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宇宙論の歴史と今現在をわかり易く説く。宇宙の未来予測が興味深かった。

ざっくりわかる宇宙論.jpg
竹内 薫.jpg 竹内 薫 氏 竹内薫 サイエンスZERO.jpg Eテレ「サイエンスZERO」
ざっくりわかる宇宙論 (ちくま新書)

 宇宙はどう始まったのか? 宇宙は将来どうなるのか? 宇宙に果てはあるのか? といった宇宙の謎を巡って、過去、現在、未来と宇宙論の変遷、並びに、今日明らかになっている宇宙論の全容を分かり易く説いています。

 パート①「クラシックな宇宙論」では、コペルニクス、ケプラー、ニュートンから始まって、アインシュタインと20世紀の宇宙論の集大成であるビッグバンまで宇宙論の歴史を概観し、パート②「モダンな宇宙論」では、20世紀末の科学革命と加速膨張する宇宙について、更に、宇宙の過去と未来へ思いを馳せ、パート③「SFのような宇宙論」では、ブラックホールやブレーンといった、物理学的に予想される「物体(モノ)」について述べています。

 宇宙論は20世紀末から現在にかけてかなり進化しており、それが今どうなっているのかを知るのに手頃な本です。基本的には数式等を使わず、一般人、文系人間でも分かるように書かれている一方、部分的には(著者が重要と考える点は)かなり突っ込んだ説明もなされており、個人的にも、必ずしも初めから終わりまですらすら読めたわけではありませんでした。

 でも、説明が上手いなあと思いました。まえがきで自身のことを、科学書の書き手の多くがそうである「プロ科学者〈兼〉アマチュア作家」とは違って、「アマチュア科学者〈兼〉プロ作家」であると言っており、科学好きの一般読者のために、宇宙論の現状をサイエンス作家の視点からざっくりまとめたとしています。

 東京大学理学部物理学科卒業し、米名門のマギル大学大学院博士課程(高エネルギー物理学理論専攻)を修了していることから、「プロ科学者〈兼〉アマチュア作家」ではないかという気もしていたのですが、最近の共著も含めた著作ラッシュやテレビ出演の多さなどをみると、やはり作家の方が"本業"だったのでしょうか? 確か推理小説も書いているしなあ。但し、小説やエッセイ的な著者よりも、こうした解説書・入門書的な著書の方が力を発揮するような印象があり、本書はその好例のようにも思います(Eテレの「サイエンスZERO」のナビゲーターはハマっているが(2011年に放映された"爆発迫るぺテルギウス"の話題を本書コラムで扱っている)、ワイドショーとかのコメンテーターとかはイマイチという印象とパラレル?)。
サイエンスZERO「爆発が迫る!?赤色超巨星・ベテルギウス」(2011年11月26日 放送)

 「作家」としての自由さからというわけはないでしょうが、仮説段階の理論や考え方も一部取り上げ(著者に言わせれば、「科学は全部『仮説にすぎない』」(『99・9%は仮説』('06年/光文社新書))ということになるのだろうが)、結果的に、宇宙論の"全容"により迫るものとなっているように思いました。

 印象に残ったのは、パート②の後半にある宇宙の終焉と未来予測で、太陽の寿命はあと50億年くらい続くとされ、太陽がエネルギーを使い果たして赤色巨星になると地球は呑みこまれるというのが一般論ですが、その前に太陽は軽くなって、その分地球を引っ張る力が弱まり、地球の軌道が大きくなって実際には呑みこまれないかもしれないとのこと。

 それで安心した―というのは、逆に50億年という時間の長さを認識できていないからかもしれず、6500万年前にユカタン半島に落下し恐竜を絶滅させたと言われるのと同規模の隕石が地球に落下すれば、今度は人類が滅ぶ可能性もあるとのことです。仮に地球が太陽に呑みこまれる頃にまで人類が生き延びていたとして、火星に移住するのはやがて火星も呑みこまれるからあまり意味が無いとし(これ、個人的には一番現実的だと思ったのだが)、と言って、他の星へ移住するとなると、最も近いケンタウルス座アルファ星域に行くにしても光速で4年、マッハ30の宇宙船で光速の3万倍、12万年もかかるため、ワームホールでも見つけない限り難しいのではないかとしており、確かにそうかもしれないなあと思いました(冥王星に移住っていうのはどう?―と考えても、その前に人類は滅んでいる可能性が高いだろうけれど、つい、こういう提案をしたくなる)。

 著者は更に宇宙の未来に思いを馳せ、このまま宇宙の加速膨張が進めば、空間の広がりが光速を超え、1000億年後には真っ暗な宇宙になるだろうと(その宇宙を観る地球ももう無いのだが)。更に、宇宙の年齢137億年を約100億年とし、ゼロが10個つくのでこれを「10宇宙年」とすると、12宇宙年から、宇宙の加速膨張のために、遠くの銀河は超光速で遠ざかるようになって、まばらに近くの銀河や星だけが見えるようになり、14宇宙年から40宇宙年の間に宇宙が「縮退の時代」を迎え、40宇宙年になると陽子が全て崩壊して原子核も無くなり、光子や電子のような素粒子に生まれ変わり、要するにモノと呼べるものは宇宙から全て消えると。そして、40宇宙年から100宇宙年の間、宇宙は「ブラックホールの時代」となり、100宇宙年になるとブラックホールも消えて「暗黒の時代」を迎えるそうです。イメージしにくいけれど、理論上はそうなる公算が高いのだろうか。

 「未来永劫」などとよく言いますが、宇宙論における「未来」というのは、我々が通常イメージする「未来」と100桁ぐらい差があるということなのでしょう。

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事件そのものの重さ、その背景にあるものの複雑さなどからいろいろと考えさせられる1冊。

ルポ 虐待2.jpg ルポ 虐待s.jpgルポ 虐待: 大阪二児置き去り死事件 (ちくま新書)

大阪二児置き去り死事件1.jpg 2010年夏、3歳の女児と1歳9カ月の男児の死体が、大阪市内のマンションで発見された。子どもたちは猛暑の中、服を脱ぎ、重なるようにして死んでいた。母親は、風俗店のマットヘルス嬢で、子どもを放置して男と遊び回り、その様子をSNSで紹介していた―。

 本書は新書にしては珍しく、この「大阪二児置き去り死事件」のみに絞ってその経緯と背景を追った(単行本型?)ルポルタージュです。事件発覚時にはその母親の行動から多くの批判が集まり、懲役30年という重い判決が下されて世間は溜飲を下げたかのように見えた事件ですが、本書では、なぜ2人の幼い子は命を落とさなければならなかったのかを、改めて深く探っています。

 その探求の特徴の1つは、母親の成育歴を、その両親の夫婦関係まで遡って調べ上げている点で、そこから、この母親自身が虐待(ネグレクト)を受けて育ったこと、その結果としての解離性障害と考えられる行動傾向が見られること、更には、加害女性が「女性は良き母親であるべき」という社会的規範に強く縛られていたことなどを導き出しています。

 こうした"解釈"については賛否があるとも思われ、このケースの場合、所謂"虐待の連鎖"に該当すると考えられますが、だからといってその罪が軽減されるものでもなく、また、他の虐待の事例において無暗に"虐待の連鎖"による説明を準用するべきものでもないと思います。更には、解離性障害についても、正常と異常の間に様々なレベルのスペクトラムがあり、また、母親が子どもを放置して男と遊び回っていたといったことが、そうした"障害"よってその罪を免れるものでもないでしょう。

 但し、本書を読むにつれて、この事件の背景には、母親個人の問題だけでなく、児童相談所の介入の失敗など(おそらくこの事例は事前に情報が殆どなく、児童相談所としてもどうしようもなかったのではないかとは思うが)、子ども達の危機的な状況を見抜けなかった行政機関の問題や、(離婚の原因が母親の浮気であったにせよ)殆ど親子を見捨てるような感じですらあった、離婚した父親及びその親族の問題などがあったことを知るこができました。

 とりわけ、裁判で父親側の遺族が母親に極刑を望んだというのは、虐待死事件において珍しいケースではないでしょうか。これまでの多くの虐待死事件では、遺族側も決して重い刑を望んではいないといった状況が大半で、家族間の殺人における卑属殺人は処罰感情の希薄さから刑が軽くなる傾向があったように思われ、一方、こうした加害女性本人と遺族側の対立というのはどちらかというと少数で、このこともこの事件の特徴をよく表しているように思います

 裁判では、検察側は、母親が最後に家を出た際に子ども2人の衰弱を目の当たりにしていたなどの点を挙げ、母親に殺意があったとして、無期懲役を求刑したのに対し、弁護側は「被告も育児放棄を受けた影響があった」として子どもに対する殺意はなく保護責任者遺棄致死罪に留まるとして、その主張には大きな隔たりがありましたが、結局、大阪地裁は、母親は子供に対する「未必の殺意」があったと認定、懲役30年の実刑判決を下し(本書にもある通り、二分した精神鑑定結果の"解離性障害"の方は採り上げなかった)、この判決及び判旨は最高裁まで変わることがありませんでした。

 個人的には、25歳の女性に懲役30年という判決は重いものの、被告はそれ相応の罪を犯したものと考えます。ただ、気になるのは、判決に応報感情が大きく反映されたのではないかという点であり(それは、判決によって事件を終わらせたいという遺族感情でもあるが、本書の狙いの1つは、被告個人に全てを押し付けてしまっていいのかという疑問の投げかけにあるように見える)、国家刑罰権は被害者(遺族)感情のみによって根拠づけられるものではないことは自明であるものの、実際にこの事件では、裁判官がより遺族感情に応えようとしたのではないかという気もします。

 逆の見方をすれば、今までの虐待死事件の判決が、逆の意味で「事件に蓋をしてしまおう」という遺族感情に応えてしまった結果、あまりにも軽いのではないかと―。勿論、量刑を重くすれば児童虐待が無くなるというものでもないでしょうが、全く抑止力にはならないとも言い切れないでしょうし、量刑の公平性の観点から見て、これまでの諸事件の初判決がおかしかったように感じます。

 教育機関や児童相談所の介入の失敗など例も、この事件に限らず、何度も繰り返されています。個人的には、児童虐待に特化したソーシャルワーカー制度を作って、プロを養成した方が良いように思います。米国などでは、ソーシャルワーカーのステイタス(社会的地位)は高く、その分、「介入」に失敗し、虐待やその再発を見抜けなかった場合は資格を失うなど(州によるが)、かなりのオブリゲーションを負っています。

 全体を通して真摯なルポであり、著者の見方の(主張と言うより、ルポを通じての問題提起となっているわけだが)その全てに賛同するというものでもないですが、これだけ調べ上げたというだけでも立派。事件そのものの重さもそうであるし、その背景にあるものの複雑さ、難しさからも、いろいろと考えさせられる1冊でした。

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憤慨し考えさせられた北関東の事件。2冊とも真摯なルポだった。

ルポ 居所不明児童.jpg  居所不明児童1.jpg FFN  ルポ 母子家庭.jpg
石川 結貴 『ルポ 居所不明児童: 消えた子どもたち (ちくま新書)』    小林 美希 『ルポ 母子家庭 (ちくま新書)

祖父母殺害2審.jpg 2014年春に北関東のアパートで祖父母を殺害して金品を奪ったとして強盗殺人などの罪に問われた少年(事件当時17)の控訴審で、東京高裁は今月['15年9月]4日、懲役15年とした地裁判決を支持し、弁護側の控訴を棄却、判決では「母親から少年に強盗殺人の指示があった」と認めたものの、「極めて重大な犯罪で、量刑を見直すには至らない」と指摘し、「刑が重すぎる」という弁護側の主張を退けました。この事件の経緯は本書 石川結貴『ルポ 居所不明児童―消えた子どもたち』('15年4月)に詳しく書かれています。

 少年は11歳から学校に通えず、一家で各所を転々としながらホームレス生活をする「居所不明児童」で、しかも義父から恒常的に虐待を受けており、母親と義父の指示で親戚に金銭を無心させられていて、高裁判決で裁判官も認定したように、母親が少年に(結果として事件と被害者となった)祖父母から「殺してでも借りてこい」と指示したとのことです。母親は老夫婦を殺害した公園で合流した少年に再び夫婦宅に行かせて現金約8万円やキャッシュカードを奪ったとのことです。本書によれば、母親は強盗・窃盗の罪で懲役4年6ヵ月の判決が確定して服役中で、息子の公判に証人として出廷した際には、「強盗殺人は私が指示したわけではないから、○○がどうしてそんなことをしたかわかりません」と他人事のように言ったとのこと。確かに、未成年ながらも2人を殺害した罪は重いですが、著者も判決に疑問を投げかけているように、相対的にみて母親の罪が軽すぎるように思いました。見方によっては、"主犯"は母親で、"実行犯"は息子であるというふうにも取れるのではないでしょうか(母親の罪が軽いのは刑法の落とし穴のように思える)。

 本書によれば、半世紀の間に2万4000人もの小中学生が学校や地域から消えているとのこと、本書では、冒頭の川口の少年のケースを初め、幾つかの「居所不明児童」に纏わる事件をリポートしていますが、往々にして児童虐待やネグレクトなどが「居所不明児童」の背景にあることが窺えます。

 一方で、そうした「居所不明児童」をチェックし、追いかけて、置かれている危機的状況から救い出すための行政の体制というものが、あまりに無策であることも、本書から窺い知ることができます。とりわけ、個人的にこれは問題だなと思ったのは、学校関係者が、児童が突然登校しなくなり、母子とも居所不明になっても、DVに遭ってシェルター(DV被害者の避難所)に入ったのだろうと勝手に推測して深く跡を追わなかったりすることで、近年、DV被害者が住民票を移さないまま居所のみを変えることが認められていて、児童がそれに付随している場合、新・旧居所の教員委員会はその情報を得ているが、元の学校には知らされていないとのことです。知らされていないから判らない、判らないから責任を負えないという学校側の言い分を許してしまうようなシステムに問題があると思われます。

 本書では、シングルマザーが育児放棄をするケースなどもリポートされていますが、これはDVの問題と併せて、同じ〈ちくま新書〉の小林美希『ルポ 母子家庭』('15年5月)で扱っているテーマに連なる問題でもあります。この本に出てくる何人かの女性たちは、生活のバランスが少しでも崩れると、瞬く間に再貧困になってしまい、望まぬ風俗で仕事したり、経済的な安定を求めて望まぬ再婚をしたりすることを繰り返しています。確かに、本書でも調査統計があるように、シングルマザーの場合、仕事に就くにあたって、子供がいるということで賃金が最初から抑えられる傾向にあり(その度合いは世界中で日本がダントツに高い)、社会の偏見や互助精神の欠如といったものを感じないわけにはいきません。しかし、一方で、『ルポ 母子家庭』では、自助努力と公助システムの活用などの組み合わせで、置かれている厳しい環境を乗り越え、健全に生活を成り立たせている母子家庭も紹介されています。高額歴または専門技能を持っていてそれなりの仕事につけて、お金で解決できる問題はお金で解決したとか、個々の条件の違いはあるかもしれませんが、全部を環境のせいにしてしまうのではなく、本人が努力することも大切であるし、母子家庭の育児をフォローし、子供の相対的貧困を減らす社会システムの整備、充実も今後もっと必要になってくるように思われました。

 個人的には、『ルポ 居所不明児童』を読んで、こんな鬼のような母親がいるのか、また、その犯した罪に対する罰がこの程度のものなのかと憤慨し、『ルポ 母子家庭』を読んで、妊娠が分かって姿をくらます男や結婚後は働かなくなる男など、こんな責任感ゼロ男がいるのかとまたも憤慨してしまいましたが、2冊とも真摯なルポであったように思います。

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入門書として分かり易く、また全体にバランスよく纏まっている。将来予測は興味深かった。

これだけは知っておきたい働き方の教科書.jpg
  あんどう・むねとも.jpg 安藤至大(あんどう・むねとも)氏[from ダイヤモンド・オンライン
これだけは知っておきたい働き方の教科書 (ちくま新書)

 NHK(Eテレ)の経済学番組「オイコノミア」やBSジャパン「日経みんなの経済教室」などにも出演している新進気鋭(だと思うが)の経済学者・安藤至大氏による「働き方」の入門解説書。1976年生まれの安藤氏は、法政大学から東京大学の大学院に進み、現在は日本大学の准教授ですが、最近はネットなどで見かけることも多く、売出し中という感じでしょうか。

 第1章で、「なぜ働くのか?」「なぜ人と協力して働くのか?」「なぜ雇われて働くのか?」といった基本的な疑問に答え、第2章で、「働き方の現状とルールはどうなっているのか?」「正社員とは何か?」「長時間労働はなぜ生じるのか?」「ブラック企業とは何か?」といった日本の「働き方の現在」を巡る問題を取り上げ、第3章で「働き方の未来」についての予見を示し、最終第4章で今自分たちにできることは何かを説いています。

 経済学者として経済学の視点から「労働」及びそれに纏わる今日的課題を分かり易く説明するとともに、労働法関係の解説も織り交ぜて解説しており(この点においては濱口桂一郎氏の著作を想起させられる)、これから社会人となる人や既に働いている若手の労働者の人が知っておいて無駄にはならないことが書かれているように思いました。

 まさに「教科書」として分かり易く書かれていて、Amazon.comのレビューに、「教科書のように当たり前なことの表面だけが書かれていて退屈だった」というものがありましたが、それはちょっと著者に気の毒な評価ではないかと。元々入門解説書として書いているわけであって、評者の視点の方がズレているのではないでしょうか。個人的には悪くなかった言うか、むしろ、たいへん説明上手で良かったように思います。

 例えば「正規雇用」の3条件とは「無期雇用」「直接雇用」「フルタイム雇用」であり、それら3条件を満たさないものが「非正規雇用」であるといったことは基本事項ですが、本書自体が入門解説的な教科書という位置づけであるならばこれでいいのでは。労働時間における資源制約とトレードオフや、年功賃金と長期雇用の関係などの説明も明快です。

 第2章「働き方の現在を知る」では、こうした基本的知識を踏まえ、日本的雇用とは何かを考察しています。ここでは、「終身雇用」は、高度成長期の人手不足のもとでのみ合理的だったと思われがちだが、業績変動のリスクを会社側が一手に引き受けることにより、平均的にはより低い賃金の支払いで労働者を雇うことができ、その企業に特有な知識や技能を労働者に身につけさせるという点においても有効であったとしています。また、法制度の知識も踏まえつつ、解雇はどこまでできるか、ブラック企業とは何かといったテーマに踏み込んでいます(著者は、解雇規制は緩和する前に知らしめることの方が重要としている)。

 更に第3章「働き方の未来を知る」では、著者の考えに沿って、まさに「働き方の未来」が予測されており、この部分は結構"大胆予測"という感じで、興味深く読めました。

 そこでは、少子高齢社会の到来によって近い将来、労働力不足が深刻化し、高齢者は働けるうちは働き続けるのが当たり前になると予測しています。更に、妻や夫が専業主婦(夫)をしているというのはとても贅沢なことになるとも。一方で、労働力不足への対処として外国人労働者や移民の受け入れが議論されるようにはなるが、諸外国の経験も踏まえて議論はなかなか進まないだろうともしています。

 また、機械によって人間の仕事が失われる可能性が今より高くはなるが、仕事の減少よりも人口の減少の方が相対的にスピードが速く、やはり、労働力を維持する対策が必要になるとしています。

 雇用形態は多様化し、安藤至大 (あんどうむねとも) (@munetomoando).jpg限定正社員は一般化して、非正規雇用も働き方の1つの選択肢として考えられ、また、社会保障については、企業ではなく国の責任で行われる方向へ進み、職能給や年功給は減少して職務給で雇われる限定正社員が増えるなどの変化が起きる一方で、新卒一括採用は、採用時の選別が比較的容易で教育コストなども抑えられることから、今後もなくならないだろうとしています。

 入門書の体裁をとりながらも、第3章には著者の考え方が織り込まれているように感じられましたが、若い人に向けて、今だけではなく、これからについて書いているというのはたいへん良いことだと思います。個別には異論を差し挟む余地が全く無い訳では無いですが、全体としてはバランスよく纏まっており、巻末に労働法や労働経済に関するブックガイドが付されているのも親切です(「機械によって人間の仕事が失われる」という事態を考察したエリク・ブリニョルフソン、 アンドリュー・マカフィー著『機械との競争』('13年/日経BP社)って最近結構あちこちで取り上げられているなあ)。
安藤至大 (あんどうむねとも) (@munetomoando)

《読書MEMO》
●目次
はじめに
第1章 働き方の仕組みを知る
1 私たちはなぜ働くのか?
生活のために働く
稼得能力を向上させるために働く
仕事を通じた自己実現のために働く
2 なぜ人と協力して働くのか?
自給自足には限界がある
分業と交換の重要性
比較優位の原理
比較優位の原理と使い方
「すべての人に出番がある」ということ
3 なぜ雇われて働くのか?
なぜ雇われて働くのか
他人のために働くということ
法律における雇用契約
雇われて働くことのメリットとデメリット
4 なぜ長期的関係を築くのか?
市場で取引相手を探す
長期的関係を築く
5 一日にどのくらいの長さ働くのか?
「収入-費用」を最大化
資源制約とトレードオフ
限界収入と限界費用が一致する点
6 給料はどう決まるのか?
競争的で短期雇用の場合
長期雇用ならば年功賃金の場合もある
取り替えがきかない存在の場合
給料を上げるためには
コラム:労働は商品ではない?

