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史料の読み込みは丁寧。目新しさはイマイチ。最後「突発説」でやや肩透かし感。

明智光秀と本能寺の変 ちくま新書.jpg 明智光秀と本能寺の変 ちくま新書 - コピー.jpg  渡邊大門.jpg 渡邊 大門 氏
明智光秀と本能寺の変 (ちくま新書)

 来年['20年の]のNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」が明智光秀(1528-1582)の生涯を描いたものであるとのことで、歴史研究家による本書もそれに合わせての刊行と思われます(この著者は「真田丸」の時も幸村の関係本を出しているが、ほかにもそういう人はいて、それはそれで中身が良ければいいのでは)。

 歴史研究家と言っても全くのアマチュアではなく、大学で専門の研究をし、今は「歴史と文化の研究所」というところの代表取締であるとのことで、本書においても史料の読み込みなどは丁寧だと思いました。ただ、その反面と言うかその分と言うか、目新しさのようなものは乏しかったでしょうか。

 明智光秀が本能寺の変を起こした理由として「足利義昭黒幕説」を唱える藤田達生氏が着眼した、義昭が京都復帰画策の拠点とした「鞆(とも)幕府」について、一章を割いて比較的詳しく書かれていました(第5章)。「幻の幕府」と言われながら(個人的にはそれぐらいのイメージしかこれまで無かった)、実はそこそこの陣容だったのだなあと。著者は、「鞆幕府」は見せかけだけの組織だったが、それなりの存在感があったとしています(ただし、過大評価すべきでもないと)。

 光秀の出自と前半生(第2章)、信長と光秀の周辺状況、両者の関係性の推移(第3章、第4章)、どういう過程を経て出世していったか(第6章)についても、史料を基に詳しく書かれていたように思います。そして終盤では、本能寺の変の「陰謀説」に根拠はあるかを検証していきます(第7章)。

 ただし、その前に、「家康饗応事件」の真偽の話もあり、さらに合間に「愛宕百韻」に関する諸説の紹介(著者は謀反の意を連歌会で堂々披露することは考えられないと)等々もあって、肝心の黒幕説への論駁はさらっと終わってしまった印象も。「朝廷黒幕説」は、そもそも信長と朝廷が対立しているという点から考えて成り立ちにくいとか、比較的オーソドックスな見解でした。

 因みに、谷口克広氏が唱えている信長の「四国政策転換」が謀反の原因となったとの説に対しては、「更迭についても、大きく影響したとは考えられない。また、ライバル秀吉が台頭したことにより、光秀が焦りを感じたというのも、説得力を持たない」としており、また、藤田氏が唱える「足利義昭黒幕説」も、谷口克広氏の反論を引いて、一次史料ではなく二次史料から導き出した論であり、成り立ち難いとしています(他人の論を組み合わせて、全部を否定しているような印象も無きにしも非ず)。

 反駁と査証が交互に出てくるのが、規則性が無くてちょっと読みにくかったかも。それで、著者の最終結論はどうかというと、謀反は突発的に起こったという、所謂「突発説」というものでした。「突発説」そのものは従来から有力説の一つとしてあり(NHK-BSプレミアムの"番宣"的な特番「本能寺の変サミット2020」でも取り上げられていた)、単独説の一種には違いないかもしれませんが、やや肩透かしを喰った印象も。本書でそれまで書かれてきたことの中から、そうした「突発的な行動に出た心情的な背景は十分読み取れる(読み取るべし)」というのが著者のスタンスなのかもしれません。

《読書MEMO》
NHK-BSプレミアム特番「本能寺の変サミット2020」2020年1月1日(水) 午後7:00~午後9:00(120分)
【司会】爆笑問題,【解説】本郷和人,【コメンテーター】細川護煕,【パネリスト】天野忠幸,石川美咲,稲葉継陽,柴裕之,高木叙子,福島克彦,藤田達生
本能寺の変サミット2020 突発説.jpg

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本当に脳科学? ジェンダー差別の再強化の一翼を担ってしまっているともとれる。

キレる女懲りない男.jpgキレる女懲りない男2.jpg  夫のトリセツ.jpg 妻のトリセツ.jpg
キレる女懲りない男―男と女の脳科学 (ちくま新書)』['12年]『夫のトリセツ (講談社+α新書)』['19年]『妻のトリセツ (講談社+α新書)』['18年]


 最近『夫のトリセツ』('19年/講談社+α新書)という本が売れているらしい(ウチでは家人がどういうわけか『妻のトリセツ』('18年/講談社+α新書)を買っていた)、その著者の最初の新書本。1953年生まれの著者は、42歳で男女脳のエッセイを初出版し、53歳で本書を出したそうですが、この本の中でも、「女性脳の取扱説明書(トリセツ)」と「男性脳の取扱説明書(トリセツ)」というのが大部分を占め、以降、同じパターンで繰り返してきた結果、最近になってブレイクしたという感じでしょうか。

男が学ぶ「女脳」の医学.jpg ただ、この内容で、単にエッセイとして読むにはいいけれど、「脳科学」を標榜するのはどうなのか。以前に、斎藤美奈子氏が、「ちくま新書」は"ア本"(アキレタ本)の宝庫であり、特にそれは男女問題を扱ったものに多く見られるとして、岩月謙司氏の『女は男のどこを見ているか』('02年/ちくま新書)や米山公啓氏の 『男が学ぶ「女脳」の医学』('03年/ちくま新書)を批判していたように思いますが、これもその「ちくま新書」です(10年置きぐらいで「男女脳」企画をやっている?)。

 読んでみて、解釈の課題適用(over generalization)が多いように思いました。例えば、ある寺の住職の「妻に先立たれた男性は三回忌を待たずに逝くことが多い。逆は長生きしますね」と言葉を引いて、「女性スタッフに愛される店は衰退しない。女性部下に愛される上司は出世する」とありますが、ありそうなことを2つくっつけて、いかにも同じ法則の基にそうなっているかに見せかけているだけではないででしょうか。こうした手法は、手を変え品を変え、『妻のトリセツ』『夫のトリセツ』においても、基本は変わって変わっていないようです。

 本書にしても『妻のトリセツ』にしても、「女性脳は、右脳と左脳をつなぐ神経線維の束である脳梁が男性と比べて約20%太い」など、男性と女性の脳の機能差を示すような具体的なデータを出して、「いきなりキレる」「突然10年前のことを蒸し返す」など夫が理解できない妻の行動の原因を脳の性差と結びつけ「夫はこういう対処をすべし」と指南してます

 しかし、朝日デジタルによると、脳科学や心理学が専門の四本(よつもと)裕子・東京大准教授は、「データの科学的根拠が極めて薄いうえ、最新の研究成果を反映していない」と言い、例えば「脳梁」で取り上げられたデータは、14人の調査に基づいた40年近く前の論文で、かつ多くの研究からすでに否定されているという。本に登場するそのほかのデータも「聞いたことがない」とのこと。朝日の記者が著者に主張の根拠を尋ねると、「『脳梁の20%』は、校正ミスで数値は入れない予定だった」とし、そのほかは「『なるほど、そう見えるのか』と思うのみで、特に述べることがありません」と回答があったそうです(ヒドイね)。

 斎藤美奈子氏は、例えば、女性は共感を、男性は問題解決を求めるというのはよく聞く話だが、でもそれは「脳」のせいなのか、仮にそうした傾向があったとしても、十分「環境要因決定説」で説明できるとしています(日々外で働く男性は、大事から小事まで、年中「問題解決」を迫られている。グズグズ迷っている暇はなく、トラブルは次々襲ってくるので、思考はおのずと「早急な解決方法」に向かう)。したがって、これは「脳の性差」ではなく、環境と立場の差であるとしています。

 これを聞いて想起されるのが、男女均等待遇がなかなか進まない原因としてよく問題になる「統計的差別」で、女性の採用や能力開発に積極的でない企業は、その理由を「統計的にみて女子はすぐ辞めるから」と言うものの、実はそうした考え方がますます差別を強化するということになっているというものです。それと同じパターンが本書にも当て嵌るかもしれません(ましてや本書の場合、「男性と同じ立場で働く女性」などの統計モデルのサンプルは少ないとされているのに、である)。

 同じく朝日デジタルによると、『なぜ疑似科学を信じるのか』('12年/DOJIN選書)の著書がある信州大の菊池聡(さとる)教授(認知心理学)は『トリセツ』について、「夫婦間の問題に脳科学を応用する発想は、科学的知見の普及という意味では前向きに評価できる。だが、わずかな知見を元に、身近な『あるある』を取り上げて一足飛びに結論づけるのは、拡大解釈が過ぎる。ライトな疑似科学に特有な論法だ」と話しているそうで、コレ、自分が本書を読んで最初に浮かんだ疑念と全く同じです。

 読み物として「そうそう」「あるある」と言って楽しんでいる分にはともかく、「脳科学」の名の元に妄信するのはどうかと(「脳科学」というより「心理学」か「心理学的エッセイ」、更に言えば「女性論・男性論」(的エッセイ)になるか)。大袈裟な言い方かもしれませんが、ジェンダー差別を再強化することの一翼を担うようになってしまうのではないでしょうか。別に読んで楽しんでもいいけれど(脳内物質で全部説明している米山公啓氏の本などよりは内容が練れている)、そうした批判眼もどこかで持っておきたいものです。

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〈意識高い系〉〈ここではないどこか系〉。現代の若者のキャリア観、キャリア行動を俯瞰する上で参考に。

ゆとり世代はなぜ転職をくり返すのか?.jpg  「ゆとり世代はなぜ転職をくり返すのか?」 福島創太.jpeg
ゆとり世代はなぜ転職をくり返すのか?: キャリア思考と自己責任の罠 (ちくま新書)』['17年]

ゆとり世代はなぜ転職をくり返すのか?  .png 大卒3年以内の離職率が3割であることを表す「3年3割」という言葉がありますが、厚労省の調査結果を見ると、実ははじめの3年間で最も離職率が高いのは1年目であるとのことです。本書は、ゆとり世代と呼ばれる若者たちが歩むキャリアの実態を明らかにし、若者の転職が多くなった社会的背景を考察した本であり、著者は元リクルート社員で、大学院に籍を置く教育社会学者です。本書は、著者が、すでに転職をした20代へのインタビューなどを通して修士論文として書き上げ、担当教官である本田由紀・東京大学教授に提出したものに加筆修正したものです。

 第1章では、若者の転職が増えているという事実と社会的背景を確認したうえで、「伝統的キャリア」から「自律的キャリア」への労働者のキャリア観の変貌を踏まえ、インタビューした転職者を〈意識高い系〉〈ここではないどこか系〉〈伝統的キャリア系〉の3つに分類したうえで、本書では、自律的キャリア化する若者を追いかけるうえで、〈意識高い系〉〈ここではないどこか系〉に焦点を当てるとしています。

 第2章では、〈意識高い系〉には、自律的キャリア化した時期によって〈在学時意識高い系〉〈初戦入社後意識高い系〉〈転職後意識高い系〉の3パターンがあるとして、それぞれの転職活動の在り様を探るとともに、何れも「高い意識」のみに基づいて転職する傾向があるとして懸念を示しています。

 第3章では、〈ここではないどこか系〉は、環境適応としての転職をし、仕事に対する意義づけとともに職も変えるが、〈意識高い系〉が自分のキャリアに対して真摯なのに対し、自分の感情に対して真摯であり、よりよく働きたいという気持ちの強さは立派なことだが、いつまでもどこか探しが続くことが懸念されるとしています。

 第4章では、第2章、第3章を踏まえ、〈意識高い系〉には希望が実現できない、やり直しがきかないというリスクがあり、〈ここではないどこか系〉には、スキルや経験が蓄積されない、劣悪な労働環境を許容しいてしまうというリスクがあるとし、それらは「自分らしさ」にこだわることからくるもので、その背景には、社会によって煽られた「自律的キャリア意識」があるとしています。

 第5章では、自律的キャリア化のベースにある自己責任論は、社会の責任を見えづらくしている面もあるとし、そうした問題が凝縮されるのが「就活」であり、「就職できない若者がいる」という個人に問題にとどまるのではなく、その背景には社会構造の変化があるわけであり、社会の役割として支援の可能性を探っていかねばならないとしています。

 第6章では、社会が若者の転職者をどう支援できるかということの一つの手がかりとして、キャリアアドバイザーによるキャリア面談を取り上げ、実際に行われた面談記録の分析から、その可能性と課題を考察しています。

 そして、最終第7章では、第6章におけるキャリア面談の二面性考えるうえで「やりがいの搾取構造」「ブラック企業」という二つの問題を取り上げ、社会が若者のキャリア支援においてできることとして、「できること」を基準としたキャリア選択の可能性をひらいていくことを主張しています。

 〈意識高い系〉〈ここではないどこか系〉というのは、個人的には、ハーズバーグの動機づけ・衛生理論にも対応しているように思いましたが、そうした理論を持ち出すまでもなく、社員の退職や採用と向き合っている人事パーソンにはしっくりくるのではないでしょうか。そこからさらに踏み込んで分析されているため、現代の若者のキャリア観、キャリア行動を俯瞰する上では参考になります。「自律的キャリア」を煽る社会や自己責任論に批判的な点は、やはり本田由紀氏の系譜でしょうか。サブタイトルも「キャリア思考と自己責任の罠」となっていますが、タイトルも含め、テーマは別のところにあったような気がしました。

 企業もまた社会の一部であり、「できること」を基準としたキャリア選択の可能性をひらいていくということは、企業の役割でもあるのかもしれません。では、どうすればよいかというところまでは(企業の人事担当者も読者として想定しながら)本書では具体的に踏み込んでいませんが、これは(著者が分析に巧みで社会提案に弱い元リクルート系であるからと言うより)ベースが修士論文であることの限界でしょうか。それでも、そうしたことを考える糸口となるような啓発的内容であったとは思います。

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基礎理論を学ぶことの重要性を説いていることに共感。初任管理職などには示唆に富む本。

即効マネジメント2.jpg即効マネジメント.jpg即効マネジメント: 部下をコントロールする黄金原則 (ちくま新書)』['16年]

 著者の既刊『無理・無意味から職場を救うマネジメントの基礎理論』('15年/プレジデント社)の姉妹編で、前著で扱った、部下のやる気をどう出させるか(「個」のマネジメント)というテーマと組織全体の活気をどう保つか(「組織」のマネジメント)というテーマのうち、前者に的を絞り、より細かく解説を加えたものであるとのことです。

 本書での理論解説のベースに置いているのは、ハーズバーグやマズローをはじめとする大家と呼ばれる7人の研究者の理論であり、とりわけ、著者が薫陶を受け、元気・勇気・やる気にあふれるリクルートの組織風土を生み出した大沢武志(1935-2012)氏の実践的理論を基礎に置いているとのことです。

 著者は、マネジメントというものを1つの型にはめる必要はなく、むしろ基礎理論を覚えることが重要であるとして、本書では、そのための基礎理論を「明日から使えるように、実践的で簡単な法則」にしたとし、それが、「2W2R(What・Way・Reason・Range)」と「三つのギリギリ」であるとしています。

 第1章では、「やる気」には内発的動機と外部誘因があるが、社員の内発的動機を高めれば企業は強くなるとし、では、その内発的動機はどのようにすれば高まるのかを、ハーズバーグの「満足要因と衛生要因」説などを用いて説明していて、それには「機会」を与え「支援」することが必要であるとしています。

 第2章では、部下にどのような機会を与えそれをいかに支援するかを解説し、指導の基本は2W(What・Way)であり、手本やなどできっちり「What」を教えるのも必要だが、それよりも、その通りにやれば誰でもうまくできる成功の道筋=「Way」を教えることが重要であるとしています。また、教えるに際しては、その理由や目的(Reason)を伝えることが大切で、それが部下の自律への入口になるとしています(ここまでで「2W1R」となったわけだが、もう1つのRについては後述されることになる)。更に、部下に機会を与える際には、「できるかできないかギリギリの線を示す」「経験や得意技を活かす場を残す」「逃げ場をなくす」という「三つのギリギリ」が重要であるとしています。

 第3章では、やる気を絶やさない秘訣として、目標はすぐにくずれるので、そのたびごとに刻み直すこと、そのためにも、上司は常に部下を見てSOSや慢心を見逃さないこと、更に、横の見通し(今の仕事は周囲にどんな影響を与えているか)と縦の見通し(今の仕事は将来のキャリアにどんな影響を与えているか)をつけることが重要であるとしています。

 第4章では、もう1つのRであるRange(範囲)について述べており、成長が実感出来るように踊り場(自遊空間)を作って思いっきり羽を伸ばせるようにしてあげること、階段を刻み、踊り場で遊ばせることが大切であることを、D・マクレガーの「XY理論」や三隅二不二の「PM理論」を用いつつ説明しています。

 第5章では、「誰もがエリートを目指せる」日本型のキャリア構造は世界的にみれば特殊であるが、これも「ギリギリの線を与え続ける」などといったモチベーション理論をキャリアパスの下敷きとして意図的に生み出された構造であるとして、基礎理論の重要性を説いています。また、仮に社員がやる気を出してくれずマネジメント理論が通じないと思われるケースであっても、それは、人の心を揺り動かす要因(動因)が揃っていないことによるものであり、部下は多様な動因を持つから、上司はそれに合った「多様な機会」を作っていくことが大切であることを、マーレイの動因理論などを用いて説いています。

 第6章では、学んだことを人に教えることの重要性を説くとともに、本書でこれまで述べてきた基礎理論を、質問形式で簡潔にまとめています。以上、要約すれば、「2W2R(What・Way・Reason・Range)」とは、何を、どうやって、なぜ、どこまでを決めることであり、「三つのギリギリ」とは、(1)易しすぎず難しすぎず、(2)活かし場を用意する、(3)逃げ場をなくす、ということになります。

 こうしたことが、クイズなどを交えつつ、読み易く丁寧に解説されていて、また、章を追うごとに理論を積み重ねて構造化していくため、説得力のあるものとなっています。個人的にも、基礎理論を学び、実践することの重要性を説いている点には共感しました(同著者の雇用システムや労働市場問題を扱った本よりも共感度が高い?)。とりわけ初任管理職、ミドルマネジメント層には一定の示唆に富む本であるかと思います。

《読書MEMO》
●目次
はじめに 「あの人はすごい」―その理由は、マネジメント理論でけっこう説明できます。
第1章 なぜ、企業は社員のやる気を大切にするのか
第2章 やる気の源泉=「機会」と「支援」の鉄則
第3章 やる気を絶やさないための秘訣
第4章 もう一つのR(=Range)は、なぜ「スーパーな力」なのか
第5章 世界でも特殊な日本型のキャリア構造
第6章 学んだことを人に教え、自分でも実践する
あとがき リクルートの「元気とやる気」の秘密を、みなさんに

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理系の性分、理系的センスとは何か、理系社員とどう向き合うかを説く。「トリセツ」と言うより「啓発書」。

理系社員のトリセツ_1.jpg理系社員のトリセツ.jpg理系社員のトリセツ (ちくま新書)』['15年]

 文系と理系の間にある深い溝―本書は、その壁をを解消して、両者が一緒に働いている職場をうまくまわすにはどうすればよいか、そのために理系の特徴を分析し、その活用法を解説した本です。著者によれば、企業が成功するには、文系と理系双方の人材がうまくかみ合う必要があるのに、実際には文系と理系はお互いを相容れないものとして捉えがちであるとのことです。その結果、文系は理系の仕事をなかなか理解することができず、「文系上司」が「理系部下」の扱いに困っているといったことなども少なからず起きているとのことです。

 そこで「理系」である著者が、"理系の性分"とは何か、その思考傾向を多面的に探るとともに、"理系的センス"とはどういったものか、それはビジネスの様々な場面でどのような効果を発揮するかを説いていますが、読んでいて、そのセンスとは往々にして文系の人間にも求められるものであるように思いました。本書では、それらを踏まえたうえで、組織内で理系社員をどう活用すればよいかを解説しています。

 著者によれば、理系的才能の本質は想像力であり、真の理系は想像力で問題を解くとともに、事実に目を配り、直感に飛びつかず慎重に考えるとのこと、また理系人材は「質量保存・エネルギー保存の法則」を前提に物事を捉えるので、ゼロサムの関係には敏感であり、全体バランスを壊すことになるカネやポストでは動機づけられにくい一方、外部からの期待感や専門分野での名誉には奮い立ち"本気度"を刺激される側面も併せ持つとしています。

 上司が「理系部下」を活かす方法としては、文書化を徹底させるコーチングを行い、部下に自由に語らせるようにし、外部の干渉からは部下を守ること、また、先に述べたような理由から、技術成果に対し「顕彰」で報いることなどを挙げています。とにかく、複雑な評価制度などに惑わされず、コーチングを続けることが大切であるとしています。

最後に、理系マインドをビジネスにどう結びつけていくかを説くとともに、これからのビジネスは文理の協働が前提となり、文理別々で働いてもろくな事は起きないとし、また、理系女性の拡大は、人材増強策の切り札であるとしています。

 個人的には、理系の人材育成の要点として、
 ・空間的に狭い範囲に人材を集めること
 ・仕事を小刻みに数多く絶え間なく与えること、
 ・仕事の成果は質よりも早さを求めること、
 ・互いに切磋琢磨し、競争の状況が誰の目にも明らかに分かる分かるようにすること
とし、その典型例として、石ノ森章太郎や藤子不二雄、赤塚不二夫らを輩出したトキワ荘を例に挙げているが興味深かったです。

 このように、逐一分かりやすい例を挙げて解説しているためたいへん読みやすかったですが、著者はどちらかと言うと、理系人間の中でも「文系」的な方の人間ではないかとも思わせました。そのように考えていくと、だんだん理系と文系に分ける意味が無くなってくるようにも思えてくるのですが、ここはある種のタイポロジー(類型化)を前提とした"思考整理"であると割り切って、最後まで読んだ方がいいかもしれません。

 タイトルには"トリセツ"とありますが、〈マニュアル〉というよりは、文系人間が理系人間と向き合う際の考え方を示した〈啓発書〉といえるでしょう。もちろん、理系人間が、理系である自分の能力の特質を見つめ直し、その活かし方を考えるうえでのヒントが得られる本であるともいえるかもしれません。

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「マタハラ問題」の総括。啓発的要素を含むとともに、テキストとしても読める。

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マタハラ問題 (ちくま新書)』['16年]

世界の勇気ある女性賞.jpg 働く女性が妊娠・出産・育児を理由に退職を迫られたり、嫌がらせを受けたりする「マタニティハラスメント(マタハラ)」が、いま大きな問題となっており、労働局へのマタハラに関する相談は急増しているとのことです。本書は、「NPO法人マタハラNet」の代表者による「マタハラ問題」の総括であり、著者は2015年に、アメリカ国務省が主催する「世界の勇気ある女性賞」を日本人で初めて受賞しています。

 第1章では、著者自身が職場で受けたマタハラ体験について綴られていますが、複数の上司からの執拗な退職強要や嫌がらせに遭い、二度の流産を経てついに会社と闘おうと決意するに至るまでの経緯は、ドキュメントとして読み応えがありました。

 第2章では、マタハラを大きく個人型と組織型に分け、個人型としての「昭和の価値観押しつけ型」「いじめ型」、組織型としての「パワハラ型」「追い出し型」の4類型を示すとともに、それぞれのケースに該当する12の実例を紹介しています。

 第3章では、マタハラNetが行った日本で初めてマタハラ被害実態調査「マタハラ白書」から何がわかるかを分析しています。これを見ると、マタハラは社員規模にかかわらず発生し、相談すればするほど連鎖する傾向があることがわかります。また、先進諸国とのデータ比較を通して、マタハラは単なる女性問題ではなく、日本の少子化と経済難を直撃する経済問題であるとしています。

 第4章では、働く側が、マタハラをなくすために何ができるかについて述べています。第5章では、企業が、経済問題であるマタハラを経営問題として捉え、経営戦略として"主婦人材"を活用したり"子連れ出勤"を実践したり、選択可能な多様なワークスタイルを用意したり、職場の風通しをよくするための工夫をしたりしているケースを5社紹介しています。

 一般に、セクハラ、パワハラ、マタハラで三大ハラスメントとしてまとめられますが、本書では、マタハラがセクハラ、パワハラと一線を画すのは、それが経済問題、経営問題と呼べる点であると強調しているのが特徴でしょうか。

 マタハラは、三大ハラスメントのほかに、パタハラ(パタニティハラスメント(育児男性に対するハラスメント))、ケアハラ(ケアハラスメント(介護従事者に対するハラスメント)といったファミリーハラスメントの一角も成すことでハラスメントの中心に位置し、企業はマタハラ問題を絶対に無視できないとしています。

 第1章にある著者自身のマタハラ体験で、人事部も含め4人の上司や管理者が4人ともマタハラ行動をとってしまうというのは、人の資質の問題もさることながら、組織体質、職場風土の問題でしょう。マタハラをしている側に、してはならないことをしているという、そうした意識そのものが希薄であるように思われ、管理者や従業員の意識教育の大切さも感じました。

 そうしたリスクマネジメント的観点も含め、多分に啓発的要素を含んだ本であるとともに、「マタハラ問題」のテキストとしても読める本です。

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就活エリートの迷走』から更に踏み込んだ分析と、より広角的な提案ではあったが...。

若手社員が育たない。.jpg       豊田 義博 『就活エリートの迷走』.jpg 『就活エリートの迷走 (ちくま新書)['10年]』
若手社員が育たない。: 「ゆとり世代」以降の人材育成論 (ちくま新書)』['15年]

 著者は、本書の5年前に著した『就活エリートの迷走』('10年/ちくま新書)で、明確にやりたいことがあって高いコミュニケーション能力があり、エントリーシートや面接対策も完璧、いくつもの企業から内定を取るなど就職活動を真面目に行い、意中の企業に入社しながら社会人としてのスタートに失敗、戦力外の烙印を押される人たちがなぜ生まれたのかを分析し、採用手法と採用市場を変革する必要性を説いていました。

 今回、全6章で構成されている本書の第1章で、今どきの若手社員の特徴について分析していますが、"困った若手社員"と指摘される人材像として、10年以上前から存在が指摘されている、挨拶が出来ない、指示待ち、すぐ辞める、自分には無理と仕事を拒否するといった「後ろ向き型」、『就活エリートの迷走』に登場する、志望職種や自身が描くキャリアビジョン、成長シナリオにこだわりすぎて迷走する「キャリア迷走型」に加えて、「キャリア迷走型」の迷走のあり方が変わり、次のモードにシフトした「自己充実型」を3つ目のパターンとして挙げています。

 「自己充実型」とは、上昇志向が弱く、リスクを回避し、保守的で、自己の人生を充実したものにするため自分の時間を大切にするタイプですが、この"第3の困った若手社員"は「何をしたらいいかも薄々わかっていながら、そしてそれをする能力もありながら、取り組まない」という失敗するリスクを回避しているだけなのだとし(著者はこれを「成長する自由からの逃走」と呼ぶ)、これは30代後半から上の世代にはなかなか理解出来ない感覚だろうとしています。

 続く第2章では、仕事の特性が変化したこと、そして仕事環境の変質といった状況が若手を育ちにくくしていることについての考察し、これまで日本企業は高度成長期に形成された、新卒を一括採用して新人研修や職場で実務を経験させ、知識や技能を身につけさせるOJTなどを通じて若手を育成してきた。それを本書では「個社完結型『採用・育成』システム」と呼んでいるが、このシステムの寿命は尽きかかっており、今の時代に即した「社会協働型『育成・活用』システム」への移行が急務だとしています。

