い期間ではありましたが、吉原の裏手・龍泉寺町で自ら店を切り盛りするなどの苦労をしたから、「たけくらべ」などの傑作を生み出せたのでしょう。

下谷龍泉寺町の住居だった二軒長屋(模型:一葉記念館)

 その「たけくらべ」は、関氏も一葉の作品の中で最も高く評価していますが、よく議論になる、美登利が寝込んで正太に対し不機嫌になる場面が「初潮」によるものなのか「初夜(水揚げ)」(遊女が初めて客と関係すること)によるものか、それとも「初店」(遊女として店に出て客をとること)のためかという点について、「初潮」と「初夜」を一続きのもの(つまり両方である?)と解釈した長谷川時雨の説をとっているのが注目されます(遊女として店に出られるのは16歳からで、数え14歳の彼女が公然と営業することは考えらないとのこと。だから、内密に...ということか)。
 これ、「ジュニア新書」だけれども、なかなか現代の感覚ではすぐに思いつかいない部分があります。

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一葉日記に現れた明治の季節感を通して味わいながら読める評伝。

一葉の四季.jpg 『一葉の四季 (岩波新書)』 〔'01年〕  樋口一葉p.png 樋口一葉 (1872-1896/享年24)

 地域雑誌「谷中・根津・千駄木」の編集人で作家・エッセイストでもある著者が、樋口一葉の日記や周囲の人の証言などから、彼女の人となりを、当時の東京の四季の情景と併せて浮かびあがらせたもので、全3章を通して1項目2ページの見開きで構成されていて、読みやすいものとなっています。

 第1章で、一葉が暮らした土地など東京の彼女の馴染みの地を巡ることでその生涯を振り返り、第2章で、彼女の日記から季節に関するテーマを拾って四季の順に並べ、折々に彼女が感じたり思ったりしたことを、当時の彼女の暮らしぶりや江戸情緒の残る季節風物と併せて取り上げています。
 この「明治の東京歳時記」と題された第2章がメインですが、3章では、一葉をとりまいた文人たちを取り上げて一葉との接点を探り、全体として、味わいながら読める一葉の評伝となっています。

 一葉の日記は死の直前まで書かれましたが(最初の記述は一葉15歳のときのもの)、本書では明治20年代半ば、彼女が二十歳前後の頃のものが多く取り上げられていて、季節風物に対する彼女の繊細な感興は、明治の時代に現れた和泉式部か清少納言かと言った感じ、但し、実際の彼女の暮らしぶりは、極貧とまではいかなくとも慎ましやかで、そうした雅の世界とは程遠かったようです。

 むしろ江戸時代の庶民のものからの連続した生活情景だった言えますが、近代化に向けた時代の変遷期でありながら、東京の下町にはまだまだ江戸情緒が多く残っていたようで、そうした中、彼女自身は、生活に埋没しそうになりながらも文学への志を常に保って研鑽を怠らず、また、新聞などをよく読み、時事的な話題への関心が高かったが窺えます。

半井桃水.jpg 一方で、半井桃水に対する女性らしい思慕が、桃水と会う際の浮き足立った様子などからよく伝わってくる。
 その桃水は、実は面食い男で(一葉もいい男好きなのだが)、一葉の求愛を素直に受け容れられなかったという証言が3章に記されていて、ちょっと一葉が可哀想になった―。

半井桃水(1860-1926/享年65)

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「●岩波新書」の インデックッスへ 「●た 太宰 治」の インデックッスへ

太宰"再入門"の試み。読み易く、作品の魅力、味わい処をよく示している。

太宰 治78.JPG太宰治3.jpg太宰治2.jpg     Dazai_Osamu.jpg 太宰 治(1909‐48/享年38)
太宰治 (岩波新書)』〔'98年初版/復刊版〕

 「再入門への招待」と帯にあったように、社会生活に追われ「今さら文学など」という大人のための、太宰文学に対する"再入門"の試みが本書のコンセプトで、個人的にも、「太宰は卒業するもの」という考えはおかしいのではという思いがあり、本書を読みました。

 前期・中期・後期の太宰作品(長編と主要な中・短篇)をかなりの数ととり上げ平易に解説していて、その分入門書にありがちな突っ込みの浅さを指摘する評を見かけたことがありましたが、個人的には必ずしもそう思わず、それぞれの作品の魅力、味わい処をよく示しているのではないかと(冒頭の『たづねびと』の解説などは秀逸)。

