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一般向け新書だが、意外と経営者、管理職向けだった。事例も豊富で解説も深い。

パワハラ問題.jpg 『パワハラ問題―アウトの基準から対策まで― (新潮新書)』['20年]

 最近、社内でのパワハラがもめて法廷にまで持ち込まれるケースが増えてきていますが、本書は、20年以上にわたりこの分野を専門の一つとしてきた弁護士が、アウトとセーフの境界はどこにあるのか、被害を受けたり訴えられたりした場合どうすればいいか、といったパワハラをめぐるさまざまな問題について、一般向けに分かりやすく解説したものです。

 第1章で、まず、ハラスメントに関する基礎知識を整理するとともに、さまざまな種類のハラスメントを解説し、第2章では、ウィズコロナ時代におけるテレワークの浸透で登場した新たなハラスメント「テレハラ」を取り上げています。第3章では、パワハラの6つの行為類型を示すとともに、どんなことがアウトでどういうときがセーフなのかを示し、また、会社や経営者・管理職の責任はどう問われるのかを解説しています。

 第4章では、いわゆるパワハラ防止法の中味にについて、パワハラ3要件を軸に解説し、第5章では、公務員の場合は法律上どう規定されているのか(人事院規則とパワハラ防止法ではパワハラの定義が違うとのこと。公務員のの方が範囲が広い)、第6章では、経営者や管理職は措置義務として何をすればよいのかを述べ、第7章では、パワハラ経営者、管理職にならないためにどうすればいいのか、例えば、部下から相談を受けたときに、部下に言っていい言葉・悪い言葉などを教示しています。

 第8章では、グレーゾーンとパワハラの境界線を示し、上司の立場に立ち、問題化した場合はどうリカバリーするべきかを説いていますが、特にグレーゾーンの事案の場合、その後の対応によって「白」にもなれば「黒」にもなることがあるというのが理解できます。

 さらに、第10章では、これも最近多いようですが、モンスター社員やネット中傷などにより管理職が被害者となった場合の会社の対応の在り方を述べ、第11章では、「問題集」形式で8つのケースを挙げて、「あなたならどう動くか」を問うとともに、望ましい対応とはどのようなものかを示しています。

 また、巻末に、「現場で役立つ最新パワハラ判決30戦」として、パワハラを認めた判決例を16、認めなかった判決を14ほど紹介しています。こうしてみると、パワハラの判例もかなりの件数が出揃い、グレーゾーンとパワハラの境界線が以前よりは見えてきた印象を受けます。

 個人的には、思っていた以上に経営者、管理職向けとの印象を受けました。人事パーソンにとっても、啓発される部分は少なからずあると思われます。新書という限られた紙数の範囲内ですが事例も豊富であり、最後の判例集などはこの1、2年のものが多く紹介されていて、実務面でも参考になります。さらに、研修などにおけるケーススタディやグループディスカッションなどに応用できる"素材"もあったように思われ、あとがきで著者自身が本書の社内研修での利用を推奨しています。

パワハラ問題に対する自身の認識・理解度を確認し、知識をブラッシュアップするために一読されるのもよいかと思います。

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「承認欲求の呪縛」を解くには、メンバーの組織への依存を断ち切り、プロ化する。

『「承認欲求」の呪縛』.jpg 『「承認欲求」の呪縛 (新潮新書)』['19年]

 本書の著者によれば、上司などから褒められたらモチベーションや挑戦意欲が高まり、業績も上がるという実験結果があり、承認が離職の抑制や成長にもつながることが明らかになっている一方で、褒められ、認められると逆にやる気が奪われるケースがあるとのことです。また無意識のうちに承認欲求の奴隷になり、破滅したり、自殺に追い込まれたりするケースもあり、さらにパワハラや組織不祥事の背景にも「承認欲求の呪縛」が潜んでいると言います。

 つまり、承認欲求には光と影があり、功と罪を分ける何かがあるということです。本書は、「承認欲求の呪縛」がどのようなメカニズムで発生するか、どうすれば呪縛から逃れられるかを簡単な数式と具体例を用いながらわかりやすく説明したものであるとのことです。

 「承認欲求」が人間にとって「最強の欲求」となるのは、それ自体が人を動機づけるだけでなく、認められるとほかの欲求が満たされたり、有機無形のさまざまな報酬が得られたりするためであるとしています。ところが、あることをきっかけに、今度は獲得した報酬や築き上げた人間関係にとらわれるようになり、それが「承認欲求の呪縛」であるとのことです。「認められたい」が「認められなければ」に変わるとき、それは危険な兆候を示し、結果的にその人を破滅に導くこともあるとのことです。

 また、「承認欲求の呪縛」は、「認知された期待」と「自己効力感」のギャップに加え「問題の重要性」という三つの要素によってもたらされ、「数式」としては(認知された期待-自己効力感)×問題の重要性=プレッシャーの大きさ、即ち「承認欲求の呪縛」の強さであるとのことです。そして、パワハラや企業不祥事、長時間労働による過労死の背景にも、この呪縛が潜んでいるとした上で、これまでに起きたさまざま事件を振り返りながら、そうした事件が繰り返される根底には、日本の組織が、外から隔てられた「共同体」の性格が強く、メンバーは内部の規範や人間関係を強く意識し、そこでの承認を失うことを恐れるという特徴があると指摘しています。

 それではこの、無意識のうちに精神的な負担となり、本人の意に反して無理をさせ、時にはそれが過労死や過労自殺、犯罪、組織不祥事といった重大な事態を招く場合もある「承認欲求の呪縛」から逃れるにはどうすればよいのか。著者によれば、日本人はもともと「期待」に潰されやすく、これを病にたとえるならば「日本人病」と言うより、「日本の風土病」とでも言うべきものであり、よってリーダーにはメンバーに過剰なプレッシャーをかけない配慮が求められ、また、本人の自己効力感を高め、組織への依存を小さくすることが必要であるとしています。

 また、組織不祥事をなくすためには、メンバーの「プロ化」、すなわち組織をプロフェッショナルの集団に変えるのがよく、なぜならば、プロにとっては専門能力こそが生命線なので、自己効力感が高く、期待をプレッシャーではなく、むしろエネルギーに変えることも可能であるからとしています。著者は、これまでのような共同体組織は、遅かれ早かれ崩れていくに違いなく、だとすれば、組織にとっても個人にとっても、変化を先取りしてプロ化を図っていくことが、「承認欲求の呪縛」を解く決め手になり、ひいては不祥事対策の王道を歩むことにもつながるとしています。

 「承認欲求」に関する本をこれまで何冊も書いてきた著者ですが、いずれもそのポジティブな面に焦点を当てたものばかりだったのが、今回、「承認欲求の呪縛」というネガティブ面に着眼し、警告を発しているという点が興味深かったです。そして、「承認欲求」が人間にとって「最強の欲求」であることをよく知っている著者が発する警告であるだけに、説得力があったように思います。

 最後の部分の「プロ化」の勧めは、ドラッカーが『現代の経営』の中で、「専門職たる者(プロフェッショナル)は、優れた仕事とは何であるべきかを自ら決める」と言っていたのを想起しました。プロって、自分の仕事の評価を自分でできる人なのだなあと。本書によれば、そうした組織に依存していないメンバーの揃ったプロ集団であれば、組織不祥事は起きないということなのでしょう。

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読書案内を兼ねた"読書半生記"。人文専攻ネタ、松波信三郎ゼミネタで懐かしくなってしまった。

新書百冊 新潮新書.jpg  坪内祐三2.jpg 新潮新書 新書百冊.jpg
新書百冊(新潮新書)』坪内 祐三(1958-2020)

 本書の著者で、今年['20年]1月に61歳で亡くなった評論家・エッセイストの坪内祐三(1958年生まれ)は、本好き、古本好き、神保町好きとしても知られていましたが、その著者が、自らの半生の折々に読んできた新書百冊を重ねて振り返ってコラムとして綴った"読書半生記"であり(エッセイとも言えるか)、新潮新書の創刊ラインアップの10冊のうちの1冊として刊行されています。

 タイトルから「読書案内」的なものを想像する人もいるかと思いますが、その要素もしっかり満たしていて、文中で取り上げた百冊の新書が、巻末に「百冊リスト」として章ごとに整理されています。ただし、その他にも多くの本を紹介していて、「新書百冊」にそれらを含めた約300冊の書名索引もそのあとに付されています。

 いい本を選んでいるなあという印象で、古本が多いせいか、岩波新書・中公新書・講談社現代新書の「新書御三家」が占める割合が高くなっています。「講談社現代新書のアメリカ文化物は充実していた」(第4章)というのは確かに。かつては岩波新書・中公新書・講談社現代新書の3つが、一般向け新書では絶対的代表格でリジッドなイメージがありました。

 自伝的エッセイっぽい印象を受けるのは、例えば第1章が「自らの意志で新書を読み始めた頃」、第2章が「新書がどんどん好きなっていった予備校時代」というふうになっていたりするためで、御茶ノ水での浪人生活を振り返り、「私が通っていた御茶ノ水の駿台予備校は、当時、単なる受験合格のテクニックではなく、もっと本質的な「学問」を教えてくれた。特に英文解釈の奥井潔先生の授業はいつも心待ちにした。教壇で奥井先生は例えばT.S.エリオットやポール・ヴァレリーの文学的意味について語ってくれた」といった下りは、その頃浪人生活を送り、駿台予備校で学んでいた人などは懐かしくて仕方がないのでは。

 と思って読んでいたら、「浪人時代の多読が功を奏して(?)」早稲田大学第一文学部に入学し、2年次の専攻分けで、学問の多様化を見据え、オール―ジャンルの学科の授業に出席できる人文専攻を選んだとのこと(本当は1時限目の授業や原書購読が無いことが理由であったとも)。実は自分も同じ大学・学部・専攻であり、そのことは以前から知っては知ってはいたものの、人文専攻を選んだ理由もほぼ同じであることを改めて知りました。

存在と無下.jpg存在と無 上.jpg さらに、第5章では、人文専攻のゼミで『存在と無』を読まされ、教官はその本の翻訳者の松波信三郎で、「全然歯が立たなかった」とありますが、自分も同じ頃このゼミを受けました。松波信三郎先生の講義は『存在と無』をものすごいスピードで読み下して解説するので、講義中にかなりの集中力を要したように記憶します。毎回の授業がそんな感じで進められ、それを丸々1年かけてやるのですが、『存在と無』そのものがかなり大部な本なので、結局、本の要所要所を押さえはするものの、全部は読み通せませんでした。

 松波信三郎先生は大男だったとのこと(そうだったかも)、躰の大小の違いはあるが風貌はサルトルに似ていたとのこと(言われればそうだったかも)。なんだか、早大一文(「第一文学部」という呼称は今は無い)ネタ、人文専攻ネタ、松波信三郎ゼミネタで懐かしくなってしまいましたが、著者の方は修士課程に進んだのだのだなあ。

 著者の社会人としてのスタートは雑誌「東京人」の編集者であり、その後次第に書き手としての本領を発揮していくことになりますが、ベースにしっかりした読書体験があることを改めて感じました。本書で紹介されている本には絶版本も多いですが、今はほぼネットの古本市場で入手可能です。それにしても、一方で1996年から「週刊文春」で「文庫本を狙え!」の連載を亡くなる前まで続けていて、こちらの方は文庫の新刊を追っていたわけですから、改めてスゴイなあと思います。

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高倉健が、真似や演技ではなく実際に「高倉健」という生き方としていたように思えた。

「高倉健」という生き方 (新潮新書).jpg  谷 充代.jpg  谷 充代 氏[写真:婦人公論]
「高倉健」という生き方 (新潮新書)

 フリー編集者として80年代半ばから2000年代まで高倉健の取材を重ねてきた著者(ラジオ番組をベースにした『旅の途中で』(高倉健著、'03年/新潮社、'05年/新潮文庫)のプロデュース担当者でもある)が、国内外の映画の現場や私的な会合の場や旅先などで、俳優として人としての高倉健を男を追い続ける中で、「健さん」本人をはじめ監督や俳優仲間、スタッフや縁あった人々に細やかな取材を重ね書き綴ってきた全33話のエピソード集です。

 さすが取材に年季が入っているなあという感じ。そして何よりも、高倉健に対する敬愛の念を感じました。本人が亡くなってから、一部いろいろな話も出てきていますが、やはりスターはスターのままでいて欲しいと思うので、個人的にはそうしたものをほじくり返すような動きにはあまり関心がいきません。本書も「いい話」ばかりですが、これはこれでいいのでは。

 印象に残ったのは、「関係を尽くすひと」「一期一会ということに体を張っている」(105p)というところ。この先、また会うかどうか分からない人に対してもそうした姿勢で接することができるというのはスゴイことだなあと。著者はそれを、どこまでいっても自分に執着するブルジョワ的生き方と対比させて、"貴族の無欲"と表現していますが、ある種"孤高の精神"のようなものを感じました(こういうの感じさせる人って、ハリウッドスターにはいないなあ)。

 妻だった江利チエミの墓参りを欠かさなかったことはよく知られていますが、著者も健さんの仕事の前には江利チエミの墓参りをしていて、行くとすでに墓前にウィスキーロックがあったりして、撮影のプランの依頼と併せてその感動を手紙で伝えたところから撮影の仕事を引き受けてもらえたとのこと(113p)。1999年のことで、カメラマンは十文字美信氏(野地秩嘉氏の『高倉健ラストインタヴューズ』('17年/プレジデント社)のカバー写真などもこの人の撮影)。

 『男としての人生―山本周五郎が描いた男たち』(木村久邇典著、グラフ社)という本が気に入っていて、絶版の古書扱いになっていたものを、「自分が百冊引き取る」と言って増刷に漕ぎ着けたという話(136p)も良かったです(同じ山本周五郎好きの黒澤明監督と一度仕事して欲しかった)。

網走番外地g_  .jpg 随筆集『あなたに褒められたくて』の「あなた」が「お母さん」であることはその本の中でも述べられていますが(そう言えば、「網走番外地」('65年/東映)は、主人公が母恋しさに網走刑務所からムショ仲間と手錠につながれたまま脱獄する話だった)、自分の母親が亡くなったとき、まわりの誰にも知られないように仕事を続けていたそうで(144p)、これもスゴイなあと思います。

 地方で地元の人しか知らない温泉場を教えてくれた蕎麦屋の主人が、「アンタね、俺が若いころに観たことがある。ん~と、あの~」と言いつつ名前が出てこず、「ウン、よたもんの俳優だ」「あの、よたもん」と言ったのを、宿に帰る車の中で何度も「あの、よたもん」と口真似しながら、嬉しそうに笑っていたというのもいい話です(174p)。

 著者が海外の撮影にも同行を許され、手持無沙汰に身の回りの世話をしようとすると、「谷、書くためにきているんだろ。そんなことしなくていいよ」と戒めたという(195p)、これなんか、なかなか言えないことだと思います。

後藤久美子.jpg 若者を見ていると時代の変化を感じると言い、「立派だなぁと思ったのは後藤久美子さん。彼女の恋愛は実に正直で堂々としている。恋人と海外で暮らしていて、仕事がある時にだけ日本に帰ってくる。公私混同せずに生きているよね」と言っていて(101p)、自分よりずっと若い人に対しても、いいところを見つけ褒める姿勢も立派です。この「公私混同せず」の考えは彼自身の生き方にも反映されているように思います。また、若い頃に恋人が女優志望であったために一緒に暮らしたいというのを突っぱねたという過去があったとのこと。その本人が、彼女との生計のために俳優になり、何とか食べていけるようになった時にはその彼女と別れてしまったというのは、まさに皮肉の連続と言っていい人生だなあ。

 これまで、高倉健という人は「高倉健」を演じ続ける生き方をせざるを得ず、その壊せない(壊してはいけない)「高倉健」像に縛られるような面もあって、晩年は出演映画数なども減ったのかなあと思っていました。それだけだと、「高倉健」(という虚像)を生きる、ということになりかねないですが、本書を読んで、「高倉健」を本人はわりと自然に生きていた―つまり、真似や演技ではなく実際に「高倉健」という生き方としていたように思えてきました。

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コンビニ外国人へのインタビュー等を通じて日本の外国人労働者の実態を浮き彫りに。

コンビニ外国人.jpg コンビニ外国人2.jpg 芹澤 健介.jpg 芹澤 健介 氏
コンビニ外国人 (新潮新書)』['18年]    右下図:「東洋経済オンライン」(2018-11-19)より

特定技能2.jpg コンビニで外国人が働いている光景は今や全く珍しいものではなく、都市部などではコンビニのスタッフに占める外国人の方が日本人よりも多い店もあります。本書はそうしたコンビニで働く外国人を取材したものですが、コンビニ店員に止まらず、技能実習生、その他の奨学生、さらには在留外国人全般にわたる幅広い視野で、日本の外国人労働者の今の実態を浮き彫りにしています。

 第1章では、彼らがコンビニで働く理由を探っています。外国人のほとんどは、日本語学校や大学で学びながら原則「週28時間」の範囲で労働する私費留学生であり、中国・韓国・ベトナム・ネパール・スリランカ・ウズベキスタンなど、様々な国からやってきた人々で、とりわけベトナム人、ネパール人が急増中とのこと。ベトナムは今や日本語ブームだそうです。

 第2章では、留学生と移民と難民の違いを今一度整理し、さらに、政府の外国人受け入れ制度にどのようなものがあるかを纏め、それらを諸外国と比較しています。「移民」の定義は外国と日本で異なり、日本における「移民」の定義というのは非常に限定的なものになっていることが分ります(安倍晋三首相も「いわゆる移民政策は取らない」と今も言い続けているが、2019(平成31)年度から在留資格「特定技能1号・2号」が新設されたことにより、これまでの政府の「移民政策は取らない」という方針は名目(言葉の定義)上のものとなり、実質的には方針転換されたことになる)。

 第3章では、コンビニ外国人を取材したもので、東大院生から日本語学校生までさまざまな人たちがいます。著者が直接インタビュー取材しているため、非常にシズル感があります。

 第4章では、技能実習生の実態を報道記事などから追っています。因みに、日本はコンビニにおける外国人労働者の雇用において、「技能実習生」は対象外で、コンビニ店員の外国人労働者は「留学生のアルバイト」で賄われている状況ですが、本書にもあるように、「日本フランチャイズチェーン協会」が、外国人技能実習制度の対象として「コンビニの運営業務」を加えるよう、国に申し入れています。しかしながら、本書刊行後の'18年11月の段階で既に技能実習対象の「職種」からコンビニ業務は漏れています(新たに設けられた「特定技能」の対象として「建設業」「外食業」「介護」など14の「業種」があるが、こちらにも入っていない)。

 第5章では、「日本語学校の闇」と題して、乱立急増している留学生を対象とした日本語学校に多く見受けられるブラックな実態を追っています。結局、コンビニなどで働くには「留学生」という資格が必要で(「留学生」という東京福祉大学 外国人.jpg資格を得た上で「資格外活動」としてコンビニで働く)、その「留学生」という資格を得るがために日本語学校に入学するという方法を採るため、そこに現地のブローカー的な組織も含めた連鎖的なビジネスが発生しているのだなあと。本書には書かれていませんが、この「鎖」の一環に日本語学校どころか大学まで実態として噛んでいたと考えられることが、今年['19年]3月にあった東京福祉大学の、「1年間で700人近い留学生が除籍や退学、所在不明となった」という報道などから明らかになっています。

