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ドストエフスキー夫妻の愛情の深さとドストエフスキーという人間が抱える闇の深さの対比。

バーデン・バーデンの夏ド.jpgバーデン・バーデンの夏.jpgバーデン・バーデンの夏』〔'08年〕Leonid Tsypkin.jpg Leonid Tsypkin (1926-1982/享年56)

Summer in Baden-Baden.gif 1982年に米国の雑誌にその冒頭部分が発表され、その後長く埋もれていた小説を、米国の女性作家(活動家としても知られる)スーザン・ソンタグ(1933‐2004)がロンドンの古書店で見つけて再発掘したもので、このドストエフスキーへのオマージュに満ちたこの小説の作者のレオニード・ツィプキン(1926-1982)は、ドストエフスキーが唾棄したところのユダヤ人であり、作家ではなく優れた病理学者でしたが、旧ソ連末期、息子夫婦が米国へ亡命したために要職を外され、自らは出国も認めらないという不遇の中でこの小説を書き、米国で発表された1週間後に亡くなっています。

leonid tsypkin summer in baden baden.jpg 物語は、ドストエフスキーの妻アンナの日記を携えた語り手の「私」が、冬のモスクワからレニングラードに汽車で旅する最中、アンナの日記にある、新婚のドストエフスキー夫妻のドレスデンからバーデン・バーデンへの旅を追慕するように再現する形で始まっており(国内と外国、冬と夏という対比になっている)、以後、主に「アンナ・グリゴーリエヴナ」の視点から、彼の地で借金を抱えた夫「フェージャ」が賭博熱に憑かれ、屈辱、怒り、後悔、懇願を繰り返す様が描かれていますが、どう仕様もないような夫に従順につき従うアンナの姿には、ドストエフスキー作品の登場人物を思わせるような慈愛が感じられました。

 章や段落(改行)が無く句点も極端に少ない文体で、しばしば作者の意識とアンナの意識が交錯し、時にドストエフスキーの意識に深く入り込むという凝った形式をとっていて、2人の愛情の深さとドストエフスキーという人間が抱える闇の深さ(彼が抱える矛盾の典型とも言えるが)を対比的に浮かび上がらせるとともに、ドストエフスキーへの作者の抗い難い想いと、全人類に愛を手向けた彼が、ユダヤ人だけは、まるでそれらの埒外にあるように無視し嫌ったということに対する作者の悩ましい感情が、相克的に奔出されています(ここにも、もう1つの"矛盾"がある)。

 小林秀雄『ドストエフスキーの生活』(角川文庫)の巻末のドストエフスキーの年譜によると、1867年夏、『罪と罰』を前年に完成させた46歳のドストエフスキーは、21歳の新妻アンナとバーデンに滞在しており、この旅はこの小説にあるように、2人の新婚旅行であるとともに借金からの逃避行でもあり、一発巻き返しを狙うドストエフスキーは、滞在先で賭博ルーレットに嵌まり込んだようです。

 小林秀雄は、バーデン・バーデンについては、この地でドストエフスキーがツルゲーネフと対立したこと以外はさほど注目していないようで、それは、この新婚旅行が結局4年間も続くドストエフスキーの海外生活の始まりであり、その後、ドイツ各地の滞在先で、同じような"愚行"を彼が繰り返しているからだと思われます。
 その間に『白痴』を書き上げ、『カラマーゾフの兄弟』の構想も得ているわけですが、この小説では、まだ書かれていない小説の登場人物を用いた描写が多くあるのが興味深かったです。

 ドストエフスキーはこの長期海外滞在を終えた後も何度かドイツに出かけていますが、ドイツで公開賭博が禁止になったため、やりようがなかったらしく(賭博業者は皆、賭博の独占市場となったモンテ・カルロへ移った)、彼の晩年の家庭生活の平安は、モナコの王様のお陰だと、小林秀雄は『ドストエフスキーの生活』の中でジョーク気味に書いています。

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作家がどう書いただろうかと言うより、自分ならこう書くみたいな...。「師匠・江川卓」乗り越えの試み?

