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正しく使えているようで使えていない敬語表現。やはり難しいなあと。

バカ丁寧化する日本語.jpg 『バカ丁寧化する日本語 (光文社新書)』 ['09年] かなり気がかりな日本語.gif 『かなり気がかりな日本語 (集英社新書)』 ['04年]
 
 著者の前著『かなり気がかりな日本語』('04年/集英社新書)を読んで、自分の話し方や文章の書き方を振り返って冷や汗の出る思いをしたのですが、今度は本書を読んで、自分は敬語の使い方がある程度出来ているつもりでいたのが、実はよく分かっていないまま使っていた表現が結構あったなあと。

 「バカ丁寧化」しているという視点がユニークですが、例えば、「おかげさまで〜させていただきました」といった「させていただく」という表現は、本来は自分に恩恵を与えてくれた誰かを特定して、その人を持ち上げることで自分を謙譲している表現であり、これを、神仏・世間・周囲の一般の人々に対し広く感謝の念を表す「おかげさまで」と同じように使うのは、胡散臭いと言うか耳障りであると。

 確かに、「おかげさまで退院させていただきました」と知人や友人には言わず(退院を許可したのは知人や友人ではなく医師だから)、そのくせ、放送番組の元アナウンサーなどが「おかげさまで番組を担当させていただきました」と言っているのは、一般の手本となるべき職業にあった人の表現としてはいかがなものかと(アナウンサーをその番組に起用したのはプロデューサーだから)。 でも、番組を続けることが出来たのは、番組を広く支えてくれた一般視聴者のおかげであるとも言えなくもないような気がするのですが、著者は、このアナウンサーは自分の表現が適切であるかどうかを考えた方がいいとと手厳しいです。

 敬語の本来の用法として若干問題があっても、言葉の適材適所への配慮がなされていればよしとし、実際に用法的におかしくても慣例的に相手への敬意を表す表現として根付いているものの例も挙げていますが、誤用法である上に、慇懃無礼になってしまったり、心のこもらない表現になったりしているのはダメであるとのことで、その辺りの線引きについては、かなり厳格な方ではないでしょうか。 世間での実態と理論的裏付けの両面から検証していて、「奥さん」とか「ご主人」という表現は、「実情にそぐわないが使われ続けている日本語」という括りに入れています。

 後半部分では、「二方面への敬語」というものについて論じられていて、「そのことは秋田先生が校長先生に申し上げてくださいました」といったのがこれに該当するのですが(校長を最も立て、秋田も一応立てている)、それが「そのことは秋田先生が校長先生に言ってくださいました」となると、秋田への軽めの尊敬語になるが校長は全く立ててないことになり、更に「そのことは秋田先生が校長先生におしゃってくださいました」となると、秋田への尊敬語になるが校長は全く立ててないことになると。どれが誤りであるというのではなく皆誤りではないのですが、その場の状況に応じてどれが適切な表現であるかは違ってくると。

 確かに、そうなのだなあと。でも、「二方面への敬語」って、考え始めるとますます難しくなるような気がし、しかしながら、考えないで使っていて果たして自分はきちんと使っているかというと言われると自信が無くなり、やはり、こうしたことも時々意識した方がいいのだろうなあと。敬語ってやっぱり難しい。

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一見、気まぐれ、お手軽なようで、実は戦略的にこの言葉(「汚い」)を選んでいた?

「汚い」日本語講座.jpg 『「汚い」日本語講座 (新潮新書)』 ['08年]

 '06年から'07年にかけて、㈱パブリッシングリンクの電子書籍サイト「Timebook Town」('09年に終了)に連載されたもので、著者のゼミで「目くそ鼻くそを笑う」という言葉が話題に上るところから話は始まり、「汚い」とは何だろうか、というテーマでの学生との遣り取りが暫く続きます(取り敢えず、この言葉を選んでみたという感じに思えた)。

 Web本で、しかも学生との遣り取りをネタに書いていて、お手軽だなあとも思ったれども、「汚い」と「汚れている」「汚らしい」「小汚い」などとのそれぞれの違いなどの話は、辞書の上での意味の違いを超えて、感覚論、メタファー論へと拡がり、それなりに面白かったです。

 但し、前半は、著者自ら"ハウルの動く城"の如く、と言うように、話をどこへ持っていこうとしているのかよく分からず、(金田一先生がインタラクティブに授業を進めているのはよく分かったけど)ややじれったい感じも。

 それが、後半、「汚い」とは何かを更に突っ込んで、言語学から文化人類学、精神病理学、構造人類学へと話は転じて、仕舞いには人類の起源そのもの(考古人類学)へと遡って行くその過程は、もう話がどこへ行こうと、話のネタ自体が興味深かったというのが正直な感想でしょうか。

納豆.jpg 例えば、著者は、粘り気のあるものを食べるのは日本人だけであると言っても過言ではないとし、ネバネバするものは毒であるというのがホモサピエンスにとっての生物学的常識であるが、日本人は例外的にその判断基準を捨てることに成功し、お陰で納豆など食していると。

 或いは、2人でケーキを食べる時に、互いにチーズケーキとチョコレートケーキを頼むと、2人は当然のように相手の分を少しずつ分けて食べるが、2人が同じケーキを頼んだ時はそうしないのは、「比べる」理由がないからと言うよりも、そこに「共有」と「所有」の違いがあるためで、「所有」という意識は「余剰」により生まれるのではないかと。

家でやろう1.jpg 電車の中で化粧をするのが嫌われるのは、車内の空間が「共有」されていて、個人の裁量権が無いというのが一般的了解であり、その掟を守っていないためとのことらしいです(車内が混んでいれば混んでいるほど、「余剰」が無いから、空間を「共有」せざるを得なくなり、そこでの個人の「所有」は認められないということか、ナルホド)。

 20万年前にアフリカのどこかで発生したホモサピエンスが、ネアンデルタール人を凌駕したのは、言語を獲得したことに因るところが大であり、それでも15万年間はアフリカ大陸に止まっていたのが、5万年前に「出アフリカ」を果たし、その後、様々な気候風土に適応して地球上に広がっていく(ネアンデルタール人もアフリカを出たが、せいぜい現在のヨーロッパの範囲内に止まっていた)、それはホモサピエンスが、寒い地で衣服を工夫し、棲家を作り変えるなどしたためですが、そうした文明の礎もまた、言葉によるコミュニケーションが出来たからこその成果であり、ホモサピエンスはもう何万年経とうが(適応し切っているため)進化しないだろうとまで、著者は言い切っています。

 「汚い」というのは人間の原初的な感覚であり(著者は「恐い」に近いとしている)、それを察知出来るか出来ないかは生命に関わることであって、その感覚や対象となる事象を文節化された複雑な言語によって精緻なレベルで共有化出来た点に、ホモサピエンスの繁栄の源があった―ということで、最後、きちんと「汚い」というテーマに戻ってきているわけで、顧みれば、著者は当初から戦略的にこの言葉を選んでいたように思えました。

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概ねベーシック。誤用は正す一方で、「テキトーである」ことが適切であることもあると。

適当な日本語.jpg金田一 秀穂 『適当な日本語』.jpg 『適当な日本語 (アスキー新書 76)』 ['08年]

 全3章の構成で、第1章は「適切な日本語相談」は、「とどのつまり」の「とど」とは何かとか、「汚名挽回」の誤りとか、「気のおけない人」の誤用例とか、かなりベーシックな感じですが、ファミレスなどでの「こちらコーヒーになります」など使われ方に対しては、「優しく寛容に聞き流してあげましょう」とのことで、こうした"いい加減さ"を許容する姿勢が、本書のタイトルに繋がっているようです(本来的な正しさよりも、その場において適切であればいいのだと)。

  第2章の「今こそ使いたい懐かしい言葉」では、「おしたじ」とか「シャボン」など、あまりマニアックにならな程度のものが解説されていますが、「隔靴掻痒」とか「眉目秀麗」も"懐かしい言葉"になるのかなあ(「手練れ」とか「お目もじ」とか「始末がいい」とかまでいくと、時代劇の言葉になるような気がするが)。

 第3章の「パソコン&ケータイ時代の漢字選び」は、「アスキー・ドットPC」の連載がベースに加筆・修正して全回分を収録したもので、例題に対してPCの漢字変換候補からそれぞれの意味合いの違いを解説し、どれが適切かを選ぶものですが、なかなか面白い企画で、読みでもそれなりにありました。