第2章 働き方の現在を知る
1 働き方の現状とルールはどうなっているか?
正規雇用と非正規雇用
正規雇用の三条件
7種類ある非正規雇用
非正規雇用の増加
2 正社員とはなにか?
正規雇用ならば幸せなのか
正社員を雇う理由
正規雇用はどのくらい減ったのか
3 長時間労働はなぜ生じるのか?
長時間労働の規制
長時間労働と健康被害の実態
なぜ長時間労働が行われるのか
一部の労働者に仕事が片寄る理由
4 日本型雇用とはなにか?
定年までの長期雇用
年功的な賃金体系
企業別の労働組合
職能給と職務給
中小企業には広がらなかった日本型雇用
5 解雇はどこまでできるのか?
雇用関係の終了と解雇
できる解雇とできない解雇
日本の解雇規制は厳しいのか
仕事ができる人、できない人
6 ブラック企業とはなにか?
ブラック企業はどこが問題なのか
なぜブラック企業はなくならないのか
どうすればブラック企業を減らせるのか
コラム:日本型雇用についての誤解

第3章 働き方の未来を知る
1 少子高齢社会が到来する
生産年齢人口の減少
働くことができる人を増やす
生産性を向上させる
2 働き方が変わる
機械により失われる仕事
人口の減少と仕事の減少
「雇用の安定」と失業なき労働移動
3 雇用形態は多様化する
無限定正社員と限定正社員
働き方のステップアップとステップダウン
非正規雇用という働き方
社会保障の負担
4 変わらない要素も重要
日本型雇用と年功賃金
新卒一括採用
コラム:予見可能性を高めるために

第4章 いま私たちにできることを知る
1 「労働者の正義」と「会社の正義」がある
「専門家」の言うことを鵜呑みにしない
目的と手段を分けて考える
会社を悪者あつかいしない
2 正しい情報を持つ
雇用契約を理解する
労働法の知識を得る
誰に相談すればよいのかを知る
3 変化の方向性を知る
働き方は変わる
失われる仕事について考える
「機械との競争」をしない
4 変化に備える
いま自分にできることは何か
これからどんな仕事をするか
普通に働くということ

おわりに

ブックガイド:「働くこと」についてさらに知るために

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日本的雇用の在り方に影響力を持ち得る視座を提起。第5編の提案部分の更なる深耕に期待。

日本の雇用と中高年.jpg日本の雇用と中高年 (ちくま新書)』 若者と労働.png若者と労働 「入社」の仕組みから解きほぐす (中公新書ラクレ)

 同著者の『新しい労働社会』(岩波新書)、『日本の雇用と労働法』(日経文庫)、『若者と労働』(中公新書ラクレ)に続く新書第4弾であり、日本の雇用社会は仕事に人を割り振る「ジョブ型」ではなく、人に仕事を割り振る「メンバーシップ型」であって、それが時代の変化とともに歪みを生じさせているとの現状認識が出発点となっている点はこれまでと同様です。その意味ではこれまでの著書の「続編」との印象もありますが、著者の場合、意識して一作ごとに分析の切り口やフォーカスする論点の比重のかけ方を変えているようです。

 前著『若者と労働』では日本の若者労働問題を取り上げ、国際比較と歴史的分析をもとにその本質的構造を解き明かしてみせたのに対し、今回は、日本の雇用問題の中心である中高年問題、つまり、日本の中高年労働者がその人件費の高さゆえに企業から排出されやすく、排出されると再就職しにくいという問題を取り上げ、戦後日本の雇用システムと雇用政策の流れを概観しています。

 第1章から第4章において、日本の中高年問題の文脈を雇用システムの歴史的変遷に探り、続いて、日本型雇用において労働法や判例法理がどのように確立しどのような高齢者政策がとられてきたのか、また、年齢差別禁止政策という観点からはどのような歴史的変遷を辿ってきたのかを解説するとともに、「管理職」問題、中高年を狙い撃ちした成果主義や最近また議論が再燃しているホワイトカラー・エグゼンプションなど近年のトピカルな問題にまで言及しています。

 著者は、中高年や若者を巡る雇用問題を「中高年vs.若者」という対立軸で捉えてどちらが損か得かで論じることは不毛であり、雇用問題は雇用システム改革の問題として捉えることが肝要だとしており、ここまでに書かれている歴史的変遷も、それ自体「人事の教養」として知っておいて無駄ではないかと思いますが、ここでは、日本型雇用システムの歴史を探ることでその本質や特徴を浮き彫りにするという意図のもとに、これだけの紙数を割いているようです。

 そして、最終章である第5章において、前著『若者と労働』で若者雇用問題への処方箋として提示した「ジョブ型正社員」というコンセプトが、本書のテーマである中高年の救済策にもなるとしています。「ジョブ型正社員」の是非を巡る労使間の議論が、解雇規制緩和への期待や懸念が背景となってしまっている現状の議論の水準を超えて、労使双方にとって有意義な雇用システム改革という新展望の上に展開されているという点では、本書にも紹介されている1995年の日経連の『新時代の「日本的経営」』にも匹敵する、日本的雇用の在り方に影響力を持ち得る視座を提起しているように思われました。

 一方で、「ジョブ」の概念が明確でないのが日本の雇用社会の特質であるとしてきた著者のこれまでの論調の中で、「ジョブ型正社員」というものを今後どう構築していくかという課題は、その実現においてクリアにしなければならない多くの問題を孕んでいるようにも思えました。例えば、経団連の「人事賃金センター」は、かつて日経連時代には「職務分析センター」と呼ばれていたが、そうした名称が用いられなくなったこと自体が、「ジョブ」を規定しそれを日本的雇用の中で活用していくことの"挫折"とその困難を物語っているのではないかと。著者ももちろん、その困難さはよく解ったうえで、問題提起しているわけですが...。

 問題解決の一つの視点として、戦後の日本型雇用システムが企業内で労働者とその家族の生活をまかなうことを追求した結果、公的社会保障制度としてまかなわれるべきものが「メンバーシップ型」正社員の処遇制度の中に織り込まれ、それが中高年の年功賃金につながった―つまり、労働も福祉も一緒くたにして企業が負うことになったことを挙げており、これはなかなか穿った見方であるように思いました。個人的には、企業の福祉からの撤退を訴えた橘木俊詔氏の『企業福祉の終焉―格差の時代にどう対応すべきか』(2005/04 中公新書)を想起しました。橘木氏は、報酬比例の保険料徴収及び給付方式となっている厚生年金保険など国の制度も含め、企業福祉に社会的格差の拡大原因を認めています。

 しかし、終身雇用をベースにした長期決済型の年功制を維持している間も、生産性に見合わない高給取りの中高年が真っ先にリストラ対象となった折も、そうした本質の部分について議論されることが無かった(能力主義であるとか現状において生産性に比べて賃金が割高であるとかいう理屈の上に韜晦されてしまった)のは、「メンバーシップ型」という概念が概念として対象化されず、それでいて企業が、何よりも人事部を中心にその(メンバーシップ型という考え方の)中にどっぷり浸り切っていたためであり、こうして「メンバーシップ型」として概念化し対象化すること自体、意義のあることのように思います。

 では、今後の施策面を考えるとどうでしょうか。企業における中高年の人事施策において、専門職制度の導入というのが一時流行り、今でも多くの企業がその制度を維持しています。これが建前としては、今言っているところの「ジョブ型」でありながら、実態としては単なる「非ライン(管理職)」の処遇の仕方であったことは間違いないかと思われます。こうした実態がある中での「ジョブ型正社員」の新たな位置づけというのはどのようになっていくのか、これは、企業によっては「専門職」が(かつてサラリーマン漫画に描かれたような「窓際族」はすでに実態として多くの企業ではほぼ"絶滅"しているとみるにしても)、一般職の延長での仕事しかしていない「エキスパート」が主なのか、その中に相当数の「スペシャリスト」「プロフェッショナル」と呼ぶべき、企業にとって付加価値貢献度の高い、企業経営を存続させていくべきで必要欠くべからざる人材が含まれているのかによっても違ってくるように思われます。

 日本の若者雇用問題の解決策として、入り口のところで、「ジョブ型正社員」をスタンダードとしてみてはという提案は、それがどれぐらいのスピードで定着していくかは分かりませんが、かつて牧野昇(1921-2007)が『新・雇用革命』(1999/11 経済界)で指摘した、日本のサラリーマンが「社長レースからだれも降りない理由」は「負けても失うものが意外に少ないから」との指摘―つまり、「ゼネラリストとして成功しないより、スペシャリストとして成功した方が、それは幸福だろう。しかし、ゼネラリストとして成功しないことと、スペシャリストとして成功しないことの間には、大きな格差がある。だからスペシャリストを志向することはリスクなのである。少なくとも今まではそうであった」という、その「今まで」の在り方を見直すことにつながっていくでしょう。それに先立つこと12年前に津田眞澂(1926-2005)は『人事革命』(1987/05 ごま書房)において、「専門職能を持たない従来型のゼネラリストは不要になる」と予言しています。

 「ジョブ型正社員」を若者雇用に適用するにしても、従来の新卒採用面接の考え方のパラダイム変換が求められたりはするでしょうが(実際殆どの企業がそうしたパラダイム変換を経ることなく今日に至っているのではないか)、それでも処方箋としては中高年問題の解決において「ジョブ型正社員」の考え方を採り入れるよりはシンプルなように思われ、逆に言えば、それだけ、中高年の方は問題が複雑ではないかという気がします。

 その意味では、本書第5章を深耕した著者の次著を期待したいと思いますが、こうした期待は本来著者一人に委ねるものではなく、実務者も含めた様々な人々の議論の活性化を期待すべきものなのでしょう。そうした議論に加わる切っ掛けとして、企業内の人事パーソンを初め実務に携わる人が本書を手にするのもいいのではないでしょうか。

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批判もある本だが、尖閣・竹島・北方領土問題に関する基礎知識を得るうえでは参考になった。

日本の国境問題1.jpg 日本の国境問題2.jpg 中国のレーダー照射.jpg「レーダー照射で中国外務省"知らなかった"?」
日本の国境問題 尖閣・竹島・北方領土 (ちくま新書)』 中国外務省 華春瑩報道官(TBS NEWS/2013年2月6日)

 元外務省国際情報局長による本で、2010年以降、尖閣諸島で日中関係が緊迫して以来、尖閣・竹島・北方領土問題を巡る本が多く刊行された中で、実際に外交に携わってきた元官僚であり、その道の"権威"とされている人のものであるだけに、最もよく読まれた本の一冊ではないかと思われます。

 一方向的なナショナリズムの視点を離れて、相手国の視点も取り入れ冷静に国境問題の歴史的経緯を明らかにしてい ますが、その分、「尖閣についての中国側の主張を著者はそのまま肯定していて呆れてしまった」などと著者を"売国奴"呼ばわりするような批判も多く寄せられているようです。

 著者は以前からtwitterで、本書に書かれている内容を断片的に発信しており、その時から著者に対する批判もあって、ネット上で語調の強い遣り取りも見られましたが、本書においては冷静に歴史を見直し、解決に向けての道筋を見出そうとする姿勢が窺えたようにも思います。

 個人的には、竹島に関して日本古来の領土だと思っていたのが、本書を読んで若干認識が変わりましたが、例えば「竹島は米国地名委員会が韓国領と決定した」ことなどをもってきていることに対しても、一委員会の決定を引いてくるなど恣意的な資料抽出方法であり、中国におもねる姿勢がけしからん、との批判があるようです。

 但し、本書は一応そうした批判にも応えるような内容になっているように思われ、論拠の援用が"恣意的"であるかどうかということになると、もう素人レベルでは判断しようがないような気もします(著者はこの道の専門家中の専門家なんでしょ。結局、twitterでの著者への匿名攻撃がネット上のブックレビューで繰り返されているだけのようにも思う)。

 冒頭に、尖閣・竹島・北方領土問題の紛争では実際にアメリカが軍事介入する可能性はほぼない―日米安保は日本の施政下になければ適用されないため、これらは紛争の対象外となる、と述べていて、まあ、大方そうであろうし、経済面で相互に大きな恩恵を蒙っている日本と中国が戦争になる可能性も低いように思います。

 仮にそうした兆しがあるとすれば、それは、著者も様々な国際紛争の歴史の経緯を振り返ったうえで指摘するように、国際紛争を緊張させることによって国内的基盤を強化しようとする人物が現れた時でしょう。ネット右翼などがそうした人物を待望したり焚き付けたりする分には大したことないと思うけけれど、戦争によって利益を得ようとするグループが台頭してきたりするとマズいかも。

 興味深かったのは、尖閣問題は「棚上げ」とすることでの日中合意が、国交回復時の周恩来からその後の鄧小平へと引き継がれてきたのを、いま日本政府が「尖閣列島に日本古来の領土であり、国境問題は存在しない」と言うことは(竹島・北方領土については韓国・ロシアが同じようなことを言っているわけだが)、即ち先の「棚上げ」合意の否定であり、実はこれが中国の軍部や右派(ナショナリズム)勢力にとっては望むところであり、周恩来、鄧小平ら過去のカリスマ指導者の呪縛から解き放たれて、当該地域での軍事行動についての国民世論の賛同を得やすくなるという指摘でした。

中国のレーダー照射2.jpg 今回の中国艦船による「レーダー照射事件」などは、まさにその勢いでやったという印象。「照射しただけでしょう。戦争にはなりませんよ」「正当な私たちの国家の防衛的行動だと思います」という"北京市民の声"が報じられています。
 一方で、本書にもあるように、中国には日本との経済的互恵を優先して考えるグループがあるのも事実であり、中国も一枚岩どころか"三枚岩"状況みたいです。
「中国艦船が海自護衛艦にレーダー照射」2013年2月5日 17時50分 NHKニュース

 それにしても中国当局は軍部を末端まで統制しきれていないのか。中国外務省報道官の記者会見での「この問題については関連部門に聞いてください」とのコメントには、いつもの開き直りとは別に、歯切れの悪さが滲んでいました。著者は今回の事件について「一番大切なのは考えなければならないのは、軍事的な解決手段はないと分かるべき。どういうように紛争をエスカレートさせないか考える時期と思う。『なめられた』『なめられない』で国際関係を判断すると大変危険」であるとコメントしています。

 本書を読むと、そもそも国境というのは戦争や紛争の歴史と共に揺らいでおり、"古来の領土"というもの自体が、必ずしもそうハッキリ言えるものでもなかったりするということが分かり、もちろん外交交渉を通して国としての主張はしていかなければならないけれど、例えば対中国との交渉がその最たる留意事項になりますが、軍事的に対抗するという選択肢はないという前提に立ったうえでのそれであるべきかと思いました。

 では、どうすればよいかということについての提言も本書末尾に「九つの平和的手段」が挙げられていて、但し、やや抽象的で、類書のレベルを超えるものではなかったという印象を受けましたが、全体を通して、尖閣・竹島・北方領土を巡る国境問題に関する基礎知識を得るうえでは参考になった本でした。

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2010年までの先史人類学史の最先端。但し、まだ全体の1割ぐらいしか分かっていない?

