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「ビジネスエリート」と言うより「サラリーマン」目線であることに終身雇用時代を感じる。

ビジネスエリートの新論語4.JPGビジネスエリートの新論語3.JPG 名言随筆 サラリーマン1.jpg ビジネスエリートの新論語1.jpg
ビジネスエリートの新論語 (文春新書)』『名言随筆サラリーマン (1955年)』『ビジネスエリートの新論語』(1972年)

ビジネスエリートの新論語ド.jpg 1955(昭和30)年、サラリーマン時代の司馬遼太郎が本名・福田定一の名で刊行した、古今東西の名言を引用して語る人生講話風のサラリーマン向けのエッセイの復刻刊行。新書口上には「後年、国民作家と呼ばれる著者の、深い人間洞察が光る。"幻の司馬本"を単独では初の新書として刊行!」とあります。

 1955年に六月社から刊行された時は『名言随筆 サラリーマン―ユーモア新論語』というタイトルだったのが、1972(昭和47)年に新装版となって六月社書房より刊行された際に『ビジネスエリートの新論語―サラリーマンの原型を侍に求める』というタイトルに改題され,この時も福田定一の名で刊行されています(この間、'65年に六月社から、'71年に文進堂から、共に『サラリーマンの金言』というタイトルで別バージョンが刊行されている)。

 当時(1955年、著者32歳)から既に博覧強記ぶりが窺えますが、金言名句ごとの文章の長さはまちまちで、忙しい記者生活(産経新聞文化部の記者だった)の間にこつこつ書き溜めたものなのでしょうか。意外とユーモアや遊びの要素も入っていて、気軽に読めるものとなっています。

 印象としては、確かにビジネスエリートとしての矜恃を保つことを説いている箇所もありますが、会社社会の中で生きていくための処世術的なことを説いている箇所もあって、当初の『名言随筆 サラリーマン』のタイトルの方が内容的にはしっくりくるような気がしました。

 Amazon.comのレビューなどを見ると、"今読んでもまったく色褪せていない"的なコメントが幾つかありましたが、基本的には金言名句を取り上げているため、確かにそういうことになるでしょう。一方で、今と違うのは、会社および会社の中にいる自分(乃至は読者)というものを半永続的に捉えていて、つまり終身雇用が前提になっているという点であり、当時は今よりも上司の部下に対する生殺与奪権者としての力が大きかったことを感じました。

 第一部はやや文章がやや粗いかなあと思われる部分もありましたが、第二部に描かれている二人の老サラリーマンとの出会いの話は物語的にも読めて秀逸であり(実際に著者はこの二人の記者との出会いに大きな影響を受けたそうだが)、これだけ書ければもういつでも作家として独立できそうな気もしますが、著者が産経新聞を退社したのは6年後の1961(昭和36)年で、『梟の城』で第42回直木賞を受賞した翌年のことになります。

 この後も6年間もサラリーマンをやっていたのかあという、やや意外な印象を受けました。まあ、結婚前後の時期にあたり会社を辞めることに慎重だったというのもあるかもしれないし(著者がその前に勤めていた新聞社は倒産していて、産経新聞社は3社目の就職先だった)、仕事そのものが記者という「書く」仕事であったということもあるかと思いますが、やはり、会社ってそう安易に辞めるものではないというのが当時の社会通念としてあったのではないかと思います。

 そう思って本書を読むと、ますます「ビジネスエリート」と言うより「サラリーマン」といった言葉の方がフィットするように思われ、また、そうした上から目線ではない、ほどよい目線で書かれていることが、読者の共感を生むのかもしれないと思った次第です。

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基本的には黒澤和子氏の著作であり、新書化によってそのことがよりはっきりした。

黒澤明 夢は天才である.jpg 黒澤明―生誕100年総特集.jpg黒澤明の選んだ100本の映画.jpg黒澤明が選んだ100本の映画 (文春新書)』〔'14年〕
黒澤明―生誕100年総特集 (KAWADE夢ムック 文藝別冊)』〔'10年/KAWADE夢ムック〕
黒沢明「夢は天才である」』〔'99年〕

 黒澤明(1910-98)が自ら選んだ100本の映画作品にコメントしたものを、黒澤明の長女である著者が集めた、本書のオリジナル「黒澤明が選んだ100本の映画」は、黒澤明が亡くなった翌年の'99年の「文藝春秋」4月号に掲載され、同年に単行本化された『夢は天才である』('99年/文藝春秋)に収録され、更に『文藝別冊 黒澤明―生誕100年総特集』('10年/KAWADE夢ムック)にも再録されています。

 今回の新書化にあたっては、黒澤明の映画に対するコメントはそのままにして、著者が父・黒澤明から聞いていたことを新たに添え書きし、各作品のストーリーやデータを加え、スチール写真も併せて掲載しています。「黒澤明が選んだ100本の映画」の部分に特化して新書化しており、読み易いことは読み易いし、 "KAWADE夢ムック"版に比べ入手し易くなった点では有難いけれど、あまりにさらっと読めてしまって、ややもの足りない印象も受けます。

 監督1人につき1作品に限定しており、小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男などの日本映画作品も入っていますが、8割方は外国映画です。1910年代の作品から90年代の作品までありますが、一番多いのは50年代(18本)、60年代(16本)、70年代(16本)、80年代(21本)辺りで、一般的に映画ファンにお馴染みの作品が多く、例えば50年代の外国映画であれば、「道」「大地のうた」「大人は判ってくれない」「勝手にしやがれ」など、よく知られている名匠・巨匠の作品をカバーしています。

 ただ、この100本が、黒澤明が選んだ「ベスト100」かと言うと、必ずしもそうではないようで、あくまで著者の黒澤和子氏が選んだものであるようです(タイトルからは黒澤明がベスト100を選んだようにもとれるが)。また、コメントの中に、父が娘に映画について語る際のそうした状況的要素、或いは娘が父の言葉を思い出す際の懐かしさを込めた要素というのも含まれているように思われ、特に後から書き加えられた部分は、黒澤明の没後10数年も経てのものであるため、資料的価値という点でどうかなという気もします。

 黒澤からファンとしてその影響を受けたジョージ・ルーカス(1944年生まれ)や、「」('90年)をプロデュースしたスティーヴン・スピルバーグ(1946年生まれ)、その「夢」に出演したマーティン・スコセッシ(1942年生まれ)のうち、取り上げられているのは黒澤が年下ながら敬愛していたというマーティン・スコセッシの作品のみで、それも「キング・オブ・コメディ」('83年)を取り上げているのが興味深いですが、こうした取捨選択が純粋に黒澤自身によるものなのか、著者である和子氏によるもの(芸術映画指向?)であるのかがよく判らないというのが、やや引っ掛かりました。