 例題そのものは、「オリンピックの代表選手を会議にはかる」の「はかる」は「計る」「測る」「図る」「量る」「諮る」「謀る」のどれかといったもので、それほど難しくないですが(と言いつつ、自分が誤用していたものもあったが)、それぞれのニュアンスの違いが明解に示されていて、例えば、「勧める」と「薦める」の違いについて、本来的な意味を解説し(「薦」には「神に供えてすすめる」という意味があるとは知らなかった)、その上で、「勧めるのは行為、薦めるのは具体的なモノやヒト」だと思えばいいとのことで、実に解り易い解説です。

 通してみれば、やはり概ねベーシックであるということになり、「新たな知識を得る」と言うより「曖昧な部分の再確認」といった感じでしょうか。
 通勤電車の中でサラッと読めてしまう本です。

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日本語の曖昧さ、適当さを認識させられるクイズ集。「本」として読むと、やや軽い。

ふしぎ日本語ゼミナール.jpg 『ふしぎ日本語ゼミナール (生活人新書)』 ['06年]

 本の大部分がクイズ形式になっていますが、普通の日本語のクイズ本と異なり、その大部分に"正解"が無いのがミソです。

 気軽に読める本ですが、自分の知識を試すつもりで手にした読者が、日本語の曖昧さを考えさせられ、或いは、著者の言う"適当さ"を認識させれるようになっていると言う点では、戦略的と言えば戦略的な本かも知れません。
 
 切符にある「大人・小人」の「小人」をどう読むか、著者は、読めなくていい、意味がわかればいいのだと。「1日おき」と「24時間おき」の違いなんて、「1日=24時間」と考えれば、確かに整合しない感じもしますが、数を「かたまり」で捉えるか「長さ」で捉えるか、無意識的に識別しているわけです。「1日いて帰った」は、人によって、日帰りで帰ったのと泊って帰ったのに印象が分かれるそうですが、人よりむしろ状況によるのではないかと。

 著者があとがきで書いていますが、クイズのように選択肢で答えられるものは知識の領域であって、本を調べればすぐわかると。「本当に面白いと思えることは、日常の中で使われていて、誰も困らず、誰も不思議に思っていないような言葉の中に、考えてもわからなくなるような謎を見つけ出すこと」であると。

 本書は、「NHK日本語なるほど塾」のテキストや、NHK教育テレビの「日本語なるほど塾」(擬音語・擬態語研究者の山口仲美氏なども出演していた時期があった)の「言葉探偵」のコーナーをもとに再編集したもので、体裁がクイズ本なので、普通に「本」として読むと、やはりやや軽いかも(あっさりし過ぎ)。

 元々よくテレビに出演していた著者ですが、最近は、クイズ番組の回答者としての出演することも多いようです。回答に詰まって苦しい表情をみせたりしていますが、根っこの部分では、そんなこと知らなくても恥ずかしいことではないと思っているのかも(そう思ってでもいないと、大学の先生でクイズ番組などには出られないか)。

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エッセイ風にさらっと読めるが、著者のエッセンスが詰まっていた本。

新しい日本語の予習法.jpg 『新しい日本語の予習法 (角川oneテーマ21)』 ['03年]金田一 秀穂.jpg 金田一秀穂 氏

 「日本」を「外国人」に教えるという日本語教師という仕事を通して、日本人であることを捨ててはならないが、「日本人的なものの見方」だけでなく、海外と日本の中間の視点も持たざるを得なくなった著者が、そうした観点から、「日本人の日本語の使い方」を書いたもの。

 しばらくぶりの再読ですが、面白いことが結構書かれていたなあと。著者の初めての"単著"だったとのことですが、その後に著者が書いた日本語に関する本(クイズ本的なものも含め)のエッセンスが本書に詰まっていたのだと再認識しました(エッセイ風にさらっと読めてしまう分、忘れていることも多かった)。

 第1部「正しい日本語?」第1章の「いろいろな日本語」に、最近の若者の言葉の乱れを書いていますが、基本的には寛容というか、著者自身が面白がっているようなところもあるものの、「アケオメ、コトヨロ」(明けましておめでとう。今年もよろしく)みたいな携帯メール言葉に出くわすと、さすがに「面白がってばかりいられなくて、少しは苦言を呈したくなってくる」と。

 第2章の「気持ちのいい日本語」で、「伸ばしあうアメリカ人・補いあう日本人」というのがあり、グループが協力的な態勢を作るに際して、アメリカ人は「お互いのいい点を発揮しあおう」、日本人は「お互いの足らない点を補いあっていきたい」と言うことが多いそうで、認め合うのが長所なのか短所なのかという日米対比が興味深いです。

 第2部「人見知りの文化」は、会話(おしゃべり)のスタイルについて書かれていますが、さらに比較文化論的な要素が強くなり、「道をきかない日本人」とかは確かにそうだなあと(著者が常に自分自身を振り返って「自分もそうだが」と言っているため、なんとなく親近感がある)。

 「ひとつの話題で盛り上がれるのは、参加者が五人までだという」のも、ナルホドそうだなあという感じで、「レストランでの注文の仕方」の日本人とアメリカ人の違いの話も、確かにそうだなあと納得、著者がアメリカでサンドイッチを注文しようとして、どういうパンを使って何を入れるか店の人にいろいろ聞かれ難渋した話も面白かったです(レストランの入り口にある料理見本は、日本独自のものらしい)。

 "単著デビュー"が「角川oneテーマ21」であるのは、親父さん(金田一春彦)の著作がこの新書に収められているヨシミなのかも知れませんが、自分で自分がこう本を出すのも、親の七光り、十四光り(祖父まで含め)によるものと思われると言っている、この腰の低さが、テレビ番組などでの好感度にも繋がっているのではないかと。

 若い頃は、高校に馴染めず、修学旅行や卒業式は欠席し、大学でもあまり勉強せず、海外放浪に出て、それが今の日本語教師の仕事に繋がっているようですが、研究論文は書いていないそうで、アカデミズムの本流と違うところにいるのは、やはり"七光り、十四光り"の重圧の反作用かな?
 
 でも、日本語の面白さをテレビ等を使って広く伝えるというやり方は、ある意味では、論文など書いているよりも影響力があるかも。
 結局は、親父さんと同じように、日本語から日本文化論・日本人論へといくのだろうなあ、この人は。

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面白く読めたが、いろいろな階層レベルの話を一緒に論じてしまっている印象も。

その日本語が毒になる!.jpg その日本語が毒になる!帯.jpgその日本語が毒になる! (PHP新書 521)』['08年]

 ベテランの量産型ミステリー作家が、日本語の使われ方についてそのモンダイな部分を指摘したもので、「何様のつもりだ」「おまえが言うな」「いかがなものか」「だから日本人は」「不正はなかったと信じたい」といった、言っても言われても心が傷つく言葉の数々を挙げ、その背後にある人間心理や日本人特有の文化的・社会的傾向を指摘しており、そうした意味では、日本語論と言うよりコミュニーケーション論的色合いが強く、さらに、日本人論・日本文化論的な要素もある本です。

 面白く読め、読んでいて、耳が痛くなるような指摘もあり、反省させられもしましたが、日本語の問題と言うよりその人の人間性の問題、また、その言葉をどのような状況で用いるかというTOPの問題ではないかと思われる部分もありました(実際、第2章のタイトルは「人間性を疑われる日本語」、第3章のタイトルは「普通なようで変な日本語」となっている)。

 「二度とこういうミスが起こらないようにしたい」といった定型表現が、いかに謝罪行為を形骸化してるかということを非難しており、確かに「訴状が届いていないのでコメントできない」という言い回しをいつも腹立たしい思いで聞いている人は多いのではないでしょうか(にも関わらず、使われ続けている)。一方で、ファミレスのレジで聞かれる「1万円からお預かりします」など、よくある"日本語の乱れを指摘した本"などでは批判の矛先となるような言い回しに対しては、「旧来の日本語にはない進化形」として寛容なのが興味深いです。

 後半に行けば行くほど、言葉の使われ方を通しての日本文化論、社会批判的な様相を呈してきて、「無口は美学」というのが昔はあったが、本来は「いちいち言わないとわからない」のが人間であると。但し、「おはようございます」に相当する適切な昼の言葉が無いということから始まって、「日本語の標準語は、構造上の欠陥から自然なコミュニケーションをやりずらくしている」とし、再び「日本語」そのものの問題に回帰しているのが、本書の特徴ではないかと。