TBS「JNN NEWS」(2019-03-15)

 第6章では、コンビニなどで働きながら、ジャパニーズ・ドリームを思い描いて起業に向けて頑張っている外国人の若者たちを紹介、第7章では、自治体の外国人活用に向けた取り組みや、地方で地場の産業や地域活性化を支えている外国人と住民たちの共生の工夫等を紹介しています。

 書かれていることは報道などからも少なからず知っていたものもありましたが、こうして現場のインタビューを切り口に全体を俯瞰するような纏め方をした本に触れたのは、それなりに良かった思います。

 第4章の技能実習の制度も、劣悪な労働条件や(かつては3年間最低賃金の適用はなかった)、行方不明者・不法就労などこれまで多くの問題を生み出してきたし、今回の新たに「特定技能」を設けた法改正も、違法な実態があるものの元には戻せないため、法律の方をどんどん適用拡大せざるを得なくなっているというのが実情ではないでしょうか。

 さらに、本書でも「日本語学校の闇」と題された問題は、先述の通り、専門学校だけでなく大学までがこの言わば"入学金ビジネス"に参入していて、これはこれで新たな大問題だと思います。

改正入管法 外国人労働者 image1.jpg ただし、本書を読んでも感じることですが、日本における外国人労働者は増え続けるのだろなあと。今回「特定技能」の対象となった農業・漁業、建設業、外食業などをはじめ、外国人労働力無しには既に成り立たなくなっている業界があるわけだし。中国人と日本人の所得格差が小さくなり中国から人が来なくなれば、今度はべトナムからやって来るし、ベトナム人が最初は労働者として扱ってくれない日本よりも最初から労働者として扱ってもらえる台湾に流れ始めると、今度はネパールやスリランカから来るといった感じでしょうか。この流れは当面続くと個人的には思います(まだ「アフリカ」というのが残っているし)。

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「温泉文学論」と言うより、温泉に関係した個々の作品・作家論。さらっと読めて興味深い。

温泉文学論 (新潮新書).jpg 川村 湊.jpg 川村 湊 氏 1作家と温泉ge1.jpg 作家と温泉―お湯から生まれた27の文学 es.jpg
温泉文学論 (新潮新書)』['07年]/『作家と温泉---お湯から生まれた27の文学 (らんぷの本)』['11年]

 幸田露伴が問い、川端康成が追究した「温泉文学」とは何か? 夏目漱石、宮澤賢治、志賀直哉...名作には、なぜか温泉地が欠かせない。立ちのぼる湯煙の中に、情愛と別離、偏執と宿意、土俗と自然、生命と無常がにじむ。本をたずさえ、汽車を乗り継ぎ、名湯に首までつかりながら、文豪たちの創作の源泉をさぐる異色の紀行評論(「BOOK」データベースより)。

 日本の近代文学には温泉のシーンが少なからずあり、またそれ以上に、作者自身が温泉宿に籠って書き上げた作品が多いため、本書のような「温泉文学」論があってもいいかなという気がします。ただし、本書の前書きに、川端康成の「温泉文学はみんな作者が客間に座っている」という言葉が紹介されていて、著者は、川端康成が示唆した「ほんたうの温泉文学」はいまだ書かれていないということだろうとも言っています。

 本書についても、「温泉文学」論と言うより、温泉に関係した作品や作家の、個々の作品・作家論という印象でした。切り口は様々で、こうした自在な切り口の前提として、いずれも「温泉」繋がりであることがあるように思われました(「温泉」繋がりであることがその自在性を許している?)。取り上げている作品と関連する温泉は以下の通りです。

 第1章 尾崎紅葉『金色夜叉』―― 熱海(静岡)
 第2章 川端康成『雪国』―― 越後湯沢(新潟)
 第3章 松本清張『天城越え』―― 湯ヶ島(静岡)、川端康成『伊豆の踊子』--― 湯ヶ野(静岡)
 第4章 宮澤賢治『銀河鉄道の夜』―― 花巻(岩手)
 第5章 夏目漱石『満韓ところどころ』―― 熊岳城・湯崗子(中国)
 第6章 志賀直哉『城の崎にて』―― 城崎(兵庫)
 第7章 藤原審爾『秋津温泉』――奥津(岡山)
 第8章 中里介山『大菩薩峠』―― 龍神(和歌山)、白骨(長野)
 第9章 坂口安吾『黒谷村』―― 松之山(新潟)
 第10章 つげ義春『ゲンセンカン主人』―― 湯宿(群馬)

 尾崎紅葉の『金色夜叉』がアメリカの小説の翻案というか焼き直しであることは初めて知りました。川端康成の『雪国』が「R‐18指定の成人小説」であるとうのはナルホドという印象(だから「伊豆の踊子」と違って教科書に載らないのか)。松本清張の『天城越え』が川端康成の『伊豆の踊子』のパロディーとして(あるいは批判として)書かれたという論は有名です。

 宮澤賢治に関しては、『銀河鉄道の夜』のことより、宮澤賢治が花巻温泉の花壇設計に関わったことにフォーカスしています。夏目漱石は『満韓ところどころ』というややマニアック?な旅行記を取り上げていますが、著者は中国の温泉にも取材に行ったのかあ。志賀直哉の『城の崎にて』は、これぞまさに「温泉文学」と言えるか。藤原審爾の『秋津温泉』も舞台が完全に温泉であり、タイトルにもまさに「温泉」と入っているので、この2作は結構「温泉文学」の中心に近い位置づけになるかもと思ったりもします。

 各章の末尾にコラムがあり、【本】では作品の刊行、文庫情報などが、【湯】では紹介した温泉の効能などの特徴が、【汽車】では、その温泉への交通アクセスが書かれているのが親切です(温泉情報と交通アクセスはあくまで素人の記述であることを断っている)。"現場を踏む"という信条のもと、本書で紹介した温泉のうち、熱海を除いてすべて取材で行ったそうで、また、作品の方は大長編の『大菩薩峠』を除いてすべて読み直したそうです。そうした甲斐あってか、さらっと読める一方で、それなりに興味深い作品論、作家論になっているように思いました。

 本書を手にしたのは、最近、読書会で梶井基次郎の『檸檬』を取り上げた際に、梶井基次郎の「温泉文学」とも言える小品群を読み直したせいであり、ただし本書には梶井基次郎の章は無かったなあと思ったら、『作家と温泉―お湯から生まれた27の文学 (らんぷの本)』('11年/河出書房新社)で取り上げられていました。

作家と温泉 太宰・井伏.JPG こちらは、夏目漱石、志賀直哉、川端康成などの文豪から武田百合子、田中小実昌、つげ義春、横尾忠則ら、作家と温泉の味わい深いエピソードを紹介し、川本三郎氏、坪内祐三氏らがコラムを寄せています。何よりも「らんぷの本」の特性を活かした、お風呂でなごむ文豪たちのまったりした様を撮った写真が満載の構成となっていて、作家と温泉の繋がりの強さをシズル感をもって味わうことができます。

 表紙は井伏鱒二と太宰治ですが(この二人は師弟関係)、中身の井伏鱒二とともに風呂に入る太宰治の素っ裸(当たり前だが)の写真は貴重?(解説によれば、太宰はこの写真に写っている下腹部の盲腸の傷跡を気にしており、撮影した伊馬春部にフィルムの処分を求めたという)。宮澤賢治はやっぱり花巻の花壇設計のことが書いてあります。最終章は『温泉と文学』と同じく「つげ義春」。文学ではなく漫画ですが、温泉を語るうえで外せないといったところなのでしょう。
 
《読書MEMO》
作家と温泉_4183.JPG作家と温泉_4184.JPG作家と温泉_4185.JPG●『作家と温泉―お湯から生まれた27の文学 (らんぷの本)』
目次
・夏目漱石と道後温泉(愛媛県・熊本県)
・志賀直哉と城崎温泉(兵庫県)
・檀一雄と温泉事件簿(静岡県・青森県)
・吉川英治と温川温泉(青森県)
・川端康成と湯ケ島温泉(静岡県)
・折口信夫と浅間温泉(長野県)
・武田百合子と「浅草観音温泉」(東京都)
・宮沢賢治と花巻温泉(岩手県)
・山口瞳と『温泉へ行こう』(日本全国)
・坂口安吾と伊東のヌル湯(静岡県)
・谷崎潤一郎と有馬温泉(兵庫県)
・田中小実昌と寒の地獄(大分県)
・種村季弘と『温泉百話』(日本全国)
・横尾忠則と草津温泉(群馬県)
・与謝野晶子・鉄幹と法師温泉(群馬県・大分県)
・竹久夢二と温泉の女たち(日本全国)
・田宮虎彦と鉛温泉(岩手県)
・梶井基次郎と紀州湯崎温泉(和歌山県)
・川崎長太郎と入れなかった湯(千葉県)
・田山花袋と『温泉めぐり』(日本全国・朝鮮半島・中国)
・太宰治と浅虫、四万温泉(青森県・群馬県)
・井伏鱒二と下部温泉(山梨県)
・小林秀雄と美と温泉(神奈川県・大分県・長野県)
・若山牧水と土肥温泉(静岡県)
・北原白秋と船小屋温泉(福岡県)
・つげ義春と貧しい温泉宿(日本全国)

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スター男優、スター女優、名優・名脇役で辿る昭和邦画史。選ばれた100本はオーソドックスか。

邦画の昭和史_3799.JPG邦画の昭和史_3798.JPG邦画の昭和史.jpg   フラガール 映画  蒼井.jpg
邦画の昭和史―スターで選ぶDVD100本 (新潮新書)』映画「フラガール」       北日本新聞 2018.10.25
長部 日出雄.jpg 昨年['18年]10月に亡くなった作家の長部日出雄(1934-2018/84歳没)が雑誌「小説新潮」の'06年1月号から'07年1月号に間歇的に5回にわたって発表したものを新書化したもの。'73年に「津軽じょんから節」で直木賞を受賞していますが、元は「週刊読売」の記者で、その後、雑誌「映画評論」編集者、映画批評家を経て作家になった人でした。個人的には『大アンケートによる洋画ベスト150』('88年/文春文庫ビジュアル版)の中での、赤瀬川準、中野翠氏との座談が印象に残っています(赤瀬川隼も1995年に「白球残映」で直木賞作家となったが、この人も2015年に83歳で亡くなった)。

 本書は全3章構成で、第1章ではスター男優を軸に(いわば男優篇)、第2章ではスター女優を軸に(いわば女優篇)、第3章では名優・名脇役を軸に(いわば名優・名脇役篇)、それぞれ昭和映画史を振り返っています。

銀嶺の果て 中.jpg 第1章「戦後のスーパスターを観るための極め付き35本」(男優篇)で取り上げているのは、三船敏郎、石原裕次郎、小林旭、高倉健、鶴田浩二、菅原文太、森繁久彌男はつらいよ・知床慕情.jpg、加山雄三、植木等、勝新太郎、市川雷蔵、渥美清らで、彼らの魅力と出演作の見所などを解説しています。この中で、昭和20年代の代表的スターを三船敏郎とし、昭和30年代は石原裕次郎、昭和40年代は高倉健、昭和50年代は渥美清としています。章末の「35本」のリストでは、その中に出演作のある12人の俳優の内、三船敏郎が9本と他を圧倒し(黒澤明監督作品8本+黒澤明脚本作品(「銀嶺の果て」))、石原裕次郎は2本、高倉健は3本、渥美清も3本入っていて、さらに渥美清+三船敏郎として、「男はつらいよ・知床慕情」を入れています(したがって最終的には三船敏郎10本、渥美清4本ということになる)。

 第2章「不世出・昭和の大女優に酔うための極め付き36本」(女優篇)で取り上げているのは、原節子、田中絹代、高峰秀子、山本富士子、久我美子、京マチ子、三原葉子、藤純子、宮下順子、松阪慶子、浅丘ルリコ、吉永小百合、岸恵子、有馬稲子、佐久間良子、夏目雅子、若尾文子などで、彼女らの魅力と出演作のエピソードや見所を解説しています(京マチ子、先月['19年5月]亡くなったなあ)。文庫化にあたり、「大女優篇に+1として、破格ではあるが」との前置きのもと書き加えられたのが「フラガール」の蒼井優で(青井優と言えば、この映画で南海キャンディーズの山崎静代と共演した縁から、今月['19年6月]南海キャン蒼井優 フラガール.jpg蒼井優 山里亮太.jpgディーズの山里亮太と結婚した)、本書に出てくる中で一番若い俳優ということになりますが、著者は彼女を絶賛しています。章末の「36本」のリストでは、原節子、田中絹代、高峰秀子の3人が各4本と並び、あとは24人が各1本となっていて、男優リストが12人に対して、こちらは27人と分散度が高くなっています。

 第3章「忘れがたき名優たちの存在感を味わう30本」(名優・名脇役篇)では、一般に演技派とか名脇役と呼ばれる人たちをを取り上げていますが、滝沢修、森雅之、宇野重吉、杉村春子、伊藤雄之助、小沢栄太郎、小沢昭一、殿山泰司、木村功、岡田英次、佐藤慶などに触れられていて、やはり前の方は新劇など舞台出身者が多くなっています。章末の「30本では、滝沢修、森雅之、宇野重吉、小沢栄太郎の4人が各2本選ばれており、残り22人が各1本となっています。

乾いた花  jo.jpeg 先にも述べたように、スター男優・女優や名優・名脇役を軸に振り返る昭和映画史(殆ど「戦後史」と言っていいが)であり、『大アンケートによる洋画ベスト150』の中での対談でも感じたことですが、この人は映画の選び方が比較的オーソドックスという感じがします。したがって、エッセイ風に書かれてはいますが、映画の選び方に特段のクセは無く、まだ日本映画をあまり見ていない人が、これからどんな映画を観ればよいかを探るうえでは(所謂「観るべき映画」とは何かを知るうえでは)、大いに参考になるかと思います。と言って、100本が100本メジャーな作品ですべて占められているというわけでもなく、女優篇の「36本」の中に三原葉子の「女王蜂と大学の竜」('03年にDVD化されていたのかあ)なんていうのが入っていたり、名優編の「30本」の中には、笠智衆の「酔っぱらい天国」(こちらは「DVD未発売」になっていて、他にも何本かDVD化されていない作品が100本の中にある)や池部良の「乾いた花」(本書刊行時点で「DVD未発売」になっているが'09年にDVD化された)など入っているのが嬉しいです(加賀まりこ出演作が女優篇の「36本」の中に入っていないのは、彼女が主演したこの「乾いた花」を男優篇の方に入れたためか。「キネマ旬報助演女優賞」を受賞した「泥の河」は、田村高廣出演作として名優篇の方に組み入れられている)。

フラガール 映画0.jpgフラガール 映画s.jpg 因みに、著者が元稿に加筆までして取り上げた(そのため「100本」ではなく「101本」選んでいることになる)「フラガール」('06年/シネカノン)は、個人的にもいい映画だったと思います。プロデューサーの石原仁美氏が、常磐ハワイアンセンター創設にまつわるドキュメンタリーをテレビでたまたま見かけて映画化を構想し、当初は社長を主人公とした「プロジェクトX」のような作品の構想を抱いていたのがフラガール 映画1.jpg、取材を進める中で次第に地元の娘たちの素人フラダンスチームに惹かれていき、彼女らが横浜から招かれた講師による指導を受けながら努力を重ねてステージに立つまでの感動の物語を描くことになったとのことで、フラガールび絞ったことが予想を覆すヒット作になった要因でしょうか。主役の松雪泰子・蒼井優から台詞のないダンサー役に至るまでダンス経験のない女優をキャスティングし、全員が一からダンスのレッスンを受けて撮影に臨んだそうです。ストーリー自体は予定調和であり、みうらじゅん氏が言うところの"涙のカツアゲ映画"と言えるかもしれませんが(泣かせのパターンは「二十四の瞳」などを想起させるものだった)、著者は、この映画のモンタージュされたダンスシーンを高く評価しており、「とりわけ尋常でない練習フラガール 映画6.jpgと集中力の産物であったろう蒼井優の踊り」と、ラストの「万感の籠った笑顔」を絶賛しています。確かに多くの賞を受賞した作品で、松雪泰子・富司純子・蒼井優と女優陣がそれぞれいいですが、中でも蒼井優は映画賞を総嘗めにしました。ラストの踊りを「フラ」ではなく「タヒチアン」で締めているのも効いているし、実話をベースにしているというのも効いているし(蒼井優が演じた紀美子のモデル・豊田恵美子は実はダンス未経験者ではなく高校でダンス部のキャプテンだったなど、改変はいくつもあるとは思うが)、演出・撮影・音楽といろいろな相乗効果が働いた稀有な成功例だったように思います。
[フラガール 松雪1.jpg [フラガール 松雪2.jpg [フラガール 松雪4.jpg
松雪泰子(平山まどか(カレイナニ早川(早川和子)常磐音楽舞踊学院最高顧問がモデル))
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岸部一徳(吉本紀夫(中村豊・常磐炭礦元社長がモデル))/富司純子

富司純子・蒼井優(第30回「日本アカデミー賞」最優秀助演女優賞受賞)/富司純子・豊川悦司         
「フラガール」富司。蒼井.jpg「フラガール」富司。豊川.jpg
      
蒼井優(谷川紀美子(常磐音楽舞踊学院1期生・小野(旧姓 豊田)恵美子がモデル))・山崎静代
フラガール 映画d.jpgフラガール 映画2.jpg「フラガール」●制作年:2006年●監督:李相日(リ・サンイル)●製作: シネカノン/ハピネット/スターダストピクチャーズ●脚本:李相日/羽原大介●撮影:山本英夫●音楽:ジェイク・シマブクロ●時間:120分●出演:松雪泰子/豊川悦司/蒼井優/山崎静代(フラガール ダンサー.jpg南海キャンディーズ)/岸部一徳/富司純子/高橋克実/寺島進/志賀勝/徳永えり/池津祥子/三宅弘城/大河内浩/菅原大吉/眞島秀和/浅川稚広シネカノン有楽町1丁目03.jpg/安部智凛/池永亜美/栗田裕里/上野なつひ/内田晴子/田川可奈美/中浜奈美子/近江麻衣子/千代谷美穂/直林真里奈/豊川栄順/楓●公開:2006/09●配給:シネカノン●最初に観た場所:有楽町・シネカノン有楽町(06-09-30)(評価:★★★★☆)

内田晴子/田川可奈美/栗田裕里/豊川栄順/池永亜美

蒼井優が演じた紀美子のモデル・レイモミ豊田(小野(旧姓豊田)恵美子)/常磐ハワイアンセンター最後のステージ
レイモミ豊田.jpg 

【お悔み】初代フラガール、小野恵美子さん死去 79歳 いわきにフラ文化築く福島民友新聞 2023年8月5日
小野恵美子.jpg

シネカノン有楽町1丁目(2010年1月28日閉館)/角川シネマ有楽町(2011年2月19日オープン)
シネカノン有楽町1丁目.jpg角川シネマ有楽町2.jpgシネカノン有楽町1丁目 2004年4月24日角川シネマ有楽町.jpg有楽町「読売会館」8階に「シネカノン有楽町」オープン。2007年10月6日「シネカノン有楽町1丁目」と改称。㈱シネカノン社の民事再生法申請により2010年1月28日閉館。2011年2月19日に角川書店の映像事業のフラッグシップ館として居抜きで再オープン(「角川シネマ有楽町」)