 そうした前提条件の不確かさをとりあえず置いておくならば、黒澤が自分と全く作風の異なる監督の映画を結構褒めている点が興味深かったですが、そうした中で、ウディ・アレンについて、「すごいインテリだなという感じがして、㒒の映画は単純だから嫌いだろうと思ていた」ら、「リチャード・ギアがアレンはボクのファンだと教えてくれて、うれしかった」という話は微笑ましく感じました(作風の異なる監督からファンだと言われると尚更のこと強く嬉しさを感じるのか?)。

 基本的には黒澤和子氏の著作であり、新書化によってそのことがよりはっきりしたとも言えるかも。

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新人の要件は「若者でバカ者でよそ者」、芥川賞のキーワードは「顰蹙」か。

芥川賞の謎を解く.jpg芥川賞の謎を解く2.jpg
 
第79回(昭和53年上半期)の芥川賞選考委員会。左端から大江健三郎、開高健、安岡章太郎、丹羽文雄、瀧井孝作、中村光夫、井上靖、吉行淳之介、遠藤周作、丸谷才一の各選考委員。
芥川賞の謎を解く 全選評完全読破 (文春新書)

又吉直樹 芥川賞受賞.jpg 芥川賞の第1回から今日まで(第152回まで)の全ての選評を読み直して振り返ったもので、文春新書らしい企画的内容ですが、著者は読売新聞の文化記者です。因みに、最近話題になった人気芸人の又吉直樹氏の『火花』による受賞は、本書刊行の1ヵ月後に受賞が決まった「第153回」の芥川賞ということで、本書では扱っていません。

NHK「ニュースウオッチ9」(平成27年7月16日)より

太宰治23.jpg その又吉直樹氏が敬愛するという太宰治が落選して激昂したという有名なエピソードから始まって、選考の流れというか緊迫した雰囲気のようなものが伝わるものとなっています。実際、選考委員はその折々で真剣に選考に取り組んできたのでしょうが、どういった人がその時の選考委員を務めているかによって、結構、選ばれる側に運不運があるという印象を受けました。

 まあ、芥川賞が始まったばかりの頃は、受賞発表に呼ばれたマスコミであっても、それを記事にしなかった新聞社もあり、賞の創設者である菊池寛を憤慨させたりもしたようですが、そのくらいの世間の関心度だったということでしょう。賞をとれなかった太宰も、後に当時の自分を「野暮天」だったと振り返っていて、著者は、もし太宰が芥川賞をとっていたら、「天才幻想に憑りつかれ、明るさとユーモアのある中期以降の太宰はなかったかもしれない」としています。

吉行 淳之介.jpg 「第三の新人」と呼ばれる作家が、安倍公房松本清張 五味康祐.jpgと石原慎太郎、大江健三郎、開高健という戦後のスターに挟まれて芥川賞をなかなかとれず、吉行淳之介などは「今回は安岡・吉行の二作受賞で間違いない」との予想が出回って賞金をアテにして飲み歩いていたら、受賞者は五味康佑・松本清張だったという話などもちょっと面白かったです。

松本清張と五味康祐

 五味康佑は「薄桜記」が'12年にNHKのBS時代劇になるなど今でも人気。一方の松本清張も、芥川賞作家の中で最も多くの人々に読まれた作家とされているようですが(尤も、芥川賞作家であるという印象が薄いかもしれないが)、その松本清張が「ある『小倉日記』伝」で芥川賞をとった時、選考委員の坂口安吾が「この文章は実は殺人犯人をも追跡しうる自在な力」があるとして、推理小説界での清張の活躍を予見しているのは慧眼です。更に坂口安吾は、石川達三と真っ向から対立して、安岡章太郎などを推しています。石川達三は吉行淳之介の「驟雨」にも☓をつけていますが、吉行淳之介はこの作品で4回目の候補にしてようやっと受賞しました。後になって吉行が、選考委員(石川達三)の文学観に物申しているのが興味深いです。

吉村昭.jpg 吉村昭がいったんは宇野鴻一郎とのダブル受賞との連絡を受けながら、それが実は連絡の手違いで、最終的には宇野鴻一郎だけが受賞で、吉村昭は結局4回芥川賞の候補になりながらとれなかったわけですが、これについて、吉村昭が後に「落ちてくれた」と言い、「もし受賞していたら、全然違う作家になっていたと思います」と発言しているのも興味深いです。吉村昭は落ちたことを契機に記録文学に転じた作家で、それ以前の作品は「星への旅」などに見られるように、非常に"純文学色"の濃いものです。

村上春樹 09.jpg 本書では、太宰治、吉村昭の他に村上春樹も「賞をとらなくて良かった」作家ではないかとしており、村上春樹氏自身も、今は、芥川賞作家と肩書に縛られなくて良かったと考えているようです。その村上春樹の「風の歌を聴け」が芥川賞候補になるも選ばれなかった際の選評も書かれていますが、この分析については、本書でも紹介されている市川真人氏の『芥川賞はなぜ村上春樹に与えられなかったか』('10年/幻冬舎新書)に詳しいです。

石原慎太郎 芥川賞.png 田中康夫氏が「若者でバカ者でよそ者」を新人の条件として挙げたのを、高橋源一郎氏が「うまいこと言う」と言ったとのことですが、確かに言い得ているかも(2人とも芥川賞はとっていない)。本書の著者の場合は、「顰蹙」という言葉を芥川賞のキーワードとして捉えており(それにしては大人しい作品が受賞することもあるが)、その言葉を最も端的に象徴するのが、選考委員の間で毀誉褒貶が激しかった石原慎太郎氏の「太陽の季節」であり、この人は選考委員になってからも歯に衣を着せぬ辛口発言を結構していて、やっぱり芥川賞を語る上では欠かせない人物なのだろなあ。村上龍氏の「限りなく透明に近いブルー」などもそれに当て嵌まるわけで、また村上龍氏も芥川賞選考委員として個性的な発言をしていますが、石原慎太郎氏の芥川賞受賞を社会的ニュースに高めた功績は、やはり大きいものがあると言えるかも(功績ばかりでなく、川端康成が危惧したような受賞が最終目的化するというで面もあり、"功罪"と言うべきか。別に石原氏が悪いわけでもなんでもないが)。

 又吉直樹氏の『火花』は、「三島由紀夫賞」の選考の方で僅差での落選をしての芥川賞受賞ということで、落選したのが良かったのか。村上春樹の「風の歌を聴け」が、群像新人賞を、選考委員(佐々木基一、佐田稲子、島尾敏雄、丸谷才一、吉行淳之介)の全員一致で推されてとったのに、芥川賞選考に駒を進めたら、その年に丸谷才一、吉行淳之介の2人が新たに選考委員に加わったにも関わらず、強く推したのは丸谷才一だけで落っこちてしまったというのも、何かパターン的な流れのような気もするし、この頃は「該当作なし」が矢鱈多かった(第83回から第96回の間に受賞作が出たのが6回、「該当作なし」が8回)というのも影響としてあるのでしょう。