「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する.jpg 『「カラマーゾフの兄弟」続編を空想する (光文社新書 319)』 ['07年]

 ドストエフスキーが『カラマーゾフの兄弟』を、全体で2つの小説からなる大きな作品の第1部として構想していたことは作品の序文からもよく知られており、序文で第1部を「13年前」の出来事としていることから、著者は、第2部は、第2部の「13年後」から始まり、その時代設定において書かれる続編を空想するならば、帝政末期という当時の歴史性ないし時代性にこだわらざるを得ないとしています。

 では、それがどのようなものになるかですが、アリョーシャがキリスト教的な社会主義者となって皇帝暗殺の考えにとりつかれるのではないかということは、当時巷でも噂され、また過去に何人もの研究者が唱えたことですが(日本では、著者の師匠である江川卓が示唆した)、著者は一通りその可能性も検証しつつ、アリョーシャが劇的な人格変容を遂げない限りその可能性は小さく、むしろアリョーシャではなく、第1部の「少年たち」の1人コーリャが、皇帝暗殺の実行犯になるのではないかと想像し、更に、そもそも、当時の当局の監視下にあったドストエフスキーの立場からすれば、現に生きている皇帝を暗殺するような小説が書けただろうか、それが難しいならば、どういった結末が考えられるかを考察しています(この辺り、「師匠・江川卓」を乗り越えようとしているようにもとれる)。

 本書自体、推理小説を読むような面白さはあるものの、細部にわたる「想像」は、その前提となる「想像」を土台としたものであり、著者自身、「客観的データに基づいて科学的に空想する」という立場をとったとしながらも、最初の仮説が崩れれば、話は全部違ってきてしまうことを認めています。

 個人的にも、ドストエフスキーが果たしてこんなに政治・社会状況を鏡のようにリフレクトした小説を書くだろうかやや疑問で、ドストエフスキーは(このことを著者も否定してはいないようだが)「社会主義」に共鳴しつつも皇帝支持者であり(理屈上は並存し得ない。ドストエフスキーは「考える」タイプではなく「感覚」の人だったと、中村健之介氏も言っている)、政治的・社会的事件に常に関心があったけれども、事件そのものよりも、そうした事件を引き起こした、或いはそこに巻き込まれた「人間」自体に関心があったのではないかという気がします。

 それでも著者は想像逞しく、どんどん話を進めていき、それはむしろ、ドストエフスキーがどう書いただろうかと言うより、自分ならこう書くみたいな感じになっていて(ドストエフスキーのハイテンションな作家性が著者に幾分のり移った感じも)、こういうオーサーシップが旺盛な翻訳者がいてもいいとは思うのですが(東京外語大の学長になるのも別に悪くない)、本書における展開自体は牽強付会の部分が多く、これはこれでスリリングではあるのですが、果たして「科学的に空想」したと言えるか疑問を感じました。

 ただ、本書でも繰り返されている『カラマーゾフの兄弟』の著者による解題(低次の「物語層」と形而上的な「象徴層」の間に、個人的な体験を露出させた「自伝層」があるという見方など)は、本編を読み解くうえで興味深iいものであるとは思います(但し、この分析も、「聖と俗」の二層構造を指摘した「師匠・江川卓」を、「二層→三層」という形で乗り越えようとしているようにもとれるのだが)。

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死の家の記録、罪と罰、白痴、悪霊、カラマーゾフの兄弟の5作品の人物造型や創作技法を"講義"。

小説家が読むドストエフスキー.jpg 『小説家が読むドストエフスキー (集英社新書)』 ['06年] 加賀乙彦(かが おとひこ).jpg 加賀乙彦 氏(略歴下記)

 カトリック作家の加賀乙彦氏が、朝日カルチャーセンターで、ドストエフスキーの諸作品について、その作品構造や伏線の張り方、人物の造型法やストーリーとプロットの関係などを、小説家の立場から、創作の技法や文体の特徴に力点を置いて講義したものを、テープ起こしして新書に纏めたもの。
 『死の家の記録』、『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『カラマーゾフの兄弟』の5作品の文庫版をテキストとしていますが、内容も平易で、語り言葉のまま活字化しており、読んでいて、カルチャーセンターに通っているような気分になります。