ことばと文化.jpg 言語学者の鈴木孝夫氏は、日本の文化、日本人の心情には、「自己を対象に没入させ、自他の区別の超克をはかる傾向」があり、「日本語の構造の中に、これを裏付けする要素があるといえる」(『ことばと文化』('73年/岩波新書))としていますが、その趣旨に重なる部分を感じました。

日本人の論理構造.jpg 第4章のタイトルは「恐がりながら使う日本語」で、「伝統的に口数の少ない日本人は言葉というたんなる道具に過剰な恐怖を感じる民族」であり、「思ったことを言えず心に溜め込んではストレスとなり、言ったことが相手を傷つけてはいまいかとまたストレスになる」と言っていますが、日本語がそれ自体を発することの禁忌性を持つことについては、ハーバード大学で日本文学を教えていた故・板坂元が「芥川の言葉じゃないが、人生は一行のボードレールにもしかない」と、まさに芥川の言葉なのに、どうしてわざわざ「芥川の言葉じゃないが」と言う表現を用いるのか、という切り口で、同様の指摘しています(『日本人の論理構造』('71年/講談社現代新書))。

 日本語そのものの特質が、日本文化や日本人の性向と密接な繋がりがあることは疑う余地も無いところですが、本書からは、いろいろな階層レベルの話を一緒くたにして論じてしまっているとの印象も受けました。

 でも、会社のお偉方から「どうだ、メシでも食わんか」と言われて「美味しいごはんを食べながら、よくない話を聞くほど身体に悪いものはない」なんて、その気持ち、よくわかるなあ。相手も恐がっているわけか。

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会話形式の例文に職場や飲み屋での会話のような親しみ易さ、昔のTVドラマ風のレトロ感。

故事ことわざ辞典 宮腰.jpg 『故事ことわざ辞典―現代に生きる』 故事ことわざ辞典 旺文社 特装版2.jpg 「特装版」('83年)

 辞典を読む趣味も無いし、実際に読み通した辞典など殆ど無いのですが、本書は、日々、電車の社内で読み継いで、最後まで読み通した数少ない辞典の1つ(自分が持ち歩いて読んだのは同じくコンパクトサイズの「特装版」('83年))。

 故事成語の出典が分り易く明記されている、類似する英語のことわざ・慣用句を英文で併記してある、付録として世界の名言・名句が自己、青春、友情などのテーマごとに纏められているなど幾つかの特長がありますが、何と言っても最大の特長は、会話形式による例文で、これがなかなか面白い、と言うか、まあ凡庸なのだけれど、ついつい読んでしまう...(1つ1つが結構長文であるため、約450ページにして収録されている故事ことわざ・慣用句は3千600項とやや少なめか)。

 例えば、「いかもの喰い」に付された会話文は―、
 「あなたのボーイフレンド、見栄えがしないわね。あんな人とつきあうなんて、あなたも相当ないかもの食いね」
 「あら、なんてこと言うの? 人は見かけじゃないわよ。彼の善さは俗人にはわからないのよ」

 「嬶(かかあ)天下」には―、
 「おまえ、結婚したらつきあいが悪くなったぞ。今晩、一杯ぐらいつきあえよ」
 「勘弁してくれよ。おれが外で飲んで帰ると女房の機嫌が悪くてね。おれのところは嬶天下の家系なのかな。うちのおやじもおふくろに頭が上がらなかったよ」

 「情けは人の為ならず」には―、
 「十年も前の話だが、彼がひどく困っていたんで、就職の世話をしたことがあるんだ。そしたら、わたしが定年退職した今でも、なにかとよくしてくれるよ」
 「情けは人の為ならずと言いますが、必ず自分に返ってくるものですね」

 中国故事成語の方は、原典の読み下しや故事の由来に行数を割いているため、どちらかというと日本のことわざや慣用句にこの手の会話文が多く付されているのですが、職場や飲み屋での会話のようなものが多くて親しみ易く、また、昔のテレビドラマの脚本を読んでいるみたいなレトロ感もあったりします。

 しかし、会話文を考える側の方は大変だったろうなあ(結構、楽しんで"創作"していたのかも知れないが)。

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作家たちの用いた「俗字・宛字」的漢字表現を蒐集。「手書き文化」の産物?

遊字典.jpg遊字典―国語への挑戦 スキゾ=パラノ・ハイテク・マニュアル (1984年)』 辞書にない「あて字」の辞典.jpg辞書にない「あて字」の辞典 (講談社プラスアルファ文庫)』 ['95年]

 仮名垣魯文以降の作家たちが自ら作中に用いた、一般的には俗字・宛字とされている漢字表現を蒐集し、用法と共に示した「字典」で、なぜこんなものが手元にあるのか自分でもわかりませんが、パラパラめくっていると結構楽しめるのは確か(多分、衝動買いしたのか)。フツーの「○○辞典」と呼ばれるものほど役には立たないし、それほど"使い込んだ"形跡も無いのですが、何となく処分しがたいという点では、「辞典」に通じるものがあります。('84年刊行、'95年 『辞書にない「あて字」の辞典』と改題され「講談社+α文庫」所収)

夏目漱石.jpg それにしても、夏目漱石、国木田独歩、島崎藤村、これに限らず多くの文豪たちは、俗字・宛字を実にふんだんに使っているなあと感心させられます。
 「くたびれる」を漱石は「疲れる」、独歩は「疲労る」と表し、藤村は「遭遇す」で「でくわす」、「直径」で「さしわたし」と読ませ、確かに、漢字の表意性を生かしているけれども、漱石は「はかりごと」を「謀計」とか「計略」とか作品により書き分けていたりしていて少し節操がない感じもします。
 作家にして見れば、このニュアンスの違いが大事なのだろうけれども、漱石は本書のどのページにも登場する常連になっています。
 但し、凡例の説明で、作家・作品の重要度に比例して語彙を選択するのではなく、文字(表意)の面白さにのみ着目したとあり、「虚実皮膜」=「パンティ」(南伸坊)などは面白いので取り上げたとし、井上ひさし、筒井康隆など現代作家の用例も集められていています。

 帯にも「感じる辞典」とあり、軽い遊びのようなものかと思いきや、実は、その解説の前に「Prefaceのようなメッセージ」と題された前書きがあり、ソシュールの言語理論がどうのこうのとあって、旧来のアカデミズムに対して新たな視座を示すと言うか、随分気合が入っている様子も。
 要するに、本書刊行の頃に流行った「ニューアカ・ブーム」に同調するものらしく(「スキゾ=パラノ・ハイテク・マニュアル」というサブタイトルからしても)、確かに、"現代作家"の用例の中に、浅田彰、中沢新一、栗本慎一郎、柄谷行人などのものもあるし、上野千鶴子や山口昌男なども出てきます(このアンバランスが、たまたま"二重に"時代を感じさせ、またアクセントとなって面白いのかも)。

 「ニューアカ」云々に関わらず、こういうのは「手書き文化」の産物だという気がし、本書にも事例があるようにCMコピーや商品名では一定のサイクルのもとに興隆するけれど、ワープロ文化、ワープロ原稿全盛となると、一般には衰えていくのではないでしょうか。先のことはわかりませんが、「昔の人は自由にやってたなあ」ということになるような気がします(今、巷で流布しているのは、「誤字」としての宛字だからなあ)。

 【1986年文庫化[角川文庫]/1995年再文庫化[講談社+α文庫(改題 『辞書にない「あて字」の辞典』)]】

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自分の無知に気づき嫌気がさす前に、読み終わってしまう気軽さ。

ことわざの知恵.gif 『ことわざの知恵 (岩波新書 新赤版 (別冊7))』 ['02年] 四字熟語ひとくち話.gif 『四字熟語ひとくち話 (岩波新書 新赤版 別冊 10)』 ['07年]

岩波ことわざ辞典.jpg 岩波書店編集部員がことわざ研究家・時田昌端氏の『岩波ことわざ辞典』('00年/岩波書店)の刊行を手伝った際に気がついた、ことわざの色々な側面や「目から鱗が落ちる」(57p)エピソードを拾い集めた本で、1ページにことわざ1つずつ収め、説明も至極簡潔、かつ軽妙洒脱で(「赤信号皆で渡れば怖くない」(27p)なんていうのも含まれている)、楽しく一気に読めました。

岩波ことわざ辞典』 ['00年]

 「医者の不養生」と「紺屋の白袴」のニュアンスの違い(9p)など、何となくわかっていても、きちんと説明されてなるほどという感じ。医者の場合は単なる言行不一致だけれど、紺屋の方は、忙しく手が回らないということか。「紺屋の明後日」(10p)なんて言われるのも、天候次第で納品が遅れることがあるわけだ。紺屋さん、大変だなあ(自社のサイトが更新されていないホームページ制作会社っていうのはどっちに当たる?)。