 第3章では、社会に適応し、成長しようとする若手が紹介されています。会社の採用担当者の多くは「入社後の適応・活躍は、大学時代の経験と密接な関係がある」と確信しているそうだが、そうした若手は大学生活で以下の「5つの経験」をしているとのことです。
●社会人、教員など、自分と「異なる価値観」を有する人たちと、深く交流していた。
●自身が主体者として「PDS(Plan-Do-See 計画・実行・検証)サイクル」を繰り返し回していた。学園祭などのハレの舞台での経験ではなく、日常生活において小さな創意工夫を重ね、そこからの気づきから、やり方や考え方を変えてきた。
●自身にとって負荷がかかること、やりたいわけではないことを、自身の「試練・修行」の場として継続して行っていた。
●自身の思い通りにならず、「挫折」したり「敗北」感を味わったり、他者からの手厳しい「洗礼」を受けていた。
●前記を通じて、自身の「志向・適性の発見」をしていた。他者から指摘されるケースも多い。

 第4章では、大学時代にこうした機会に恵まれなかった人はどうすればいいのかを考察し、それには自分に合った「人が育つ職場」に身を置くことや、OJTの機会を活かすなどの手段があるが、若手の希薄な危機意識やリスク回避などもありなかなか難しく、そんな中、自身のキャリアに不安意識のある若手が参加しているのが、社外で様々な人が集まって行う「勉強会」であるとして、今どきの勉強会の在り様を紹介しつつ、若手人材育成のための代替手段・機能のひとつとして「勉強会」というのは有望なのではないかと推察しています。

 第5章では、目指すべき姿は、「個社完結型『採用・育成』システム」から離脱した「社会協働型『育成・活用』システム」であるとの考え方から(第2章)、大学での教育の重要性について述べています。若者"再生"のカギは「大学での学び」にあるとし、社会に出る前の大学時代における学習経験にあり、社会人になった後にも、自社内にとどまらずに異質な価値観と出会う「越境学習」の機会が必要であるとしています。

 第6章では、同じような考え方からの、企業に向けた提案となっています。これらの効果を高める上で企業には、大卒者全員を基幹人材として採用する考えを一度リセットして「専門コース」「幹部コース」といった具合に「キャリア・コースを複線化」すること(欧米ではこうした区分がスタンダードである)と、多忙を極める管理職の職務を整理、再編することが求められる(マネジャーが、部下の面倒を見ながら自分も業績を上げないといけない"プレイングマネージャー化"している現状を改める)と主張しています。

 全体として『就活エリートの迷走』の続編との印象もありますが、そこから更に進んだ"現代若者像"の分析となっていて興味深く読めたし、また、前著以上に提案部分に力を入れているように思われ、第4章の「勉強会」への参加は、当事者である若者に対して、第5章は大学へ向けて、第6章は企業へ向けてと、提案の対象も(課題に沿って)広角的になっている印象を受けました。

 但し、版元の紹介にも"渾身のリポート"とありましたが、やはり分析や情報提供が提案に勝っているかなという印象も受けました。提案部分では、第4章の「勉強会」の部分はリアルに現況をリポートしており、第5章の「大学教育」の部分も同様に大学で実際に行われている先進的な取り組みを紹介しているのに対し、第6章の「企業」に対する提案はややもやっとした感じでしょうか。企業に対する期待が、今一つ琴線に触れてこない...(実務者ではないから仕方がないのか)。

 例として挙げられている「ユニクロ」にしても、「コース型人事」はこれまで表立って謳っていなかっただけで(誰もが自分が将来幹部になれる可能性があるものと思って入社していた時期があった)、実際の人材登用はこれまでも欧米型でやってきているでしょう。ショップの店員がいきなり本社の経営戦略や企画・マーケティング部門へ異動になるなどということはあり得ず、そうした基幹部署の要員は、コンサルティングファームやシンクタンクなどから"引っこ抜き"採用してきたでしょう。

 企業において、コア人材のためのキャリア・コースを設けるというのは何年か前から言われていることで、その割には導入が進んでいないような気がしますが、著者の言うように、企業のキャリア・コースの分化は傾向としては進んでいくことが考えられます。その意味で、著者の言うことを全否定するつもりは毛頭ないですが、「ユニクロ」は、事例として挙げるには不適切だったように思いました。

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社員とその家族の幸福・利益・生活を優先させた結果、企業が成長するという流れがミソ。

日本でいちばん社員のやる気が上がる会社.jpg日本でいちばん社員のやる気が上がる会社: 家族も喜ぶ福利厚生100 (ちくま新書)』['16年]

日本でいちばん社員のやる気が上がる会社2.jpg 中小企業のユニークな福利厚生制度の数々を紹介した本です。まず、全3章構成の第1章「中小企業の福利厚生制度の現状」で、本書執筆のために実施したウェブ調査をもとに、中小企業の福利厚生制度の現状と課題を分析しています。

 そして、本書の中核となる第2章「社員と家族が飛び上がって喜ぶ福利厚生制度100」では、社員とその家族を幸せにしている100の事例を選び、子育て、メモリアル、就業条件、職場環境、親睦、教育、生活、健康、食事、その他の10のジャンルにわたって紹介しています。取り上げた事例の中には、「これが福利厚生か?」と思あれるものもあるかもしれませんが、本書では、福利厚生を、「賃金など労働の対価以外の、社員とその家族の幸福・利益・生活などの向上に資する制度」と、敢えて拡大解釈したとのことです。

 例えば子育て面の事例では、「300万円の出産祝い金を支給」といったスケールの大きなものから、「オフィスに授乳室を設置」「いつでもいつでも子連れ出勤可能」といった現実対応的なものまであり、メモリアル面では、「配偶者の誕生日に特別休暇」「誕生日に10万円をプレゼント」といったものから、「子供に誕生日に図書カードと社長からのメッセージ」が贈られるという、細やかな配慮が感じられる事例なども紹介されています。

 就業条件面では、「4年に一度のオリンピック休暇」「最長1ヵ月の長期リフレッシュ休暇」といった休暇に関するものから、「週1回、出勤を1時間遅くできる"ニコニコ出勤制"」「ほぼ全員が定時前に退社」といった労働時間に関するもの(「残業削減分を賞与で還元」するという事例もある)、さらには、「生涯現役・定年なし」といった雇用契約そのものに関わる大胆な施策も見られます。

 職場環境面では、「社員のために景色の良い職場へ移転」したといったユニークなものもあり、また、親睦面でも、「全社員がドレスアップしてパーティーを楽しむ」といった、これまたユニークな例も。「会社でいちばん快適な場所が、社員食堂兼休憩室」になっているという事例もあります。

 教育面で、「読みたい本はすべて企業が購入」するという事例もあれば、生活面では、「最長6年間の介護休暇」というのもあります。健康面で、「朝ヨガ教室で心と体の健康をサポート」している企業もあれば、食事面では、「会社の負担でおやつ食べ放題」などといったものもあって、こうして見ていくとなかなか興味深いです。

 第3章「今後の福利厚生制度導入・運営の五つの視点」では、社員とその家族の幸せを念じた福利厚生制度の存在は、彼らの愛社心を高め、結果として業績を高めることは明白ではあるが、企業経営の考え方や進め方を大して変えず、安直にその導入や充実強化を図るのは早計であり、逆効果のこともあるとしています。確かに、こうした事例の中には、経済的事情や業態その他の違いにより簡単には導入できないものもある一方、中小企業などで比較的導入しやすいのではないかと思われる施策例もあります。しかし、簡単に導入できるから導入してみるというのではなく、その制度の根底にしっかりした経営の考え方がなければ、単なる企業内慣習に過ぎなくなってしまうのでしょう。

 この章では、真に社員とその家族のためになる福利厚生制度の導入と運営についての効果的視点を次の5つに絞り込んでいます。
 ①業績向上の手段ではなく社員とその家族の幸せのため、
 ②制度の導入よりも企業風土が大切、
 ③全体対応より個別対応、
 ④社員だけでなくその家族も
 ⑤金銭より心安らぐ福利厚生制度を

 福利厚生を真の意味で充実させることで社員の定着率が改善し、社員のモチベーションも高まって、仕事の質も向上するので売り上げも伸びる―そうした因果関係を、多くの事例を集めることで帰納的に検証しようとした試みとも言える本であるように思いました(但し、いわば衛生要因であるところの福利厚生が直接売上げ向上に繋がるのかは議論の分かれるところ)。どの施策も企業業績の向上を直接の目的とするのではなく、社員とその家族の幸福・利益・生活を優先させた結果、企業が成長するという流れが成立しているという点がミソなのでしょう。取り上げられている事例が(冒頭で本書における福利厚生の定義があったように)従来の"福利厚生"の概念に止まっていない点に留意すべきなのかもしれません。

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宇宙論の歴史と今現在をわかり易く説く。宇宙の未来予測が興味深かった。

ざっくりわかる宇宙論.jpg
竹内 薫.jpg 竹内 薫 氏 竹内薫 サイエンスZERO.jpg Eテレ「サイエンスZERO」
ざっくりわかる宇宙論 (ちくま新書)

 宇宙はどう始まったのか? 宇宙は将来どうなるのか? 宇宙に果てはあるのか? といった宇宙の謎を巡って、過去、現在、未来と宇宙論の変遷、並びに、今日明らかになっている宇宙論の全容を分かり易く説いています。

 パート①「クラシックな宇宙論」では、コペルニクス、ケプラー、ニュートンから始まって、アインシュタインと20世紀の宇宙論の集大成であるビッグバンまで宇宙論の歴史を概観し、パート②「モダンな宇宙論」では、20世紀末の科学革命と加速膨張する宇宙について、更に、宇宙の過去と未来へ思いを馳せ、パート③「SFのような宇宙論」では、ブラックホールやブレーンといった、物理学的に予想される「物体(モノ)」について述べています。

 宇宙論は20世紀末から現在にかけてかなり進化しており、それが今どうなっているのかを知るのに手頃な本です。基本的には数式等を使わず、一般人、文系人間でも分かるように書かれている一方、部分的には(著者が重要と考える点は)かなり突っ込んだ説明もなされており、個人的にも、必ずしも初めから終わりまですらすら読めたわけではありませんでした。

 でも、説明が上手いなあと思いました。まえがきで自身のことを、科学書の書き手の多くがそうである「プロ科学者〈兼〉アマチュア作家」とは違って、「アマチュア科学者〈兼〉プロ作家」であると言っており、科学好きの一般読者のために、宇宙論の現状をサイエンス作家の視点からざっくりまとめたとしています。

 東京大学理学部物理学科卒業し、米名門のマギル大学大学院博士課程(高エネルギー物理学理論専攻)を修了していることから、「プロ科学者〈兼〉アマチュア作家」ではないかという気もしていたのですが、最近の共著も含めた著作ラッシュやテレビ出演の多さなどをみると、やはり作家の方が"本業"だったのでしょうか? 確か推理小説も書いているしなあ。但し、小説やエッセイ的な著者よりも、こうした解説書・入門書的な著書の方が力を発揮するような印象があり、本書はその好例のようにも思います(Eテレの「サイエンスZERO」のナビゲーターはハマっているが(2011年に放映された"爆発迫るぺテルギウス"の話題を本書コラムで扱っている)、ワイドショーとかのコメンテーターとかはイマイチという印象とパラレル?)。

 「作家」としての自由さからというわけはないでしょうが、仮説段階の理論や考え方も一部取り上げ(著者に言わせれば、「科学は全部『仮説にすぎない』」(『99・9%は仮説』('06年/光文社新書))ということになるのだろうが)、結果的に、宇宙論の"全容"により迫るものとなっているように思いました。

 印象に残ったのは、パート②の後半にある宇宙の終焉と未来予測で、太陽の寿命はあと50億年くらい続くとされ、太陽がエネルギーを使い果たして赤色巨星になると地球は呑みこまれるというのが一般論ですが、その前に太陽は軽くなって、その分地球を引っ張る力が弱まり、地球の軌道が大きくなって実際には呑みこまれないかもしれないとのこと。

 それで安心した―というのは、逆に50億年という時間の長さを認識できていないからかもしれず、6500万年前にユカタン半島に落下し恐竜を絶滅させたと言われるのと同規模の隕石が地球に落下すれば、今度は人類が滅ぶ可能性もあるとのことです。仮に地球が太陽に呑みこまれる頃にまで人類が生き延びていたとして、火星に移住するのはやがて火星も呑みこまれるからあまり意味が無いとし(これ、個人的には一番現実的だと思ったのだが)、と言って、他の星へ移住するとなると、最も近いケンタウルス座アルファ星域に行くにしても光速で4年、マッハ30の宇宙船で光速の3万倍、12万年もかかるため、ワームホールでも見つけない限り難しいのではないかとしており、確かにそうかもしれないなあと思いました(冥王星に移住っていうのはどう?―と考えても、その前に人類は滅んでいる可能性が高いだろうけれど、つい、こういう提案をしたくなる)。

 著者は更に宇宙の未来に思いを馳せ、このまま宇宙の加速膨張が進めば、空間の広がりが光速を超え、1000億年後には真っ暗な宇宙になるだろうと(その宇宙を観る地球ももう無いのだが)。更に、宇宙の年齢137億年を約100億年とし、ゼロが10個つくのでこれを「10宇宙年」とすると、12宇宙年から、宇宙の加速膨張のために、遠くの銀河は超光速で遠ざかるようになって、まばらに近くの銀河や星だけが見えるようになり、14宇宙年から40宇宙年の間に宇宙が「縮退の時代」を迎え、40宇宙年になると陽子が全て崩壊して原子核も無くなり、光子や電子のような素粒子に生まれ変わり、要するにモノと呼べるものは宇宙から全て消えると。そして、40宇宙年から100宇宙年の間、宇宙は「ブラックホールの時代」となり、100宇宙年になるとブラックホールも消えて「暗黒の時代」を迎えるそうです。イメージしにくいけれど、理論上はそうなる公算が高いのだろうか。

 「未来永劫」などとよく言いますが、宇宙論における「未来」というのは、我々が通常イメージする「未来」と100桁ぐらい差があるということなのでしょう。

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事件そのものの重さ、その背景にあるものの複雑さなどからいろいろと考えさせられる1冊。

ルポ 虐待2.jpg ルポ 虐待s.jpgルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件 (ちくま新書)

大阪二児置き去り死事件1.jpg 2010年夏、3歳の女児と1歳9カ月の男児の死体が、大阪市内のマンションで発見された。子どもたちは猛暑の中、服を脱ぎ、重なるようにして死んでいた。母親は、風俗店のマットヘルス嬢で、子どもを放置して男と遊び回り、その様子をSNSで紹介していた―。

 本書は新書にしては珍しく、この「大阪二児置き去り死事件」のみに絞ってその経緯と背景を追った(単行本型?)ルポルタージュです。事件発覚時にはその母親の行動から多くの批判が集まり、懲役30年という重い判決が下されて世間は溜飲を下げたかのように見えた事件ですが、本書では、なぜ2人の幼い子は命を落とさなければならなかったのかを、改めて深く探っています。

 その探求の特徴の1つは、母親の成育歴を、その両親の夫婦関係まで遡って調べ上げている点で、そこから、この母親自身が虐待(ネグレクト)を受けて育ったこと、その結果としての解離性障害と考えられる行動傾向が見られること、更には、加害女性が「女性は良き母親であるべき」という社会的規範に強く縛られていたことなどを導き出しています。

 こうした"解釈"については賛否があるとも思われ、このケースの場合、所謂"虐待の連鎖"に該当すると考えられますが、だからといってその罪が軽減されるものでもなく、また、他の虐待の事例において無暗に"虐待の連鎖"による説明を準用するべきものでもないと思います。更には、解離性障害についても、正常と異常の間に様々なレベルのスペクトラムがあり、また、母親が子どもを放置して男と遊び回っていたといったことが、そうした"障害"よってその罪を免れるものでもないでしょう。

 但し、本書を読むにつれて、この事件の背景には、母親個人の問題だけでなく、児童相談所の介入の失敗など(おそらくこの事例は事前に情報が殆どなく、児童相談所としてもどうしようもなかったのではないかとは思うが)、子ども達の危機的な状況を見抜けなかった行政機関の問題や、(離婚の原因が母親の浮気であったにせよ)殆ど親子を見捨てるような感じですらあった、離婚した父親及びその親族の問題などがあったことを知るこができました。

 とりわけ、裁判で父親側の遺族が母親に極刑を望んだというのは、虐待死事件において珍しいケースではないでしょうか。これまでの多くの虐待死事件では、遺族側も決して重い刑を望んではいないといった状況が大半で、家族間の殺人における卑属殺人は処罰感情の希薄さから刑が軽くなる傾向があったように思われ、一方、こうした加害女性本人と遺族側の対立というのはどちらかというと少数で、このこともこの事件の特徴をよく表しているように思います

 裁判では、検察側は、母親が最後に家を出た際に子ども2人の衰弱を目の当たりにしていたなどの点を挙げ、母親に殺意があったとして、無期懲役を求刑したのに対し、弁護側は「被告も育児放棄を受けた影響があった」として子どもに対する殺意はなく保護責任者遺棄致死罪に留まるとして、その主張には大きな隔たりがありましたが、結局、大阪地裁は、母親は子供に対する「未必の殺意」があったと認定、懲役30年の実刑判決を下し(本書にもある通り、二分した精神鑑定結果の"解離性障害"の方は採り上げなかった)、この判決及び判旨は最高裁まで変わることがありませんでした。

 個人的には、25歳の女性に懲役30年という判決は重いものの、被告はそれ相応の罪を犯したものと考えます。ただ、気になるのは、判決に応報感情が大きく反映されたのではないかという点であり(それは、判決によって事件を終わらせたいという遺族感情でもあるが、本書の狙いの1つは、被告個人に全てを押し付けてしまっていいのかという疑問の投げかけにあるように見える)、国家刑罰権は被害者(遺族)感情のみによって根拠づけられるものではないことは自明であるものの、実際にこの事件では、裁判官がより遺族感情に応えようとしたのではないかという気もします。

 逆の見方をすれば、今までの虐待死事件の判決が、逆の意味で「事件に蓋をしてしまおう」という遺族感情に応えてしまった結果、あまりにも軽いのではないかと―。勿論、量刑を重くすれば児童虐待が無くなるというものでもないでしょうが、全く抑止力にはならないとも言い切れないでしょうし、量刑の公平性の観点から見て、これまでの諸事件の初判決がおかしかったように感じます。

 教育機関や児童相談所の介入の失敗など例も、この事件に限らず、何度も繰り返されています。個人的には、児童虐待に特化したソーシャルワーカー制度を作って、プロを養成した方が良いように思います。米国などでは、ソーシャルワーカーのステイタス(社会的地位)は高く、その分、「介入」に失敗し、虐待やその再発を見抜けなかった場合は資格を失うなど(州によるが)、かなりのオブリゲーションを負っています。

 全体を通して真摯なルポであり、著者の見方の(主張と言うより、ルポを通じての問題提起となっているわけだが)その全てに賛同するというものでもないですが、これだけ調べ上げたというだけでも立派。事件そのものの重さもそうであるし、その背景にあるものの複雑さ、難しさからも、いろいろと考えさせられる1冊でした。

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憤慨し考えさせられた北関東の事件。2冊とも真摯なルポだった。

ルポ 居所不明児童.jpg  居所不明児童1.jpg FFN  ルポ 母子家庭.jpg
石川 結貴 『ルポ 居所不明児童: 消えた子どもたち (ちくま新書)』    小林 美希 『ルポ 母子家庭 (ちくま新書)

祖父母殺害2審.jpg 2014年春に北関東のアパートで祖父母を殺害して金品を奪ったとして強盗殺人などの罪に問われた少年(事件当時17)の控訴審で、東京高裁は今月['15年9月]4日、懲役15年とした地裁判決を支持し、弁護側の控訴を棄却、判決では「母親から少年に強盗殺人の指示があった」と認めたものの、「極めて重大な犯罪で、量刑を見直すには至らない」と指摘し、「刑が重すぎる」という弁護側の主張を退けました。この事件の経緯は本書 石川結貴『ルポ 居所不明児童―消えた子どもたち』('15年4月)に詳しく書かれています。

 少年は11歳から学校に通えず、一家で各所を転々としながらホームレス生活をする「居所不明児童」で、しかも義父から恒常的に虐待を受けており、母親と義父の指示で親戚に金銭を無心させられていて、高裁判決で裁判官も認定したように、母親が少年に(結果として事件と被害者となった)祖父母から「殺してでも借りてこい」と指示したとのことです。母親は老夫婦を殺害した公園で合流した少年に再び夫婦宅に行かせて現金約8万円やキャッシュカードを奪ったとのことです。本書によれば、母親は強盗・窃盗の罪で懲役4年6ヵ月の判決が確定して服役中で、息子の公判に証人として出廷した際には、「強盗殺人は私が指示したわけではないから、○○がどうしてそんなことをしたかわかりません」と他人事のように言ったとのこと。確かに、未成年ながらも2人を殺害した罪は重いですが、著者も判決に疑問を投げかけているように、相対的にみて母親の罪が軽すぎるように思いました。見方によっては、"主犯"は母親で、"実行犯"は息子であるというふうにも取れるのではないでしょうか(母親の罪が軽いのは刑法の落とし穴のように思える)。

 本書によれば、半世紀の間に2万4000人もの小中学生が学校や地域から消えているとのこと、本書では、冒頭の川口の少年のケースを初め、幾つかの「居所不明児童」に纏わる事件をリポートしていますが、往々にして児童虐待やネグレクトなどが「居所不明児童」の背景にあることが窺えます。

 一方で、そうした「居所不明児童」をチェックし、追いかけて、置かれている危機的状況から救い出すための行政の体制というものが、あまりに無策であることも、本書から窺い知ることができます。とりわけ、個人的にこれは問題だなと思ったのは、学校関係者が、児童が突然登校しなくなり、母子とも居所不明になっても、DVに遭ってシェルター(DV被害者の避難所)に入ったのだろうと勝手に推測して深く跡を追わなかったりすることで、近年、DV被害者が住民票を移さないまま居所のみを変えることが認められていて、児童がそれに付随している場合、新・旧居所の教員委員会はその情報を得ているが、元の学校には知らされていないとのことです。知らされていないから判らない、判らないから責任を負えないという学校側の言い分を許してしまうようなシステムに問題があると思われます。

 本書では、シングルマザーが育児放棄をするケースなどもリポートされていますが、これはDVの問題と併せて、同じ〈ちくま新書〉の小林美希『ルポ 母子家庭』('15年5月)で扱っているテーマに連なる問題でもあります。この本に出てくる何人かの女性たちは、生活のバランスが少しでも崩れると、瞬く間に再貧困になってしまい、望まぬ風俗で仕事したり、経済的な安定を求めて望まぬ再婚をしたりすることを繰り返しています。確かに、本書でも調査統計があるように、シングルマザーの場合、仕事に就くにあたって、子供がいるということで賃金が最初から抑えられる傾向にあり(その度合いは世界中で日本がダントツに高い)、社会の偏見や互助精神の欠如といったものを感じないわけにはいきません。しかし、一方で、『ルポ 母子家庭』では、自助努力と公助システムの活用などの組み合わせで、置かれている厳しい環境を乗り越え、健全に生活を成り立たせている母子家庭も紹介されています。高額歴または専門技能を持っていてそれなりの仕事につけて、お金で解決できる問題はお金で解決したとか、個々の条件の違いはあるかもしれませんが、全部を環境のせいにしてしまうのではなく、本人が努力することも大切であるし、母子家庭の育児をフォローし、子供の相対的貧困を減らす社会システムの整備、充実も今後もっと必要になってくるように思われました。

 個人的には、『ルポ 居所不明児童』を読んで、こんな鬼のような母親がいるのか、また、その犯した罪に対する罰がこの程度のものなのかと憤慨し、『ルポ 母子家庭』を読んで、妊娠が分かって姿をくらます男や結婚後は働かなくなる男など、こんな責任感ゼロ男がいるのかとまたも憤慨してしまいましたが、2冊とも真摯なルポであったように思います。

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入門書として分かり易く、また全体にバランスよく纏まっている。将来予測は興味深かった。

これだけは知っておきたい働き方の教科書.jpg
  あんどう・むねとも.jpg 安藤至大(あんどう・むねとも)氏[from ダイヤモンド・オンライン
これだけは知っておきたい働き方の教科書 (ちくま新書)

 NHK(Eテレ)の経済学番組「オイコノミア」やBSジャパン「日経みんなの経済教室」などにも出演している新進気鋭(だと思うが)の経済学者・安藤至大氏による「働き方」の入門解説書。1976年生まれの安藤氏は、法政大学から東京大学の大学院に進み、現在は日本大学の准教授ですが、最近はネットなどで見かけることも多く、売出し中という感じでしょうか。

 第1章で、「なぜ働くのか?」「なぜ人と協力して働くのか?」「なぜ雇われて働くのか?」といった基本的な疑問に答え、第2章で、「働き方の現状とルールはどうなっているのか?」「正社員とは何か?」「長時間労働はなぜ生じるのか?」「ブラック企業とは何か?」といった日本の「働き方の現在」を巡る問題を取り上げ、第3章で「働き方の未来」についての予見を示し、最終第4章で今自分たちにできることは何かを説いています。

 経済学者として経済学の視点から「労働」及びそれに纏わる今日的課題を分かり易く説明するとともに、労働法関係の解説も織り交ぜて解説しており(この点においては濱口桂一郎氏の著作を想起させられる)、これから社会人となる人や既に働いている若手の労働者の人が知っておいて無駄にはならないことが書かれているように思いました。

 まさに「教科書」として分かり易く書かれていて、Amazon.comのレビューに、「教科書のように当たり前なことの表面だけが書かれていて退屈だった」というものがありましたが、それはちょっと著者に気の毒な評価ではないかと。元々入門解説書として書いているわけであって、評者の視点の方がズレているのではないでしょうか。個人的には悪くなかった言うか、むしろ、たいへん説明上手で良かったように思います。

 例えば「正規雇用」の3条件とは「無期雇用」「直接雇用」「フルタイム雇用」であり、それら3条件を満たさないものが「非正規雇用」であるといったことは基本事項ですが、本書自体が入門解説的な教科書という位置づけであるならばこれでいいのでは。労働時間における資源制約とトレードオフや、年功賃金と長期雇用の関係などの説明も明快です。

 第2章「働き方の現在を知る」では、こうした基本的知識を踏まえ、日本的雇用とは何かを考察しています。ここでは、「終身雇用」は、高度成長期の人手不足のもとでのみ合理的だったと思われがちだが、業績変動のリスクを会社側が一手に引き受けることにより、平均的にはより低い賃金の支払いで労働者を雇うことができ、その企業に特有な知識や技能を労働者に身につけさせるという点においても有効であったとしています。また、法制度の知識も踏まえつつ、解雇はどこまでできるか、ブラック企業とは何かといったテーマに踏み込んでいます(著者は、解雇規制は緩和する前に知らしめることの方が重要としている)。

 更に第3章「働き方の未来を知る」では、著者の考えに沿って、まさに「働き方の未来」が予測されており、この部分は結構"大胆予測"という感じで、興味深く読めました。

 そこでは、少子高齢社会の到来によって近い将来、労働力不足が深刻化し、高齢者は働けるうちは働き続けるのが当たり前になると予測しています。更に、妻や夫が専業主婦(夫)をしているというのはとても贅沢なことになるとも。一方で、労働力不足への対処として外国人労働者や移民の受け入れが議論されるようにはなるが、諸外国の経験も踏まえて議論はなかなか進まないだろうともしています。

 また、機械によって人間の仕事が失われる可能性が今より高くはなるが、仕事の減少よりも人口の減少の方が相対的にスピードが速く、やはり、労働力を維持する対策が必要になるとしています。

 雇用形態は多様化し、安藤至大 (あんどうむねとも) (@munetomoando).jpg限定正社員は一般化して、非正規雇用も働き方の1つの選択肢として考えられ、また、社会保障については、企業ではなく国の責任で行われる方向へ進み、職能給や年功給は減少して職務給で雇われる限定正社員が増えるなどの変化が起きる一方で、新卒一括採用は、採用時の選別が比較的容易で教育コストなども抑えられることから、今後もなくならないだろうとしています。

 入門書の体裁をとりながらも、第3章には著者の考え方が織り込まれているように感じられましたが、若い人に向けて、今だけではなく、これからについて書いているというのはたいへん良いことだと思います。個別には異論を差し挟む余地が全く無い訳では無いですが、全体としてはバランスよく纏まっており、巻末に労働法や労働経済に関するブックガイドが付されているのも親切です(「機械によって人間の仕事が失われる」という事態を考察したエリク・ブリニョルフソン、 アンドリュー・マカフィー著『機械との競争』('13年/日経BP社)って最近結構あちこちで取り上げられているなあ)。
安藤至大 (あんどうむねとも) (@munetomoando)

《読書MEMO》
●目次
はじめに
第1章 働き方の仕組みを知る
1 私たちはなぜ働くのか?
生活のために働く
稼得能力を向上させるために働く
仕事を通じた自己実現のために働く
2 なぜ人と協力して働くのか?
自給自足には限界がある
分業と交換の重要性
比較優位の原理
比較優位の原理と使い方
「すべての人に出番がある」ということ
3 なぜ雇われて働くのか?
なぜ雇われて働くのか
他人のために働くということ
法律における雇用契約
雇われて働くことのメリットとデメリット
4 なぜ長期的関係を築くのか?
市場で取引相手を探す
長期的関係を築く
5 一日にどのくらいの長さ働くのか?
「収入-費用」を最大化
資源制約とトレードオフ
限界収入と限界費用が一致する点
6 給料はどう決まるのか?
競争的で短期雇用の場合
長期雇用ならば年功賃金の場合もある
取り替えがきかない存在の場合
給料を上げるためには
コラム:労働は商品ではない?