 「作品と作者を混同してはならない」とはよく言われることですが、著者はそれぞれの作品と、それを書いたときの太宰の状況を敢えて照合させようとしているようで、太宰の場合、意図的に作品の中に自分らしき人物を登場させたり、「自分」的なものを忍ばせていたりしているケースが多いので、そうした禁忌に囚われない著者のアプローチ方法で良いのではないかと思った次第です。

 後期の作品は、作者が心理的に追い詰められている重苦しいイメージが付きまといがちですが、実際読んでみるとユーモアに満ちた描写が多く、また、その背後に人間に対する鋭い洞察がある―、また、太宰自身が理想とした人間像のブレ(家庭に対する屈折した憧憬など)が本書で指摘されていますが、中村光夫なども「自負心・自己主張の弱さ」という言い方で同じような指摘をしていたなあ。

 但し、中村光夫は、太宰が「嘘」を書くことで逆説的に自信を獲得したとしながらも、晩年の作品は戦前の作品に及ばないものが大部分であるとしていましたが、著者は、晩年の作品も中期の作品と同等に評価しているようで、こちらの方が納得できました。

 太宰の"道化的"ユーモアを突き詰めていくと、対他存在・対自存在といった実存的なテーマになっていくのだろうけれど、そこまで踏み込んではいないのは(匂わせてはいるが)、やはり入門書であるための敢えてのことなのか。

「●ほ 保坂 和志」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【619】 保坂 和志 『生きる歓び
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「何も起こらない小説」。保坂流「小説のルール」がよく体現された作品。

草の上の朝食.jpg草の上の朝食 (中公文庫)』 〔'00年〕  書きあぐねている人のための小説入門.png 『書きあぐねている人のための小説入門』 〔'03年〕

プレーンソング.jpg 1993(平成5)年・第15回「野間文芸新人賞」受賞作。

 作者のデビュー作『プレーンソング』('90年/講談社)の続編で、前作同様、「ぼく」と4人の仲間(お調子者のアキラ、撮影マニアのゴンタ、会社経営をしていたとかいう島田、野良猫の餌やりが日課のよう子)のアパートでの共同生活の日常が淡々と描かれていて、「ぼく」の競馬仲間で、あまり物を深く考えない石山さん、競馬の中に自らの世界観を注入してしまったような感じの三谷さんなどの登場人物も同じ。
プレーンソング (中公文庫)』 〔'00年〕

 会話を通してのこれらユニークなキャラクターの描き方が丁寧で(「創作ノート」によると3回ぐらい全編にわたって書き直されている)、また面白くもあり、「ぼく」が工藤さんという年上の女性と恋人関係のようなものに至ることのほかには、さほどたいした出来事もなく、ぷっつり話は終わってしまうのですが、そのことにもあまり不満は感じませんでした。

 もともと作者は、ここ10年流行った「何も起こらない小説」の先駆者みたいな人ですが、同著者の『書きあぐねている人のための小説入門』('03年/草思社)によれば、「テーマはかえって小説の運動を妨げる」(60p)、「代わりにルールを作る」(64p)等々が述べられていて、『ブレーンソング』での第1ルールは、「悲しいことは起きない話にする」、第2ルールは、「比喩を使わない」「作品を仕上げる都合だけで、よく知らないものや土地を出さない」(68p)ということだったそうで、「社会にある問題を後追いしない」(不登校・老人介護・環境保護・リストラなど)(74p)、「ネガティブな人間を描かない」(83p)ことが作者の信条だそうですが、本作は前作以上にこの基本ルールが踏襲されている感じがしました。

 「ぼく」が初めて工藤さんを仲間に紹介する場面が良かったです。み〜んないい人って感じで、「ぼく」にとって工藤さんは「外」の人で、4人は「中」の人という感じがしました(だから、恋愛小説にはなっていないのでは)。
 でも、この小説での「いい人」って何だろうで考えると、相手の存在を認めつつも相手に過度の干渉をしないというか、こうした異価許容性のようなものを彼らは持ち得てるように思え、無視はしない(関心を示してくれる)が決して邪魔もしない、そうした人間関係が描かれている点が、今の若い読者に心地良い読後感を与えることにつながっているのでは。
 逆に、ぬるま湯的で性に合わないという人も多くいるだろうけれど、時代設定は'80年代後半でバブル景気に入った頃のはずで、こうしたモラトリアム的というか、ノンシャランな生活をしていても、引きこもりだ、ニートだと世間から言われることがなかったんでしょうね。
 だから、登場人物たちは、聖書やニーチェの話をする、つまり、「世間」ではなく「世界」が思考対象となっているのだと思いました。