 村上春樹氏はノーベル文学書をとるとらないに関わらず、「芥川賞」の側が賞を与え損ねた代表格として語り継がれていくのでしょう。又吉直樹氏の芥川賞における位置づけも、氏のこれからの活動を経てみないと判らないですし、結局、賞を与える与えないの判断の時点である種"賭け"の要素があり、それが当たるかどうかはたで観ていて"外野席的"に面白いというのもあるかもしれません。

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「問題社員」レベルを遥かに超絶した「モンスター社員」の事例が"強烈"。

あなたの隣のモンスター社員.jpgあなたの隣のモンスター社員 (文春新書)

 社会保険労務士による本ですが、全6章構成の第1章「本当にあったモンスター社員事件簿」に出てくる、"ファイルNO.1 見事な演技力で同僚をセクハラ加害者に仕立て上げた清楚な女性社員"をはじめとする5つの事例がどれも"強烈"で、著者の言う「モンスター社員」というのが、一般的に「問題社員」と呼ばれるもののレベルを遥かに超絶した、企業や職場にとって極めてやっかいな存在であることを再認識させられます。この5つの事例だけで本書の前半部分を割いていますが、それだけの意義はあるように思いました。

 著者によると、モンスター社員の特徴は、「社会人としてのモラルが低く、ルールも無視、注意を受けると逆切れする」「対人関係や精神状態が不安定で、常に周囲とトラブルを引き起こす」「平気で嘘をつき、良心や倫理観が欠如している」「自己愛が異常に強く、虚言や自慢話で周囲を振り回す」というようなもので、このような特異な存在を類型化できるのかという気もしますが、第2章「タイプ別モンスター社員の特徴とその対処法」で、「A.親、配偶者がモンスター化している社員」「B.演技力で周囲を掻き回す社員」「タイプC.モラル低下型社員」「タイプD.職場環境を悪化させるハラスメント社員」「タイプE.常に注目を浴びたい自己愛型モンスター社員」に分類し、それぞれについての対処法を述べています。

 第3章「職場のモンスターの仮面の下」で、ほとんどのモンスターは第一印象がいいが、実は仮面の下に、歪んだ自己愛や自身の無さ、コンプレックス、嫉妬、不満・怒り、傷つきやすさ、依存心などがその心理としてあり、それが会社を批判したり、部下や同僚をいじめたり、自分の事を自慢したりする行動にどう結びついていくのかを解説しています。

 第4章「モンスターの見分け方」で、こうしたモンスター社員であってもクビにするのはそう簡単ではないため、それではどうしたら採用の際に見抜けるかをアドバイスし、第5章「モンスター社員への対処方法」では、それでも実際に入ってしまったからモンスターだと分かった際の対処法を示していますが、この辺りはまあオーソドックスな解説と言えるでしょうか。

 やはり、第1章の事例編が"強烈"であり、こんな人格障害そのもののような相手に対して普通の対処法で解決できるのかなあという気もしました。実際、事例の中にも、対処策を講じきれないうちに、時間が何となく解決してしまったような例もあったかと思います(注:著者が事の発端から最後まで関与していた事例ばかりとは限らない)。

 一方で、その中には、パワハラをした社員を辞めさせるのに金銭的解決を持ちかけ、「金を払って」辞めてもらった例もあり、従来の発想だと、経営者は「どうしてそんなヤツに金を払わなければならないんだ」「周りに示しがつかない」的な発想になりがちですが、モンスター社員のことで経営者や管理者が費やす時間と労力の無駄を考えると、こうした対象方法も場合によってはありかなと思いました(後の方の事例で、一度金を払ったがためにその後も金を請求されるという事例も出てくるように、1回でケリをつけることが肝要か)。

 こうしたモンスター社員は、経営者や管理者が頭を悩ますだけでなく、どの職場に行っても周囲の人たちが大いに疲弊させられ、そのことの損失もこれまた大きいように思います。病気ならば治る可能性はありますが、人格障害的なものはそう簡単には変わらないため、やはり早期に対応し、周囲が迷惑を受ける期間を出来るだけ圧縮することが望ましいかと思います。

 第6章「モンスターを生まない会社へ」にあるように、会社に共有ビジョンが無かったり、コンプライアンス意識が欠けていることによって、普通の社員がモンスター化していくことも確かにあるでしょうが、むしろ、元々潜在的に"モンスター資質"を持った人が、そうした環境の中でその"資質"部分を触発され、自己アピールの場として職場に固執したり、自分の居場所として会社に居ついてしまうといったこともあったりするのではないでしょうか。

 その分、退職を勧奨したり、異動を命じたりすることは難しかったりしますが(本書は、社会保険労務士による本であるため、必要に応じて法的な留意点についても触れられている)、但し、放置しておくと職場のモラールに影響し、最悪の場合は「割れ窓の論理」で同じような話があちこちで起きてくる可能性もあるように思います。そうした意味では、「モンスター社員」問題は、個人の人格の問題に近い要素と、組織の問題との複合問題でもあるように思いました。

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「1」ほどインパクトはないが、より深く問題に斬り込み、重層的に考察を進めている「2」。

ブラック企業2 文春新書.jpg                   ワタミの初任給はなぜ日銀より高いのか.jpg
ブラック企業2 「虐待型管理」の真相 (文春新書)』  渡辺 輝人 著『ワタミの初任給はなぜ日銀より高いのか? ナベテル弁護士が教える残業代のカラクリ

 「大佛次郎論壇賞」を受賞した『ブラック企業―日本を食いつぶす妖怪』('12年/文春新書)の第2弾で、前著のサブタイトルも凄かったけれど(著者が考えたのか、はたまた編集者が考えたのか)、今回もなかなかという感じ。でも、「虐待型管理」というのは、確かに本書に書かれている「ブラック企業」の実態を表していると言えるかも。

 前著では、「ブラック企業」の第一の問題は、若くて有益な人材を使い潰していることであり、その特徴は、正社員を大量に採用して労働基準法ぎりぎりのラインで酷使、消耗、スポイルしてはまた新たな採用を繰り返していることであり、そうした新卒の「使い捨て」の過程が社会への費用転嫁として行われていることに問題あるとしていました。

 このように、単なる告発ジャーナリズムとは一線を画す姿勢を取り(但しサブタイトルはややその気を感じさせなくもないが)、従来の「ブラック企業」という言葉の、非正規社員が労働基準法違反の処遇条件で酷使されているというイメージに対し、正社員採用された労働者が、労基法に明確に違反するのではなく、「ぎりぎりで合法」乃至「違法と合法の間」のグレーゾーンで働かされているのがその実態であると指摘したのは画期的だったかもしれません(一方で、非正規も酷使されている実態があり、本書「2」では「ブラックバイト」という言葉が出てきてややこしいが)。