ヒトの進化 七00万年史.jpg                       人類進化99の謎.jpg  人類進化の700万年.jpg
ヒトの進化 七00万年史 (ちくま新書)』['10年] 河合 信和 『人類進化99の謎 (文春新書)』 ['09年] 三井 誠 『人類進化の700万年―書き換えられる「ヒトの起源」 (講談社現代新書)』['05年]

 同じようなタイトルでの本で、人類学者の三井誠氏の『人類進化の700万年』('05年/講談社現代新書)を読んだ後に、科学ジャーナリストである著者の前著『人類進化99の謎』('09年/文春新書)を読んで、そちらはQ&A形式の入門書で、分かり易かったけれども、まあ、「入門の入門」という感じだったかなと。それで、今度も易しいかなと思って本書を読んだら、三井誠氏の『人類進化の700万年』よりも専門的で、結構読むのが大変でしたが面白かったです。

ラミダス猿人の化石人骨.jpg 冒頭で、700万年の人類の進化史には、①サヘラントロプスなど初期ヒト属の誕生(700万年前)、②初期型ホモ属(アフリカ型ホモ・エレクトスなど)の分岐(250万年前)、③ホモ・サピエンスの出現(20万年前)の3つの画期があったとし、本書前半部分は、700万年前から数十万年前までのホミニン(ヒト属)の発見史となっており、後半部分はネアンデルタール人やホモ・サピエンス(現生人類)を主に扱っており、三井誠氏の『人類進化の700万年』と比べると、"始まり部分"と"直近部分"が詳しいという印象。

ラミダス猿人(通称アルディ)の化石人骨(「Science」誌2009年10月2日)

 第1章(700万~440万年前)では、ラミダス(440万年前)と最古の三種(サヘラントロプス、ガタッパ、オロリン)について解説されており、「アルディ」と名付けられたラミダス猿人(アルディピテクス・ラミダス)のは発見には、日本人人類学者の諏訪元氏も関わっていたのだなあと。チンパンジーやゴリラとの最大の違いは、一雄一雌の夫婦生活を送っていたと考えられることらしいです(ホミニンであるということを定義する条件は「直立二足歩行」であるが、二足歩行と一夫一妻制の関係については、三井氏の著書に面白い考察がある)。

アファール猿人.jpg 第2章(350万~290万年前)は、アファール猿人(350万年前)についてで、アウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人)の脳の大きさは現生人類の3分の1程度ですが、既に人類固有の成長遅滞(脳がまだ小さいうちに産み、ゆっくりと時間をかけて育てる)の形跡が見られるそうです。

アファール猿人

 第3章、第4章では、東アフリカでの人類進化(420万~150万年前)、南アフリカでの人類進化(350万~100万年前)、の研究の展開を解説し。このあたりは、人類学者たちの発見競争のドラマにもなっています。

 第5章では、ホモ属の登場と出アフリカ(200万~20万年前)を扱っており、 人類進化の第2の画期が、約250万年前にホミニンの中からホモ属が分岐したことになるわけですが、初期ホモ属の起源と考えられるのはエチオピアで発見されたアウストラロピテクス・ガルヒであり、250万年前には、「オルドワン文化」と呼ばれる石器文化を形成していた形跡があり、200万年前にアフリカ型ホモ・エレクトスに進化し、その一部が「出アフリカ」を果たしたと考えられるとのこと、古生物学者は、石器によって肉食が容易になったことが、脳の大型化に繋がったとみているとのことです。

 第6章(40万~28万年前)では、現生人類(ホモ・サピエンス)の出現(20万年前)とネアンデルタール人の絶滅を扱い、ホモ・サピエンスの登場もアフリカでのことであり、彼らは更なる脳の大型化によって先の尖った繊細な石器を作り、長距離交易をするようになったが、それには相当の時間がかかったとみるのが妥当で、ホモ・サピエンスの「出アフリカ」は6万年前と考えられ、既にヨーロッパに居たネアンデルタール人と約1万数千年共存していたが、ネアンデルタール人の方が、文化的に進歩したホモ・サピエンスに圧倒されて滅びたのであろうと。

 このあたり来ると、形状的な進化の話だけではなく、象徴や言語、コミュニケーションといった人間的な進化についての近年の研究による知見も織り込まれてきます。

ホモ・フロレシエンシス.jpg こうして要約すると、人類進化の歴史がスムーズに繋がっているように見えますが、実際には詳細において不明な点は多々あり、また、最終第7章(100万~1.7万年前の)の「最近まで生き残っていた二種の人類」の中で紹介されているように、2003年にインドネシアの離島フローレス島で化石が発見された1.7万年前のホモ属と考えられるホモ・フロレシエンシスのように、その発見によってそれまでの人類学説をひっくり返してしまうような出来事も起きています(身長が1メートルそこそこしかない低身長だった。本書では、「ホモ・フロレシエンシス=アフリカ型ホモ・エレクトスの子孫」説を支持)。

サイエンスZERO 「衝撃の発見 身長1m 小型人類の謎」 (NHK教育/2009年10月17日放送)
   
 本書によれば、先史人類学史の解明状況は、ジグソーパズルで言えば300ピースのうち手元にあるのは30ピースぐらいであろうと。本書が刊行された'10年も"発見ラッシュ"の年だったようで、また新たな発見で、「(現在のところ)700万年」の人類学の歴史が、今後も大きく書き換えられる可能性があることを示唆しています。

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原爆、原発、劣化ウラン弾によってもたらされる内部被爆のメカニズムと、その隠蔽された危険性を明かす。

内部被曝の脅威 ちくま新書.jpg 『内部被曝の脅威 ちくま新書(541)』['05年]  肥田舜太郎.jpg 肥田 舜太郎 医師

 広島で被曝後、60年間にわたり内部被曝の研究を進めてきた肥田舜太郎医師と、社会派ジャーナリスト鎌仲ひとみ氏の共著。

 全5章構成のうちの第1章と第4章が、鎌仲氏による、イラクの劣化ウラン弾による被曝被害者の実情、及び、アメリカの原爆実験・原子力発電によってもたらされたと考えられる被曝被害状況などのリポートで、第2章と第3章が、肥田医師による、広島で原爆が投下された際の経験、自身が医師として被曝者の治療に当たった際のこれまで考えられなかったような特異且つ悲惨な死亡例と、振り返ってみればそれが内部被曝による原爆症によるものであったことを踏まえ、内部被曝とは何か、そのメカニズムと原発事故によってもたらされる可能性があるその脅威を解説、最終第5章は、唯一の原爆被爆国であるわが国が果たすべき役割についての両者の対談となっています。

 肥田医師の被爆体験及び被曝者の治療体験の記述には凄まじいものがありますが、爆心地から離れた場所にいて大量の放射線を浴びたわけではないのに、或いは、被爆後の爆心地に立ち寄っただけで直接"ピカ"には遭わなかったのに、その後に体調不良を訴え、猛烈な倦怠感を催し(外見的異状はないのに働けなくなるため「ぶらぶら病」と呼ばれた)、やがて動けなくなり、暫くして亡くなったケースなどが紹介されていて、当時はただただ不可思議に思っていたのが、研究を進めるうちに、呼吸や飲食を通じて体内に取り込まれた放射性物質が微妙な放射線を長時間にわたって体内から照射し続け、それが原爆症を引き起こしたり、何年も経ってからガンの発症を引き起こしたりしているという確信に至るようになります。

 原爆爆発と同時に放射された強烈な放射線に被曝して大量に即死させられた体外被曝とは対照的に、時間をかけて"ゆっくりと殺される" 内部被曝については、この言葉自体が、核兵器とその医学的被害に関心を持つ一部の医師の間で最近ようやく使われるようになったに過ぎないということです。

 体外被曝では透過性の低い放射線は届かず、主に透過性の高いガンマ線で被曝しますが、それは一過性のものであるため、壊された細胞(DNA)は修復されやすいが、内部被曝では、透過性の低いアルファ線、ベータ線のエネルギーがほとんど体外に逃げることなく人体に影響を与えることから、体内に摂取された際に危険なのはむしろアルファ線、ベータ線を出す核種であるとのことです。

 その内部被曝のメカニズムを科学的に解説する中で、むしろ低線量放射線の方が高線量放射よりも危険性が高いという「ベトカウ理論」を紹介するとともに、マウスを使った実験結果や実際の臨床報告などによる検証を行っています。

 肥田医師は、本書の大きな狙いは、「微妙な放射線なら大丈夫」という神話のウソを突き崩すことにあるとしていますが、よく年間何ミリシーベルトだとか、毎時何マイクロシーベルトまでなら大丈夫だとか言われているのも体外被曝のことで、少しでも体内に入ったら長期的に被曝し続けるため、微量な被曝であれば大丈夫というのは、本書によれば間違いということになります。

 それにも関わらず、今回の福島原発事故に関して政府や学者が「(外部被曝線量が)年間何ミリシーベルトなら大丈夫」と言っているのは、内部被曝のことを全く考慮していないわけであって、これを「ベトカウ理論」に対する学者の見解の相違ということで片付けてしまっていいのか、原発推進を飯のタネにしている御用学者らが言っている「大丈夫」説だけに、不安を覚えます。

 鎌仲氏の後半のリポートの中には、コロンビア川ほとりに9つの原子炉が建設されたハンフォード核施設の風下地域の住民の放射能汚染の実態と、それを隠蔽しようとする政府に対し、立ちあがって国を訴えた住民たちの闘いの記録がありますが、原子力大国アメリカは「被曝大国」でもあることを、新たに知ることができました。

 最終章の両者の対談にある鎌仲氏の、「本来であれば、日本は唯一の『自覚的な被爆国』として、被爆とは何たるかを世界に知らしめる役割を担うべきであったはずなのに、その責務を放棄して、現在のような原子力発電所大国になってきてしまって、核武装論まで出てきてしまっている。なぜこんなことになったんでしょうね」という問いかけに対し、肥田医師は、被爆の問題を、人間の生命との関わり合いの中で捉えていないことに原因の一端があるとしていますが、そうした人々の中には医療関係者や法律の専門家の多くが含まれるとのこと、優秀な人って意外とイマジネーション力が弱かったりすることがあるのか。

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就活ゲームの中で形成される"即席アイデンティ"が、ミスマッチの原因との分析は興味深かったが...。

就活エリートの迷走2.JPG豊田 義博 『就活エリートの迷走』.jpg 『就活エリートの迷走 (ちくま新書)

 本書を読むまで「就活エリート」とは何を指すのか分からなかったのですが、本書における「就活エリート」とは、エントリーシートを綿密に作り込み、面接対策をぬかりなく講じて、まるで受験勉強に勤しむような努力をして、超優良企業へと入社していく若者のことを指していました。著者によれば、こうした「就活エリート」が、会社に入社してから、多くの職場で戦力外の烙印を押されているという状況が今あるとのことです。

 なぜ彼らは、肝心の社会生活のスタートで躓いてしまうのか、著者は、その原因が「就活」という画一化、パッケージ化したゲームにあるとし、このゲームの抜本的なルールを改変し、或いはゲームであることを中止しない限り、同様の犠牲者は生まれ続けると警告しています。

 著者はリクルートワークス研究所の主任研究員であり、就職活動がいかにして「就活」というゲームになったのかを、データをもとに俯瞰的に分析している箇所は、採用担当者が読んで、頷かされる部分も多いのではないでしょうか。
 そうした分析を通して、「自己分析」の流行や「エントリーシート」の普及が、就職活動の画一化、パッケージ化を促した背景要因としてあるとしています。

 就活エリートたちは、「やりたいものは何ですか?」というエントリーシートの問いが求めるままに、「自己分析・やりたいこと探し」に熱中し、就職活動という短い期間に自身のアイデンティティを確立してしまうが、そのアイデンティティは本物ではなく"即席"のアイデンティにすぎず、その際に抱いた「スター願望」や、「ゴール志向」とでもいうべき偏狭なキャリア意識が、逆に、彼らが入社後に迷走する原因となっているとの分析は、興味深いものでした。

 もう1つの原因として、「面接」重視の傾向を挙げていて、企業側が「面接」を極端に重視するあまり、その場で「自分」を作り上げてしまう就活エリートとの間で、同様の「ゲーム」が繰り返され、「面接」は形骸化し、その意義を失いつつあると。

 更には、採用コミュニケーションの在り方についても問題提起しており、新入社員の中には、企業側の巧みなPRにより、入社した会社に「恋」をしてしまっているような人が多くいるが、その分、入社後の理想と現実のギャップは大きくなり、そのことも、就活エリートたちが入社後に迷走する原因になっていると。

 前段の就職活動の変遷はデータに裏付けられており、中盤の就活の在り方と若者のメンタリティについて論じた部分も興味深く読めましたが、就活エリートたちの入社後の迷走についての実態は、城繁幸『若者はなぜ3年で辞めるのか』('06年/光文社新書)から引用するなどに止まっていて、あまり突っ込んだ解説がなされていないのがやや不満でした。

 また、最終章では、こうした状況を打破するための「就活改革」のシナリオが示されていますが、「採用活動時期の分散化」「採用経路を多様化」「選考プロセスの多面化」といった提案の趣旨には概ね賛同できるものの(「採用活動時期の分散化」は、個人的には疑問符がつくが)、前段の分析部分に比べるとやはり具体性に乏しいように思われ、「分析に優れ、提案に弱い」というのは、研究所系の本に共通して見られる傾向なのかも。

 むしろ、読んでいてずっと気になったのは、リクルートグループこそ、こうした就職活動の画一化、パッケージ化を促した就職関連企業の筆頭ではなかったかと思われることで、適性試験「SPI」や就職情報サイト「リクナビ」でどれだけ利益を上げたのかは知りませんが、例えば「インターネット就活」の促進というのも、著者は学生に広く機会を与えるものとしているようですが、結果として就職活動の画一化に「寄与」してしまっているのではないかと。

 そうした想いは、本書を読む採用担当者の多くが抱くであろうことは想像に難くないところですが、本書では、学生ばかりが悪いのではなく、企業側もこれからの採用活動の在り方を見直さなければならないというスタンスをとりながら、自らが行ってきたことに関しては、「あとがき」で、「私にも就活エリートの迷走を生みだした責任の一端はあると思っている」との個人的感想一言で片付けられてしまっているのは、こりゃあんまりだという気がしなくもありませんでした。

就活エリートの迷走 豊田義博 × ひろゆき

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読みどころは、「いじめ」問題にフォーカスした第1章か。

友だち地獄.jpg 『友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)』 ['08年]

 著者によれば、現在の若者達は、「優しい関係」の維持を最優先にして、極めて注意深く気を遣い合いながら、なるべく衝突を避けよう慎重に人間関係を営んでおり、その結果、「優しい関係」そのものが、山本七平言うところの「空気」の流れを支配し力を持つため、その空気の下での人間関係のキツさに苦しみ、生きづらさを抱え込むようになっているとのことです。

 全5章構成の第1章では、「いじめ」問題にフォーカスし、そうした「優しい関係」がいじめを生み出すとしていて、「優しい関係」を無傷に保つために、皆が一様にコミュニケーションに没入する結果、集団のノリについていけない者や冷めた態度をとる者がいじめの対象となり、一方で、対人距離を測れず接近しすぎる者も、空気を読めない(KYな)者として、いじめの対象になるとしています。

 以下、第2章では、「リストカット」にフォーカスし、高野悦子『二十歳の原点』南条あや『卒業式まで死にません』を比べつつ、若者の「生きづらさ」の歴史的変遷を辿り、その背後にある自己と身体の関係を探るとともに、第3章では、「ひきこもり」にフォーカスし、或るひきこもり青年が発した「自分地獄」という言葉を手掛かりに、「ケータイ小説」ブームなどから窺える、現在の若者達の人間関係の特徴、純粋さへの憧れと人間関係への過剰な依存を指摘し、そこから第4章の「ケータイによる自己ナビゲーション」へと繋げ、更に第5章で「ネットによる集団自殺」を取り上げ、それはケータイ的な繋がりの延長線上にあるものだとしています。

いじめの構造.gif 個人的には、第1章の「優しい関係」を維持しようする集団力学がいじめを生み出すとした部分が最もしっくりきて、陰惨ないじめが(被害者側も含め)"遊びモード"で行われるということをよく説明しているように思え、同じ社会学者の内藤朝雄氏の『いじめの構造』('09年/講談社現代新書)が、付和雷同的に出来上がったコミュニケーションの連鎖の形態が場の情報となり、それがいじめを引き起こすとしているのと共通するものを感じました(章後半の、若者はなぜ「むかつく」のかということについては、『いじめの構造』の方がよく説明されているように思う)。

 但し、第2章以下で様々な社会現象を扱うにあたって、「優しい関係」というキーワードで全てを説明するのはやや無理があるようにも思われ、第2章の高野悦子と南条あやの「身体性」の違いの問題、第3章の若者が希求する「純粋性」の問題などは、それぞれ単独の論考として読んだ方がいいように思えました。

近頃の若者はなぜダメなのか.jpg 第4章の「ケータイによる自己ナビゲーション」は、博報堂生活総研の原田曜平氏の近著『近頃の若者はなぜダメなのか―携帯世代と「新村社会」』('10年/光文社新書) などに比べれば、社会学者らしい洞察が見られる分析ではあったものの、ここでも身体論が出てくるのにはやや辟易しました(「計算機も脳の延長である」とした養老孟司氏の『唯脳論』風に言えば、ケータイは身体の延長と言うよりもむしろ脳の延長ではないか)。

 全体として章が進むにつれて、他書物からの引用も多くなり、それらを引きつつ、牽強付会気味に仮説と「検証」を組み合わせているような感じもしました(文章的には破綻しておらず、むしろキッチリしていて且つ読み易く、その辺りは巧みなのだが、類似する論旨の他書を引いても検証したことにならないのでは)。

 まあ、こうやって仮説を立てていくのが、社会学者の仕事の1つなのでしょうが、検証面がちょっと弱い気もしました。
 著者の頭の中ではしっかり整合性がとれているのだろうけれど、読む側としては、社会における若者そのものよりも、むしろ社会学者の若者観のトレンドが分かったという感じでしょうか。

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写真も素晴しいが、体験と専門知識に裏打ちされた文章の内容がまたいい。

海野和男写真展ポスター(2009年1月・銀座Nikom Salon).jpg昆虫の世界へようこそ.jpg 『昆虫の世界へようこそ (ちくま新書)』 ['04年]

 今年('09年)の1月に東京と大阪で写真展が開催された、長野県小諸市にアトリエを構え、自然を記録している昆虫写真の第一人者・海野和男氏による写文集で、小諸近辺の身近な昆虫から熱帯の稀少な昆虫まで、その多彩な、また珍しい生態を写真に収めています。

 まず第一に、どの写真も極めて美しく、昆虫の目線で撮られたものがくっきりとした背景と相俟って、時に神秘的でさえありますが、どうしてこのような写真が撮れるのかと思ったら、著者なりの工夫の跡が記されていて、魚眼レンズを使っており、魚眼レンズは被写界深度が深いため、昆虫に焦点を合わせても、背景がそれほどボヤけないとのこと、より接写レベルが高くなると、今度はデジタルカメラ(またはデジタル一眼レフ)を使い、これも通常の一眼レフカメラなどより被写界深度が深いので昆虫撮影に向いているとのこと。
 まさに、被写界深度ぎりぎりのところでのテクニックが、こうした不思議な作品を生んでいるのだなあと。

 もう1つ、本書の更なる魅力は文章の内容で、昆虫を追って世界中を巡った自らの体験のエッセンスが詰まっていて読む方もわくわくさせられると共に、解説そのものが近年の科学的な研究に裏打ちされたものであること。
 それもそのはず、著者は大学で昆虫行動学を学んだ人で、但し、それらの表現は分かり易いものであり、また、昆虫の大きさや感覚、能力を人間に置き換えた喩え話などは、空想を刺激して楽しいものでもありました。

