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ベストセラー日本人論2冊。組織論的にも多くの示唆を含む『タテ社会の人間関係』。今一つ分からない『日本人とユダヤ人』。
タテ社会の人間関係1.jpg タテ社会の人間関係2.jpgタテ社会の人間関係★中根千枝.jpg タテ社会の人間関係3.jpg
タテ社会の人間関係―単一社会の理論 (1967年) (講談社現代新書)』『タテ社会の人間関係 (講談社現代新書)
日本人とユダヤ人1970.jpg 日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア).jpg 日本人とユダヤ人 (山本七平ライブラリー).jpg 日本人とユダヤ人 oneテーマ21.jpg
日本人とユダヤ人』['70年]『日本人とユダヤ人 (角川文庫ソフィア)』['71年]『日本人とユダヤ人 (山本七平ライブラリー)』['97年]『日本人とユダヤ人 (角川oneテーマ21 (A-32))』['04年]
Iタテ社会の人間関係 日本人とユダヤ人.jpg 『タテ社会の人間関係―単一社会の理論』は、社会人類学者の中根千枝氏が1967年に出版した日本論であり、半世紀以上を経た今も読み継がれているロングセラーです。よく「日本はタテ社会だ」と言われますが、その本質を、日本社会の構造、組織のあり方という観点から説明したものです。

 著者によれば、日本人の集団意識は「場」に置かれており、日本のように「場」を基盤とした社会集団には、異なる資格を持つ者が内包されているため、家や部落、企業組織、官僚組織といった強力かつ恒久的な枠が必要とされるとのことです。そこで、日本的集団は、構成員のエモーショナルな全面的参加により一体感を醸成し、集団の肥大化に伴い、「タテ」の組織を形成するのだとしています。

 著者は、社会集団を構成する要因は、「資格」と「場」の2つに大別されるとし、「資格」とは、氏や素性、学歴、地位、職業、経済的立場、男女といった属性を指して、こうした属性を基準に構成された社会集団を「資格による集団」と呼び(職業集団や父系血縁集団、カースト集団などがその例)、一方、「場による社会集団」とは、地域や所属機関のような一定の枠によって個人が集団を構成する場合を指すとのこと(例えば、「○○村の成員」、「○○大学の者」など)。資格と場のいずれの機能が優先されるかは、その社会の人々の価値観と密接に関係するが、例えば、インド人の集団意識はカーストに象徴されるように、「資格」によって規定されているのに対し、日本人の集団意識は「場」に置かれているとのことです。

 だから日本人は、職種(=資格)よりも、A社、B大学といった自分の属する職場(=場)を優先して、自分の社会的位置づけを説明するのだと。それはつまり、日本人にとっては、「場」=「会社・大学」という枠が、集団構成や集団認識において重要な役割を果たしているからであり、とりわけ、会社は個人が雇用契約を結んだ対象という認識ではなく、「私の会社・われわれの会社」というふうに、自己と切り離せない拠り所のように認識されているのだとしています。

 この特殊な集団認識を代表するのは、日本社会に浸透している「イエ(家)」の概念であり、著者の定義する「家」とは、家族成員と家族以外の成員を含んだ生活共同体・経営体という「枠」の設定によって作られる社会集団であるとのことですが、この「家」集団内における人間関係は、他の人間関係よりも優先され、例えば、他の家に嫁いだ娘・姉妹よりも、他の家から入ってきた嫁のほうが「家の者」として重視されるが、これは、同じ両親から生まれた兄弟姉妹という「資格」に基づいた関係が永続するインド社会とはかけ離れているとのことです。

 社会人類学というのは当時聞き馴れない領域でしたが、本書の目的は、人々のつき合い方や同一集団内における上下関係の意識といった、社会に内在する基本原理を抽象化した「社会構造」に着目し、日本社会の特徴を解き明かすことにあったとのことで、ある種、構造主義的人類学の手法に通じるものがあるように思いました。

 前記の通り、著者によれば、日本社会では、「場」、つまり会社や大学という枠が集団構成や集団認識において重要な役割を果たし、こうした社会では、「ウチの者」「ヨソ者」を差別する意識が強まり、親分・子分関係、官僚組織によって象徴される「タテ」の関係が発達し、序列偏重の組織を形成するとのこと。こうしたメカニズムは、年次や派閥がものをいう組織、前任者の顔色を窺って改革を断行できない経営者といった諸問題に繋がっていると言え、これは今も根本的に変わっていないように思います。組織論的に見ても、今の社会に通じる多くの示唆を含む名著であると思ます。

山本七平(1921-1991)
山本七平.jpg 『日本人とユダヤ人』はイザヤ・ベンダサン名義で1970年に山本書店より刊行された本で、ベストセラーという意味では『タテ社会の人間関係』以上に売れ、『日本人と○○人』といった題名の比較型日本人論が一時流行したほどですが、やがて著者は山本書店の店主で、ベンダサン名義の作品の日本語訳者と称してきた山本七平(1921-1991/享年69)であることが明らかになり、'04年に、今は無き新書レーベルの「角川oneテーマ21」には著者名「山本七平」として収められました(解説にも「イザヤは山本のペンネーム」という旨が明記されている)。

 内容は、ユダヤ人と対比することによって日本人というものを考察している日本人論であり、この中では著書のイザヤ・ベンダサンは日本育ちのユダヤ人ということになっています。

 著者が、ユダヤ人との対比において指摘する日本人の特性として、四季に追われた生活と農業とそこから生まれるなせばなるという哲学や、模範を選び、それを真似ることで生きてきた隣百姓の論理、大声をあげるほど無視され、沈黙のうちに進んでいく政治的天才、法律があっても、必ず拘束されるわけではない、それを超えて存在する法外の法に従うという実態などを挙げていて、それなりに説得力があるように思いました。