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処世術ではなく、従来の日本的人事を一旦対象化して、功罪を捉え直してみるという意味で○。

知らないと危ない、会社の裏ルール.jpg知らないと危ない、会社の裏ルール (日経プレミアシリーズ)』['15年] 働かないオジサンの給料はなぜ高いのか.jpg働かないオジサンの給料はなぜ高いのか: 人事評価の真実 (新潮新書)』['14年]

 『人事部は見ている』('11年/日経プレミアシリーズ)、『働かないオジサンの給料はなぜ高いか』('14年/新潮新書)などで、日本的人事の仕組みを分かりやすく解説してきた著者が、本書においても、日本企業における社内のヒト同士の関係や組織の在り方に就業規則や社内規定からは窺い知ることのできない「奇妙なルール」があることを指摘することで、"日本的人事"なるものを分かりやすく解説するとともに、そのベースにある日本企業の組織風土的な特質を鋭く分析しています。

 例えば、日本企業においては懲戒処分よりも仲間はずれにされることの方が恐ろしく、公私の区分よりも一体感が重視され、「親分―子分」構造が階層型組織を支えているとのことです。こうした日本企業特有のメンタリティの数々を解き明かすとともに、専門職制度がうまくいかないのはなぜか、問題社員でも昇給してしまうのはなぜか、といったことなども分析されています。

働かないオジサンの給料はなぜ高いのか7.JPG 前著と重なる内容も多く、サラリーマンの出世のシステムについては『人事部は見ている』以来繰り返されており、日本企業固有のメンバーシップ契約や「同期」についての考察は、テーマ自体はユニークですが『働かないオジサンの給料はなぜ高いか』でもすでに取り上げており、「働かなくても」中高年の給与が高い理由も、(タイトル通り)同書において既に「ラジアーの理論」でもって解説されています。

 但し、読み物としても組織論としても『働かないオジサンの給料は...』より洗練されているような気がしました。「同期」についての考察では、人気を博したTVドラマ「半沢直樹」で同期入社の社員同士が協力し合う姿が描かれていることを指摘していますが、何気なく見ているドラマの一場面から始まって、「同期」が日本型雇用の一要素であることを説いてみせているのは巧み。詰まるところ、日本型雇用システムは1つのパッケージであり、組織を動かすボタンの押し方にもルールがあるということになるようです。

 著者は最後に、日本型雇用システムは女性からも外国人からも見捨てられるとして、グローバル化が進展する今日において「日本型」をどう変えるのかについて論じていますが、この部分は10ページも無く、やや付け足し風であり、主たる読者ターゲットが一般サラリーマンであることを考えれば、この辺はやむを得ないところでしょうか。

 いわゆるサラリーマンを対象にこうした「見えないルール」を説くことは、本書を100パーセント「処世術の書」として読んでしまうような読者がいた場合、「男性正社員モデル」を再生産することに繋がるのではないかとの危惧もあるかもしれませんが、むしろ若い世代ほど、組織の「ルール」やその根底のある風土を認識することと、そうした「ルール」や風土に対する個人的な見方はどうかということは別問題として捉えることが出来るのではないかという気もします。

 一方で、人事パーソンの中には、こうした「ルール」を所与のものとして受け容れてきた人も結構いるような気がして、従来の日本的人事の仕組みや「男性正社員モデル」をベースとした社内価値観というものを一旦対象化して、その功罪を捉え直し、これからの人事の在り方を考えてみるという意味で(解説策まで充分には示されていないまでも)本書は意義があるかもしれません。

 著者は企業に勤めながらペンネームで執筆業をしているとのことで、内部にいるワーカーとして(役職に就きながら一度それを外された経験を持つ)こうした日本的な会社内のヒトや組織構造の在り方を目の当たりにしてきたであろうことは、本書の随所から窺えます。そして、それらを所与のものとして全肯定するのでなく、一方で、外から見ている評論家のようにそれらをあっさり全否定してしまうわけでもない、そうした、体験的現実感に基づくバランスの上に立っているのが、著者ならではの視点であり、『サラリーマンは二度会社を辞める』('12年/日経プレミアシリーズ)などが読者の共感を呼ぶのもそのためでしょう。

 著者は本書を上梓した2014年3月で定年とのこと、その後どのようなテーマを扱い、どのような展開を著作において見せるのか、個人的に注目したいと思ってましたが、じやはり「定年&定年後」にその関心はいったようです。

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努力の「量」ではなく「質」が求められる時代に。あとはどう実践するかか?

がんばると迷惑な人.jpgがんばると迷惑な人 (新潮新書)』['14年]

 かつては企業内でがんばっていさえすれば報われたものが、今日においては成果を出さなければ報われないというのは、『雇用の未来』の著者ピーター・キャペリが「ニューディール」と呼んだ、社員が企業に貢献できる限りは雇用するが、そうでなくなれば雇用は保証しないという欧米の雇用スタイルが、日本にも徐々に浸透しつつあることを示しているとも言えるし、また、まだ日本企業はそこまではいっておらず、報われないながらにも雇用の保証は相対的にみて欧米企業などよりは保たれているとも言えるのかもしれません。しかし何れにせよ、努力量よりも結果が求められる時代になりつつあることは間違いないかと思います。

がんばると迷惑な人06.JPG 本書は、はりきるほどズレる、意欲はあるのにスベる、やる気ばかりでツカえない、そんな人っていませんか(カバー折り返し)と読者に問いかけることから始まり、"がんばり"が価値を生む時代から、がんばることが価値を生まないばかりか、逆に価値を損ないかねない時代になり、努力の「量」ではなく「質」が求められる時代へのドラスティックな変化が起きたにも関わらず(著者はその変化の起きた時期を、1990年代を境にそうなったとしている)、実際にはがんばりの量に価値を見出す"がんばり病"からまだ抜け出せないでいる人がいて、この"がんばり病"が組織に蔓延すると、がんばることが自己目的化して、「手抜き」ならぬ「頭抜き」状態に陥ると警告しています。

 第1章では90年代に起きた変化と、なぜわが国がそこで選択を誤ったかを解説し、第2章では実際に組織や会社の中でどれだけ"がんばり病"が蔓延し、害を与えているかを解説しています。第3章では具体的な研究成果や事例などを紹介しながら、"がんばり病"を撃退し、良質なモチベーションを引き出すための方法を紹介しています。第4章では、同じ視点から機能しなくなったチームワークにメスを入れ、機能するチームワークづくりのポイントについて説明しています。

 第2章では、「時代遅れのモットーを部下に押しつける課長」などといった身近にいそうな"がんばり病"の弊害例を挙げ、"がんばり主義"が暴走し、周囲が多大な迷惑をこうむっている構図を浮き彫りにするとともに、日本人の場合、評価に情が入り易いことに加えて、法律などの制度が努力の量で評価することを陰で後押ししているとしています。

 第3章では、ムダながんばりをどう防ぐかについて書かれていて、過剰な管理をやめ、オフィスのレイアウトを、壁や窓の方に向いて座る方式、更には、隣人が気にならないような六角形や八角形に変えてみることなどを提案しています。また、思い切って時間外労働の割増率を引き上げた方がコスト意識から残業は減るだろうし、残存有給休暇を買い取れるようにした方が、会社に恩を売るような意識を捨てさせ有給休暇の取得促進につながるだろうとしているのは興味深いです。

 更にこの章では、質の高い努力をどう引き出すかについても書かれていますが、まず仕事が楽しい、面白いと感じられることが大事であり(内発的動機づけ)、その楽しさ、面白さの背後には、夢や目標があるはずだとしています。夢や目標は達成されてしまえばそれでモチベーションは終わるため、それを維持させるには夢や目標が青天井であることが必要であって、「野心」が努力の質を高めるとしています。では、「野心」の中心には何があるか―それは、承認欲求の一種である名誉欲であるとし、"がんばり"ではなく、実績を讃える表彰制度などを推奨しています。

 第4章では、"がんばり病"がチームまで冒す例を挙げています。またここでは、チームワークには「同質性を軸に成り立つチームワーク」と「異質性を軸に成り立つチームワーク」の2種類があり、日本人が今まで得意としてきたのは「同質性を軸にしたチームワーク」だが、これからは「異質性を軸に成り立つチームワーク」が求められるとしています。そして、ヒロイズムを肯定的に捉え、健全なヒロイズムはチームを強くするとしています。

 著者によれば、本書で述べていることは、最近説く人が多い「スローライフ」や「がんばらない生き方」といったものとはある意味で真逆であるとのことですが、確かに「がんばらないで」と言っているわけではなく、「がんばる」時間とエネルギーを「考える」ことに振り向けろと、「量」より「質」だと言っているわけです。

 全体を通して平易に書かれていて読み易かったし、ユニークな視点の提示によって啓発される要素も多々ありました。帯に「画期的仕事論」とありますが、あとは、こうした考えをどのように日々の仕事において実践していくか、そのためには常に「考える」ことが必要なのでしょうが、これがなかなかたいへんかも。但し、そうしたことを考える際の一定の視座は提供している本ではあると思います。

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色々な見方を教えてくれるが、1人ひとりの記述が浅くて意外と印象に残らない。。

本当に偉いのか図1.png本当に偉いのか―あまのじゃく偉人伝.jpg 小谷野敦.jpg 小谷野 敦 氏
本当に偉いのか あまのじゃく偉人伝 (新潮新書)

 福沢諭吉、夏目漱石、坂本竜馬からアレクサンドロス大王やコロンブスまで、明治の偉人たちから始まって世界史、日本史に名を残した人まで、口上通り、「裸の王様」たる偉人たち(存命中の人物を含む)を"独断と偏見"でブッタ斬る―といった感じの本ですが、誰もかれも殆ど貶しているせいか、すっきりするどころか却って読んでいて嫌気がさす人もいるのではないかと余計な心配をしたりもしました。

 実際、Amazon.comのレビューの中にも、「独りよがり」「読むに堪えない」などの評があって、評価はイマイチみたいです。確かに、本当は偉くないという中に漱石だけでなく司馬遼太郎なども含まれていて、ほんとうは偉いという中に渡辺淳一や石原慎太郎がいるのはどうかと思ってしまう人は多いと思います(個人的には著者の以前からの夏目漱石批判には一部共感させられる面もあり、また、渡辺淳一は初期作品はいいと思うのだが)。

 中には当を得たりと思った部分もあったし、また、この人物についてこんな見方も出来るのだなあということを色々と教えてくれているという意味では、まずまず面白かったです。取り上げられている"偉人"たちの中には全否定されているに近い人もいますが、ある部分は認めているようなケース(作家であればある作品は認めているケース)もままあって(宮崎駿3.jpgどちらかというとこのタイプの方が多い)、その人物の著作やその他業績等をその人物のものに限って相対評価するうえでは参考になるかもしれません(例えば、「第三章 本当に偉いのか偉人伝 日本編」で取り上げられている宮崎駿について、初期作品の「風の谷のナウシカ」('84年)は"まぎれもない傑作"としているが、「もののけ姫」('97年)は失敗作とし、更にそれら以前の「ルパン三世~カリオストロの城」('79年)などは秀作としている)。

 但し、1冊の新書に大勢詰め込んだため1人ひとりの人物に関する記述が浅くなった印象もあります。すらすら読める割には意外と印象に残らないのは、自分によりどころとなる知識が少ないせいもあるかもしれませんが、著者自身が説明を端折っているせいもあるのでは。知識だけひけらかしているように見られても仕方無い面もあるように思えますが、著者自身はどう見られるかはあまり気にしていないのかもしれません。

 全般的には、取り上げているそれらの"偉人"たちについて「過大評価」されているのではないかという疑問を呈しているわけであって、全てを評価しないと言っているわけではないし、これだけそれぞれの人物に詳しいということは、それなりにその人の本を読んだり調べたりしたわけだから、意外と著者本人もどこかでその人物に関心や愛着を持っていたりもするのではないでしょうか。仮に著者にそう問うても、まあ、天邪鬼の本性からすれば、そんなことはないと言下に否定されるでしょうが。

《読書MEMO》
●目次
はじめに
第一章 上げ底された明治の偉人
福沢諭吉/夏目漱石/岡倉天心/柳田國男/幸田露伴/徳田秋聲/南方熊楠/大隈重信/西郷隆盛/森鴎外/樋口一葉/永井荷風/正岡子規/ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)

第二章 本当に偉いのか偉人伝 世界編
アレクサンドロス大王/クリストーバル・コローン(コロンブス)/ベンジャミン・フランクリン/イマニュエル・カント/ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル/ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ/ナポレオン一世/リヒャルト・ワグナー/ハインリヒ・シュリーマン/レフ・トルストイ/フョードル・ドストエフスキー/ガンディー/魯迅/ヴラディーミル・ナボコフ/ハンナ・アレント/ラングドン・ウォーナー/フォービアン・バワーズ/D・H・ロレンス

第三章 本当に偉いのか偉人伝 日本編
石田三成/井原西鶴/和辻哲郎/野上弥生子/福田恆存/中野好夫/丸山眞男/吉田松陰/中島敦/中野重治/上田秋成/坂本竜馬/伊福部昭/尾崎翠/井上ひさし/丸谷才一/十二代市川團十郎/十八代中村勘三郎/司馬遼太郎/中井久夫/宮崎駿/深沢七郎

第四章 誤解の多い偉人/評価保留の偉人
ヘレン・ケラー/ミヒャエル・エンデ/毛利元就/間宮林蔵/野坂昭如/グスタフ・マーラー/光明皇后/筒井康隆/平賀源内/カール・ポパー/谷崎潤一郎/川端康成/ノーム・チョムスキー/牧野富太郎

第五章 あまり知られていない偉人
荻野久作/兼常清佐/ジャン=バティスト・グルーズ/大久保康雄/石山透

第六章 本当は偉いぞ偉人伝
井伊直弼/伊藤博文/山本有三/渡辺淳一/円地文子/大乃国康(芝田山親方)/エミール・ゾラ/本居宣長/フランシスコ・フランコ/曲亭馬琴/野口英世/坪内逍遙/田山花袋/三木卓/石原慎太郎

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トラブルは「個人対企業」の関係性で起きている。企業・人事の「正しい」役割とは何かを示す。

心の病が職場を潰す.jpg心の病が職場を潰す (新潮新書 588)岩波明氏.jpg 岩波 明 氏(医学博士・精神保健指定医)

 今や日本中の職場が、うつ病をはじめとする精神疾患によって、混乱させられ、疲弊させられている──。それはいつから、どのように広がったのか。この現状を私たちはどう捉えるべきなのか。基礎的な医学知識を紹介しながら、精神科医療の現場から見える、発病、休職、復職、解雇などの実態を豊富な症例を通して報告―。(版元サイトより)

 本書解説によれば、精神医学の専門家である著者が、勤労者の精神疾患がより身近な問題に浮上している現実を捉え、社会的に解決していくためにまずは正しい知識の理解が欠かせないとの考えのもとに本書を著したとことです。

 第1章「疲弊する職場」では、職場に置いて精神疾患(うつ病)の蔓延が進んでいる状況をデータで示すとともに、生保社員と銀行OLの症例を会社の対応と併せて紹介しており、何れも、こうした事例に対してどう判断しどう対処すればいいのか、会社としても扱いが難しいだろうなあと思われる事例であり、身につまされる思いをしました。

 第2章「その病をよく知るために」では、うつ病の多様性並びに躁うつ病・パニック障害・神経症・統合失調症などのその他の主な精神疾患について解説しています。神経症については更に「強迫神経症」「対人恐怖」「ヒステリー」「PTSD」に分けて解説しています。

 第3章「日本の職場の問題点」では、長時間労働と精神疾患の関係について解説していますが、個人的には、日本は労働者が長時間労働でありながら仕事の疲労度が低い国であるというデータが興味を引きました。つまり日本人は労働への耐性が高く、他国の勤労者より勤勉であるということで(欧米に比べると時間当たりの仕事密度が低いとの指摘もあるが)、著者は、長時間労働などの労働条件の厳しさは、日本の勤労者全体にとって必ずしもマイナスに作用はしていないものの、「耐性が低くパフォーマンスが十分でない人においては、うつ病や過労死のリスクファクターになっている」と言えそうだとしています。

 また、これは以前からの著者の立場ですが、「新型うつ」を"虚像"として捉え、こうした病気の"悪用"による社会的損失の大きさを訴えています。

 第4章「職場に戻れる場合、去る場合」では、精神疾患による休職者の復職の様々な形について述べる中で産業医について触れ、産業医がヒール(悪役)に成り得る―、つまり産業医が企業寄りであるため、主治医による患者本人の復職及びその際の主治医からの就業条件への配慮要請などを聞き入れず「復職不可」と判断するケースがあることなどを指摘しています。

 ここにあるように、リハビリ出勤や「リーワーク」の期間を休職扱いにし、その間に休職期間が経過してしまうというのも、休職者を退職に追い込むための、ある程度出来上がったシステムともとれるのかもしれません。大企業などで単独型の健保組合などは、健保で6割払ってさっさと縁を切りたいと思いがちなのか―と思わせるような事例が出てきます(同じ企業で貢献度によって手厚く保障されたケースも紹介されているが)。

 第4章では、職場におけるハラスメントなどによってうつ病を発症し、退職に追い込まれたケースなども紹介されていましたが、第5章「過労自殺という最悪のケース」では、更に重症となり自殺に至ったケースとして、あの有名な「電通事件」の経緯が詳細に記されています(事例の紹介は何れも丁寧で細かい。共に、労働基準監督署による業業務起因性"否認"が覆ったケース。電通事件の画期的な点は、それが即、民事賠償に繋がったことだろう)。
岩波 明 『心の病が職場を潰す』.jpg
 全体として、過労自殺や労災、休職・復職の判断・取り扱いなどの、企業側の対応、人事業務との接点に意識して触れ、トラブルが「個人対企業」の関係性で起きていることを示唆しているように思いました。

 ほぼこれまでの著者の本に書かれていたりすることではありましたが、企業側の本音により深く斬りこんだ面もありました。人事部門に期待される役割の重要性が増していることを実感する上で、また、その「正しい」役割とは何かを考える上で、人事パーソンは一読しておいてもいいのでは。

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第5章「『悪』を描くとき」が裏話的で面白かったが、あとはそうでもなかった。

高杉 良 『男の貌―私の出会った経営者たち』.jpg男の貌: 私の出会った経営者たち (新潮新書)

 前半3章でそれぞれ、中山素平(「日本興業銀行」特別顧問)、森和夫(「東洋水産」創業者)、八谷泰造(「日本触媒」創業者)を扱っていますが、これは皆『小説 日本興業銀行』『燃ゆるとき』『炎の経営者』といった著者の小説のモデルになっている経営者たちです。
 著者が彼らをモデルとした小説を書こうとした経緯などが分かって興味深いのですが、「リーダー論」と言うより著者自身の「思い出話」になってしまっている感じもしました。

 第4章「さまざまな出会い」に出てくるその外の経営者たちも、『小説 会社再建』のモデルとなった「来島どっく」の坪内寿夫、『挑戦つきることなし』のモデルとなった「ヤマト運輸」の小倉昌男、『青年社長』のモデルとなった「ワタミ」グループの渡邉美樹と、何れも然りですが、故・小倉氏とは本人に直接一度も取材することがないままに小説を書いたという話や、渡邉氏の政界への関心を著者が危惧していることなどに若干興味を抱きました。