昆虫 驚異の微小脳.jpg 例えば、本書の2年後に刊行された昆虫学者・水波誠氏の『昆虫―驚異の微小脳』('06年/中公新書)の中に、「複眼の視力はヒトの眼より何十分の1と劣るが、動いているものを捉える時間分解能は数倍も高い。蛍光灯が1秒間に100回点滅するのをヒトは気づかないが、ハエには蛍光灯が点滅して見える。映画のフィルムのつなぎ目にヒトは気づかないが、ハエには1コマ1コマ止まって見えるのだ」とありましたが、本書では、「私たちにはスムーズに見えるテレビも、カマキリに見せたら、こんな性能の悪いテレビをよく平気で見られるなと思うかもしれない」(16p)とあります。

 「1センチメートルほどのこのアリ(グンタイアリ)が人と同じ大きさだとすると、実は時速120キロメートル近い速度で歩き続けていることになる」(27p)、「ハラビロカマキリは交尾中にオスがメスに頭からバリバリと食べられてしまうことが多いらしい。それでもオスはけなげにも交尾を続ける。昆虫の場合脳がなくなっても身体の各部を制御する神経節が生きていれば、このようなことが可能なのだ」(97p)等々、他にも興味深い話が満載。

 昆虫の生態を体験的に知っているだけでなく、その機能等についての知識もきちんと持っていて、それでいて「かもしれない」「らしい」といった控えめな表現が多いのは、謙遜というより、まだまだ未知のことが多い自然界に対する、著者なりの畏敬の念の表れであるとみました。

デジタルカメラで撮る海野和男昆虫写真.jpg もし、著者の撮った昆虫写真をもっと大判で見たい、或いは、どこでどのようにして撮ったのか詳しく知りたいというのであれば、より「写真集」的性格の強い『デジタルカメラで撮る海野和男昆虫写真―WILD INSECTS』('06年/ソフトバンククリエイティブ)などはおススメではないでしょうか。

 新書に比べれば、2,600円と少し値は張りますが、国内外の昆虫写真を収めた著者の作品の厳選集で、親子ででも楽しめるものになっているかと思います。
 表紙のテングビワハゴロモやヒョウモンカマキリなどカラフルな昆虫も多く紹介されていますが、個人的には、15センチメートルにもなるサカダチコノハナナフシの迫力が最も印象に残りました。

デジタルカメラで撮る海野和男昆虫写真 -wild insects』 ['06年]

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宮﨑勤、小林薫、宅間守の心の闇に迫るとともに、審理の在り方や死刑制度への疑念を呈す。

ドキュメント死刑囚.jpg 『ドキュメント死刑囚 (ちくま新書)』 ['08年] 篠田 博之.jpg 篠田 博之 氏 (月刊「創」編集長)

 幼女連続殺害事件の宮﨑勤元死刑囚、 奈良女児殺害事件の小林薫死刑囚(2013年2月21日、大阪拘置所で死刑執行)、大阪教育大学附属池田小学校襲撃事件の宅間守元死刑囚の3人にほぼ的を絞った取材であり、しかも、宮﨑勤、小林薫とは、著者は手紙の遣り取りがあっただけに、彼らにとって死とは何なのか、その凶行は特殊な人間の特殊な犯罪だったのか、極刑をもって犯罪者を裁くとはどういうことなのか

 読み進むうちに、それぞれの事件や本人の性格の共通点(例えば3人とも激しく父親を憎悪していた)、相違点が浮き彫りにされてきますが、著者自身、彼らの「心の闇」が解明されたとは考えておらず、むしろ、宅間守にしても宮﨑勤にしても、そいうものが明かされないまま刑が執行されてしまったことへの慙愧の念と、こうしたやり方が果たして同タイプの犯罪の抑止効果に繋がるのかという疑念が、彼らの犯行や生い立ち、裁判の経過についての(トーンはあくまでも)冷静なルポルタージュの紙背から滲んでくるように思いました。

宮崎勤.jpg 宮﨑勤の精神鑑定は、当初の「人格障害」だが「精神病」ではないというものに抗して弁護側が依頼した3人の鑑定人の見解が、「多重人格説」(2名)と「精神分裂病」(1名)に分かれ、本人の「ネズミ人間」供述と相俟って「多重人格説」の方が有名になりましたが、「人格障害」は免罪効を有さないという現在の法廷の潮流があるものの、個人的には一連の供述を見る限り、「人格障害」が昂じて「精神病様態」を示しているように思えました(但し、犯行時からそうであったのか、拘禁されてそうなったのは分からないが)。

小林薫.jpg 小林薫については、殺害された被害者が少女1名であるにも関わらず死刑が確定しているわけですが、「死刑になりたい」という供述が先にあって、後から「少女が亡くなったのは事故だった」という矛盾する(しかし、可能性としては考えられなくも無い)供述があったのを、弁護側が、今更それを言っても却って裁判官の心証を悪くするとの判断から、その部分の検証を法廷で行うことを回避し、結局は死刑判決が下っているわけで、個人的には、死刑回避と言うより真相究明という点で、弁護の在り方に疑問を感じました。

宅間守.jpg 宅間守については、ハナから本人が「早く死刑にしてくれ」と言っており、先の2人以上に人格的に崩壊している印象を表面上は受けますが、一方で、弁護人などに書いた手紙を読むと、極めて反社会的な内容でありながらもきっちり自己完結していて、著者が言うように彼の精神は最後まで崩壊していなかったわけで、そうなると、結果として、国家が本人の自殺幇助をしたともとれます(但し、宅間については、アメリカで銃乱射事件を起こす犯人にしばしばみられる脳腫瘍が、彼らと同じ部位にあったという説もある)。

 著者は、こうした人間に死刑を宣告することは、罪を償わせるどころか、処罰にさえなっていないのではないかと疑問を呈していますが、まさにその通りだと思いました。
 "贖罪意識"の希薄性という意味では、「コミケ」の開催日を気にしていたという宮﨑勤にしても、殆ど自棄になっているとしか思えない小林薫にしても、同じことが言えるでしょう。

 43ページにある宮﨑勤の幼い頃の屈託の無い写真が印象に残りました(この少年が、将来において重大な犯罪を犯し、死刑に処せられたのだと)。
 本書を読んで感じたのは、社会的にいじめられたとか弱者であったということ以前に、家族との愛情の絆が断ち切られたとき、彼らは深い絶望にかられ、閉ざされた闇の世界の住人になるであって、そうしたメカニズムをもっと解明することが、犯罪の抑止に繋がるのではないかと。

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お気楽と言えばお気楽。印象に残ったのは、山崎朋子(の話)と諏訪根自子(の写真)か。

美人好きは罪悪か?.jpg 『美人好きは罪悪か? (ちくま新書)』 ['09年] 選ばれる男たち―女たちの夢のゆくえ.gif 信田さよ子 『選ばれる男たち―女たちの夢のゆくえ (講談社現代新書)』 ['09年]

 信田さよ子氏の『選ばれる男たち-女たちの夢のゆくえ』('09年/講談社現代新書)に、おばさんたちが「うぶで無垢な王子」を愛でることを、ある種"レジスタンス"として奨励する記述がありました。

 それに比べて、この本の著者なんかは、何のしがらみもなしに、身近な女性から、女流作家、映画女優、歴史において名を成した女性まで挙げて、美人だとか、美人だが自分の好みではないとか言っているわけで、そうした意味ではお気楽と言えばお気楽、男ってこんなものかな。ただ、公の場では普通やらないけれど...(著者に限ってのこととして言えば、「もてない男」だったはずが、結婚して余裕ができすぎた?)

 本の趣旨は、「小説のヒロイン、ロリコンや萌え、髪型やヌード、歴史上の美人などさまざまな観点から、新しい『美人論』を展開する」ということのようですが、「雨夜の品定め」みたいな感じで最後までいっちゃってるようにも思えました。

 但し、博覧強記、あらゆる方面からマニアックな"美人ネタ"を持ってくるため、部分部分は面白い箇所が結構ありました(表紙帯にもある、あの「南極1号」の末裔である「ラブドール」の話などは、何だか入れ込み過ぎてしまっているみたいだが)。

 特に後半、谷崎潤一郎の「美人」観などは、著者の専門領域に近いわけですが、「春琴抄は気持ち悪い」とかいうこの著者独自の見方や表現はともかく、春琴を傷つけたのは誰かと言う推理は、今までもこのテーマで語られたものを読んだことはありますが、文献などを丹念に調べ、理路整然としたものになっているように思えました。

 でも、最も印象に残ったのは、終盤に出てくるノンフィクション作家の山崎朋子(1932‐)と、ヴァイオリニストの諏訪根自子(1920‐)かなあ。                                            
宮本笑里.jpg諏訪根自子.jpgサンダカンまで.jpg とりわけ山崎朋子は、美人であるがゆえに凄まじい経験(ストーカーまがいの男に顔を傷つけられ、生涯消えない傷跡となった)をしたように思われました(書かれていることは、彼女の自伝『サンダカンまで―わたしの生きた道』('01年/朝日新聞社)に拠っているようだが)。
 諏訪根自子は、若い頃の写真の美しさが印象に残りました。ヴァイオリニストって、時にこうした美少女が現われるように思われ、今で言えば、美人としてのタイプは異なりますが、'07年にアルバム「smile」でCDデビューした宮本笑里(1982-)などはその系譜ではないかと。
サンダカンまで―わたしの生きた道』['01年/朝日新聞社] 諏訪 根自子(写真提供:キングレコード)/宮本笑里

川上未映子
川上未映子.jpg 川上弘美の作品を読むときには「川上弘美の美貌を想起せずにおれない」と書いていますが、そういう傾向は、男性読者に限らず女性読者でも同じではないかなあ。好き嫌いは別として、本書にも出てくる川上未映子も然り。エッセイとかを読むと、彼女自身も、自分でも「読まれる」と同じくらい「見られる」という"意識"はあると書いていますが。

 本書は、「一冊の本」での2年間('07〜'08年)の連載を纏めたもので、「後記」に、「その間に結婚したから、(中略)美人がどうこう、といったことには興味がなくなり、連載を続けるのも難しくなったが、何とか二年間続けることができた」とありました(これを読んで、やや脱力)。

週刊朝日 2009年12月4日増大号.jpg 週刊朝日 2009年12月4日増大号 (表紙:宮本笑里)

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データの裏づけが十分にあり、一般にも読みやすいホワイトカラーの現状分析。

貧困化するホワイトカラー.jpg 『貧困化するホワイトカラー (ちくま新書)』 ['09年]   森岡孝二.jpg 森岡 孝二 氏

窒息するオフィス.jpg 労働経済学者による本で、第1章で、ホワイトカラーとは何かその原像をアメリカに探る一方、アメリカにおけるホワイトカラーの置かれている情況を、データを交え分析していますが、著者はジル・A・フレイザー『窒息するオフィス―仕事に強迫されるアメリカ人』('03年/岩波書店)の訳者でもあり、米国労働事情に対する造詣の深さを感じました。

 第2章、第3章では、日本のホワイトカラーの現状を、データを交えながら分析し、ホワイトカラーのこれまで以上に"搾られる"ようになっている現状と(ああ、アメリカと同じことになっているなあ)、過労死・過労自殺事件の判例から、その働かされ過ぎの実態を考察しています。

 第4章では、上場企業を中心に日本のサラリーマン社会における女性差別について考察、賃金差別撤廃などの裁判上のこれまでの女性たちの闘いを追い、第5章では、「ホワイトカラー・エグゼンプション」について、経済界と政府がいう「自由で自立的な働き方」とした説明の"嘘"を指摘しています。

働きすぎの時代.jpg 前著『働きすぎの時代』('05年/岩波新書)もそうでしたが、この著者の書くものはデータの裏づけが十分にあり、参考文献や資料の読み込みもしっかりして、それでいて、学術書然とせず、一般にも読みやすいものになっている点に感心させられます(ルポルタージュ的視点が織り込まれていることもあるが)。

 個人的には、ホワイトカラーというものの増加傾向が既に止まっていること、管理職の過労死・過労自殺発生率が高いこと、ホワイトカラーの方がブルーカラーより労働時間が長くなっていること、労働時間の性別二極化が進んでいること等々多くのこと知り、収穫がありました。

 「ホワイトカラー・エグゼンプション」については、すでに残業がつかない労働者が2割いて、その中には「名ばかり管理職」として実態適用されている人が相当数おり、裁判になれば企業が負ける―その危険を回避するために、経済界と政府が持ち出したものであると。

 偽装請負などについても同様のことをいつも思うのですが、裁判になれば企業側が負けているのに、法律自体は見直さずにきた(急に規制のみを強めた)立法府(及び行政)にも問題があるのではないかと思った次第です。
 本書では、トヨタ関連企業での過労死を労災認定しなかった豊田労基の例が紹介されていますが(後に行政訴訟で労基側が敗訴)、大企業の中には裏口であの手この手の労基署対策をやっているところもあるのは確か。

 労働側の学者が書いた本ということで、企業側の人にはあまり読まれないかも知れませんが、産業構造・労働実態の変化を俯瞰する上でも参考になり、「賃金労働者とホワイトカラーの際立った違いの一つは、賃金労働者は彼の労働とエネルギーとスキルを売るが、ホワイトカラーは、多数の消費者、顧客、管理者に対して、自己の労働を売るだけでなく自己のパーソナリティを売る」(C・W・ミルズ、1957)といった引用にも、だからホワイトカラーの疲弊度は増すのだなあと納得させられたりしました。

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「味方のように微笑む美女が、じつは悪魔であったということもある」ことを考えさせられた。

大内 伸哉 『雇用はなぜ壊れたのか』.gif      大内 伸哉.jpg 大内 伸哉 氏(略歴下記)
雇用はなぜ壊れたのか―会社の論理vs.労働者の論理 (ちくま新書)

 雇用問題の中には、会社が利益を追求する「会社の論理」と、労働者が自らの権利を守る「労働者の論理」の2つの論理があり、経済の激変で両者の調整が一段と難しくなった今、どうすれば両者の論理を比較衡量し、調整が図れるかということを、セクハラ、長時間労働、内定取消、期間工の解雇、正社員リストラなど、雇用社会の根本に関わる11のテーマを取り上げ、それぞれについて対立軸を行き来しながら考察した本です。

 従って、表題の「雇用はなぜ壊れたのか?」というその原因を明らかにする内容ではなく、そのためミスリード気味のタイトルではないかということで、書評ブログなどでも評価が割れているようですが、個人的には、本書から、多くのことを考えさせられる契機を得られました(ブログなどでは、結論が明確でない、或いは立場が「会社の論理」に偏っているといった批判もあったようだが、そう簡単に結論が出せるような問題でもないし、考察の進め方は至極まっとうなものだと思う)。

 法学者らしくない柔らかめの文体で、但し、内容は労働法と雇用社会の関係を考察して深く、例えば、解雇規制を強めることや最低賃金を引き上げることは、それが労働者の権利を守ること繋がると言い切れるのか、といったことを解り易く問題提起しています。

 自分個人がかつて経験したこととして、ハローワークに営業職の求人を出したものの同業種経験者の採用はならず、異業種の若手営業経験者を採用内定した際に、内定後に、「示された給与額が求人票の額より下回っているのは違法だ」と言ってこられたことがありましたが、ハローワークに出した労働条件と実際の労働条件が異なることは必ずしも違法ではないと考え、本人に提示額の根拠説明をし、額の変更は行わなかったということがありました。
 もし、法規制が強化されて、こうしたことが即違法となるならば、企業は低い給与額の(給与額に幅のある)求人を出して対処するかも知れませんが、むしろこうしたケースでは、本命筋の採用は出来なかったということで諦める可能性が高く、仮に当時からそうだったとすれば、この営業職(今もその会社で正社員として元気に働いている)の入社は無かったでしょう。

 先述のように「会社の論理」に立っているとの批判もありますが、「使用者は、労働者の国籍、信条又は社会的身分を理由として、賃金、労働時間その他の労働条件について、差別的取扱をしてはならない」という労基法3条の「社会的身分」とはどこまでをいうのか、パートタイマーや非正社員の給与が正社員より低い場合は「均等待遇」原則に反しないかという問題について、「社会的身分」とは、自らの意志では離れることのできない「生来の身分」をいい(通達)、パートタイマーや非正社員といった雇用形態の違いは該当しないと解されていることに対し、これは詰まるところ「自己責任論」であり、疑問の余地があるとしています。

 本書では、「会社の論理」「労働者の論理」に加えてもう1つ「生活者の論理」というものを取り上げていて、著者によれば、日本人は少しでも豊かな生活をしたいという「生活者の論理」が「労働者の論理」に優先するという選択をしているとのことで(イタリア人などは逆)、但し「生活者の論理」が一方的に「労働者の論理」に優先するのではなく、その両者の均衡が日本的経営の強みだった(長時間労働もするが雇用は確保されている)とのこと。

 (著者自身は格差社会を是認しているわけでもないし、正社員と大きな賃金格差のある非正社員がいることは社会正義に反するとしている。その上で、)例えば、正社員と非正社員との均衡をとるということは、格差問題(貧困問題)の一時的な処方箋とはなり得るかもしれないが(実際、最低賃金法やパート労働法の改正はその流れに沿って行われてきた)、この「生活者の論理」と「労働者の論理」の間のバランスを壊すことになりかねないとしています。
 この辺りは、実際に本書を手にして読み込み、それぞれの読者が自ら考えていただきたいところですが、「味方のように微笑む美女が、じつは悪魔であったということもあるのである」(219p)と。
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大内 伸哉 (オオウチ シンヤ)
1963年生まれ。法学博士。専攻は労働法。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。現在、神戸大学大学院法学研究科教授。主な著書に『労働条件変更法理の再構成』『労働者代表法制に関する研究』(以上、有斐閣)、『雇用社会の25の疑問』『労働法学習帳』(以上、弘文堂)、『労働法実務講義』『就業規則からみた労働法』(以上、日本法令)、『どこまでやったらクビになるか』(新潮新書)など。

《読書MEMO》
●「ちくま 458号」 (筑摩書房)の一部を転載((神戸大学のサイトより)
「拙著『雇用はなぜ壊れたのか?-会社の論理vs.労働者の論理』は、実は、雇用が壊れた原因を明らかにしようとした本ではない。 むしろ、本書で描きかったのは、雇用が壊れる過程における、会社の論理と労働者の論理の関わり合いについてである。 これらの論理の関わり合いを明らかにすることを通して、筋の通った正しい政策はどのようなものかを模索していきたかったのである。 それは、必ずしも会社にも労働者にも「甘い」ものばかりではない。正義の女神は、剣をもっている。母のように「甘える」ことは危険なのである。」

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ちくま新書というより「日経文庫」的。もっとコンサルタント的視点や提言を入れてもよかった。

日本の賃金.jpg 『日本の賃金―年功序列賃金と成果主義賃金のゆくえ (ちくま新書)』 ['08年]

 人事・賃金コンサルタントによる本で、日本の賃金の歴史、日本の賃金が抱えている問題点、日本企業にとって望ましい賃金制度とはどのようなものか、基本給や諸手当は今後どうなっていくか、賞与制度の方向性や賃金格差の今後、退職金制度の将来などについて書かれていますが、あまりに網羅的・教科書的で、「日経文庫」を読んでいるよう錯覚を感じました。