ドストエフスキイ 加賀乙彦.jpg 『ドストエフスキイ』('73年/中公新書)では、精神科医という立場からドストエフスキーの癲癇という病に注目しながらも、実質的には、多くの特異な性格の登場人物の分類や分析、それらの創造のヒントはどこにあったのか、といったことに力点が置かれていたような気がしましたが、それは、本書についても感じられ、講義の前半分(『死の家の記録』『罪と罰』)では、特にそう感じました。

 大作『白痴』『悪霊』については、登場人物の関係の持たせ方などにも着目し、『カラマーゾフの兄弟』の講義で、やや宗教的な問題に突っ込んで話している感じ。
 但し、全般的には、一般向けの"文学講義"ということもあってか、ツルゲーネフやトルストイといった作家たちの作品との比較、日本の作家や文学作品に影響を与えている部分などにも話が及んでおり、更には、ドストエフスキーの人生そのものや、その作家としての生活ぶりも紹介していて、そうした幅広さの分、作品自体の分析はやや通り一遍になったきらいも。

 そうした意味では、いかにもカルチャーセンターでの講義という感じもしなくはないですが、作品自体を丁寧に再構築してくれていて、内容を思い出すのにちょうど良く、ドストエフスキー作品に対するバフチンの分析(「ポリフォーニー」や「カーニバル的」といったこと)やベルジャーエフの言説(「キリスト教的な愛」+「ロシア的な愛」といったこと)をわかり易く要約してくれたりしていているのも有り難い点。
 難解とされる『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」の部分の解説なども極めて平易で、入門書としては悪くなく、むしろお薦め、但し、原作を読まないことにはどうしょうもないけれど(受講生は、講義の前に読んで"予習"して講義に臨むということになっていたのではないかと思われるが)。
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加賀 乙彦
1929年、東京生まれ。本名・小木貞孝。東京大学医学部医学科卒業。東京拘置所医務技官を務めた後、精神医学および犯罪学研究のためフランス留学。帰国後、東京医科歯科大学助教授、上智大学教授を歴任。日本芸術院会員。『小説家が読むドストエフスキー』(集英社新書)の他、『フランドルの冬』『宣告』『湿原』『永遠の都』『雲の都(第一部 広場、第二部 時計台)』など著書多数。

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自らの病を通して人間本性に潜む病(不条理)を示したという解釈に共感。

永遠のドストエフスキー.jpg 『永遠のドストエフスキー―病いという才能 (中公新書)』 ['04年]

 ドストエフスキーと言えば偉大な作家であり、深遠で観念的な人物像が浮かび上がりがちですが、本書はそうした既成のイメージを排して、そのパーソナリティの特徴は病であると断定し、ドストエフスキーの文学世界を理解するということは、ドストエフスキーという病気の人間を通して人間の病を理解することであるという立場に立っています。

 彼は、病的人物たちの活躍する小説を書いただけでなく、自らが心の病を持ち、病的な想像をする人間であると自覚し、実際に、社会や世間の病的な事件に強い関心を示したということ。また、ドストエフスキーの夫人アンナは、夫の異常なまでの心配性や被害妄想に「奇妙な人」(彼女の日記より)であるとの印象を持ち、夫の感情に巻き込まれないようにすることで、何とか自分を保ったということらしいです。

 「貧しい人たち」や「永遠の夫」に見られる、若い女性に対する男性側の被虐的とも思える立場には、そうした彼の意識が反映されていると思われますが、著者は、彼自身がそこに男女関係の理想を見出していたフシがあるとしています(両作品の男性主人公は共にマゾ的だが、これは作者の嗜好であるということか。ドストエフスキーはアンナへの懺悔の手紙で、自分を「永遠の夫」と呼び、アンナはこれを嫌ったという)。