 「年寄りの冷水」(128p)とは、冷水を浴びているのではなく、冷たい生水をがぶ飲みしている図であり、「知らしむべからず、由らしむべし」(129p)とは、「十分な知識の無い民衆に、政策の意味や理由を理解させることはできないだろうが、政策が間違っていなければ従わせることはできる」という意味であって、民衆には何も知らせるなということではないのだ。

 こうしたことわざの誤釈も多く紹介されていますが、「船頭多くして船山に登る」(120p)が「大勢が力を合わせれば何でもできる」とかいうのはまさに珍解釈、「灯台下暗し」(135p)は「トーダイ、モト、クラシ」であり、ここで言うトーダイとは、岬の灯台ではないし、「天高く馬肥える秋」(138p)の馬とは、北方の騎馬民族の馬であり、もともとは事変に備えよということらしいけれども、こうなるともう元の意味では使われていないなあ。

 たまにこういうの読むと自分の無知に気づき、いやになることもありますが、ページ数も175ページしかなく、嫌気がさす前に読み終わってしまう気軽さも却っていい。

 このシリーズでは、あと、『四字熟語ひとくち話』('07年)がお薦めで、こちらも1ページに1つずつ四字熟語を収めていますが、解説がエッセイ風とでも言うか、時折世相への風刺も入って、「天声人語」を読んでるみたいな感じ。

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「蘊蓄本」と言えばそれまでだが、構成は工夫されている『漢字の常識・非常識』。
 
漢字の常識・非常識.jpg     漢字遊び.gif     『難字と難訓』.jpg
加納 喜光『漢字の常識・非常識 (講談社現代新書)』['89年] 山本昌弘『漢字遊び (講談社現代新書 (783))』['85年] 長谷川 滋成『難字と難訓 (講談社現代新書)』['88年]

 講談社現代新書には、漢字読み書き大会(写研主催)で"漢字博士"になった山本昌弘氏の『漢字遊び』('85年)という本がありましたが、テスト問題形式で、漢字のパズル本といった感じ(読めるけれど書けない字が多かった)。「海」という字が「あ・い・う・え・お」と読めるということ(海女のア、海豚のイ、海胆のウ、海老のエ、海髪(おご)のオ)など、新たに知った薀蓄多かったけれども、どこまでも薀蓄だけで構成されている本という印象も。 
 また、漢文学者・長谷川滋成氏の『難字と難訓』('88年)は、難字の字源解説にウェイトを置き、こちらは白川静の本などに通じるものがありました。

 これらに対し、中国の医学・博物学史が専門である加納喜光氏による本書 『漢字の常識・非常識』('89年)は、漢字の用法にまつわる古代から現代までのエピソード(文化大革命で中国の漢字がどのように変化したかなども紹介されている)をパターン別に紹介していて、その応用としてのクイズなども含まれていますが、蘊蓄が楽しめるとともに、読み物としてもそこそこに味わえるものでした。

 こうして見ると、日本に入ってからかなり柔軟に用法が変わったものも多い(代用や誤用で)ということがわかり、例えば「気迫」などは意味を成しておらず(気が迫る?)、元々「気魄」の代理として用いられたものだとのこと(「緒戦」→「初戦」、「波瀾」→「波乱」などもそう)。
 「旗色鮮明」が「旗幟鮮明」の誤用であることは判るとして、「弱冠29歳」などというのも、「弱冠」は二十歳の異名だそうだから、ちょっと離れすぎで、今までさほど意識しなかったけれど、誤用と言えるかも。

 「忸怩」「齷齪」「髣髴」「齟齬」など著者は"双生字"と洒落て呼んでいますが、共通部位のある字をカップルにして用いて初めて意味を成すものなのだそうです(「檸檬」「葡萄」「蝙蝠」など、意外と多い。「婀娜」「揶揄」「坩堝」などもそう)。
 これらに対し、"雌雄"の組み合わせを"陰陽字"と呼んでいて、「翡翠(ひすい=カワセミ)」「鴛鴦(えんおう=オシドリ)」などがそうですが、「鳳凰」「麒麟」というのも"陰陽字"であるとのこと(同時に"双生字"でもあるものが多い)。「虹」はオスのにじで、メスのにじを表す字が別にあるそうです。
 また、「卓袱(しっぽく)料理」の「卓袱」に「台」をつけると「卓袱(ちゃぶ)台」になるけれども、こういうのは、"二重人格"の字と言えるようです。

 「虫」が病気のシンボルであるというのは興味深いですが、「蟲惑」の「蟲」が、虫を使った呪術を表わすということは、白川静も言っていました。
 知らなかったのは、「美人」が宮廷の女官名であったということ(項羽の「虞美人」などもそう)、「夫人」も同じく女官名でしたが、美人より遥かに位は上だったそうな。

 この手の本は「蘊蓄本」と言えばそれまでで、(本書は構成が工夫されている方だが、それでも)読んでもさほど残らないのだけれども、その分、何回でも読み返せる?

《読書MEMO》
●山本昌弘 『漢字遊び』
①画数最大は「龍×4」の64画 →「雲×3+龍×3」の「たいと」84画説も
②読み方の多い漢字は「生」 200通り近くあるという説も
③「子子子子子子子子子子子子」→「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」
④「海海海海海」→「あいうえお」
⑤「髯」はほお、「髭」は口、「鬚」はあごのひげ
⑥漢字の2番目の音は「イウキクチツン」の7つのみ(苦痛いんちき)
⑦「春夏冬ニ升五合」→「商いますます繁盛」

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日本人の言語表現を通し、その心性を浮き彫りに。一番驚いたのは、著者の博覧強記ぶり。

日本人の言語表現.gif日本人の言語表現 (講談社現代新書 410)』 ['75年] 日本語 金田一春彦.jpg 『日本語』 岩波新書 ['57年]

日本人の言語表現862.JPG 日本人の言語表現が諸外国人に比べてどのような特色を持つかを論じた本で、著者は、自著『日本語』('57年/岩波新書)が日本語の「ラング」(言語体系)の特色を論じたのに対し、前著『日本語の生理と心理』('62年/至文堂)をベースとした本書は、日本語の「パロール」の性格を考えたものだと言っています(「パロール」とは何かと言うと、言語活動には「ラング(言語)」と「パロール(発話)」があり、「ラング」を言語体系とすれば、「パロール」は個人の意思や思想を伝えるために発する「お喋り」と言ってもいいだろう。この分類をしたソシュールは、言語学は「ラング」のみを対象とすべきだとしたが、そうした意味においても、本書は、「日本語論」であると同時に「日本人論」であると言える)。

 古今の様々な使用例を引き、日本語表現の「言い過ぎず、語り過ぎず」「努めて短く済ます」、「なるべく穏やかに表し」「間接表現を喜ぶ」といった特徴と、その背後にある日本人の心性を浮き彫りにしていますが、本書の特徴は何といっても、その使用例の"引用"の多さにあるでしょう。

 『古事記』『日本書紀』『万葉集』『今昔物語』『伊勢物語』『源氏物語』『枕草子』『平家物語』『大鏡』『古今著聞集』『源平盛衰記』『義経記』『梁塵秘抄』『徒然草』といった古典から、西鶴の『武道伝来記』『諸国話』『世間胸算用』、或いは『里見八犬伝』『浮世風呂』などの江戸文学、『葉隠』や『奥の細道』から洒落本まで、更に、歌舞伎(『絵本太功記』『仮名手本忠臣蔵』『白波五人男』など)、狂言、浄瑠璃、謡曲、落語、浪曲、常磐津に至るまで、近代文学では、永井荷風(『濹東綺譚』)、芥川龍之介(『貝殻』)、尾崎紅葉(『金色夜叉』)、夏目漱石(『坊ちゃん』)、泉鏡花(『婦系図』)、志賀直哉(『城の崎にて』『暗夜行路』)、小泉八雲といった近代文学、これに山崎豊子の『華麗なる一族』など現代文学も加わり、ラジオ・テレビなどのアナウンサーやタレント(黒柳徹子や大橋巨泉も出てくる)の言葉使いなども例として引いています。