 今回は、こうした「ブラック企業」問題が依然解決されておらず、過労死や過労自殺が後を絶たない実態を踏まえ、どうして解っていてもそうした会社に入ってしまうのか(第1章)、どうして死ぬまで辞められないのか(第2章)といった働く側の心理面に実際にあった事例から迫り、それに呼応したブラック企業側の絡め取り搾りつくす手法を解析(第3章)、ブラック企業は国家戦略をも侵略しつつあるとし(第4章)、ではなぜそれらを取り締まれないのかを考察(第5章)しています。更に、規制緩和でブラック企業が無くなるといった「雇用改革論」を"奇想天外"であると非難し(第6章)、ブラック企業対策として親・教師・支援者がなすべきことを提案(第7章)しています。

 「ブラック企業」の定義にパラダイム転換をもたらした前著ほどのインパクトがあるかどうかはともかく、より深く問題に斬り込み、重層的に考察を進めていることは窺えるのではないでしょうか。前著に匹敵する力作である(単なる告発ジャーナリズムとは一線を画す姿勢は維持されている)と思う一方で、丁寧に紹介されている数々の過労自殺や過労死の事例には胸が蓋ぎます(社員をうつにして辞めさせる手法などについても、前著より詳しく紹介されている。コレ、かつて高度経済成長期に流行った感受性訓練(ST)の変形悪用だなあ)。

ワタミの初任給はなぜ日銀より高いのか? 帯.jpg 本書の著者である今野氏が帯に推薦文を書いている本に、『ワタミの初任給はなぜ日銀より高いのか?』('14年/旬報社)がありましたが(著者は日本労働弁護団等で活躍する弁護士とのこと)、固定残業制のカラクリなどは『ブラック企業』で既に紹介済みで、事例企業が「大庄(日本海庄や)」から「ワタミ」に替わっただけか。但し、その仕組みの説明の仕方が分かりにくく(今野氏の推薦文には「残業代のプロフェッショナル」とあるのだが)、普通の人が読んでも時間外割増と深夜割増の違いなんて分からないのではないかと思ったりもしました(老婆心ながら、『ブラック企業』で言っている「大庄」の例と本書で言っている「ワタミ」の例を大まかに図示してみた)。

大庄(日本海庄や)の初任給の構成.jpg ワタミの初任給の構成.jpg

 「ワタミ」の例で著者は、深夜割増相当分を全部使い切る試算をしているため(「深夜手当」3万円を時給相当額の2割5分で除している)、通常割増分(月45時間分)より深夜割増分(月128時間)の方が当該時間数が圧倒的に多くなっていますが、こうしたことは深夜勤務主体でないと起こり得ず、その前提がどこにも書かれていないのは不親切かも(一応、著者の説明に沿って図を作ったが、深夜手当を0.25でなく1.25で割って計算する方が、"相対的に見て"ノーマルなのだろう)。ワタミの酷さを「天狗」と比較しているけれど、「天狗」の実態をきちんと調べた形跡も無し。相対的にマシならばそれでいいとするならば、80時間の残業に満たないと固定残業代が一切払われなかった「大庄(日本海庄や)」に比べれば、「ワタミ」はまだマシということにもなってしまうのではないでしょうか。

 更には、残業を巡る未払い賃金の相談は、社会保険労務士ではダメで弁護士にしなさいと書いていますが、弁護士だって色々でしょう。社労士を一括りにして相談すべき相手ではないとしているのもどうかと思うし、自らが開発に関わったという残業代自動計算ソフト(「給与第一」)の話なども含め、未払い賃金(未払い残業代)請求という「自らのビジネス」への誘引を促すという目的が前面に出てしまった本であり、その割には、先にも述べたように、解説は親切ではないように思いました(「ナベテル弁護士」の事務所に相談に来てもらえれば、じっくり説明するということか)。

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読み物としても楽しいが、異文化論に止まらず、対処法を具体的に示している点でビジネス書としても優れモノで。

外国人社員の証言 日本の会社40の弱点.jpg外国人社員の証言 日本の会社40の弱点 (文春新書 945)

 本書は、日本企業に勤務する外国人社員向けに研修や講演を行っている著者が、17ヵ国40人から相談された日本企業の困った事例を紹介し、その解決法を示したものであり、外国人社員と日本人社員の「常識」の違いを物語る40の実例が紹介されています。

 「職場のコミュニケーション編」「ビジネス日本語編」「マネジメント・チームワーク編」「悩める上司編」「就職活動・キャリア編」の5章から成り、例えば「職場のコミュニケーション編」では、中国に進出した日系アパレルメーカーに勤める40代の中国人男性が、日本人店長から7月7日に新規店のオープニングセレモニーを開くと聞いて激怒した―中国でも七夕はあるが、7月7日は盧溝橋事件が起きた日で、国内が反日一色染まるから―、「お客様は神様だ」という日本人上司のコメントが納得できない(インドネシア人)―イスラム教は一神教であり、お客は神ではありえないから―、部長に指示を仰いだら瞑想をはじめてしまった(イギリス人)、居酒屋で反対意見を述べて以来、同期とギクシャクしている(中国人)といったような事例が紹介されています。

 外国人社員の悩みや疑問に回答するという形を取りながら、そのまま、われわれ日本人が様々なビジネスシーンで常日頃当たり前のように思っている発言や行動が、外国人にとっては理解不能であったり奇異に感じられたりする場合があることを知らしめるものとなっており、そうした「認識のズレ」が、外国人との仕事を円滑に進めるうえでの障害となり得ることを改めて思い知らされました。

 著者は、グローバル・マネジメントは単なる価値観や精神論ではなく、その実現には、マネジメントする側である日本人管理職によるグローバル対応力の強化がポイントとなるとしています。そのうえで、国籍や性別などによって異なる考え方や行動パターンなどの異文化を企業競争力に転換するステップとして、①外国人社員の適応(理解→信頼)②ライン・マネジメントの高度化(信頼→提案)③知識移転(提案→展開)④制度の高度化(展開→深化)⑤組織改革(深化→文化)という5つのフェーズを示していますが、本書では主に「認識のズレ」にいかに対応するかという①のフェーズにフォーカスしています。

外国人社員の証言 日本の会社40の弱点 3.jpg 本書を読んで、その最初のフェーズというのが意外と重要であり、また多くのビジネスパーソンが悩んでいる部分ではないかと思いました。ただし、ポイントを押さえておけば、起こさなくてもよいトラブルは回避することができ、大切な時間や労力を本来業務に傾け、チームの生産性を上げることができるという思いにもさせられました。