 ドストエフスキーを語る上で「てんかん」は欠かせないものですが、この心配性や被害妄想はもっと若い頃からのもので、「統合失調症」による誇大妄想からくるものであると著者は推察していて(彼には「離人症」の傾向もあった)、迫害妄想は晩年まで治らなかったようですが、それがある種、願望的なかたちで作品に反映されていたということでしょうか。

 更に、本書で興味深い指摘だと思ったのは、理不尽に犠牲となる幼い子供が繰り返し作品に登場したり、嗜虐的と言っていい酷たらしい光景が作中に少なくなかったりする点において、ドストエフスキーには嗜虐傾向も強く見られるということで、彼は社会や市井で起きた弱者が虐待されるような事件に、激しく感応したという証言があるということ。

 ドストエフスキーには、嗜虐的な人物、被虐的な人物の両方に自分を重ねて夢想することが出来る資質があり(著者はこれを「なりすます才能」「腹話術師」などと呼んでいる)、著者の論に従えば、その人物になりきって残虐な場面を夢想し、或いは、迫害妄想や服従願望をリアルに描いた―ということになりますが、彼の作品のトーンや登場人物の病的な心理描写のリアルさ(かなり異常であったり極端に非常識だったりするのに、どこかでそした人を見たような感じもある)からみて、かなり説得力のある見方であるように思えました。

 「今時、病跡学?」「ドストエフスキーの偉大さを冒涜してる」等々の批判も聞かれそうですが、個人的には著者の考え方に大いに頷かされ、ドストエフスキー作品に触れてこれまで自分が抱いていた感触に裏づけを与えるが如く符号するものであるとともに、人間というものが普遍的に持つ暗部の深さについて考えさてくれる本でした(本書前書きにもそうした記述があるが、そうした人間の持つ不条理性を見事に描き切っている点が、ドストエフスキー作品が時代を超えて読まれる理由であると、著者は言いたかったのはないか)。

 但し、別々に発表したものをベースにした奇数章と、新たに書き下ろした偶数章という合体構成になっているため、各章の繋がりが必ずしも滑らかでない(あるいは重複が見られる)ように思えるのが、やや残念。

《読書メモ》
●ドストエフスキーの「考える」という能力は、感覚と想像を本体としていたと言えるだろう。いや、言葉による表現力はすぐれていたが、実はあまり「考える」ということはしていなかったのではないか。トルストイは、「ドストエフスキーはたくさんのことを感じた。しかし考えるのはだめだった」と言っている。理論はドストエフスキーにとっていわば下位にある。上位にある力は光景とイメージ」であり、かれの心身に植えつけられている異常に敏感で強い感覚が、それにふれて反応する。(114p)

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「これしかない」と言われると反発を感じるが、著者の私見とみて読めば、推理小説を読むように面白い。

『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』.bmp謎とき『カラマーゾフの兄弟』.jpg謎とき『カラマーゾフの兄弟』 (新潮選書)』 ['91年] 謎とき『罪と罰』1.jpg謎とき『罪と罰』 (新潮選書)』 ['86年]

 著者の名を広く一般に知らしめた『謎とき「罪と罰」』('86年/新潮選書)に続くもので、前著でドストエフスキーが用いた言葉や登場人物のネーミングなどの持つ二重性・多義性を、翻訳者らしく徹底的に分析してみせた著者は、本書においても、「カラマーゾフ」という名前の分析から始め、それが「好色・放蕩」を意味し、また、「カラ=黒」、「マーゾフ=塗る」で「黒く塗る」の意でもあるとしています。

 『謎とき「罪と罰」』では、主人公の名前に黙示録の「悪魔の数字」である"666"という字が隠れているといったまさに"謎とき"はしているものの、作中にロシア正教の儀式が重要場面で象徴的に織り込まれているのに、そのことにはさほど触れられておらず、加賀乙彦氏が「江川卓はまったくキリスト教信仰というものについての関心がない」と批判していますが、本書では、同じく言葉(字義)の分析を入り口としているものの、ドストエフスキーの宗教観にもかなり触れています(特にこの『カラマーゾフの兄弟』という作品は、ドストエフスキーの宗教観抜きでは語れないものであることは明らかなのだが)。