ことばと文化.jpg「甘え」の構造5.jpg日本人とユダヤ人.jpg日本人の論理構造.jpg日本人の意識構造(1970).jpg 更に、べネディクト『菊と刀』、会田雄次『日本人の意識構造』『日本人の忘れもの』、板坂元『日本人の論理構造』ベンダサン(山本七平)『日本人とユダヤ人』土井健郎『甘えの構造』、南博『日本人の心理』など、先行する多くの日本人論を参照し、祖父江孝男、鶴見俊輔、上甲幹一(『日本人の言語生活』)、渡辺紳一郎、清水幾太郎、ドナルド・キーン、鈴木孝夫など多くの学者・評論家の言説も引いています(これらは、ほんの一部に過ぎない)。

 あまりに引用が多すぎて、解説がコメント的になり、「論」としての印象が弱い感じもしますが、作品のエッセンスを読み物的に一気に読ませて、全体のニュアンスとして日本語の「喋り」の特質を読者に感覚的に掴ませようとする試みともとれなくもありません(ちょっと、穿った見方か?)。

 個人的には、「辞世の句」とかいうのは日本においてのみ顕著に見られるもので、新聞などに俳壇や歌壇があって一般の人が投稿するなどというのも外国人から見ると驚きであるというのが印象に残りましたが、元々、俳句・短歌というのが日本独特の短詩型だからなあ(鈴木大拙、李御寧、板坂元などの日本人論にも、俳諧論は必ず出てくる)。
むしろ、一番驚いた(圧倒された)のは、著者の博覧強記ぶりだったかも。

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日本語独特の表現の底にある日本人の価値観を探り、日本文化論・日本人論へと展開。

日本人の論理構造.jpg 『日本人の論理構造 (講談社現代新書 258)』 ['71年] 板坂元.jpg 板坂 元 (1922-2004)

日本人の論理構造2857.JPG 「芥川の言葉じゃないが、人生は一行のボードレールにもしかない」ってまさに芥川の言葉なのに、どうしてわざわざ「芥川の言葉じゃないが」と言う表現を用いるのか? こんな切り口から入って、日本語の言葉の背後にある日本人独特の論理や価値観を探り出した本。

 著者の板坂元は、当時ハーバード大学で日本文学を教えていて、本書では先ず、英語には訳せない言葉を分析対象にしており、「なまじ」「いっそ・どうせ」「せめて」といった言葉をとりあげていますが(確かに英訳できないだろうなあ)、それらの分析がなかなか興味深かったです。

 日本語においては「れる・られる」「なる」といった自然発生的な感覚の表現(感じられる・考えられる・思われる・なりました・決まりました...etc.)が多いのは(この受身的表現も外国人には不可思議なものらしい)、"責任逃れ"する日本人の心性ともとられるけれども、"奥ゆかしさ"を重んじる日本人の心性の表れと見る方が妥当だろうと。

 「やはり」とか「さすが」というのも、日本語独特のニュアンスを含むわけで、無精髭で有名な男が格式ばった場に望んだ際に、「さすがに彼も髭を剃ってきた」「さすが、彼は髭を剃らずに来た」と相反する状況で使えるというのは、面白い指摘でした。

 著者によれば、日本語には、皮膚感覚的表現(手応え・滲み滲み...etc.)が多い一方で、空間(位置)感覚的言葉は少ないらしく(確かに、英語の前置詞などは種類も多いし用法もはなはだ複雑)、こうしたところから更に、日本文学における情景描写のあり方や浮世絵、連歌・俳諧など文学・芸術論に話は及び、後半になればなるほど、本書は、日本文化論、日本人論の色合いを強めていきますが、本書の刊行時、ちょうど『日本人とユダヤ人』('70年/山本書店)などの刊行もあって、世の中は日本人論ブームだったわけです。

日本人の人生観.jpg日本人の言語表現.gif 本書での著者の博学を駆使した日本語論は、金田一春彦『日本人の言語表現』('75年/講談社現代新書)と読み比べると面白いかと思いますが(この人の博学ぶりも"超"級)、著者の場合、長年アメリカで教鞭をとってきただけあって、英語圏との比較文化論的な視点において、多くの示唆に富んだものであると言えます。

 例えば、「明日、試験があった」という表現が成り立ってしまう(手帳にメモを見つけた際など)ような「時制」に対する日本人の感覚から敷衍して、常に「歴史」の流れの外側に身を置き、「歴史」を「思い出」としてしまう日本人の心性を指摘している点などは、山本七平『日本人の人生観』('78年/講談社)にある指摘に通じるものを感じました。、

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普段何気なく使っている漢字にこんな意味が込められていたのかとビックリ。

漢字百話.jpg              漢字百話2.jpg           白川 静.jpg 
漢字百話 (中公新書 (500))』['78年]『漢字百話 (中公文庫BIBLIO)』['02年]白川 静 (1910‐2006/享年96)

 漢字の成り立ちについて10章×10話に纏めたもので、「百話」と言うより「百講」に近いですが、1話ごとにさらに幾つもの漢字の起源が紹介されていて、その数は膨大です(索引が欲しかった気もする)。
 しかし、単なる項目主義ではなく、漢字の成り立ちが「記号」「象徴」「宗教」「霊」「字形」「字音・字義」などといった観点から体系的に説明されているため、漢字学に学術的に迫りたい人をも満足させるものとなっています。

 一方で、雑学的関心でただただ"日めくりカレンダー"的に読んでも楽しい本で(自分はどちらかと言うとこの読み方)、末尾では漢字教育のあり方や漢字の将来についても論じていますが、個人的には、漢字の起源を呪術や宗教、霊との関連で説明した部分が興味深く、普段何気なく使っている漢字にこんな意味が込められていたのかとビックリさせられました。

 漢字のもとにあった金文や甲骨文字などの象形文字を、単なる図形でなく、シンボルとして捉えているのが白川漢字学の特徴と言えるかも―。

 「字」は家の中にいる子を表すが、この家は廟屋であり、氏族の子が祖霊に謁見し、生育の可否について承認を受ける儀礼を意味し、その時に幼名がつけられるので、字はアザナであるとのこと。

 「告」は、牛が人に何事か訴えかけるために口をすり寄せている形だとされているが、この字の上部は木の枝(榊)を表し、「口」はそれに繋げられた祝詞を入れる器を表すことから、神に告げ訴えることであるとのこと。

 かつて見る行為は呪術的なものであり、呪力を強めるために目の上を彩ったところから「眉」の字があり、呪術をなす巫女は「媚」と呼ばれ、戦さで敵方に勝つと、呪能を封じるため敵方の巫女は戈(ホコ)で殺され、それが軽蔑の「蔑」という字(上部は眉を表す)、「道」は異族の首を携えて往くことを意味するとのこと。

 「新」は斤(オノ)で切った木に辛(ハリ)が打ち込まれたもので、これを見ている形が「親」だが、この木は位牌を作るための神木で、これを見ているのは親を失ってこれを祀る子であるはずとのこと(この辺りの解釈が、いかにもこの人らしい)。

 こうした話が、ぎっちり詰まった本。最近では、『白川静さんに学ぶ漢字は楽しい』、『白川静さんに学ぶ漢字は怖い』('06年・'07年/共同通信社))といった本なども出版されていて、没後まだまだ続く「白川漢字学」ブームといったところですが、それらの本のソースも、大体この本に収められています。

【2002年文庫化[中公文庫BIBLIO]】

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1つ1つの漢字の成り立ちの話はどれも面白く、新書で新説を発表しているのが興味深い。

漢字 生い立ちとその背景.jpg 『漢字―生い立ちとその背景 (岩波新書)』 ['70年] 白川静の世界.jpg 『白川静の世界』 別冊太陽 ['01年]

カレンダー.jpg 白川静(1910‐2006)と言えば漢字、漢字と言えば白川静で、最近では象形字体を解説したものがカレンダーになったりしていますが、本人が一般向けに直接書いた本は意外と少ないのでは(中公新書に4冊、岩波新書は本書のみ)。但し、一般向けだからと言って手抜きは無く、本書もカッチリした内容。

 言われてみれば、漢字という文字は確かに不思議。四大文明発祥の地で起きた文字文化のうち、インダスの古代インド文字などは早くに姿を消し、楔形文字やエジプト文字も紀元前の間に「古代文字」化しているのに、漢字だけが連綿と現代にまで続いている―。漢字にも、現在の漢字と古代象形文字(竜骨文字)の間には断絶がありますが、多くの古代文字が発見(発掘)から解読まで長い年月を要している(或いは未解読である)のに比べ、竜骨文字は比較的短い期間で解読されていて、著者はその理由の1つに、象形文字としての古代文字が音標化されず表意文字のまま形だけを変えて現代にまで使われていることをあげています。