第2章 働き方の現在を知る
1 働き方の現状とルールはどうなっているか?
正規雇用と非正規雇用
正規雇用の三条件
7種類ある非正規雇用
非正規雇用の増加
2 正社員とはなにか?
正規雇用ならば幸せなのか
正社員を雇う理由
正規雇用はどのくらい減ったのか
3 長時間労働はなぜ生じるのか?
長時間労働の規制
長時間労働と健康被害の実態
なぜ長時間労働が行われるのか
一部の労働者に仕事が片寄る理由
4 日本型雇用とはなにか?
定年までの長期雇用
年功的な賃金体系
企業別の労働組合
職能給と職務給
中小企業には広がらなかった日本型雇用
5 解雇はどこまでできるのか?
雇用関係の終了と解雇
できる解雇とできない解雇
日本の解雇規制は厳しいのか
仕事ができる人、できない人
6 ブラック企業とはなにか?
ブラック企業はどこが問題なのか
なぜブラック企業はなくならないのか
どうすればブラック企業を減らせるのか
コラム:日本型雇用についての誤解

第3章 働き方の未来を知る
1 少子高齢社会が到来する
生産年齢人口の減少
働くことができる人を増やす
生産性を向上させる
2 働き方が変わる
機械により失われる仕事
人口の減少と仕事の減少
「雇用の安定」と失業なき労働移動
3 雇用形態は多様化する
無限定正社員と限定正社員
働き方のステップアップとステップダウン
非正規雇用という働き方
社会保障の負担
4 変わらない要素も重要
日本型雇用と年功賃金
新卒一括採用
コラム:予見可能性を高めるために

第4章 いま私たちにできることを知る
1 「労働者の正義」と「会社の正義」がある
「専門家」の言うことを鵜呑みにしない
目的と手段を分けて考える
会社を悪者あつかいしない
2 正しい情報を持つ
雇用契約を理解する
労働法の知識を得る
誰に相談すればよいのかを知る
3 変化の方向性を知る
働き方は変わる
失われる仕事について考える
「機械との競争」をしない
4 変化に備える
いま自分にできることは何か
これからどんな仕事をするか
普通に働くということ

おわりに

ブックガイド:「働くこと」についてさらに知るために

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日本的雇用の在り方に影響力を持ち得る視座を提起。第5編の提案部分の更なる深耕に期待。

日本の雇用と中高年.jpg  若者と労働.png      121201-講演と渾身の夕べ 1.jpg
日本の雇用と中高年 (ちくま新書)』『若者と労働 「入社」の仕組みから解きほぐす (中公新書ラクレ)』濱口 桂一郎 氏(社会保険労務士稲門会「講演と懇親の夕べ」2012.12.1講演テーマ「日本の雇用終了-労働局あっせん事例の分析」)

 同著者の『新しい労働社会』(岩波新書)、『日本の雇用と労働法』(日経文庫)、『若者と労働』(中公新書ラクレ)に続く新書第4弾であり、日本の雇用社会は仕事に人を割り振る「ジョブ型」ではなく、人に仕事を割り振る「メンバーシップ型」であって、それが時代の変化とともに歪みを生じさせているとの現状認識が出発点となっている点はこれまでと同様です。その意味ではこれまでの著書の「続編」との印象もありますが、著者の場合、意識して一作ごとに分析の切り口やフォーカスする論点の比重のかけ方を変えているようです。

 前著『若者と労働』では日本の若者労働問題を取り上げ、国際比較と歴史的分析をもとにその本質的構造を解き明かしてみせたのに対し、今回は、日本の雇用問題の中心である中高年問題、つまり、日本の中高年労働者がその人件費の高さゆえに企業から排出されやすく、排出されると再就職しにくいという問題を取り上げ、戦後日本の雇用システムと雇用政策の流れを概観しています。

 第1章から第4章において、日本の中高年問題の文脈を雇用システムの歴史的変遷に探り、続いて、日本型雇用において労働法や判例法理がどのように確立しどのような高齢者政策がとられてきたのか、また、年齢差別禁止政策という観点からはどのような歴史的変遷を辿ってきたのかを解説するとともに、「管理職」問題、中高年を狙い撃ちした成果主義や最近また議論が再燃しているホワイトカラー・エグゼンプションなど近年のトピカルな問題にまで言及しています。

 著者は、中高年や若者を巡る雇用問題を「中高年vs.若者」という対立軸で捉えてどちらが損か得かで論じることは不毛であり、雇用問題は雇用システム改革の問題として捉えることが肝要だとしており、ここまでに書かれている歴史的変遷も、それ自体「人事の教養」として知っておいて無駄ではないかと思いますが、ここでは、日本型雇用システムの歴史を探ることでその本質や特徴を浮き彫りにするという意図のもとに、これだけの紙数を割いているようです。

 そして、最終章である第5章において、前著『若者と労働』で若者雇用問題への処方箋として提示した「ジョブ型正社員」というコンセプトが、本書のテーマである中高年の救済策にもなるとしています。「ジョブ型正社員」の是非を巡る労使間の議論が、解雇規制緩和への期待や懸念が背景となってしまっている現状の議論の水準を超えて、労使双方にとって有意義な雇用システム改革という新展望の上に展開されているという点では、本書にも紹介されている1995年の日経連の『新時代の「日本的経営」』にも匹敵する、日本的雇用の在り方に影響力を持ち得る視座を提起しているように思われました。

 一方で、「ジョブ」の概念が明確でないのが日本の雇用社会の特質であるとしてきた著者のこれまでの論調の中で、「ジョブ型正社員」というものを今後どう構築していくかという課題は、その実現においてクリアにしなければならない多くの問題を孕んでいるようにも思えました。例えば、経団連の「人事賃金センター」は、かつて日経連時代には「職務分析センター」と呼ばれていたが、そうした名称が用いられなくなったこと自体が、「ジョブ」を規定しそれを日本的雇用の中で活用していくことの"挫折"とその困難を物語っているのではないかと。著者ももちろん、その困難さはよく解ったうえで、問題提起しているわけですが...。

 問題解決の一つの視点として、戦後の日本型雇用システムが企業内で労働者とその家族の生活をまかなうことを追求した結果、公的社会保障制度としてまかなわれるべきものが「メンバーシップ型」正社員の処遇制度の中に織り込まれ、それが中高年の年功賃金につながった―つまり、労働も福祉も一緒くたにして企業が負うことになったことを挙げており、これはなかなか穿った見方であるように思いました。個人的には、企業の福祉からの撤退を訴えた橘木俊詔氏の『企業福祉の終焉―格差の時代にどう対応すべきか』(2005/04 中公新書)を想起しました。橘木氏は、報酬比例の保険料徴収及び給付方式となっている厚生年金保険など国の制度も含め、企業福祉に社会的格差の拡大原因を認めています。

 しかし、終身雇用をベースにした長期決済型の年功制を維持している間も、生産性に見合わない高給取りの中高年が真っ先にリストラ対象となった折も、そうした本質の部分について議論されることが無かった(能力主義であるとか現状において生産性に比べて賃金が割高であるとかいう理屈の上に韜晦されてしまった)のは、「メンバーシップ型」という概念が概念として対象化されず、それでいて企業が、何よりも人事部を中心にその(メンバーシップ型という考え方の)中にどっぷり浸り切っていたためであり、こうして「メンバーシップ型」として概念化し対象化すること自体、意義のあることのように思います。

 では、今後の施策面を考えるとどうでしょうか。企業における中高年の人事施策において、専門職制度の導入というのが一時流行り、今でも多くの企業がその制度を維持しています。これが建前としては、今言っているところの「ジョブ型」でありながら、実態としては単なる「非ライン(管理職)」の処遇の仕方であったことは間違いないかと思われます。こうした実態がある中での「ジョブ型正社員」の新たな位置づけというのはどのようになっていくのか、これは、企業によっては「専門職」が(かつてサラリーマン漫画に描かれたような「窓際族」はすでに実態として多くの企業ではほぼ"絶滅"しているとみるにしても)、一般職の延長での仕事しかしていない「エキスパート」が主なのか、その中に相当数の「スペシャリスト」「プロフェッショナル」と呼ぶべき、企業にとって付加価値貢献度の高い、企業経営を存続させていくべきで必要欠くべからざる人材が含まれているのかによっても違ってくるように思われます。

 日本の若者雇用問題の解決策として、入り口のところで、「ジョブ型正社員」をスタンダードとしてみてはという提案は、それがどれぐらいのスピードで定着していくかは分かりませんが、かつて牧野昇(1921-2007)が『新・雇用革命』(1999/11 経済界)で指摘した、日本のサラリーマンが「社長レースからだれも降りない理由」は「負けても失うものが意外に少ないから」との指摘―つまり、「ゼネラリストとして成功しないより、スペシャリストとして成功した方が、それは幸福だろう。しかし、ゼネラリストとして成功しないことと、スペシャリストとして成功しないことの間には、大きな格差がある。だからスペシャリストを志向することはリスクなのである。少なくとも今まではそうであった」という、その「今まで」の在り方を見直すことにつながっていくでしょう。それに先立つこと12年前に津田眞澂(1926-2005)は『人事革命』(1987/05 ごま書房)において、「専門職能を持たない従来型のゼネラリストは不要になる」と予言しています。

 「ジョブ型正社員」を若者雇用に適用するにしても、従来の新卒採用面接の考え方のパラダイム変換が求められたりはするでしょうが(実際殆どの企業がそうしたパラダイム変換を経ることなく今日に至っているのではないか)、それでも処方箋としては中高年問題の解決において「ジョブ型正社員」の考え方を採り入れるよりはシンプルなように思われ、逆に言えば、それだけ、中高年の方は問題が複雑ではないかという気がします。

 その意味では、本書第5章を深耕した著者の次著を期待したいと思いますが、こうした期待は本来著者一人に委ねるものではなく、実務者も含めた様々な人々の議論の活性化を期待すべきものなのでしょう。そうした議論に加わる切っ掛けとして、企業内の人事パーソンを初め実務に携わる人が本書を手にするのもいいのではないでしょうか。

若者と労働s.jpg また、本書は著者の新書シリーズ第4弾ですが、第3弾にあたる『若者と労働』(中公新書ラクレ)もお薦めです。若者向けにブラック企業問題などにも触れていますが、それはとっかかりにすぎず、むしろ「新卒一括採用」という我々が当たり前に考えている仕組みが、グローバルな視点でみるといかに特殊なのものであるか分かるとともに、この「新卒一括採用」が日本型雇用システムの根底を形作っていることがよく理解できる本です。当たり前とみられすぎて再検証されにくい分、「新卒一括採用」の方が「中高年」の問題より根が深いかも―と思ったりもしました。

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批判もある本だが、尖閣・竹島・北方領土問題に関する基礎知識を得るうえでは参考になった。

日本の国境問題1.jpg 日本の国境問題2.jpg 中国のレーダー照射.jpg「レーダー照射で中国外務省"知らなかった"?」
日本の国境問題 尖閣・竹島・北方領土 (ちくま新書)』 中国外務省 華春瑩報道官(TBS NEWS/2013年2月6日)

 元外務省国際情報局長による本で、2010年以降、尖閣諸島で日中関係が緊迫して以来、尖閣・竹島・北方領土問題を巡る本が多く刊行された中で、実際に外交に携わってきた元官僚であり、その道の"権威"とされている人のものであるだけに、最もよく読まれた本の一冊ではないかと思われます。

 一方向的なナショナリズムの視点を離れて、相手国の視点も取り入れ冷静に国境問題の歴史的経緯を明らかにしてい ますが、その分、「尖閣についての中国側の主張を著者はそのまま肯定していて呆れてしまった」などと著者を"売国奴"呼ばわりするような批判も多く寄せられているようです。

 著者は以前からtwitterで、本書に書かれている内容を断片的に発信しており、その時から著者に対する批判もあって、ネット上で語調の強い遣り取りも見られましたが、本書においては冷静に歴史を見直し、解決に向けての道筋を見出そうとする姿勢が窺えたようにも思います。

 個人的には、竹島に関して日本古来の領土だと思っていたのが、本書を読んで若干認識が変わりましたが、例えば「竹島は米国地名委員会が韓国領と決定した」ことなどをもってきていることに対しても、一委員会の決定を引いてくるなど恣意的な資料抽出方法であり、中国におもねる姿勢がけしからん、との批判があるようです。

 但し、本書は一応そうした批判にも応えるような内容になっているように思われ、論拠の援用が"恣意的"であるかどうかということになると、もう素人レベルでは判断しようがないような気もします(著者はこの道の専門家中の専門家なんでしょ。結局、twitterでの著者への匿名攻撃がネット上のブックレビューで繰り返されているだけのようにも思う)。

 冒頭に、尖閣・竹島・北方領土問題の紛争では実際にアメリカが軍事介入する可能性はほぼない―日米安保は日本の施政下になければ適用されないため、これらは紛争の対象外となる、と述べていて、まあ、大方そうであろうし、経済面で相互に大きな恩恵を蒙っている日本と中国が戦争になる可能性も低いように思います。

 仮にそうした兆しがあるとすれば、それは、著者も様々な国際紛争の歴史の経緯を振り返ったうえで指摘するように、国際紛争を緊張させることによって国内的基盤を強化しようとする人物が現れた時でしょう。ネット右翼などがそうした人物を待望したり焚き付けたりする分には大したことないと思うけけれど、戦争によって利益を得ようとするグループが台頭してきたりするとマズいかも。

 興味深かったのは、尖閣問題は「棚上げ」とすることでの日中合意が、国交回復時の周恩来からその後の鄧小平へと引き継がれてきたのを、いま日本政府が「尖閣列島に日本古来の領土であり、国境問題は存在しない」と言うことは(竹島・北方領土については韓国・ロシアが同じようなことを言っているわけだが)、即ち先の「棚上げ」合意の否定であり、実はこれが中国の軍部や右派(ナショナリズム)勢力にとっては望むところであり、周恩来、鄧小平ら過去のカリスマ指導者の呪縛から解き放たれて、当該地域での軍事行動についての国民世論の賛同を得やすくなるという指摘でした。

中国のレーダー照射2.jpg 今回の中国艦船による「レーダー照射事件」などは、まさにその勢いでやったという印象。「照射しただけでしょう。戦争にはなりませんよ」「正当な私たちの国家の防衛的行動だと思います」という"北京市民の声"が報じられています。
 一方で、本書にもあるように、中国には日本との経済的互恵を優先して考えるグループがあるのも事実であり、中国も一枚岩どころか"三枚岩"状況みたいです。
「中国艦船が海自護衛艦にレーダー照射」2013年2月5日 17時50分 NHKニュース

 それにしても中国当局は軍部を末端まで統制しきれていないのか。中国外務省報道官の記者会見での「この問題については関連部門に聞いてください」とのコメントには、いつもの開き直りとは別に、歯切れの悪さが滲んでいました。著者は今回の事件について「一番大切なのは考えなければならないのは、軍事的な解決手段はないと分かるべき。どういうように紛争をエスカレートさせないか考える時期と思う。『なめられた』『なめられない』で国際関係を判断すると大変危険」であるとコメントしています。

 本書を読むと、そもそも国境というのは戦争や紛争の歴史と共に揺らいでおり、"古来の領土"というもの自体が、必ずしもそうハッキリ言えるものでもなかったりするということが分かり、もちろん外交交渉を通して国としての主張はしていかなければならないけれど、例えば対中国との交渉がその最たる留意事項になりますが、軍事的に対抗するという選択肢はないという前提に立ったうえでのそれであるべきかと思いました。

 では、どうすればよいかということについての提言も本書末尾に「九つの平和的手段」が挙げられていて、但し、やや抽象的で、類書のレベルを超えるものではなかったという印象を受けましたが、全体を通して、尖閣・竹島・北方領土を巡る国境問題に関する基礎知識を得るうえでは参考になった本でした。

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2010年までの先史人類学史の最先端。但し、まだ全体の1割ぐらいしか分かっていない?

ヒトの進化 七00万年史.jpg                       人類進化99の謎.jpg  人類進化の700万年.jpg
ヒトの進化 七00万年史 (ちくま新書)』['10年] 河合 信和 『人類進化99の謎 (文春新書)』 ['09年] 三井 誠 『人類進化の700万年―書き換えられる「ヒトの起源」 (講談社現代新書)』['05年]

 同じようなタイトルでの本で、人類学者の三井誠氏の『人類進化の700万年』('05年/講談社現代新書)を読んだ後に、科学ジャーナリストである著者の前著『人類進化99の謎』('09年/文春新書)を読んで、そちらはQ&A形式の入門書で、分かり易かったけれども、まあ、「入門の入門」という感じだったかなと。それで、今度も易しいかなと思って本書を読んだら、三井誠氏の『人類進化の700万年』よりも専門的で、結構読むのが大変でしたが面白かったです。

ラミダス猿人の化石人骨.jpg 冒頭で、700万年の人類の進化史には、①サヘラントロプスなど初期ヒト属の誕生(700万年前)、②初期型ホモ属(アフリカ型ホモ・エレクトスなど)の分岐(250万年前)、③ホモ・サピエンスの出現(20万年前)の3つの画期があったとし、本書前半部分は、700万年前から数十万年前までのホミニン(ヒト属)の発見史となっており、後半部分はネアンデルタール人やホモ・サピエンス(現生人類)を主に扱っており、三井誠氏の『人類進化の700万年』と比べると、"始まり部分"と"直近部分"が詳しいという印象。

ラミダス猿人(通称アルディ)の化石人骨(「Science」誌2009年10月2日)

 第1章(700万~440万年前)では、ラミダス(440万年前)と最古の三種(サヘラントロプス、ガタッパ、オロリン)について解説されており、「アルディ」と名付けられたラミダス猿人(アルディピテクス・ラミダス)のは発見には、日本人人類学者の諏訪元氏も関わっていたのだなあと。チンパンジーやゴリラとの最大の違いは、一雄一雌の夫婦生活を送っていたと考えられることらしいです(ホミニンであるということを定義する条件は「直立二足歩行」であるが、二足歩行と一夫一妻制の関係については、三井氏の著書に面白い考察がある)。

アファール猿人.jpg 第2章(350万~290万年前)は、アファール猿人(350万年前)についてで、アウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人)の脳の大きさは現生人類の3分の1程度ですが、既に人類固有の成長遅滞(脳がまだ小さいうちに産み、ゆっくりと時間をかけて育てる)の形跡が見られるそうです。

アファール猿人

 第3章、第4章では、東アフリカでの人類進化(420万~150万年前)、南アフリカでの人類進化(350万~100万年前)、の研究の展開を解説し。このあたりは、人類学者たちの発見競争のドラマにもなっています。

 第5章では、ホモ属の登場と出アフリカ(200万~20万年前)を扱っており、 人類進化の第2の画期が、約250万年前にホミニンの中からホモ属が分岐したことになるわけですが、初期ホモ属の起源と考えられるのはエチオピアで発見されたアウストラロピテクス・ガルヒであり、250万年前には、「オルドワン文化」と呼ばれる石器文化を形成していた形跡があり、200万年前にアフリカ型ホモ・エレクトスに進化し、その一部が「出アフリカ」を果たしたと考えられるとのこと、古生物学者は、石器によって肉食が容易になったことが、脳の大型化に繋がったとみているとのことです。

 第6章(40万~28万年前)では、現生人類(ホモ・サピエンス)の出現(20万年前)とネアンデルタール人の絶滅を扱い、ホモ・サピエンスの登場もアフリカでのことであり、彼らは更なる脳の大型化によって先の尖った繊細な石器を作り、長距離交易をするようになったが、それには相当の時間がかかったとみるのが妥当で、ホモ・サピエンスの「出アフリカ」は6万年前と考えられ、既にヨーロッパに居たネアンデルタール人と約1万数千年共存していたが、ネアンデルタール人の方が、文化的に進歩したホモ・サピエンスに圧倒されて滅びたのであろうと。

 このあたり来ると、形状的な進化の話だけではなく、象徴や言語、コミュニケーションといった人間的な進化についての近年の研究による知見も織り込まれてきます。

ホモ・フロレシエンシス.jpg こうして要約すると、人類進化の歴史がスムーズに繋がっているように見えますが、実際には詳細において不明な点は多々あり、また、最終第7章(100万~1.7万年前の)の「最近まで生き残っていた二種の人類」の中で紹介されているように、2003年にインドネシアの離島フローレス島で化石が発見された1.7万年前のホモ属と考えられるホモ・フロレシエンシスのように、その発見によってそれまでの人類学説をひっくり返してしまうような出来事も起きています(身長が1メートルそこそこしかない低身長だった。本書では、「ホモ・フロレシエンシス=アフリカ型ホモ・エレクトスの子孫」説を支持)。

サイエンスZERO 「衝撃の発見 身長1m 小型人類の謎」 (NHK教育/2009年10月17日放送)
   
 本書によれば、先史人類学史の解明状況は、ジグソーパズルで言えば300ピースのうち手元にあるのは30ピースぐらいであろうと。本書が刊行された'10年も"発見ラッシュ"の年だったようで、また新たな発見で、「(現在のところ)700万年」の人類学の歴史が、今後も大きく書き換えられる可能性があることを示唆しています。

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原爆、原発、劣化ウラン弾によってもたらされる内部被爆のメカニズムと、その隠蔽された危険性を明かす。

内部被曝の脅威 ちくま新書.jpg 『内部被曝の脅威 ちくま新書(541)』['05年]  肥田舜太郎.jpg 肥田 舜太郎 医師

 広島で被曝後、60年間にわたり内部被曝の研究を進めてきた肥田舜太郎医師と、社会派ジャーナリスト鎌仲ひとみ氏の共著。

 全5章構成のうちの第1章と第4章が、鎌仲氏による、イラクの劣化ウラン弾による被曝被害者の実情、及び、アメリカの原爆実験・原子力発電によってもたらされたと考えられる被曝被害状況などのリポートで、第2章と第3章が、肥田医師による、広島で原爆が投下された際の経験、自身が医師として被曝者の治療に当たった際のこれまで考えられなかったような特異且つ悲惨な死亡例と、振り返ってみればそれが内部被曝による原爆症によるものであったことを踏まえ、内部被曝とは何か、そのメカニズムと原発事故によってもたらされる可能性があるその脅威を解説、最終第5章は、唯一の原爆被爆国であるわが国が果たすべき役割についての両者の対談となっています。

 肥田医師の被爆体験及び被曝者の治療体験の記述には凄まじいものがありますが、爆心地から離れた場所にいて大量の放射線を浴びたわけではないのに、或いは、被爆後の爆心地に立ち寄っただけで直接"ピカ"には遭わなかったのに、その後に体調不良を訴え、猛烈な倦怠感を催し(外見的異状はないのに働けなくなるため「ぶらぶら病」と呼ばれた)、やがて動けなくなり、暫くして亡くなったケースなどが紹介されていて、当時はただただ不可思議に思っていたのが、研究を進めるうちに、呼吸や飲食を通じて体内に取り込まれた放射性物質が微妙な放射線を長時間にわたって体内から照射し続け、それが原爆症を引き起こしたり、何年も経ってからガンの発症を引き起こしたりしているという確信に至るようになります。

 原爆爆発と同時に放射された強烈な放射線に被曝して大量に即死させられた体外被曝とは対照的に、時間をかけて"ゆっくりと殺される" 内部被曝については、この言葉自体が、核兵器とその医学的被害に関心を持つ一部の医師の間で最近ようやく使われるようになったに過ぎないということです。

 体外被曝では透過性の低い放射線は届かず、主に透過性の高いガンマ線で被曝しますが、それは一過性のものであるため、壊された細胞(DNA)は修復されやすいが、内部被曝では、透過性の低いアルファ線、ベータ線のエネルギーがほとんど体外に逃げることなく人体に影響を与えることから、体内に摂取された際に危険なのはむしろアルファ線、ベータ線を出す核種であるとのことです。

 その内部被曝のメカニズムを科学的に解説する中で、むしろ低線量放射線の方が高線量放射よりも危険性が高いという「ベトカウ理論」を紹介するとともに、マウスを使った実験結果や実際の臨床報告などによる検証を行っています。

 肥田医師は、本書の大きな狙いは、「微妙な放射線なら大丈夫」という神話のウソを突き崩すことにあるとしていますが、よく年間何ミリシーベルトだとか、毎時何マイクロシーベルトまでなら大丈夫だとか言われているのも体外被曝のことで、少しでも体内に入ったら長期的に被曝し続けるため、微量な被曝であれば大丈夫というのは、本書によれば間違いということになります。

 それにも関わらず、今回の福島原発事故に関して政府や学者が「(外部被曝線量が)年間何ミリシーベルトなら大丈夫」と言っているのは、内部被曝のことを全く考慮していないわけであって、これを「ベトカウ理論」に対する学者の見解の相違ということで片付けてしまっていいのか、原発推進を飯のタネにしている御用学者らが言っている「大丈夫」説だけに、不安を覚えます。

 鎌仲氏の後半のリポートの中には、コロンビア川ほとりに9つの原子炉が建設されたハンフォード核施設の風下地域の住民の放射能汚染の実態と、それを隠蔽しようとする政府に対し、立ちあがって国を訴えた住民たちの闘いの記録がありますが、原子力大国アメリカは「被曝大国」でもあることを、新たに知ることができました。