 登場人物のうち男性はモデルがいるけれど、女性はほとんど創作らしく、電話友達のゆみ子が「よう子ちゃんは未来なのよ」と言うくだりは、創作が嵩じてやや"作品解説的"な感じがしました。
 こういう"ヒント"から自分なりに作品の背後の世界観を読み取ってもいいけれど、個人的には、ただ味わうだけでもいいかも、と思いました。 

 【1996年文庫化[講談社文庫(『プレーンソング・草の上の朝食』)]/2000年再文庫化[中公文庫]】

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著者の『濹東綺譚』への思い入れが伝わってくる文芸評論的エッセイ。

安岡 章太郎 『私の濹東綺譚』.jpg私の 東綺譚.jpg  ぼく東綺譚.jpg
『私の濹東綺譚』(1999/06 新潮社)/『私の濹東綺譚』新潮文庫〔'03年〕/永井荷風『濹東綺譚』新潮文庫

 安岡章太郎が永井荷風の『濹東綺譚』への想いを込めて書き綴った文芸評論的エッセイで、'97年から'98年にかけて「Web新潮」に連載されたものを単行本化したもの。

「墨東綺譚」の挿画(木村荘八).jpg 横光利一の『旅愁』の毎日新聞での連載がスタートしたのが昭和12年4月13日で、永井荷風の『濹東綺譚』は、その3日後に朝日新聞での連載が始まったのですが(作者自身は前年に脱稿していた)、鳴り物入りで連載スタートしたヨーロッパ紀行小説『旅愁』(挿画は藤田嗣治)が、玉の井の私娼屈を舞台にした『濹東綺譚』(挿画は木村荘八)の連載が始まるや立場が逆転し、読者も評論家も『濹東綺譚』の方を支持したというのが面白かったです(荷風にしても、欧米滞在経験があり、この作品以前に『ふらんす物語』『あめりか物語』を書いているわけですが)。横光は新聞社に『旅愁』の連載中断を申し入れたそうですが、これは事実上の敗北宣言でしょう。

朝日新聞連載の『濹東綺譚』の挿画(木村荘八).

 『濹東綺譚』連載時、安岡章太郎はまだ中学生で、初めてこの作品を読んだのが二十歳の時だったそうですが、安岡の資質から来るこの作品への親近感とは別に、安岡にとってこの作品が浅からぬ因縁のあるものであることがわかりました。

 『濹東綺譚』の〈お雪〉のモデル実在説に真っ向から反駁しているのが作家らしく(モデルがいたから書けたという、小説とはそんな単純なものではないということか)、なぜ玉の井を舞台にした作品は書いたのに吉原を舞台にした作品は書かなかったのか(荷風は吉原の"取材"は精力的にしていた)、『濹東綺譚』の最後にある「作者贅言」の成り立ちやその意味は?といった考察は興味深いものでした。

 挿入されている新聞連載時の木村荘八の挿画や当時の玉の井界隈の写真などが、何か懐かしさのようなものを誘うのもいいです。

 【2003年文庫化[新潮文庫]】

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古今の小説をファッション、フード、ホテル、音楽、車など商品情報をから読み解く。

文学的商品学.jpg 『文学的商品学』 (2004/02 紀伊国屋書店) 文学的商品学2.jpg 文春文庫 ['08年]

 「アパレル泣かせの青春小説」「ファッション音痴の風俗小説」というように文学作品を、ファッション、フード、ホテル、音楽、車などの商品情報をから読み解いてみようという試み。

 紅葉、鴎外、漱石から村上春樹、江國香織、川上弘美まで比較的馴染みの作家の作品が取り上げられていて、どのような商品が描かれているかということより、それをどのように描いているかということに重きが置かれています。
 