 このように、漢字の基本が表意文字であるというのは誰もが知ることですが、一方で、古代から表音文字としても使われていたことなど、本書を読むといろいろと意外な事実が明らかになり、1つ1つの漢字の成り立ちの話はどれも面白く、古代呪術の話が多く出てきて、ほとんど文化人類学の世界です。

常用字解.jpg 最初に本書を読んだときは、書かれた時点では定説となっていたことが記されているのかと思いましたが、例えば本書にある「告」という字は、もともと「牛」が「口」を近づけて何か訴える様とされていたのが、「口」には神への申し文(祝詞)を入れる「器」という意味もあると著者が言ったのは本書が初めてで、当時の学会における新説だったそうです(別冊『太陽』の白川静特集('01年)では、「1970年の出来事-口(サイ)の発見」として、その衝撃を顧みている)。

漢字百話.jpg こうした1つ1つの文字の成立は、新書では『漢字百話』('78年/中公新書、'02年/中公文庫)により詳しく書かれていますが、「新説」を「新書」で発表してしまうのが興味深く、一般書でも手を抜かない証しとも言えるのでは(本人はそれ以前に気づいていたわけだから、計画的?)。

漢字百話 (中公新書 (500))

 東大学派と対立し、後に同じ京都学派でも京大派とも意見を異にし、自身の母校である立命館大学に奉職していますが、もともと立命館も最初は夜学で学んで、卒業後しばらくは高校の先生をしていたという遅咲きの人(94歳での文化勲章受賞というのも遅い)。

 いまだにこの人の言っていたことは本当なのかという解釈を巡る議論はありますが、一方で、没後も「白川静 漢字暦」は刊行されていて(勿論、『字統』や『字訓』も改版されている)、「白川学」の学徒やファンの多いようですが、個人的にもこの人のファンです。

 (本人は、名前の読みが1文字違いのフィギアスケートの荒川静香のファンだったとか、将棋が趣味で、任天堂DSで将棋ゲームをやっていたとか、晩年の逸話として親近感を抱かせるものがあるが、言語学者・金田一京助もそうだったように、年齢が進んでもボケない脳味噌を持った所謂"優秀老人"だったのではないか)。

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どちらかというと大人になってからの「ボケ防止」にいいのでは?

ちびまる子ちゃんの音読暗誦教室.jpg 『ちびまる子ちゃんの音読暗誦教室』 声に出して読みたい日本語.bmp 『声に出して読みたい日本語

子ども版声に出して読みたい日本語.jpg 齋藤孝氏の『声に出して読みたい日本語』('01年/草思社)(2002(平成14)年・第56回「毎日出版文化賞」特別賞受賞)がミリオンセラーとなって第5巻まで刊行され、それに続いた『子ども版 声に出して読みたい日本語』('04年/草思社)は12巻まで刊行、但し、版元の草思社は民事再生法を適用申請するに至り、出版社の経営が今いかに厳しいかということなのか、1つのヒットに頼りすぎるのはよろしくないということの教訓なのか...。
 本書は、『子ども版』シリーズの前に出たもので(版元は集英社)、「大人・子ども共用版」みたいな感じです。
 石川啄木、夏目漱石、宮沢賢治」、中原中也、太宰治、シェークスピア、ランボーから落語の寿限無、徒然草、枕草子までの多彩な名文を収録、引用文については大活字を使用していて、「齋藤メソッド」セミナーでは、本書がそのままテキストになっているそうです(三色ボールペン持参で受講するらしい)。

誤読日記.jpg 『声に出して読みたい日本語』に対し一部に疑問を投げかける人もいて、斎藤美奈子氏などは『誤読日記』('05年/朝日新聞社)の中で、「こんなのに束になって押し寄せられたら『参りました』というしかない」と認めつつ、「あえて因縁をつけてみたい」として、カール・ブッセのような翻訳詩の類がないことなどを挙げていました。しかし、『声に出して読みたい日本語2』にはしっかり収録されていて、本書にもありました―「山のあなた」が。

陰山英男.jpg川島 隆太.jpg "音読"は多くの小学校でこぞって採用され、齋藤孝氏は、NHK教育の「にほんごであそぼう」の監修もしている―。ではホントに学習上の効果があるのかというと、その点では、東北大の川島隆太教授が、「音読や単純計算をしているときは脳が活性化している」ことを実験的に証明していて、これが、斎藤孝氏の"音読"と陰山英男氏の「百ます計算」の"科学的"根拠になっている?

 個人的には、私立・公立を問わず全ての学校が、誰かが提案したものを一斉に採り入れる、その風潮が、やや気味悪いなあと。
 効果のほどはよくわかりませんが、「子どもたちとすべての大人のために」と副題があり、齋藤孝氏自身、「小学校の時に名文を覚えておくと、七十や八十になって思い出した時、大きな楽しみになる」と本書に書いています。
 だとすれば、どちらかというと大人になってからの「ボケ防止」にいいのでは?

 斎藤美奈子氏は、棒読みでよし、とする齋藤式暗誦は、音声言語を平板化するのではないかとの疑問も呈していましたが、逆に、本書を読んで、小学唱歌「あおげば尊し」の歌詞の意味を一部誤解して覚えていたことに気づきました(「あおげば尊し」の場合、歌詞の教え方が"棒読み"的と言えるかも)。
 向田邦子のエッセイ集に「眠る盃」とか「夜中の薔薇」というのがありましたが、何れも「荒城の月」「野ばら」の歌詞を彼女が勘違いして覚えていたことからとったタイトルで、それとほぼ同じだなあ。

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「増補」には笑える箇所も。'60年代後半の世相が垣間見える。

外来語辞典.jpg    増補 外来語辞典 楳垣実 東京堂出版.jpg 外来語辞典2.jpg
 『外来語辞典 (1966年)青本     『外来語辞典 増補』 〔'72年〕赤本

 故・金田一春彦が「外来語の権威」として認め、代表的著書『日本語』(岩波新書)にその名がよく登場した楳垣実(うめがき・みのる、1901‐1976)は、外来語辞典や隠語辞典を編纂したことで知られる一方、小説・詩・俳歌などもこなす広い意味での文人であったようです。

 本書は' 66年に初版青本が刊行された、その名の通り「外来語辞典」ですが、例えば近年話題の「アスベスト」なども、「(オ)asbest<(ラ)asbestos〔鉱物〕石綿.火浣布.「火浣布の名を...アスベストスともいへり」平賀源内『火浣布略説』1765」といった具合に、典拠まで書かれている、一方で、「スー・アンコー(四暗刻)」などという語もあり、何だか親しみやすい。

 '72年刊行の増補版赤本には、'66‐'71年の5年間の新語の「増補」があり、「宇宙(開発)」と「電算(コンピュータ)」というジャンル区分が追加されているのが時代を思わせますが、中身を見ると少し笑える箇所もあります。

 例えば、ハプニングは、「(英)happening 突発事件.突発事態.〔(中略)アングラ族ヒッピー族の好んでやるショー.新宿地下道での焚火とか、異様な風態での街頭行進とか、金をかけないで開放感が味わえる人目を引く行動〕とあり、

 次のハプニング・ショーは、「〔テレビ〕木島則夫が担当した1970年の予測できないプログラムだが、結局野次馬のため大混乱に終わった」と。

 その少し下に出てくるパルサーは、「(英)pulser 〔天文〕脈動電波星.〔1967年に発見された天体で、コギツネ座の方向から正確な間隔の電波を送るので、発見当時宇宙人からの通信かと大騒ぎした〕、

 次のパルスは、「(英)pulse〔電算〕脈を打つように瞬間的に流れる電流で、電算機の内部で超高速で走り廻って演算を行う」となっています("走り廻って"というのがいい)。

 1列だけ見てもこれだけ面白い。編者自らの理解の範囲で、自らの言葉で一生懸命書いている感じで、新しいものを取り込もうとする意欲は感じられるけれども、新しい言葉(とりわけ外来語)を追っかけるのは、当時から大変だったみたいで、図らずして、'60年代後半の世相が垣間見える「増補」となっています。

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日本語・言語学の基本書。著者の碩学に驚かされる。

日本語 金田一春彦.jpg 旧版 ['57年] 日本語 上.jpg 日本語 下.jpg 『日本語〈上〉〈下〉)』 金田一春彦先生.jpg 金田一 春彦 (1913-2004/享年91)

 旧版(全1冊)は著者の40代前半の著作で、「日本語はどんな性格を持つ言語か」をテーマに、地域や職業、身分・性別、場面等の違いにおける日本語の諸様相を外国語との比較において検証し、更に、発音・語彙・文構成の各側面で見たその特性を述べたもので、日本語・言語学の基本書とも言える本。