 ただ、著者はさらに突き進み、日本人の論理の中心に据えられた「人間」という概念を、そのような日本人の特徴をユダヤ人との対比で考察しながら、日本人は、決して無宗教ではなく、「人間」を中心とした一つの巨大な宗教集団なのだという結論を導き出しますが、このあたりから個人的にはよく分からなくなりました。

 著者は、日本人は、無宗教である人が多いと言われるが、実際にはそうではなく、自分自身の宗教をそれを意識すらしないほどに体に染み込ませているという意味で、日本教は世界中のどこよりも強い、強烈な一つの宗教なのだという著者の論理は、受け容れられる人とそうでない人で分かれるのではないかと思いました。

 著者の論理で言えば、キリスト教であっても、仏教であっても、それは全て日本教に組み込まれており、日本人はどんなに頑張っても結局、日本教徒でしかありえず、日本人の究極の概念は、神よりもまず人間であり、神を人間に近づける形でしか日本人は神を理解できないということです。

 普段意識しない日本人という枠組みを、本書によって考える機会を与えられたのは確かで、実際、多くの人がこの本に共感し、「山本学」という学問(?)まで流行ったくらいですが、個人的には「今一つ分からない」といった印象であり、それは当時も今も変わっていません(今振り返ると、随分と難しい本がベストセラーになったものだなあという気もする)。

51Aにせユダヤ人と日本人.jpg 本書に対する批判として、宗教学者、神学博士の浅見定雄氏の『にせユダヤ人と日本人』('83年)があり、それによれば、「ニューヨークの老ユダヤ人夫婦の高級ホテル暮らし」というエピソードは実際にはあり得ない話であり(英語版『日本人とユダヤ人』では完全にこのエピソードがカットされている)、「ユダヤ人は全員一致は無効」という話も、実は完全な嘘あるいは間違いであるとのことです。「日本人は安全と水を無料だと思っている」というベンダサンの警告は当時鮮烈でしたが、その対比としての、安全のために高級ホテル暮らしをするユダヤ人夫婦という話が「あり得ない話」ならば、説得力は落ちるのではないでしょうか(それとも、これも山本教徒にとっては、そんなことはどうでもいいことなのか)。

浅見定雄『にせユダヤ人と日本人 (1983年)
       
比較文化論の試み.jpg日本人の人生観.jpg 個人的には著者の書いたものを全否定するわけではなく、講談社学術文庫に収められた『比較文化論の試み』('75年)は多くの気づきを与えてくれて良かったし(この本は最初に読んだときはそうでもなかったが、読み直してみて、鋭い指摘をしているのではないかと思った)、『日本人の人生観』('78年)もまずまずでした(こちらは、ユダヤ・キリスト教文化圏の歴史観・人生観と日本人のそれを対比させている)。一方で、『日本人と中国人』などは、知識人、読書人で絶賛する人は多いですが、自分にはよく分かりませんでした。

 浅見定雄氏は、山本七平は、自分でもよくわかっていないことを、わからないまま書き連ね、収拾がつかなくなると決まって「読者にはおのずからお分かりいただけるだろう」というふうに書いて、よくわからないのは読者の頭が悪いからだと思わせるごまかしのテクニックを使っているとも指摘していますが、全てがそうでないにしても、『日本人と中国人』などは『日本人とユダヤ人』以上に自分にとってはその類でした。

 ただ、その『日本人と中国人』についても、内田樹氏などは、「決して体系的な記述ではないし、推敲も十分ではなく、完成度の高い書物とは言いがたい」としながらも、「随所に驚嘆すべき卓見がちりばめられていることは間違いない。何より、ここに書かれている山本の懸念のほとんどすべてが現代日本において現実化していることを知れば、読者はその炯眼に敬意を表する他ないだろう」としていて、こんな見方もあるのだなあと。自分が頭が悪いのか、はたまた、この人の場合、書いたものによって相性が良かったり悪かったりするのでしょうか。

『日本人とユダヤ人』...【1971年文庫化[角川ソフィア文庫]/1997年選書[山本七平ライブラリー]/2004年新書化[角川oneテーマ21]】

《読書MEMO》
●『タテ社会の人間関係』
・単一社会―頼りになる集団はただ1つ(p64)
・タテの関係は親分。子分関係、官僚組織によって象徴される(p71)
・リーダーは一人に限られ、交代が困難(p122)
・日本のリーダーの主要任務は和の維持(p162)
・論理を敬遠して感情を楽しむ(p181)

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日本人の言語表現を通し、その心性を浮き彫りに。一番驚いたのは、著者の博覧強記ぶり。

日本人の言語表現862.JPG日本人の言語表現.gif     日本語 金田一春彦.jpg
日本人の言語表現 (講談社現代新書 410)』['75年]  『日本語』岩波新書['57年]

 日本人の言語表現が諸外国人に比べてどのような特色を持つかを論じた本で、著者は、自著『日本語』('57年/岩波新書)が日本語の「ラング」(言語体系)の特色を論じたのに対し、前著『日本語の生理と心理』('62年/至文堂)をベースとした本書は、日本語の「パロール」の性格を考えたものだと言っています(「パロール」とは何かと言うと、言語活動には「ラング(言語)」と「パロール(発話)」があり、「ラング」を言語体系とすれば、「パロール」は個人の意思や思想を伝えるために発する「お喋り」と言ってもいいだろう。この分類をしたソシュールは、言語学は「ラング」のみを対象とすべきだとしたが、そうした意味においても、本書は、「日本語論」であると同時に「日本人論」であると言える)。