 「カラマーゾフ」という言葉は、父フョードルと長兄ドミートリイだけでなく、キリスト者アリョーシャにも係り、そのことから、「好色・放蕩」も「黒塗り」もアリョーシャにも密接に関係する言葉であり、更に推し測って、「(アリョーシャ=)黒いキリスト者」とは何を指すかといったことから、書かれるはずであった続編において、彼が本編最後に顔を揃える12人の少年"使徒"に囲まれて未来の教団(または秘密結社)の指導者として13年後に皇帝暗殺者となり"十字架に架かる"と、大胆に推論しています。

 但し、その核となる「(アリョーシャ=)皇帝暗殺者」という将来像は、海外の研究者の間でも唱える人がいて(埴谷雄高は、江川卓が本国ロシアに先駆けて―と言っているが)、それを著者は、日本人がスムーズに受け入れることが出来るように"翻訳"したとも言えるのかも知れません。

 何れにせよ、埴谷雄高みたいな大作家がこの「江川説」に痛く感応したりしたこともあってか、日本におけるカラマーゾフ研究の特徴は、この江川卓の自由奔放な(?)「謎とき」に過ぎなかった説が(考えられる反対意見を封印するような論調もあり)"正統"みたいになっている点で、結局、亀山郁夫氏なども、この江川卓の弟子筋の人であり、師匠の考えをベースに、いかにそれを乗り越えるかというのが、亀山氏自身のテーマになっているような気がします。

 個人的には、江川卓個人の考えとみて読めば、本書は推理小説を読むように面白く(「これしかない」と言われると反発を感じるが)、これに続く亀山氏の最近のカラマーゾフ論の一連の展開は、更にヒネリを加えている(師を乗り越えようとして?)分だけ、もっと推理小説的ですが、その結果かなりアクロバティカルなものにならざるを得ないと言うか、もしドストエフスキーがもう少し長生きして続編を書いたとしても「亀山説」は"実現可能性"に乏しいような気がしています。

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書簡文の殆どが、金の工面に関わるものであったドストエフスキー。

「ドストエフスキーのおもしろさ」.jpgドストエフスキーのおもしろさ~言葉・作品・生涯.gif  ドストエフスキーの肖像(ヴァシリー・グリゴリエヴィチ・ペロフ画〉.jpgドストエフスキーのおもしろさ―ことば・作品・生涯 (岩波ジュニア新書)』 ['88年]/ドストエフスキーの肖像画(ヴァシリー・グリゴリエヴィチ・ペロフ画/モスクワ・トレチャコフ美術館)

 ドストエフスキーの作品や書簡から言葉を拾って、その部分を軸に、ドストエフスキーの作品やその登場人物の面白さ、更には、ドストエフスキーがどんな人物であったかを浮き彫りにしています。

 ジュニア向けということで、見開き1テーマの読みやすい体裁をとっていますが、語られている作品や人物の分析は奥深く、高校生以上向け、むしろ、一般向けと言っていいかも。
 やや、ブツ切り感はあるものの、こういう本からドストエフスキーに入っていくのも、或いは、ドストエフスキーを復習的になぞるのも一法だと思いました(本書はどうして絶版になったのだろうか?)。

 著者は、ドストエフスキーの書簡集なども翻訳しているため、手紙からの引用も多く、更には、評論や創作ノートなど、引用の幅は多岐に及んでいます。
 また、5大長編だけでなく、「分身」「死の家の記録」「虐げられた人たち」「賭博者」などのドストエフスキーを語る上で鍵となる作品や、「白夜」「ネートチカ・ネズワーノア」といった初期の小品からの引用もあります(短篇や初期作品にヒューマンなもの、叙情的なものが多いということもあるだろう)。