 著者は、「違いを認識し、楽しむ」ことを目的としつつ、読者のグローバル対応力の強化につながればとの思いから本書を書いたとのことですが、その狙いの通り、読み物として読んでも楽しいものとなっています。ですから、今現在、外国人社員を部下に持っていない、あるいは外国人と一緒に仕事をしていない人が読んでも、最後まで飽きずに読めるのではないかと思います。ただし、単に異文化論に止まらず、事例に対する対処法を具体的に示しているという点では、ビジネス書としても優れモノではないでしょうか。新書で200ページ足らずと読みやすいのもいいです。
 
《読書MEMO》
●七夕の日に祝賀行事はありえない(中国人)... 日中戦争の発端・盧溝橋事件(1937年)が起きた日
●「お客様は神様?」納得できない(インドネシア人)... イスラム教は一神教
●なぜ上司を「牛みたい」と言ってはいけないのか(インド人)... インドでは牛は神聖さの象徴(中国では「まじめ」「愚直」「身を粉にして働く」の意)
●上司に相談すると、なぜ瞑想するかのように黙りこむのか?(イギリス人)
●プラスアルファ?初めて聞く英語(オーストラリア人)...「プラスアルファ」は和製英語(「最高!」→「Psycho」(精神病)、「あー、そう?」→「asshole」(肛門。嫌な奴)、「アホみたい」→「Aha! Hold me tight」(しっかり抱いて)
●「油断一秒、怪我一生」?(中国人)... 中国語では「一秒でも油を絶やすと一生責任を追及される」との意に。
●オフィスが好立地に移転するのは困る(ベトナム人)... 交通渋滞で通勤時間が大幅に増える
●社員同士で給与明細を見せ合うのは当然でしょ。(中国人)
●そろそろ出家したいのですが、有給休暇は取れますか?(タイ人)

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「聞く力」というよりインタビュー術、更にはインタビューの裏話的エッセイといった印象も。

聞く力1.jpg 聞く力2.jpg聞く力―心をひらく35のヒント (文春新書)

阿川 佐和子 『聞く力―心をひらく35のヒント』130.jpg 本書は昨年('12年)1月20日に刊行され12月10日に発行部数100万部を突破したベストセラー本で、昨年は12月に入った時点でミリオンセラーがなく、「20年ぶりのミリオンゼロ」(出版科学研究所)になる可能性があったのが回避されたのこと。今年に入ってもその部数を伸ばし、5月には135万部を、9月13日には150万部を突破したとのことで、村上春樹氏の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』が発売後7日で発行部数100万部に達したのとは比べようもないですが、今年('13年)上半期集計でも村上氏の新刊本に次ぐ売れ行きです。

プロカウンセラーの聞く技術3.jpg 内容は主に、「週刊文春」で'93年5月から20年、900回以上続いている連載インタビュー「この人に会いたい」での経験がベースになっているため、「聞く力」というより「インタビュー術」という印象でしょうか。勿論、日常生活における対人コミュニケーションでの「聞く力」に応用できるテクニックもあって、その辺りは抜かりの無い著者であり、エッセイストとしてのキャリアも実績もあって、文章も楽しく読めるものとなっています。

 ただ、対談の裏話的なものがどうしても印象に残ってしまい(それも誰もが知っている有名人の話ばかりだし)、タイトルからくるイメージよりもずっとエッセイっぽいものになっている印象(裏話集という意味ではタレント本に近い印象も)。「聞く力」を本当に磨きたければ、著者自身が別のところで推薦している東山紘久著『プロカウンセラーの聞く技術』(`00年/創元社)を読まれることをお勧めします。もしかしたら、本書『聞く力』のテクニカルな部分の典拠はこの本ではないかと思われるフシもあります。
プロカウンセラーの聞く技術

 因みに、昨年、その年のベストセラーの発表があった時点ではまだ本書の発行部数は85万部だったのが、同年4月に文藝春秋に新設されていた「出版プロモーション部」が、この本が増刷をかけた直後にリリースしたニュース情報が有効に購入層にリーチして一気に100万部に到達、この「出版プロモーション」の成果は村上氏の新刊本『色彩を持たない...』にも応用され、インターネット広告や新刊カウントダウンイベントなどの新たな試みも加わって、『色彩を持たない...』の「7日で100万部達成」に繋がったとのことです。

 本もプロモーションをかけないと売れない時代なのかなあ。ただ、こうしたやり方ばかりだと、更に「一極(一作)集中」が進みそうな気もします。まあ、この本は、村上春樹氏の新刊本とは異なり、発刊以降、地道に販売部数を重ねてきたものでもあり、プロモーションだけのお蔭でベストセラーになった訳でもないとは思いますが。

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ブラック企業の実態と併せ、その社会的損害を指摘。なくすための政策提示もされている。

ブラック企業―日本を食いつぶす妖怪.jpg        POSSEの今野晴貴.jpg POSSE代表・今野 晴貴 氏
ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪』['12年] 

個別労働相談件数.jpg 違法な労働条件で若者を働かせては「使い捨て」にする、いわゆる「ブラック企業」の実態を、一橋大学に学部生として在学中からNPO法人POSSE代表として若者の労働相談に関わってきた、労働政策、労働社会学専攻の大学院生が著した本です。

 著者は、「ブラック企業」という問題を考える際には、若者が個人として被害に遭う側面と、社会問題としての側面があるとし、本書では、個人から社会へと視野を広げることで、告発ジャーナリズムとは一線を画しているようです。

 とはいえ、前半のブラック企業の実態について書かれた部分にある、大量採用した正社員をきわめて劣悪な条件で働かせ、うつ病から離職へ追いこみ、平然と使い捨てにする企業のやり方には、改めてヒドイなあと思わされました(行政窓口への個別労働紛争相談件数で「パワハラ」が「解雇」を上回ったのも、2012年1月に厚生労働省が「パワハラ」の具体例を挙げて、「過大な要求」や「過小な要求」もそれに該当するとしたことに加えて、実際に世間ではこうしたやり口がかなり広く行われていることを示唆しているのではないか)。

ブラック企業1.jpg 過労死・過労自殺が発生したため裁判となったケースなどは、企業の実名を揚げて紹介しており(「ウェザーニューズ」、「ワタミ」、「大庄」(庄や・日本海庄や・やるき茶屋などを経営)、「shop99」)が実名で挙げられている)、中には初任給に80時間分の残業代が含まれていて(正社員として入社した若者たちは、そのことを入社後に知らされたわけだが)、それを除いた基本給部分を時給換算するとぴったり最低賃金になるといった例もあり、こういうのは「名ばかり正社員」といってもいいのではないかと。

 こうしたブラック企業から身を守るためにはどうしたらよいかを若者に向けて説いたうえで、本書の後半部分では、「社会問題」としてのブラック企業問題を考えるとともに、どのように問題を解決するべきかという提案もしています。

 そこでは、ブラック企業の第一の問題は、若くて有益な人材を使い潰していることであり、第二の社会問題は、新卒の「使い捨て」の過程が社会への費用転嫁として行われていることにあるとしており、ナルホド、労働社会学者を目指す人らしい視点だと思いました。