 古今の様々な使用例を引き、日本語表現の「言い過ぎず、語り過ぎず」「努めて短く済ます」、「なるべく穏やかに表し」「間接表現を喜ぶ」といった特徴と、その背後にある日本人の心性を浮き彫りにしていますが、本書の特徴は何といっても、その使用例の"引用"の多さにあるでしょう。

 『古事記』『日本書紀』『万葉集』『今昔物語』『伊勢物語』『源氏物語』『枕草子』『平家物語』『大鏡』『古今著聞集』『源平盛衰記』『義経記』『梁塵秘抄』『徒然草』といった古典から、西鶴の『武道伝来記』『諸国話』『世間胸算用』、或いは『里見八犬伝』『浮世風呂』などの江戸文学、『葉隠』や『奥の細道』から洒落本まで、更に、歌舞伎(『絵本太功記』『仮名手本忠臣蔵』『白波五人男』など)、狂言、浄瑠璃、謡曲、落語、浪曲、常磐津に至るまで、近代文学では、永井荷風(『濹東綺譚』)、芥川龍之介(『貝殻』)、尾崎紅葉(『金色夜叉』)、夏目漱石(『坊ちゃん』)、泉鏡花(『婦系図』)、志賀直哉(『城の崎にて』『暗夜行路』)、小泉八雲といった近代文学、これに山崎豊子の『華麗なる一族』など現代文学も加わり、ラジオ・テレビなどのアナウンサーやタレント(黒柳徹子や大橋巨泉も出てくる)の言葉使いなども例として引いています。

ことばと文化.jpg「甘え」の構造5.jpg日本人とユダヤ人.jpg日本人の論理構造.jpg日本人の意識構造(1970).jpg 更に、べネディクト『菊と刀』、会田雄次『日本人の意識構造』『日本人の忘れもの』、板坂元『日本人の論理構造』、ベンダサン(山本七平)『日本人とユダヤ人』、土井健郎『甘えの構造』、南博『日本人の心理』など、先行する多くの日本人論を参照し、祖父江孝男、鶴見俊輔、上甲幹一(『日本人の言語生活』)、渡辺紳一郎、清水幾太郎、ドナルド・キーン、鈴木孝夫など多くの学者・評論家の言説も引いています(これらは、ほんの一部に過ぎない)。

 あまりに引用が多すぎて、解説がコメント的になり、「論」としての印象が弱い感じもしますが、作品のエッセンスを読み物的に一気に読ませて、全体のニュアンスとして日本語の「喋り」の特質を読者に感覚的に掴ませようとする試みともとれなくもありません(ちょっと、穿った見方か?)。

 個人的には、「辞世の句」とかいうのは日本においてのみ顕著に見られるもので、新聞などに俳壇や歌壇があって一般の人が投稿するなどというのも外国人から見ると驚きであるというのが印象に残りましたが、元々、俳句・短歌というのが日本独特の短詩型だからなあ(鈴木大拙、李御寧、板坂元などの日本人論にも、俳諧論は必ず出てくる)。
むしろ、一番驚いた(圧倒された)のは、著者の博覧強記ぶりだったかも。

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日本語独特の表現の底にある日本人の価値観を探り、日本文化論・日本人論へと展開。

日本人の論理構造2857.JPG日本人の論理構造.jpg 板坂 元 『日本人の論理構造』.jpg 板坂元.jpg 板坂 元 (1922-2004)
日本人の論理構造 (講談社現代新書 258)』 ['71年]

 「芥川の言葉じゃないが、人生は一行のボードレールにもしかない」ってまさに芥川の言葉なのに、どうしてわざわざ「芥川の言葉じゃないが」と言う表現を用いるのか? こんな切り口から入って、日本語の言葉の背後にある日本人独特の論理や価値観を探り出した本。

 著者の板坂元は、当時ハーバード大学で日本文学を教えていて、本書では先ず、英語には訳せない言葉を分析対象にしており、「なまじ」「いっそ・どうせ」「せめて」といった言葉をとりあげていますが(確かに英訳できないだろうなあ)、それらの分析がなかなか興味深かったです。

 日本語においては「れる・られる」「なる」といった自然発生的な感覚の表現(感じられる・考えられる・思われる・なりました・決まりました...etc.)が多いのは(この受身的表現も外国人には不可思議なものらしい)、"責任逃れ"する日本人の心性ともとられるけれども、"奥ゆかしさ"を重んじる日本人の心性の表れと見る方が妥当だろうと。

 「やはり」とか「さすが」というのも、日本語独特のニュアンスを含むわけで、無精髭で有名な男が格式ばった場に望んだ際に、「さすがに彼も髭を剃ってきた」「さすが、彼は髭を剃らずに来た」と相反する状況で使えるというのは、面白い指摘でした。

 著者によれば、日本語には、皮膚感覚的表現(手応え・滲み滲み...etc.)が多い一方で、空間(位置)感覚的言葉は少ないらしく(確かに、英語の前置詞などは種類も多いし用法もはなはだ複雑)、こうしたところから更に、日本文学における情景描写のあり方や浮世絵、連歌・俳諧など文学・芸術論に話は及び、後半になればなるほど、本書は、日本文化論、日本人論の色合いを強めていきますが、本書の刊行時、ちょうど『日本人とユダヤ人』('70年/山本書店)などの刊行もあって、世の中は日本人論ブームだったわけです。