 後書きに、「日本語をあらゆる角度から眺め、その性格を明らかにするつもりだった。が、日限と紙数の制限の関係で、予定したちょうどなかばで、ペンをおかなければならないことを残念に思う」とありますが、一方で、「形態論から見た日本語に言及しないで、日本語の特色を論ずることはナンセンスに近い」ともあります。

 言語学者ソシュールは、「言語には、ラングとパロールの2側面があり、ラングとは、ある言語社会の成員が共有する音声・語彙・文法の規則の総体(記号体系)であるのに対し、パロールは、ラングが具体的に個人によって使用された実体である」としています。

 本書を最初に読み始めたときは、言語学的な(ソシュールが言うところのラングの)解説が続いて入り込みにくかったのですが、引いてくる事例が古今東西の言語、日本の古典・近代文学作家から我々の日常表現まで多彩で、読み進むうちにハマってくるという感じ。
 その碩学には驚かされますが、語り口には、一般読者に配慮したかのような暖かみがあります。

 もともと日本語のアクセント研究からスタートした人ですが、本書以降、日本人の言語表現(パロール)、更には日本人論・日本文化論の方へまで領域を拡げていたように思え、一方で、アクセント研究も続けていたようです(10代の頃は作曲家志望だったとか)。
 本書についても、初版刊行後30年をを経た'88年に改訂増補(2分冊になった)するなどのフォローしています。

《読書MEMO》
● 日本語はどこからきたか→世界の言語の中で、日本語ほど多くの言語と結びつけられた言語はない→日本語がそれだけ〈どの言語とも結びつきにくい言語だ〉ということを示す。(11p)
● 日本語はシナ語の影響をかなり受けているが、外国語へ日本語が与えた影響はきわめて少ない。これは文明国の国語として珍しいことである。(28p)
● 日本語の方言の違いが激しいのは、日本人がこの領土へ着てからの年月が長いから(34p)
● 日本語は拍の特質がポリネシア語に近い。日本語の単語が長くなるのはそのため―例:小田急電鉄の駅名Soshigayaookura、Seijyoogakuenmae 外国人には読みづらい(110p)
● 「湯」の英語は無い(129p)
● 「惜シイ」「モッタナイ」はアメリカ人などに説明しにくい単語(141p)
● もやもやした気分を表す語句が多い「何となく・そろそろ・ぼつぼつ・そのうちに・なんだか・どこか」(142p)

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現代若者気質も窺え、自分を顧みて冷や汗が出る部分も。

かなり気がかりな日本語.gif  『かなり気がかりな日本語 (集英社新書)』〔'04年〕 野口 恵子(のぐち けいこ).jpg 野口 恵子 氏 (略歴下記)

 日本語と外国語を、外国人と日本人に教えているという著者が、大学生の言葉や流行り言葉、あるいは街角などで耳にする言葉の用法について、その誤りの部分を指摘していますが、単に誤用を指摘するだけでなく、どういう心理からそうした誤用表現を使ってしまうのか、さらにはそれが言語コミュニケーションとしてきちんと成立しているかなどの観点が入っています。ですから、もちろん"正誤"という見方もありますが、"快不快"という捉え方、つまり相手に不快感を与えないということを大事にしていて、その点は類書に比べユニークかも知れません。
 
 一方で、相手を不快にさせまいとして過剰な尊敬表現などを使うあまり、誤用を誘ってしまう言い回しがあったりして、いやあ日本語は難しいなあと思いました。突き詰めると日本語の問題と言うよりコミュニケーション力の問題であって、そうした自分と立場の異なる人とコミュニケーションする訓練がなされないまま、あるいはそれを避けて大人になってしまうのが現代の若者なのかと考えさせられもしました。また、コンビニの「いらしゃいませ」といった定型表現など、コミュニケーションを期待していない表現についての考察も面白かったです。

 「ある意味」「基本的に」「逆に」などの言葉が、本来の意味的役割を失って、婉曲表現や間投詞的に使われているというのは、確かに、という感じで、あまり多用されると聞き苦しいものですが、本人は気づかないことが多いですネ(自分自身も、筆記文などにおいては何となく多用しがちな人間の1人かも知れませんが)。それと本書からは、直裁的言い回しを避ける最近の若者気質のようなものも見えてきて、その点でもなかなか面白かったのですが、時にキッパリと、時にやんわりとした論調の底に、日本語の乱れに対する著者の危惧感が窺えます。 
 
 自分の普段の話し方を振り返って冷や汗が出る部分が多々ありましたが、巻末に「日本語力をつけるためのセルフ・トレーニング」方法があるので、これを実践した方がいいのかな。
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野口 恵子(のぐち けいこ)
1952年生まれ。日本語・フランス語教師。青山学院大学文学部フランス文学科卒業後、パリ第八大学に留学。放送大学「人間の探究」専攻卒、東京大学大学院総合文化研究科言語情報科学専攻博士課程単位取得退学。フランス語通訳ガイドをへて、90年より大学非常勤講師。文教大学、東京富士大学、東京農工大学で教鞭をとる。

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オノマトペについての考察。動物に偏り過ぎた感じもするが、読み物としては楽しめた。

犬は「びよ」と鳴いていた.jpg       山口仲美(やまぐちなかみ).jpg 山口 仲美 氏(略歴下記)
犬は「びよ」と鳴いていた―日本語は擬音語・擬態語が面白い』光文社新書 〔'02年〕

 英語の3倍にも及ぶという日本語の擬音語・擬態語、その研究の魅力にとり憑かれたという著者が、擬音語・擬態語の歴史や謎を解き明かしています。

 三島由紀夫がオノマトペ(擬音語や擬態語)を品が無いとして自分の作品にほとんど使わなかったのは知られていますが(本書によれば森鷗外も好きでなかったらしく、片や草野心平や宮沢賢治は詩や小説の中でうまく使っている)、オノマトペって奈良・平安の時代から使われているものが結構ある一方で、最近でもいつの間にか使われなくなったり(雨戸の「ガタピシ」とか)、新たに使われるようになったもの(レンジの「チン」とか携帯電話の「ピッ」とか)も多いんだなあと。三島が使わなかったのは、時代で使われ方が変わるということもあったのではないだろうかと思いました。

 『大鏡』の中で犬の鳴き声が「ひよ」と表記されているのを、著者が、いくらなんでも犬と雛の鳴き声が同じに聞こえるはずはないだろうと疑念を抱き、濁点の省略による表記と発音の違いを類推し、後の時代の文献で「びよ」の表記を見出す過程は面白く(「びよ」は英語のbowにも似てる)、それがどうして「わんわん」になったかを、独自に考察しているのが興味深かったです。

 その他にも、鶏の鳴き声は江戸時代「東天紅」だったとか、猫は「ねー」と鳴いていて、それに愛らさを表す「こ」をつけたのが「猫」であるとか、やや動物に偏り過ぎた感じもしますが、読み物としてはこれはこれで楽しめました。
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山口仲美(やまぐちなかみ)
1943年生まれ。お茶の水女子大学文教育学部国語国文学科卒。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。文学博士。現在は、埼玉大学教養学部教授。著書に、『犬は「びよ」と鳴いていた―日本語は擬音語・擬態語が面白い―』(光文社新書)、『中国の蝉は何と鳴く?―言葉の先生、北京へゆく―』(日経BP社)、『暮らしのことば 擬音・擬態語辞典』(講談社)などがある。

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面白い指摘もあったが、そんなに売れるほどの内容かなと...。

日本語練習帳.jpg 日本語練習帳.gif 『日本語練習帳』岩波新書 〔'99年〕 大野晋.jpg 大野 晋 氏(学習院大学名誉教授/略歴下記)

 それまで岩波新書で一番売れた『大往生』(永六輔/'94年)の記録230万部に迫る、180万部を売り上げたベストセラー。「練習帳」というスタイルは編集者のアイデアではなく、著者自身が以前から考えていたもので、編集者を実験台(生徒)にして問題の練り込みをしたそうです。