 「日経文庫」でもコンサルタントが書いているものがありますが(例えば、『職務・役割主義の人事』('06年/長谷川直紀 著)は外資系コンサルティング会社マーサー・ヒューマンリソース・コンサルティングのコンサルタントによるもの)、あちらは最初から入門書であることを意図したものであり、結果的に網羅的・教科書的であることがままあるのも仕方ないとして、本書については「ちくま新書」に収めるのにこの内容は如何なものかと思ってしまいました。

パートタイマーのトータル人事制度.jpg 実務書としては分かり易い良い本も書いている著者なので、もう少しコンサルタント的視点や提言を入れてもいいのではないかという気がしながら読んでいましたが(タイトルだけでは本書の企図が見えにくいのも難点)、そうしたものは終わりの方の賞与制度や賃金格差について述べたところで少し出てきたかなという感じで、個人的には肩透かしを喰った感じでした。

パートタイマーのトータル人事制度―資格・考課・賃金制度構築のすすめ方

 最初から「教科書」だと割り切って、勉強のつもりで読めばそれほど悪い本でもないと思うのですが、そうした「お勉強」志向で「ちくま新書」を手にする読者がどれぐらいの割合でいるだろうかとか、賃金制度の業務に携わったことの無い人には字面(じづら)だけではイメージしにくい部分があるのではないかとか、要らぬ気を揉んでしまいました(文章自体が読みにくいわけではないが)。

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「働き方」を今一度考えさせられると共に、「仕事術」の体験的指南書でもある。

働き方革命.jpg   駒崎 弘樹.jpg 駒崎 弘樹 氏(略歴下記) NPO法人フローレンス.jpg http://www.florence.or.jp
働き方革命―あなたが今日から日本を変える方法 (ちくま新書)』 ['09年] 

 著者は、学生時代に起業したITベンチャー出身の人で、今は、自らが立ち上げた会社を共同経営者に譲渡し、子供が病気になり普通の保育園などで預かってもらず、そのために仕事を休まねばならないようなワーキングマザーのために、そうした子供を預かる所謂"病児保育"専門の託児所のネットワーク作りをしているNPO法人「フローレンス」の代表、と言っても、まだ29歳の若さです。

 今までの日本人の働き方、人生を会社に捧げるような仕事中心の人生観、その割には低い生産性、といったことに対する疑問からスタートし、ITベンチャーの経営者として、それこそ身を粉にして仕事をしてきた自分を振り返り、そこから脱却していく思考過程が1つ1つ内省的に綴られていて、「働く」ということに対する根源的な思索となっている上に、新たに自分が描いたライフビジョンをどう行動に移していったかが、ユーモアを交えて語られています。

 自分だけが自己実現やワークライフバランスの実現をすればいいというのではなく、社会実現(あるべき社会像の実現)を通しての自己実現ということを念頭に置き、社員、パートナーや親・家族、社会が豊かな人生を享受できるようにするためには自分がどうしたらよいかということを具体的に行動に移しています。

 その手始めとして、自らが経営者である会社の「働き方」(仕事のやり方)をどう変えていったか、どう仕事の「スマート化」していったかということが、論理的・実践的に紹介されていて(いきなり「とりあえず定時に帰れ、話はそれからだ」というのも凄いといえば凄いけれど)、仕事術(メール術・会議術・報告術・残業しない術...etc.)の指南書にもなっています。

 ここで言う「スマート化」が、例えば「『長時間がむしゃら労働』から『決められた時間で成果を出す』」ということとして表されているように、個人的にはこの著者に対して、やはり何事においても徹底してやる「モーレツ」ぶりを感じなくもないし、著者の抱く家族観や人生観も、新たなことを提唱しているのではなく、ある種"原点回帰"的なものに過ぎないような気もしなくもありませんでした。

 でも、「働く」とは「傍」を「楽」にすることであり、その「傍」とは家族だけなく地域や社会に及ぶという発想や、「『成功』ではなく『成長』」、「『目指せ年収1000万円』ではなく『目指せありたい自分』」、「『キャリアアップ』ではなく『ビジョンの追求』」、「『金持ち父さん』ではなく『父親であることを楽しむ父さん』」といったキーワードの整理の仕方などに、通常の啓蒙書(著者は啓蒙書が好きでないみたいだが)には無い視座が感じられました。

 「働き方革命」をしたら、会社でトラブルがあって倒産の危機に見舞われる、こうなったのも「働き方革命」したせいだと、今までやってきたことを全否定するような心境になった、というその話の落とし処も旨い、とにかく全体に読むものを引き込んで離さない文章の巧みさ(自分を3枚目キャラとした小説のように描いている)、もしかしたら、その点に一番感服したかも。

 ただ、そうした文章テクニックはともかく、「働くということ」「働き方」について今一度考させられると共に、「仕事術」の体験的指南書としても、一読して損は無い本でした。
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駒崎 弘樹 (コマザキ ヒロキ)
1979年生まれ。99年慶応義塾大学総合政策学部入学。在学中に学生ITベンチャー経営者として、様々な技術を事業化。同大卒業後「地域の力によって病児保育問題を解決し、育児と仕事を両立するのが当然の社会をつくれまいか」と考え、ITベンチャーを共同経営者に譲渡し、「フローレンス・プロジェクト」をスタート。04年内閣府のNPO認証を取得、代表理事に。著書に『「社会を変える」を仕事にする 社会起業家という生き方』(英治出版)がある。2012年までに東京全土の働く家庭をサポートすることを志す。

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またまたタイトルずれ? 特殊な人だけ拾っても...。

3年で辞めた若者はどこへ行ったのか.jpg 
若者はなぜ3年で辞めるのか?.jpg若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来 (光文社新書)』['06年]
3年で辞めた若者はどこへ行ったのか アウトサイダーの時代 (ちくま新書)』['08年]

 『若者はなぜ3年で辞めるのか』('06年/光文社新書)の続編と思われますが、今度は〈ちくま新書〉からの刊行で、〈webちくま〉の連載に加筆修正して新書化したものとのこと。

 前著では、「年功序列」を日本企業に未だにのさばる「昭和的価値観」としていて、そこから企業のとるべき施策が語られるのかと思いきや、働く側の若者に対し「昭和的価値観」からの脱却を呼びかけて終わっていましたが、本書では、実際にそうして企業を辞め、独立なり転職なりした、著者が言うところの「平成的価値観」で自らのキャリアを切り拓いた人達を取材しています。

 ですから、タイトルからすると労働問題の分析・指摘型の内容かと思われたのですが、後から書き加えたと思われる部分にそうした要素はあったものの、実際には、どちらかというと働き方、キャリアの問題を扱っていると言えるかも知れず、こちらも少しずつタイトルずれしているような気が...。

 紹介されている人の全てがそうだとも言えないけれど、(著者同様に)高学歴でもって世で一流と言われる企業に勤め、業界のトップの雰囲気や先端のノウハウに触れた上で起業なり独立なりを果たした人が中心的に取り上げられているような気がし、同じ「若者」といっても産業社会の下層で最初からそうしたものに触れる機会の無かった人のことは最初から眼中にないような印象を受けました。

 こうした特殊な人ばかり取り上げて(その方向性の散漫さも目につく)、「辞めた若者」の一般的な実態には迫っていないんじゃないかなという気がしますが、転職に失敗した人に対しては、前著『若者はなぜ3年で辞めるのか』にある"羊 vs.狼"論で、「彼ら"転職後悔組"に共通するのは、彼らが転職によって期待したものが、あくまでも『組織から与えられる役割』である点だ。言葉を換えるなら、『もっとマシな義務を与えてくれ』ということになる。動機の根元が内部ではなく外部に存在するという点で、彼らは狼たちと決定的に異なるのだ」と既にバッサリ斬ってしまっていたわけです。

 元々著者自身が、企業の中で学習機会に恵まれた環境のもと大事に育てられた人なわけで、この人が「キャリア塾」的な活動をするとすれば、対象としては大企業に今いて一応レールに乗っかっている人に限られるのではないかと思われ、個人的にはそうした活動よりも、企業向けのコンサルティング的提言をしていく方がこの人には向いているのではないかと、老婆心ながらも思いました(『内側から見た富士通-「成果主義」の崩壊』('04年/光文社ペーパーバックス)は悪い本ではなかった。むしろ、大いに勉強になった)。

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"体験小説"風「就活記録」。「読み物」を書くことが目的化している本?

若者はなぜ正社員になれないのか.jpg  『若者はなぜ正社員になれないのか (ちくま新書)』 ['08年] 高学歴ワーキングプア.jpg 水月 昭道 『高学歴ワーキングプア 「フリーター生産工場」としての大学院 (光文社新書)

 本書は、「大学を出た後、2年近くふらふらしていた人間が心を入れ替えて開始した一連の就職活動」の顛末の記録ということで、著者は大学院卒であることから、水月昭道氏の『高学歴ワーキングプア』('07年/光文社新書)の実体験版と言えなくも無く、但し、「若者はなぜ正社員になれないのか」という労働問題上の一般論的なタイトルを謳いながら、「いかにも新書的に社会を俯瞰する形で解答を提示することを僕はしない」として、結果として"体験小説"風の本に仕上がっている(それに終始している)のはいかがなものでしょうか。

 企業の採用活動の現場やそこに集まる学生達の様子が結構生々しく綴られていて、読み物としてはまあまあ面白かったりもするのですが、そうした「読み物」を書く事が目的化しているみたいで、ああ、結局この著者は文筆業で身を立てていくつもりでいて、本書はその足掛かりなのだなあと勘繰りたくなってしまいます(その分、書かれている就職活動の内容に、今ひとつ著者自身の真剣さが感じられない)。

 どういう本にするのか編集者ともう少し詰めて欲しかった気がし、編集者側から提示されたタイトルをそのまま受け入れ、但し、内容は自分の書きたいことを書いているという感じ。
 本来ならばタイトルそのものを拒否すべきだろうけれども、こうした"妥協"ぶりも、著者の就職活動いい加減ぶりと重なるような...(著者自身も、内容との整合性を重視するより、"売れそうな"タイトルを選択した?)。

 本書に対する個人的評価を星1つにせず星2つとしたのは、採用面接で落ちまくる自分のダメさ加減や、企業の担当者や一緒に受けた周囲の学生に対する印象などが素直に描き表わされていて、気持ち的には大いに共感(同情?)をそそられる面があったため(やっぱり小説なんだなあ、これ)。

 但し、最後の方にある就職活動者に対するアドバイスなどになると、やけに保守的な部分とフザケ気味な部分が混在していて、著者自身がやや分裂している感じもし(就職試験で落ちまくる学生も、就活の終盤に来ると分裂状態を呈することがあるが)、「不安定の意義」なんて考え始めるとドツボに嵌るのであんまりそんなことは考察しないで、是非、自分の身の丈に合った「安定」を追求していただきたいと思います。

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労働規制緩和の流れと'06年以降の規制の強化傾向を解説するも、ブログ本の域を出ず。

労働再規制.jpg 『労働再規制―反転の構図を読みとく (ちくま新書)』 ['08年]

 '95年以降進められてきた労働規制の緩和政策が、'06年以降、労働規制の強化傾向に転じているその流れを、'08年9月の福田康夫首相の辞任表明など最近の政局を絡めて、或いはまた、その前の、経済財政諮問会議、総合規制改革会議などを軸とした小泉純一郎首相の「構造改革」路線、更にはずっと前、'95年の日経連「新時代の『日本的経営』」の成り立ち等も含めて解説しています。

 歴史的な変遷はわかり、また読んでいるうちに著者の“立ち位置”もわかってくるのですが、記述に先入観を持たれまいとするためか、敢えて自ら立場のことは前面に出していない―、このやり方が今ひとつ肌に合わなかったです(本書は、自らのブログ記事からの転用も多いが、ブログの中では、自分は「リベラル」以上の「左翼」であるとはっきり言っている)。

 経済界による「ホワイトカラー・エグゼンプション」導入の動きが国民的反発を招いたのは、「残業代ゼロ法案」というふうに表現されたことが「躓き石」だったとする経済界自身の“敗因分析”に対し、それが「労働実態を無視したまま」の議論だったことを真の原因として指摘していますが、そうした著者の論拠さえ、学者の言説を引いて思い入れのある側に軍配を上げているようにもとれなくもなく、すっきりとした解説になっているようには思えませんでした。

 個人的には、'95年の日経連の“その後の市場原理主義的な規制緩和を導いたとして悪名高い”「新時代の『日本的経営』」について、それを書いた日経連の小柳勝二郎賃金部長が、「雇用の柔軟化、流動化は人中心の経営を守る手段として出てきた。これが派遣社員などを増やす低コスト経営の口実としてつまみ食いされた気がする」(2007.5.19 朝日新聞)というコメントが興味深く、この「つまみ食い」論には同感です(「新時代の『日本的経営』」をちゃんと読んだ人がどれだけいるのか)。

 但し、これは「朝日新聞」の記事を引用したにすぎないもので、著者もこの内容自体は否定しておらず、「つまみ食いしたのは誰か」という話へと移っていっています。
 読んでいくと、「宮内」さんとか「牛尾」さんとかの名前が出てきてそこそこに面白いのですが、この人、政・財界ウォッチャーなの?(ブログでは、池田信夫氏と論争して優勢みたいだけれど、まあ2人の論争は"内ゲバ"みたいなものだなあ)

 こんな役割の人がいても別に構わないと思うけれど、こういう本は、読んでいる時の面白さほどには読後感が深まらないような気がしました(池田信夫氏がわざわざ「読んではいけない本」という言ほどの影響力のある本だとは思えないのだが)。

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企業のメンタルヘルス対策の底の浅さ、考課システムから抜け落ちるアナログ面を指摘。

職場はなぜ壊れるのか.jpg 『職場はなぜ壊れるのか―産業医が見た人間関係の病理 (ちくま新書)』 こんな上司が部下を追いつめる.jpg 『こんな上司が部下を追いつめる―産業医のファイルから (文春文庫)

 前著『こんな上司が部下を追いつめる-産業医のファイルから』('06年/文芸春秋、'08年/文春文庫)は、職場で業務に追われて過労死し、或いはそこまでいかなくとも、精神的余裕を失っている労働者の背後には、部下の仕事をマネジメントする意識が薄く、何らサポートせず何もかも部下に押しつけて部下を追い込み、人材潰しをしている上司がいることを、産業医の視点からリアルに指摘していましたが、働く側の共感を得るところが大きかったのか、よく売れたようです(それなりの数の上司たる人も読んだとは思うが)。

 但し、「こうした問題を組織体としてどうするかを考えるのがカイシャではないか」という意見も前著には寄せられたようで、個人的にも、サラッと読めて終わってしまった物足りなさのようなものがありましたが、本書はそれに応える形で、上司個人の問題からより踏み込んだ「職場の人間関係」に視野を拡げ、その背景にある人事システム、端的に言えば「成果主義」に対する、問題点の指摘と批判を行っています。

 前半部分は、事例を挙げて前著をリフレイン(現象面の表記)している感じでしたが、中盤から、成果主義がもたらした職場における人間関係の変容や、目標管理・人事考課制度の問題点などを指摘していて、ぐっと考察が深まる感じ。
 但し、成果主義に警鐘を鳴らしながらも、それに代わるシステムを提唱することは、(ここまで企業の人事制度等の内実に通暁していれば、出来ないこともないのだろうが)「専門外」であるとして敢えて行っておらず、そのことに対する批判もあるかも知れませんが、個人的にはむしろ、自らの専門領域に留まることで、メンタルヘルス対策に対する国や企業、医療関係者のあり方への痛烈な批判の書となっているように思えました。

 例えば、過労自殺を巡る裁判のあった会社の「結果を厳粛に受け止め、社員の健康管理について改善を進めたい」というコメントに対し、「労働衛生の3管理」と言われる「作業環境管理、作業管理、健康管理」は、この順番で優先されるべきであり、「健康管理」よりも先に「作業環境管理」や「作業管理」を行わなければならない(社員を守るのは「健康管理」ではない)と著者は述べていますが、この点をわかっている経営者はどれぐらいいるでしょうか。

 ひと月当たり100時間を超える時間外労働をした人が疲労を訴えた場合は、医師による面談を行うことが、安衛法の改正により義務づけられましたが、労働者が「ノルマが達成できない」と言えば「達成できるノルマに代えてもらったら?」と言い、「仕事が終わらない」と言えば「社員を増やしてもらったら」と医師が言うだけでは、労働者にとっては何ら解決にならず、却って落ち込むというのは、確かにその通りで、労基署の監督官などにも、これに近い対応が見られるのではないでしょうか。

 人事制度そのものには踏み込んでいないものの、目標管理と人事考課のデジタルな連動には大いに疑念を挟んでいて、個人的には成果主義そのものが悪であるとは思わないのですが(著者自身も、そうした仕組みを入れざるを得ない業態があることを認めている)、人事考課がゲーム感覚となり、人事のアナログの部分が抜け落ちてしまうことを著者が指摘している点は、大いに共感しました。

 アナログ面、例えば、職場のモラルとか...。上司が部下を立たせたまま長時間にわたり説教してたり、女子社員が机に伏して泣いているのに周りの社員は「またか」と言う感じで仕事を続けている、といった職場は、どれだけ業績を上げていても、やはり「壊れている」のだろうなあ。

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利権グループの代表としての中国の政治家たち。旧勢力は簡単には死なず。

「中国問題」の内幕.jpg 『「中国問題」の内幕 (ちくま新書 706)』['08年] ポスト胡錦涛.jpg from NHK

 日本の政治家が外交面の交渉力に劣るのは、国内での政治抗争などエネルギーが内向きに働いているためで、そのために中国の政治家のように外交面ではしたたかさを持ち得ないなどといった見方がありますが、本書を読むと、中国の政治家の方が、まるで「十八史略」の続きのような壮絶な権力抗争を続けていて、その上で外交面においてもしたたかさを発揮していることがわかり、その凄まじいエネルギーに改めて感服させられます。

温家宝.jpg 本書は、東京新聞のベテラン記者(元中国総局長)が、主に'05年からから2年余りの中国の時事問題を追ったもので、'06年以降に記事として発表したものを新書に纏めたものですが、対象時期は限定的であるものの、中国の政局の動向を通して、政治家の問題、外交問題、国内問題の本質がそれぞれに浮かび上がるようになっていると思われました。
温家宝

胡錦濤.jpg 冒頭、'07年4月に訪日した温家宝・首相の、国会演説の原稿にあった部分をわざと(?)読み飛ばしてジョークにすり替えるなどしたパーフォーマンスに潜む真意を通して、その政治的したたかさを解明していますが、本書の「主人公」は、中国№1の権力者である胡錦濤・国家主席であり、胡錦濤が前任者・江沢民の一派をいかに弱体化させるか、その腐心の過程を描いているようにも思えました。
胡錦濤