日本人の人生観.jpg日本人の言語表現.gif 本書での著者の博学を駆使した日本語論は、金田一春彦『日本人の言語表現』('75年/講談社現代新書)と読み比べると面白いかと思いますが(この人の博学ぶりも"超"級)、著者の場合、長年アメリカで教鞭をとってきただけあって、英語圏との比較文化論的な視点において、多くの示唆に富んだものであると言えます。

 例えば、「明日、試験があった」という表現が成り立ってしまう(手帳にメモを見つけた際など)ような「時制」に対する日本人の感覚から敷衍して、常に「歴史」の流れの外側に身を置き、「歴史」を「思い出」としてしまう日本人の心性を指摘している点などは、山本七平『日本人の人生観』('78年/講談社)にある指摘に通じるものを感じました。、

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「●あ 会田 雄次」の インデックッスへ 「●講談社現代新書」の インデックッスへ

「日本人論」ブーム以前に、斬新な日本人論を展開。

日本人の意識構造m.jpg日本人の意識構造(1970).jpg  日本人の意識構造.jpg日本人の意識構造2.gif  会田雄次(あいだゆうじ).jpg 会田雄次(1916‐1997/享年81)
日本人の意識構造―風土・歴史・社会 (1970年)』 『日本人の意識構造―風土・歴史・社会 (講談社現代新書)』 ['72年]

日本人の意識構造 (講談社現代新書)2.jpg 子どもを危険から守る時、日本人は必ず前に抱きかかえるのは何故か。日本人が危険に対して咄嗟に背を向ける形になるのに対し、アメリカ人は子どもをまず後ろに跳ね除け、危険と対峙する形をとるそうで、本書では、普段は意識されることがないこうした動作の民族的固有性、例えば、西洋鉋(かんな)は押して削るが、日本の鉋は引いて削る(日本刀も引いて斬る)といったことなどから、日本人論を展開しているのがまず興味深かったです。

 著者によれば、日本人は、敵は後ろからやってくると考えており、戦国時代の戦さも、背後から仕掛けるのが主流の戦法だったとのこと(これは近代戦においてはほぼ通用しない)、例えば、組織においても、組織の内側に敵を求めるのが日本人の特質であり(専ら後方の敵ばかり気にしている)、また、ヨーロッパなどでは平和や家庭は「作る」もの、「建設するもの」であるのに対し、日本では、平和や家庭は「守る」ものになり、「平和になる」というように、自己の決断でさえ自然発生的なものとして表すのも、日本人の特徴であるとのこと。

 こうした日本人の意識の柔弱さ、欠点とも思われる部分を小気味良いまでに次々と明らかにしていて、一方で、短期決戦、突貫工事に力を発揮する日本人、壮大な長期目標が無いと意欲が湧かない西洋人、というように、それぞれの長所・短所という捉え方もしていて、読み進むとむしろ、英国人の自己中心主義や権威主義(家柄主義)、米国人男性がいかに妻や家庭に縛られ不自由にしているか、などが述べられていて、特に教育において、英国の名門大学(オックスフォード・ケンブリッジ)と日本の東京大学(帝大)の、そこに属する人の社会的地位の意味合いの違いについては、考えさせられるものがありました(読んでると、だんだん日本っていいなあ、みたいな気分になってくる)。

 個人的には、著者に対し保守派の論客というイメージを持っていましたが、本書でもナショナリズムの復権を訴えてはいるものの、そこに政治性はあまり感じられず、むしろ、ちょっと外国人と接触しただけで「国際人」になった気分になるオメデタイ人たちに対し、日本人と西欧人のいかに異なるかをもっと認識せよと(多分にシニカルに)言っているように思えました。『アーロン収容所』を再読して以降、「西洋人が別の生き物に見えた」という著者独自のトラウマのようなものを感じ、但し、著者の指摘する日本人と西洋人の意識構造の違いというのは、そうしたことを割り引いても、確かにナルホドと思わせるものがあります。

 本書後半は論考集で、結果として本としては若干寄せ集め気味の構成ですが、この中にも、ベネディクトの『菊と刀』における西洋人の「罪の意識」と日本人の「恥の意識」という単純な論理展開に、西洋人にも「監視の意識」はあると反駁している部分などがあり、これらは'65(昭和40)年ぐらい、つまり『日本人とユダヤ人』('70年/山本書店)などによる日本人論ブームが起こる以前に書かれた日本人と西洋人との比較論であることを思うと、その独自性、先見性は再評価されてもよいのではないかと思われます。

 【1972年新書化[講談社現代新書]】

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禅の伝道者としての面目躍如。禅の入門書としても日本文化論としても読める。

鈴木 大拙 『禅と日本文化』.JPG禅と日本文化.jpg   禅と日本文化1.bmp    鈴木大拙 没後40年.jpg
禅と日本文化 (岩波新書)』 (1940)/『禅と日本文化 (1948年) (岩波新書〈第75〉)』/『鈴木大拙 (KAWADE道の手帖)』('06年/河出書房新社)

 仏教学者の鈴木大拙(1870‐1966)が、禅とは何か、禅宗が日本人の性格を築きあげる上でいかに重要な役割を果たしたかを外国人に理解してもらうために、禅と日本文化の関連を、美術、武士、剣道、儒教、茶道、俳句の各テーマについて論じたもので、英米で鈴木大拙が行った講演をベースに、北川桃雄(1899‐1969)が翻訳し、1940(昭和15)年に刊行されたものです。