 全体を通して作品入門書としても読めますが、ドストエフスキーという人物を知る上では、とりわけその手紙が興味深く、彼の手紙は「文学者の手紙らしくない」と言われているそうですが、全て実用の通信文で、殆どが金の工面に関わるものであるということ、従って、一般読者を意識しないで書かれており、生活の苦しさや楽しさ、嘆きや憤りがストレートに表されています。
 他の文豪の書簡などと異なり、"芸術的香気"は無いけれども、生半可な自伝を読むよりは印象に残ると著者も言っていますが、まったくその通りだと思いました。

 個人的には、妻アンナ宛の手紙から、"賭博病"だったドストエフスキーが賭博をやめたきっかけが、亡父が恐ろしい姿で夢枕に立ったためであるとしているのが興味深かったです(一般的な説では、賭博禁止令により、ロシアにルーレットを用いる賭場が無くなったためとされていたのでは)。

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ドストエフスキーが小説で使用する言葉の二重性・多義性を徹底分析。

ドストエフスキー 江川卓.gifドストエフスキー (岩波新書)』['84年] 謎解き「罪と罰」2.jpg謎とき『罪と罰』 (新潮選書)』['86年]

罪と罰.jpg 法学部出身、独学でロシア語を学び(但し、父親はロシア文学者、ロシアの収容所で亡くなっている)ドストエフスキー作品の第一級の翻訳者になったという江川卓(えがわ・たく、1927- 2001)の名が、ロシア文学者として一般に広く知られるようになったのは、'87年に読売文学書賞を受賞した『謎とき「罪と罰」』('86年/新潮選書)によると思われますが、優れた翻訳者ならではの独特の分析は、作品そのものがよりミステリアスな『カラマーゾフの兄弟』を論じた『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』('91年/新潮選書)や、更に『謎とき「白痴」』('94年/新潮選書)でも遺憾なく発揮されています。
『罪と罰』(江川卓・訳)

 但し、これらに見られる作品構成の重層的な分析、或いは、ドストエフスキーが用いた言葉や登場人物のネーミングなどの持つ二重性・多義性の分析は、'84年に刊行された本書で既にある程度されていて、当時としては画期的だったと思われるのですが、タイトルが単なる"入門書"や"評伝"のような印象を一般に与えたのか、この時は、研究者の間ではともかく、巷では一部においてしか話題にならなかったようです。

カラマーゾフの兄弟.jpg 「カラマーゾフ」で言えば、"カラマーゾフ"の意味が「黒く塗る」であるといったような興味深い指摘から、アリョーシャが皇帝暗殺者になるというこの作品の続編の構想の推察まで、後に「謎とき」で述べられることは既に本書で触れられているわけですが、「謎とき」シリーズが3作品に関するもので終わったのに対し、本書では、『貧しき人びと』『悪霊』などその他の作品についても触れられていて、それらについても「謎とき」の手法が展開されているのが注目されます。
『カラマーゾフの兄弟』(原卓也・訳)

 個人的に特に興味深かったのは、初期の"ゴーゴリ的"ヒューマンな作品とされている『貧しき人びと』の中で、主人公である小官吏マカール・ジェーヴシキンに、ゴーゴリの『外套』に対しては、「ワーレンカ(主人公に本を送った薄幸の少女の名)。まるでもうインチキです」と憤慨させ、プーシキンの『駅長』に対しては、貧しき人びと.jpgジェーヴシキン自身の"誤読"に基づく好感を抱かせていることを指し、これはこの2人の作家の限界を示しているものだとしていることで、主人公に文学評論させるという「メタ文学」的手法を使って、自分は既に処女作においてゴーゴリもプーシキンも超えたとしている(より高次のヒューマンな世界に作品を導いている)という自負が見られると指摘している点には、ナルホドなあと。
『貧しき人びと 』(木村浩・訳)

 本書全体としては、やはり、ドストエフスキーが用いた言葉の持つ二重性・多義性についての専門家としての分析が優れていますが、作品世界の背後にある、当時の異端や分派も含めた宗教世界についても、専門的な知識を駆使した分析に基づいて、作家や作品に与えた影響が縦横に語られており、(「謎とき」もそうだが)タイトルから受ける"入門書"のイメージを、いい意味で大きく"逸脱"したものとなっています。