 中国には、胡錦濤の出身母体である「共産主義青年団(共青団)グループ」と、江沢民勢力の残滓であるが経済面で強い影響力を持つ「上海グループ」(上海閥)があり、更に、共産党の長老とその師弟を中心とした「太子党」も依然国の有力な地位を占めていて、収賄や汚職など"腐敗度"のひどい順で言うと、「太子党>上海閥>共青団」となるようですが、要するに、中国の政治家というのは、特定の利益団体の代表であり、新任者が前任者の腐敗を暴き、権力の座からグループごと放逐するということが繰り返され、また、各グループは権力の中枢に自らの代表を送り込むべく、常に虎視眈々と機を窺っているのだなあと。

 そうした政治家の権力争いと平行して、国内には「格差問題」などがあり(内地では依然「人身売買」が横行していて「奴隷制度」があるとの言われ方もしているとのこと)、更に、外交では、「歴史問題」「台湾問題」などがありますが、本書を読むと、日本に対する「歴史問題」は"外交カード"としての要素もあり(確かに江沢民は日本首相の靖国参拝問題などに執着したが、それが国内からの批判を受ける要因にもなった)、中国が本当に固執しているのは「台湾問題」(更には「チベット問題」)であるように思えました。

江沢民.jpg 元々は、あの鄧小平が、「自分の次は江沢民、その次は胡錦濤」と指名したのが現在に至っているわけで、江沢民が胡錦濤への権力移譲を渋ったのも、自分が胡錦濤を選んだわけではないからですが(「上海閥」から「共青団」への権力移行になってしまう)、但し、彼は既に「歴史問題」で求心力を失っていた―。
江沢民

習近平李克強合傳.jpg習近平.jpg習近平夫人の彭麗媛.jpg では、今や胡錦濤の天下かと言うと、'07年10月の中全会(全人代の事前党大会)で、自らが後継に推す"改革派"の李克強より上位に「太子党」を母体とする"既得利益擁護派"の習近平(清華大学卒の理系エリートで、夫人は軍所属の有名歌手・彭麗媛)をもってこざるを得なくなっている―(議会に投票制を採用した結果でもあるが)、本当に、この国の"旧勢力"というのはシブトイ。
習近平と夫人の彭麗媛

 本書はここまでですが、その後、'08年3月にチベット暴動が起き(胡錦濤は'89年のチベット暴動の時にチベットの党書記をしており、武力鎮圧した事で昇進した)、5月には胡錦濤自身が来日して「友好」をアピール、それから1週間もしないうちに四川大地震が起きるなど、中国情勢は目まぐるしい...。
 

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読ませ所はあったが、こういう挟み方はちょっと...。

こんなに使える経済学.jpg 『こんなに使える経済学―肥満から出世まで (ちくま新書 701)』 ['08年] 経済学的思考のセンス.jpg 『経済学的思考のセンス―お金がない人を助けるには (中公新書)』 ['05年]

 大阪大学の大竹教授の研究グループ(社会経済研究所)のメンバー約20名が執筆分担して、「週刊エコノミスト」に連載した経済エッセイを新書に纏めたもので、社会制度の設計はインセンティブを無視しては成り立たず、そのような仕組みを考えるうえで、経済学的思考法は"使える"―との考えのもとに、肥満や喫煙のメカニズムを解いたり、出世や談合、耐震偽装といった問題を経済学の視点から分析したりしています。

 身近な話題が多く、「美男美女への賃金優遇は不合理か」とか「出世を決めるのは能力か学力か」といった話も、統計分析の考え方を主眼に話を進めているので、どうやって統計を取るのか? とりあえず結果は?という方へ関心が行き、すんなりは入れるのではないかと思われます。

大相撲.jpg 個人的には、「談合と大相撲の共通点とは」という章の、千秋楽に7勝7敗の力士が8勝6敗の力士と対戦した場合の勝率は8割に近く、翌場所、同じ力士に当たった際の勝率は4割に半減する、といったデータなどは興味深かったです。

 ただ、基本的には、大竹氏の『経済学的思考のセンス』('05年/中公新書)の前半部分の手法を、執筆分担制にしただけの"二番煎じ"であり、前著はまだ後半部分において、労働経済学の観点から公的年金やワークシェアリング、年功賃金や成果主義、或いは所得格差の問題を考える際に、こうした統計学的な考え方やインセンティブ理論を応用してみせていたのですが、本書は、単なる軽い読み物で終わってしまっている気も...。

 連載の新書化だからしょうがないかな(前著も、連載と他の発表論文の組み合わせだったが)と思いきや、いきなり、「不況時に公共事業を増やすべきか」などというモロなテーマが出てきて、書いているのは、大竹氏の研究所の先輩にあたる小野善康氏(巻末の執筆者一覧で、1961年生まれになっていたが、これは誤りでしょう)であり、しっかり小野流の「構造改革論」を展開しています。

 読ませ所はあったわけですが、こういう挟み方はちょっと...と思うのは、偏狭過ぎるでしょうか。

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中学受験への問題提起? それとも、受験必勝法? 主題分裂気味な面も。。

中学受験、する・しない?.jpg 『中学受験、する・しない? (ちくま新書)』['01年] 秘伝 中学入試国語読解法.jpg 石原千秋 『秘伝 中学入試国語読解法 (新潮選書)』 ['99年]

ウディ・アレンのすべて.jpg 以前に、受験生の父親が書いた中学受験に関する本で定評のあるものとして、作家・三田誠広氏の『パパは塾長さん』('88年/河出書房新社)、国文学者・石原千秋氏の『秘伝 中学入試国語読解法』('99年/新潮社)、テレビ局社員・高橋秀樹氏の『中学受験で子供と遊ぼう』('00年/日本経済新聞社)を読みましたが、本書はこれらの後に出た本の中では好評のようで、個人的には、ボブ・グリーンやマイク・ロイコのコラム翻訳、或いはブロードウェイ・ミュージカルの入門書やウディ・アレンの評伝などで親近感のある著者の書いたものであるということもあり、また、タイトルの「する・しない?」にも少し惹かれて手にしました。

 著者自身、2人の娘の中学受験を経験したわけですが、前3著ほど、そのことについて詳しく書かれているわけではなく、また、どこの学校を受けて、どこに入ったというような学校名も書かれておらず、「中学受験のあるべき姿」を一般論として論じています。

 本書で著者が強調していることは、偏差値に振り回される時代は終わり、子どもの性格に合った塾や学校選びをせよということであり、例えば、大学受験をしなくてすむ大学附属校などの出身者は、おっとりした性格の人が多いなどというのは、当たっているような気がしました。

 私立の中・高一貫校は、本書が書かれた頃には既に人気の的になっていたわけで、著者は、公立校復権の気運に対し、所得による教育の不公平性を排除するために、有名大学への進学を目指した公立の中・高一貫校を一部に作るのはいい、但し、そうした学校をやみくもに増やして、公立学校の中に再び偏差値によるピラミッドを作ることはやめるべきだと言っています。

 私立の受験日を平日にもってくるべきではない、受験科目数を減らすべきだなどの提言はマトモですが、あとがき的に書かれている程度で、そのほかには言い切れてない部分も少なくなく、全体としてインパクトが弱いような...。
 そもそも、一方で、「現在の日本の中学受験の『勝者』となる方法」を本書のテーマとして挙げていて、「中学入試偏差値一覧」(これ、見易い)なども載せているため、主題分裂気味な面もあり、少なくとも「する・しない?」の「しない」は、最初から除かれているような感じ(私立の小学校受験については、公立ので「いろいろなタイプの人たちと交流することが大事」だというのが著者の意見)。

 麻布中学の国語問題を載せ、その長文の長さと難易度の高さに、「嫌でも大変でも、これが現実」としていますが、読者をびっくりさせているだけのような気もし、石原千秋氏が、中学受験の国語問題を多く取り上げながら、それらに潜む一定の価値観への指向性を指摘した『秘伝 中学入試国語読解法』の方が、"批判"と"実用"の両方を(巧妙に)兼ね添えていると言えます。
 専門分野の違いもあるかと思いますが、だったら、受験英語についての問題点を指摘してみてはどうかなあ(既にやっておられれば、失礼しました)。

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「メランコリー親和型うつ病」というものを通して、"日本人という「うつ病」"を考える。

うつを生きる.jpgうつを生きる (ちくま新書)』['02年]日本人という鬱病.jpg 芝 伸太郎『日本人という鬱病』['99年]

メランコリー.jpg うつ病の中に「メランコリー親和型うつ病」という種類があり、これは、律儀、几帳面、生真面目、小心な、所謂、テレンバッハが提唱したところの「メランコリー親和型性格」の人が、概ね40歳以降、近親者との別離、昇進、転居、身内の病気などを契機に発症するものですが、職場での昇進などを契機に責任範囲が広がると、全てを完璧にやろうと無理を重ね、結果としてうつ病に至る、といったケースは、よく見聞きするところです。

 著者は、「メランコリー親和型性格」というのは平均的な日本人の性格特徴であり、和辻哲郎の『風土』など引いて、それに起因するうつ病というのは、日本の"風土病"であるとも言えるとして、これは、前著『日本人という鬱病』('99年/人文書院)のテーマを引き継ぐものです。
 また、日本の社会における「贈与」(ボランティア活動なども含む)とは、「交換」と密接に結びついていて(結局は、どこかで相手に見返りを要求している)、そうしたことが「うつ病の発生母地」になっていると。
 確かに、うつ病による休職者などは、会社に対して借りを作っていうような気分になりがちで、ある種の経済的な貸借関係の中に自らの休職を位置づけてしまいがちな傾向があるのかも。
 では、どうして日本人がそうした心性に向かいがちなのかを、本書では、文学、哲学、経済など様々な観点から考察し、貨幣論やマックス・ウェーバーの社会学にまで言及しています。

木村 敏.jpg 「メランコリー親和型性格」をキーワードに日本人論を展開したのは、著者の師であるという木村敏(1931- )であり、その他にも、中井久夫、新宮一成ら"哲学系"っぽい精神病理学者を師とする著者は、一般書という場を借りて、自らの思索を本書で存分に展開しているように思えます。
 うつ病本体から離れて、形而上学や日本人論にテーマが拡がっている分、一般のうつ病経験者などが本書を読んだ場合、どこまでそれに付き合うかという思いはありますが、これが意外と共感を呼ぶようです。
 それぐらい、「メランコリー親和型性格」というものを指摘されたとき、それが自分に当て嵌まると感じる人が、うつ病経験者には多いということなのかも知れません。

 そうした性格を否定するのではなく肯定的に捉えている点も、本書が共感を呼ぶ理由の1つだと思いますが(その点でタイトルの「生きる」に繋がる)、思考しながら読み進むことで、そうした自らの心性を対象化し、ものの考え方が良い方向に変容するという効果もあるのかも知れないとも思いました。

 個人的に興味深かったのは、不況(depression)とうつ病(同じく、depression)の相関についての考察で、「メランコリー親和型うつ病」というのは、返済不能な負債を負った際などに発症するものであり、会社で給与カットやリストラに遭ったりして発症するものではなく、折角昇進(昇給)させてもらったのに、それに見合った仕事ができていない、などといった状況で発症すると。
 だから、不況下では、それ以外の精神疾患は増えるかも知れないが、「メランコリー親和型うつ病」は減ると―。

 そんな機械的に割り切れるものかなという気もしますが(リストラした会社に対する負債は無いが、家族や援助者への負い目などはあるのでは?)、「メランコリー親和型うつ病」の特性を考えるうえでは、わかりやすく、また興味深い仮説かも知れないと思いました。

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分析は多面的で鋭いが、「特殊」か「普遍」かテーマが見えてきたところで終わっている印象。

「かわいい」論.jpg「かわいい」論 (ちくま新書)』['06年]Cawaii!(カワイイ) 2008年6月号.jpg 雑誌「Cawaii!(カワイイ)」

 ポケモンやセーラームーンなどのキャラクター商品で世界を席巻する「かわいい」大国ニッポンにおける「かわいい」とはそもそも何なのか、それが日本から発信されたことの意味を問ううえで、改めて「かわいい」を徹底分析した本。

 太宰治の「女性徒」から枕草子にまで遡って「かわいい」の来歴を探り、大学生のアンケート調査などからこの言葉の持つ多面性を示すほか、古今東西の芸術からグロテスクなものと隣り合わせにある「かわいい」の位置を示し、日本人の心性にある「小さく幼げなもの」への志向や、ノスタルジー、スーヴニール(記念品)としての「かわいい」、成熟することへの拒否の表現としての「かわいい」...etc 極めて多面的に「かわいい」の本質に迫ろうとしています。

CUTiE 2008年5月号.jpgゆうゆう 2008年6月号.jpg 但しここまでは、テーマの周囲をぐるぐる回ってばかりいるようにもやや感じていたのが、その後の女性誌における「かわいい」の分析において、ティーン層向け雑誌「Cawaii!(カワイイ)」、「CUTiE」から「JJ(ジェイジェイ)」、更には中高年向けの「ゆうゆう」までとりあげ、中高年向けの雑誌にも「大人のかわいさが持てる人」といった表現があることに着目しているのが興味深かったです。

雑誌「CUTiE」/雑誌「ゆうゆう」

 本書によれば、TⅤアニメの国内消費量は10%で、残り90%は海外での消費であり、日本発「かわいい」は消費社会のイデオロギーとして世界中に浸透し、例えば本書に紹介されている「ハイ!ハイ!パフィー・アミユミ」の如く、すっかり無国籍化されたかのように見えますが、一方で、米国などでは「キティちゃん」の卒業年齢が比較的早期にあるのに、東南アジアでは、大人になっても受容されるなど、その受け入れられ方に、地域によって差異があるという。

「ハイ!ハイ!パフィー・アミユミ」/ムック「もえるるぶ」
ハイ!ハイ!パフィー・アミユミ.jpgもえるるぶCOOL JAPAN オタクニッポンガイド.jpg 「かわいい」が日本の「特殊」な文化なのか((「かわいい」へのこだわりや、そこからいつまでも抜け出せないこと)、それとも「普遍」的なものなのか、興味深いテーマが見えてきたところで、本書は終わってしまっているような観もあります。

 '80年代に浅田彰、中沢新一らと並んでニューアカブームの旗手とされ、また、サブカルチャーにいち早く注目した著者の(映画論、漫画・アニメ論は近年の社会学者の必須アイテムみたくなっているが、この人の場合、年季の入り方が違う)、本書におけるスタンスは意外と慎重だったという印象。
                                    

 全体を通して鋭い分析がなされていて、秋葉原の「オタク」文化や池袋の「腐女子」文化の取材は面白く、また、「かわいい」がもたらす"多幸感"が、政治的道具になり得ることを示した終章は重いけれども、「分析」にページを割いた分、テーマが見えてきたところで終わっているという印象が、どうしてもしてしまうのですが。

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重症うつ病の"現場"を見てきているという自信が感じられる内容。「うつ病」の怖さを痛感。

うつ病.jpgうつ病―まだ語られていない真実 (ちくま新書 690)岩波 明.jpg 岩波 明 氏(精神科医/略歴下記)

Hemingway.bmpMargaux Hemingway.jpgMargaux Hemingway in Lipstick.jpg 自殺したヘミングウェイが晩年うつ病でひどい被害妄想を呈していたとは知らなかったし、近親者にうつ病が多くいて、彼の父も拳銃自殺しているほか、弟妹もそれぞれ自殺し、孫娘のマーゴ・ヘミングウェイ(映画「リップスティック」に主演)までも薬物死(自殺だったとされてる)しているなど、強いうつ病気質の家系だったことを本書で知りましたが、うつ病を「心のかぜ」などというのは、臨床を知らない人のたわごとだと著者は述べています。
Ernest Hemingway/Margaux Hemingway

 ただし本書によれば、こうした遺伝的気質などによる「内因性うつ病」と、心因的な「反応性うつ病」を区分する従来の二分法は症状面からの区別が困難で、内因性うつ病でも近親者の死など身近な出来事が誘引として発症することがあるため、DSM‐Ⅳではこれらは大うつ病という用語で一括りにされており、一方、軽症うつも、「神経症性うつ病」と従来呼ばれていたのが気分変調症(ディスサイミア)」と呼ぶようになっているとのこと。こうした病名は時代とともに変わるようでややこしい。
 実際、「軽症うつ」という概念は、「大うつ病」「気分変調症」を除く"軽いタイプのうつ病"という意味で最近まで用いられており(時に「気分変調症」も含む)、本書はどちらかと言うと、「軽症うつ」を除くディスサイミア以上の重い症状を扱った本と言えるのでは。

 うつ病(ディスサイミア)の症例として、被害妄想から自宅に放火し、自らの家族4人を死に至らしめた女性患者の例が詳しく報告されていて、うつ病(ディスサイミア)の怖さを痛感させられショッキングであるとともに、その供述があまりに不確かで、(このケースもそうだが)抗うつ剤を大量服用したりして事故に至るケースも多いようで、こうした事件の事実究明の難しさを感じました(この事件についても著者は"失火"の可能性を捨てていない)。

 こうした犯罪と精神疾患の関係も著者の研究テーマであり、そのため著者の本は時に露悪的であると評されることもあるようですが、無理心中事件などの中には、実際こうしたうつ病に起因するものがかなり多く含まれていて、周囲が異常を察知し、また薬の服用を過たなければ防げたものも多いのではないかと改めて考えさせられました。

 現在治療を受けたり通院したりしている人にも自分がどんな治療を受けているのかがわかる様に、抗うつ剤の種別や副作用について専門医の立場から詳しく書かれている一方、素人や専門医でない人の書いたうつ病や抗うつ剤に関する著書の記述の危うさに警鐘を鳴らし(高田明和、生田哲の両氏は名指しで批判されている)、更に、精神科医であっても重症例の臨床に日常的に携わっていない学者先生のものもダメだとしていて、重症のうつ病の"現場"を見てきているという自信とプライドが感じられる内容です。

リップ・スティック.jpg 因みに、冒頭で取り上げられているマーゴ・ヘミングウェイが主演した映画「リップスティック」は、レイプ被害に遭った女性モデル(マーゴ・ヘミングウェイ)が犯人の男を訴えるも敗訴し、やがて今度は妹(マリエル・ヘミングウェイ)も同じ男レイプされるという事件が起きたために、自分と妹の復讐のためにそのレイプ犯を射殺し、裁判で今度は彼女の方が無罪になるというもの。

マーゴ・ヘミングウェイ リップスティック 映画パンフ.jpg あまり演技力を要しないようなB級映画でしたが(マーゴ・ヘミングウェイが演じている主人公は、うつ気味というよりはむしろ神経症気味)、大柄でアグレッシブな印象のマーゴ・ヘミングウェイを襲うレイプ犯を演じていたのが、ヤサ男の音楽教師ということで(「狼たちの午後」('75年/米)でオカマ男性を演じてアカデミー助演男優賞にノミネートされたクリス・サランドンが演じてている)、このキャラクター造型は、今風のストーカーのイメージを先取りしていたように思います。