 うつ病に罹患した際の医療費のコスト、若年過労死のコスト、転職のコスト、労使の信頼関係を破壊したことのコスト、少子化のコスト、サービス劣化のコスト――こうしたものを外部に転嫁することのうえにブラック企業の成長が成り立っていると考えると、著者の「国滅びてブラック企業あり」という言葉もジョークでは済まなくなってくるように思いました。

 著者は、こうしたブラック企業は、終身雇用と年功賃金と引き換えに、企業が強い命令権を有するという「日本型雇用」の特徴を悪用し、命令の強さはそのままで、雇用保障などの「メンバーシップ」はない状態で、正社員を使い捨てては大量採用することを繰り返しているのだと。そして、労働市場の現況から見るに、すべての日本企業は「ブラック企業」になり得るとしています。

 実際、日本型雇用が必ずしも完全に成立していない中小企業に限らず、今日では大手新興企業が日本型雇用を放棄している状況であり、これまで日本型雇用を守ってきた従来型大手企業もそれに引きずられていると。

 こうした事態に対する対策として、著者は、国が進めている「キャリア教育」はブラック企業に入ってしまった人に諦めを生むことに繋がっており、むしろ、ブラック企業から身を守るための「ワークルール」(労働法規や労使の権利義務)を教えるべきであるとしています。

 また「トライアル雇用の拡充」も、ブラック企業によくみられる試用期間中の解雇をより促す危険性もあり、本当に必要な政策は、労働時間規制や使用者側の業務命令の規制を確立していくことであるとしています。

 こうした施策を通して、「普通の人が生きていけるモデル」を構築すべきであり、それは賃金を上げるということには限られず、むしろ賃金だけに依存すべきではないと。教育・医療・住居に関する適切な現物給付の福祉施策があれば、低賃金でもナショナルミニマムは確保可能であり、つまり目指すは、「低福祉+低賃金+高命令」というアンバランス状態から脱し、「高福祉+中賃金+低命令」であると。

 こうしたことの実現のために、若者たち自身にも「戦略的思考」を身につけ、たとえブラック企業の被害にあっても自分個人の問題で終わらせず、会社と争う必要があれば仲間をみつけ、ともに闘うことで、社会の問題へと波及させていくべきであるとしています。

 最後のまとめとして、ブラック企業をなくす社会的戦略として、労働組合やNPOの活用と労働法教育の確立・普及を挙げています。

 学生、社会のそれぞれに向けてバランスよく書かれているうえに、企業側の人にも読んでいただき、襟を正すところは正していただくとともに、「ブラック企業」問題が他人事ではないことの認識を持っていただく一助としてほしい本。

 最近、企業の新卒採用面接に立ち会って、シューカツ(就職活動)中の学生で、ほぼ全滅の中、かろうじて内定を得ている企業の名が同じだったりするのが気になりますが(概ね、いわゆる「ブラック企業」っぽい)、彼らも、自らの内定状況に満足していないからこそ、こうして、内定後も採用面接に足を運んでいるのでしょう。

 2013(平成25)年度・第13回「大佛次郎論壇賞」受賞作。

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核心の部分をもう少し具体的に書いて欲しかった気もするが、面白かったことは面白かった。

『中国の地下経済』富坂聰(文春新書).jpg 『中国の地下経済 (文春新書)』    薄煕来2.jpg 薄煕来・重慶市党委員会書記

 著者は「週刊文春」記者時代から中国をずっとテーマとして追っているジャーナリストで、これまで多くのインサイドレポートを著していますが、本書はとりわけ著者が得意とする「地下経済」に的を絞って書かれている点が良かったです。

 「地下経済」というと、麻薬や人身売買が関係するダーティーなイメージを抱きがちですが、本書によれば、中国においては、まっとうに見えるビジネスも実は地下経済とすべて繋がっており、また、中国で暮らしている者であれば、地下経済とまったく関係なく生きている者などいないとのことです。

 中国の私企業、商店、飲食店などは、その設立や設備投資に際しては殆どの場合、銀行が安全な国有企業にしか融資しないため、「地下銀行」を利用するとのことで、これは無尽講のような個人経営の金融機関なのですが、そうした地下銀行が中国では発達しているため、個人でも事業を起こすことができるとのこと。

 国家による人民元の持ち出しや外貨規制等がある中で海外との入送金などが可能なのも、こうした地下銀行がその役割を担っているためで(こうした地下銀行は東南アジアの他の国にもあるけれどね)、中国人が銀座でブランド品を買い漁ることができるのも、この地下マネーのお陰であるようです。
 
 一方、役人には「灰色収入」と呼ばれる賄賂に近い浦収入があり、1万以上あるという地方自治体の出先事務所が、そうした賄賂や官官接待を取り仕切っているとのことで、ある事務所では高級茅台酒を一時に777本も買っていたとのこと(その茅台酒がニセ酒だったことから事件化し、その事実が明るみになった)。

 また、「中華」という1箱58元(754円)の高級タバコを大量に買い込んでいた事務所もあったとのことですが、更にその上をいく「黄鶴楼」という1箱300元(3900円)もする超高級タバコがあって、これらも役人に渡す賄賂として利用され、「回収煙酒」という看板を掲げている商店があって、そこにこうした酒・タバコ持ち込めば、定価の一定率で買い取ってくれるという―つまり、非合法(且つ何ら危険を伴わない)裏マーケットがあるということで、要するに、この場合「高級タバコ」は(パチンコの景品のように循環して)疑似通貨の役割を果たしているわけです。

 こうした裏マーケットを支えているのも「地下経済」であれば、上海万博にパビリオンを出展する企業に融資しているのも、リーマンショック後の金融危機に対して約54兆円の景気対策を打ち出した国家財政を裏支えしているのも地下経済であるということであり、その規模は少なく見積もっても中国のGDPの半分(200兆円)になり(となると、中国のGDPが日本を上回ったのはつい先だってではなく、既に日本の1.5倍の規模であったことになる)、更にもっと大きな数字になるという試算もあるようです。

 こうなると、表経済と裏経済は別々にあるのではなく、中国経済そのものを地下経済が支えているということになり、但し、これらは税金がかからない世界で金の流れであって、中国政府はこれらに課税しようと「灰色収入」を定義し、「地下経済」を表の世界に引っ張り出そうとしているようですが、必ずしも上手くいってはいないようです。

 「地下経済」は、貧富の格差を生む原因となっていますが(実際に、党幹部を除いて最も潤っているのは、ベンチャー起業家ではなくて「央企」と呼ばれるガリバー型国有企業の社員らしい)、一方で貧しい庶民の雇用を支えている面もあり、著者自身、そうした施策の実効性に疑問を呈しています。