 第5章「『悪』を描くとき」が一番面白かったです。『濁流』で、雑誌「経済界」の主幹・佐藤正忠を描いた時は、まさに「筆誅を加える」という気持ちだったそうで、それぐらいの心意気と言うか、"怒り"の原動力が無いと、あのような作品は書けないんだろうなあと思わされ、『労働貴族』で、日産労組のドンで今年('13年)2月に亡くなった塩路一郎をモデルに描いた際は、不審者に尾行されたとのこと、『金融腐蝕列島』第二作「呪縛」連載中も、匿名の脅迫状が送られてきたりして、警察の「マル対」(保護対象者)になったとのこと、そして、日経新聞の鶴田卓彦社長をモデルとした『乱気流』では、訴訟問題にまで発展、新聞各紙では「高杉氏敗訴」と報じられましたが、別に出版差止めになったわけでもなければ謝罪広告を命じられたわけでもなく、賠償請求額の20分の1の支払い命令が下されただけなので、「一部敗訴」が正しいとしています(毎日新聞のみが「一部敗訴」と報じた)。

 最後の第6章で「リーダー論」の締め括りをしていますが、そうした本書全体の流れからやや外れた第5章が、裏話的関心からかもしれませんがやはり一番面白く、あとはそうでもなかったか。
 同趣のものとしては、故・城山三郎の『打たれ強く生きる』や『聞き書き 静かなタフネス10の人生』の方が、若干、対象となる人物により深く入り込んでいた気がします。

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ディズニーにおける「夢と愛の物語」「アメリカの新たな民話」の作り方が窺えた。

ディズニーの魔法.jpg     白雪姫 dvd.jpg  スノーホワイト マイケル・コーン.jpg   美女と野獣 DVD.jpg 
ディズニーの魔法 (新潮新書)』「白雪姫 [DVD]」「スノーホワイト [DVD]」「美女と野獣 スペシャル・エディション (期間限定) [DVD]

 メディア論が専門の著者が、ディズニーの名作アニメについて原作の物語とアニメとの違いを分析することで、ディズニー・アニメというものが、「本当は怖い」話をいかにして「夢と愛の物語」に変え、「アメリカの新たな民話」を作り上げていったかを探るとともに、その背後にあるディズニーの思想とでもいうべきものを探った本であり、面白い試みだと思いました。

 取り上げられているのは以下の長編アニメーション6作。
・「白雪姫(白雪姫と七人の小人」('37年)/原作:『グリム童話』収録「白雪姫」(1812)
・「ピノキオ」('40年)/原作:コッローディ作の童話『ピノッキオの冒険』(1883)
・「シンデレラ」('50年)/原作:シャルル・ペロー『過ぎし昔の物語ならびに教訓』収録「サンドリヨン」(1697)、『グリム童話』収録「灰かぶり姫」
・「眠れる森の美女」('59年)/原作:シャルル・ペロー『過ぎし昔の物語ならびに教訓』収録「眠れる森の美女」(1697)、『グリム童話』収録「いばら姫」
・「リトル・マーメイド」('89年)/原作:アンデルセン『お話と物語』収録「人魚姫」(1837年)
・「美女と野獣」('91年)/原作:ボーモン夫人『美女と野獣』(1758年)

 これらについて、まず原作のあらすじを紹介し、続いてディズニーはどのようにオリジナルを作り変えたかを解説する形式で統一されているため読み易く、改変点に関する、これまで知らなかった知識が得られること自体が楽しいです。

 原作となった古典童話は、桐生操氏の『本当は恐ろしいグリム童話』('98年/ベストセラーズ)シリーズで広く知られるようになったオリジナルのグリム童話をはじめ、残酷で暴力的で、しばしば猟奇的、倒錯的でもあり、例えば「白雪姫」は最後に継母に残酷な仕返しをするし、『ピノッキオの冒険』では「喋るコオロギ」はピノッキオに木槌で叩き殺され、グリムの「灰かぶり姫」では、意地悪な連れ子姉妹が「金の靴」を無理に足に押し込むため、それぞれ足先と踵を切り落として歩けなくなる―。

 ペローの「眠れる森の美女」では、美女は100年以上も眠っていたため年齢も100歳以上になっているはずであり(王子は生きた白雪姫ではなくその死体と恋に落ちている)、アンデルセンの「人魚姫」は人間との恋を実らせることが出来ずに海の泡になってしまい、ボーモン夫人の『美女と野獣』に登場する「野獣」は、こちらはむしろディズニー版のそれより思慮深く優しいとのこと。

 まあ、原作のままのストーリーではファミリー向けにならないものが殆どであり、改変はしかるべくして行われたようにも思いますが、さらに突っ込んで、その背景にある当時のアメリカ社会の状況やディズニー文化の指向性などを社会学・文化学的に考察しており、但し、あまり堅くなり過ぎず、制作や改変の経緯にまつわるエピソードなども織り交ぜ(その部分はビジネス・ストーリー風とも言える)、改変点に関するトリビアな知識と併せて、コンパクトな新書の中に裏話が満載といった感じの本でもあります。

 ディズニーは、原作を改変することでそこに愛と感動、夢と希望を込め、当時の観客に合ったものに作り変えていったわけで、それを、ドロドロした原作のキレイな上澄み液だけを掬って換骨脱胎したと批判しても仕方がない気がしますが、ディズニー作品を契機にそれらの原作に触れることで、原作の持つグロテスクな雰囲気を味わってみるのもいいのでは(実態としては原作もディズニー作品の内容そのものであると思われているフシがあるが)。

白雪姫 1937.jpg 個人的には、映画「白雪姫」を観て、これがディズニーの最初の「長編カラー」アニメーションですが、1937年の作品だと思うとやはりスゴイなあと。白雪姫や継母である后の登場する場面は実際に俳優を使って撮影し、その動作を分解して絵を描くという手法はこの頃からやっていたわけです。因みに、7人の小人は、原作ではゴブリン(ドラクエのキャラにもある小鬼風悪魔)であるのに対し、ディズニーによって、サンタクロースのイメージに変えられたとのことです。

白雪姫 1937 2.jpg 原作では、王子が初めて白雪姫に合った時、姫は死んでいたため、本書では、王子はネクロフィリア(死体に性的興奮を感じる異常性欲)であるとしています(半分冗談を込めてか?)。ディズニー版では王子を最初から登場させることで純愛物語に変えていますが、原作の基調にあるのは、白雪姫の后に対する復讐物語であり(結婚式で、継母=魔女は真っ赤に焼けた鋼鉄の靴を履かされて、死ぬまで踊り続けさせられた)、ヒロインが自分の婚礼の席で、自分を苛め続けてきた義姉妹の両眼を潰して復讐する「シンデレラ」の原作「灰かぶり姫」にも通じるものがあります。

 「この映画をディズニーが実写でリメイクするという話がある」と本書にあるのが、ルパート・サンダーズ監督によるシャーリーズ・セロンが継母の后を演じた「スノーホワイト」('12年)ですが、ダーク・ファンタジーを指向しながらも、やはりディズニー・アニメの枠内に収まっているのではないかな(評判がイマイチで観ていないけれど、白雪姫より継母の方が美女であるというのは、シャーリーズ・セロンの注文か?)。

snowwhite 1997 3.jpgsnowwhite 1997  1.jpg むしろ、本書にも紹介されている、シガーニー・ウィーヴァーが継母の后を演じたTV実写版「スノーホワイト」('97年)が比較的オリジナルに忠実に作られている分だけ、よりホラー仕立てであり、'99年の年末の深夜にテレビで何気なく見て、そのダークさについつい引き込まれて最後まで観てしまいました。これ、継母が完全に主人公っぽい。ホラー風だがそんなに怖くなく、但し、雰囲気的には完全に大人向きか(昨年('12年)テレビ東京「午後のロードショー」で再放映された)。

 著者は、「ビートルジュース」「バットマン」「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」のティム・バートン監督がディズニーで働いていたことがあるので、彼に頼めばいいものができるだろうと―(ティム・バートンは、本書刊行後に、ジョニー・デップ主演でロアルド・ダール原作の「チャーリーとチョコレート工場」('05年)を撮った。やや不気味な場面がありながらもコミカル調で、原作(続編を含めた)通りハッピーエンド)。「ナイトメアー・ビフォア・クリスマス」の脚本家キャロライン・トンプソンが監督したTV版「スノーホワイト/白雪姫」もあり('01年/米)、こちらもちょっと観てみたい気も。

ガストン.jpg美女と野獣 01.jpg 本書の最後に取り上げられている「美女と野獣」は、個人的には90年代のディズニー・アニメの頂点を成している作品だと思うのですが、原作では、ヒロインであるベルは妬み深い二人の姉に苛められていて、グリムの「灰かぶり姫」のような状況だったみたいです。ディズニー・アニメでは、この姉たちは出てこず、代わりに、強引にベルに言い寄るガストンなる自信過剰のマッチョ男が出てきますが、これは、グリムのオリジナルには全く無いディズニー独自のキャラクター。

美女と野獣 02.jpg 本書によれば、オリジナルは、ベルの成長物語であるのに対し、ディズニー版ではベースト(野獣)の成長物語になっているとのことで、「美女と野獣」ではなく「野獣と美女」であると。そう考えれば、「悔い改めたセクシスト」であるビスーストと対比させるための「悔い改めざるセクシスト」ガストンという配置は、確かにぴったり嵌る気もしました。

 ストーリー構成もさることながら、絵がキレイ。大広間でのダンスのシークエンスでは、台頭しつつあったピクサーが作ったCGを背景に使っています(ピクサーはディズニーとの関係を構築しようとしていた(『世界アニメーション歴史事典』('12年/ゆまに書房)より))。

 本書では触れられていませんが、ディズニーはこの作品以降、グローバル戦略乃至ダイバーシティ戦略と言うか、「アラジン」('92年)、「ポカホンタス」('95年)、「ムーラン」('98年)など非白人系主人公の作品も作ったりしていますが、90年代半ば以降はスティーブ・ジョブズのピクサー社のCGアニメに押され気味で、「ポカホンタス」は「トイ・ストーリー」('95年)に、「ムーラン」は「バグズ・ライフ」('98年)に興業面で完敗し、今世紀に入っても「アトランティス 失われた帝国」('01年)は「モンスターズ・インク」('01年)に、「ホーム・オン・ザ・レンジ」('04年)は「Mr.インクレディブル」('04年)に完敗、それぞれピクサー提供作品の3分の1程度の興業収入に止まりました(ピクサー制作の「トイ・ストーリー」から「Mr.インクレディブル」まで、劇場公開は何れもディズニーによる配給ではあるが)。

スティーブ・ジョブズ 2.jpg '05年にディズニーのアイズナー会長は経営責任をとって退任し、'06年にはディズニーとの交渉不調からディズニーへのピクサー作品提供を打ち切るかに思われていたスティーブ・ジョブズが一転してピクサーをディズニーに売却し、同社はディズニーの完全子会社となり、ジョブズはディズニーの筆頭株主に。「トイ・ストーリー」などを監督したピクサーのジョン・ラセターは、ディズニーに請われ、ピクサーとディズニー・アニメーション・スタジオの両方のチーフ・クリエイティブ・オフィサーを兼任することに。'06年にピクサー制作の「カーズ」('06年)を監督するなどしながらも、「ルイスと未来泥棒」('07年)などの以降のディズニー・アニメの制作総指揮にあたっています(ディズニー作品も3D化が進むと、ディズニー・アニメのピクサー・アニメ化が進むのではないかなあ)。

Snow white 1937.jpg白雪姫 dvd.jpg「白雪姫」●原題:SNOW WHITE AND THE SEVEN DWARFS●制作年:1937年●制作国:アメリカ●監督:デイヴィッド・ハンド●製作:ウォルト・ディズニー●脚本:テッド・シアーズ/オットー・イングランダー/ アール・ハード/ドロシー・アン・ブランク/ リチャード・クリードン/メリル・デ・マリス/ディック・リカード/ウェッブ・スミス●撮影:ボブ・ブロートン●音楽:フランク・チャーチル/レイ・ハーライン/ポール・J・スミス●原作:グリム兄弟●時間:83分●声の出演:アドリアナ・カセロッティハリー・ストックウェル/ルシール・ラ・バーン/ロイ・アトウェル/ピント・コルヴィグ/ビリー・ギルバート/スコッティ・マットロー/オーティス・ハーラン/エディ・コリンズ●日本公開:1950/09●配給:RKO(評価:★★★★)

スノーホワイト 1997 vhs.jpg「スノーホワイト(グリム・ブラザーズ スノーホワイト)」snowwhite 1997.jpg●原題:SNOW WHITE: A TALE OF TERROR(THE GRIMM BROTHERS' SNOW WHITE)●制作年:1997年●制作国:アメリカ●監督:マイケル・コーン●製作:トム・エンゲルマン●脚本:トム・スゾロッシ/デボラ・セラズ●撮影:マイク・サウソン●音楽:ジョン・オットマン●原作:グリム兄弟●時間:100分●出演:シガーニー・ウィーヴァー/サム・ニール/モニカ・キーナ/ギル・ベローズ/デヴィッド・コンラッド/ジョアンナ・ロス/タリン・デイヴィス/ブライアン・プリングル●日本公開:1997/10●配給:ギャガ=ヒューマックス(評価:★★★)

「美女と野獣」03.jpg美女と野獣 dvd.jpg「美女と野獣」●原題:BEAUTY AND THE BEAST●制作年:1991年●制作国:アメリカ●監督:ゲーリー・トゥルースデイル/カーク・ワイズ●製作:ドン・ハーン●脚本:リンダ・ウールヴァートン●撮影:ディーン・カンディ●音楽:アラン・メンケン●原作:ジャンヌ・マリー・ルプランス・ド・ボーモン●時間:84分●声の出演:ペイジ・オハラ/ロビー・ベンソン/リチャード・ホワイト/レックス・エヴァーハート/ジェリー・オーバック/アンジェラ・ランズベリー/デイヴィッド・オグデン・スティアーズ●日本公開:1992/09●配給:ブエナ・ビスタ(評価:★★★★)

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しっかりした概念整理、社会的弊害、社会病理学的観点など、バランスの取れた内容。

「新型うつ病」のデタラメ.jpg                それってホントに「うつ」? .jpg   林 公一 『それは、うつ病ではありません!』.jpg
「新型うつ病」のデタラメ (新潮新書)』['12年]/吉野 聡『それってホントに「うつ」?──間違いだらけの企業の「職場うつ」対策 (講談社+α新書)』['09年]/林 公一『それは、うつ病ではありません! (宝島社新書)』['09年]

 挑発的なタイトルであり、実際に内容的にも、精神科医である著者の「新型うつ病」の診断のいい加減さに対する憤りが感じられますが、ベースは非常に秩序立った解説と、著者の経験的症例に基づくかっちりしたものでした。

 冒頭に「新型うつ病」の症例と「従来型うつ病」の症例を掲げ、さらに「軽症」の「従来型うつ病」の症例を挙げて、「新型うつ病」と「軽症」のものも含めた「従来型うつ病」の違いをくっきり浮かび上がらせています。

 更に、「うつ」と「うつ病」の違いを、うつ病概念の歴史を辿りながら解説しており、うつ病概念がDSMなどの操作的診断基準と、所謂「新型うつ病」に属する新たな病型の提唱により拡大したとする一方、DSMにおいて、失恋やリストラなどによって起こる気分の落ち込みや不眠、空虚感が「症状」とされ、安易にうつ病と診断されること(うつ病概念の拡大)への異論も紹介しています。

 こうして多くの学説・主張等を紹介したうえで、「新型うつ病」とは、ずばり、「逃避的な傾向によって特徴づけられる抑うつ体験反応」であるとし、「逃避型抑うつ」(広瀬徹也)、「現代型うつ病」(松浪克文)、「ディスチミア親和型うつ病」(樽味伸)の殆どがこれに当たるとしています。

 その上で、抑うつ状態の全貌を表に纏めていますが、それを見ると、まず全体を病的なもの(「抑うつ症診断群」)と病気とは言えないもの(「単なる気分の落ち込み」)に分け、前者の抑うつ症診断群の中に、「総うつ病」「うつ病」「抑うつ体験反応」などがあり、「抑うつ体験反応」の中に、従来から「抑うつ神経症」「反応性うつ病」と呼ばれていたものと、「逃避型抑うつ」「現代型うつ病」「ディスチミア親和型うつ病」などと呼ばれる最近増加した逃避を特徴とする「新型うつ病」がある―という構図を示しています。

 「新型うつ病」が生まれた要因は、「精神病理学の衰退」と「精神力の低下」がその出現環境を外側と内側から準備し、「SSRI(抗うつ薬)の出現」がその引き金となったという著者の見方には説得力があり、とりわけ、DSMの普及と反比例するように精神病理学という学問自体が衰退し、これを専門に勉強する若い精神科医があまり出なくなった、というのには考えされられました(外見判断基準であるDSMの普及により、精神科医が「直観」を磨く訓練をしなくなった)。

 全3章構成のここまでが第1章で、第2章では、「新型うつ病」がもたらした社会的弊害について臨床経験を踏まえつつ考察していますが、休職するためだけに診断書を求める人達とそれに応える医師がいることや、そのことによって給料の6割に該当する傷病手当金が比較的簡単にもらえるため、病気を隠れ蓑にしたある種の利権のようになってしまっていること、障害年金についても「うつ病で障害年金 完全マニュアル」のようなものが出回っていて同じような状況になっていること、更には、労働紛争の場においても、専門医のバラバラな診断結果と裁判官の恣意的な解釈によって、専門家から見れば非常に疑問の余地があるケースにおいて原告に多額の「賠償金」が支払われていたりすることなどを、事例を挙げて紹介しています。

 最終第3章「精神科診療から見た現代社会」においては、「何でも人のせい」「何でも病気」「『知らない私』のせい(プチ解離)」といった最近の社会風潮に呼応するようなケースが紹介されています。

 症例がそれほど多く紹介されているわけではありませんが、1つ1つの事例紹介が解説としっくり符合していて、無駄が無いという印象です。

 DSMの基準に批判的で「現代型うつ病」乃至「ディスチミア親和型うつ病」を「うつ病」とは見做さない派―の精神科医が書いた本という意味では、その部分だけ見れば、ほぼDSMに沿って書かれている吉野聡 著 『それってホントに「うつ」?』('09年/講談社+α新書)よりも、林公一 著『それは、うつ病ではありません!』('09年/宝島社新書)に近いと思われますが、こちらの方が、概念整理がしっかりしており、事例も適切であったように思います。

 前二著を比較すると、個人的には『それってホントに「うつ」?』の方を圧倒的に支持するのですが、それは、企業側からすれば「現代型うつ病」も「従来型うつ病」と同じような"対応課題" になっているという観点から書かれているためであり、その背景には、本書にあるように、「逃避的な傾向によって特徴づけられる抑うつ体験反応」(乃至は、そのレベルにまでも至らない「単なる気分の落ち込み」)に対して「うつ病」という診断を下す(或いは、乞われて診断書に書く)精神科医がいるということがあるのでしょう。

 この本はこの本で、うつ病の基本概念と近年の傾向をよく整理し、「新型うつ病」の社会的弊害を現場感覚で捉えつつ、社会病理学的な観点も視野に入れた、バランスの取れた良書だと思います。

 Amazon.comのレビューの中に、うつ病に関する記述はこの種の一般書としては出色の出来であり、症例も臨床観に優れているが、タイトルが問題であり、内容と合っていないばかりか、「新型うつ」はでっち上げとの誤解を招き、ある種の人たちが主張する「新型うつは甘えなので、診断治療の必要はないし、疫病利得を得るなどもってのほか」という説とこの本の趣旨は大きく隔たっているにも関わらず同じと見られる恐れがある―といったものがありましたが(そのことを理由に星2つの評価になっている)、それは言えているなあと(吉野聡氏の『それってホントに「うつ」?』についても同じことが言え、こういうの編集部でタイトルを決めているのかな。共に良書であるだけに惜しい)。

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沖ノ鳥島は「島」?「岩」? 竹島・北方四島などに関して歴史認識と現実対応を区別している。

日本の国境 新潮新書.jpg 『日本の国境 (新潮新書)』['05年]      山田 吉彦.bmp 山田 吉彦 氏(日本財団)

沖ノ鳥島 排他的経済水域.jpg 全4章構成の内の書第1章で、「海洋国家日本」の基礎知識を概説し、第2章で、著者自らが訪ねた国境の地として沖ノ鳥島、石垣島、大東諸島、根室・羅臼について述べ、第3章で領土紛争の焦点にある尖閣諸島、対馬、竹島、北方領土について述べるとともに、第4章で「日本の海」を守るにはどうすればよいかを考察しています。

沖ノ鳥島1.jpg 第1章を読むと、日本の国土面積は38万平方kmで世界59位であるのに対し、日本の排他的経済水域は447万平方kmで(接続水域を含む)、世界で6位であることが分かり、個人的には、これだけでも新知識として参考になりました。

 著者自身が訪ねた場所では、日本財団が調査団を送った際に著者自身が事務局を務めた、日本最南端の「沖ノ鳥島」に関する記述が、探検記風に最も詳しく書かれていて面白かったです(面白がっている場合ではないか?)