 石原慎太郎、大江健三郎、庄司薫など'50年代から'60年代にかけての、もうどんなふうに書かれていたか忘れたような作品も多く顧みられていて、近年の流行作家も含め、風俗などを丹念に描いていそうで実は何も描いてなかったりとか、一見お洒落っぽくて実は通俗だったりとかがわかり、その意外性が面白かったです。 
 こうしてみると、やはり谷崎や三島というのは、細かな描写がしっかりしているなあ(時にクドい感じもするけれど)。

 「野球小説」や「貧乏小説」という括りになると、「商品学」という観点からは外れるような気もしますが、山際淳司の文章への著者の思い入れを感じられたり、「私小説」として描かれる「貧乏小説」と「プロレタリア文学」の違いがわかったりして、この2章が一番面白かったです。 

 著者の『妊娠小説』('94年/筑摩書房)以来10年ぶりの"文芸評論"ということですが、確かにその間著者は、アニメ論や女性史、作家論の方へ傾斜していたかもしれないけれど、それらの中にも"文芸評論"的要素はあったし、今回は作家の表現にこだわったということならば、『文章読本さん江』('02年/筑摩書房)もその類でしょう。

 せっかく「古今」の小説をとりあげて対比しているのに、「単行本」化に5年かかって(文庫化ならまだしも)、「今」の方の作品すら書店から消えかけているのが少しつらかったです。

 【2008年文庫化[文春文庫]】

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「文壇アイドル」の育成に及ぼす文芸評論や出版ジャーナリズムの力も大きいと感じた。

文壇アイドル論.jpg 『文壇アイドル論』 (2002/06 岩波書店) 文壇アイドル論2.jpg 文春文庫 〔'06年〕

 第1章「文学バブルの風景」で村上春樹、俵万智、吉本ばなな、第2章「オンナの時代の選択」で林真理子、上野千鶴子、第3章「知と教養のコンビニ化」で立花隆、村上龍、田中康夫の計8人をとり上げ、彼らが80年代から90年代を中心にいかにしてマスコミの寵児となったか、「アイドルのアイドルたるゆえん」を、読者、ジャーナリズムを含めた視座から探っています。

 村上春樹、俵万智、吉本ばななを共通項で捉え、林真理子と上野千鶴子、立花隆と村上龍はそれぞれ対立項で捉えている感じがしました(林真理子と上野千鶴子は例の「アグネス論争」で対立した)。
 また村上春樹のところでは村上龍との「両村上比較論」についても触れていますが、著者自身はこの比較論がある種のフィクションであるとしていて、本書が「作家論」と言うより《「作家論」論》に近いものであることが最もよく出ている部分です。 
 そして田中康夫について著者はどうかと見ているかというと、それまで取り上げた作家とはちょっと違うようで...。

 「アイドル」たちのデビュー当時の彼らに対する評論がよく整理・分析されています。 
 書き手は読者あってなんぼのものでしょうけれど、「アイドル」の育成に文芸評論の力も大きいと感じました。 
 大御所が気恥ずかしくなるような大仰な"洞察"でヨイショしているのもあれば、思考停止状態のミーハーに過ぎなくなっているものもあります。 
 むしろ彼らはその時、自分で考えているつもりでも意識せず時代のムードに流されていたのかも知れない。 
 一方で著者は、中堅評論家などの、当時それほど注目されなかった冷静な(主に批判的で現在の彼らの作品にも通ずる)指摘も丹念に拾っています。

 まあ、「アイドル」という言葉は本書では揶揄を込めて用いられているのだろうけれど、樋口一葉だって、中間クラスの批評家をすっ飛ばしていきなり森鴎外などの大御所から高い評価を得て文壇デビューしたわけで、大物作家・評論家の評価が「実力派スター」を育てていることも明治以来の変わらぬ事実でないだろうか。
 ただし現況においては、出版ジャーナリズムは、地味な実力派よりは、読者アイドル足りうる書き手を求めているのだろうなあと思った次第。

 【2006年文庫化[文春文庫]】
 
《読書MEMO》
●村上春樹...「ハルキ・クエスト」
●俵万智...「Jポエム」
●吉本ばなな...「コバルト文庫」
●林真理子...「スゴロク=階層移動」
●上野千鶴子...フェニミズムではなくウーマンリブ
●立花隆...テーマは「人間の臨界点」、知のコンビニ化
●村上龍...「人を少しバカにさせる力」
●田中康夫...評価すべき「記録文学」の書き手