 最終章の両者の対談にある鎌仲氏の、「本来であれば、日本は唯一の『自覚的な被爆国』として、被爆とは何たるかを世界に知らしめる役割を担うべきであったはずなのに、その責務を放棄して、現在のような原子力発電所大国になってきてしまって、核武装論まで出てきてしまっている。なぜこんなことになったんでしょうね」という問いかけに対し、肥田医師は、被爆の問題を、人間の生命との関わり合いの中で捉えていないことに原因の一端があるとしていますが、そうした人々の中には医療関係者や法律の専門家の多くが含まれるとのこと、優秀な人って意外とイマジネーション力が弱かったりすることがあるのか。

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就活ゲームの中で形成される"即席アイデンティ"が、ミスマッチの原因との分析は興味深かったが...。
豊田 義博 『就活エリートの迷走』.jpg 就活 image.jpg
就活エリートの迷走 (ちくま新書)

『就活エリートの.jpg 本書を読むまで「就活エリート」とは何を指すのか分からなかったのですが、本書における「就活エリート」とは、エントリーシートを綿密に作り込み、面接対策をぬかりなく講じて、まるで受験勉強に勤しむような努力をして、超優良企業へと入社していく若者のことを指していました。著者によれば、こうした「就活エリート」が、会社に入社してから、多くの職場で戦力外の烙印を押されているという状況が今あるとのことです。

 なぜ彼らは、肝心の社会生活のスタートで躓いてしまうのか、著者は、その原因が「就活」という画一化、パッケージ化したゲームにあるとし、このゲームの抜本的なルールを改変し、或いはゲームであることを中止しない限り、同様の犠牲者は生まれ続けると警告しています。

 著者はリクルートワークス研究所の主任研究員であり、就職活動がいかにして「就活」というゲームになったのかを、データをもとに俯瞰的に分析している箇所は、採用担当者が読んで、頷かされる部分も多いのではないでしょうか。
 そうした分析を通して、「自己分析」の流行や「エントリーシート」の普及が、就職活動の画一化、パッケージ化を促した背景要因としてあるとしています。

 就活エリートたちは、「やりたいものは何ですか?」というエントリーシートの問いが求めるままに、「自己分析・やりたいこと探し」に熱中し、就職活動という短い期間に自身のアイデンティティを確立してしまうが、そのアイデンティティは本物ではなく"即席"のアイデンティにすぎず、その際に抱いた「スター願望」や、「ゴール志向」とでもいうべき偏狭なキャリア意識が、逆に、彼らが入社後に迷走する原因となっているとの分析は、興味深いものでした。

 もう1つの原因として、「面接」重視の傾向を挙げていて、企業側が「面接」を極端に重視するあまり、その場で「自分」を作り上げてしまう就活エリートとの間で、同様の「ゲーム」が繰り返され、「面接」は形骸化し、その意義を失いつつあると。

 更には、採用コミュニケーションの在り方についても問題提起しており、新入社員の中には、企業側の巧みなPRにより、入社した会社に「恋」をしてしまっているような人が多くいるが、その分、入社後の理想と現実のギャップは大きくなり、そのことも、就活エリートたちが入社後に迷走する原因になっていると。

 前段の就職活動の変遷はデータに裏付けられており、中盤の就活の在り方と若者のメンタリティについて論じた部分も興味深く読めましたが、就活エリートたちの入社後の迷走についての実態は、城繁幸『若者はなぜ3年で辞めるのか』('06年/光文社新書)から引用するなどに止まっていて、あまり突っ込んだ解説がなされていないのがやや不満でした。

 また、最終章では、こうした状況を打破するための「就活改革」のシナリオが示されていますが、「採用活動時期の分散化」「採用経路を多様化」「選考プロセスの多面化」といった提案の趣旨には概ね賛同できるものの(「採用活動時期の分散化」は、個人的には疑問符がつくが)、前段の分析部分に比べるとやはり具体性に乏しいように思われ、「分析に優れ、提案に弱い」というのは、研究所系の本に共通して見られる傾向なのかも。

 むしろ、読んでいてずっと気になったのは、リクルートグループこそ、こうした就職活動の画一化、パッケージ化を促した就職関連企業の筆頭ではなかったかと思われることで、適性試験「SPI」や就職情報サイト「リクナビ」でどれだけ利益を上げたのかは知りませんが、例えば「インターネット就活」の促進というのも、著者は学生に広く機会を与えるものとしているようですが、結果として就職活動の画一化に「寄与」してしまっているのではないかと。

 そうした想いは、本書を読む採用担当者の多くが抱くであろうことは想像に難くないところですが、本書では、学生ばかりが悪いのではなく、企業側もこれからの採用活動の在り方を見直さなければならないというスタンスをとりながら、自らが行ってきたことに関しては、「あとがき」で、「私にも就活エリートの迷走を生みだした責任の一端はあると思っている」との個人的感想一言で片付けられてしまっているのは、こりゃあんまりだという気がしなくもありませんでした。

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読みどころは、「いじめ」問題にフォーカスした第1章か。

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友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)』 ['08年]

 著者によれば、現在の若者達は、「優しい関係」の維持を最優先にして、極めて注意深く気を遣い合いながら、なるべく衝突を避けよう慎重に人間関係を営んでおり、その結果、「優しい関係」そのものが、山本七平言うところの「空気」の流れを支配し力を持つため、その空気の下での人間関係のキツさに苦しみ、生きづらさを抱え込むようになっているとのことです。

 全5章構成の第1章では、「いじめ」問題にフォーカスし、そうした「優しい関係」がいじめを生み出すとしていて、「優しい関係」を無傷に保つために、皆が一様にコミュニケーションに没入する結果、集団のノリについていけない者や冷めた態度をとる者がいじめの対象となり、一方で、対人距離を測れず接近しすぎる者も、空気を読めない(KYな)者として、いじめの対象になるとしています。

 以下、第2章では、「リストカット」にフォーカスし、高野悦子『二十歳の原点』南条あや『卒業式まで死にません』を比べつつ、若者の「生きづらさ」の歴史的変遷を辿り、その背後にある自己と身体の関係を探るとともに、第3章では、「ひきこもり」にフォーカスし、或るひきこもり青年が発した「自分地獄」という言葉を手掛かりに、「ケータイ小説」ブームなどから窺える、現在の若者達の人間関係の特徴、純粋さへの憧れと人間関係への過剰な依存を指摘し、そこから第4章の「ケータイによる自己ナビゲーション」へと繋げ、更に第5章で「ネットによる集団自殺」を取り上げ、それはケータイ的な繋がりの延長線上にあるものだとしています。

いじめの構造.gif 個人的には、第1章の「優しい関係」を維持しようする集団力学がいじめを生み出すとした部分が最もしっくりきて、陰惨ないじめが(被害者側も含め)"遊びモード"で行われるということをよく説明しているように思え、同じ社会学者の内藤朝雄氏の『いじめの構造』('09年/講談社現代新書)が、付和雷同的に出来上がったコミュニケーションの連鎖の形態が場の情報となり、それがいじめを引き起こすとしているのと共通するものを感じました(章後半の、若者はなぜ「むかつく」のかということについては、『いじめの構造』の方がよく説明されているように思う)。

 但し、第2章以下で様々な社会現象を扱うにあたって、「優しい関係」というキーワードで全てを説明するのはやや無理があるようにも思われ、第2章の高野悦子と南条あやの「身体性」の違いの問題、第3章の若者が希求する「純粋性」の問題などは、それぞれ単独の論考として読んだ方がいいように思えました。

近頃の若者はなぜダメなのか.jpg 第4章の「ケータイによる自己ナビゲーション」は、博報堂生活総研の原田曜平氏の近著『近頃の若者はなぜダメなのか―携帯世代と「新村社会」』('10年/光文社新書) などに比べれば、社会学者らしい洞察が見られる分析ではあったものの、ここでも身体論が出てくるのにはやや辟易しました(「計算機も脳の延長である」とした養老孟司氏の『唯脳論』風に言えば、ケータイは身体の延長と言うよりもむしろ脳の延長ではないか)。

 全体として章が進むにつれて、他書物からの引用も多くなり、それらを引きつつ、牽強付会気味に仮説と「検証」を組み合わせているような感じもしました(文章的には破綻しておらず、むしろキッチリしていて且つ読み易く、その辺りは巧みなのだが、類似する論旨の他書を引いても検証したことにならないのでは)。

 まあ、こうやって仮説を立てていくのが、社会学者の仕事の1つなのでしょうが、検証面がちょっと弱い気もしました。
 著者の頭の中ではしっかり整合性がとれているのだろうけれど、読む側としては、社会における若者そのものよりも、むしろ社会学者の若者観のトレンドが分かったという感じでしょうか。

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写真も素晴しいが、体験と専門知識に裏打ちされた文章の内容がまたいい。

海野和男写真展ポスター(2009年1月・銀座Nikom Salon).jpg昆虫の世界へようこそ.jpg 『昆虫の世界へようこそ (ちくま新書)』 ['04年]

 今年('09年)の1月に東京と大阪で写真展が開催された、長野県小諸市にアトリエを構え、自然を記録している昆虫写真の第一人者・海野和男氏による写文集で、小諸近辺の身近な昆虫から熱帯の稀少な昆虫まで、その多彩な、また珍しい生態を写真に収めています。

 まず第一に、どの写真も極めて美しく、昆虫の目線で撮られたものがくっきりとした背景と相俟って、時に神秘的でさえありますが、どうしてこのような写真が撮れるのかと思ったら、著者なりの工夫の跡が記されていて、魚眼レンズを使っており、魚眼レンズは被写界深度が深いため、昆虫に焦点を合わせても、背景がそれほどボヤけないとのこと、より接写レベルが高くなると、今度はデジタルカメラ(またはデジタル一眼レフ)を使い、これも通常の一眼レフカメラなどより被写界深度が深いので昆虫撮影に向いているとのこと。
 まさに、被写界深度ぎりぎりのところでのテクニックが、こうした不思議な作品を生んでいるのだなあと。

 もう1つ、本書の更なる魅力は文章の内容で、昆虫を追って世界中を巡った自らの体験のエッセンスが詰まっていて読む方もわくわくさせられると共に、解説そのものが近年の科学的な研究に裏打ちされたものであること。
 それもそのはず、著者は大学で昆虫行動学を学んだ人で、但し、それらの表現は分かり易いものであり、また、昆虫の大きさや感覚、能力を人間に置き換えた喩え話などは、空想を刺激して楽しいものでもありました。

昆虫 驚異の微小脳.jpg 例えば、本書の2年後に刊行された昆虫学者・水波誠氏の『昆虫―驚異の微小脳』('06年/中公新書)の中に、「複眼の視力はヒトの眼より何十分の1と劣るが、動いているものを捉える時間分解能は数倍も高い。蛍光灯が1秒間に100回点滅するのをヒトは気づかないが、ハエには蛍光灯が点滅して見える。映画のフィルムのつなぎ目にヒトは気づかないが、ハエには1コマ1コマ止まって見えるのだ」とありましたが、本書では、「私たちにはスムーズに見えるテレビも、カマキリに見せたら、こんな性能の悪いテレビをよく平気で見られるなと思うかもしれない」(16p)とあります。

 「1センチメートルほどのこのアリ(グンタイアリ)が人と同じ大きさだとすると、実は時速120キロメートル近い速度で歩き続けていることになる」(27p)、「ハラビロカマキリは交尾中にオスがメスに頭からバリバリと食べられてしまうことが多いらしい。それでもオスはけなげにも交尾を続ける。昆虫の場合脳がなくなっても身体の各部を制御する神経節が生きていれば、このようなことが可能なのだ」(97p)等々、他にも興味深い話が満載。

 昆虫の生態を体験的に知っているだけでなく、その機能等についての知識もきちんと持っていて、それでいて「かもしれない」「らしい」といった控えめな表現が多いのは、謙遜というより、まだまだ未知のことが多い自然界に対する、著者なりの畏敬の念の表れであるとみました。

デジタルカメラで撮る海野和男昆虫写真.jpg もし、著者の撮った昆虫写真をもっと大判で見たい、或いは、どこでどのようにして撮ったのか詳しく知りたいというのであれば、より「写真集」的性格の強い『デジタルカメラで撮る海野和男昆虫写真―WILD INSECTS』('06年/ソフトバンククリエイティブ)などはおススメではないでしょうか。

 新書に比べれば、2,600円と少し値は張りますが、国内外の昆虫写真を収めた著者の作品の厳選集で、親子ででも楽しめるものになっているかと思います。
 表紙のテングビワハゴロモやヒョウモンカマキリなどカラフルな昆虫も多く紹介されていますが、個人的には、15センチメートルにもなるサカダチコノハナナフシの迫力が最も印象に残りました。

デジタルカメラで撮る海野和男昆虫写真 -wild insects』 ['06年]

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宮﨑勤、小林薫、宅間守の心の闇に迫るとともに、審理の在り方や死刑制度への疑念を呈す。

ドキュメント死刑囚.jpg ドキュメント死刑囚2.jpg  篠田 博之.jpg 篠田博之 氏(月刊「創」編集長)
ドキュメント死刑囚 (ちくま新書)』['08年]

 幼女連続殺害事件の宮﨑勤元死刑囚、 奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚(2013年2月21日、大阪拘置所で死刑執行)、大阪教育大学附属池田小学校襲撃事件の宅間守元死刑囚の3人にほぼ的を絞った取材であり、しかも、宮﨑勤、小林薫とは、著者は手紙の遣り取りがあっただけに、彼らにとって死とは何なのか、その凶行は特殊な人間の特殊な犯罪だったのか、極刑をもって犯罪者を裁くとはどういうことなのか

 読み進むうちに、それぞれの事件や本人の性格の共通点(例えば3人とも激しく父親を憎悪していた)、相違点が浮き彫りにされてきますが、著者自身、彼らの「心の闇」が解明されたとは考えておらず、むしろ、宅間守にしても宮﨑勤にしても、そいうものが明かされないまま刑が執行されてしまったことへの慙愧の念と、こうしたやり方が果たして同タイプの犯罪の抑止効果に繋がるのかという疑念が、彼らの犯行や生い立ち、裁判の経過についての(トーンはあくまでも)冷静なルポルタージュの紙背から滲んでくるように思いました。

宮崎勤死刑囚.jpg 宮﨑勤の精神鑑定は、当初の「人格障害」だが「精神病」ではないというものに抗して弁護側が依頼した3人の鑑定人の見解が、「多重人格説」(2名)と「精神分裂病」(1名)に分かれ、本人の「ネズミ人間」供述と相俟って「多重人格説」の方が有名になりましたが、「人格障害」は免罪効を有さないという現在の法廷の潮流があるものの、個人的には一連の供述を見る限り、「人格障害」が昂じて「精神病様態」を示しているように思えました(但し、犯行時からそうであったのか、拘禁されてそうなったのは分からないが)。

小林薫.jpg 小林薫については、殺害された被害者が少女1名であるにも関わらず死刑が確定しているわけですが、「死刑になりたい」という供述が先にあって、後から「少女が亡くなったのは事故だった」という矛盾する(しかし、可能性としては考えられなくも無い)供述があったのを、弁護側が、今更それを言っても却って裁判官の心証を悪くするとの判断から、その部分の検証を法廷で行うことを回避し、結局は死刑判決が下ってしまっているわけで、個人的には、死刑回避と言うより真相究明という点で、弁護の在り方に疑問を感じました。

宅間守.jpg 宅間守については、ハナから本人が「早く死刑にしてくれ」と言っており、先の2人以上に人格的に崩壊している印象を表面上は受けますが、一方で、弁護人などに書いた手紙を読むと、極めて反社会的な内容でありながらもきっちり自己完結していて、著者が言うように彼の精神は最後まで崩壊していなかったわけで、そうなると、結果として、国家が本人の自殺幇助をしたともとれます(但し、宅間については、アメリカで銃乱射事件を起こす犯人にしばしばみられる脳腫瘍が、彼らと同じ部位にあったという説もある)。

 著者は、こうした人間に死刑を宣告することは、罪を償わせるどころか、処罰にさえなっていないのではないかと疑問を呈していますが、まさにその通りだと思いました。
 "贖罪意識"の希薄性という意味では、「コミケ」の開催日を気にしていたという宮﨑勤にしても、殆ど自棄になっているとしか思えない小林薫にしても、同じことが言えるでしょう。

 43ページにある宮﨑勤の幼い頃の屈託の無い写真が印象に残りました(この少年が、将来において重大な犯罪を犯し、死刑に処せられたのだと)。
 本書を読んで感じたのは、社会的にいじめられたとか弱者であったということ以前に、家族との愛情の絆が断ち切られたとき、彼らは深い絶望にかられ、閉ざされた闇の世界の住人になるであって、そうしたメカニズムをもっと解明することが、犯罪の抑止に繋がるのではないかと。

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お気楽と言えばお気楽。印象に残ったのは、山崎朋子(の話)と諏訪根自子(の写真)か。

美人好きは罪悪か?.jpg『美人好きは罪悪か?』 .jpg     選ばれる男たち―女たちの夢のゆくえ.gif
美人好きは罪悪か? (ちくま新書)』['09年]  信田さよ子 『選ばれる男たち―女たちの夢のゆくえ (講談社現代新書)』 ['09年]

 信田さよ子氏の『選ばれる男たち-女たちの夢のゆくえ』('09年/講談社現代新書)に、おばさんたちが「うぶで無垢な王子」を愛でることを、ある種"レジスタンス"として奨励する記述がありました。

 それに比べて、この本の著者なんかは、何のしがらみもなしに、身近な女性から、女流作家、映画女優、歴史において名を成した女性まで挙げて、美人だとか、美人だが自分の好みではないとか言っているわけで、そうした意味ではお気楽と言えばお気楽、男ってこんなものかな。ただ、公の場では普通やらないけれど...(著者に限ってのこととして言えば、「もてない男」だったはずが、結婚して余裕ができすぎた?)

 本の趣旨は、「小説のヒロイン、ロリコンや萌え、髪型やヌード、歴史上の美人などさまざまな観点から、新しい『美人論』を展開する」ということのようですが、「雨夜の品定め」みたいな感じで最後までいっちゃってるようにも思えました。

 但し、博覧強記、あらゆる方面からマニアックな"美人ネタ"を持ってくるため、部分部分は面白い箇所が結構ありました(表紙帯にもある、あの「南極1号」の末裔である「ラブドール」の話などは、何だか入れ込み過ぎてしまっているみたいだが)。

 特に後半、谷崎潤一郎の「美人」観などは、著者の専門領域に近いわけですが、「春琴抄は気持ち悪い」とかいうこの著者独自の見方や表現はともかく、春琴を傷つけたのは誰かと言う推理は、今までもこのテーマで語られたものを読んだことはありますが、文献などを丹念に調べ、理路整然としたものになっているように思えました。

 でも、最も印象に残ったのは、終盤に出てくるノンフィクション作家の山崎朋子(1932‐)と、ヴァイオリニストの諏訪根自子(1920‐)かなあ。                                            
宮本笑里.jpg諏訪根自子.jpgサンダカンまで.jpg とりわけ山崎朋子は、美人であるがゆえに凄まじい経験(ストーカーまがいの男に顔を傷つけられ、生涯消えない傷跡となった)をしたように思われました(書かれていることは、彼女の自伝『サンダカンまで―わたしの生きた道』('01年/朝日新聞社)に拠っているようだが)。
 諏訪根自子は、若い頃の写真の美しさが印象に残りました。ヴァイオリニストって、時にこうした美少女が現われるように思われ、今で言えば、美人としてのタイプは異なりますが、'07年にアルバム「smile」でCDデビューした宮本笑里(1982-)などはその系譜ではないかと。
サンダカンまで―わたしの生きた道』['01年/朝日新聞社] 諏訪 根自子(写真提供:キングレコード)/宮本笑里

川上未映子
川上未映子.jpg 川上弘美の作品を読むときには「川上弘美の美貌を想起せずにおれない」と書いていますが、そういう傾向は、男性読者に限らず女性読者でも同じではないかなあ。好き嫌いは別として、本書にも出てくる川上未映子も然り。エッセイとかを読むと、彼女自身も、自分でも「読まれる」と同じくらい「見られる」という"意識"はあると書いていますが。

 本書は、「一冊の本」での2年間('07〜'08年)の連載を纏めたもので、「後記」に、「その間に結婚したから、(中略)美人がどうこう、といったことには興味がなくなり、連載を続けるのも難しくなったが、何とか二年間続けることができた」とありました(これを読んで、やや脱力)。

週刊朝日 2009年12月4日増大号.jpg 週刊朝日 2009年12月4日増大号 (表紙:宮本笑里)

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データの裏づけが十分にあり、一般にも読みやすいホワイトカラーの現状分析。

貧困化するホワイトカラー.jpg 『貧困化するホワイトカラー (ちくま新書)』 ['09年]   森岡孝二.jpg 森岡 孝二 氏

窒息するオフィス.jpg 労働経済学者による本で、第1章で、ホワイトカラーとは何かその原像をアメリカに探る一方、アメリカにおけるホワイトカラーの置かれている情況を、データを交え分析していますが、著者はジル・A・フレイザー『窒息するオフィス―仕事に強迫されるアメリカ人』('03年/岩波書店)の訳者でもあり、米国労働事情に対する造詣の深さを感じました。

 第2章、第3章では、日本のホワイトカラーの現状を、データを交えながら分析し、ホワイトカラーのこれまで以上に"搾られる"ようになっている現状と(ああ、アメリカと同じことになっているなあ)、過労死・過労自殺事件の判例から、その働かされ過ぎの実態を考察しています。

 第4章では、上場企業を中心に日本のサラリーマン社会における女性差別について考察、賃金差別撤廃などの裁判上のこれまでの女性たちの闘いを追い、第5章では、「ホワイトカラー・エグゼンプション」について、経済界と政府がいう「自由で自立的な働き方」とした説明の"嘘"を指摘しています。

働きすぎの時代.jpg 前著『働きすぎの時代』('05年/岩波新書)もそうでしたが、この著者の書くものはデータの裏づけが十分にあり、参考文献や資料の読み込みもしっかりして、それでいて、学術書然とせず、一般にも読みやすいものになっている点に感心させられます(ルポルタージュ的視点が織り込まれていることもあるが)。

 個人的には、ホワイトカラーというものの増加傾向が既に止まっていること、管理職の過労死・過労自殺発生率が高いこと、ホワイトカラーの方がブルーカラーより労働時間が長くなっていること、労働時間の性別二極化が進んでいること等々多くのこと知り、収穫がありました。

 「ホワイトカラー・エグゼンプション」については、すでに残業がつかない労働者が2割いて、その中には「名ばかり管理職」として実態適用されている人が相当数おり、裁判になれば企業が負ける―その危険を回避するために、経済界と政府が持ち出したものであると。

 偽装請負などについても同様のことをいつも思うのですが、裁判になれば企業側が負けているのに、法律自体は見直さずにきた(急に規制のみを強めた)立法府(及び行政)にも問題があるのではないかと思った次第です。
 本書では、トヨタ関連企業での過労死を労災認定しなかった豊田労基の例が紹介されていますが(後に行政訴訟で労基側が敗訴)、大企業の中には裏口であの手この手の労基署対策をやっているところもあるのは確か。

 労働側の学者が書いた本ということで、企業側の人にはあまり読まれないかも知れませんが、産業構造・労働実態の変化を俯瞰する上でも参考になり、「賃金労働者とホワイトカラーの際立った違いの一つは、賃金労働者は彼の労働とエネルギーとスキルを売るが、ホワイトカラーは、多数の消費者、顧客、管理者に対して、自己の労働を売るだけでなく自己のパーソナリティを売る」(C・W・ミルズ、1957)といった引用にも、だからホワイトカラーの疲弊度は増すのだなあと納得させられたりしました。

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「味方のように微笑む美女が、じつは悪魔であったということもある」ことを考えさせられた。

雇用はなぜ壊れたのか  .jpg大内 伸哉 『雇用はなぜ壊れたのか』.gif    大内 伸哉.jpg 大内 伸哉 氏(略歴下記)
雇用はなぜ壊れたのか―会社の論理vs.労働者の論理 (ちくま新書)

 雇用問題の中には、会社が利益を追求する「会社の論理」と、労働者が自らの権利を守る「労働者の論理」の2つの論理があり、経済の激変で両者の調整が一段と難しくなった今、どうすれば両者の論理を比較衡量し、調整が図れるかということを、セクハラ、長時間労働、内定取消、期間工の解雇、正社員リストラなど、雇用社会の根本に関わる11のテーマを取り上げ、それぞれについて対立軸を行き来しながら考察した本です。

 従って、表題の「雇用はなぜ壊れたのか?」というその原因を明らかにする内容ではなく、そのためミスリード気味のタイトルではないかということで、書評ブログなどでも評価が割れているようですが、個人的には、本書から、多くのことを考えさせられる契機を得られました(ブログなどでは、結論が明確でない、或いは立場が「会社の論理」に偏っているといった批判もあったようだが、そう簡単に結論が出せるような問題でもないし、考察の進め方は至極まっとうなものだと思う)。

 法学者らしくない柔らかめの文体で、但し、内容は労働法と雇用社会の関係を考察して深く、例えば、解雇規制を強めることや最低賃金を引き上げることは、それが労働者の権利を守ること繋がると言い切れるのか、といったことを解り易く問題提起しています。

 自分個人がかつて経験したこととして、ハローワークに営業職の求人を出したものの同業種経験者の採用はならず、異業種の若手営業経験者を採用内定した際に、内定後に、「示された給与額が求人票の額より下回っているのは違法だ」と言ってこられたことがありましたが、ハローワークに出した労働条件と実際の労働条件が異なることは必ずしも違法ではないと考え、本人に提示額の根拠説明をし、額の変更は行わなかったということがありました。
 もし、法規制が強化されて、こうしたことが即違法となるならば、企業は低い給与額の(給与額に幅のある)求人を出して対処するかも知れませんが、むしろこうしたケースでは、本命筋の採用は出来なかったということで諦める可能性が高く、仮に当時からそうだったとすれば、この営業職(今もその会社で正社員として元気に働いている)の入社は無かったでしょう。

 先述のように「会社の論理」に立っているとの批判もありますが、「使用者は、労働者の国籍、信条又は社会的身分を理由として、賃金、労働時間その他の労働条件について、差別的取扱をしてはならない」という労基法3条の「社会的身分」とはどこまでをいうのか、パートタイマーや非正社員の給与が正社員より低い場合は「均等待遇」原則に反しないかという問題について、「社会的身分」とは、自らの意志では離れることのできない「生来の身分」をいい(通達)、パートタイマーや非正社員といった雇用形態の違いは該当しないと解されていることに対し、これは詰まるところ「自己責任論」であり、疑問の余地があるとしています。

 本書では、「会社の論理」「労働者の論理」に加えてもう1つ「生活者の論理」というものを取り上げていて、著者によれば、日本人は少しでも豊かな生活をしたいという「生活者の論理」が「労働者の論理」に優先するという選択をしているとのことで(イタリア人などは逆)、但し「生活者の論理」が一方的に「労働者の論理」に優先するのではなく、その両者の均衡が日本的経営の強みだった(長時間労働もするが雇用は確保されている)とのこと。