沖ノ鳥島2.jpg 沖ノ鳥島は東西4.5km、南北1.7km、周囲約10 kmの島ですが、高潮時には16cmだけ海上に頭を出すだけであり、但し、この「島」があることで日本は日本全体の排他的経済水域の約1割にあたる40万平方kmの水域を確保しているとのこと。

 仮にこの島が国際法によって「島」では無く「岩」であるとされれば、日本は40万平方kmの排他的経済水域を失うわけで、チタンネットを張って浸食等から防護していますが、満潮時になると直径何mかのその部分だけしか海上に姿を見せないため、これはやはり「岩」だはないかとの印象を抱かざるを得ず、むしろ「岩」を「島」として留めるために様々な検討がなされているといった印象を受けました。

 その他にこの章では、石垣島が、正式な国交の無い中国・台湾間の、中台貿易の中継点(クリアランス基地)となっていて、毎年かなりの入港税(トン税)収入があるといったことも興味深かったです(実際には入港せず、沖に停泊するクリアランス船と石垣税関との間を、船舶代理店の船が書類を持って往復するのだが)。

 領土問題の焦点となっている地域については、尖閣諸島が古来からの日本固有の領土であることを説明する一方で、「竹島」については、韓国の領有の主張が錯誤に基づくものであるとしながらも、実効支配されている今となっては「還らぬ島」になりつつあるとしています。

 北方領土についても、日本の領有主張の正当性を解説しつつも、北方四島からソ連に追い出された日本人が約8,000人なのに対し、現在、択捉・国後島には12,000人のロシア人が住み、市場経済下で生活していることを考えると単純に返還されるのは難しいとして、四島返還のステップ案を提示しています。

 日本財団所属ということで、もう少し強硬な主張かと思ったけれども、歴史認識はともかくとして、問題の最前線にいる人は、現実を見据えたうえでの対応を考えざるを得ないということなのでしょう。

 国民が自らの領土に関心を持つことが、領土防衛の第一歩であることを示唆した本でもあります。

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「英語」の本と言うより、暇な時に読む「映画教養書」といった感じか。

使ってみたい映画の英語―.JPG使ってみたい映画の英語.jpg使ってみたい映画の英語 男の名セリフを味わう

 「風と共に去りぬ」「カサブランカ」から「ラスト サムライ」「スクール・オブ・ロック」まで、年代別に44本の映画の中のセリフを取り上げ、そのセリフの背景となるあらすじを大体2ページぐらいで紹介して、あとは、その作品についての一口メモと英語のセリフについての一口メモが1ページずつあるといった構成になっています。

 きれいに纏まっているので、語学雑誌か何かの連載かと思ったりもしましたが、書き下ろしみたい。

 あらすじの説明に各2ページも割いているわけで、どちらかと言うと、「英語」の本と言うより「映画」の本であり、サブタイトルに「男の名セリフを味わう」とあるように、取り上げられているのはすべて男性登場人物のセリフです(サブタイトルの方が内容に即している)。

 あとがきにも、編集者から「団塊の世代を中心に、中高年男性が読んで楽しめるような、カッコいい男たちの名セリフ集を作れないか」との話があって本書を執筆したとあり、「同世代の男性に向けて書いた」(著者は1953年生まれ)ともあります。

 従って、映画の内容を思い出しながら、再度その作品を見る際は幾つかのセリフにこだわって観る楽しみにするといった読み方になるのでしょうか。

 著者自身が、そのセリフが語られた背景を丁寧に解説しているわけで、「使ってみたい」と言っても、そう使うような場面が日常であるようにも思えない印象を受けました。

 作品に関する一口メモには、俳優に関するエピソードや映画が作られた際の裏話なども織り込まれていてそれなりに楽しめましたが、メジャーな作品ばかり取り上げているため、映画ファンからすれば"一般常識"の範疇内の話も多く、一方、「英語」の方を期待した読者には、物足りないものとなっているのではないかと思いました。

 「使ってみたい」は編集者がつけたタイトルなんだろなあ、きっと。
 暇な時にさっと目を通す「映画」の本(映画教養書)といった感じでしょうか。

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考え方はマットウ。「勝間」本などの啓発本批判は明快。どう若い世代に理解させるかが課題。

『社畜のススメ』.jpg  断る力.jpg 勝間 和代『断る力 (文春新書)

藤本 篤志 『社畜のススメ (新潮新書)

 『社畜のススメ』の著者は、USENの取締役などを経て独立して起業した人ですが、IT企業出身の人というと、華々しく転職を繰り返しているイメージがあるけれど、著者に関して言えば、一応USENだけで18年間勤めていて、スタート時はそれこそ、カラオケバーやスナックを廻る「有線」のルートセールスマンだったようです。

 本書では冒頭で、「個性を大切にしろ」「自分らしく生きろ」「自分で考えろ」「会社の歯車になるな」という、いわゆる"自己啓発本"などが若いサラリーマン(ビジネスパーソン)に対し、しばしば"檄"の如く発している4つの言葉を、サラリーマンの「四大タブー」としています。

 こうした自己啓発本が奨める「自分らしさ」を必要以上に求め、自己啓発本に書かれていることを鵜呑みにすることから生まれるのは、ずっと半人前のままでいるという悲劇であり、そこから抜け出す最適の手段は、敢えて意識的に組織の歯車になることであるとしています。したがって、これから社会に出る若者たちや、サラリーマンになったものの、どうもうまく立ち回れないという人に最初に何かを教えるとすれば、まずは「会社の歯車になれ」と、著者は言うとのことです。

守破離.jpg さらに、世阿弥の「守破離」の教えを引いて、サラリーマンの成長ステップを、最初は師に決められた通りのことを忠実に守る「守」のステージ、次に師の教えに自分なりの応用を加える「破」のステージ、そしてオリジナルなものを創造する「離」のステージに分け、この「守」→「破」→「離」の順番を守らない人は成長できないとしています(「守」が若手時代、「破」が中間管理職、「離」が経営側もしくは独立、というイメージのようです)。

 「守」なくして「破」や「離」がありえないと言うのは、ビジネスの世界で一定の経験年数を経た人にはスンナリ受け容れられる考えではないでしょうか。先に挙げたような"檄"を飛ばしている"自己啓発本"を書いている人たち自身が、若い頃に「守」の時期(組織の歯車であった時期)を経験していることを指摘している箇所は、なかなか小気味よいです。

 
勝間和代『断る力』.jpg その冒頭に挙っているのが、勝間和代氏の『断る力』('09年/文春新書)で、これを機に勝間氏の本を初めて読みましたが(実はこのヒト、以前、自分と同じマンションの住人だった)、確かに書いてあるある、「断ること」をしないことが、私達の生産性向上を阻害してストレスをためるのだと書いてある。「断る」、すなわち、自分の考え方の軸で評価し選択することを恐れ、周りに同調している間は、「コモディティ(汎用品)を抜け出せないと。

 これからの時代は「コモディティ」ではなく「スペシャリティ」を目指さなければならず、それには「断る力」が必要だ、との勝間氏の主張に対し、著者は、こうした主張は「個性」を求めるサラリーマンの耳には心地よく響くだろうが、それは、本書で言う「四大タブー」路線に近いものであり、勝間氏のような人は「天才」型であって、それを「凡人」が鵜呑みにするのは危険だとしています。

 勝間氏は、自分が「断る力」が無かった時代、例えばマッキンゼーに在職していた頃、「究極の優等生」と揶揄されていたそうですが、「断る」ことをしないことと引き換えに得られたのは、同期よりも早い出世や大型クライアントの仕事だったとのこと、その仕事を守るために、何年間も自分のワークライフバランスや健康を犠牲にしたために、32歳の時にこんなことではいけないと方針転換して「コモディティ」の状態を脱したそうですが、藤本氏が言うように、「コモディティ」状態があったからこそ、今の仕事をバリバリこなす彼女があるわけであって、20代の早い内から「断る」ことばかりしていたら、今の彼女の姿はあり得ない(いい意味でも、悪い意味でも?)というのは、想像に難くないように思えます(そうした意味では自家撞着がある本。元外務省主任分析官の佐藤優氏が「私のイチオシ」新書に挙げていたが(『新書大賞2010』('10年/中央公論社))、この人も何考えているのかよく分からない...)。

藤本 篤志 『社畜のススメ』.JPG 但し、『社畜のススメ』の方にも若干"難クセ"をつけるとすれば、日本のサラリーマンの場合、藤本氏の言う「歯車」の時代というのは、単に機械的に動き回る労働力としての歯車ではなく、個々人が自分で周囲の流れを読みながら、その都度その場に相応しい判断や対応を求められるのが通常であるため、「歯車」という表現がそぐわないのではないかとの見方もあるように思います(同趣のことを、労働経済学者の濱口桂一郎氏が自身のブログに書いていた)。そのあたりは、本書では、「守」の時代に漫然と経験年数だけを重ねるのではなく、知識検索力を向上させ、応用力へと繋げていくことを説いています(そうなると「社畜」というイメージからはちょっと離れるような気がする)。

 むしろ気になったのは、本書が中堅以上のサラリーマンに、やはり自分の考えは間違っていなかったと安心感を与える一方で、まだビジネ経験の浅い若い人に対しては、実感を伴って受けとめられにくいのではないかと思われる点であり、そうなると、本書は、キャリアの入り口にある人へのメッセージというより、単なる中高年層向けの癒しの書になってしまう恐れもあるかなと。

 前向きに捉えれば、中高年は、自分のやってきたことにもっと自信を持っていいし、それを若い人にどんどん言っていいということなのかもしれないけれど。例えば、「ハードワーカー」たれと(これ、バブルの時に流行った言葉か?)。


 第5章には、サラリーマンをダメにする「ウソ」というのが挙げられていて、その中に「公平な人事評価」のウソ、「成果主義」のウソ、「学歴神話崩壊」のウソ、「終身雇用崩壊」のウソといった人事に絡むテーマが幾つか取り上げられており、その表向きと実態の乖離に触れています。

 著者は、世間で言われていることと実態の違い、企業内の暗黙の了解などを理解したうえで行動せよという、言わば"処世術"というものを説いているわけですが、これなんかも人事部側から見ると、図らずも現状を容認されたような錯覚に陥る可能性が無きにしも非ずで、やや危ない面も感じられなくもありません。

 色々難点を挙げましたが、基本的にはマットウな本ですし、「自己啓発本」批判をはじめ、個人的には共感する部分も多かったです。でも、自分だけ納得していてもダメなんだろうなあ。
 
 「マズローの欲求五段階説」が分かり易く解説されていて、「社会的欲求」の段階を軽んじてしまい、いきなり「尊厳の欲求」と「自己実現の欲求」を満たそうとするサラリーマンが多くなっていることを著者は危惧しているとのことですが、それは同感。そうした若い人の心性とそれを苦々しく思っている中高年の心性のギャップをどう埋めるかということが、実際の課題のように思いました。

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企業理念・経営理念やビジョン・ミッション・バリューなどと微妙にニュアンスが異なるのが興味深い。

できる会社の社是・社訓6.JPGできる会社の社是・社訓.jpg 『できる会社の社是・社訓 (新潮新書)

 電通の「鬼十則」や日本電産、日清など有名企業の社是・社訓の成り立ちや、そこに込められた創業者や中興の祖の思いなどが、コンパクトに分かり易く紹介されていますが、各見出しには、社是・社訓に限らず、創業者の言葉などを引いているものもあり、併せて、創業者がどのようにして事業を起こし、どのようにしてそれを育て、現在の会社の礎を築いたかが書かれていて、ミニ社史を読んでいる感じも...(多分に各社の社史を参考にしているということもあるだろう)。

大丸.jpg先義後利.jpg 大丸の「先義後理」など享保年間(18世紀初頭)に遡るものから。楽天の「スピード!! スピード!! スピード!!」など近年のものまであり(因みに、ライブドアには社訓が無かったそうな)、また、シャープ、松下電器(現パナソニック)、ホンダなどになると、創業者の立志伝の紹介みたいになってきますが、それらはそれで、自分が知らなかったことなどもあって面白く読めました。

 著者は、就職を切り口にした教育問題などの特集記事を担当する経済週刊誌記者だそうで、社是・社訓が実際にその企業に今どのような形で定着し、活かされているかといった組織・人事的な視点は殆どありませんが、さすがに大きな不祥事のあった会社については、その時の経営者が社訓に悖る行動をとったことを解説しています。

 大丸の「先義後理」などの古い社訓は、広い意味でのCSR、コンプライアンスに沿っているように思われ、一方、資生堂のエシックス(倫理)カードにある「その言動は、家族に知れても構いませんか?」などは、90年代の企業不祥事の多発を受けてのものなのだろうなあ。

 サントリーが、山口瞳、開高健らが執筆陣に加わった社史『サントリーの70年』で、創業者・鳥井信治郎「やってみなはれ」「みとくんなはれ」を前面に押し出していたのに、100年史では「人と自然と響きあう」が企業理念となっていて、つまらなくなったようなことを著者は書いていますが、確かに。

 こうしてみると、創業者個人の強烈な思いが込められた「社是・社訓」は、「企業理念」「経営理念」や「ビジョン」「ミッション」「バリュー」などと呼ばれるものと重なる部分は多いものの(IBMの"THINK"とかアップルの"Think different"なども「行動規範」であり「バリュー」の一種とみていいのではないか)、「社是・社訓」と「企業理念」「経営理念」と言われるものとは、或いは日本と海外との間では、それぞれ微妙にニュアンスが異なる部分もあり、もしかしたらその部分に日本的経営の特性があるのかも―と思ったりもしました。

IBM1.jpg Think differentド.jpg

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「個」としての自分をしっかり持て―と。「自己啓発セミナー」を聴いているような感じも。

仕事で成長したい5%の日本人へド.jpg仕事で成長したい5%の日本人へ.jpg仕事で成長したい5%の日本人へ_l.jpg
仕事で成長したい5%の日本人へ (新潮新書)

 欧州で生活して30年、現在パリに住み、グローバルビジネスのコンサルティングをしているという著者の、国際的な観点からの、日本人に向けた仕事論、ビジネス論、キャリア論といった感じの本でしょうか。

 前半部分は、自らのキャリアを通しての仕事論で、そのキャリアというのが、東大の応用物理学科、同大学院化学工学科卒後、国内メーカー(旭硝子)に勤務し、オックスフォード大学の招聘教官を経て、スイスのバッテル研究所、ルノー公団、エア・リキード社とヘッドハンティングされながら渡り歩いたというもので、あまりに"華麗"過ぎて、最初はちょっと引いてしまいました。

 しかしながら、読み進むうちに、「自分の仕事の相場観を持て」、「評論家ではなく実践家になれ」、「他人を手本にしても、憧れは抱くな」、「成長願望と上方志向を混同するな」といった著者のアドバイスが、欧米のビジネスの現場で様々な人々と会い、そうした外国人と交渉したり共に仕事してきた経験に裏打されているものであることが分かり、説得力を感じるようになりました。

 フランス人のバカンスの過ごし方に触れて、バカンスに仕事を持ち込むのは無能である証拠とみなす彼らの考え方を知ったり、ルノーの労組リーダーに、労組の理論家としての立場を放棄することとバーターでの昇給を申し出て断られたことから、自らの成長願望のために昇給を犠牲にするその生き方に爽やかさを覚えたりするなど、著者自身の異価値許容性の広さも感じました。

 後半部分は、そうした経験を通しての異文化コミュニケーションの在り方を、これも具体的な事例を通して解説しており、また、そしたことを通して、「夢」と「パッション」を持つことの大切さを説いています。

 読んでいて、「成功セオリー本」という感じを受けることは無く、むしろ「個」としての自分と言うものをしっかり持てという根本的なところを突いていて(日本人が弱い部分でもある)、自律的なキャリア形成を促す「自己啓発セミナー」を聴いている感じでしょうか。

 振り返ってみれば、著者自身、ルーティン化したサラリーマン生活に嵌ってしまうのが嫌で日本を飛び出したわけで、一見"華麗"に見えるキャリアも、最高学府を出ているとか頭の良さとかからくるものではなく、著者自身の、決して現状に充足しない成長願望の賜物なのでしょう。

 著者が親交のあるラグビーの平尾誠二氏、指揮者の佐渡裕氏、柔道の山下泰裕氏、将棋の羽生善治氏らのエピソードを挙げ、彼らのような天才と比べ自らを凡人であるとしつつも、そこから学ぼうと言う姿勢は謙虚且つ貪欲であるように思えました。
 但し、終盤にこれら著名人の逸話を多くもってきたことで、所謂「自己啓発セミナー」の観が、パターナルな方向で強まったかも知れません。

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人事部の代弁者的? 特に目新しさは無く、やや物足りない。

文系・大卒30歳以上がクビになる.JPG文系大卒30歳以上がクビになる.jpg 『「文系・大卒・30歳以上」がクビになる―大失業時代を生き抜く発想法 (新潮新書)』['09年]

 大手コンサルテリング会社勤務のコンサルタントによる本で、刊行時はよく売れた本だった記憶がありますが、当時社会問題化していた「派遣切り」の次に来るのは、かつてのエリート社員たち、つまり「文系・大卒・30歳以上」のホワイトカラーの大リストラであるとしています。

 なぜそうしたホワイトカラーがリストラ対象になるかというと、「ホワイトカラーの人数が多いから」であり、また、給料が高いため「リストラの効果が期待できるから」であるとしています。