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切り口の斬新さと鋭いテキスト読解で飽きずに読めた『妊娠小説』。

妊娠小説.jpg    紅一点論 単行本.jpg                     斎藤美奈子.jpg 斎藤 美奈子 氏
妊娠小説』['94年] 『紅一点論―アニメ・特撮・伝記のヒロイン像』['98年] 

 著者の言う「妊娠小説」とは「望まない妊娠を登載した小説」とのことですが、そうして見ると名作と言われるものからベストセラーとなった小説まで、それらの中に「妊娠小説」と言えるものが随分あるものだなあと、着眼点に感心しました(巻末に本書でとり上げた約50冊のリストあり)。  

 第1章でとり上げている"典型例"は、森鴎外『舞姫』、石原慎太郎『太陽の季節』、吉行淳之介『闇の中の祝祭』、三田誠広『赤ん坊の生まれない日』、村上春樹『風の歌を聴け』...。

 女が予期せぬ妊娠をすることで男が悩むという共通のプロットを通して、その描き方のベースにある精神的土壌をあぶり出していますが、受胎告知場面が「妊娠小説」としての"識別表示"であるといった切り口の斬新さと、鋭いテキスト読解で飽きずに読めました。

 個人的には、『舞姫』は前からそういう見方をしていました。鴎外という人が大体(この辺のところに関しては)怪しい...。
 吉行淳之介はその発言を含めコテンパですが、『闇の中の祝祭』はこうして見ると秀逸なラストを呈していて、やはり彼にし書けない傑作ではないかと...。 
 『風の歌を聴け』は、ある物語の時系列を並べ替えて何枚かカード抜きしたものということか...等々、また別な見方ができて楽しかったです。

 著者の書き下ろし第2評論集『紅一点論-アニメ・特撮・伝記のヒロイン像』('98年/ビレッジセンター出版局)もなかなか面白かったですが、ストレートにフェミニズム批評的で、その分著者独特の"遊び感"のようなものが今ひとつ感じられなかったのが残念(評価★★★)。

 『紅一点論』を読んで、本書の中にあるフェミニズム批評的なものを再認識した読者もいるかもしれませんが、個人的には批評の切り口や適度な"遊び感"を買いたい評論家で、「フェミニズムの人」というふうにレッテル貼りすることはお勧めしたくないです。

 【1997年文庫化[ちくま文庫]】

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「食」で読み解く30の名作。推理ものを読んでいるように楽しく味わえた。

名作の食卓.jpg 『角川学芸ブックス 名作の食卓 文学に見る食文化』  〔'05年〕

 グルメ広報誌の連載をまとめたもので、「食」を通して名作を読み解くユニークな文学鑑賞入門の書―というのが出版社のキャッチです。

 作家の嗜好、「食」の移入史、同時代の食習慣等も紹介されていますが、グルメ本ではなく、あくまでも名作鑑賞案内とみてよいのではないでしょうか(著者自身、自分はグルメではないと〈あとがき〉で書いている)。

 『にごりえ』(樋口一葉)、『芋粥』(芥川龍之介)から、『キッチン』(吉本ばなな)、『村上龍料理小説集』まで、日本の近現代文学から30篇を選んでいますが、『鬼平犯科帳』(池波正太郎)のような大衆文学もあれば、「上司小剣」や「上林暁」など、最近あまり読まれなくなったものも取り上げられていて、取り上げること自体が「読書案内」となっているようにも思えます(上司小剣の『鱧(はも)の皮』は、今は「青空文庫」などで読むしかないけれど)。

 「坊ちゃんはなぜ「天麩羅蕎麦」を食べたのか」(夏目漱石『坊ちゃん』)とかは、グッと引き込まれるし、『風の歌を聴け』(村上春樹)は、やはり"「プール1杯分」のビール"という表現に注目でしょうね。

 『夫婦善哉』(織田作之助)のように、食べ物がそのまま小説のタイトルにきている場合は、同時にそれが作品の重要モチーフになっているわけで、三浦哲郎の『とんかつ』などはいい話だけど、読み解き自体はそれほど複雑な方ではないでしょう。
 それに対し、林芙美子の『うなぎ』や向田邦子の『りんごの皮』における著者の、「うなぎ」や「りんごの皮」が何の象徴であるかという読み解きは、興味深い示唆でした。