日本人の英語.jpg 面白いが指摘がありました。助詞「は」は、主語+「は」の部分で問題提示し、文末にその「答え」が来る構造になって、一方、「が」は、直前の名詞と次にくる名詞とをくっつけて、ひとかたまりの名詞相当句を作る「接着剤」のような役割があるというものです。そして、「は」はすでに話題になっているものを、「が」は単に現象をあらわすというのです。
 この指摘を読み、『日本人の英語』(マーク・ピーターセン著/'88年/岩波新書)の中にあった、「名詞」にaをつけるという表現は無意味であり、先行して意味的カテゴリーを決めるのは名詞ではなく、aの有無であるという指摘を連想しました。
バカの壁.jpg つまり「は」は、aという冠詞と同じ働きをし、「が」はtheという定冠詞と同じ働きをするのだと。
 そうすると、後に出た『バカの壁』(養老孟司著/'03年/新潮新書)でまったく同じ指摘がされていました。

声に出して読みたい日本語.jpg このように部分的には面白い点がいくつかありましたが、果たしてベストセラーになるほどの内容かという疑問も感じました。
 "ボケ防止"で売れるのではという声もあり、なるほど『声に出して読みたい日本語』(齋藤孝/2001)などで本格化する日本語ブームのハシリかなとも思えなくもないが、『声に出して読みたい日本語』の方こそ"ボケ防止"っぽい気もする。
 むしろ著者の、日本語の敬語や丁寧語が、社会の上下関係からではなく、身内と外部の関係でつくられてきたといった指摘が日本文化論になっていて、そうした点が「日本人論」好きの国民性にマッチしたのでは。
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大野 晋 (オオノ・ススム)
1919(大正8)年、東京深川生れ。東京大学文学部国文学科卒。学習院大学名誉教授。「日本とは何か」という問題意識から古代日本語の研究を始め、上代特殊仮名遣・万葉集・古事記・日本書紀などを研究し「日本語はどこから来たか」を追究。著書に『岩波古語辞典』(共編)『日本語の起源 新版』『係り結びの研究』『日本語練習帳』『日本語と私』など。研究の到達点は『日本語の形成』に詳述されている。

《読書MEMO》
●「私が読んだこの本は、多くの批判もあるが面白かった」...「は」は文末にかかり、「が」は直下にかかって名詞と名詞を"接着"する
●「花は咲いていた」と「花が咲いていた」...「は」すでに話題になっているもの(the)、「が」は単に現象をあらわす(気がついてみたら...)(a)
●「日本語を英語にしろ」と言った志賀直哉は、小説の神様でなく、写実の職人

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比較的楽しく読め、読んで頭に残り、また後で読み返しやすい。

日本語誤用・慣用小辞典.jpg日本語誤用・慣用小辞典』 講談社現代新書 〔'91年〕 国広哲弥(東京大学 <br />
名誉教授).jpg 国広 哲弥 氏(東大名誉教授)
カバーイラスト:南 伸坊
日本語誤用・慣用小辞典2.jpg 新書本で250ページほどの言わば"読む"辞典ですが、項目数を絞った上で1項目あたりの用例解説が充実しているので、類書の中では比較的楽しく読め、読んで頭に残り、また後で読み返しやすいものとなっています。
 
 「浮き上がる」と「浮かび上がる」、「絵に描いた」と「絵に描いたような」の違いなどの、あまり今まで考えたこともないようなものもありましたが、基本的には典型的な誤用例などを拾っていて、そのままクイズの問題にもなりそうなものも多いです。
 ただし、正誤もさることながら、背後にあるニュアンスの違いを重視し、必要に応じて、誤用の原因やどこまで許容されるかといことまで突っ込んで説明しているのが本書の特長でしょうか。

 誤用例として、テレビや雑誌などからも拾っていますが、中には著名な文筆家のもののあり、ちょっと気の毒な部分もありました。
 恥ずかしくない程度の常識は備えておくべきでしょうが、国語学者はどうしても語源や文法に縛られる面もあるので、自分なりの納得度というのも大切にすべきかも。

《読書MEMO》
●一姫二太郎→子供が生まれる順序○
●「おざなり」と「なおざり」
●「食間」に飲む薬○
●濡れ手で泡×→粟○
●逼塞→八方塞で手も足も出ず、世間の片隅にひっそり隠れていること○(多忙×)
●役不足→役目の方が軽すぎる○(力不足×)
●押しも押されぬ×→押しも押されもせぬ○
●体調をこわす×→体調を崩す○
●的を得る→的を射る、当を得る○
●嘘ぶく×→嘯く○
●折込済み×→織込み済み○
●亡き人を忍ぶ×→偲ぶ○ 

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父親が自分のことを「パパ」というのは日本だけ。

ことばと文化.jpg       ことばと文化(英).jpg        鈴木孝夫.jpg
ことばと文化』岩波新書〔'73年〕 『英文版 ことばと文化 - Words in Context --A Japanese Perspective on Language and Culture』英訳新装版   鈴木 孝夫 氏(慶応大学名誉教授/略歴下記)

 言語学の入門書として知られる本ですが、一般読者が気軽に読めるよう平易に、かつ面白く書かれています。

 前半部分で、言葉が「もの」に貼られるレッテルのようなものではなく、逆に言葉が「もの」をあらしめているという考え方を示していますが、そのことを、英語と日本語で「同じ意味」とされている言葉がいかに不対応であるかを引例するなどして説明しています(英語のlipは、赤いところだけでなく、口の周囲のかなりの部分をも指す言葉だというような話を聞いたことがあれば、そのネタ元は本書だったかも知れません)。

ことばと文化 岩波新書.jpg 言葉の意義や定義が、文化的背景によっていかに違ってくるかという観点から、中盤は「動物虐待」にたいする日英の違いなど比較文化論的な、ややエッセイ風の話になっていますが、本書の持ち味は、終盤の、対人関係・家族関係における「人称代名詞」の日本語独特の用法の指摘と、そこからの文化心理学的考察にあるかと思います。

 例えば、家族の最年少者を規準点にとり、この最年少者から見て何であるかを表す傾向(父親が自分のことを「パパ」という)というのは、指摘されればナルホドという感じで、こうした日本語の「役割確認」機能の背後にあるものを考察しています。

 前半部分に書かれていることは、ウンチクとして楽しいものも多く、英語学習者などは折々に思い出すこともあるかと思いますが、終盤の方の指摘は、普段は日常に埋没していて意識することがないだけに、時間が経つと書かれていたことを忘れていましたが、久しぶりに読み直してみて、むしろ後半に鋭いものがあったなあと再認識しました。
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鈴木 孝夫 (スズキ タカオ)
大正15年生まれ。慶應義塾大学名誉教授。
慶大医学部より文学部英文科を経て、言語文化研究所教授。その間マギル大学イスラーム研究所員、イリノイ大・イェール大客員教授、ケンブリッジ大エマヌエル・ダウニング両校客員フェローなど歴任。国内では約20大学の訪問教授を務めた。
専門は文化人類学、生物学的観点からの言語社会学。近年は自然保護、環境問題に関する著作が多い。

《読書MEMO》
●英語には日本語の「湯」に当ることばがない(waterを状況次第で「水」のことにも「湯」のことにも使う)(36p)
●米俗語「元気を出す、へこたれない」keep one's chin up → 日本語では「アゴを出せば、弱ったことの意味になってしまう(57p)
●現代日本語では(中略)一人称、二人称の代名詞は、実際には余り用いられず、むしろできるだけこれを避けて、何か別のことばで会話を進めていこうとする傾向が明瞭である(133p)
●印欧系言語 → 一人称代名詞にことばとしての同一性あり/日本語 → 有史来、一人称、二人称の代名詞がめまぐるしく交代(場所や方向を指す指示代名詞の転用など、暗示的・迂回的用法)(139-141p)
●(日本語は)他人を親族名称で呼ぶ習慣が特に発達している(158p)→ 他人である幼児に対し、「おじいさん」「おばあさん」/子供向け番組の「歌のおばさん」「体操のおにいさん」
●(日本人は)年下の他人に親族名称を虚構的に使う(159p)→「さあ泣かないで。おねえちゃんの名前なあに」
●外国人には奇異に映る使用法 → 母親が自分の子を「おにいちゃん」と言ったり、父親が、自分の父のことを「おじいさん」と呼ぶ(161p)→ 子供と心理的に同調し、子供の立場に自分の立場を同一化(168p)
●父親が自分のことを「パパ」というのは「役割確認」→ 日本人が、日常の会話の中でいかに上下の役割を重視しているかが理解できる(187p)
●日本人の日本語による自己規定は、相対的で対象依存的(197p)→ 赤の他人と気安くことばを交わすことを好まない
●日本の文化、日本人の心情の、自己を対象に没入させ、自他の区別の超克をはかる傾向 → 日本語の構造の中に、これを裏付けする要素があるといえる

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