 そのうえで(散々煽った上で?)、若手ビジネスパーソンに向けて、「大リストラ時代」に備え、常日頃から自分のやりたいこと、できることを意識しておくよう説いています。

 マクロ的な労働市場の動向や企業が抱えている余剰人員の問題については、概ね書かれている通りだと思われますが、ホワトカラー正社員リストラが進行するであろうという話はすでに報道、書籍等の多くが指摘しており、また実際にそのようなリストラ計画を巷に見聞するため、特に目新しさは感じられません。
 リストラに対する個々の対応策も、既に言い古されている(やや漠然とした)キャリア論に止まっているような。

 むしろ、本書が読まれた(支持された?)理由は、ホワイトカラーは、「本当は必要のない仕事」を自ら作り続けてきて水ぶくれし、企業組織内で「がん細胞」のようになってしまっているのであって、まず自らが「がん細胞」であることを自覚し、「万能細胞」に生まれ変われるよう努めなさいという、その言い方のわかりやすさゆえではないでしょうか。

 但し、"生産性の低い"ホワイトカラーを組織内にはびこらせてしまった企業側の責任については、触れられていないのが気になりました(人事部の代弁者?)。

 本書の中にある「人事部長M氏が見た」リストラの事例は、若手ビジネスパーソンには、「ああ、会社はこうやってリストラをするのだ」とリアルに感じられるのかもしれませんが、人事部的な視点から見ると、"事例"ではあっても、"モデル"と言えるものではないように思います。

 もし、本当に企業が雇用調整を行うのであれば、中期の経営計画に基づき、なぜ雇用調整を実施しなければならないのかをより明確に定義し、再構築後のビジョンと併せて社員に示す必要があるように思います。リ・ストラクチャリングなのですから。

 希望退職を3ヶ月間実施し、その結果目標の1割しか応募がなく、そこで追加募集を4ヶ月間実施し、更にその後でようやく退職勧奨をを行っているのも、随分と悠長な印象を受けます。
 企業にとどめておく人材と退職を勧奨する人材をあらかじめ区分し、希望退職の募集と併せてすぐさま後者に対し退職勧奨を行うのが、一般にとられている方法でしょう。
 本書のようなやり方では、半年以上にわたって希望退職を募ることになり、社員全般の士気に及ぼす影響もさることながら、場合によっては、応募者が、失業保険で優遇される「特定受給資格者」の資格要件を満たさないとされる恐れもあります。

 一般向けの本なのでこんなものかな、と思いますが、人事的な観点から見ると、煽り気味のタイトルの割には、かなり物足りないように思います。
 この本自体が、人事部の代弁者的視点で書かれているともとれなくはなく、人事に対して何か新しい視点や情報を提供するところまでは要求されていないとも言えますが。

 巻末に参考文献として、本書刊行年('09年)にこれまで刊行された労働問題に関する本が8冊挙げられていますが、「ホワイトカラー」の歴史と現況についてよりきちんと把握しようとするならば、『貧困化するホワイトカラー』(森岡孝二著・ちくま新書)がお奨めです。

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「ボランティアは石もて追われよ」。自分はまだそこまでの境地に達していないなあ。

人間の覚悟』1.JPG人間の覚悟.jpg人間の覚悟 (新潮新書)』['08年]

 生きているということは、自分に関する事柄について1つ1つ不可能性を認識していくことではないかと思われ、そうした意味では、ある程度の年齢を経れば、一定の諦念のようなものは否応なく身についてしまうのではないでしょうか。

 但し、本書にあるように、「諦める」覚悟を持たなければならないとまで言われると、自分はまだまだそこまで達していないなあという気がします。

 著者は、「諦める」は「明らかに究める」に通じるとしていることから、「諦める」覚悟を持つということは「明らかに究める」覚悟を持つということにもなり、やはり、そうした努力は継続しなければならないのかなあ。

 但し、著者が言う「善意は伝わらないと覚悟する」「人生は不合理だと覚悟する」「国家や法律は守ってくれないと覚悟する」「統計などの数字よりも自分の実感を信じる」などといったことは、既に実感として身についてしまっている人の方が多いかも。

 もともと著者のエッセイには、それこそ初期の「風に吹かれて」の頃からある種ペシミズムのようなものが漂っていたように思いますが、「資本主義は終焉の時期が来ている」はともかく、「躁から鬱の時代(下降していく時代)に入った」とか言われると、自身の加齢とともに、終末論的な色合いが強くなってきているような気がしなくもありません。

 著者は昔、文化講演会などで話をさせられるのは苦手だと言っていましたが、本書などは、時事批評的な要素もあれば、お坊さんの法話的な雰囲気もあり、今ではこうした語り口がすっかり身についてしまった感じもします。

 全体を通しての自分自身の読後感は、分かったような、分からなかったような、と言う感じであり、まだ自分は「覚悟」に至るにはかなり遠いところにいるのかも知れません。

 但し、部分部分においては示唆に富む箇所もあり、とりわけ個人的には、「ボランティアは石もて追われよ」と書かれている箇所に共感しました(この部分についても、自らを振り返ってみれば、自分はまだそうした境地に達していないのだが)。

 文中に朝鮮からの引き揚げ時のエピソードがちらりちらりと出てくるのが著者の最近のエッセイの特徴ですが、その中に、モーパッサンの『脂肪の塊』を想起させるものがあったのが印象に残りました(占領した側に女性を人身御供として遣わせるところ。戦争のごとに歴史は繰り返されるなあ)。

《読書MEMO》
●「ボランティアは石もて追われよ」
 一九九五年に阪神淡路大震災が起きたとき、ボランティアとしてたくさんの人が被災地に向かいました。
 若い人たちの中には、骨を埋める覚悟で行くという人もいるほど熱気があったのに、地震から二、三年も経つと、その人たちが私にこぼすようになったのです。「はじめは涙を流して喜んでいた人たちが、そのうち慣れて小間使いのように自分たちをこき使う」、「やってくれるのが当然という態度で、ありがとうの一言もない」など。
 しかし私はこう思うのです。「それは君たちがまちがっている。そもそもボランティアというのは、最後は『石もて追われる』存在であるべきなのだから」。(中略)ほんとうに自らの身を投じて仕事をすれば、ついには追われるのが自然です。
 最後にみんなから大きな感謝とともに送り出される、などと考えてはならない。「もう帰っていいよ」と言われたら、「はいそうですか」と帰ってくればいい。いい体験をさせてもらいました、ありがとう、と心の中でつぶやきつつです。そう覚悟してこそボランティアなのだと思います。(中略)それでもしだれかが、「ありがとう」と言ってくれて、もし相手に思いがつうじたなら、狂喜乱舞すればいいのです。

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一見、気まぐれ、お手軽なようで、実は戦略的にこの言葉(「汚い」)を選んでいた?

「汚い」日本語講座.jpg 『「汚い」日本語講座 (新潮新書)』 ['08年]

 '06年から'07年にかけて、㈱パブリッシングリンクの電子書籍サイト「Timebook Town」('09年に終了)に連載されたもので、著者のゼミで「目くそ鼻くそを笑う」という言葉が話題に上るところから話は始まり、「汚い」とは何だろうか、というテーマでの学生との遣り取りが暫く続きます(取り敢えず、この言葉を選んでみたという感じに思えた)。

 Web本で、しかも学生との遣り取りをネタに書いていて、お手軽だなあとも思ったれども、「汚い」と「汚れている」「汚らしい」「小汚い」などとのそれぞれの違いなどの話は、辞書の上での意味の違いを超えて、感覚論、メタファー論へと拡がり、それなりに面白かったです。

 但し、前半は、著者自ら"ハウルの動く城"の如く、と言うように、話をどこへ持っていこうとしているのかよく分からず、(金田一先生がインタラクティブに授業を進めているのはよく分かったけど)ややじれったい感じも。

 それが、後半、「汚い」とは何かを更に突っ込んで、言語学から文化人類学、精神病理学、構造人類学へと話は転じて、仕舞いには人類の起源そのもの(考古人類学)へと遡って行くその過程は、もう話がどこへ行こうと、話のネタ自体が興味深かったというのが正直な感想でしょうか。

納豆.jpg 例えば、著者は、粘り気のあるものを食べるのは日本人だけであると言っても過言ではないとし、ネバネバするものは毒であるというのがホモサピエンスにとっての生物学的常識であるが、日本人は例外的にその判断基準を捨てることに成功し、お陰で納豆など食していると。

 或いは、2人でケーキを食べる時に、互いにチーズケーキとチョコレートケーキを頼むと、2人は当然のように相手の分を少しずつ分けて食べるが、2人が同じケーキを頼んだ時はそうしないのは、「比べる」理由がないからと言うよりも、そこに「共有」と「所有」の違いがあるためで、「所有」という意識は「余剰」により生まれるのではないかと。

家でやろう1.jpg 電車の中で化粧をするのが嫌われるのは、車内の空間が「共有」されていて、個人の裁量権が無いというのが一般的了解であり、その掟を守っていないためとのことらしいです(車内が混んでいれば混んでいるほど、「余剰」が無いから、空間を「共有」せざるを得なくなり、そこでの個人の「所有」は認められないということか、ナルホド)。

 20万年前にアフリカのどこかで発生したホモサピエンスが、ネアンデルタール人を凌駕したのは、言語を獲得したことに因るところが大であり、それでも15万年間はアフリカ大陸に止まっていたのが、5万年前に「出アフリカ」を果たし、その後、様々な気候風土に適応して地球上に広がっていく(ネアンデルタール人もアフリカを出たが、せいぜい現在のヨーロッパの範囲内に止まっていた)、それはホモサピエンスが、寒い地で衣服を工夫し、棲家を作り変えるなどしたためですが、そうした文明の礎もまた、言葉によるコミュニケーションが出来たからこその成果であり、ホモサピエンスはもう何万年経とうが(適応し切っているため)進化しないだろうとまで、著者は言い切っています。

 「汚い」というのは人間の原初的な感覚であり(著者は「恐い」に近いとしている)、それを察知出来るか出来ないかは生命に関わることであって、その感覚や対象となる事象を文節化された複雑な言語によって精緻なレベルで共有化出来た点に、ホモサピエンスの繁栄の源があった―ということで、最後、きちんと「汚い」というテーマに戻ってきているわけで、顧みれば、著者は当初から戦略的にこの言葉を選んでいたように思えました。

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とりあえず1回目の予測は外した感があるが、警戒は必要ということか。

パンデミック―2.JPG小林 照幸 パンデミック.jpg  apocalypse-outbreak-431.jpg OUTBREAK3.bmp
パンデミック―感染爆発から生き残るために (新潮新書)』 ['09年]/映画「アウトブレイク」ダスティン・ホフマン/レネ・ルッソ

インフルエンザ.jpg パンデミック(感染爆発)の脅威と、それに対し国や医療機関、個人はどう対応すべきかについて書かれた本で、「新型インフルエンザ」を主として扱ってはいますが、デング熱、マラリア、成人はしかなど、その他の感染症についても言及されています。但し、その分、「新型インフルエンザ」についての解説がやや浅くなった感じがします(帯には「『新型インフルエンザ』の恐怖」と書かれているのだが)。

 本書の刊行は'09年2月で、'03年12月に国内で発生したH5N1型の「鳥インフルエンザウイルス」をベースに、「新型インルエンザ」について、その恐ろしさ、社会に及ぼす影響が近未来小説風の描写を交えて書かれていて(著者はノンフィクションライター兼作家)、"新たな"「新型インフルエンザ」がいつ発生してもおかしくない、或いはパンデミックはすでに始まっているかも知れないとしています。

 そして、実際に本書刊行の2カ月後に「新型インフルエンザ」がメキシコに発生し、その後日本にも上陸、冬季に限らず夏場でも感染拡大する可能性があること、タミフルが一定の治療効果を持つであろうことなど、本書に書かれている幾つかの「予想」も外れていませんでしたが、そもそも、この2009年型の「新型インフルエンザ」はH1N1亜型に属するもので、感染力は強いが致死率はH5型のものよりずっと低いタイプのものでした。

 この点は、WHOも当初は読み違えていたし、また、国や厚労省もそうした弱毒性のインフルエンザを想定していなかったために、却って余計な混乱を招いたという面があり、本書も「新型インフルエンザがH5N1型で発生するかどうかはわからない」と一応は書かれているものの、新型インフルエンザが発生すると「日本で約64万人が死ぬ!」などと帯にも書かれていたりして、こうした混乱を結果として助長した側面も無きにしも非ずか。

 後半部の「対応」の部分は取材源が限定的で、役所やマスコミの発表文書を引き写したような記述も多いように思えましたが、前半部のインフルエンザの特性や、「アウトブレイク」と「パンデミック」の違いなどの解説は分かり易かったです。

OUTBREAK.jpg 映画「アウトブレイク」('95年/米)でモチーフとなった架空のウィルスは、「エイズ」をモデルにしたのかどうかは知りませんが、映画自体はスリリングな娯楽作品であると共に大変恐ろしかったし、結果として'02年にアフリカで発生した「エボラ出血熱」を予見するような内容になっていて、「予言的中度」はかなり高かったと言えるのでは。

 因みに、前世紀初頭(1918年)にアメリカ発で世界中に広まったスペイン風邪(H1N1型)で1年余りの間に4千万人が死亡し、これは中世(14世紀)ヨーロッパで大流行した黒死病(本書ではぺストとされているが腺ペストではなくエボラのような出血熱ウイルスだったという説もある)の死者3千5百万人をも上回るものだったとのことです。

 地球上の人口が増え、交通機関が発達し、日常的に人々が行き来する現代、人類にとってパンデミックが脅威であることは、著者の指摘の通りだと思います。

Rene Russo (レネ・ルッソ) in「アウトブレイク [DVD]
OUTBREAK.bmp「アウトブレイク.jpg 「アウトブレイク」●原題:OUTBREAK●制作年:1995年●制作国:アメリカ●監督:ウォルフガング・ペーターゼン●製作:ゲイル・カッツ/アーノルド・コペルソン●脚本:ローレンス・ドゥウォレットアウトブレイク01.jpg/ロバート・ロイ・プール●撮影:ミヒャエル・バルハウス●音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード●時間:127分●出演:ダスティン・ホフマン/レネ・ルッソモーガン・フリーマン/ケヴィン・スペイシー/キューバ・グッディング・ジュニア/ドナルド・サザーランド/パトリック・デンプシー●日本公開:1995/04●配給:ワーナー・ブラザース映画(評価:★★★★)

レネ・ルッソ in「メジャーリーグ」('89年)映画デビュー作
レネ・ルッソ メジャーリーグ2.jpgレネ・ルッソ メジャーリーグ.jpg

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文系出身の社会人が通勤電車内で楽しく(苦なく?)読み切れる内容。

アインシュタイン丸かじり.jpg 『アインシュタイン丸かじり―新書で入門 (新潮新書)』['07年] 志村史夫.jpg 志村 史夫 氏 (略歴下記)

 アインシュタインの業績や相対性理論に関する入門書で、「文系出身の社会人が通勤電車内で楽しく(苦なく?)読み切れる」内容とでも言ったらいいのでしょうか、新書(「新潮新書」)の性格を反映した大変読み易いものとなっています(著者は「ブルーバックス」の常連執筆者だったと思うが)。

 内容面の特徴として、アインシュタインの発表した理論のうち、特殊相対性理論と一般相対性理論の解説に各1章を割くのと併せて、光の粒子説を中心とした他の業績にも1章を割いていることが挙げられます。
 それらを挟んで、前段で、アインシュタインの業績がいかに凄いものであったのか、彼の"天才ぶり"、その偉業の"奇跡ぶり"を解り易く説くと共に、「アインシュタイン以前」をおさらいし、後段では「時空の歪み」という解りにくい概念を今一度解説するとと共に、最後にアインシュタインの言葉を紹介し、その発想の原点や思想を伝えています(盛りだくさん!)。

 文系でも読み易いと言いましたが、数式を使わないというわけではなく、一般相対論の理論式など一応は登場し、ローレンツ変換とかも出てきます。
 但し、それらを必ずしも解らなくてもいいとして、読者を追い詰める(?)ことなく、合間に適度にアインシュタインの"人となり"を伝える話やその他の学者やノーベル賞などに纏わる科学史上のエピソードが織り込まれていて、「読み物」的感覚で読み進めることができます。
 この辺りの、ちょっと脇道に行って(ムダ話をしているのではない)「閑話休題」として本筋に戻ってくるタイミングが絶妙。

 著者自身が、相対性理論を理解するうえで、どこで引っ掛かったか、それをどのような発想の転換で乗り越えたかなどが書かれている点も、親近感を覚えると共に、ああ、ここが一般の人と物理学者の思考方法の分岐点だなあと思わせるものがありました。

 紙数の関係上、結果的に、一般相対性理論の解説などがやや浅くなってしまったことは否めませんが、「最初に読む1冊」乃至「久しぶりに復習してみる1冊」としては、その要件を満たした好著だと思います。
_________________________________________________
志村史夫(しむら・ふみお)
1948(昭和23)年東京・駒込生まれ。名古屋工業大学大学院修士課程修了。名古屋大学工学博士(応用物理)。2007年現在、静岡理工科大学教授、ノースカロライナ州立大学併任教授。『こわくない物理学』など著書多数。2002(平成14)年、日本工学教育協会賞・著作賞受賞。

《読書MEMO》
●章立て
第1章 アインシュタインは偉い
 「奇跡の年」から一〇〇年/二〇世紀のコペルニクス/週刊誌のトップ記事にも/日本との因縁/ハイテクの父/世紀の人
第2章 「アインシュタイン以前」をおさらい
 自然の理解/自然哲学の誕生/物質の構造/物体の運動/運動の相対性/空間とは何か/時間とは何か/光とは何か/ニュートンと光/重力とは何か/驚異の年
第3章 「奇跡の年」の奇跡ぶり
 不遇の時代/五篇の論文/光電効果/電気と磁気/マクスウェルの電磁理論/電磁波と光/生活に欠かせない電磁波/プランクの量子仮説/光の謎を解明/ハイテクを支える光量子
第4章 これで「特殊相対性理論」がわかる
 特殊相対性効果/原型は一六歳の空想/不思議な光/光速不変の原理/時間が遅れる/空間が縮む/光速より速いものはない/質量が増大する/同時性の否定/先人の無念
第5章 世界一有名な方程式E=mc2の誕生
 エネルギーはどこへ?/わずか三ページの革命/エネルギーから物質が生まれる/物質に潜む巨大なエネルギー/日常生活への応用
第6章 時空の歪みとは何か
 一般相対性理論/重力の源は「空間の曲がり」/「空間の曲がり」とは?/光が曲がった/ノーベル賞受賞の裏側
第7章 想像力は知識よりも重要である―アインシュタイン名言集
 タゴールとの対話/「才能」と「学問」について/「自然」「宇宙」「神」について/「科学」と「芸術」について/「人生」について

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 本を選んだのは新潮社。さらっと読める分物足りなさもありるが、個人的には楽しめた。

I『新潮文庫 20世紀の100冊』.jpg新潮文庫 20世紀の100冊.jpg 新潮文庫 20世紀の100冊 2.jpg
新潮文庫20世紀の100冊 (新潮新書)』 ['09年]

新潮文庫 20世紀の100冊     .jpg 新潮社が2000年に、20世紀を代表する作品を各年1冊ずつ合計100冊選んだキャンペーンで、著者がそれに「解説」をしたものとのことですが、著者の前書きによれば、「100冊の選択におおむね異論はなかった。しかし素直にはうなずきにくいものもないではなかったし、読むにあたって苦労した作品もあった」とのこと。