 (著者自身は格差社会を是認しているわけでもないし、正社員と大きな賃金格差のある非正社員がいることは社会正義に反するとしている。その上で、)例えば、正社員と非正社員との均衡をとるということは、格差問題(貧困問題)の一時的な処方箋とはなり得るかもしれないが(実際、最低賃金法やパート労働法の改正はその流れに沿って行われてきた)、この「生活者の論理」と「労働者の論理」の間のバランスを壊すことになりかねないとしています。
 この辺りは、実際に本書を手にして読み込み、それぞれの読者が自ら考えていただきたいところですが、「味方のように微笑む美女が、じつは悪魔であったということもあるのである」(219p)と。
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大内 伸哉 (オオウチ シンヤ)
1963年生まれ。法学博士。専攻は労働法。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。現在、神戸大学大学院法学研究科教授。主な著書に『労働条件変更法理の再構成』『労働者代表法制に関する研究』(以上、有斐閣)、『雇用社会の25の疑問』『労働法学習帳』(以上、弘文堂)、『労働法実務講義』『就業規則からみた労働法』(以上、日本法令)、『どこまでやったらクビになるか』(新潮新書)など。

《読書MEMO》
●「ちくま 458号」 (筑摩書房)の一部を転載((神戸大学のサイトより)
「拙著『雇用はなぜ壊れたのか?-会社の論理vs.労働者の論理』は、実は、雇用が壊れた原因を明らかにしようとした本ではない。 むしろ、本書で描きかったのは、雇用が壊れる過程における、会社の論理と労働者の論理の関わり合いについてである。 これらの論理の関わり合いを明らかにすることを通して、筋の通った正しい政策はどのようなものかを模索していきたかったのである。 それは、必ずしも会社にも労働者にも「甘い」ものばかりではない。正義の女神は、剣をもっている。母のように「甘える」ことは危険なのである。」

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ちくま新書というより「日経文庫」的。もっとコンサルタント的視点や提言を入れてもよかった。

日本の賃金9.jpg日本の賃金.jpg 『日本の賃金―年功序列賃金と成果主義賃金のゆくえ (ちくま新書)』 ['08年]

 人事・賃金コンサルタントによる本で、日本の賃金の歴史、日本の賃金が抱えている問題点、日本企業にとって望ましい賃金制度とはどのようなものか、基本給や諸手当は今後どうなっていくか、賞与制度の方向性や賃金格差の今後、退職金制度の将来などについて書かれていますが、あまりに網羅的・教科書的で、「日経文庫」を読んでいるよう錯覚を感じました。

 「日経文庫」でもコンサルタントが書いているものがありますが(例えば、『職務・役割主義の人事』('06年/長谷川直紀 著)は外資系コンサルティング会社マーサー・ヒューマンリソース・コンサルティングのコンサルタントによるもの)、あちらは最初から入門書であることを意図したものであり、結果的に網羅的・教科書的であることがままあるのも仕方ないとして、本書については「ちくま新書」に収めるのにこの内容は如何なものかと思ってしまいました。

パートタイマーのトータル人事制度.jpg 実務書としては分かり易い良い本も書いている著者なので、もう少しコンサルタント的視点や提言を入れてもいいのではないかという気がしながら読んでいましたが(タイトルだけでは本書の企図が見えにくいのも難点)、そうしたものは終わりの方の賞与制度や賃金格差について述べたところで少し出てきたかなという感じで、個人的には肩透かしを喰った感じでした。

パートタイマーのトータル人事制度―資格・考課・賃金制度構築のすすめ方

 最初から「教科書」だと割り切って、勉強のつもりで読めばそれほど悪い本でもないと思うのですが、そうした「お勉強」志向で「ちくま新書」を手にする読者がどれぐらいの割合でいるだろうかとか、賃金制度の業務に携わったことの無い人には字面(じづら)だけではイメージしにくい部分があるのではないかとか、要らぬ気を揉んでしまいました(文章自体が読みにくいわけではないが)。

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「働き方」を今一度考えさせられると共に、「仕事術」の体験的指南書でもある。

働き方革命.jpg   駒崎 弘樹.jpg 駒崎 弘樹 氏(略歴下記) NPO法人フローレンス.jpg http://www.florence.or.jp
働き方革命―あなたが今日から日本を変える方法 (ちくま新書)』 ['09年] 

 著者は、学生時代に起業したITベンチャー出身の人で、今は、自らが立ち上げた会社を共同経営者に譲渡し、子供が病気になり普通の保育園などで預かってもらず、そのために仕事を休まねばならないようなワーキングマザーのために、そうした子供を預かる所謂"病児保育"専門の託児所のネットワーク作りをしているNPO法人「フローレンス」の代表、と言っても、まだ29歳の若さです。

 今までの日本人の働き方、人生を会社に捧げるような仕事中心の人生観、その割には低い生産性、といったことに対する疑問からスタートし、ITベンチャーの経営者として、それこそ身を粉にして仕事をしてきた自分を振り返り、そこから脱却していく思考過程が1つ1つ内省的に綴られていて、「働く」ということに対する根源的な思索となっている上に、新たに自分が描いたライフビジョンをどう行動に移していったかが、ユーモアを交えて語られています。

 自分だけが自己実現やワークライフバランスの実現をすればいいというのではなく、社会実現(あるべき社会像の実現)を通しての自己実現ということを念頭に置き、社員、パートナーや親・家族、社会が豊かな人生を享受できるようにするためには自分がどうしたらよいかということを具体的に行動に移しています。

 その手始めとして、自らが経営者である会社の「働き方」(仕事のやり方)をどう変えていったか、どう仕事の「スマート化」していったかということが、論理的・実践的に紹介されていて(いきなり「とりあえず定時に帰れ、話はそれからだ」というのも凄いといえば凄いけれど)、仕事術(メール術・会議術・報告術・残業しない術...etc.)の指南書にもなっています。

 ここで言う「スマート化」が、例えば「『長時間がむしゃら労働』から『決められた時間で成果を出す』」ということとして表されているように、個人的にはこの著者に対して、やはり何事においても徹底してやる「モーレツ」ぶりを感じなくもないし、著者の抱く家族観や人生観も、新たなことを提唱しているのではなく、ある種"原点回帰"的なものに過ぎないような気もしなくもありませんでした。

 でも、「働く」とは「傍」を「楽」にすることであり、その「傍」とは家族だけなく地域や社会に及ぶという発想や、「『成功』ではなく『成長』」、「『目指せ年収1000万円』ではなく『目指せありたい自分』」、「『キャリアアップ』ではなく『ビジョンの追求』」、「『金持ち父さん』ではなく『父親であることを楽しむ父さん』」といったキーワードの整理の仕方などに、通常の啓蒙書(著者は啓蒙書が好きでないみたいだが)には無い視座が感じられました。

 「働き方革命」をしたら、会社でトラブルがあって倒産の危機に見舞われる、こうなったのも「働き方革命」したせいだと、今までやってきたことを全否定するような心境になった、というその話の落とし処も旨い、とにかく全体に読むものを引き込んで離さない文章の巧みさ(自分を3枚目キャラとした小説のように描いている)、もしかしたら、その点に一番感服したかも。

 ただ、そうした文章テクニックはともかく、「働くということ」「働き方」について今一度考させられると共に、「仕事術」の体験的指南書としても、一読して損は無い本でした。
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駒崎 弘樹 (コマザキ ヒロキ)
1979年生まれ。99年慶応義塾大学総合政策学部入学。在学中に学生ITベンチャー経営者として、様々な技術を事業化。同大卒業後「地域の力によって病児保育問題を解決し、育児と仕事を両立するのが当然の社会をつくれまいか」と考え、ITベンチャーを共同経営者に譲渡し、「フローレンス・プロジェクト」をスタート。04年内閣府のNPO認証を取得、代表理事に。著書に『「社会を変える」を仕事にする 社会起業家という生き方』(英治出版)がある。2012年までに東京全土の働く家庭をサポートすることを志す。

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またまたタイトルずれ? 特殊な人だけ拾っても...。

3年で辞めた若者はどこへ行ったのか.jpg 
若者はなぜ3年で辞めるのか?.jpg若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来 (光文社新書)』['06年]
3年で辞めた若者はどこへ行ったのか アウトサイダーの時代 (ちくま新書)』['08年]

 『若者はなぜ3年で辞めるのか』('06年/光文社新書)の続編と思われますが、今度は〈ちくま新書〉からの刊行で、〈webちくま〉の連載に加筆修正して新書化したものとのこと。

 前著では、「年功序列」を日本企業に未だにのさばる「昭和的価値観」としていて、そこから企業のとるべき施策が語られるのかと思いきや、働く側の若者に対し「昭和的価値観」からの脱却を呼びかけて終わっていましたが、本書では、実際にそうして企業を辞め、独立なり転職なりした、著者が言うところの「平成的価値観」で自らのキャリアを切り拓いた人達を取材しています。

 ですから、タイトルからすると労働問題の分析・指摘型の内容かと思われたのですが、後から書き加えたと思われる部分にそうした要素はあったものの、実際には、どちらかというと働き方、キャリアの問題を扱っていると言えるかも知れず、こちらも少しずつタイトルずれしているような気が...。

 紹介されている人の全てがそうだとも言えないけれど、(著者同様に)高学歴でもって世で一流と言われる企業に勤め、業界のトップの雰囲気や先端のノウハウに触れた上で起業なり独立なりを果たした人が中心的に取り上げられているような気がし、同じ「若者」といっても産業社会の下層で最初からそうしたものに触れる機会の無かった人のことは最初から眼中にないような印象を受けました。

 こうした特殊な人ばかり取り上げて(その方向性の散漫さも目につく)、「辞めた若者」の一般的な実態には迫っていないんじゃないかなという気がしますが、転職に失敗した人に対しては、前著『若者はなぜ3年で辞めるのか』にある"羊 vs.狼"論で、「彼ら"転職後悔組"に共通するのは、彼らが転職によって期待したものが、あくまでも『組織から与えられる役割』である点だ。言葉を換えるなら、『もっとマシな義務を与えてくれ』ということになる。動機の根元が内部ではなく外部に存在するという点で、彼らは狼たちと決定的に異なるのだ」と既にバッサリ斬ってしまっていたわけです。

 元々著者自身が、企業の中で学習機会に恵まれた環境のもと大事に育てられた人なわけで、この人が「キャリア塾」的な活動をするとすれば、対象としては大企業に今いて一応レールに乗っかっている人に限られるのではないかと思われ、個人的にはそうした活動よりも、企業向けのコンサルティング的提言をしていく方がこの人には向いているのではないかと、老婆心ながらも思いました(『内側から見た富士通-「成果主義」の崩壊』('04年/光文社ペーパーバックス)は悪い本ではなかった。むしろ、大いに勉強になった)。

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"体験小説"風「就活記録」。「読み物」を書くことが目的化している本?
若者はなぜ正社員になれないのか.jpg 若者はなぜ正社員になれないのか2.jpg     高学歴ワーキングプア.jpg
若者はなぜ正社員になれないのか (ちくま新書)』['08年] 水月 昭道 『高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院 (光文社新書)

 本書は、「大学を出た後、2年近くふらふらしていた人間が心を入れ替えて開始した一連の就職活動」の顛末の記録ということで、著者は大学院卒であることから、水月昭道氏の『高学歴ワーキングプア』('07年/光文社新書)の実体験版と言えなくも無く、但し、「若者はなぜ正社員になれないのか」という労働問題上の一般論的なタイトルを謳いながら、「いかにも新書的に社会を俯瞰する形で解答を提示することを僕はしない」として、結果として"体験小説"風の本に仕上がっている(それに終始している)のはいかがなものでしょうか。

 企業の採用活動の現場やそこに集まる学生達の様子が結構生々しく綴られていて、読み物としてはまあまあ面白かったりもするのですが、そうした「読み物」を書く事が目的化しているみたいで、ああ、結局この著者は文筆業で身を立てていくつもりでいて、本書はその足掛かりなのだなあと勘繰りたくなってしまいます(その分、書かれている就職活動の内容に、今ひとつ著者自身の真剣さが感じられない)。

 どういう本にするのか編集者ともう少し詰めて欲しかった気がし、編集者側から提示されたタイトルをそのまま受け入れ、但し、内容は自分の書きたいことを書いているという感じ。
 本来ならばタイトルそのものを拒否すべきだろうけれども、こうした"妥協"ぶりも、著者の就職活動いい加減ぶりと重なるような...(著者自身も、内容との整合性を重視するより、"売れそうな"タイトルを選択した?)。

 本書に対する個人的評価を星1つにせず星2つとしたのは、採用面接で落ちまくる自分のダメさ加減や、企業の担当者や一緒に受けた周囲の学生に対する印象などが素直に描き表わされていて、気持ち的には大いに共感(同情?)をそそられる面があったため(やっぱり小説なんだなあ、これ)。

 但し、最後の方にある就職活動者に対するアドバイスなどになると、やけに保守的な部分とフザケ気味な部分が混在していて、著者自身がやや分裂している感じもし(就職試験で落ちまくる学生も、就活の終盤に来ると分裂状態を呈することがあるが)、「不安定の意義」なんて考え始めるとドツボに嵌るのであんまりそんなことは考察しないで、是非、自分の身の丈に合った「安定」を追求していただきたいと思います。

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労働規制緩和の流れと'06年以降の規制の強化傾向を解説するも、ブログ本の域を出ず。

労働再規制.jpg 『労働再規制―反転の構図を読みとく (ちくま新書)』 ['08年]

 '95年以降進められてきた労働規制の緩和政策が、'06年以降、労働規制の強化傾向に転じているその流れを、'08年9月の福田康夫首相の辞任表明など最近の政局を絡めて、或いはまた、その前の、経済財政諮問会議、総合規制改革会議などを軸とした小泉純一郎首相の「構造改革」路線、更にはずっと前、'95年の日経連「新時代の『日本的経営』」の成り立ち等も含めて解説しています。

 歴史的な変遷はわかり、また読んでいるうちに著者の"立ち位置"もわかってくるのですが、記述に先入観を持たれまいとするためか、敢えて自ら立場のことは前面に出していない―、このやり方が今ひとつ肌に合わなかったです(本書は、自らのブログ記事からの転用も多いが、ブログの中では、自分は「リベラル」以上の「左翼」であるとはっきり言っている)。

 経済界による「ホワイトカラー・エグゼンプション」導入の動きが国民的反発を招いたのは、「残業代ゼロ法案」というふうに表現されたことが「躓き石」だったとする経済界自身の"敗因分析"に対し、それが「労働実態を無視したまま」の議論だったことを真の原因として指摘していますが、そうした著者の論拠さえ、学者の言説を引いて思い入れのある側に軍配を上げているようにもとれなくもなく、すっきりとした解説になっているようには思えませんでした。

 個人的には、'95年の日経連の"その後の市場原理主義的な規制緩和を導いたとして悪名高い"「新時代の『日本的経営』」について、それを書いた日経連の小柳勝二郎賃金部長が、「雇用の柔軟化、流動化は人中心の経営を守る手段として出てきた。これが派遣社員などを増やす低コスト経営の口実としてつまみ食いされた気がする」(2007.5.19 朝日新聞)というコメントが興味深く、この「つまみ食い」論には同感です(「新時代の『日本的経営』」をちゃんと読んだ人がどれだけいるのか)。

 但し、これは「朝日新聞」の記事を引用したにすぎないもので、著者もこの内容自体は否定しておらず、「つまみ食いしたのは誰か」という話へと移っていっています。
 読んでいくと、「宮内」さんとか「牛尾」さんとかの名前が出てきてそこそこに面白いのですが、この人、政・財界ウォッチャーなの?(ブログでは、池田信夫氏と論争して優勢みたいだけれど、まあ2人の論争は"内ゲバ"みたいなものだなあ)

 こんな役割の人がいても別に構わないと思うけれど、こういう本は、読んでいる時の面白さほどには読後感が深まらないような気がしました(池田信夫氏がわざわざ「読んではいけない本」という言ほどの影響力のある本だとは思えないのだが)。

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企業のメンタルヘルス対策の底の浅さ、考課システムから抜け落ちるアナログ面を指摘。

職場はなぜ壊れるのか3.jpg職場はなぜ壊れるのか.jpg        こんな上司が部下を追いつめる.jpg
職場はなぜ壊れるのか―産業医が見た人間関係の病理 (ちくま新書)』『こんな上司が部下を追いつめる―産業医のファイルから (文春文庫)

 前著『こんな上司が部下を追いつめる-産業医のファイルから』('06年/文芸春秋、'08年/文春文庫)は、職場で業務に追われて過労死し、或いはそこまでいかなくとも、精神的余裕を失っている労働者の背後には、部下の仕事をマネジメントする意識が薄く、何らサポートせず何もかも部下に押しつけて部下を追い込み、人材潰しをしている上司がいることを、産業医の視点からリアルに指摘していましたが、働く側の共感を得るところが大きかったのか、よく売れたようです(それなりの数の上司たる人も読んだとは思うが)。

 但し、「こうした問題を組織体としてどうするかを考えるのがカイシャではないか」という意見も前著には寄せられたようで、個人的にも、サラッと読めて終わってしまった物足りなさのようなものがありましたが、本書はそれに応える形で、上司個人の問題からより踏み込んだ「職場の人間関係」に視野を拡げ、その背景にある人事システム、端的に言えば「成果主義」に対する、問題点の指摘と批判を行っています。

 前半部分は、事例を挙げて前著をリフレイン(現象面の表記)している感じでしたが、中盤から、成果主義がもたらした職場における人間関係の変容や、目標管理・人事考課制度の問題点などを指摘していて、ぐっと考察が深まる感じ。
 但し、成果主義に警鐘を鳴らしながらも、それに代わるシステムを提唱することは、(ここまで企業の人事制度等の内実に通暁していれば、出来ないこともないのだろうが)「専門外」であるとして敢えて行っておらず、そのことに対する批判もあるかも知れませんが、個人的にはむしろ、自らの専門領域に留まることで、メンタルヘルス対策に対する国や企業、医療関係者のあり方への痛烈な批判の書となっているように思えました。

 例えば、過労自殺を巡る裁判のあった会社の「結果を厳粛に受け止め、社員の健康管理について改善を進めたい」というコメントに対し、「労働衛生の3管理」と言われる「作業環境管理、作業管理、健康管理」は、この順番で優先されるべきであり、「健康管理」よりも先に「作業環境管理」や「作業管理」を行わなければならない(社員を守るのは「健康管理」ではない)と著者は述べていますが、この点をわかっている経営者はどれぐらいいるでしょうか。

 ひと月当たり100時間を超える時間外労働をした人が疲労を訴えた場合は、医師による面談を行うことが、安衛法の改正により義務づけられましたが、労働者が「ノルマが達成できない」と言えば「達成できるノルマに代えてもらったら?」と言い、「仕事が終わらない」と言えば「社員を増やしてもらったら」と医師が言うだけでは、労働者にとっては何ら解決にならず、却って落ち込むというのは、確かにその通りで、労基署の監督官などにも、これに近い対応が見られるのではないでしょうか。

 人事制度そのものには踏み込んでいないものの、目標管理と人事考課のデジタルな連動には大いに疑念を挟んでいて、個人的には成果主義そのものが悪であるとは思わないのですが(著者自身も、そうした仕組みを入れざるを得ない業態があることを認めている)、人事考課がゲーム感覚となり、人事のアナログの部分が抜け落ちてしまうことを著者が指摘している点は、大いに共感しました。

 アナログ面、例えば、職場のモラルとか...。上司が部下を立たせたまま長時間にわたり説教してたり、女子社員が机に伏して泣いているのに周りの社員は「またか」と言う感じで仕事を続けている、といった職場は、どれだけ業績を上げていても、やはり「壊れている」のだろうなあ。

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利権グループの代表としての中国の政治家たち。旧勢力は簡単には死なず。

「中国問題」の内幕.jpg 清水 美和.jpg ポスト胡錦涛.jpg from NHK
「中国問題」の内幕 (ちくま新書 706)』['08年]清水 美和 東京新聞・中日新聞論説主幹(1953-2012

 日本の政治家が外交面の交渉力に劣るのは、国内での政治抗争などエネルギーが内向きに働いているためで、そのために中国の政治家のように外交面ではしたたかさを持ち得ないなどといった見方がありますが、本書を読むと、中国の政治家の方が、まるで「十八史略」の続きのような壮絶な権力抗争を続けていて、その上で外交面においてもしたたかさを発揮していることがわかり、その凄まじいエネルギーに改めて感服させられます。

温家宝.jpg 本書は、東京新聞のベテラン記者(元中国総局長)が、主に'05年からから2年余りの中国の時事問題を追ったもので、'06年以降に記事として発表したものを新書に纏めたものですが、対象時期は限定的であるものの、中国の政局の動向を通して、政治家の問題、外交問題、国内問題の本質がそれぞれに浮かび上がるようになっていると思われました。
温家宝

胡錦濤.jpg 冒頭、'07年4月に訪日した温家宝・首相の、国会演説の原稿にあった部分をわざと(?)読み飛ばしてジョークにすり替えるなどしたパーフォーマンスに潜む真意を通して、その政治的したたかさを解明していますが、本書の「主人公」は、中国№1の権力者である胡錦濤・国家主席であり、胡錦濤が前任者・江沢民の一派をいかに弱体化させるか、その腐心の過程を描いているようにも思えました。
胡錦濤

 中国には、胡錦濤の出身母体である「共産主義青年団(共青団)グループ」と、江沢民勢力の残滓であるが経済面で強い影響力を持つ「上海グループ」(上海閥)があり、更に、共産党の長老とその師弟を中心とした「太子党」も依然国の有力な地位を占めていて、収賄や汚職など"腐敗度"のひどい順で言うと、「太子党>上海閥>共青団」となるようですが、要するに、中国の政治家というのは、特定の利益団体の代表であり、新任者が前任者の腐敗を暴き、権力の座からグループごと放逐するということが繰り返され、また、各グループは権力の中枢に自らの代表を送り込むべく、常に虎視眈々と機を窺っているのだなあと。

 そうした政治家の権力争いと平行して、国内には「格差問題」などがあり(内地では依然「人身売買」が横行していて「奴隷制度」があるとの言われ方もしているとのこと)、更に、外交では、「歴史問題」「台湾問題」などがありますが、本書を読むと、日本に対する「歴史問題」は"外交カード"としての要素もあり(確かに江沢民は日本首相の靖国参拝問題などに執着したが、それが国内からの批判を受ける要因にもなった)、中国が本当に固執しているのは「台湾問題」(更には「チベット問題」)であるように思えました。

鄧小平.jpg江沢民.jpg 元々は、あの鄧小平が「自分の次は江沢民、その次は胡錦濤」と指名したのが現在に至っているわけで、江沢民が胡錦濤への権力移譲を渋ったのも、自分が胡錦濤を選んだわけではないからですが(「上海閥」から「共青団」への権力移行になってしまう)、但し、彼は既に「歴史問題」で求心力を失っていた―。
江沢民
習近平と夫人の彭麗媛
習近平李克強合傳.jpg習近平.jpg習近平夫人の彭麗媛.jpg では、今や胡錦濤の天下かと言うと、'07年10月の中全会(全人代の事前党大会)で、自らが後継に推す"改革派"の李克強より上位に「太子党」を母体とする"既得利益擁護派"の習近平(清華大学卒の理系エリートで、夫人は軍所属の有名歌手・彭麗媛)をもってこざるを得なくなっている―(議会に投票制を採用した結果でもあるが)、本当に、この国の"旧勢力"というのはシブトイ。

 本書はここまでですが、その後、'08年3月にチベット暴動が起き(胡錦濤は'89年のチベット暴動の時にチベットの党書記をしており、武力鎮圧した事で昇進した)、5月には胡錦濤自身が来日して「友好」をアピール、それから1週間もしないうちに四川大地震が起きるなど、中国情勢は目まぐるしい...。
 

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読ませ所はあったが、こういう挟み方はちょっと...。
こんなに使える経済学.jpg こんなに使える経済学 6.jpg   経済学的思考のセンス.jpg
こんなに使える経済学―肥満から出世まで (ちくま新書 701)』['08年] 『経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには (中公新書)』['05年]

 大阪大学の大竹教授の研究グループ(社会経済研究所)のメンバー約20名が執筆分担して、「週刊エコノミスト」に連載した経済エッセイを新書に纏めたもので、社会制度の設計はインセンティブを無視しては成り立たず、そのような仕組みを考えるうえで、経済学的思考法は"使える"―との考えのもとに、肥満や喫煙のメカニズムを解いたり、出世や談合、耐震偽装といった問題を経済学の視点から分析したりしています。

 身近な話題が多く、「美男美女への賃金優遇は不合理か」とか「出世を決めるのは能力か学力か」といった話も、統計分析の考え方を主眼に話を進めているので、どうやって統計を取るのか? とりあえず結果は?という方へ関心が行き、すんなりは入れるのではないかと思われます。

大相撲.jpg 個人的には、「談合と大相撲の共通点とは」という章の、千秋楽に7勝7敗の力士が8勝6敗の力士と対戦した場合の勝率は8割に近く、翌場所、同じ力士に当たった際の勝率は4割に半減する、といったデータなどは興味深かったです。

 ただ、基本的には、大竹氏の『経済学的思考のセンス』('05年/中公新書)の前半部分の手法を、執筆分担制にしただけの"二番煎じ"であり、前著はまだ後半部分において、労働経済学の観点から公的年金やワークシェアリング、年功賃金や成果主義、或いは所得格差の問題を考える際に、こうした統計学的な考え方やインセンティブ理論を応用してみせていたのですが、本書は、単なる軽い読み物で終わってしまっている気も...。

 連載の新書化だからしょうがないかな(前著も、連載と他の発表論文の組み合わせだったが)と思いきや、いきなり、「不況時に公共事業を増やすべきか」などというモロなテーマが出てきて、書いているのは、大竹氏の研究所の先輩にあたる小野善康氏(巻末の執筆者一覧で、1961年生まれになっていたが、これは1951年生まれの誤りでしょう)であり、しっかり小野流の「構造改革論」を展開しています。

 読ませ所はあったわけですが、こういう挟み方はちょっと...と思うのは、偏狭過ぎるでしょうか。

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中学受験への問題提起? それとも、受験必勝法? 主題分裂気味な面も。。

中学受験、する・しない?.jpg 『中学受験、する・しない? (ちくま新書)』['01年] 秘伝 中学入試国語読解法.jpg 石原千秋 『秘伝 中学入試国語読解法 (新潮選書)』 ['99年]

ウディ・アレンのすべて.jpg 以前に、受験生の父親が書いた中学受験に関する本で定評のあるものとして、作家・三田誠広氏の『パパは塾長さん』('88年/河出書房新社)、国文学者・石原千秋氏の『秘伝 中学入試国語読解法』('99年/新潮社)、テレビ局社員・高橋秀樹氏の『中学受験で子供と遊ぼう』('00年/日本経済新聞社)を読みましたが、本書はこれらの後に出た本の中では好評のようで、個人的には、ボブ・グリーンやマイク・ロイコのコラム翻訳、或いはブロードウェイ・ミュージカルの入門書やウディ・アレンの評伝などで親近感のある著者の書いたものであるということもあり、また、タイトルの「する・しない?」にも少し惹かれて手にしました。

 著者自身、2人の娘の中学受験を経験したわけですが、前3著ほど、そのことについて詳しく書かれているわけではなく、また、どこの学校を受けて、どこに入ったというような学校名も書かれておらず、「中学受験のあるべき姿」を一般論として論じています。

 本書で著者が強調していることは、偏差値に振り回される時代は終わり、子どもの性格に合った塾や学校選びをせよということであり、例えば、大学受験をしなくてすむ大学附属校などの出身者は、おっとりした性格の人が多いなどというのは、当たっているような気がしました。

 私立の中・高一貫校は、本書が書かれた頃には既に人気の的になっていたわけで、著者は、公立校復権の気運に対し、所得による教育の不公平性を排除するために、有名大学への進学を目指した公立の中・高一貫校を一部に作るのはいい、但し、そうした学校をやみくもに増やして、公立学校の中に再び偏差値によるピラミッドを作ることはやめるべきだと言っています。