 『濹東綺譚』(永井荷風)の"水白玉"を恋と人生のはかなさの二重表象とした読み解きなどには、やや強引さも感じられなくはないけれど、そういう味わい方もあるのかなとも思ったりして。
 自分としては、推理ものを読んでいるように楽しく味わえた本でした。

《読書MEMO》
●目次
第1章 穀物・豆の文学レシピ
 こちそうとしてのライスカレー―村井弦斎『食道楽』
 坊っちゃんはなぜ「天麩羅蕎麦」を食べたのか―夏目漱石『坊っちゃん』
 ほか
第2章 魚・肉の文学レシピ
 酸っぱい・夫婦という絆の味―上司小剣『鱧の皮』
 青魚のみそ煮の仕掛け―森鴎外『雁』
 ほか
第3章 果物・野菜の文学レシピ
 「真桑瓜」の重み―正宗白鳥『牛部屋の臭ひ』
 先生の愛のゆくえ―有島武郎『一房の葡萄』
  ほか
第4章 おやつの文学レシピ
 『にごりえ』と"かすていら"―樋口一葉『にごりえ』
 食べられることを拒絶したチョコレート―稲垣足穂『チョコレット』
 ほか
第5章 広義の「食」の文学レシピ
 食べることと生きること―正岡子規『仰臥漫録』
 芸術としての美食―谷崎潤一郎『美食倶楽部』
 ほか

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漱石の作品をメッセージの複数の"宛先"という観点から読み解いていて面白かった。

漱石と三人の読者.jpg  『漱石と三人の読者』 講談社現代新書 〔'04年〕

 著者によれば、漱石はすでに「教科書作家」の1人でしかなく、『こころ』によってかろうじて首の皮一枚残って「国民作家」と見なされているのが現状だそうですが、漱石の小説の中に私たちの「顔」が映っているからこそ、漱石は「国民作家」たりえているのではないかという考えのもとに、漱石の言葉の"宛先"を明らかにしようと試みたのが本書です。

 『吾輩は猫である』を書いた後、大学教授の仕事を振って朝日新聞社専属の新聞小説作家となった漱石は、「顔の見えない読者」、「なんとなく顔の見える読者」、「具体的な何人かの"あの人"」の3種類の読者を想定し、それぞれの読者に対してのメッセージを込めて小説を書いていると著者は言います。

 当時の朝日の知識層を取り込もうとする戦略と合致する読者層は、「都会に住み会社勤めをするホワイトカラー層」で、当時の新聞発行部数から見れば新聞読者というのは「教育ある且尋常なる士人」であったわけですが、漱石の小説を単行本(今の価格で1万円以上した)で買うほどの文人・文学者ではない、そうした新聞読者層(現代のそれよりもハイブローな層)が、漱石にとっては「なんとなく顔の見える読者」にもあたり、また、そうした読者層が、現代の高学歴・ホワイトカラー社会における漱石の読者層に繋がっているのだと。

 一方、漱石にとって具体的に顔が見えている読者とは、『猫』を書いた時に漱石の周辺にいた文人や白樺派の文壇人、本郷東大のエリートたちで、漱石の本を単行本で読む読者であり、顔の見えない読者とは「三四郎」の田舎郷里の世界の人たちのようにおそらく新聞もまず読まない人ということになるようです。

 あくまでも仮説という立場ですが、漱石の主要作品を、こうしたメッセージの複数の"宛先"という観点からわかりやすく読み解いていて、なかなか面白かったです。

test_346.jpg 例えば『三四郎』においても、三四郎の美禰子に対する片思いと、それに対する美禰子の振る舞いの謎という一般的な読み解きに対し、三四郎自身にも見えていない美禰子と野々宮の関係という隠されたテーマが、美禰子と三四郎・野々宮の出会いの場面で読み取れるとしています。

 ただしこれは、東大構内と心字池(三四郎池)の構図がわかっていないと読み取れない(!)という、本郷東大を知る人にしかわからないものとなっているという分析は、個人的には大変スリリングでした(イヤミ臭いともとれるけれど)。
 一応自分も最近再読したときに地図開いて読んでいたけれど、そこまではわかりませんでした。

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小説に対する真摯な姿勢を感じたが、パッチワーク的印象も。