薄煕来.jpg 国家による地下経済"表化"施策の象徴とも言えるのが、本書の最後にある、当局によるマフィア掃討作戦であり、重慶市における「掃黒(打黒)」キャンペーンで有名になったのが薄煕来・重慶市党委員会書記ですが、大多数の国民から熱狂的な支持を集める一方で、その強引なやり口には綻びも見られるという―。

 結局、「首相候補」とまで言われた薄煕来は、本書刊行後の今年('12年)4月に失脚しますが(政治局員から除名され、妻には英国人殺害容疑がかけられた)、本書によれば、そのキャンペーン自体が薄自身の発想ではなく、中央の大老が支持したものだったのこと―薄煕来の前任者もトカゲの尻尾切りのように切られており、簿煕来も同じ道を辿ったことを考え合わせると、納得性は高いように思いました。

 中国は今、財政的な意味においてだけでなく、コピー商品やマネーロンダリングに対する諸外国からの批判もあって「地下経済」の"表化"に熱心ですが、中国が本気で地下経済を排除すれば中国経済のパイそのものは縮小し、地下経済でしか生きていけない人の生存域を狭めることになるという、著者の指摘するこのジレンマに、今後この国はどうなっていくのだろうかという思いを強く抱きました。

 表層的なことはかなり具体的に書かれていますが、核心の部分をもう少し具体的に書いて欲しかった気もして、しかしながら、簡単に核心に触れられないからこそ「地下経済」なのだろうなあ(面白かったことは面白かった)。

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入門書として優れ、患者とそれを見守る家族に対する著者の暖かい眼差しも感じられる本。

親の「ぼけ」に気づいたら 文春新書.jpg 『親の「ぼけ」に気づいたら (文春新書)

 親が「痴呆性疾患」に罹ったらどうすればよいかということを、臨床医である著者の経験から幾つかの事例を複合させて構成した一人の患者のモデルケースと、その介護にあたった家族の架空の物語を軸に分かり易く解説して、その間、「ぼけ」とはどのようなものかを解説するとともに、その他の様々な症例とそれに対する家族の対応などもケーススタディとして織り込んでいます(本書刊行の前年に厚労省は「認知症」という"新語"の使用を決めているが、本書ではまだ一般の読者に馴染みがないことから「痴呆」という言葉を用いている)。

 メインとなっているモデルケースは、75歳の会社経営者で、家族は、妻と2人の息子に1人の娘―話は、本人が好きだったゴルフをやらなくなったことから始まり、実はそれはスコアを正確に記録することができなくなったためなのですが、当初は、家族それぞれに主人公の病状や介護の在り方について意見が違ったりもし、また、初期の段階で一番たいへんなのは、本人を医者に診せることだったりするのだなあと。

 このモデルケースの場合、ゆっくり進行するアルツハイマー症で、その初期から終末までの10年間を全14話にわたって追っていますが、間に挟まれているケーススタディ(全17エピソード)には、脳血管性疾患など様々な症例が取り上げられていて、ただ症例として取り上げるだけではなく、メインストーリーと同じく、厳しい現実に直面した家族の苦労と具体的な対処、家族の介護に対する考え方、ひいては家族並びに本人の人生観にまで踏み込んで書かれていて、それらもまた一つ一つが物語となっており、介護入門書としても読み物としても奥深いものとなっています。

 痴呆性疾患の種類や様態について詳しく解説されているほか(「早期の診断」の重要性を感じた)、介護制度の現状や介護施設の選び方、成年後見人制度等の情報も網羅されています。

 患者とそれを見守る家族に対する著者の暖かい眼差しが感じられる本でもあり、最後に、病気が進行して栄養摂取障害となった際に経管栄養(胃瘻など)を行うかどうかという問題について、メインとなっているモデルケースは家族の意向を汲んでそれを行っていますが、著者自身の考えとしてはやるべきではないとしていて、ここまでの著者の語り口からみて説得力がありました。

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考え方はマットウ。「勝間」本などの啓発本批判は明快。どう若い世代に理解させるかが課題。

社畜のススメ.jpg  藤本 篤志 『社畜のススメ (新潮新書)断る力.jpg 勝間 和代『断る力 (文春新書)

 目立つなあ、このタイトルは―。著者は、USENの取締役などを経て独立して起業した人ですが、IT企業出身の人というと、華々しく転職を繰り返しているイメージがあるけれど、著者に関して言えば、一応USENだけで18年間勤めていて、スタート時はそれこそ、カラオケバーやスナックを廻る「有線」のルートセールスマンだったようです。

 本書では冒頭で、「個性を大切にしろ」「自分らしく生きろ」「自分で考えろ」「会社の歯車になるな」という、いわゆる"自己啓発本"などが若いサラリーマン(ビジネスパーソン)に対し、しばしば"檄"の如く発している4つの言葉を、サラリーマンの「四大タブー」としています。

 こうした自己啓発本が奨める「自分らしさ」を必要以上に求め、自己啓発本に書かれていることを鵜呑みにすることから生まれるのは、ずっと半人前のままでいるという悲劇であり、そこから抜け出す最適の手段は、敢えて意識的に組織の歯車になることであるとしています。したがって、これから社会に出る若者たちや、サラリーマンになったものの、どうもうまく立ち回れないという人に最初に何かを教えるとすれば、まずは「会社の歯車になれ」と、著者は言うとのことです。

守破離.jpg さらに、世阿弥の「守破離」の教えを引いて、サラリーマンの成長ステップを、最初は師に決められた通りのことを忠実に守る「守」のステージ、次に師の教えに自分なりの応用を加える「破」のステージ、そしてオリジナルなものを創造する「離」のステージに分け、この「守」→「破」→「離」の順番を守らない人は成長できないとしています(「守」が若手時代、「破」が中間管理職、「離」が経営側もしくは独立、というイメージのようです)。

 「守」なくして「破」や「離」がありえないと言うのは、ビジネスの世界で一定の経験年数を経た人にはスンナリ受け容れられる考えではないでしょうか。先に挙げたような"檄"を飛ばしている"自己啓発本"を書いている人たち自身が、若い頃に「守」の時期(組織の歯車であった時期)を経験していることを指摘している箇所は、なかなか小気味よいです。

 
 その冒頭に挙っているのが、勝間和代氏の『断る力』('09年/文春新書)で、これを機に勝間氏の本を初めて読みましたが(実はこのヒト、以前、自分と同じマンションの住人だった)、確かに書いてあるある、「断ること」をしないことが、私達の生産性向上を阻害してストレスをためるのだと書いてある。「断る」、すなわち、自分の考え方の軸で評価し選択することを恐れ、周りに同調している間は、「コモディティ(汎用品)を抜け出せないと。

 これからの時代は「コモディティ」ではなく「スペシャリティ」を目指さなければならず、それには「断る力」が必要だ、との勝間氏の主張に対し、著者は、こうした主張は「個性」を求めるサラリーマンの耳には心地よく響くだろうが、それは、本書で言う「四大タブー」路線に近いものであり、勝間氏のような人は「天才」型であって、それを「凡人」が鵜呑みにするのは危険だとしています。