 1冊1冊の著者による解説は実質10行足らずであるため、さらっと読める分物足りなさを感じる面もありますが、全体としてはよく吟味された文章と言えるのではないかと思われ、十分に(そこそこに?)楽しめました。

 個人的には、三島由紀夫の『春の雪』(1970年)の「人生のすべてをパンクチュアルに生きた人が、最後に破った約束」などは、内容に呼応した見出しのつけ方が旨いなあと。

 但し、前半・中盤・後半に分けるならば、とりわけ、前半部分の20世紀初頭の近代文学作品の解説が、作品の書かれた背景や他の同時代の作家との相関において、その作品の歴史的位置付けを象徴するような要素をピンポイントで拾っていて、文学史の潮流を俯瞰でき、作家の個人史に纏わる薀蓄などもあって、より楽しめました(著者の得意な時代ジャンルということもあるのか)。

 また、著者自身、これら100冊を「鑑賞」しようとはせず、むしろ「歴史」を読み取ろうとしたと述べているように、こうして様々な作風の作家の作品を暦年で並べて時代背景と照らしながら見ていくことには、それなりの意義があるように思えました(時折、海外の作品が入るのも悪くない)。

 でも最後の方(特に最後の10年ぐらい)になると、例えば「1993年は『とかげ』(吉本ばなな)の年、そういうことにしよう」とあるように、ちょっと評し切れないと言うか(選んだのは著者ではなく新潮社、2000年1月から毎月10冊ずつこの100冊を刊行する上での商業的思惑もあった?)、「歴史」に"定位"するスタイルでは論じ切れなくなっている感じもし、著者のこの作業が2000年に行われたことを考えれば、その点は無理もないことかも。

 「100冊」と言うより「100人」とみて読んだ方がすんなり受け容れられる面もあるかと思われますが、亡くなって年月を経た作家は、彼(彼女)の生き方はこうだった、みたいに言い切れるけれど、生きている作家については、そうした言い切りがしくいというのもあるしなあ。

企画タイアップカバー例
新潮文庫 20世紀の100冊 miadregami.jpg 1927年 河童 芥川龍之介.jpg 1931年 夜間飛行 サン=テグジュペリ.jpg 新潮文庫 20世紀の100冊 tennyawannay.jpg 新潮文庫 異邦人.jpg

《読書MEMO》
●取り上げている本
1901年 みだれ髪 与謝野晶子
1902年 クオーレ エドモンド・デ・アミーチス
ヴェ二スに死す 文庫新潮.jpg1903年 トニオ・クレーゲル トーマス・マン
1904年 桜の園 アントン・チェーホフ
1905年 吾輩は猫である 夏目漱石
1906年 車輪の下 ヘルマン・ヘッセ
1907年 婦系図 泉鏡花
1908年 あめりか物語 永井荷風
1909年 ヰタ・セクスアリス 森鴎外
刺青・秘密 (新潮文庫).jpg1910年 刺青 谷崎潤一郎

1911年 お目出たき人 武者小路実篤
1912年 悲しき玩具 石川啄木
1913年 赤光 斎藤茂吉
1914年 道程 高村光太郎
1915年 あらくれ 徳田秋声
1916年 精神分析入門 ジークムント・フロイト
和解.bmp1917年 和解 志賀直哉
1918年 田園の憂鬱 佐藤春夫
『月と六ペンス』(中野 訳).jpg1919年 月と六ペンス サマセット・モーム
1920年 惜みなく愛は奪う 有島武郎

小川未明童話集.jpg1921年 赤いろうそくと人魚 小川未明
1922年 荒地 T・S・エリオット
1923年 山椒魚 井伏鱒二
1924年 注文の多い料理店 宮沢賢治
檸檬.jpg1925年 檸檬 梶井基次郎
日はまた昇る (新潮文庫).bmp1926年 日はまた昇る アーネスト・ヘミングウェイ
河童・或阿呆の一生.jpg1927年 河童 芥川龍之介
『新版 放浪記』.jpg1928年 放浪記 林芙美子
1929年 夜明け前 島崎藤村
1930年 測量船 三好達治

夜間飛行 文庫 新.jpg1931年 夜間飛行 サン=テグジュペリ
八月の光.jpg1932年 八月の光 ウィリアム・フォークナー
1933年 人生劇場 尾崎士郎
1934年 詩集 山羊の歌 中原中也
1935年 雪国 川端康成
風と共に去りぬ パンフⅠ2.JPG1936年 風と共に去りぬ マーガレット・ミッチェル
1937年 若い人 石坂洋次郎
1938年 麦と兵隊 火野葦平
怒りの葡萄 ポスター.jpg1939年 怒りの葡萄 ジョン・スタインベック
1940年 夫婦善哉 決定版 新潮文庫.jpg夫婦善哉 織田作之助

1941年 人生論ノート 三木清
1942年 無常という事 小林秀雄
李陵・山月記.jpg1943年 李陵 中島敦
1944年 津軽 太宰治
1945年 夏の花 原民喜
坂口 安吾 『堕落論』2.jpg1946年 堕落論 坂口安吾
1947年 ビルマの竪琴 竹山道雄
俘虜記.jpg1948年 俘虜記 大岡昇平
1949年 てんやわんや 獅子文六
1950年 チャタレイ夫人の恋人 D・H・ローレンス

異邦人 1984.jpg1951年 異邦人 アルベール・カミュ
二十四の瞳 dvd.jpg1952年 二十四の瞳 壺井栄
1953年 幽霊 北杜夫
1954年 樅ノ木は残った 山本周五郎
太陽の季節 (新潮文庫) (2).jpg1955年 太陽の季節 石原慎太郎
楢山節考 洋2.jpg1956年 楢山節考 深沢七郎
1957年 死者の奢り 大江健三郎
松本 清張 『点と線』 新潮文庫.jpg1958年 点と線 松本清張
1959年 海辺の光景 安岡章太郎
1960年 忍ぶ川 三浦哲郎

1961年 フラニーとゾーイー サリンジャー
砂の女(新潮文庫)2.jpg1962年 砂の女 安部公房
飢餓海峡(下) (新潮文庫).jpg飢餓海峡(上) (新潮文庫).jpg1963年 飢餓海峡 水上勉
1964年 沈黙の春 レイチェル・カーソン
1965年 国盗り物語 司馬遼太郎
沈黙 遠藤周作 新潮文庫.jpg1966年 沈黙 遠藤周作
アメリカひじき・火垂るの墓1.jpg1967年 火垂るの墓 野坂昭如
1968年 輝ける闇 開高健
1969年 孤高の人 新田次郎
奔馬.jpg春の雪.jpg1970年 豊饒の海 三島由紀夫

1971年 未来いそっぷ 星新一
1972年 恍惚の人 有吉佐和子
辻斬り.jpg1973年 剣客商売 池波正太郎
1974年 おれに関する噂 筒井康隆
1975年 火宅の人 檀一雄
1976年 戒厳令の夜 五木寛之
蛍川・泥の河 (新潮文庫) 0.jpg1977年 泥の河 宮本輝
1978年 ガープの世界 ジョン・アーヴィング
1979年 さらば国分寺書店のオババ 椎名誠
1980年 二つの祖国 山崎豊子

1981年 吉里吉里人 井上ひさし
1982年 スタンド・バイ・ミー スティーヴン・キング
破獄  吉村昭.jpg1983年 破獄 吉村昭
1984年 愛のごとく 渡辺淳一
1985年 世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 村上春樹
1986年 深夜特急 沢木耕太郎
1987年 本所しぐれ町物語 藤沢周平
1988年 ひざまずいて足をお舐め 山田詠美
1989年 孔子 井上靖
1990年 黄金を抱いて翔べ 高村薫

1991年 きらきらひかる 江國香織
火車.jpg1992年 火車 宮部みゆき
1993年 とかげ よしもとばなな
1994年 晏子 宮城谷昌光
1995年 黄落 佐江衆一
1996年 複雑系 M・ミッチェル・ワールドロップ
1997年 海峡の光 辻仁成
1998年 宿命 高沢皓司
1999年 ハンニバル トマス・ハリス
朗読者 新潮文庫.jpg2000年 朗読者 ベルンハント・シュリンク

 
 
 
  
       

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「博報堂生活総研」×「人材コンサル」? サラッと読めて、新たな視点を提供してくれる。

ネコ型社員の時代.jpgネコ型社員の時代―自己実現幻想を超えて (新潮新書)』 ['09年] 山本直人.jpg 山本 直人 氏(略歴下記)

 かつて大手広告代理店・博報堂の人事部門に在籍し、現在は人材開発コンサルタントをしている人が書いた本で、新潮新書らしいサラッと読めてしまうビジネス本。
 著者の言う「ネコ型社員」とは、「『自己実現』に幻想を持たず、出世のためにあくせくせず、滅私奉公に背を向けつつも、得意分野では爪を磨ぐ」タイプとのことで、そんな「ネコ型社員」が増殖しているそうな。

 著者が挙げる「ネコ型社員」の特徴は、「1.滅私奉公より、自分を大切にする、2.アクセクするのは嫌だが、やる時はやる、3.自分のできることは徹底的に腕を磨く、4.隙あらば遊ぶつもりで暮らしている、5.大目標よりも毎日の幸せを大切にする」ということだそうで、ちょっぴり「犬型」的要素も入っているような気がしないでもないですが、本書では、名犬・忠犬・警察犬はいるけれど名猫・忠猫・警察猫はいないよねという話は冒頭あるものの、「犬型」の特徴を挙げて対比するようなやり方はしておらず、あくまで「ネコ型」について述べるのみ、これ、戦略的かも。

 ネコ型社員の信条は、「『忠誠』よりも『信義』、『上昇』よりも『向上』、『一人前』よりも『一流』」ということで、博報堂のR&D部門にもいた人らしく、こうした分類にはマーケティング的というか「博報堂生活総合研究所」的な匂いを感じなくもありません(「生活総研」×「人材コンサル」といったところか)。

 「ネコ型社員」であることを勧める共に、企業としての「ネコ型社員」の活かし方にも触れていて、「1.砂場を作る、2.見返りを求めない、3.自信を持って甘やかす」ということになるようで、それぞれについては中身を読んでいただければと思いますが、「ネコ型社員」になることよりこっちの方が難しいかも知れないとも思ったりしました。

 個人的に感性が一致したのは、転職支援の「あなたの可能性はまだまだそんなものじゃない」といった"眩しい"コピーを「自己実現熱」を煽るものとして批判している点で、元コピーライターが言うだけに説得力があったりして(「粘土上司」なども言い得て妙)。

 「ワーク・ライフ・バランス」という言葉の流行に対しても、経営側は「結局ワークを中心として、ライフとのバランスをとろうというように聞こえる」と言っているのには素直に共感しました。

 実践面でそんなに旨くいくかなという部分もありましたが、"目から鱗"とまでは行かないでも、働き方や物事への取り組み方、部下の扱い方などを少し違った角度から考察してみるには悪くない本でした。
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山本 直人 (やまもと なおと)
1964(昭和39)年東京都生まれ。慶應義塾大学法学部卒業。博報堂に入社後、コピーライター、研究開発、人事局での若手育成などを経て、2004年退職、独立。著書に『売れないのは誰のせい?』など。青山学院大学講師。

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読みやすい入門書だが、結局「程度問題」ということになるテーマも多い。

どこまでやったらクビになるか2.jpgどこまでやったらクビになるか.jpg                  大内伸哉.jpg 大内 伸哉 氏
どこまでやったらクビになるか―サラリーマンのための労働法入門 (新潮新書)』['08年]

 副業、社内不倫、経費流用、ブログによる自社の中傷、転勤拒否、内部告発、セクハラといったことが、実際どこまでが許されるのか、事例を挙げながら主にサラリーマンの立場に立って解説されていますが、同時に、会社の労務管理サイドの人が、企業防衛の立場から労務トラブルに対処する方法、及び、その前提となる法の考え方を学べるものにもなっています。

 各テーマの設問は、新潮社の担当編集者が、一会社員としての日頃の疑問をもとに案出ししたとのことで、いかにも「新潮新書」らしい本作りとなっている印象を受けました(全てが担当者のオリジナルならば、この担当者はかなり優れた人ではないか)。

 大内先生のことでもあり、きっちり法律の基本を抑えながらも、一部に個人的見解を挟んでいて、勉強になるだけでなく考えさせられる点もありました。
 但し、もともとのテーマが、法律で簡単に○×で結論づけられるようなものではないものが多いため、結局は「程度問題」としか言いようのないものもあります。

 実際、かなりの判例を引きながらの解説になっていて、その点はその点で、この人の判例の読み解きはわかり易く定評があるのですが、具体的な判例名がほとんど省かれているのが少し不満。
 一般向けの新書だからやむを得ない気もしますが、こういうのは企業名が出てきた方が、個人的には頭に入り易く、途中で挟まないまでも、最後に判例索引でもつけてくれたらもっとよかったのにと、ちょっとばかり思いました(そこまでやると、一般読者は引いてしまうのかも知れないが)。

《読書MEMO》
●章立て(一部)
ブログ―ブログで社内事情を書いている社員がいてヒヤヒヤしています。あの社員はクビにならないのでしょうか?
副業―会社に秘密で風俗産業でアルバイトをしている女性社員がいます。法的に問題はないのでしょうか?
社内不倫―社内不倫しています。これを理由にクビになる可能性はありますか?
経費流用―私用の飲食代を経費として精算したのがバレてしまいました。どれくらいの額だとクビになりますか?
転勤―会社から転勤を命じられました。どういう事情があれば拒否できますか?
給料泥棒―まったく働かない給料ドロボーがいます。会社はこういう人を辞めさせることはできないのでしょうか?
内部告発―会社がひどい法令違反をしています。内部告発をした時に自分の身を守る方法はありますか?
合併―会社が他の会社と合併することになりました。合併後は給料が下がりそうなのですが、そんなことは認められるのでしょうか?
残業手当―上司に言われていた仕事が勤務時間内に終わらずに残業しました。こういうときでも残業手当をもらえますか?
新人採用―半年の試用期間で「採用失敗」が明らかになった新入社員がいます。会社は彼を本採用することを拒否してよいのでしょうか?

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考察は深いが、"オーバー・ゼネラリゼーション"が目立つ。哲学エッセイ的要素も。

「痴呆老人」は何を見ているか.jpg 『「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書 248)』 ['08年] 大井 玄.jpg 大井 玄 氏

 「痴呆」というものがどういったものであるかを、「周辺症状」と「純粋症状」がごっちゃになっている世間の偏見を正して改めて定義・解説していて(「認知症」という言葉が用語として不完全であるため、「痴呆」という言葉を敢えて用いたというのもよくわかった)、「周辺症状」が取り沙汰される程度に差が生じる背景には「文化差」があるとの指摘からの、欧米における延命治療拒否の背景に「自立性尊重」の倫理意識があるという話への流れは、終末医療の在り方への1つの問題提起となっているように思えました(日本の文化的・倫理的土壌では延命治療をしないことはなかなか難しいだろうけれど)。

 また、「痴呆」状態にある老人を通して、「私」とは何か?「世界」とは何か?という著者自身の考察がなされていて、それはそれで深いものであり、但し、我々は皆多かれ少なかれ「痴呆」であるという見方(この見方そのものはわからないでもないが)から、論の運び方がややオーバー・ゼネラリゼーションが目立ったように思えました。
 ブッシュ大統領の9.11テロ後の「我々の味方でない者は全て敵」的な態度が、パニック状態に陥った認知症の老人と同じであるとか。この本って、社会批評本?だったの、という感じ。

 本書にある、医師として「痴呆」老人と真摯に向き合った体験は重いけれども、そこからの哲学的考察は主観的なものであり、科学との結びつけにおいても、例えば、「痴呆」老人と外部環境の関わりを、ゾウリムシの繊毛による食物獲得反応に擬えて、ゾウリムシも「痴呆」老人も(多かれ少なかれ我々も)主観により「世界を構築している」としていますが、ゾウリムシの「主観」と一緒にされたのでは...。

 結構、Amazon.com.などでも評価の高かった本ではないかと思いますが、個人的には、こうした医療体験の話や医学知識の部分と哲学(非科学?)や社会批評との間を、"オーバー・ゼネラリゼーション"(過剰な普遍化作用)により行き来するのが自分にとって相性が悪く、頷ける部分も多々あったものの、全体的には最後まで読みづらさが抜けませんでした。

 著者は、東大医学部からハーバード大に渡り、その後、東大医学部教授、国立環境研究所所長を務め、その間、臨床医の立場を維持しながら国際保健、地域医療、終末期医療に携わってきたこの分野の大ベテランであり権威でもある人。
 前著『痴呆の哲学』('04年/弘文堂)を平易にし、新たな視点をも加えたものとのことですが、思い出話的な語り口もあって、「東大退官記念」エッセイみたいな感じも。

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アラブ入門書としても読めるが、観光立国を目指す「CEO」的首長や「投資家」王子の存在が興味深い。

アラブの大富豪.jpg 『アラブの大富豪 (新潮新書 251)』 ['08年] ドバイ政府観光.jpg(写真提供)ドバイ政府観光商務局 http://dubaitourism.ae/japan  

 著者はアラビア石油に勤務し、サウジアラビアに長く駐在していた人で、ジェトロのリヤド事務所長を務めた経歴もあり、アラ石を定年退職後に始めたアラブ関係のブログが契機で、経済誌の取材を受けたりし、新潮社から誘いを受け本書の慣行に至ったとのこと。

 サウジアラビアの王家の歴史や政商のルーツ、アラブ人の宗教観とビジネスの関係、今回の産油国の「オイル・ブーム」の特徴や「オイル・マネー」を巡る諸国の動き、更には、石油は枯渇しないのか、なぜ湾岸諸国の多くが旧態の王制ながら政情が比較的安定しているのか、といったことまで書かれていて、コンパクトなアラブ入門書としても読めますが、面白かったのはやはり、特定の「大富豪」に絞って解説した第2章と第3章でした。 

"The Infinity Tower"(330m)-Duabi/'Palm island' - Dubai/'Burj Dubai'(800m)
The Infinity Tower - Duabi.jpgPalm island Dubai.jpg'Burj Dubai'.jpg 第2章では、UAEの1つ、ドバイのムハンマド首長に焦点を当てていて、既に「NHKスペシャル」などでも特集されたりして、「ヤシの木リゾート」や世界一の高層ビル「ブルジュ・ドバイ」をはじめとする建設ラッシュなど、ドバイの観光開発やビジネス投資が凄いことになっているのは知っていましたが、これを牽引しているのが「ドバイ株式会社のCEO」と言われる彼であるとのことで、なかなかのやり手だなあと。
 日本でも、ドバイのことを「世界中のセレブが集う夢のリゾート」と謳った観光ガイドブックが見られるようになった一方で、峯山政宏氏の『地獄のドバイ』('08年/彩図社)などという本も刊行されており、「光」の部分だけではなく、観光立国を目指す裏には「闇」の部分もあると思いますが、それはともかく、個人的には、王族の兄弟が世界各地のリゾートで放蕩し、また競馬やギャンブルで莫大な散財をしたことが、リゾート計画の立案や投機ビジネスに生かされているというのが、ちょっと面白いと思いました。