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文豪の創作の秘密を、"てんかん"という持病を軸に、病跡学的観点から解明。

加賀 乙彦 『ドストエフスキイ』.jpgドストエフスキイ 加賀乙彦.jpg 『ドストエフスキイ (中公新書 338)』['73年]嫌われるのが怖い 精神医学講義.jpg 『嫌われるのが怖い―精神医学講義 (1981年)』 朝日出版社(朝日レクチャーブックス)

 作家であり精神科医でもある著者が、文豪ドストエフスキーの創作の秘密を、彼の癲癇という持病を軸に、病跡学的観点から解き明かしたもの。
 何せ、ドストエフスキーの『死の家の記録』を読んで、医師としてのキャリアを刑務所の監察医からスタートすることを決心したぐらいドストエフスキーに入れ込んだ人であり、精神医学の大家・笠原嘉氏との対談『嫌われるのが怖い-精神医学講座』('81年/朝日出版社)の中でも、「病跡学にもし存在価値があるとするならば、ドストエフスキーとてんかんとの関係を文学創造の核に据えて考察することこそ、大事だと思います」と繰り返しています。

死刑囚の記録2.jpg また、監察医としての経験を通して書かれた『死刑囚の記録』('80年/中公新書)の中では、「死刑囚」と「無期囚」で拘禁ノイローゼの現れ方が、「死刑囚」には躁状態や爆発発作となって現れ、「無期囚」には拘禁ボケが見られるとしていますが、その前に書かれた本書('73年)で既に、ドストエフスキーの癲癇発作の前に異常な生命力の高揚と発作後の無気力を、それぞれ死刑囚の心理、無期囚の心理に似ているとしています。

 ドストエフスキーが18歳の時に、潜在的に期待していた父の死が実際に起こったことが、彼の癲癇発症の引き金となったとするフロイト説を、卓見としながらも一部批判していますが、結局、彼が若い頃から癲癇気質を示していたのか、何歳の時に最初の発作を経験したのか、といったことはよくわからないわけで、この辺りが、既に亡くなっている天才の病理を研究する病跡学の限界なのか、その後も病跡学というのは精神医学の中で亜流の位置づけをされているような気がします。

永遠のドストエフスキー.jpg 自分自身、本書を最初に読んだときは、ドストエフスキーの天才性の秘密に触れた気がして目からウロコの思いでしたが、その後、精神医学者ではなく文学者である中村健之介氏が、『永遠のドストエフスキー』('04年/中公新書)の中で、癲癇もさることながらドストエフスキーの異常なまでの心配性や被害妄想に着目しており、こちらの方がより説得力があるようにも思えました。

 但し、今回本書を読み直してみると、後半は病理としての癲癇にばかり執着するのではなく、性格学的なトータルな分析がされていて、また、登場人物と作者との関係性においても、作家らしい考察がなされていることを再認識しました(ドストエフスキーには登場人物に自分を投影させているという意識はなかったと、著者は考えているのが興味深い)。

 また本書の中でも、「私は病的な現象がすべて深遠で神聖だなどと言おうとしているのではない。癲癇者でありながら何一つ自分の体験から深い人間的意味をひきだすことのできぬ人も世には大勢いる。と言うよりほとんどの癲癇者はそうである。それに反して、ただ一人ドストエフスキイだけが癲癇という病的現象から深い透徹した人間的意味を発見し、それを文学に形象化することに成功した」(52p)のだとしています。

 これは、最近注目されているサバン症候群などにも当て嵌まる気がし、極めて稀な例ですが、異常なまでに高い言語能力を有するマルチ・リンガルのサバン症候群の人が、実は若い頃に側頭葉癲癇を発症し、「共感覚」という特殊な能力を獲得していたらしいことが、最近の脳科学の臨床例などでわかっている―。これとて、その患者が文学作品を編み出す素因には全くならないわけですが、やっぱり、癲癇という病気はその人の言語能力に何らかの影響を与えることがあるのではないかと思わせる話である気がします。