Killer Fish.jpg マーゴ・ヘミングウェイは、この後、B級映画「キラーフィッシュ」(別題「謎の人喰い魚群」または「恐怖の人食い魚群」、'78年/伊・ブラジル)とかにも出ていますが(劇場未公開、'07年にテレビ放映)、B級映画専門で終わった女優だったなあ。

 彼女が自殺した日は、祖父アーネスト・ヘミングウェイが自殺した日から35年後の、同じ7月2日だったそうです。

リップスティック.jpglipstick.jpg 「リップスティック」●原題:LIPSTICK●制作年:1976年●制作国:アメリカ●監督:ラモント・ジョンソン●製作:フレディ・フィールズ●脚本:デヴィッド・レイフィール●撮影:ビル・バトラー●音楽:ミッシェル・ポルナレフ●時間:89分●出演:マーゴ・ヘミングウェイ/クリス・サランドン/アン・バンクロフト/ペリー・キング/マリエル・ヘミングウェイ/ロビン・ガンメル/ジョン・ベネット・ペリー●日本公開:1976/09●配給:東宝東和●最初に観た場所:高田馬場パール座 (77-12-16) (評価:★★)●併映:「わが青春のフロレンス」(マウロ・ポロニーニ)

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岩波明 イワナミ・アキラ
1959昭和34)年、横浜市生れ。東京大学医学部卒。精神科医。医学博士。東京都立松沢病院を始めとして、多くの精神科医療機関で診療にあたり、東京大学医学部精神医学教室助教授を経て、ヴュルツブルク大学精神科に留学。現在、埼玉医科大学精神医学教室助教授を務める。著書に『狂気という隣人』『狂気の偽装』『思想の身体 狂の巻』(共著)、訳書に『精神分析に別れを告げよう』(H.J.アイゼンク著・共訳)などがある。

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憂うつだが好きなことには元気が出る、過食・過眠、イライラする...若い女性に多いうつ病。

気まぐれ「うつ」病.jpg 『気まぐれ「うつ」病―誤解される非定型うつ病 (ちくま新書 668)』 ['07年] 貝谷久宣 (かいや ひさのり).gif 貝谷久宣 (かいや ひさのり)赤坂クリニック理事長(略歴下記)

うつ2.jpg 著者は、パニック障害をはじめ不安障害を専門とする精神科医で、パニック障害の治療で知られるクリニックの理事長を務めるなど、社会不安障害の研究・治療の第一人者ですが、その著者が書いた「非定型うつ病」(かつて「神経症性うつ病」と呼ばれたタイプ)の本です。

 普通のうつ病では、何があっても元気が出ないのに対し、非定型うつ病の場合は、何か楽しいことがあると気分が良くなるなど、出来事に反応して気分が明るくなるのが大きな特徴で、タ方になると調子が悪くなったり、過食・過眠気味になったり、イライラして落ち着かないなどの傾向もみられるそうですが、20〜30代でかかるうつ病では、多くがこの非定型タイプと考えられ、特に若い女性に多いとのこと。

 「非定型うつ病によくみられる随伴症状」として、〈不安・抑うつ発作〉〈怒り発作〉〈フラッシュバック〉〈過去・現在混同症候〉〈慢性疲労症候群〉といった症状をあげていて、「不安・抑うつ発作の特徴は、わけもなく涙が出ること」といった観察は、数多くの臨床をこなしてきた著者ならではのものと思われました。

うつ3.jpg 但し、掲げられている13の症例の読み解きは、自分にはかなり難しく思え、それぞれ共通項も多いものの、症候の現れ方や治り方が多様で、他の病気や人格障害と重なる症状もあり、実際、医者に境界性人格障害などの診断を下されることもあるというのは、ありそうなことだなあと(こうなると、患者にすればもう、クリニックの選び方にかかってきて、そこで誤ると、症状を増幅しかねないということか)。

 普通のうつ病では、とにかく休養をとることが重要、周囲の人が頑張れと言って励ますと、本人が自分自身を追い込んでしまうので良くないとされていますが、非定型うつ病の場合は、少し励ますことが本人のためになり、決まった時間に起きて会社に行く方が良かったりするようで(休職を取り消して回復した症例が紹介されている)、一方で、普通のうつ病が多くの場合、重症期を過ぎて回復期に自殺する危険があるのに対し、非定型うつ病では、周囲の人に助けを求めるサインとして、衝動的に自殺を企てる恐れがあるそうで(リストカットを繰り返すのはこのタイプに多い。これも、症例で紹介されている)、大体、人見知りをするようなタイプの人が発症することが多いようです。

 こうなると、うつ病(「執着性格」と相関が高い)とは別の病因による独立した症候群ではないかという仮説も成り立ちそうですが、著者はそこまでは踏み込まず、むしろ、治療の実際において使われる薬など、治療法の部分にページを割いています。
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貝谷久宣 (かいや ひさのり)
医療法人 和楽会 心療内科・神経科/赤坂クリニック理事長
1943年名古屋生まれ。1968年名古屋市立大学医学部卒業。マックス・プランク精神医学研究所(ミュンヘン)留学。岐阜大学医学部助教授・岐阜大学客員教授・自衛隊中央病院神経科部長を歴任。1993年なごやメンタルクリニックを開院。1997年不安・抑うつ臨床研究会設立代表。医療法人 和楽会 なごやメンタルクリニック理事長。米国精神医学会海外特別会員。国際学術雑誌『CNS Drugs』編集委員。
主な編著書/[新しい精神医学/HESCO] [新版 不安・恐怖症―パニック障害の克服/講談社健康ライブラリー] [脳内不安物質/講談社ブルーバックス] [対人恐怖/講談社] [社会不安障害のすべてがわかる本/講談社]

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患者から聞きだした解離の主観的体験から、不思議な病像の特徴と構造を分析。

解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理.jpg 『解離性障害―「うしろに誰かいる」の精神病理 (ちくま新書 677)』 ['07年]

 解離性障害と言うと、多重人格者犯罪など、一般人とはかけ離れた、想像もつかないような人格を思い浮かべがちで、5つの中核的な症状(健忘・離人・疎隔・同一性混乱・同一性変容)を聞いても、今一つぴんと来ない―。解離性障害を描いた映画もあったが、あまりに綺麗に作られているような...。

パンズ・ラビリンス.jpg ところが、多くの解離性障害を診てきた専門医である著者は、我々が過去の出来事を想起する際などにも「離れたところから自分を見ている」ように出来事を思い出すことを指摘し、一般人の時空の認知などにも、ふっと似たような状況が現れることを示していて、これはなかなか新鮮な指摘でした。

 映画「パンズ・ラビリンス」('06年/メキシコ他)

 著者は、解離性障害の既成の定義(5つの中核的な症状)に飽き足らず、自らの臨床経験をもとに、患者から聞きだした解離の主観的体験から、その幾つかの特徴に迫り(副題の「うしろに誰かいる」というのも、その特徴の1つである「気配過敏症状」の代表例)、更に、解離の症状を、空間的変容と時間的変容にわけて、それぞれの構造を分析しています。

 本書によれば、解離性障害は、幼児期の虐待などの心的外傷によって引き起こされることが多いようですが、ボーダーライン(境界性人格障害)や統合失調症などと似た症状を呈することが多く、その診断が難しいようです(著者自身、解離の主観的体験が解離に特異的なものであるとは考えていないという)。

宮沢賢治.jpg 中盤の「解離の構造分析」のところは、哲学的考察も含んでやや難解でしたが、後半に、宮沢賢治の作品を「解離」を通して読み解く試みがなされていて、これがたいへん興味深いものであり、また「解離」とは何かを理解する上で助けになるものでした。
 宮沢賢治作品のこうした側面は、以前に河合隼雄氏が指摘していた記憶があり、また、立花隆氏も『臨死体験』('94年)で、体外離脱体験者でなければ書けない部分を指摘していたように思いますが、本書では、かなり突っ込んで、その辺りに触れています(但し、賢治を解離の病態とすることには、著者は慎重な立場をとっている)。

24人のビリー・ミリガン下.jpg でも、やはり、ダニエル・キースの『24人のビリー・ミリガン』ではないが、多重人格症状を示す患者に対し、本書にも事例としてあるように、各人格を交代で呼び出してカウンセリングする様などを思い受かべると、実に不思議な気がし、著者自身、解離性ヒステリーの患者に初めて出会ったとき、「世にはこんなにも不思議な心の世界があるんだ」と心の中で呟き、後に総合病院の精神科で、多彩な解離の病像を繰り広げる患者とまみえて、この世界に引き寄せられたことを、あとがきで告白しています。

《読書MEMO》
●解離の主観的体験(65P)
離隔 世界がスクリーンに映る映像のように見え、著しくなると、視野の中心しか見えなくなり、更に、体外離脱の方向に向かうと、視野が拡大して、その中に自分がいる。
気配過敏症状 家の中で一人でいるとき、誰かがいるという気配を感じる。トイレや風呂で除かれている気がする。後ろに意地悪い人がいる。
対人過敏症 駅や電車の中、デパート、病院の待合室など、人が大勢いるところで、漠然とした緊張や怯えを感じる。
影が見える 目の前を影がさっと過ぎる。視野の端に、影らしきものがさっと動く。
表象幻視 過去の記憶や想像などが、まるで見えるかのように頭に浮かんだり、次々と展開したりする。
体外離脱体験 自分の体から抜け出して隣の部屋へ行ったり、夜の空を飛んだりする。
自分を呼ぶ声が聴こえる 誰もいないのにどこからか自分を呼ぶ声がする。
思考・表象が湧き出る 空想が湧き出る。頭の中にいろいろな映像が出てきて収拾がつかなくなる。

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「男道」の伝統は武士から駕籠かきを経由してヤクザに引き継がれた?

サムライとヤクザ.png 『サムライとヤクザ―「男」の来た道 (ちくま新書 681)』 〔'07年〕

 本書によれば、戦国時代が終わり江戸時代にかけて、「男道」は次第に武士のものではなくなり、「かぶき者」と言われた男たちが戦国時代の余熱のような男気を見せていたのも一時のことで、「武士道」そのものは形式的な役人の作法のようなものに変質していったとのことです。

 では、誰が「男道」を継承したのかと言うと、藩邸が雇い入れた"駕籠かき"など町の男たちだったそうで("火消し"がそうであるというのはよく言われるが、著者は"駕籠かき"の男気を強調している)、こうした男たちの任侠的気質や勇猛果敢ぶりに、かつて武士のものであった「男道」を見出し、密かに賞賛を贈る人が武士階級にもいたようです。

 また、同様の観点から、鼠小僧次郎吉が捕えられた際の堂々とした態度に、平戸藩主・松浦(まつら)静山が『甲子(かっし)夜話』で賛辞を贈っているとも(松浦静山に限らず、同様の例は他にもある)。

 江戸初期に武士の間に流行った「衆道」(男色)の実態(多くがプラトニックラブだったらしいが、生々しい記録もある)についてや、17世紀後期には幕臣も藩士も殆どが、一生の間に抜刀して戦うことなく死を迎えたという話、松宮観山が書いた、"泰平ボケ"した武士のための非常時マニュアル『武備睫毛』とか、興味深い話が盛り沢山。

江戸藩邸物語―戦場から街角へ.jpg 但し、武士の「非戦闘化」、「役人化」を解説した点では、『江戸藩邸物語―戦場から街角へ』('88年/中公新書)の続きを読んでいるようで、本書のテーマはナンだったかなあと思ったところへ、最後の章で、ヤクザの歴史が出てきました。

 江戸史に限らずこちらでも、著者は歴史資料の読み解きに冴えを見せますが、なぜ今の世において政治家も企業家もヤクザに引け目を感じるのかを、松浦静山の鼠小僧次郎吉に対する賛辞のアナロジーで論じているということのようです、要するに。

 「男道」は武士から駕籠かきを経由してヤクザに引き継がれていたということで、政治家や企業家が彼らを利用するのは、武士が武威を他者に肩代わりさせてきたという歴史的素地があるためとする著者の考察は、面白い視点ではあるけれど、素人の感覚としては、やや強引な導き方という印象も。
 この考察をどう見るかで、本書の評価は分かれるのではないでしょうか。

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武士道のを説く者の裏側にある嫉妬心。男の嫉妬は、屁理屈を伴う?

男の嫉妬 武士道の論理と心理.jpg 『男の嫉妬 武士道の論理と心理 (ちくま新書)』 〔'05年〕 山本 博文氏.jpg 山本 博文 氏(東京大学史料編纂所 教授/略歴下記)

 江戸時代のエリート階層であった武士がその価値観・倫理観の拠り所とした武士道ですが、その実践や評価をめぐっては、背後に「男の嫉妬」の心理が働いていたことを、多くの史料を読み解きながら明かしています。

 例えば、江戸初期の辛口御意見番・大久保彦左衛門が、「崩れ口の武辺」(退却する敵を追って仕留めた武勲)で出世した者を貶しているのは、自らが戦国時代に激戦を生き抜いたプライドがあるためで、中途半端な「武辺」で出世する輩を批判する背後には、著者の言うように、ある種の嫉妬心もあったのかも。

 著者によれば、「男の嫉妬」とは彦左衛門の例のように、かくあるべきというそれぞれの正義感や自負心に裏打ちされたものだったということで、そのため多少理不尽であってもある面では理屈が通っているため、容認され続けてきたということです。

 和田秀樹氏の『嫉妬学』('03年/日経BP社)を引き、「男の嫉妬」には、「あいつに負けてなるか」と相手を乗り越えようとする積極的動機付けに繋がる「ジェラシー型」の嫉妬と、ただ相手を羨み足を引っぱろうとする「エンビー型」の嫉妬があり、"鬼平"こと長谷川平蔵の後任だった森山孝盛の、人気者だった平蔵に対する批判などは、「エンビー型」であると。

 本書で一番こてんぱにやられているのが、『葉隠』の山本常朝で、主君亡き後自らが出家したことを殉死したことと同じ価値があるとし、自らが藩で唯一の武士道の実践者であるという意識のもとに物言っていて、これも裏返せば「嫉妬心」の表れであると。

 戦乱の世が去り、泰平の時代が続くと、まったく身分の違う者の出世は気にならないが、同格者同士がそれまで年功序列で処遇されていた中で、誰か1人だけ抜擢人事の対象になったりすると、「エンビー型」嫉妬が噴出したようで、この辺りは、今の日本のサラリーマン社会と変わりません。

 江戸武士の武士道意識の話と、階層社会での出世と周囲の感情という現代に通じる話が相俟って、サラリーマンが通勤途上で読むにはちょうどよいぐらいの内容と読みやすさですが、個人的には、著者の今までの本とネタがかなり被っていて、新味に乏しかった...。
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山本 博文 (東京大学史料編纂所 教授)
1990年、『幕藩制の成立と日本近世の国制』(校倉書房)により、東京大学より文学博士の学位を授与。1991年、『江戸お留守居役の日記』(読売新聞社)により第40回日本エッセイストクラブ賞受賞。
江戸幕府の残した史料の外、日本国内の大名家史料を調査することによって、幕府政治の動きや外交政策における為政者の意図を明らかにしてきた。近年は、殉死や敵討ちなどを素材に武士身分に属する者たちの心性(mentality)の究明を主な課題としている。
主な著書に、『徳川将軍と天皇』(中央公論新社)、『切腹』(光文社)、『江戸時代の国家・法・社会』(校倉書房)、『男の嫉妬』(筑摩書房)、『徳川将軍家の結婚』(文藝春秋社)『日本史の一級史料』(光文社)などがある。

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「戦略は人に宿る」。結局、戦略よりも経営幹部の人選が肝心ということか。

経営戦略を問いなおす.jpg経営戦略を問いなおす (ちくま新書)』 〔'06年〕  三品 和広氏.jpg 三品 和広 氏(略歴下記)

 第1章で、日本の上場企業の多くが'60年代から40年間、売上面では成長しているが、営業利益率が下降の一途を辿っていることをデータをもとに指摘し、ただし、その中でも営業利益を伸ばしている企業は、他の競合企業と経営戦略の面でどう異なるのか分析、それはまさに時代の流れに即した選択がなされているからだということを示しています。
 「成長戦略」という言葉がよく使われますが、成長ということが目的化することの愚を説き、また、MBA信仰に見られる「戦略=サイエンス」といいう考え方の危うさを指摘し、戦略とは主観的なものであり、それは「人に宿る」と。
 
business strategy.jpg 第2章では、経営戦略を立地(ポジショニング)」、「構え(垂直統合、シナジー、地域展開)」、「均整(ボトルネックの克服)」の3つの軸で解説し、第3章では、経営戦略の立案を現場に押し付けてはならず、日本企業では、トップと現場の間(はざま)で事業本部長あたりが戦略計画の立案などに追われているが、もともと、過去に成功した戦略とは、優れた経営者が時代のコンテクストにおいて洞察力を示した結果であり、短期の事業計画に付随してスイスイ実行できるものでもなければ、部課長クラスの手に負えるものでもなく、そこに日本企業の多くが、戦略があってもそれが機能していないという「戦略不全」状態に陥っている原因があると述べています。
 
 結局は、下手な戦略より経営幹部の人選が肝心であるということで、弟4章以降は経営人材論のようになっていて、戦略をつくる人を選ぶには過去の実績やパーソナリティより、テンパラメント(気質、感受性)を重視すべきというのが著者の主張で、最後の第5章のタイトルが「修練」。この部分は、若年層、中堅・幹部社員に送るメッセージがあり、キャリア論的な感じ。 

 経営戦略とは何かという話から、だんだん、戦略を担う人材は いかに育成されるのかという帝王学的な話になっていく感じもしますが、ハーバードビジネススクールで教鞭をとっていた人が、「戦略はサイエンスではなくアートである」とか、「研究すべきは創業者の理念である」とか言っているのが面白い。 
 目の前の人がMBAかどうかは、目の奥に「田の字」が見えればMBA、というジョークが笑え、SWOTとかPPMとか2×2のマトリックスで経営ができるるならば、確かに経営なんてわけない、ということになるなあと納得させられました。
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三品 和広氏
一橋大学商学部卒、同商学研究科修士課程修了、ハーバード大学ビジネスエコノミックスPh.D.、ハーバードビジネススクール助教授を経て神戸大学大学院経営学研究科助教授。
主な著書論文に、"Learning by New Experiences:Revisiting the Flying Fortress Learning Curve"、"日本型企業モデルにおける戦略不全の構図(組織科学)"、"日本企業における事業経営の現実<日本企業変革期の選択(東洋経済新報社)>"等。

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「あちら側」「こちら側」の2つの世界を軸にウェブ・ビジネスの状況がわかりやすく解説。