 私立の受験日を平日にもってくるべきではない、受験科目数を減らすべきだなどの提言はマトモですが、あとがき的に書かれている程度で、そのほかには言い切れてない部分も少なくなく、全体としてインパクトが弱いような...。
 そもそも、一方で、「現在の日本の中学受験の『勝者』となる方法」を本書のテーマとして挙げていて、「中学入試偏差値一覧」(これ、見易い)なども載せているため、主題分裂気味な面もあり、少なくとも「する・しない?」の「しない」は、最初から除かれているような感じ(私立の小学校受験については、公立ので「いろいろなタイプの人たちと交流することが大事」だというのが著者の意見)。

 麻布中学の国語問題を載せ、その長文の長さと難易度の高さに、「嫌でも大変でも、これが現実」としていますが、読者をびっくりさせているだけのような気もし、石原千秋氏が、中学受験の国語問題を多く取り上げながら、それらに潜む一定の価値観への指向性を指摘した『秘伝 中学入試国語読解法』の方が、"批判"と"実用"の両方を(巧妙に)兼ね添えていると言えます。
 専門分野の違いもあるかと思いますが、だったら、受験英語についての問題点を指摘してみてはどうかなあ(既にやっておられれば、失礼しました)。

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「メランコリー親和型うつ病」というものを通して、"日本人という「うつ病」"を考える。

うつを生きる.jpgうつを生きる (ちくま新書)』['02年]日本人という鬱病.jpg 芝 伸太郎『日本人という鬱病』['99年]

メランコリー.jpg うつ病の中に「メランコリー親和型うつ病」という種類があり、これは、律儀、几帳面、生真面目、小心な、所謂、テレンバッハが提唱したところの「メランコリー親和型性格」の人が、概ね40歳以降、近親者との別離、昇進、転居、身内の病気などを契機に発症するものですが、職場での昇進などを契機に責任範囲が広がると、全てを完璧にやろうと無理を重ね、結果としてうつ病に至る、といったケースは、よく見聞きするところです。

 著者は、「メランコリー親和型性格」というのは平均的な日本人の性格特徴であり、和辻哲郎の『風土』など引いて、それに起因するうつ病というのは、日本の"風土病"であるとも言えるとして、これは、前著『日本人という鬱病』('99年/人文書院)のテーマを引き継ぐものです。
 また、日本の社会における「贈与」(ボランティア活動なども含む)とは、「交換」と密接に結びついていて(結局は、どこかで相手に見返りを要求している)、そうしたことが「うつ病の発生母地」になっていると。
 確かに、うつ病による休職者などは、会社に対して借りを作っていうような気分になりがちで、ある種の経済的な貸借関係の中に自らの休職を位置づけてしまいがちな傾向があるのかも。
 では、どうして日本人がそうした心性に向かいがちなのかを、本書では、文学、哲学、経済など様々な観点から考察し、貨幣論やマックス・ウェーバーの社会学にまで言及しています。

木村 敏.jpg 「メランコリー親和型性格」をキーワードに日本人論を展開したのは、著者の師であるという木村敏(1931- )であり、その他にも、中井久夫、新宮一成ら"哲学系"っぽい精神病理学者を師とする著者は、一般書という場を借りて、自らの思索を本書で存分に展開しているように思えます。
 うつ病本体から離れて、形而上学や日本人論にテーマが拡がっている分、一般のうつ病経験者などが本書を読んだ場合、どこまでそれに付き合うかという思いはありますが、これが意外と共感を呼ぶようです。
 それぐらい、「メランコリー親和型性格」というものを指摘されたとき、それが自分に当て嵌まると感じる人が、うつ病経験者には多いということなのかも知れません。

 そうした性格を否定するのではなく肯定的に捉えている点も、本書が共感を呼ぶ理由の1つだと思いますが(その点でタイトルの「生きる」に繋がる)、思考しながら読み進むことで、そうした自らの心性を対象化し、ものの考え方が良い方向に変容するという効果もあるのかも知れないとも思いました。

 個人的に興味深かったのは、不況(depression)とうつ病(同じく、depression)の相関についての考察で、「メランコリー親和型うつ病」というのは、返済不能な負債を負った際などに発症するものであり、会社で給与カットやリストラに遭ったりして発症するものではなく、折角昇進(昇給)させてもらったのに、それに見合った仕事ができていない、などといった状況で発症すると。
 だから、不況下では、それ以外の精神疾患は増えるかも知れないが、「メランコリー親和型うつ病」は減ると―。

 そんな機械的に割り切れるものかなという気もしますが(リストラした会社に対する負債は無いが、家族や援助者への負い目などはあるのでは?)、「メランコリー親和型うつ病」の特性を考えるうえでは、わかりやすく、また興味深い仮説かも知れないと思いました。

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分析は多面的で鋭いが、「特殊」か「普遍」かテーマが見えてきたところで終わっている印象。

「かわいい」論.jpg「かわいい」論 (ちくま新書)』['06年]Cawaii!(カワイイ) 2008年6月号.jpg 雑誌「Cawaii!(カワイイ)」

 ポケモンやセーラームーンなどのキャラクター商品で世界を席巻する「かわいい」大国ニッポンにおける「かわいい」とはそもそも何なのか、それが日本から発信されたことの意味を問ううえで、改めて「かわいい」を徹底分析した本。

 太宰治の「女性徒」から枕草子にまで遡って「かわいい」の来歴を探り、大学生のアンケート調査などからこの言葉の持つ多面性を示すほか、古今東西の芸術からグロテスクなものと隣り合わせにある「かわいい」の位置を示し、日本人の心性にある「小さく幼げなもの」への志向や、ノスタルジー、スーヴニール(記念品)としての「かわいい」、成熟することへの拒否の表現としての「かわいい」...etc 極めて多面的に「かわいい」の本質に迫ろうとしています。

CUTiE 2008年5月号.jpgゆうゆう 2008年6月号.jpg 但しここまでは、テーマの周囲をぐるぐる回ってばかりいるようにもやや感じていたのが、その後の女性誌における「かわいい」の分析において、ティーン層向け雑誌「Cawaii!(カワイイ)」、「CUTiE」から「JJ(ジェイジェイ)」、更には中高年向けの「ゆうゆう」までとりあげ、中高年向けの雑誌にも「大人のかわいさが持てる人」といった表現があることに着目しているのが興味深かったです。

雑誌「CUTiE」/雑誌「ゆうゆう」

 本書によれば、TⅤアニメの国内消費量は10%で、残り90%は海外での消費であり、日本発「かわいい」は消費社会のイデオロギーとして世界中に浸透し、例えば本書に紹介されている「ハイ!ハイ!パフィー・アミユミ」の如く、すっかり無国籍化されたかのように見えますが、一方で、米国などでは「キティちゃん」の卒業年齢が比較的早期にあるのに、東南アジアでは、大人になっても受容されるなど、その受け入れられ方に、地域によって差異があるという。

「ハイ!ハイ!パフィー・アミユミ」/ムック「もえるるぶ」
ハイ!ハイ!パフィー・アミユミ.jpgもえるるぶCOOL JAPAN オタクニッポンガイド.jpg 「かわいい」が日本の「特殊」な文化なのか((「かわいい」へのこだわりや、そこからいつまでも抜け出せないこと)、それとも「普遍」的なものなのか、興味深いテーマが見えてきたところで、本書は終わってしまっているような観もあります。

 '80年代に浅田彰、中沢新一らと並んでニューアカブームの旗手とされ、また、サブカルチャーにいち早く注目した著者の(映画論、漫画・アニメ論は近年の社会学者の必須アイテムみたくなっているが、この人の場合、年季の入り方が違う)、本書におけるスタンスは意外と慎重だったという印象。
                                    

 全体を通して鋭い分析がなされていて、秋葉原の「オタク」文化や池袋の「腐女子」文化の取材は面白く、また、「かわいい」がもたらす"多幸感"が、政治的道具になり得ることを示した終章は重いけれども、「分析」にページを割いた分、テーマが見えてきたところで終わっているという印象が、どうしてもしてしまうのですが。

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重症うつ病の"現場"を見てきているという自信が感じられる内容。「うつ病」の怖さを痛感。

うつ病.jpgうつ病―まだ語られていない真実 (ちくま新書 690)岩波 明.jpg 岩波 明 氏(精神科医/略歴下記)

Hemingway.bmpMargaux Hemingway.jpgMargaux Hemingway in Lipstick.jpg 自殺したヘミングウェイが晩年うつ病でひどい被害妄想を呈していたとは知らなかったし、近親者にうつ病が多くいて、彼の父も拳銃自殺しているほか、弟妹もそれぞれ自殺し、孫娘のマーゴ・ヘミングウェイ(映画「リップスティック」に主演)までも薬物死(自殺だったとされてる)しているなど、強いうつ病気質の家系だったことを本書で知りましたが、うつ病を「心のかぜ」などというのは、臨床を知らない人のたわごとだと著者は述べています。
Ernest Hemingway/Margaux Hemingway

 ただし本書によれば、こうした遺伝的気質などによる「内因性うつ病」と、心因的な「反応性うつ病」を区分する従来の二分法は症状面からの区別が困難で、内因性うつ病でも近親者の死など身近な出来事が誘引として発症することがあるため、DSM‐Ⅳではこれらは大うつ病という用語で一括りにされており、一方、軽症うつも、「神経症性うつ病」と従来呼ばれていたのが気分変調症(ディスサイミア)」と呼ぶようになっているとのこと。こうした病名は時代とともに変わるようでややこしい。
 実際、「軽症うつ」という概念は、「大うつ病」「気分変調症」を除く"軽いタイプのうつ病"という意味で最近まで用いられており(時に「気分変調症」も含む)、本書はどちらかと言うと、「軽症うつ」を除くディスサイミア以上の重い症状を扱った本と言えるのでは。

 うつ病(ディスサイミア)の症例として、被害妄想から自宅に放火し、自らの家族4人を死に至らしめた女性患者の例が詳しく報告されていて、うつ病(ディスサイミア)の怖さを痛感させられショッキングであるとともに、その供述があまりに不確かで、(このケースもそうだが)抗うつ剤を大量服用したりして事故に至るケースも多いようで、こうした事件の事実究明の難しさを感じました(この事件についても著者は"失火"の可能性を捨てていない)。

 こうした犯罪と精神疾患の関係も著者の研究テーマであり、そのため著者の本は時に露悪的であると評されることもあるようですが、無理心中事件などの中には、実際こうしたうつ病に起因するものがかなり多く含まれていて、周囲が異常を察知し、また薬の服用を過たなければ防げたものも多いのではないかと改めて考えさせられました。

 現在治療を受けたり通院したりしている人にも自分がどんな治療を受けているのかがわかる様に、抗うつ剤の種別や副作用について専門医の立場から詳しく書かれている一方、素人や専門医でない人の書いたうつ病や抗うつ剤に関する著書の記述の危うさに警鐘を鳴らし(高田明和、生田哲の両氏は名指しで批判されている)、更に、精神科医であっても重症例の臨床に日常的に携わっていない学者先生のものもダメだとしていて、重症のうつ病の"現場"を見てきているという自信とプライドが感じられる内容です。

リップ・スティック.jpg 因みに、冒頭で取り上げられているマーゴ・ヘミングウェイが主演した映画「リップスティック」は、レイプ被害に遭った女性モデル(マーゴ・ヘミングウェイ)が犯人の男を訴えるも敗訴し、やがて今度は妹(マリエル・ヘミングウェイ)も同じ男レイプされるという事件が起きたために、自分と妹の復讐のためにそのレイプ犯を射殺し、裁判で今度は彼女の方が無罪になるというもの。

マーゴ・ヘミングウェイ リップスティック 映画パンフ.jpg あまり演技力を要しないようなB級映画でしたが(マーゴ・ヘミングウェイが演じている主人公は、うつ気味というよりはむしろ神経症気味)、大柄でアグレッシブな印象のマーゴ・ヘミングウェイを襲うレイプ犯を演じていたのが、ヤサ男の音楽教師ということで(「狼たちの午後」('75年/米)で同性愛男性を演じてアカデミー助演男優賞にノミネートされたクリス・サランドンが演じてている)、このキャラクター造型は、今風のストーカーのイメージを先取りしていたように思います。

Killer Fish.jpg マーゴ・ヘミングウェイは、この後、B級映画「キラーフィッシュ」(別題「謎の人喰い魚群」または「恐怖の人食い魚群」、'78年/伊・ブラジル)とかにも出ていますが(劇場未公開、'07年にテレビ放映)、B級映画専門で終わった女優だったなあ。

 彼女が自殺した日は、祖父アーネスト・ヘミングウェイが自殺した日から35年後の、同じ7月2日だったそうです。


リップスティック.jpglipstick.jpg 「リップスティック」●原題:LIPSTICK●制作年:1976年●制作国:アメリカ●監督:ラモント・ジョンソン●製作:フレディ・フィールズ●脚本:デヴィッド・レイフィール●撮影:ビル・バトラー●音楽:ミッシェル・ポルナレフ●時間:89分●出演:マーゴ・ヘミングウェイ/クリス・サランドン/アン・バンクロフト/ペリー・キング/マリエル・ヘミングウェイ/ロビン・ガンメル/ジョン・ベネット・ペリー●日本公開:1976/09●配給:東宝東和●最初に観た場所:高田馬場パール座 (77-12-16) (評価:★★)●併映:「わが青春のフロレンス」(マウロ・ポロニーニ)

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岩波明 イワナミ・アキラ
1959昭和34)年、横浜市生れ。東京大学医学部卒。精神科医。医学博士。東京都立松沢病院を始めとして、多くの精神科医療機関で診療にあたり、東京大学医学部精神医学教室助教授を経て、ヴュルツブルク大学精神科に留学。現在、埼玉医科大学精神医学教室助教授を務める。著書に『狂気という隣人』『狂気の偽装』『思想の身体 狂の巻』(共著)、訳書に『精神分析に別れを告げよう』(H.J.アイゼンク著・共訳)などがある。

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憂うつだが好きなことには元気が出る、過食・過眠、イライラする...若い女性に多いうつ病。

気まぐれ「うつ」病.jpg 『気まぐれ「うつ」病―誤解される非定型うつ病 (ちくま新書 668)』 ['07年] 貝谷久宣 (かいや ひさのり).gif 貝谷久宣 (かいや ひさのり)赤坂クリニック理事長(略歴下記)

うつ2.jpg 著者は、パニック障害をはじめ不安障害を専門とする精神科医で、パニック障害の治療で知られるクリニックの理事長を務めるなど、社会不安障害の研究・治療の第一人者ですが、その著者が書いた「非定型うつ病」(かつて「神経症性うつ病」と呼ばれたタイプ)の本です。

 普通のうつ病では、何があっても元気が出ないのに対し、非定型うつ病の場合は、何か楽しいことがあると気分が良くなるなど、出来事に反応して気分が明るくなるのが大きな特徴で、タ方になると調子が悪くなったり、過食・過眠気味になったり、イライラして落ち着かないなどの傾向もみられるそうですが、20〜30代でかかるうつ病では、多くがこの非定型タイプと考えられ、特に若い女性に多いとのこと。

 「非定型うつ病によくみられる随伴症状」として、〈不安・抑うつ発作〉〈怒り発作〉〈フラッシュバック〉〈過去・現在混同症候〉〈慢性疲労症候群〉といった症状をあげていて、「不安・抑うつ発作の特徴は、わけもなく涙が出ること」といった観察は、数多くの臨床をこなしてきた著者ならではのものと思われました。

うつ3.jpg 但し、掲げられている13の症例の読み解きは、自分にはかなり難しく思え、それぞれ共通項も多いものの、症候の現れ方や治り方が多様で、他の病気や人格障害と重なる症状もあり、実際、医者に境界性人格障害などの診断を下されることもあるというのは、ありそうなことだなあと(こうなると、患者にすればもう、クリニックの選び方にかかってきて、そこで誤ると、症状を増幅しかねないということか)。

 普通のうつ病では、とにかく休養をとることが重要、周囲の人が頑張れと言って励ますと、本人が自分自身を追い込んでしまうので良くないとされていますが、非定型うつ病の場合は、少し励ますことが本人のためになり、決まった時間に起きて会社に行く方が良かったりするようで(休職を取り消して回復した症例が紹介されている)、一方で、普通のうつ病が多くの場合、重症期を過ぎて回復期に自殺する危険があるのに対し、非定型うつ病では、周囲の人に助けを求めるサインとして、衝動的に自殺を企てる恐れがあるそうで(リストカットを繰り返すのはこのタイプに多い。これも、症例で紹介されている)、大体、人見知りをするようなタイプの人が発症することが多いようです。

 こうなると、うつ病(「執着性格」と相関が高い)とは別の病因による独立した症候群ではないかという仮説も成り立ちそうですが、著者はそこまでは踏み込まず、むしろ、治療の実際において使われる薬など、治療法の部分にページを割いています。
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貝谷久宣 (かいや ひさのり)
医療法人 和楽会 心療内科・神経科/赤坂クリニック理事長
1943年名古屋生まれ。1968年名古屋市立大学医学部卒業。マックス・プランク精神医学研究所(ミュンヘン)留学。岐阜大学医学部助教授・岐阜大学客員教授・自衛隊中央病院神経科部長を歴任。1993年なごやメンタルクリニックを開院。1997年不安・抑うつ臨床研究会設立代表。医療法人 和楽会 なごやメンタルクリニック理事長。米国精神医学会海外特別会員。国際学術雑誌『CNS Drugs』編集委員。
主な編著書/[新しい精神医学/HESCO] [新版 不安・恐怖症―パニック障害の克服/講談社健康ライブラリー] [脳内不安物質/講談社ブルーバックス] [対人恐怖/講談社] [社会不安障害のすべてがわかる本/講談社]

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患者から聞きだした解離の主観的体験から、不思議な病像の特徴と構造を分析。

解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理.jpg 『解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書 677)』 ['07年]

 解離性障害と言うと、多重人格者犯罪など、一般人とはかけ離れた、想像もつかないような人格を思い浮かべがちで、5つの中核的な症状(健忘・離人・疎隔・同一性混乱・同一性変容)を聞いても、今一つぴんと来ない―。解離性障害を描いた映画もあったが、あまりに綺麗に作られているような...。

パンズ・ラビリンス.jpg ところが、多くの解離性障害を診てきた専門医である著者は、我々が過去の出来事を想起する際などにも「離れたところから自分を見ている」ように出来事を思い出すことを指摘し、一般人の時空の認知などにも、ふっと似たような状況が現れることを示していて、これはなかなか新鮮な指摘でした。

 映画「パンズ・ラビリンス」('06年/メキシコ他)

 著者は、解離性障害の既成の定義(5つの中核的な症状)に飽き足らず、自らの臨床経験をもとに、患者から聞きだした解離の主観的体験から、その幾つかの特徴に迫り(副題の「うしろに誰かいる」というのも、その特徴の1つである「気配過敏症状」の代表例)、更に、解離の症状を、空間的変容と時間的変容にわけて、それぞれの構造を分析しています。

 本書によれば、解離性障害は、幼児期の虐待などの心的外傷によって引き起こされることが多いようですが、ボーダーライン(境界性人格障害)や統合失調症などと似た症状を呈することが多く、その診断が難しいようです(著者自身、解離の主観的体験が解離に特異的なものであるとは考えていないという)。

宮沢賢治.jpg 中盤の「解離の構造分析」のところは、哲学的考察も含んでやや難解でしたが、後半に、宮沢賢治の作品を「解離」を通して読み解く試みがなされていて、これがたいへん興味深いものであり、また「解離」とは何かを理解する上で助けになるものでした。

臨死体験 上.jpg 宮沢賢治作品のこうした側面は、以前に河合隼雄氏が指摘していた記憶があり、また、立花隆氏も『臨死体験』('94年)で、体外離脱体験者でなければ書けない部分を指摘していたように思いますが、本書では、かなり突っ込んで、その辺りに触れています(但し、賢治を解離の病態とすることには、著者は慎重な立場をとっている)。

24人のビリー・ミリガン下.jpg でも、やはり、ダニエル・キースの『24人のビリー・ミリガン』ではないが、多重人格症状を示す患者に対し、本書にも事例としてあるように、各人格を交代で呼び出してカウンセリングする様などを思い受かべると、実に不思議な気がし、著者自身、解離性ヒステリーの患者に初めて出会ったとき、「世にはこんなにも不思議な心の世界があるんだ」と心の中で呟き、後に総合病院の精神科で、多彩な解離の病像を繰り広げる患者とまみえて、この世界に引き寄せられたことを、あとがきで告白しています。

《読書MEMO》
●解離の主観的体験(65P)
離隔 世界がスクリーンに映る映像のように見え、著しくなると、視野の中心しか見えなくなり、更に、体外離脱の方向に向かうと、視野が拡大して、その中に自分がいる。
気配過敏症状 家の中で一人でいるとき、誰かがいるという気配を感じる。トイレや風呂で除かれている気がする。後ろに意地悪い人がいる。
対人過敏症 駅や電車の中、デパート、病院の待合室など、人が大勢いるところで、漠然とした緊張や怯えを感じる。
影が見える 目の前を影がさっと過ぎる。視野の端に、影らしきものがさっと動く。
表象幻視 過去の記憶や想像などが、まるで見えるかのように頭に浮かんだり、次々と展開したりする。
体外離脱体験 自分の体から抜け出して隣の部屋へ行ったり、夜の空を飛んだりする。
自分を呼ぶ声が聴こえる 誰もいないのにどこからか自分を呼ぶ声がする。
思考・表象が湧き出る 空想が湧き出る。頭の中にいろいろな映像が出てきて収拾がつかなくなる。

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「男道」の伝統は武士から駕籠かきを経由してヤクザに引き継がれた?

サムライとヤクザ.png 『サムライとヤクザ―「男」の来た道 (ちくま新書 681)』 〔'07年〕

 本書によれば、戦国時代が終わり江戸時代にかけて、「男道」は次第に武士のものではなくなり、「かぶき者」と言われた男たちが戦国時代の余熱のような男気を見せていたのも一時のことで、「武士道」そのものは形式的な役人の作法のようなものに変質していったとのことです。

 では、誰が「男道」を継承したのかと言うと、藩邸が雇い入れた"駕籠かき"など町の男たちだったそうで("火消し"がそうであるというのはよく言われるが、著者は"駕籠かき"の男気を強調している)、こうした男たちの任侠的気質や勇猛果敢ぶりに、かつて武士のものであった「男道」を見出し、密かに賞賛を贈る人が武士階級にもいたようです。

 また、同様の観点から、鼠小僧次郎吉が捕えられた際の堂々とした態度に、平戸藩主・松浦(まつら)静山が『甲子(かっし)夜話』で賛辞を贈っているとも(松浦静山に限らず、同様の例は他にもある)。

 江戸初期に武士の間に流行った「衆道」(男色)の実態(多くがプラトニックラブだったらしいが、生々しい記録もある)についてや、17世紀後期には幕臣も藩士も殆どが、一生の間に抜刀して戦うことなく死を迎えたという話、松宮観山が書いた、"泰平ボケ"した武士のための非常時マニュアル『武備睫毛』とか、興味深い話が盛り沢山。

江戸藩邸物語―戦場から街角へ.jpg 但し、武士の「非戦闘化」、「役人化」を解説した点では、『江戸藩邸物語―戦場から街角へ』('88年/中公新書)の続きを読んでいるようで、本書のテーマはナンだったかなあと思ったところへ、最後の章で、ヤクザの歴史が出てきました。

 江戸史に限らずこちらでも、著者は歴史資料の読み解きに冴えを見せますが、なぜ今の世において政治家も企業家もヤクザに引け目を感じるのかを、松浦静山の鼠小僧次郎吉に対する賛辞のアナロジーで論じているということのようです、要するに。

 「男道」は武士から駕籠かきを経由してヤクザに引き継がれていたということで、政治家や企業家が彼らを利用するのは、武士が武威を他者に肩代わりさせてきたという歴史的素地があるためとする著者の考察は、面白い視点ではあるけれど、素人の感覚としては、やや強引な導き方という印象も。
 この考察をどう見るかで、本書の評価は分かれるのではないでしょうか。

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武士道のを説く者の裏側にある嫉妬心。男の嫉妬は、屁理屈を伴う?