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個人主義(自尊心)についての読み応えのある「文芸社会学」的考察。

個人主義の運命  .jpg                 ドストエフスキー―二重性から単一性へ.jpg
個人主義の運命―近代小説と社会学』 岩波新書 〔'81年〕 ルネ・ジラール 『ドストエフスキー―二重性から単一性へ (叢書・ウニベルシタス)』 ['83年/法政大学出版局]

 「文芸社会学」の試みとも言える内容で、3章から成り、第1章でルネ・ジラールの文芸批評における、主体(S)が客体(O)に向かう際の「媒介」(M)という三項図式の概念を用いて、主にドストエフスキーの一連の作品を、三角関係を含む三者関係という観点から読み解き、第2章では個人主義思想の変遷を、共同態(家族・農村・ギルド・教会など)の衰退と資本主義、国家(ナショナリズム)等との関係において理性→個性→欲望という流れで捉え、第3章でまた第1章の手法を受けて、夏目漱石の『こころ』、三島由紀夫の『仮面の告白』、武田泰淳の『「愛」のかたち』、太宰治の『人間失格』における三者関係を解読しています。

永遠の夫.jpg 第1章では、ドストエフスキー小説における「媒介者」を、主人公(S)が恋人(O)の愛を得ようとする際のライバル (M)や、世間(O)からの尊敬を得るために模倣すべき「師」(M)に見出していますが、主人公がライバルの勝利を助けようとするマゾヒスティックにも見える行動をしたり、「師」を手本とする余り、神格化することが目的化してしまったりしているのはなぜなのか、その典型的キャラクターが描かれているのが「永遠の夫」であるとして、その際に主人公(トルソーツキイ)の自尊心(この場合、個人主義は「自尊心」という言葉に置き換えていいと思う)はどういった形で担保されているのか、その関係を考察しています。

 第2章で興味深かったのは、ナショナリズムと個人主義の関係について触れている箇所で、国家は中間集団(既成の共同体)の成員としての個人の自律と自由の獲得を外部から支援することで、中間集団の個人に対する影響力を弱めたとする考察で、中間集団が無力化し個人主義の力を借りる必要が無くなった国家は、今度は個人主義と敵対するようになると。著者はナショナリズムと宗教との類似、ナショナリズムと個人主義の双子関係を指摘していますが、個の中で全体化するという点では「会社人間」などもその類ではないかと思われ、本書内でのG・ジンメル「多集団への分属により個人は自由になる」という言葉には納得。ただし、それによって複数集団(会社と家庭、会社と組合など)の諸要求に応えきれず自己分裂する可能性もあるわけで、ある意味「会社人間」でいることは楽なことなのかも知れないと思いました。

 第3章では、漱石の『こころ』の「先生」と「私」の師弟関係の読み解きが、土居健郎の『「甘え」の構造』を引きながらも、それとはまた違った観点での(つまり「先生」とKとの関係を読者に理解させるために書かれたという)解題で、なかなか面白かったです。

ルネ・ジラール 『ドストエフスキー―二重性から単一性へ
(叢書・ウニベルシタス)
』 ['83年/法政大学出版局]帯
ドストエフスキー―二重性から単一性へ - コピー.jpg 第1・第3章と第2章の繋がりが若干スムーズでないものの(「文芸」と「社会学」が切り離されている感じがする)、各章ごとに読み応えのある1冊でした。著者・作田啓一氏が参照しているルネ・ジラールの『ドストエフスキー―二重性から単一性へ』('83年/叢書・ウニベルシタス)と併せて読むとわかりよいと思います。ルネ・ジラールの『ドストエフスキー』は版元からみても学術書ではありますが(しかもこの叢書は翻訳本限定)、この本に限って言えば200ページ足らずで、箇所によっては作田氏よりもわかりやすく書いてあったりします(ルネ・ジラールは「永遠の夫」の主人公トルソーツキイを「マゾヒスト」であると断定している)。

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