 内容的には、禅の入門書としても読めますが、日本文化にいかに禅というものが染み込んでいるかという日本文化論としても読め、外国人に説明的に話されているのと、一度英語で記されたものを和訳したものであるため、文章の主格・従格がはっきりしていることもあって読み易いと思われます。
 例えば、「禅と美術」の章で、〈わび〉の真意は「貧困」(ポヴァティー)である、などとあり、外国人に限らず、今の一般的日本人にとっても、こういう風に説明してもらった方が、はいり込み易いかも。
 但し、それだけではなく、「禅と茶道」の章では、〈さび〉と〈わび〉は同義であるが、そこには美的指導原理が在り(これを除くとただのビンボーになってしまう)、〈さび〉も〈わび〉も貧乏を美的に楽しむことである、更に、〈さび〉は一般に個々の事物や環境に、〈わび〉は通常、貧乏、不十分を連想させる生活状態に適用される、とあります。

 禅の問答話も多く紹介されていて、これを聞いた外国人は、それらの話の展開が西洋的なロジックと全く逆であるため、一瞬ポカンとしたのではないでしょうか。その辺りを、日本の文化や芸術に具象化されているもので解説する(この時点で、外国人よりは日本人の方が、イメージできるだけ理解し易いのでは)、更に、必要に応じて、先の〈さび〉と〈わび〉の説明のような概念整理をしてみせる(ここで何となく外国人も理解する)、といったことを丁寧に繰り返しているような感じで、禅の伝道者(advocator)としての面目躍如といったところ。

 鈴木大拙の業績の要は、まさにこの点にあったと思われるのですが、外国人を惹きつける魅力を持った彼の話には、20代後半から12年間アメリカで生活して西洋人と日本人の違いを体感してきたこともあり、また、仏教に対する造詣だけでなく、東西の宗教や文化・芸術に対する知識と理解があったことがわかり、この人自身は、禅者であったことは確かですが、併せて、傑出した知識人であったことを窺わせます。
 79歳からも9年間西欧に渡り、仏典の翻訳の傍ら、フロム、トインビー、ハイデガー、ヤスパースら20世紀を代表する知識人に禅や老荘思想を伝授し、大拙の元秘書だった岡村美穂子氏によると、'66年に96歳で亡くなる前日まで、仕事に励んでいたとのこと(死因は腸閉塞)。

禅と日本文化 対訳.jpg 個人的には、最初に本書を読んだ時に、第1章の「禅の予備知識」を入門書として重点的に読みましたが、第2章以下の各文化との関連については、読み込み不足だったと思われ、今回の読書でもその印象は残っており(星半個マイナスは自分の理解度の問題)、また何度か読み返したい本です。

 岩波の旧赤版ですが、復刻されているので入手し易い部類ではないかと思われます。個人的には、汚れナシのものを古本屋で200円で購入、再読しました。'05年には、講談社インターナショナルより対訳版も刊行されています。

対訳 禅と日本文化 - Zen and Japanese Culture』 ['05年/講談社インターナショナル]

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日本人に対する「縮み」志向という捉え方は、その役割を終えていない(四方田犬彦)。

「縮み」志向の日本人 (1982年).jpg 「縮み」志向の日本人.bmp    「縮み」志向の日本人2.jpg 「縮み」志向の日本人3.jpg  李御寧(イー・オリョン).bmp 李御寧 氏
学生社['82年]/学生社['84年改版版]/講談社文庫 ['84年]/講談社学術文庫 ['07年]

 日韓両国の文化に造詣の深い李御寧(イー・オリョン)氏による、韓国文化との比較を念頭においた日本文化論。

 日本文化の根底にはものごとを縮小する原理が横たわっていることを、一寸法師の説話、万葉集、扇、神棚、石庭、俳句などの文化・伝統面だけでなく、電卓、LSI技術など、日本が得手とする技術開発までも引き徹底検証してみせていて、盆栽、生け花、床の間からパチンコ、ウォークマンまで、こう次々と指摘されると、日本人が「小さいもの」への志向・嗜好・思考傾向を持っていることを認めざるを得ず、何だか初めて自分たちの民族的心性を知らされたような思いで、むしろ痛快でした。

 著者が日本の縮小志向の代表例として挙げている者に俳句がありますが、 韓国にも短詩型文学はあるものの、17文字で完結する俳句に比べ3倍ほどの長さがあり、やはり俳句は世界で最も短い文芸型なのだ―、こうしたことからも、日本には"極端な"「縮み」志向があると著者は言い、その「縮み」志向を更に、入籠型(込める)、扇型(折り畳む)、姉さま人形型(削り取る)、折詰弁当型(詰める)、能面型(構える)、紋章型(凝らせる)の6つの類型に分けて解説しています。
 例えば「削り取る」は、漢字から部首だけを取り出してひらがなを作ったことなどもそれに該当し、「構える」は能における動作の簡略化がもたらす演劇的効果などに、「凝らせる」は、昔で言えば家紋や屋号、今で言えば名刺にそれが現れていると―。なるほど、なるほど、という感じ。

 著者は更に、雪月花を愛でる慣習などを引きながら、日本人は自然と全面的に対峙するのではなくて、その美の一部を切り取って引き寄せることが重視してきたのであり、日本の「縮みの歴史」は「ハサミの歴史」でもあったのではないかと述べています。

「かわいい」論.jpg この本を久しぶりに読んだのは、四方田犬彦氏が『「かわいい」論』('05年/ちくま新書)の中で本書をとり上げ、彼自身は文化資本主義的な考え方に与するものではなく(本書の李氏の論調は、日本人は単一民族であり一枚岩であることが前提となっている)、また、盆栽が日本よりもヴェトナム・中国の方が盛んであるように、「小さいもの」への憧憬は日本独自のものとは言えないとしながらも、韓国人と日本人のものの考え方の違いを理解するうえで、本書が大いに参考になったとしていることで思い出したためであり、四方田氏は、日韓の文化交流で両国の文化の違いが曖昧になったかのように見える現代でも、日本人に対する「縮み」志向という捉え方は、その役割を終えていないとしています。
 但し、四方田氏が自著で日本人の「小さいもの」志向の1つとして取り上げている「プリクラ」などは、韓国に上陸するや、より多様な発展を遂げたという現象も片やあるわけで、四方田氏は李御寧先生の顰め面が浮かぶと述べていました。