一億三千万人のための小説教室.jpg  『一億三千万人のための小説教室』 岩波新書 〔'02年〕

 評判はいいし、実際に読んでみると面白い、でも読んだ後それほど残らない本というのがたまにあり、本書は自分にとってそうした部類に入るかも知れません。

 内容は、小説作法ではなく、「小説とは何か」というある種の文学論だと思えるし、ユーモアのある筆致の紙背にも、小説というものに対する著者の"生一本"とでも言っていいような真摯な姿勢が窺えました。
 しかし一方で、良い小説を書く前にまず良い読み手でなければならない、という自説に沿って小説の「楽しみ方」を示すことが、同時に「書き方」を示すことに踏み込んでいるような気もして、その辺の混在感がインパクトの弱さに繋がっているのではないだろうかとも。

文章読本さん江.jpg この本もともとは、NHKの各界著名人が母校の小学校で授業をするという番組企画からスタートしているようですが、著者は本稿執筆中に斎藤美奈子氏の『文章読本さん江』('02年2月 筑摩書房刊/小林秀雄賞受賞)を読み、
 「この『文章読本さん江』の誕生によって、我が国におけるすべての「文章読本」はその息の根を止められたのである」
 とこれを絶賛していて、併せて本稿を全面的に書き直す必要を感じたようで、その辺りがこうしたパッチワーク的印象になっている原因かなという気もしました。
 
 「模倣」することの意義については、それなりに納得性がありましたが、今までにもこうした考え方はいろいろな人によって示されていたような気がします。
 事例の採りあげ方などから、ブンガクの現況をより広い視野で読者に知らしめようという著者の意図を感じましたが、随所に見られる過剰なサービス精神が個人的にはやや気になりました。
 頭のいい著者のことですから、こうしたこともすべて計算のうえでやっているのかも知れませんが...。

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埴谷雄高から村上春樹・龍、吉本ばななまで。作品ごとの世界観に触れた文芸評論として読めた。

「死霊」から「キッチン」へ.jpg 『「死霊」から「キッチン」へ―日本文学の戦後50年』 講談社現代新書 〔'95年〕

 本書は'95年の刊行で、それまで戦後50年の日本文学が何を表現してきたかを、時代区分ごとに、代表的な作家とその作品を1区分大体10人または10作品ぐらいずつ挙げて解説しています。

「死霊」から「キッチン」へ2.jpg 埴谷雄高、武田泰淳(「ひかりごけ」)、大岡昇平(「俘虜記」)、三島由紀夫(「金閣寺」)などの「戦後文学者」から始まり、遠藤周作(「沈黙」)ら「第三の新人」などを経て、安部公房(「デンドロカカリア」、「砂の女」ほか)から中上健次(「岬」ほか)までの時代、さらには大庭みな子(「三匹の蟹」ほか)から松浦理英子(「親指Pの修行時代」」)までの女流作家、村上龍(「限りなく透明に近いブルー」、「五分後の世界」)、村上春樹(「羊をめぐる冒険」、「ねじまき鳥のクロニコル」ほか)、吉本ばなな、などの近年の作家までをカバーしています。

 「世界のかたちの与え方」というのが著者の作品解説の視座になっていて、埴谷雄高も安部公房も大江健三郎も、そして村上春樹も、それぞれ別の世界にいるのではなく、同じ世界の上にいながら「世界のかたちの与え方」が時代の流れとともに変ってきているのであり、埴谷、安部、大江らが世界に通じる新しい通路を開いてきたからこそ、現在、村上春樹によって新しい通路を開かれつつある、といった見方が解説基盤になっています。

 大江健三郎に単独で1章を割いていて、大江作品では常に「谷間の村」が基点になっているといった読解や「雨の木(レイン・ツリー)」の発端がどこにあったかという話は、本書を読む上で、大江ファンにはいいアクセントになるのでは(本書では、大江はもう新たな小説を書かないことになっていますが)。

 「雨の木(レイン・ツリー)」が何のメタファーかを論じると同じく、他の作家、例えば、村上春樹の「羊」などについても、メタファーの解題を行うなどしており、戦後から現代にかけての作品を俯瞰するテキストにとどまらず、各作品で描かれていた世界観に触れた文芸評論として読めました。

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横光から大江までの昭和文学史。読書ガイドとしても結構"便利"に使える。