'The Kingdom Tower' (302 m)-Riyadh
The Kingdom Tower.jpg 第3章では、サウジアラビアのアルワリード王子にスポットを当て、こちらは、王族には珍しい起業家タイプで、米国のウォーレン・バフェット並みの投資家であり(実際、「アラビアのバフェット」と呼ばれている)、世界有数の大富豪でもあるとのこと。彼の率いるキングダム・ホールディングのリャドにある本拠地「キングダム・タワー」は、投資家の憧れの地みたいになっているようです。
 個人的には、彼が起業家を目指した経緯が、王家の傍流にいて、当初は父親が国王になる見込みが無かったためというのも、これまたちょっと面白い(やはり、人間どこかハングリーなところがないと、伸びないのか)。

 著者によれば、こうしたアラブ諸国は、支配者である国王が膨大な冨を国民に分配することを役割としている「レンティア(金利生活)国家」であり、額に汗流して働かなくとも(それでいて、税金は無く、医療や義務教育も無料)国民全体が生活できるというもので、著者自身は王国の将来について、近未来の範囲では楽観的に捉えているようですが、う〜ん、どうなんだろう。本書で取り上げられているUAE各国やカタルなど、人口が小さい国では、そうかも知れないなあ(使い切れずに余ったオイル・マネーはどこに流れているのか、不思議)。

 世界の長者番付に出てこない「大富豪」も沢山いるようで、オイル・マネー潤沢の王族企業は不特定多数の個人や法人から資金を調達する必要がないため、株式上場もしなければ、財務諸表も開示していないとのこと。ビル・ゲイツの資産は殆どマイクロソフト社の彼自身の保有株の時価総額が占めているわけですが、確かにアラブの大富豪王族だと、非公開企業のオーナーである彼らの保有資産額はわからない...。

「ブルジュ・ドバイ」と世界の高層ビルの高さ比べ http://v4vikram.blogspot.com  "Al Burj "(1050m=計画中)-Duabi
Al Burj.jpg「ブルジュ・ドバイ」と世界の高層ビルの高さ比べ.gif 
 
 
 
 

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「エコノミック・アニマル」の本来の意味には、素直に「へぇ〜」だったが...。

「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった.jpg 『「エコノミック・アニマル」は褒め言葉だった―誤解と誤訳の近現代史 (新潮新書)』 ['04年]

 一般に日本人を否定的に捉えたものとされる「日本人は12歳の少年」(マッカーサー元帥)、「エコノミック・アニマル」(ブット外相)、「ウサギ小屋」(EC報告書)といった表現の真意はどこにあったかを探り、それが必ずしも日本人の意識やその暮らしぶりを否定的に捉えたものではなかったことを明かした前段(1・2章)部分が、裏づけ調査も綿密で、インパクトもありました。

 マッカーサーの言葉は、同じ敗戦国ドイツとの対比において、民主主義の歴史が長いドイツが国際ルールを破って戦争したのは、"大人"が意図的にやった選択(民主主義を手放したこと)に誤りがあったものであり、ドイツ人の性格自体は"大人"であるゆえに変えようがなく、それに対し、日本での民主主義の歴史は浅く、これまで世界のことも十分に知らなかった日本人は、これからの教化によって変わり得る(成長し得る)といった意味合いだったらしい(これって、褒めているのかどうかはやや微妙ではないか)。

パキスタン元外相アリー・ブット(後に首相)と娘のベナジル・ブット(後に首相)(AFP).jpg 表題にある、当時のパキスタンの外相アリー・ブット氏が日本人記者との話の中で使った"Economic Animal "の"Animal "は、例えば「政治」を得手とする人物を評して"Political Animal"というように(学生時代に勉学が振るわなかったのに大物政治家となったチャーチルがそう呼ばれた)、「日本人はこと経済活動にかけては大変な才能がある」という「褒め言葉」だったとのことで、これには素直に「へぇ〜」という感じ(これが日本人批判と誤解されたためか、彼が政争に破れた時に日本人からあまり同情されなかったというのは気の毒)。「ウサギ小屋」というのが、フランスでは、都市型の集合住宅の一形態を指すにすぎないもので、貶める意味を持たないということも初めて知りました。

 パキスタン元外相アリー・ブット(後に首相となり絞首刑に)と娘のベナジル・ブット(後に首相となり暗殺される)(AFP)

 ただ、中盤は、漱石の英国留学時代の話に自分の英国留学の思い出を重ねたりしてエッセイ風であり、終盤は、ダイアナ妃やブッシュ親子の英語の用い方など、ややトリビアルな話になり、テーマも、国同士のコミュニケーション・ギャップという観点から、単なる「英語表現」の問題に移った感じ。

 後者のテーマが1冊を貫いていると見れば、サブタイトルの「誤解と誤訳」には違わぬ内容ではあるかも知れないけれど、何となく本としての纏まりに欠くように思ったら、別々に雑誌などに発表したものを纏めて1冊にしていたのでした。
 「日本人は12歳」、「エコノミック・アニマル」、「ウサギ小屋」に関しては、'93年と'95年に雑誌「文藝春秋」に発表されたもので、著者(前バンクーバー総領事)は、随分前から言ってたんだなあ、このことを―(この部分だけでも、一応の読む価値はあると思うが)。

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コンプライアンス=「法令遵守」と考えるのではなく、「社会的要請への適応」と考えるべしと。

「法令遵守」が日本を滅ぼす.jpg「法令遵守」が日本を滅ぼす』新潮新書〔'07年〕gohara.bmp 郷原 信郎 氏 (経歴下記)

 著者は東京地検特捜部の元検事で、以前からある建設談合事件から直近の耐震強度偽装事件、不正車検事件、パロマ事件まで多くの事件を取り上げ、そうした事件やその後の企業等の対応の背後にある「コンプライアンスとは単に法を守ること」という考え方の危うさを本書で示しています。
 
 建設談合についての過去における一定の機能的役割を認めているのが興味深く、単純な「談合害悪論」がそうした機能をも崩壊させようとしているとし、ライブドア事件や村上ファンド事件については、ライブドアの経営手法を現行法に照らした場合の違法性の低さや村上世彰氏の行為意をインサイダー取引と看做すことの強引さを指摘しているのが、元検事という経歴からして少し意外な感じもしましたが、「違法」という1点の事実により「劇場型報道」を行うマスコミを批判し、事件捜査のあり方が「劇場型」になってしまうことを危惧しています。

 また、独占禁止法と知的財産法など、ぶつかりあう関係にある法律も多くなり、かつて日本の司法―裁判官、検察官、弁護士などは、農村社会における巫女のような役割を果たしていたのが(喩えが面白い)、世の中が複雑になり、密着しあう様々の法律の隙間の部分での事件が多くなると、個別の法律を1つの点で捉えるのではなく、複数の法律を面で捉える必要が生じているのに、そうした捉え方が出来る人材が不足しているとのこと。

 ライブドア事件や村上ファンド事件などの検察の捜査は、司法の経済活動への介入ともとれ、1つ間違えると「法令遵守」が市場をダメにすることにもなりかねず、そうした意味での"経済特捜"の役割と責任の大きさを説いています。

 結論的には、「コンプライアンス=法令遵守」と考えるのではなく、「コンプライアンス=社会的要請への適応」と考えるべきであるということで、最後にそうした要請に応えるべく「フルッセト・コンプライアンス」という概念を具体的要素を挙げて提唱していますが、そこでは組織を壊死させるのではなく機能させることを主眼としているように思えます。
コンプライアンスの考え方.jpg
 新書版でさらっと読める割には内容の奥は深く、ただしややわかりにくい部分もあり、早稲田大学の浜辺陽一郎教授の著書『コンプライアンスの考え方―信頼される企業経営のために』('05年/中公新書)のように、冒頭で本来のコンプライアンスを「法令遵守」と訳すのは誤りであると指摘してしまった方がわかりやすかったかも。
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郷原 信郎 (ごうはら のぶお)
1955年島根県生まれ。東京大学理学部卒業後、東京地検検事に任官。1990年4月に日米構造協議を受けて独禁法運用強化が図られていた公正取引委員会事務局に出向し、 1993年3月までの審査部付検事などとして勤務。その後、東京地検検事、広島地検特別刑事部長を経て、1999年4月から法務省法務総合研究所研究官。 2005年4月、 桐蔭横浜大学法科大学院に専任教官として派遣されるとともに、同大学コンプライアンス研究センター長に就任。主著に 『独占禁止法の日本的構造-制裁・措置の座標軸的分析 』

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「ある意味では神様っていいな、と思うこともある」と言っているのが一番のホンネかも。

死の壁.jpg 死の壁2.jpg死の壁 (新潮新書)』〔'04年〕 バカの壁1.jpg 『バカの壁』新潮新書

 テーマが拡散的だった『バカの壁』('03年/新潮新書)に比べると、テーマを「死」に絞っているだけわかりやすく、"語り下ろし"形態からくる論理飛躍みたいな部分は依然あるものの、前著より良かったと思います。ただし本書で主に扱っているのは、著者が言うところの「一人称」「二人称」「三人称」の死のうち、解剖死体に代表される「三人称」の死と、身近な人の死に代表される「二人称」の死ということになるでしょう。

 情報化社会における「人間は変わらない」という錯覚や、死というものが隠蔽される都市化のシステムについての言及は、本書が『バカの壁』の続編であることを示しています(そんなこと、タイトルを見れば一目瞭然か)。

 日本人の死生観に見られる「死んだら皆、神様」のような意識を「村の共同体」原理で説明しています。このことから、靖国問題や死刑制度へ言及するところが著者らしいと思いました。確かに中国の故事には、墓を暴いて死者に鞭打ったという話があります(戦国時代に呉の伍子胥が平王の墓を暴いて死体を粉々になるまで鞭打った)。日本の場合、生死がコミュニティへの入会・脱会にあたり、全員が「あんな奴はいない方がいい」となれば村八分は成立しやすく、死刑廃止論者は少数派となると。大学なども、こうしたコミュニティの相似形で、入るのが難しいのに出るのは簡単。それでも○○卒という学歴が生涯つきまといます。

 人体の細胞の新陳代謝を、毎年新入生が入って卒業生が出て行く「学校」に喩えているのがしっくりきました。「私」というのも、こうしたシステムの表象に過ぎず、移ろっていくのだ...と思い読み進むうちに、著者自身の幼年時の父の死に対する心情推移の精神分析的解釈があり(ここで精神分析が出てくるのがそれまでの流れから見て唐突な印象でしたが)、自身にとっての「二人称」の死に対する思いが吐露されています。「ある意味では神様っていいな、と思うこともある」と言っているのが一番のホンネかも。

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わかったような、わからないようなという印象。だから、次々と"続編"に手をだしてしまうのか?

バカの壁1.jpg バカの壁2.jpgバカの壁 (新潮新書)』〔'03年〕唯脳論 (ちくま学芸文庫).jpg唯脳論 (ちくま学芸文庫)』〔'98年〕

 2003(平成15)年・第57回「毎日出版文化賞」(特別賞)受賞作。

 まえがきで数学という学問を引き合いに、誰もが最後にはこれ以上はわからないという壁にぶつかり、それが言わば「自分の脳」であると。つまり「バカの壁」は万人の頭の中にあるということを述べています(フムフム)。一方、本文は、これに呼応するように、「話せばわかる」というのは大嘘であるという話で始まりますが(もう諦めろ、放っておけ、ってことか?)、こうした切り口の鮮やかさが、上司など自分の身近にいる人とのコミュニケーションの齟齬にイライラしている人に受けたのかも知れません。でも、このまえがきと本文の繋げ方は、所謂 over-generalization(過度の一般化)気味のような気がし、この本は、こうした切り口の鮮やかさで論理を韜晦させているのではないかと思われる部分も、結構あるように思いました。
 
 話題は認知心理学や脳科学、教育論や日本人論と駆け巡り、個々の論点はまあまあ面白かったのですが、著者の他のエッセイなどで既に述べられていることも多いです。最後は再び、「話せばわかる」といった姿勢は一元論にはまり、強固な壁の中に住むことになるという警句で終っています。

 認知心理学的な話から「唯識論」的な話へいくのかと思いきや、途中から、一種の「教養論」を展開しているようにも思え、論旨が掴みにくいのですが、簡単に言ってしまえば、この「バカの壁」を意識するということは、ソクラテスの「無知の知」とほぼ同じではないかという気もしました。そう考えると、特に目新しい『唯脳論』.JPGことを言ってるわけではないと..。特に、以前に著者の『唯脳論』を読んだ経験からすると(硬軟の差はあるが、話の展開自体はやや似ている)。本書の結語的に著者が批判している一元論や原理主義というのは、「無知の知」の「知」が欠落し、要するに「無知」の状態にあるということ。ただし自分たちはそのことに気付かないということなのでしょう。

 著者の『唯脳論』では、この世界を理解しようとする際には、必ず"自分の脳"というものが介在するのであって、相対性理論のような科学的理論でさえも脳が作ったものであり、「脳はそれを世界に押しつけようと試みる。脳はその法則を自然から引き出すのではなく、その脳の法則を自然に押しつけるのである」といったことが説かれていて、なるほどなあと思わされました。つまり、真理は外部にあるのではなく、脳の中にあるということであって、「われわれの外部にはある規則性がある。その規則性をわれわれに理解できる言葉、すなわち脳の規則性に合致した表現で表したものを真理と呼ぶ」と。

 心は脳の構造作用であり機能なのであるが、人間が「構造」と「機能」を分けて考えること自体が、我々の脳がそのような見方をとるように構築されているからである、という見方はなかなか面白かったですが、なぜ脳という"構造"から"意識"という機能が生まれるのか、ということよりも、脳が脳について考えるということはどういうことなのか、を考察した本と言えたかも。但し、個人的には、そのあたりが若干もやっとしたまま、後半の文明について触れている箇所に読み進むことになってしまいました。そして最後は、文明とは脳化であり、脳化した社会は身体を禁忌とするが、脳も身体の一部であるのに、脳から身体性を排除するという極端なことが現在の日本では起きているという結語に至って、やや社会批評風の結末だったかなあと。

 本書については、「語り下ろし」であるということでの、そのあたりのもやもや感をある程度スッキリさせてくれるかと期待しましたが、読みやすさほどには、内容そのものはわかりやすくはないという感じがしました。個人的には『唯脳論』の前半から中盤にかけてのテーマを掘り下げないうちに、社会批評に行ってしまっている感じがするとともに、『唯脳論』を読んだ際に感じた論理の飛躍のようなものが、本書では「語り下ろし」というスタイルを取ったがために、より甚だしくなっている印象も。結果的に、正直、本書についても、わかったような、わからなかったような、という部分が多く心に残ったという感じ。だから、次々と出される"続編"に手をだしてしまうのか? 或いは、『唯脳論』が完全に理解できないと、あとは著者のこの手の本を何冊読んでも、完全な理解はできないということなのか(本書自体も『唯脳論』の続編乃至は解説編と言えるかも)。
 
 『唯脳論』...【1998年文庫化[ちくま学芸文庫]】

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批評眼の大切さを教えてはくれるが、各論には納得できない部分も。

世間のウソ.jpg  『世間のウソ (新潮新書)』  〔'05年〕   日垣隆.jpg 日垣 隆 氏 (略歴下記)

 著者の問題関心は、「世間で常識と思われていること、ニュースとしてごく普通に流通していることに素朴な疑問を投じることからいつも始まっている」(205p)そうですが、確かに『「買ってはいけない」は嘘である』('99年/文藝春秋)以来、その姿勢は貫き通されているように思えます。

 本書は、タイムリーな事件や社会問題などを取り上げ、その報道のされ方などを分析し、根拠の危うさや背後にある思惑を指摘している点で、著者の"本領"がよく発揮されていると思いました。

 語り口が平易で、文章がしっかりしているし、冒頭に、宝くじや競馬の話など入りやすい1話題を持ってくるところなどうまいなあと思います(日本の競馬の"寺銭"が25%というのは、寡聞にして知りませんでした)。
 こうしたウンチクがこの本にはいっぱいありますが、そうやって読者を引き込むのも著者の戦術の1つでしょうね。

ウソ、鳥インフルエンザ報道のウソ、男女をめぐる事件報道のウソ、児童虐待のウソ、第三種郵便のウソから、オリンピック、裁判員、イラク戦争を通して見る他国支配まで15章にわたってとり上げていて、新書1冊に詰め込み過ぎではという感じもありますが、社会問題を読み解く参考書として読まれたことも、この本が売れた理由の1つではないでしょうか。

 詰め込みすぎて、テーマごとの掘り下げが浅くなっている感じもありますが(やや週刊誌的?)、ニュース情報の渦の中で何となくそれらに流されがちな日々を送る自分に対し、批評眼を持つことの大切さを教えてくれる面はありました。

 ただし、1つ1つの論には、警察の民事不介入という幻の原則のために、多くの児童虐待が看過されてきたであろうという指摘など、個人的に納得できるものもあれば、ちょっとこの見方や論法はおかしいのではというのもありました(「精神鑑定のウソ」の章は個人感情が先走って論理破綻している)。
 そうした意味では、この本自体が、本書のテーマのテキストになり得るということでしょう。
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日垣 隆 (ひがき たかし)
1958(昭和33)年、長野県生れ。東北大学法学部卒業。「『買ってはいけない』はインチキ本だ」(文春文庫『それは違う!』所収)で文藝春秋読者賞、「辛口評論家の正体」(文藝春秋『偽善系II』所収)で編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞・作品賞を受賞。メールマガジン「ガッキィファイター」ほか、ラジオ、テレビでも旺盛な活動を続けている。

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短時間で、中東関連ニュースに対する理解を深めたい人にピッタリ。

中東 迷走の百年史.jpg  『中東 迷走の百年史』 新潮新書 〔04年〕

 高校の世界史の授業というのは、どうしても西洋史中心で、さらには、近現代史をやる頃には受験期に入っているので、最後は殆ど駆け足で終ってしまう―、その結果「中東の近現代史」などは、習った記憶すら無いという人も多いのではないでしょうか。

 ところが今や、海外から伝わる政治的紛争やテロのニュースには、中東乃至はイスラム過激派に関するものが非常に多いという状況で、今までの経緯が分からないから、関心もイマイチ湧かない、ということになりがちかも。
 でも、そうした背景を少しでも知って、ニュースに対する理解を深めたいという人に、本書はピッタリです。
 200ページ前後の新書で活字も大きく、さほど時間をかけずに読めるのが特長です。

 イラク、イスラエルとパレスチナ、サウジアラビアとイエメン...など12の国や地域をあげ、国を持たない中東最大の少数民族「クルド」もとりあげていて、それぞれの歴史や現況をコンパクトに解説していますが、こうして見ると紛争の火種が絶えない地域ばかりで、まさに「迷走」の歴史です。
 
 植民地時代や米ソ冷戦時代の「負の遺産」や、国家権力者の専横もさることながら、国際テロ組織の暗躍がこうした紛争に暗い影を投げかけていることがよく分かります。
 アフガン戦争の時に、米国とともに対ソ抗戦したイスラム原理主義者の一部が、イスラム過激派として9・11テロの実行犯などに流れていったことに、歴史の皮肉を感じます。
 サウジ、アフガン、東アフリカと場所を移しつつテロリストを養成しているオサマ・ビンラディンは、ある意味、独裁国家の元首よりタチが悪いかも。

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