 【1984年文庫化[講談社文庫]/2007年再文庫化[講談社学術文庫]】

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年代を超えた説得力。近年の「日本人論」よりも知的エッセンスでは一段上。

「甘え」の構造 (1971年).jpg  「甘え」の構造3.jpg  「甘え」の構造4.jpg 「甘え」の構造5.jpg 土居健郎.jpg 土居健郎 氏
「甘え」の構造 (1971年)』/『「甘え」の構造』第3版〔'91年〕/『「甘え」の構造 [新装版]』〔'01年〕/『「甘え」の構造 [増補普及版]』〔'07年〕

「甘え」というものを、周りの人に好かれて依存したいという日本人独特の心理として分析し、日本の社会における種々の営みを貫くものとして「甘え」を論じた'71年刊行のベストセラーで、'91年刊行の「20周年記念」版で再読しました(表紙に「20」という数字がある)。

 「甘え」の心理の原型は母子関係における乳児心理があり、他の人間関係においても、親子関係のような親密さを求めるのが日本人の特質だという言説には批判もあり(乳児心理は普遍的だから、精神分析論的に論じると外国人にも「甘え」の心理はあるということになる)、社会現象、文学作品、天皇制など幅広いジャンルを「甘え」というキーワードで論じている分、それぞれにおいても反論があり、著者自身、その後も続編などで反駁したり説明不足を補ったり(若干の修正も)しています。
 にも関わらず、オリジナル版がたびたび復刻しているのは、オリジナル版に年代を超えた説得力がそれなりにある証拠ではないかと思います(刊行30周年にあたる'01年にも新装版が出され、'07年にも増補普及版が刊行された)。

 読み直してみて、「義理と人情」の項が面白かったです。
 著者によれば、両者は対立概念ではなく、義理とは人為的に人情が持ち込まれた関係であり、義理が器であるとすれば、その中身は人情であると。
 「一宿一飯の恩」などと言いますが、恩とは人から情け(人情)を受けることで義理が成立する契機となるものであり、義理人情の葛藤というのは、恩を受けた複数の相手方の片方に義理を立てれば片方に義理を欠くということであり、相手方の好意を引きたいという意味では、ともに甘えに根ざしていると(人情を強調すれば甘えの肯定となり、義理を強調することは関係性を賞揚することになるが、甘えを依存性という言葉に置き換えると、それを歓迎するか、そうした関係に縛られるかの違いに過ぎないと)。

 続く「他人と遠慮」と「内と外」「罪と恥」の項も面白い。
 遠慮というのは、親子と他人の中間的な関係において働くものであり、親子の間では無遠慮であり、また、全くの他人に対しても往々にして、同様に無遠慮でいることができる、遠慮とは相手に甘えすぎてはいけないという意識であり、遠慮が働くのは根底に甘えがあるからだと。
 日本人が恥を感じるのは、そうした中間的な関係にあたる帰属集団に対してであり、集団から仲間として扱ってもらえなくなることを日本人は恐れる傾向にあると。

 日本人論(それも自省的なもの)がベストセラーになることは多いですが、近年のその類のものに比べて本書は、やや時代を感じる面もあるものの、知的エッセンスでは一段上という感じがします。

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身近な切り口で、楽しみながら「日本人の意識構造」がわかる。

身辺の日本文化.jpg身辺の日本文化01.jpg
身辺の日本文化.jpg 多田 道太郎.jpg 多田 道太郎 氏
身辺の日本文化―日本人のものの見方と美意識 (講談社ゼミナール選書)』〔'81年〕/『身辺の日本文化』講談社学術文庫 〔'88年〕

 NHKのフイルムアーカイブで著者が喋っているのを偶然見て、飄々とした話しぶりに惹かれ本書を手にしましたが、これが思いのほか面白い!

 食事のあと割り箸は折るのはなぜかとか、日本家屋に独特の縁側や敷居、台所の入り口にかかる暖簾(のれん)にどんな意味合いがあるのか、鳥居が赤いのは昔からか、そうした身近な切り口で日本文化の特質や日本人の意識構造を見事に解き明かしていきます。

 箸はフォークより高級であるという著者の論は、なかなか興味深くてそれなりに納得させられるけれど、著者のユーモアも少し入っているかも。「青春」や「コメカミ」の語源もこの本で知り、普段考えてもみなかったことばかり。雑学としても面白いけれど、かなり奥が深いなあと。でも、語り口は上方落語みたいですごくリズムがいいのです。

 著者の多田道太郎は仏文学者でコンサイス仏和辞典などの編纂した人ですが、社会学者、詩人、俳人、現代風俗研究会の会長でもあった人です。こんな人はもう世に出ないでしょう。とっつきやすく、読んで損しない本(何か得するわけでもないですが)、楽しい本です。