男の嫉妬 武士道の論理と心理.jpg 男の嫉妬 武士道の論理と心理2.jpg 山本 博文氏.jpg 山本博文 東京大学史料編纂所教授/略歴下記)
男の嫉妬 武士道の論理と心理 (ちくま新書)』〔'05年〕

 江戸時代のエリート階層であった武士がその価値観・倫理観の拠り所とした武士道ですが、その実践や評価をめぐっては、背後に「男の嫉妬」の心理が働いていたことを、多くの史料を読み解きながら明かしています。

 例えば、江戸初期の辛口御意見番・大久保彦左衛門が、「崩れ口の武辺」(退却する敵を追って仕留めた武勲)で出世した者を貶しているのは、自らが戦国時代に激戦を生き抜いたプライドがあるためで、中途半端な「武辺」で出世する輩を批判する背後には、著者の言うように、ある種の嫉妬心もあったのかも。

 著者によれば、「男の嫉妬」とは彦左衛門の例のように、かくあるべきというそれぞれの正義感や自負心に裏打ちされたものだったということで、そのため多少理不尽であってもある面では理屈が通っているため、容認され続けてきたということです。

 和田秀樹氏の『嫉妬学』('03年/日経BP社)を引き、「男の嫉妬」には、「あいつに負けてなるか」と相手を乗り越えようとする積極的動機付けに繋がる「ジェラシー型」の嫉妬と、ただ相手を羨み足を引っぱろうとする「エンビー型」の嫉妬があり、"鬼平"こと長谷川平蔵の後任だった森山孝盛の、人気者だった平蔵に対する批判などは、「エンビー型」であると。

 本書で一番こてんぱにやられているのが、『葉隠』の山本常朝で、主君亡き後自らが出家したことを殉死したことと同じ価値があるとし、自らが藩で唯一の武士道の実践者であるという意識のもとに物言っていて、これも裏返せば「嫉妬心」の表れであると。

 戦乱の世が去り、泰平の時代が続くと、まったく身分の違う者の出世は気にならないが、同格者同士がそれまで年功序列で処遇されていた中で、誰か1人だけ抜擢人事の対象になったりすると、「エンビー型」嫉妬が噴出したようで、この辺りは、今の日本のサラリーマン社会と変わりません。

 江戸武士の武士道意識の話と、階層社会での出世と周囲の感情という現代に通じる話が相俟って、サラリーマンが通勤途上で読むにはちょうどよいぐらいの内容と読みやすさですが、個人的には、著者の今までの本とネタがかなり被っていて、新味に乏しかった...。
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山本 博文 (東京大学史料編纂所 教授)
1990年、『幕藩制の成立と日本近世の国制』(校倉書房)により、東京大学より文学博士の学位を授与。1991年、『江戸お留守居役の日記』(読売新聞社)により第40回日本エッセイストクラブ賞受賞。
江戸幕府の残した史料の外、日本国内の大名家史料を調査することによって、幕府政治の動きや外交政策における為政者の意図を明らかにしてきた。近年は、殉死や敵討ちなどを素材に武士身分に属する者たちの心性(mentality)の究明を主な課題としている。
主な著書に、『徳川将軍と天皇』(中央公論新社)、『切腹』(光文社)、『江戸時代の国家・法・社会』(校倉書房)、『男の嫉妬』(筑摩書房)、『徳川将軍家の結婚』(文藝春秋社)『日本史の一級史料』(光文社)などがある。

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「戦略は人に宿る」。結局、戦略よりも経営幹部の人選が肝心ということか。

経営戦略を問いなおす.jpg経営戦略を問いなおす (ちくま新書)』 〔'06年〕  三品 和広氏.jpg 三品 和広 氏(略歴下記)

 第1章で、日本の上場企業の多くが'60年代から40年間、売上面では成長しているが、営業利益率が下降の一途を辿っていることをデータをもとに指摘し、ただし、その中でも営業利益を伸ばしている企業は、他の競合企業と経営戦略の面でどう異なるのか分析、それはまさに時代の流れに即した選択がなされているからだということを示しています。
 「成長戦略」という言葉がよく使われますが、成長ということが目的化することの愚を説き、また、MBA信仰に見られる「戦略=サイエンス」といいう考え方の危うさを指摘し、戦略とは主観的なものであり、それは「人に宿る」と。
 
business strategy.jpg 第2章では、経営戦略を立地(ポジショニング)」、「構え(垂直統合、シナジー、地域展開)」、「均整(ボトルネックの克服)」の3つの軸で解説し、第3章では、経営戦略の立案を現場に押し付けてはならず、日本企業では、トップと現場の間(はざま)で事業本部長あたりが戦略計画の立案などに追われているが、もともと、過去に成功した戦略とは、優れた経営者が時代のコンテクストにおいて洞察力を示した結果であり、短期の事業計画に付随してスイスイ実行できるものでもなければ、部課長クラスの手に負えるものでもなく、そこに日本企業の多くが、戦略があってもそれが機能していないという「戦略不全」状態に陥っている原因があると述べています。
 
 結局は、下手な戦略より経営幹部の人選が肝心であるということで、弟4章以降は経営人材論のようになっていて、戦略をつくる人を選ぶには過去の実績やパーソナリティより、テンパラメント(気質、感受性)を重視すべきというのが著者の主張で、最後の第5章のタイトルが「修練」。この部分は、若年層、中堅・幹部社員に送るメッセージがあり、キャリア論的な感じ。 

 経営戦略とは何かという話から、だんだん、戦略を担う人材は いかに育成されるのかという帝王学的な話になっていく感じもしますが、ハーバードビジネススクールで教鞭をとっていた人が、「戦略はサイエンスではなくアートである」とか、「研究すべきは創業者の理念である」とか言っているのが面白い。 
 目の前の人がMBAかどうかは、目の奥に「田の字」が見えればMBA、というジョークが笑え、SWOTとかPPMとか2×2のマトリックスで経営ができるるならば、確かに経営なんてわけない、ということになるなあと納得させられました。
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三品 和広氏
一橋大学商学部卒、同商学研究科修士課程修了、ハーバード大学ビジネスエコノミックスPh.D.、ハーバードビジネススクール助教授を経て神戸大学大学院経営学研究科助教授。
主な著書論文に、"Learning by New Experiences:Revisiting the Flying Fortress Learning Curve"、"日本型企業モデルにおける戦略不全の構図(組織科学)"、"日本企業における事業経営の現実<日本企業変革期の選択(東洋経済新報社)>"等。

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「あちら側」「こちら側」の2つの世界を軸にウェブ・ビジネスの状況がわかりやすく解説。

ウェブ進化論3.jpgウェブ進化論.jpg 『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる』 ちくま新書 〔'06年〕

Googleマップ.bmp シリコンバレーに住んで10年以上というIT企業経営コンサルタントが、今ウェブ・ビジネスがどういう状況にあるかを解説したもので、ネットバブル崩壊後のこの分野のビジネス動向を探る上では必読書かもしれません。
 ただし、こうした内容のものはどんどん身近になり目新しさがなくなるため(例えば「グーグル・マップ」などは普段使っている人も身近に多いし、「グーグル・アース」の"旅行ガイド"は書店に多く出ている)、将来予測というより'05年時点での現状分析という感じ。

 「インターネット」「チープ革命」に加えて「オープンソース」(リナックスが想起しやすい)の3つを「次の10年への三大潮流」とし、その相乗効果がもたらすインパクトを、「Web 2.0」や「ロングテール」などといった言葉に絡めてわかりやすく説いていますが、本書で最も秀逸なのは、ネットの世界を「あちら側」、リアルの世界を「こちら側」と呼び、この2つの世界を対比させて描いているユニークな視点でしょう。

 「あちら側」をホームグラウンドとする企業の代表として「グーグル」をあげ、「こちら側企業」であるマイクロソフトなどとのもともとの土俵の違いやその優位性、さらに、同じ「Web 2.0企業」とされながらも内部で閉じていてオープンソースとは言えないアマゾンやヤフーとの違いを述べています。
 そして、「情報発電所」構築競争という意味では、マイクロソフトやヤフーがグーグルを追撃するのは難しいと言い切っています。
 グーグルのような検索エンジンを"ロボット型"と言いますが、本書を読んで、ある意味、グーグルの思想が反映されている言葉でもあるなあと感じました。

google本社.jpg 情報を「あちら側」でオープンにすると「不特定多数無限大」の存在によって伝播され、より優れた正確なものへと醸成されるという(本書にあるように「ウィキペディア」などもその例だが)、こうしたグーグルのある種の楽天主義に対する著者の共感がよく伝わってきますが、「グーグル八分」なんてことも報じられている昨今、グーグルのある種脅威の部分を想うと、「著者自身がそんな楽天的でいいの?」とい気がしないでもありません。
 ただし、本書でも終わりの方で、グーグルという企業が、会社としてはいかに外部に対し閉鎖的な風土であるかということに少しだけ触れていて、ただし、あえて本書ではそれ以上突っ込んでネガティブ要素に触れていない気もします。

 それはまた少し異なるテーマであり、テーマを絞った入門書として読めばこれはこれでいいのかも。
 全体として論文形式であり、部分的には体感していないとわかりにくい先進事例もありますが、ポイントとなる概念は丁寧に解説されていてわかりやすく(アマゾンの本の売り上げ順位と部数を恐竜の体高ラインに喩えたロングテールの解説など)、この人、両親とも脚本家で、そうした資質を受け継いでいるのかも。

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着眼点はユニークだが、あくまでも著者の推論とみた方がよい部分も。

天才はなぜ生まれるか.jpg 『天才はなぜ生まれるか』 ちくま新書〔'04年〕 ウォルト・ディズニー (1901-1966).jpg ウォルト・ディズニー

 歴史上大きな足跡を残した何人かの人物に注目し、彼らには広義の意味での学習障害(LD)があり、それが彼らの業績と密接な関係があったと―。とり上げられているのは、エジソン(注意欠陥障害)、アインシュタイン(LD)、レオナルド・ダ・ヴィンチ(LD)、アンデルセン(LD)、グラハム・ベル(アスペルガー症候群)、ウォルト・ディズニー(多動症)の6人です。

 昔から天才の病跡学というのはあり、アリストテレスも「天才病理説」を唱えていたように思いますが、本書のユニークな点は、"天才"とは対義的とも思える学習障害に焦点を当て、障害があったからこそ偉業を成し得たとしているところです(LDであることが天才の要件であるとは言えないでしょうけれど)。
 例えばエジソンがそうだったという注意欠陥障害というのは、意識を次々違った対象に移動させるのが困難な障害ですが、いったん注意が向くと人並み外れた集中力を発揮すると。

 彼らは、最初は学校などで落ちこぼれでしたが、やがて頭角を現した―。
 一方で、日本の学校教育の画一主義や社会にまで及ぶ画一性は、こうした異才を見過ごしてしまうのではないかという著者の危惧には頷かされます。

 ただし、過去の人物の様々な仕事や言行の一端だけを拾って障害を推測している部分もあり、これらはあくまでも著者の推論とみた方がよいでしょう。
 突っ込みを入れたくなる記述は多いけれど、突っ込む前に1章が終わってしまう感じで、1人1人の掘り下げはやや浅い気がしました。

ウォルト・ディズニー。.jpg蒸気船ウィリー.jpg それでも、ミッキーマウスの初期のドタバタ・キャラが、ウォルト・ディズニーの多動性がそのまま投影されたものであるとか、パーク内を徘徊してゴミを拾うのがウォルトの性癖だったという話は面白くは読めました。

ウォルト・ディズニー(1901-1966)。
同じ年に4部門でアカデミー賞受賞(最多記録)。
ディズニーは1953年の4作品―「砂漠は生きている」で長編ドキュメンタリー賞、「民族と自然/アラスカのエスキモー」で短編ドキュメンタリー賞、「プカドン交響楽」で短編映画賞、「熊の楽園」で短編二巻賞をそれぞれ受賞。また個人でのノミネート数(59回)と受賞回数(22回)でもそれぞれ最多記録を保持している。

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知識は得られるが、"ア本"(アキレタ本)指定されても仕方がない面も。

男が学ぶ「女脳」の医学.jpg 男が学ぶ「女脳」の医学 obi.jpg  米山 公啓.bmp
男が学ぶ「女脳」の医学 (ちくま新書)』〔'03年〕 

 斎藤美奈子氏によれば、「ちくま新書」は"ア本"(アキレタ本)の宝庫だそうで、特にそれは男女問題を扱ったものに多く見られるとのこと(大学教授で、準強制わいせつ罪で逮捕された岩月謙司氏の『女は男のどこを見ているか』('02年)などもそう)。もちろん分野ごとに良書も多くあって結構よく手にするのですが、本書は『誤読日記』('05年/朝日新聞社)の中でしっかり"ア本指定"されていました。

 本書は、扁桃体などの役割やドーパミンなど主要脳内物資の名前と機能を知るうえでは、わかりやすい良い本であるかのようにも思えました(多くの読者はそうした目的では読まないのかもしれませんが)。

 しかし読んでいるうちにだんだん不快になるとともに、釈然としない部分が多くなります。振り返ると、著者による脳内物資の働きと日常の行動との関係の説明などには、かなりの恣意的な部分や拡大解釈が見受けられます。タイトルに「医学」とありながら、さほどの根拠も示さず「これは医学的にも証明されている」で片づけていたりするような傾向が見られ、似非科学、トンデモ本の世界に踏み込んでしまっているかも知れません。

 作家でもありながら(作家でもあるからか?)、人間の性格や行動に対する乱暴な二分法を展開している点も問題があるように感じます。「脳科学」と言うより、著者なりの「女性論」とみるべきでしょうか。「科学」と呼ぶにはあまりに「オーバー・ゼネラリゼーション(過度の一般化)」がなされているように思います。その決めつけぶりに加え、文章にあまり品位が無いこともあり、読んでいて自分と同じようにだんだん不快になってくる人もいるのではとも思われるのですが、すべての人がそう感じるとも限らないものなのかも。結構売れたところを見ると、飲み会の話のネタのレベルで一部には受けるのかもしれません。

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科学トピックスを平易に解説し、「科学」の虚妄を突いたエッセイ。

やぶにらみ科学論.jpg 『やぶにらみ科学論 (ちくま新書)』 〔'03年〕 池田 清彦.jpg  池田 清彦 氏 (略歴下記)

 最近の科学的トピックスをわかりやすく解説するとともに、著者なりの見解を、時にユーモアや皮肉を交えつつ綴った、気軽に読める科学エッセイです。
 狂牛病、バイオテクノロジー、ゲノム解析といった、著者の専門である生物学に近い話から、喫煙問題やノーベル賞の話まで、幅広いテーマを取りあげていますが、全体としてはかなり平易に書かれていると思います。

 その幅広さもさることながら、「科学がよしとするものに従う義務はない」(「あとがき」)とあるように、1つ1つのテーマに対する著者なりの覚めた見方があり、「禁煙運動」や「自然保護運動」の背後のある原理主義を批判し、「地球温暖化論」のいかがわしさを検証し、「クローン人間作ってなぜ悪い?」と言い切っています。
 この辺りが「やぶにらみ」たる所以でしょうけれど、ただ単に多数意見に抗っているわけでなく、読めばそれなりの筋は通っていて、著者の個々の論旨にすべて賛同できるかどうかは別として、いろいろと新たな視点を提供してくれます。

 原理主義的なものに対する嫌悪や、現代人はみな「生老病死を隠蔽する装置の中で生きている」という見方、「人はなぜオカルトを信じるのか」の項で用いられている「脳のクセ」という表現などには、"虫人間"仲間?の養老孟司氏と通じるものを感じました(ときどき"ボヤキ節"みたくなるところも)。

 確かに「○○するのはバカだ」、「よけいなお世話だ」というような粗っぽい言い回しも多いものの、若者の理科離れを嘆き、医療におけるセカンド・オピニオンの重要性を説くなど、基本的にはマジメという感じ(これらは著者にとって、より身近な問題なのかも知れないけれど)。

 「反ダーウィニズム」「構造主義生物学」の考え方に触れている部分もありますが、連載がベースになっているので、1テーマあたりのページ数が少ない物足りなさがあり、むしろ、「科学」につきまとう虚飾や迷妄を見極めなさいといのが本書の趣旨でしょう。
 教育問題、環境問題、「外来種撲滅キャンペーン」に対する批判なども、この著者にはそれぞれ単独テーマとして扱った著作があり、場当たり的にそれらを取り上げているのではないということがわかります。
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池田 清彦
1947年東京に生まれる。東京教育大学理学部生物学科卒業。東京都立大学大学院で生物学を専攻。山梨大学教育人間科学部教授。多元的な価値観に基づく構造主義生物学を提唱して、注目を集めている。主な著書は「構造主義生物学とは何か」「構造主義と進化論」「昆虫のパンセ」「思考するクワガタ」「科学は錯覚である」など。

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「ちくま新書」の男性論シリーズの不作ぶりを象徴する本?

まともな男になりたい.jpg  まともな男になりたい2.jpg
まともな男になりたい』 ちくま新書 〔'06年〕

 著者の言う「まともな男」とは、まじめに仕事し、社会の行く末を案じ、自らの役割と存在価値を顧みる人間のことで、「まとも」を支えるものは、"自己承認と自己証明のための「教養」"と、"狂信にも軽信にも距離を置く「平衡感覚」"であると。
 日本人の道徳や美意識は、こうした「教養」と「平衡感覚」の営為のなかにあったはずなのに、今や「まとも」な人間は稀少となり、「みっともない人たち」ばかりで、廉恥心は忘れ去られ、俗物性が蔓延しているとのこと。

 こうした内容に加え、「小生」という語り口や論語を引いてくるところなどから60歳前後の人が書いているかと思ったりしますが、冒頭にあるように、著者は"惑うことばかり多かりき"40代とのこと。
 フェニミストや経済評論家に対する批判には共感する部分もありましたが、中谷彰宏とか引用するだけ紙の無駄のような気もし、いちいち相手にしなくてもいいじゃん、放っとけば、と言いたくもなります。
 こんなの相手にしておいて、自らも俗物であり、俗物性とどう付き合うかとか言ってるから、世話ないという感じもしました。

 片や、福沢諭吉や福田恆存、エリック・ホッファーを褒め称え、それらの著作から多くを引き、とりわけ勢古浩爾氏に対しては単なる賞賛を超えた心酔ぶりですが、傾倒のあまり、本書自体が氏の著作と内容的にかなり被っている感じがしました。

 「ちくま新書」の男性論(?)シリーズを読むのはこれで5冊目になりますが、評価は"5つ星満点"で次の通り。
 ・小谷野敦 著 『もてない男-恋愛論を超えて』('99年)★★★
 ・勢古浩爾 著 『こういう男になりたい』('00年)★★
 ・諸富祥彦 著 『さみしい男』('02年)★★☆
 ・本田 透 著 『萌える男』('05年)★★★
 ・里中哲彦 著 『まともな男になりたい』('06年)★☆

 大学講師で文芸評論家、洋書輸入会社勤務の市井の批評家、大学助教授でカウンセラー、ライトノベル作家で「オタク」評論家、そして河合塾講師(本書著者)と、まあいろいろな人が書いているなあという感じですが、 『萌える男』を除いては何れも人生論に近い内容で、総じてイマイチでした。

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「萌え男(オタク)」についての考察。興味深いが、牽強付会の論旨も。

萌える男.jpg 萌える男  .jpg  動物化するポストモダン .jpg
萌える男 (ちくま新書)』〔'05年〕 東 浩紀『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

 「萌え男(オタク)」について考察した本書は、東浩紀氏の『動物化するポストモダン-オタクから見た日本社会』('01年/講談社現代新書)の裏版みたいな感じもしましたが、東氏のような学者ではなく、「萌え男」を自認するライトノベル作家によって書かれていることのほかに、記号論的分析に止まるのではなく、「萌え」の目的論・機能論を目指していると点が本書の特徴でしょうか。

負け犬の遠吠え.jpg 著者は、オタクとは酒井順子氏の『負け犬の遠吠え』でも恋愛対象外とされていたように、「恋愛資本主義ピラミッド」の底辺で女性に相手にされずにいる存在であり、彼らが為す「脳内恋愛」が「萌え」の本質であるとしています。

新世紀エヴァンゲリオン.jpg 「新世紀エヴァンゲリオン」の終結以降、PCゲームで発展を遂げた「萌えキャラ」の分析(この辺りはかなりマニアック)を通して、「脳内恋愛」がオタクとして「底辺」に置かれていることへのルサンチマンを昇華し、「癒し」が精神の鬼畜化を回避しているという、一種の「萌え」の社会的効能論を展開していて(犯罪抑止効果ということか)、このことは、「ロリコン」とか言われ、幼児殺害事件などが起きるたびに差別視される世間一般のオタク観に対するアンチテーゼになっているようです。
 さらに、「萌え」は恋愛および家族を復権させようとする精神運動でもあると結論づけています。

 個人的には、「萌え」による「純愛」復興などと言ってもやはりバーチャルな世界の話ではないかという気がするのと、「家族萌え」という感覚が理解できず引っかかってしまいました。
 「電車男」の話を、オタクを「恋愛資本主義」に取り込むことで「萌えとは現実逃避である」というドグマの強化作用を果たしたと"否定的"に評価している点などはナルホドと思わせ、ニーチェの「永劫回帰」からユングの「アニマとアニムス」まで引いて現代社会論やジェンダー論を展開しているのは、読むうえでは興味を引きましたが、牽強付会と思える論旨や用語の誤用に近い用法(例えば「動物化」)なども見られるように思います。

 「萌え男(オタク)」というのが、「自分らしさ」を保つことで差別され続けるというのは理不尽ではないかという著者の思いはわからないでもないけれど、オタクというのは文化傾向や消費経済において無視できない存在であるにしても、今後、社会にどの程度積極的にコミットしていくかがまだ見えず、著者の〈オタク機能論〉もある種の幻想の域を出ないのではないかという気もしました。

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嫌味はない分、口当たりが良すぎて印象に残るものが少ないという感じ。

さみしい男.jpg 諸富 祥彦 『さみしい男』2.jpg 諸富 祥彦.jpg
さみしい男 (ちくま新書)』〔'02年〕  諸富 祥彦 氏 (略歴下記)

 自分がたまたま利用したキャリアカウンセリングのテキストや家族カウンセリングの本の中で、いい本だなあと思った本の編著者が諸富先生であったりして、専門分野におけるこの著者に対する信頼度は、個人的には高いのです。
 また著者は、"時代の病と闘うカウンセラー"を自認するだけあって、一般向けの本の執筆にも力を注いでいるようですが、こちらの方は本書も含めて人生論的なものが多く、内容的にはイマイチという感じ。

 本書では、いま日本の男たちに元気が無いのは、社会・家族・女性といったものとの繋がりが希薄になって、寂寞とした虚無感の中にいるからだとし、ではこれから男たちはどこへ向かうべきかを、"社会の中の男" "家族の中の男" "女との関係の中の男"という3つの角度から分析しています。

 基本的に著者が説いているのは、「労働至上主義」「家族至上主義」「恋愛至上主義」といものから脱却せよということで、カウンセリング論的に見ると、「来談者中心療法」の立場に近い著者が、そうした不合理な信念(イラシャナル・ブリーフ)を取り除けという「論理療法」的な論旨展開をしていることに関心を持ちましたが、男性をとりまく環境についての社会批評風の分析も、そこからカウンセラーの視点で導いた答えも、ともに結構当たり前すぎるものではないかという気がしました。

 どちらかと言うと、所謂「中年の危機」にさしかかっている中高年男性向けでしょうか。「孤独である勇気を持て」とか「危機を転機に変えよ」とか。
 若い人に対しても、女性にモテなくて悩んでいるぐらいなら、好きになった女性を本気で口説いてみろと言っていますが、これらの言葉の中には、単に励ましているだけで、なんら解決法になっていないようなものもあるような気がします。
 その後に続く「不倫で生まれ変る男たち」というのが少し面白かったけれども、全体としては、嫌味はない分、口当たりが良すぎて印象に残るものが少ないという感じの本でした。
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諸富 祥彦
1963年福岡県生まれ、1986年筑波大学人間学類・1992年同大学院博士課程修了
英国イーストアングリア大学、米国トランスパーソナル心理学研究所客員研究員、千葉大学教育学部講師、助教授を経て 明治大学文学部教授。
教育学博士、臨床心理士、日本カウンセリング学会認定カウンセラー、上級教育カウンセラー、学校心理士の資格をもつ。
日本トランスパーソナル学会会長、教師を支える会代表。

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「男として」云々という意識から抜け出せないでいる1典型。

こういう男になりたい.jpgこういう男になりたい (ちくま新書).jpg
こういう男になりたい』ちくま新書〔'00年〕

 旧来の「男らしさ」を捨て「人間らしく」生きようという「メンズリブ」運動というのがあり、「だめ連」などの運動もその類ですが、著者はそうした考えに部分的に共鳴しながらも、「自分らしさ」という口当たりのいい言葉に不信感を示し、「だめでいいじゃないか」という考え方は、ただ気儘に暮らしたいと言ってるだけではないかと―。

 男である以上、「男らしさ」を脱ぎ捨てても「男」である事実は残るわけで、かと言って、旧来の「男らしさ」には、自分に甘く他人に厳しいご都合主義的な面があるとし、他人を抑圧しない「自立した」生き方こそ旧弊の「男らしさ」に代わるもので、本当の「男らしさ」は自律の原理であると。

 ただし、他者からの視線や承認を軽んずる向きには反対で、「他者の視線」を取り込みながらも柔軟で妥当な自己証明と強靭な自己承認を求めるしかないという「承認論」を、本書中盤で展開しています。

 部分的に共感できる部分は無いでもなかったけれど、文中で取り上げている本があまりに玉石混交。
 女性週刊誌の「いい男」論特集みたなものにまでいちいち突っ込みを入れていて、そんなのどうでもいいじゃん、とういう感じ。
 章間のブックガイドも「男を見抜く」「いい男を見極める」などというテーマで括られたりして、誰に向けて何のために書かれた本なのか、だんだんわからなくなってきました。

 「男の中の男」ではなく、「男の外(そと)の男」になりたい、つまり「自分らしい男らしさ」を希求するということなのですが、何だか中間的な線を選んでいるような気もするなあと思ったら、末尾の方で「中庸」論が出てきて、ただしここでは「ふつうに」生きることの困難と大切さを説いています。
 
 ジェンダー論というより、人生論だったんですね、「男として」の。
 これもまた、「男として」云々という意識から抜け出せないでいる1つの典型のような気がしました。

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「恋愛至上主義」からの脱却を説く? 読書案内としてはそれなりに楽しめた。

もてない男.jpg 小谷野 敦 『もてない男.jpg
もてない男―恋愛論を超えて』 ちくま新書〔'99年〕

 現代の「恋愛至上主義」の風潮の中で、古今東西の文芸作品に描かれた恋愛模様を引きつつ「もてない男」の生きる道を模索(?)した、文芸・社会批評風エッセイ。

 童貞論、自慰論から始まり、愛人論、強姦論まで幅広く論じられており、自らの経験も赤裸々に語っていて、あとがきにも、学生時代に本当にもてなかったルサンチマン(私怨)でこうした本を書いているとあります(帯に「くるおしい男の精神史」とあるのが笑ってしまいますが)。

 著者は「もてる」ということは「セックスできる」ということではないとし、著者の言う「もてない男」とは、上野千鶴子の言う「性的弱者」ではなく、異性とコミュニケートできない「恋愛弱者」であり、彼らに今さらのように「コミュニケーション・スキルを磨け」という上野の助言は役には立たないとしています。

 著者は結婚を前提としないセックスや売買春を否定し、姦通罪の復活を説いていますが、その論旨は必然的に「結婚」の理想化に向かっているように思え、そのことと切り離して「恋愛至上主義」からの脱却を説いてはいるものの、「結婚」という制度の枠組みに入りたくても入れず落ちこぼれる男たちに対しては、必ずしも明確な指針を示しているようには思えませんでした。

 30代後半で独身の著者が書いているという切実感もあってか、若い読者を中心に結構売れた本ですが、書き殴り風を呈しながらも、結構この人、戦術的なのかも。
 著者はその後結婚しており、「もてない男」というのはひとつのポーズに思えてなりません。

 もともと、「恋愛至上主義」を声高に否定しなければならないほど、すべての人が同じ方向を向いているようにも思えないし...。

 ただ、引用されている恋愛のケースの典拠が、近代日本文学から現代マンガまで豊富で、それらの分析もユニーク(章ごとに読書案内として整理されていて、巻末に著者名索引があるのも親切)、論壇の評論家やフェニミストの発言にもチェックを入れていて、軽妙な文体と併せてワイドショー感覚でそれなりに楽しめました。

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平易かつ理路整然とした内容。「インフレ目標政策」入門としても好著。

日本経済を学ぶ.jpg  『日本経済を学ぶ (ちくま新書)』 〔'05年〕

2569619896.jpg 「インフレ・ターゲット論」の代表的論客である著者による日本経済の入門書。

 まず第1・2章でなぜ高度経済成長が実現し、バブル景気や「失われた10年」の本質は何であったのかをわかりやすく説明、さらに第3・4章で日本的経営と企業統治を扱い、第5・6章で産業政策や構造改革を、最終章で日本経済の課題と長期経済停滞から脱却するための経済政策(インフレ目標政策=1〜3%の物価上昇率を目標にし、景気回復およびマクロ経済の安定を図る策)を提言しています。

 全体を通して、著者自身が「大学での講義スタイルを取り入れた」言わば「大学外での公開講義」と言っているとおり、数式などを用いず、小泉構造改革や郵政民営化、年金改革など具体的な問題をとり上げ、平易かつ理路整然とした内容の「入門書」だと思いました。

 本書は同時に、それに賛同するかどうかは別として、「インフレ・ターゲット論」を理解するための本でもあるかと思います(個人的には著者の論には説得力を感じていますが、"高インフレを招く危険な考え"とするエコノミストも一部にあります)。

 見方によっては、全体がその論のために構成されているともとれ、競争原理の意義や景気に及ぼすファンダメンタルズ以外の心理的要因の大きさ、(政府による産業政策や構造改革より)日銀がデフレ予想を払拭する金融政策に転換することの必要を説くことで、「インフレ目標政策」の背景にある基本的考えを示すとともに、「量的緩和政策」との関係などを解説しいている点に、「インフレ・ターゲット論」を正しく理解してほしいという著者の意図が感じられます。