ウェブ進化論.jpg 『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる』 ちくま新書 〔'06年〕

Googleマップ.bmp シリコンバレーに住んで10年以上というIT企業経営コンサルタントが、今ウェブ・ビジネスがどういう状況にあるかを解説したもので、ネットバブル崩壊後のこの分野のビジネス動向を探る上では必読書かもしれません。
 ただし、こうした内容のものはどんどん身近になり目新しさがなくなるため(例えば「グーグル・マップ」などは普段使っている人も身近に多いし、「グーグル・アース」の"旅行ガイド"は書店に多く出ている)、将来予測というより'05年時点での現状分析という感じ。

 「インターネット」「チープ革命」に加えて「オープンソース」(リナックスが想起しやすい)の3つを「次の10年への三大潮流」とし、その相乗効果がもたらすインパクトを、「Web 2.0」や「ロングテール」などといった言葉に絡めてわかりやすく説いていますが、本書で最も秀逸なのは、ネットの世界を「あちら側」、リアルの世界を「こちら側」と呼び、この2つの世界を対比させて描いているユニークな視点でしょう。

 「あちら側」をホームグラウンドとする企業の代表として「グーグル」をあげ、「こちら側企業」であるマイクロソフトなどとのもともとの土俵の違いやその優位性、さらに、同じ「Web 2.0企業」とされながらも内部で閉じていてオープンソースとは言えないアマゾンやヤフーとの違いを述べています。
 そして、「情報発電所」構築競争という意味では、マイクロソフトやヤフーがグーグルを追撃するのは難しいと言い切っています。
 グーグルのような検索エンジンを"ロボット型"と言いますが、本書を読んで、ある意味、グーグルの思想が反映されている言葉でもあるなあと感じました。

google本社.jpg 情報を「あちら側」でオープンにすると「不特定多数無限大」の存在によって伝播され、より優れた正確なものへと醸成されるという(本書にあるように「ウィキペディア」などもその例だが)、こうしたグーグルのある種の楽天主義に対する著者の共感がよく伝わってきますが、「グーグル八分」なんてことも報じられている昨今、グーグルのある種脅威の部分を想うと、「著者自身がそんな楽天的でいいの?」とい気がしないでもありません。
 ただし、本書でも終わりの方で、グーグルという企業が、会社としてはいかに外部に対し閉鎖的な風土であるかということに少しだけ触れていて、ただし、あえて本書ではそれ以上突っ込んでネガティブ要素に触れていない気もします。

 それはまた少し異なるテーマであり、テーマを絞った入門書として読めばこれはこれでいいのかも。
 全体として論文形式であり、部分的には体感していないとわかりにくい先進事例もありますが、ポイントとなる概念は丁寧に解説されていてわかりやすく(アマゾンの本の売り上げ順位と部数を恐竜の体高ラインに喩えたロングテールの解説など)、この人、両親とも脚本家で、そうした資質を受け継いでいるのかも。

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着眼点はユニークだが、あくまでも著者の推論とみた方がよい部分も。

天才はなぜ生まれるか.jpg 『天才はなぜ生まれるか』 ちくま新書〔'04年〕 ウォルト・ディズニー (1901-1966).jpg ウォルト・ディズニー

 歴史上大きな足跡を残した何人かの人物に注目し、彼らには広義の意味での学習障害(LD)があり、それが彼らの業績と密接な関係があったと―。とり上げられているのは、エジソン(注意欠陥障害)、アインシュタイン(LD)、レオナルド・ダ・ヴィンチ(LD)、アンデルセン(LD)、グラハム・ベル(アスペルガー症候群)、ウォルト・ディズニー(多動症)の6人です。

 昔から天才の病跡学というのはあり、アリストテレスも「天才病理説」を唱えていたように思いますが、本書のユニークな点は、"天才"とは対義的とも思える学習障害に焦点を当て、障害があったからこそ偉業を成し得たとしているところです(LDであることが天才の要件であるとは言えないでしょうけれど)。
 例えばエジソンがそうだったという注意欠陥障害というのは、意識を次々違った対象に移動させるのが困難な障害ですが、いったん注意が向くと人並み外れた集中力を発揮すると。

 彼らは、最初は学校などで落ちこぼれでしたが、やがて頭角を現した―。
 一方で、日本の学校教育の画一主義や社会にまで及ぶ画一性は、こうした異才を見過ごしてしまうのではないかという著者の危惧には頷かされます。

 ただし、過去の人物の様々な仕事や言行の一端だけを拾って障害を推測している部分もあり、これらはあくまでも著者の推論とみた方がよいでしょう。
 突っ込みを入れたくなる記述は多いけれど、突っ込む前に1章が終わってしまう感じで、1人1人の掘り下げはやや浅い気がしました。

 それでも、ミッキーマウスの初期のドタバタ・キャラが、ウォルト・ディズニーの多動性がそのまま投影されたものであるとか、パーク内を徘徊してゴミを拾うのがウォルトの性癖だったという話は面白くは読めました。

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知識は得られるが、"ア本"(アキレタ本)指定されても仕方がない面も。

男が学ぶ「女脳」の医学.jpg 『男が学ぶ「女脳」の医学 (ちくま新書)』 〔'03年〕 米山 公啓.bmp

 斎藤美奈子氏によれば、「ちくま新書」は"ア本"(アキレタ本)の宝庫だそうで、特にそれは男女問題を扱ったものに多く見られるとのこと(大学教授で、準強制わいせつ罪で逮捕された岩月謙司氏の『女は男のどこを見ているか』('02年)などもそう)。
 もちろん分野ごとに良書も多くあって結構よく手にするのですが、本書は『誤読日記』('05年/朝日新聞社)の中でしっかり"ア本指定"されていました。

 本書は、扁桃体などの役割やドーパミンなど主要脳内物資の名前と機能を知るうえでは、わかりやすい良い本であるかのようにも思えました(多くの読者はそうした目的では読まないのかもしれませんが)。

 しかし読んでいるうちにだんだん不快になるとともに、釈然としない部分が多くなります。 
 振り返ると、著者による脳内物資の働きと日常の行動との関係の説明などには、かなりの恣意的な部分や拡大解釈が見受けられます。
 タイトルに「医学」とありながら、さほどの根拠も示さず「これは医学的にも証明されている」で片づけていたりするような傾向が見られ、似非科学、トンデモ本の世界に踏み込んでしまっているかも知れません。

 作家でもありながら(だからか?)、人間の性格や行動に対する乱暴な二分法を展開している点も問題があるように感じます。
 この決めつけぶりに加え、文章にあまり品位が無いこともあり、読んでいてだんだん、自分と同じように不快になってくる人もいるのではとも思われるのですが、すべての人がそう感じるとも限りません。
 結構売れたところを見ると、飲み会の話のネタのレベルで一部には受けるのかもしれません。

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科学トピックスを平易に解説し、「科学」の虚妄を突いたエッセイ。

やぶにらみ科学論.jpg 『やぶにらみ科学論 (ちくま新書)』 〔'03年〕 池田 清彦.jpg  池田 清彦 氏 (略歴下記)

 最近の科学的トピックスをわかりやすく解説するとともに、著者なりの見解を、時にユーモアや皮肉を交えつつ綴った、気軽に読める科学エッセイです。
 狂牛病、バイオテクノロジー、ゲノム解析といった、著者の専門である生物学に近い話から、喫煙問題やノーベル賞の話まで、幅広いテーマを取りあげていますが、全体としてはかなり平易に書かれていると思います。

 その幅広さもさることながら、「科学がよしとするものに従う義務はない」(「あとがき」)とあるように、1つ1つのテーマに対する著者なりの覚めた見方があり、「禁煙運動」や「自然保護運動」の背後のある原理主義を批判し、「地球温暖化論」のいかがわしさを検証し、「クローン人間作ってなぜ悪い?」と言い切っています。
 この辺りが「やぶにらみ」たる所以でしょうけれど、ただ単に多数意見に抗っているわけでなく、読めばそれなりの筋は通っていて、著者の個々の論旨にすべて賛同できるかどうかは別として、いろいろと新たな視点を提供してくれます。

 原理主義的なものに対する嫌悪や、現代人はみな「生老病死を隠蔽する装置の中で生きている」という見方、「人はなぜオカルトを信じるのか」の項で用いられている「脳のクセ」という表現などには、"虫人間"仲間?の養老孟司氏と通じるものを感じました(ときどき"ボヤキ節"みたくなるところも)。

 確かに「○○するのはバカだ」、「よけいなお世話だ」というような粗っぽい言い回しも多いものの、若者の理科離れを嘆き、医療におけるセカンド・オピニオンの重要性を説くなど、基本的にはマジメという感じ(これらは著者にとって、より身近な問題なのかも知れないけれど)。

 「反ダーウィニズム」「構造主義生物学」の考え方に触れている部分もありますが、連載がベースになっているので、1テーマあたりのページ数が少ない物足りなさがあり、むしろ、「科学」につきまとう虚飾や迷妄を見極めなさいといのが本書の趣旨でしょう。
 教育問題、環境問題、「外来種撲滅キャンペーン」に対する批判なども、この著者にはそれぞれ単独テーマとして扱った著作があり、場当たり的にそれらを取り上げているのではないということがわかります。
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池田 清彦
1947年東京に生まれる。東京教育大学理学部生物学科卒業。東京都立大学大学院で生物学を専攻。山梨大学教育人間科学部教授。多元的な価値観に基づく構造主義生物学を提唱して、注目を集めている。主な著書は「構造主義生物学とは何か」「構造主義と進化論」「昆虫のパンセ」「思考するクワガタ」「科学は錯覚である」など。

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「ちくま新書」の男性論シリーズの不作ぶりを象徴する本?

まともな男になりたい.jpg 『まともな男になりたい』 ちくま新書 〔'06年〕

 著者の言う「まともな男」とは、まじめに仕事し、社会の行く末を案じ、自らの役割と存在価値を顧みる人間のことで、「まとも」を支えるものは、"自己承認と自己証明のための「教養」"と、"狂信にも軽信にも距離を置く「平衡感覚」"であると。
 日本人の道徳や美意識は、こうした「教養」と「平衡感覚」の営為のなかにあったはずなのに、今や「まとも」な人間は稀少となり、「みっともない人たち」ばかりで、廉恥心は忘れ去られ、俗物性が蔓延しているとのこと。

 こうした内容に加え、「小生」という語り口や論語を引いてくるところなどから60歳前後の人が書いているかと思ったりしますが、冒頭にあるように、著者は"惑うことばかり多かりき"40代とのこと。
 フェニミストや経済評論家に対する批判には共感する部分もありましたが、中谷彰宏とか引用するだけ紙の無駄のような気もし、いちいち相手にしなくてもいいじゃん、放っとけば、と言いたくもなります。
 こんなの相手にしておいて、自らも俗物であり、俗物性とどう付き合うかとか言ってるから、世話ないという感じもしました。

 片や、福沢諭吉や福田恆存、エリック・ホッファーを褒め称え、それらの著作から多くを引き、とりわけ勢古浩爾氏に対しては単なる賞賛を超えた心酔ぶりですが、傾倒のあまり、本書自体が氏の著作と内容的にかなり被っている感じがしました。

 「ちくま新書」の男性論(?)シリーズを読むのはこれで5冊目になりますが、評価は"5つ星満点"で次の通り。
 ・小谷野敦 著 『もてない男-恋愛論を超えて』('99年)★★★
 ・勢古浩爾 著 『こういう男になりたい』('00年)★★
 ・諸富祥彦 著 『さみしい男』('02年)★★☆
 ・本田 透 著 『萌える男』('05年)★★★
 ・里中哲彦 著 『まともな男になりたい』('06年)★☆

 大学講師で文芸評論家、洋書輸入会社勤務の市井の批評家、大学助教授でカウンセラー、ライトノベル作家で「オタク」評論家、そして河合塾講師(本書著者)と、まあいろいろな人が書いているなあという感じですが、 『萌える男』を除いては何れも人生論に近い内容で、総じてイマイチでした。

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「萌え男(オタク)」についての考察。興味深いが、牽強付会の論旨も。

萌える男.jpg  『萌える男 (ちくま新書)』 〔'05年〕 動物化するポストモダン .jpg 東 浩紀 『動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

 「萌え男(オタク)」について考察した本書は、東浩紀氏の『動物化するポストモダン-オタクから見た日本社会』('01年/講談社現代新書)の裏版みたいな感じもしましたが、東氏のような学者ではなく、「萌え男」を自認するライトノベル作家によって書かれていることのほかに、記号論的分析に止まるのではなく、「萌え」の目的論・機能論を目指していると点が本書の特徴でしょうか。

負け犬の遠吠え.jpg 著者は、オタクとは酒井順子氏の『負け犬の遠吠え』でも恋愛対象外とされていたように、「恋愛資本主義ピラミッド」の底辺で女性に相手にされずにいる存在であり、彼らが為す「脳内恋愛」が「萌え」の本質であるとしています。

新世紀エヴァンゲリオン.jpg 「新世紀エヴァンゲリオン」の終結以降、PCゲームで発展を遂げた「萌えキャラ」の分析(この辺りはかなりマニアック)を通して、「脳内恋愛」がオタクとして「底辺」に置かれていることへのルサンチマンを昇華し、「癒し」が精神の鬼畜化を回避しているという、一種の「萌え」の社会的効能論を展開していて(犯罪抑止効果ということか)、このことは、「ロリコン」とか言われ、幼児殺害事件などが起きるたびに差別視される世間一般のオタク観に対するアンチテーゼになっているようです。
 さらに、「萌え」は恋愛および家族を復権させようとする精神運動でもあると結論づけています。

 個人的には、「萌え」による「純愛」復興などと言ってもやはりバーチャルな世界の話ではないかという気がするのと、「家族萌え」という感覚が理解できず引っかかってしまいました。
 「電車男」の話を、オタクを「恋愛資本主義」に取り込むことで「萌えとは現実逃避である」というドグマの強化作用を果たしたと"否定的"に評価している点などはナルホドと思わせ、ニーチェの「永劫回帰」からユングの「アニマとアニムス」まで引いて現代社会論やジェンダー論を展開しているのは、読むうえでは興味を引きましたが、牽強付会と思える論旨や用語の誤用に近い用法(例えば「動物化」)なども見られるように思います。

 「萌え男(オタク)」というのが、「自分らしさ」を保つことで差別され続けるというのは理不尽ではないかという著者の思いはわからないでもないけれど、オタクというのは文化傾向や消費経済において無視できない存在であるにしても、今後、社会にどの程度積極的にコミットしていくかがまだ見えず、著者の〈オタク機能論〉もある種の幻想の域を出ないのではないかという気もしました。

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嫌味はない分、口当たりが良すぎて印象に残るものが少ないという感じ。

さみしい男.jpg  『さみしい男 (ちくま新書)』 〔'02年〕  諸富 祥彦.jpg 諸富 祥彦 氏 (略歴下記)

 自分がたまたま利用したキャリアカウンセリングのテキストや家族カウンセリングの本の中で、いい本だなあと思った本の編著者が諸富先生であったりして、専門分野におけるこの著者に対する信頼度は、個人的には高いのです。
 また著者は、"時代の病と闘うカウンセラー"を自認するだけあって、一般向けの本の執筆にも力を注いでいるようですが、こちらの方は本書も含めて人生論的なものが多く、内容的にはイマイチという感じ。

 本書では、いま日本の男たちに元気が無いのは、社会・家族・女性といったものとの繋がりが希薄になって、寂寞とした虚無感の中にいるからだとし、ではこれから男たちはどこへ向かうべきかを、"社会の中の男" "家族の中の男" "女との関係の中の男"という3つの角度から分析しています。

 基本的に著者が説いているのは、「労働至上主義」「家族至上主義」「恋愛至上主義」といものから脱却せよということで、カウンセリング論的に見ると、「来談者中心療法」の立場に近い著者が、そうした不合理な信念(イラシャナル・ブリーフ)を取り除けという「論理療法」的な論旨展開をしていることに関心を持ちましたが、男性をとりまく環境についての社会批評風の分析も、そこからカウンセラーの視点で導いた答えも、ともに結構当たり前すぎるものではないかという気がしました。

 どちらかと言うと、所謂「中年の危機」にさしかかっている中高年男性向けでしょうか。「孤独である勇気を持て」とか「危機を転機に変えよ」とか。
 若い人に対しても、女性にモテなくて悩んでいるぐらいなら、好きになった女性を本気で口説いてみろと言っていますが、これらの言葉の中には、単に励ましているだけで、なんら解決法になっていないようなものもあるような気がします。
 その後に続く「不倫で生まれ変る男たち」というのが少し面白かったけれども、全体としては、嫌味はない分、口当たりが良すぎて印象に残るものが少ないという感じの本でした。
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諸富 祥彦
1963年福岡県生まれ、1986年筑波大学人間学類・1992年同大学院博士課程修了
英国イーストアングリア大学、米国トランスパーソナル心理学研究所客員研究員、千葉大学教育学部講師、助教授を経て 明治大学文学部教授。
教育学博士、臨床心理士、日本カウンセリング学会認定カウンセラー、上級教育カウンセラー、学校心理士の資格をもつ。
日本トランスパーソナル学会会長、教師を支える会代表。

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「男として」云々という意識から抜け出せないでいる1典型。

こういう男になりたい.jpg 『こういう男になりたい』 ちくま新書 〔'00年〕

 旧来の「男らしさ」を捨て「人間らしく」生きようという「メンズリブ」運動というのがあり、「だめ連」などの運動もその類ですが、著者はそうした考えに部分的に共鳴しながらも、「自分らしさ」という口当たりのいい言葉に不信感を示し、「だめでいいじゃないか」という考え方は、ただ気儘に暮らしたいと言ってるだけではないかと―。

 男である以上、「男らしさ」を脱ぎ捨てても「男」である事実は残るわけで、かと言って、旧来の「男らしさ」には、自分に甘く他人に厳しいご都合主義的な面があるとし、他人を抑圧しない「自立した」生き方こそ旧弊の「男らしさ」に代わるもので、本当の「男らしさ」は自律の原理であると。

 ただし、他者からの視線や承認を軽んずる向きには反対で、「他者の視線」を取り込みながらも柔軟で妥当な自己証明と強靭な自己承認を求めるしかないという「承認論」を、本書中盤で展開しています。

 部分的に共感できる部分は無いでもなかったけれど、文中で取り上げている本があまりに玉石混交。
 女性週刊誌の「いい男」論特集みたなものにまでいちいち突っ込みを入れていて、そんなのどうでもいいじゃん、とういう感じ。
 章間のブックガイドも「男を見抜く」「いい男を見極める」などというテーマで括られたりして、誰に向けて何のために書かれた本なのか、だんだんわからなくなってきました。

 「男の中の男」ではなく、「男の外(そと)の男」になりたい、つまり「自分らしい男らしさ」を希求するということなのですが、何だか中間的な線を選んでいるような気もするなあと思ったら、末尾の方で「中庸」論が出てきて、ただしここでは「ふつうに」生きることの困難と大切さを説いています。
 
 ジェンダー論というより、人生論だったんですね、「男として」の。
 これもまた、「男として」云々という意識から抜け出せないでいる1つの典型のような気がしました。

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