 【1981年単行本〔講談社〕】

《読書MEMO》
●箸は高級、フォークは野蛮(手の形に近い)(16p)
●割り箸はなぜ折るのか...箸と茶碗は自分個人に帰属する(18p)
●パリの家庭で主人がパンを切ってもてなしてくれる(日本人はわざわざ主が、と喜ぶ)が、パンを切るのは家長の証だから(22p)
●「玄」という字は水平線に浮かぶ船の帆(ちらちら見えるもの(30p)
●「がんばる」は「我意を張ること」、お互いに頑張ろう→集団的個人主義(西洋人には理解しづらい)(61p)
●縁側と軒端は「つながり」を、「のれん」と「敷居」は「けじめ」をあらわす(65p)
●朝行って、自分の椅子に誰かが座っていると気持ち悪い→その場合の椅子は、身体、身体の周囲1〜2m、に次ぐ第三の境界(74p)
●鴨長明『発心集』寺を譲るから女を世話してくれといって出奔した坊さんが、実は隠居所で修行していた(150p)
●鳥居が赤いのは中国の影響、もともとお社のみだった(お屋代も仮の姿。本体はもっと神聖なもの)(162p)
●酒は女性がつくり(米噛み→コメカミ)管理していた(178p)
●中国の4原色と四季...青春・朱夏・白秋・玄冬(36p)

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乃木大将に身近に接した米国人従軍記者が抱いた畏敬と神秘の感情。

乃木大将と日本人.jpg乃木大将と日本人』講談社学術文庫〔'80年〕Nogi, Maresuke.jpg Nogi, Maresuke (1849-1912)

 日露戦争の際、米国からの従軍記者として乃木大将に身近に接したスタンレー・ウォシュバン(Washburn, Stanley, 1878-1950)による本書は、彼の"人となり"を描くことを主眼としていますが(原題は"Nogi: A Great Man Against A Background Of War"(1913))、乃木という人物を通してみた日本人論にもなっています。

 著者が描くところの乃木将軍は、武士道精神と詩情を、さらには無私赤心の愛国心と部下や周囲(著者ら従軍記者、敵軍の敗将など)への思いやりを持ちあわせた精神性の高い人物で、従軍時に27歳の若さだった著者は、彼を"わが父"と仰ぐほどその魅力に圧倒されたらしいことが、その賞賛づくしの文章からわかります。
 同時に、こうした武士道的美学や理想主義が1人物に具現化され、それが組織を統制し士気を高揚させ、死をも恐れぬ苛烈な軍人集団を形成し、旅順陥落という戦果をもたらしたことに、乃木および日本人に対する畏敬と神秘の感情を抱いているようにも思えます。
 武士道精神というものが今あるかというと否定的にならざるを得ませんが、一方、「この人の下でなら...」というのが日本人にとってかなり強い動機付けになるという精神的風土はまだあるのでは。

坂の上の雲1.jpg 本書を読んで想起されるのが、司馬遼太郎『坂の上の雲』での乃木の徹底した"無能"ぶりの描き方で、乃木ファンのような人たちの中には、司馬遼太郎の方が偏向しているのであり、本書こそ真の乃木の姿を描いているとする人も多いかと思いますが、本書はあくまでも乃木の人物像が中心に描かれていて、司馬遼太郎が『坂の上の雲』(「二〇三高地」の章)でも本書"Nogi"について指摘しているように、その戦略的才能について著者は主題上、意識的に避けているようにも思えます。

 さらに司馬遼太郎は、本書で乃木が、本国参謀本部の立案を実行する道具に過ぎなかったとしているのに対し、相当の裁量権が彼にあったことを指摘しており、個人的にもこの指摘に与したいと考えます。
 確かにオーラを発するような一角の人物ではあったかも知れないけれど、ロシア軍があきれるほどの"死の突撃"の反復を行った乃木を"名将"とするのには抵抗を感じます。
 
 ただし一方で、日露戦争をトータルに眺めると、乃木のおかげで欧米諸国に日本贔屓の心証を与えることが出来、そのため公債が集まり戦争を有利に導いたとする見方も、最近はあるようです(関川夏央『「坂の上の雲」と日本人』('06年/文藝春秋))。 
 それは(乃木自身が意図したことではないが)彼の立ち振る舞いや捕虜に対する紳士的態度が、本書の著者のように外国人記者の間に乃木信者が出るぐらいの人気を呼び、国際世論が日本に傾いたとするものです。ナルホドね。

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ユダヤ・キリスト教圏との歴史観の違いから来る人生観の違いを指摘。

日本人の人生観.jpg   比較文化論の試み.jpg 山本七平.jpg 山本 七平(1921-1991/享年69)
日本人の人生観 (講談社学術文庫 278)』〔'78年〕 『比較文化論の試み』講談社学術文庫〔'76年〕

 同じ著者の比較文化論の試み』('76年/講談社学術文庫)を読んで、日本で常識とされているものをまず疑ってみるその切り口に改めて感心させられ、もっと論じられても良い人なのかもと思い、一般はともかく学者とかには敬遠されているのかなとも思いつつ、本書に読み進みました(著者は'81年、第29回「菊池寛賞」受賞)。

 こちらの方は、日本人の変わり身の早さや画一指向を、その歴史観と人生観の関わりから考察したもので、講演がベースの語り口でありながら、内容的にはややわかりにくい面もありました。

 要するに、旧約聖書から始まるユダヤ・キリスト教文化圏の歴史観には、終末を想定した始まりがあり、人生とはその全体の歴史の中のあるパートを生きることであり、トータルの歴史の最後にある、まさにその「最後の審判」の際に、改めてその個々の人生の意味が問われるものであるとの前提があるとのこと。
 つまり、個人の人生が人間全体の歴史とベタで重なっているという感じでしょうか。

 それに対し、日本人の歴史観は始まりも終わりも無いただの流れであり、個々の人生は意識としてはそうした流れの「外」にあり、「世渡り」とか"今"に対応することが重要な要素となっていると...。 
 