日本の現代小説46.JPG日本の現代小説.jpg  『日本の現代小説 (1968年)』 岩波新書

 横光利一で始まり大江健三郎で終わる昭和の文学史で、年代的には関東大震災の翌年('24年)以降から石原慎太郎・開高健・大江のデビューした'58年あたり(それぞれ昭和31-33年にかけて芥川賞受賞)までの小説家とその作品を追っています。

 前著日本の近代小説』('54年/岩波新書)と時代的に繋がり、構成も文体も同じで、前著あとがきで予告されていた続編だと言えますが、どうしたわけか、読者により身近な作家の多い本書の方が絶版になっているようです。

 前半のうち約50ページを「プロレタリア文学」、「転向文学」に費やしており、その後に続く「昭和十年代」、「敗戦前後」の章も含め、プロレタリア文学運動が作家たちに与えた影響の大きさが窺えますが、数多くいたプロレタリア文学作家そのもので今も読まれているのは、作品の芸術性を重視した小林多喜二ぐらいなのがやや皮肉な感じ(多喜二のリアリズムは"ブルジョア作家"志賀直哉を手本にしている)。

 「敗戦前後」の作家で一番社会的影響力があったのは、「転向」者であるとも言える太宰治で、著者は、戦前の太宰の完成度の高い作品に戦後の作品(「斜陽」「人間失格」など)は及ばないとしながらも、その死によってそれらは青春文学の象徴となったとしています。
 さらに、戦後一時期の青年の偶像となった三島由紀夫が見せる演技性に、太宰との類縁関係を見出しています(本書執筆時点で、三島はまだ存命していた)。

 前著同様、巻末に主要文学作品の発刊年譜が付いており、因みにその年譜では、前著は1868年(明治元年)から1927(昭和2)年までを、本書では'24(大正13)年から'67(昭和42)年をカバーしていますが(昭和42年は、後にノーベル文学賞受賞対象作となる『万延元年のフットボール』が発表された年)、本文の作家の概説と併用すれば、作家や作品の文学史的位置づけが簡単に出来、読書ガイドとしても結構"便利"に使える本だと思います(絶版になったのはタイトルに「現代」とあるせいか?)。

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逍遥から龍之介までの文学潮流を俯瞰。構成・文章ともに読みやすい。

日本の近代小説2.JPG日本の近代小説.jpg    中村 光夫.jpg 中村光夫 (1911‐1988/享年77)
日本の近代小説 (1954年)』 岩波新書

 文芸評論家で小説家でもあった中村光夫(1911‐1988)による、明治から大正期にかけての「近代日本文学」入門書。
 刊行は'54年('64年改版)と旧いですが、作家を1人ずつとりあげながら文学潮流を鳥瞰していくかたちで、「です・ます調」で書かれているということもあり、構成・文章ともに読みやすい内容です。

 坪内逍遥から芥川龍之介までをカバーしていますが、前段では登場する作家(明治中期まで)は人数が少ないせいか1人当たりの記述が比較的詳しく、知識人向けの硬いものより仮名垣魯文のような戯作の方が後世に残ったのはなぜか、言文一致運動に及ぼした二葉亭四迷の影響力の大きさがどれだけのものであったか、などといったことから、樋口一葉がなぜ華々しい賞賛を浴びたのかといったことまでがよくわかります。

 中盤は、藤村・花袋などの自然主義運動を中心にその日本的特質が語られており、「夜明け前」や「蒲団」などを読むうえで参考になるし(「蒲団」などは、小説としてあまり面白いとは思わないが、文学史的な流れの中で読めばまた鑑賞方法が違ってくるのかも)、それに反発するかたちで台頭した耽美派・白樺派なども、著者の説によれば同時代思想の二面性として捉えることができて興味深いです。

 後段では、森鴎外、夏目漱石という「巨星」の果たした役割やその意味とともに、多くの気鋭作家を輩出した大正期の文学潮流の特質を解き明かしています。

 著者は私小説や風俗小説を痛烈に批判したことでも知られていますが、本書は特定の傾向を批判するものではなく、それでいて自然主義運動がわが国独特の「私小説」の伝統を決定づけたことを、冷静に分析しているように思えました。

 「わが国の近代小説は、すべてそれぞれの時代の反映に過ぎなかったので、それが完璧な反映であった場合にも、よりよい人生を示唆する力は乏しかったのです」という著者の結語は、現代文学にもあてはまるのではないでしょうか。

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