岩田規久男氏
岩田規久男氏.jpg(●2018年追記:著者は2013年に日銀副総裁に就任。この日銀副総裁人事案は事前に野党が反対したが、参院本会議で自由民主党、公明党、みんなの党など各党の賛成多数で可決した。しかし、日本におけるインフレターゲットは、結局、企業が内部留保に回って賃上げ率が抑制され、うまくいかなかったように思う。リフレ派の経済学者たちは著者を英雄視したが、麻生太郎財務大臣は著者が副総裁就任前に物価安定目標2%について「2年で達成できる」と述べたことについて「20年続いた一般人の気持ち(デフレ麻生太郎財務大臣.jpg期待)がいきなりインフレに変わるのは、そんなに簡単にはいかない」という認識を示した上で「私自身は『やっぱり学者というのはこんなものか、実体経済がわかっていない人はこういう発言をするんだな』と正直思った」と述べている。2018年に5年間の任期を終えて日銀副総裁を退任したが、その直後に、ニッポン放送のラジオ番組に出演し、「インフレ率2%の達成には財政政策との協調が不可欠だ」と述べ、暗に政府の財政政策を批判した。だったら初めからそう言うべきだった。後で言うのは責任転嫁である(当事者であるのに評論家みたいな口をきく麻生氏も同じく無責任なのだが)。本書と前著『経済学を学ぶ』の評価を★★★★としたが(両著ともきっちり再読はしていないので、評価はそのままにしておくが)やや買いかぶりすぎだったと、今は思う。)

《読書MEMO》
●(04年現在)小泉首相は「構造改革なくして、成長なし」といっていますが、それは本当でしょうか。(213p)/小泉内閣が口で言うほどの構造改革を進めなかったことが、大不況を免れた大きな要因です。(中略)小泉内閣の看板通りに、本格的に不良債権処理や財政構造改革などの構造改革を進めたならば、大不況を招き、物価下落率と失業率が一割を超すような事態になった可能性があります。(230-231p)

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ビジネスパーソンの"復習"用として身近な感覚でもって読める。

経済学を学ぶ.jpg  『経済学を学ぶ』 ちくま新書 〔94年〕  岩田 規久男.jpg 岩田規久男 氏 (略歴下記)

1544226_dollar150.jpg 平易な言葉で書かれた経済の入門書で、学生時代に経済学を学ぶことなく社会に出た自分のような人間にも読みやすい本でした。
 '94年の出版ですが、新書版という手軽さもあり(「ちくま新書」創刊ラインアップの中の1冊)、実際かなり幅広く読まれているようです。
「金さえ払えば入れる大学」がないのは何故か、といった身近な切り口は、高校生でも充分に引き込まれるのではないでしょうか。

 ミクロ経済学の視点からは、個人だけでなく企業行動についてもとりあげているので、ビジネスパーソンの"復習"用としても身近な感覚でもって読めます。
 それも、「なぜ映画に学割があるのにレストランにはないのか」「JRのフルムーンは高齢者福祉政策か」といったユニークな切り口での解説です。

 後段ではマクロ経済の視点で、国民所得の変動や失業、インフレが発生する原因を解説し、財政金融政策について、「ルールか裁量か」という問題があることを示しています。
 より突っ込んで学びたい人は、同じ著者の『マクロ経済を学ぶ』('96年/ちくま新書)に読み進めば良いかと思います。
 こちらはレベル的には、大学の一般教養か経済学部の学部生になったばかりの人向けぐらいでしょうか。
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岩田 規久男 (学習院大学経済学部教授)
1942年(昭和17年)10月3日大阪府生まれ。東京大学経済学部卒業、東京大学大学院経済研究科博士課程修了。上智大学専任講師、'76年助教授、'83年教授。'77〜'79年カリフォルニア大学バークレー校客員研究員。
●主な著書
『日経を読むための経済学の基礎知識』、『土地改革の基本戦略』、『土地と住宅の経済学』、『企業金融の理論』(共著)他多数。

《読書MEMO》
●ルールか裁量かについては、未だ決着はついていないが、次のような立場が比較的多くの支持を得ていると考えられる。すなわち、普通の状態では、市場の自動安定化装置に任せ、景気が大きく後退したり、激しいインフレが起きたりした場合には、裁量的な財政金融政策を実施するというものである。(204p)

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バカは歴史書を読め!? 読書案内であると同時に反「ニューアカデミズム」の教養論。

バカのための読書術.jpg 『バカのための読書術グロテスクな教養.jpgグロテスクな教養学者の値打ち.jpg学者の値打ち

 インパクトのあるタイトルでそれなりに売れた本ですが、本書で言うところの「バカ」とは「学校出た後も勉強はしたいけど、哲学のような抽象的なことは苦手」という人のことで、著者は、そういう「難しい本」がわからない人は「歴史書」を読めと言っています。「教養」を身につけようとして、哲学書や心理学・社会学系の本を読み漁り、カオスに陥って時間を無駄にするという事態を避けるための逆説的提言として、「事実」に立脚したものを読めということのようです。

 巻末近くに「歴史入門ブックガイド」「小説ガイド」がありますが意外と平凡で、むしろ中程の「読んではいけない本」ブックガイドが面白い(小林秀雄、ユング、中沢新一あたりは、ほとんど全部ダメとのこと)。世間で名著とされているものに疑念を呈するだけでなく、入門書にも入門書として不向きなものがあることを教えてくれます。ただし、「自然科学」書を「バカ」には荷が重いと最初から排除しているのはどうかなあ。なんで歴史書に限定されてしまうのだろうか。

 背景には著者の「若者の歴史についての無知」に対する危惧があるようですが、さらには、「ニューアカデミズム」に対する「旧教養主義」という構図の中での「歴史書」推奨という構図になっているようです。ですから本書は、読書案内であると同時に「教養」に関する本と言えます。

 同じ「ちくま新書」で、他にも「教養(またはアカデミズム)」をテーマにしたものを何冊か読みましたが―、
 『グロテスクな教養』(高田里惠子/'05年)は旧制高校的教養主義の伝統を確認しているだけのようにしか思えず、評価★★☆(低評価の理由には、着眼点は面白いが、自分にとってイメージしにくい世界の話だったということもある。この本を高く評価する人もいる。テーマとの相性の問題か?)、『学者の値打ち』(鷲田小彌太/'04年)に至っては、あまりに恣意的で主観に偏った内容であったため評価★。
 これらに比べると、まあ参考になった部分もあるし、「許せるかな」という内容でした(元々が、目くじら立てて読むような内容の本ではないのですが)。

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「原因究明」型のトラウマ理論より「解決志向」を説く。

立ち直るための心理療法.jpg  『立ち直るための心理療法』ちくま新書 〔'02年〕 矢幡 洋1.jpg 矢幡洋 氏 (臨床心理士)

ca_img01.jpg 本書ではまず、「心の病気」を、
 1.精神病(うつ病・精神分裂病)
 2.心身症
 3.神経症
 4.依存症
 5.適応上の問題
 の5つに区部し、それぞれについてわかりやすく解説しています(この区分はほぼ国際的な基準に沿ったものである)。例えば神経症の解説についても、「森田神経症」や「退却神経症」などもフォローするなど、行き届いた感じがしました。
 さらに、それらに該当する場合、「精神科医」に診てもらうべきか、「カウンセラー」に診てもらうべきかを述べていますので、専門家の支援が必要な人にとっては良い"助け"になるかと思います。またそれは、カウンセラーにとっても、同じことが言えるかもしれません。

 最近は「心の病気」を「アダルト・チルドレン」や「PTSD」といった概念で説明することが流行っていますが、著者はこうしたトラウマ理論はぶっとばせ!と言っています。こうした"原因究明"は治療とは直結せず、新たな問題を増やす恐れさえあるという著者の言説には、説得力を感じます。どうやって「立ち直る」かが問題なのだと―。

 この考え方は、後半部分の心理療法の実際についての説明にも表れていて、「解決志向セラピー」や「ナラティブ・セラピー」というものに代表される「ポストモダンセラピー」に、特に頁を割いて説明しています。この他にも、諸外国で行われているセラピーを紹介していますが、大方が自らの体験に基づいた記述なので、どのようなものかをイメージしやすいと思います。

 著者は精神科医ではなく臨床心理士ですが、精神病院や精神科クリニックなどでの勤務経験が豊富で、自らをカウンセラーとしては精神科医寄りかも知れないと言っています。本書には良い意味で、その特色が出ていると言えます。

《読書MEMO》
●心理療法の種類
 ・言語によるアプローチ(精神分析、クラエアント中心療法、ポストモダンセラピー)
 ・変性意識状態による治療法(自律訓練法、トランスパーソナル心理学、イメージ療法)
 ・ボディワーク(センサリー・アウェアネス、フェルデンクライシス身体訓練法、オーセンティック・ヌーブメント他)
 ・芸術療法(アートセラピー、音楽療法他)

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真面目だが愉快で刺激的。発想・思考トレーニングの示唆も多い。

危険な文章講座.jpg 『危険な文章講座』 ちくま新書 〔'98年〕

pen2.jpg 鬼才コラムニストとして知られる著者が「危険な」と冠するからには一体どんな内容かと思いきや、技術論よりも、文章を書く際に邪魔になる囚われから読者を解き放つことに主眼を置いた真面目な文章論でした。「批判」と「悪口」の違いを述べた部分など、啓蒙書としての倫理性すら感じます。

 しかしながらユニークな視点は健在で、書くことは「自己相対化」作用であることを「幽体離脱体験」に喩えて論じ、「文は人なり」という精神主義を喝破するのに「酒鬼薔薇聖斗」の手紙を立花隆らが「文章はセミプロ級で書いたのは高学歴者」などと推察したことを例に挙げるなど、巷にある真面目くさった文章読本に比べれば、愉快で刺激に満ちたものとなっています。

 発想と思考のトレーニングについての示唆も多っかたと思います。
 情報収集やカード整理といった作業は、それ自体が自己目的化してまだ始まっていないはずの〈思考〉にすり代わってしまう傾向があると。
 こうして書評を書くのも、どこかにその恐れがあるということを、いつも認識しておくべきだということでしょう。

《読書MEMO》
●メモをっとることは大事だが、本当に大切なのはその後の作業。「とにかく自分の頭から生まれたランダムでアンバランスな断片を、どのようにして他者に共有してもらえる表現へと鍛えあげていくのか」
情報収集やカード整理は、往々にしてそれ自体が自己目的化してしまって、まだ始まっていないはずの〈思考〉にすり代わってしまう傾向がある(156p)

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企業に見られる組織心理のダイナミズムを解き明かしてはいるが...。

ホンネで動かす組織論.jpg  『ホンネで動かす組織論』 ちくま新書 〔'04年〕 photo_ota.jpg 太田 肇 氏

 本書は3部構成になっていて、第1部「なぜ、やる気がでないのか」、第2部「ホンネの抑圧が組織を滅ぼす」において企業や組織におけるタテマエとホンネの乖離とその弊害を説き、第3部で「ホンネからの組織づくり」、つまり旧来の「全社一丸」的な"直接統合"ではなく、「個人が組織の一員でありながら、組織と同じ目標を追求する必要はない」という"間接統合"の考え方を提唱しています。

 組織における人の行動や人間関係についてのさまざまな事例やエピソードには非常に頷かされるものが多く、著者が一般企業などで見られる組織心理のダイナミズムに精通していることがわかります(さすがサラリーマン経験者!)。
 
 一方、提案部分の方は、「内発的動機づけ」(高橋伸夫『虚妄の成果主義』などでも強調されていましたが)など仕事の「面白さ」を重視しすぎるのを戒め、むしろ「目立ちたい」といった承認願望など「健全な利己心」をベースに動機づけを図ることを提唱しています。

 全体を通して読みやすくスラスラと読めてしまいますが、「タテマエ・ホンネ論」というのは意外と、どこまでがタテマエでどこまでがホンネなのかわかりにくく、またタテマエがすべて弊害とは言い切れない部分もあり、その点本書は、やや問題を単純化しすぎた「タテマエ・ホンネ論」になっているのも否めないのではないかと思いました。

《読書MEMO》
●いかに会社に貢献するかよりも、いかに自分が評価されるかが関心事(48p)
●有給休暇の権利を行使しないことは、サービス残業と同じように、やる気をアピールする手段になる。(54p)
●やる気をみせるためのファザード(演技)は組織にとっても社員にとっても有害でこそあれ何の価値も無い、一種の病理現象(中略)。演技を続けるうちにタテマエがホンネに近づくという奇妙な現象が起きている(57p)
●いくら会社が情報を共有するように呼びかけても、その価値に見合う対価が得られない限り、積極的に情報を出そうとはしなくなる。(67p)
●私用を優先させたければ、仕事上の理由を装うことが必要になる。(94p)
●「私」より「公」が優先される組織では、個人はホンネを隠そうとする(98p)
●タテマエの行使を控える会社や管理者に対し、社員は協力的な姿勢や打算を超えた貢献によって報いようとする。(120p)

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目新しさは少ないが、組織腐敗のメカニズムを旨く解き明かしている。

組織戦略の考え方.jpg 『組織戦略の考え方―企業経営の健全性のために』 ちくま新書 〔'03年〕 沼上 幹 (ぬまがみ つよし).jpg 沼上 幹 (ぬまがみ つよし)氏 (一橋大教授)

 硬そうなタイトルですが、ビジネス誌「プレジデント」に連載したエッセイがベースになっていて、文章が平易でスラスラ読めます。
 冒頭で「組織設計の基本は官僚制である」と言っているのが、組織はフラットな方がいいという昨今の通説に対峙して一見ユニークですが、読めばある意味至極当然のことに気づきます。
 組織論の入門書としてよく紹介される本で、体系的に整理されているわけではありませんが、書かれていること1つ1つの内容はオーソドックスです(目新しさは少ないとも言えるかも)。
 マズローの欲求階層説について、自己実現欲求もさることながら、承認・尊厳欲求の充足が大切だということなども、かなり以前から一般に指摘されていることです。

image2.jpg むしろ、組織にいる人に働く組織心理の傾向の分析や説明には、誰もが思い当たるものが多くあるのではないかと思われます(まるで企業小説のように書かれていて、しかも現実味がある!)。
 
 組織腐敗のメカニズムをうまく解き明かし、一応はその診断と処方も提示しているので、自分が関わっている組織の問題に引きつけて読むことができれば、問題解決の方向性やヒントが見えてくるかもしれず、それだけ本書を読む価値は出てくるかと思います。

《読書MEMO》
●組織構造自体は何も解決しない(62p)ムチャクチャな組織に問題があるとしても、組織変革すれば全面的に問題が解決するわけではない(62p)
●(マズローの欲求段階説について)自己実現欲求の追求という方向が美しく、安上がりであるゆえに、多くの人がそこに目を奪われ、所属・愛情欲求や承認・尊厳欲求などを忘れてしまう(87p)
●エリートとノン・エリートの間に、当たり前のことを当たり前に黙々と処理してくれる信頼できる中間層がいないとエリート・システムもうまく機能しない(120p)
●全方位全面戦争型の戦略計画などは、何も考えていない、何も決めていない明確な徴候(132p)
●「厄介者の権力」...育ちの良い優等生の「大人」たちが組織内で多数になると、厄介者の言うことがかなり理不尽であっても、組織として通してしまう場合が出てくる(144p)
●「バランス感覚のある宦官」...(スキャンダルで)密告者が権力を握るのではない。根性のない優等生たちが恐怖にとらわれ、その恐怖心を気持ちよく解消する「美しい言い訳」を創り上げる宦官が権力を握る(171p)
●「キツネの権力」...公組織と業者という二つの世界をつなぐ唯一の橋であることを権力基盤とした、トラの威を借る「キツネの権力」が生み出される。天下った人が二つの組織の間をいろいろかき回す。(201p)

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「敵対的M&A」=「悪いM&A」ということにはならないと。

会社の値段.jpg 『会社の値段』 ちくま新書 〔'06年〕 森生 明.jpg 森生 明 氏 (株)M・R・O代表取締役

 著者は、ハーバード・ロースクールで学び、外資系投資銀行などでM&A業務経験を持つM&Aアドバイザーで、企業価値評価の理論と実践について書いた『MBAバリュエーション』('01年/日経BP社)という著書もある人。

 本書でも企業価値の具体的な算定方法に触れていて、前著に至る入門書ともとれますが、特徴的なのは、なぜ「会社に値段をつけるのか」という根源的問いを発し、「米国流」の〈株主至上主義〉の考え方の背景や本質を解説している点です。
 一方で、日本で使われている「企業価値」という言葉に該当する英語は無いとして、その曖昧さを指摘しており、ライブドアのニッポン放送株事件を実例に引いたこの辺りの説明はわかりやすいものでした。

 要するに日本では、誰にとっての「企業価値」なのかが曖昧であり、「すべてのステークホルダーにとっての企業価値」という日本的な表現を、著者は心情的には理解しながらも何も言っていないのと同じとし、ストレートに「株主価値」基準で「会社の値段」をきちんと算定すべきだというのがその主張で、そのことが社会・経済の混乱を防ぐことに繋がるのだと。

 「敵対的M&A」に対する日本企業や日本人の抵抗感は強いけれども、ハゲタカファンドが暗躍する背後には、市場原理がうまく機能していないという国家や銀行に責を帰すべき問題もあり、また、ライブドア事件などを見てもわかる通り、株式市場における適正な情報開示や投資家の成熟ということも大事であり、ファンドばかりが悪者ではないということでしょうか。

 著者の立場(企業買収のファシリテーター?)からすれば当然の論旨とも思え、また敵対的買収に対する防衛策を説いた他の本とは考え方も前提となる視座も異なるところですが、健全なM&Aとは本来は支配権の売買であって、経営者としての力量を競い合うのがM&Aの本質であり、「シナジー効果」など新たな価値を生むM&Aであれば、「敵対的M&A」だから悪いということにはならないということが、よくわかる本でした。

《読書MEMO》
●株式公開もM&Aも、会社を売るという意味では本質的に違いはない(15p)
●「企業価値を創造するのは、その企業活動に参加するすべての人である」という優等生的回答は何も解決しない(86p)→企業価値創造の担い手は経営者であり、その経営者の評価は株主や投資家が行う(90p)
●経営者は会社の値段を適正に反映した株価が市場でちゃんとつくように情報発信し、説明する努力を惜しむな(177p)

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かなりノー天気では。この本で勇気の出る人がいるのなら、まあいいが。

勇気の出る経営学.gif  『勇気の出る経営学』 ちくま新書 〔'01年〕

 もともとは経営史が専門の著者ですが、起業セミナーなどの講師やパネリスト、はたまたコーディネーターとしても活躍していて、そのノリのいい語り口に接した人も多いと思います。
 本書はそのノリをそのまま活字にしたような感じですが、自分にはかなりのノー天気な内容に思えました。

 経営者に対しては株主市場主義に基づく人的リストラの必要を説いていますが、著者の言う"敗者復活"のシステムが日本の労働市場では充分に機能していないからこそ、安易にリストラに踏み切れないという面もあるでしょう。
 そうした面を知りながら、「楽しい会社」を目指せとか、団塊の世代よ団結せよとか言う、企業や個人に向けての著者の呼びかけには、何か空しさを感じます。

 引いてくる事例が、サウスウエスト航空とかGEとか、あるいはシリコンバレー型のべンチャーだったりして、アメリカ偏重が甚だしい。
 全員がべンチャーを目指せというような論調になっているのも、お気楽。なれない人はどうするのかという視点が見られません。
 リーダーシップ論に至っては、どこかの国の国王やダライ・ラマなど、最初から権威に土台の上にいる人をとり上げ礼賛していますが、たまたま著者と接触があったにしても、説得力は乏しい感じがします。

 社員のエンピロイアビリティを高めることが株主利益に相反するという著者の発想は、まさに人材"飼い殺し"のススメでしょう。
 普通の読者なら、細部のエピソードに感応する前に、全体のバラバラぶりに気づくかと思いますが、書いている本人がそのことに気づいていないことが一番のノー天気では。
 
 ―と突っ込みばかり入れましたが、不況下においてやたら悲観論や脅威論が横行しがちな中で、若い人に向けて楽観的な明るいメッセージを発することで、それにより多少とも勇気が出る人がいるなら、これはこれでいいのかも...。

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「ナレッジマネジメント」の概念整理には役立つが、応用するのはたいへん。

知識経営のすすめ.jpg ナレッジマネジメント.png 野中郁次郎氏.jpg 野中郁次郎・一橋大名誉教授
知識経営のすすめ―ナレッジマネジメントとその時代』ちくま新書〔'99年〕 

 「ナレッジマネジメント」というのは日本にとって"逆輸入"概念であり、では誰が最初に"輸出"したのかと言えば、野中郁次郎氏ということになるのでしょうが、本書は、その野中氏自身と広告会社出身の紺野氏による「知識経営」(ナレッジマネジメント)の一般向け入門書です。

 米国企業がこぞって力を入れた「ナレッジマネジメント」というものが、ベストプラクティス知識の共有を主眼としたもので、情報システムを整備して意味情報を活用しようとするこうした動きは、あくまでも「形式知」寄りの「ナレッジマネジメント」で、本来の「ナレッジマネジメント=知識経営」の初期兆候にすぎず、本書ではそうした「ナレッジマネジメント」を敢えて「狭義の知識経営」とし、本来の「知識経営」とは概念区分しています。
 データベースは「情報」に過ぎず、「知識」は人の中にあるという考えはわかりやすいし、同時に、共有化することの難しさもそこにあると思います。

ナレッジマネジメント2.png 本来の「知識経営」における知識創造のプロセスは、「暗黙知」と「形式知」の相互作用であるべきで、そこで出てくるのが有名な野中理論、「SECI(セキ)」という共同化・表出化・統合化・内面化から成る暗黙知・形式知の変換プロセスですが(「統合化」を「結合化」や「連結化」とすることもある―この理論は先に英文で発表された)、この辺りから、理論的にはきれいだが、実際の経営現場での応用イメージが涌きにくくなるような気がしなくもありません。
 それに救いの手を差し出すかのように、後段で「知識創造」を促す「場」の役割と重要性を説き、そのデザイン方法を示していますが、個人的にはどうしても「理論的にはきれいだけど...」という印象はやはり残りました。
 ホンダの「わいがや」など具体例もありましたが、企業文化として既にそうしたベースがある企業とない企業とでは、障壁の高さが異なると思います。

 今読んでも、本書の趣旨はよくわかるのですが、"職人"的ベテランにとって「暗黙知」は自らの雇用の生命線だったりもするので、暗黙知を形式知に変換することを促すような組織風土やシステムを作らないと、知識ワーカー個々が「志の高さ」を持つといった個人倫理に依存するだけではうまくいかないという気もします。

《読書MEMO》
●SECIプロセス(111p)
◆共同化:暗黙知からあらたに暗黙知を得るプロセス(身体・五感を駆使、直接経験を通じた暗黙知の共有、創出)
◆表出化:暗黙知からあらたに形式知を得るプロセス(対話・思慮による概念、デザインの創造(暗黙知の形式知化))
◆統合化:形式知からあらたに形式知を得るプロセス(形式知の組み合わせによる新たな知識の創造(情報の活用))
◆内面化:形式知からあらたに暗黙知を得るプロセス(形式知を行動・実践のレベルで伝達、新たな暗黙知として理解・学習)

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フリーター分析や漱石読解は興味深い。結論は「自助努力」論?

若者はなぜ「決められない」かm.jpg若者はなぜ「決められない」か.jpg  『若者はなぜ「決められない」か』 ちくま新書 〔'03年〕

 「フリーター」について考察した本書は、フリーター批判の書でも肯定の書でもないとのことですが、フリーターは早い時期に、自らの不安定な立場と可能性の実像を把握しておくべきだと冒頭に述べています。
 著者は、フリーターは労働意欲に乏しいのではなく、「本当の仕事」との出会いを求め "恋愛"を繰り返しているような人たちだとしていますが、「自由でいられる」などのメリットの裏に「単純労働にしか関われない」といったデメリットともあることを認識せよとし、「いろいろな仕事が出来て楽しい」と言っても、それぞれの仕事で関われる限界があるとしているのは、確かにそうだと思いました。

 でも彼らが、親の気持ち知らずでフリーターをしているのではなく、サラリーマンの親の苦労を見てきたからこそ社会に一歩踏み出せないでいる面もあり、また、それを支えるモラトリアム社会の土壌もあるが、これはやや異常な構造だと。
 一方、進路を「決められない」若者だけでなく、自分の将来はこれしかないと「決めつけている」ことで、現状フリーターをしている若者もいると指摘しています。

 著者はフリーリーターを「階級」として考えるようになったと言い、好きなことを仕事にしたいというのは「高等遊民」の発想とも言え、「労働=金儲け」とし勤労を尊敬しない伝統が日本はあるのではないかと。
 明治・大正の文豪の小説の登場人物を引き合いに出し、夏目漱石が「道楽=生き甲斐(小説を書くこと)」と「職業(教師)」を峻別しながらもその間で苦悩したことを、彼の作品の登場人物から考察していて、この辺りの読み解きは面白く読め、また考えさせられます(小説家としての彼自身も「業務目的」と「顧客満足」の間で悩んだと...)。

 その他にも、「オタク」や「ゆとり教育」などへの言及においては鋭い指摘がありましたが、全体結論としては、まず自分をよく見つめ、生計を何で立てるかを考えて、それから好きなことをやりなさいという感じでしょうか。
 当然、フリーター問題の具体的な解決策などすぐに見出せるわけでなく、著者の論は「自助努力」論で終わっている感じもしますが、開業歯科医であり評論家でもある著者の生き方と重なっている分、一定の訴求力はあったかと思います。

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日本的雇用の概説としてはまとまっていて、多角的視点を示していた。

『日本の雇用―21世紀への再設計』3.jpg日本の雇用031.jpg simada.jpg 島田晴雄 氏(略歴下記)
日本の雇用―21世紀への再設計』ちくま新書〔'94年〕 

 本書は'94年に「ちくま新書」の創刊ラインアップの1冊として刊行されたものですが、「日本の雇用」の今までと今後を、国際経済・労働経済の観点から概説し、企業や社会が今後取り組むべき改革の方向性を提言しています。

koyo.jpg 平成不況で雇用リストラが進行し、「終身雇用」が崩れるというのが一般的な見方だとすれば、著者はまず「終身雇用」は法的にも制度的にも保障されていたものではない一種の〈幻想〉であるとし、さらに、不況のためと言うよりも、日本経済が成熟段階にきたこと、円高の進行、高齢化社会の到来などのメガトレンドが、従来の雇用システムの見直しを迫っているのだとしています。

 年功賃金のような「終身雇用」的な考えをベースした制度が従来果たしてきた役割を認めながらも、企業は今後、賃金制度を能力主義化したり、新卒一括採用を見直したり、中高年の能力開発や女性の活用を検討する必要があり、また国は雇用需要を創出するような規制緩和や産業政策が必要になると...。

 「終身雇用」に対する考え方などは今思えば独自のものではないけれど、日本的雇用の概説としては平易な記述でよくまとまっていて、また、賃金プロファイルを住宅ストックと関連づけるなど(要するに若いうちに持ち家が買えるようにすべきだという考え)、人事・賃金制度に対して多角的な視点を示していて、この本自体は入門書として悪くないと思います。

 本書を読むと、「新産業・雇用創出計画」は著者の当時から提言だとわかりますが、著者が「小泉構造改革」に深く関わるにつれて、一部の著作の内容が政策プロパガンダ的になっていった気がします。
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島田晴雄
1943年生まれ。慶應義塾大学教授。2000年より東京大学先端科学技術研究センター客員教授。2001年より経済財政諮問会議(内閣府)専門委員、内閣府特命顧問。2004年より富士通総研経済研究所所長。専攻は労働経済学。
[編集] 主な著書...『日本経済 勝利の方程式』講談社、『痛みの先に何があるのか―需要創出型の構造改革』東洋経済新報社、『住宅市場改革』東洋経済新報社、『ヒューマンウェアの経済学―アメリカのなかの日本企業』岩波書店

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