 鴨長明の「方丈記」冒頭にある「行く川の流れは絶えずして、 しかももとの水にあらず」というフレーズは、結構日本人の心情に共感を呼ぶものですが、著者は、このとき長明は川の流れの中ではなくて川岸にいて川の流れを傍観しているとし、それが歴史の流れの「外」にいることを象徴していると述べています。
 
 前著『比較文化論の試み』よりやや難解で、それは自らの知識の無さによるものですが、加えて、今まであまり考えてみなかったことを言われている気がするというのも、要因としてあるかも知れません。
 今後、歴史関係の本などを読む際には、こうした視点を応用的に意識して読むと、また違った面が見えてくるかもと思いました。

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読み直してみて、鋭い指摘をしていたのではないかと...。

『比較文化論の試み』.JPG比較文化論の試み.jpg 山本七平.jpg 山本 七平(1921-1991/享年69)
比較文化論の試み』講談社学術文庫〔'76年〕

日本人とユダヤ人.jpg 往年のベストセラー『日本人とユダヤ人』('70年/山本書店)の著者〈イザヤ・ベンダサン〉が〈山本七平〉であったことは周知であり、'04年に「角川oneテーマ21」で出た新書版の方では著者名が「山本七平」になっていますが、やはり最初はダマされた気がした読者も多かったようです。

 加えて生前は彼のユダヤ学や聖書学が誤謬だらけだという指摘があったり、左派系文化人との論争で押され気味だったりして、亡くなる前も'91年に亡くなった後も、意外と数多いこの人の著作を積極的に読むことはありませんでした。

 しかし、最近本書を再読し、「文化的生存の道は、自らの文化を他文化と相対化することにより再把握することから始まる」ということを中心とした99ページしかない講演集ですが、なかなかの指摘だなあと感心した次第です。

豚の報い.jpg 「聖地」に臨在感を感じる民族もいれば、日本人のようにあまり感じない民族もいる。一方、「神棚」や「骨」には日本人は独自の臨在感を感じる―。
 ここまでの指摘が個人的にははすごくわかる気がし、特に以前に読んだ作家・又吉栄喜氏の芥川賞受賞小説『豚の報い』('96年/文芸春秋)の中に、そのことを想起させる場面があったように思いました。

 この小説の主人公は、海で死んだ父の骨を拾うことに執着していて、海で死んだ人間は、島のしきたりで12年間埋葬することが出来ず野ざらしにされているのを、12年目の年に彼は父の遺骨を風葬地に見つけ、そこにウタキ(御嶽)を作り、"神となった"父の「骨」としばしそこに佇むのですが、「御嶽」も「神棚」も神の家でしょうし、主人公の心情もわかる気がしました。

 でも著者は、どうしてそう感じるか、その理由を考えないのが日本人であるとし、これが他の民族のことが理解できない理由でもあるとしており、その指摘には「ハッとさせられる」ものがあると思いました。

 何か、この人、日本人を「ハッとさせる」名人みたいな感じもするのですが、まさに著者の真骨頂は、日本で常識とされているものをまず疑ってみるその切り口にあるわけで、そのために引用するユダヤ学などに多少の粗さがあっても、新たな視点を示して個々の硬直化しがちな思考を解きほぐす効用はあるかと。

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河合隼雄、養老孟司との共通点も感じられて面白かった。

kbn7205p.jpg「甘え」の周辺』(1987/03 弘文堂)「甘え」の構造.jpg「甘え」の構造』('71年初版/'91年改訂版)

土居健郎.png甘えの周辺2901.JPG 『「甘え」の構造』の土居健郎による対談・講演集で、「甘え」の良し悪しや、国際的に見た場合の日本人の「たてまえ」と「ほんね」の問題から、家庭問題、健康と病気、幸福願望とストレス、教育問題まで、広いテーマに触れています。

 『「甘え」の構造』('71年/弘文堂)は、『日本人とユダヤ人』('70年/山本書店)などの「日本人論」ブームの中で出版されベストセラーとなり、続編も出ましたが、本書はブームから15年以上を経たものです。

 著者も当初は、「甘え」を日本人の中に"発見"したという言い方をしており、自分も「日本人論」として読みましたが、本書では「甘え」を、概念としては日本的だが西洋人の心理にもある普遍的なものだともしています。もともとフロイトの母子関係論から発想されているもので、そうなるのは自然なことなのかも。精神分析派とユング派の違いはありますが、河合隼雄氏の「母子社会論」に近いものを改めて感じました。

東京物語.jpg 本書にある、小津安二郎監督の映画「東京物語」夏目漱石の『こころ』の読み解きはしっくりくるもので、こうした「物語」分析にも、河合氏に通じるものを感じます。この土居氏による、『こころ』の「先生」のKに対する心情を「甘え」として捉えた(そして、「私」の「先生」に対する傾倒も同じであるという)分析は、漱石研究家の間でも話題になりました(類似した「甘え」の構造が男性同士の同性愛に見られることを指摘したのは、当時としてはセンセーショナルだったかも)。

 精神障害者の社会的扱いの問題など、精神分析医という本職に近いところで語っている章が多いのも本書の特徴ですが、障害者が復帰しにくい日本社会という指摘は、養老孟司氏が『死の壁』('04年/新潮新書)などで展開しているコミュティ論と同じで、また東大での最終講義「人間理解の方法」は、「わかっている」とはどういうことかを扱っていて、『バカの壁』に通じるものがあります。

 東大医学部出身で東大名誉教授という点で養老氏と、心理療法の権威であるという点で河合氏と同じですが、『「甘え」の構造』に比べずっと読みやすくなった語り口にも、養老氏の口述エッセイ、河合氏の講演集と同じトーンを感じてしまいます。

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