 勝間氏は、自分が「断る力」が無かった時代、例えばマッキンゼーに在職していた頃、「究極の優等生」と揶揄されていたそうですが、「断る」ことをしないことと引き換えに得られたのは、同期よりも早い出世や大型クライアントの仕事だったとのこと、その仕事を守るために、何年間も自分のワークライフバランスや健康を犠牲にしたために、32歳の時にこんなことではいけないと方針転換して「コモディティ」の状態を脱したそうですが、藤本氏が言うように、「コモディティ」状態があったからこそ、今の仕事をバリバリこなす彼女があるわけであって、20代の早い内から「断る」ことばかりしていたら、今の彼女の姿はあり得ない(いい意味でも、悪い意味でも?)というのは、想像に難くないように思えます(そうした意味では自家撞着がある本。元外務省主任分析官の佐藤優氏が「私のイチオシ」新書に挙げていたが(『新書大賞2010』('10年/中央公論社))、この人も何考えているのかよく分からない...)。

藤本 篤志 『社畜のススメ』.JPG 但し、『社畜のススメ』の方にも若干"難クセ"をつけるとすれば、日本のサラリーマンの場合、藤本氏の言う「歯車」の時代というのは、単に機械的に動き回る労働力としての歯車ではなく、個々人が自分で周囲の流れを読みながら、その都度その場に相応しい判断や対応を求められるのが通常であるため、「歯車」という表現がそぐわないのではないかとの見方もあるように思います(同趣のことを、労働経済学者の濱口桂一郎氏が自身のブログに書いていた)。そのあたりは、本書では、「守」の時代に漫然と経験年数だけを重ねるのではなく、知識検索力を向上させ、応用力へと繋げていくことを説いています(そうなると「社畜」というイメージからはちょっと離れるような気がする)。

 むしろ気になったのは、本書が中堅以上のサラリーマンに、やはり自分の考えは間違っていなかったと安心感を与える一方で、まだビジネ経験の浅い若い人に対しては、実感を伴って受けとめられにくいのではないかと思われる点であり、そうなると、本書は、キャリアの入り口にある人へのメッセージというより、単なる中高年層向けの癒しの書になってしまう恐れもあるかなと。

 前向きに捉えれば、中高年は、自分のやってきたことにもっと自信を持っていいし、それを若い人にどんどん言っていいということなのかもしれないけれど。例えば、「ハードワーカー」たれと(これ、バブルの時に流行った言葉か?)。


 第5章には、サラリーマンをダメにする「ウソ」というのが挙げられていて、その中に「公平な人事評価」のウソ、「成果主義」のウソ、「学歴神話崩壊」のウソ、「終身雇用崩壊」のウソといった人事に絡むテーマが幾つか取り上げられており、その表向きと実態の乖離に触れています。

 著者は、世間で言われていることと実態の違い、企業内の暗黙の了解などを理解したうえで行動せよという、言わば"処世術"というものを説いているわけですが、これなんかも人事部側から見ると、図らずも現状を容認されたような錯覚に陥る可能性が無きにしも非ずで、やや危ない面も感じられなくもありません。

 色々難点を挙げましたが、基本的にはマットウな本ですし、「自己啓発本」批判をはじめ、個人的には共感する部分も多かったです。でも、自分だけ納得していてもダメなんだろうなあ。
 
 「マズローの欲求五段階説」が分かり易く解説されていて、「社会的欲求」の段階を軽んじてしまい、いきなり「尊厳の欲求」と「自己実現の欲求」を満たそうとするサラリーマンが多くなっていることを著者は危惧しているとのことですが、それは同感。そうした若い人の心性とそれを苦々しく思っている中高年の心性のギャップをどう埋めるかということが、実際の課題のように思いました。

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ストイックな姿勢が貫かれ知的な考察に満ちたものでありながら、「素直な絶望」の記録でもある。

わたし、ガンです ある精神科医の耐病記.gif 『わたし、ガンです ある精神科医の耐病記 (文春新書)』['01年]頼藤 和寛.jpg 頼藤和寛(よりふじ かずひろ)神戸女学院大学・人間科学科教授 (2001年4月8日没/享年53/略歴下記)

 精神科医である著者に直腸がんが見つかったのが'99(平成11)年晩夏で、入院・手術が'00(平成12)年6月、本書は主にその年の夏から秋にかけて書かれ、'01(平成13)年4月、丁度著者が亡くなった月に刊行されています。

 冒頭で、従来の「涙なみだの家族愛」的な闘病記や「私は○○で助かった」的な生還記となることを拒み、現代医学や医療への遠慮をすることもなく、だからと言って、現代医療の問題を告発する「良心的な医師」にもならず、がん患者やその家族を安心させることを目的ともせず、"やぶれかぶれの一患者"として「素直に絶望すること」を試みた記録とあります。

がんと向き合って 上野創.jpg 「闘病」ではなく「耐病」という言葉を用いているのは、実際に闘ったのは治療に伴う副作用に対してであり、がんそのものに対し、「闘う」というイメージは持てなかったためであるとのこと。抗がん剤治療の副作用の苦痛は、上野創 著 『がんと向き合って』('01年/文藝春秋)でも、比較的ポジティブな性格の著者が自殺を考えるまでの欝状態に追い込まれたことが記されていました。

 精神科医とは言え、さすがは医師、中盤部分は、がんという病やその治療に関する医学的な考察が多く織り込まれていて、がんの原因の不確実性、『患者よ、がんと闘うな』('96年/文藝春秋)近藤誠氏に対する共感と一部批判、アガリスクなどの代替医療や精神神経免疫学などに対する考察は、非常に冷静なものであるように思えました。

 "やぶれかぶれ"と言っても、現実と願望を混同せず、常に「認識の鬼」であろうとするその姿勢は、終盤の、いつ生を終えるかもわからない状況になってからの、自らの死生観の変化の検証、考察にも表れていているように思います。

 読者に阿ることなく(同病の読者にさえも不用意に同調・同感しないようにと注意を促している)死について冷徹に考察し、自らの50余年の生を振り返り、人間存在の意味を限られた時間の中で、既存宗教への帰依によることなく探る様は、独自の永劫回帰的想念に到達する一方で、「ちょっとお先に失礼しなければならない」という表現にも見られるように、ある種の諦念に収斂されていったかのようにも思えました。

 ノンフィクション作家の柳田邦男氏が、自分ががんになったら、達観したかのように振舞うのではなく、素直に絶望を吐露するといったことを言っていましたが、本書は、がん患者の記録としては、最もストイックな姿勢が貫かれ知的な考察に満ちた類のものでありながら、それでいて「素直な絶望」の記録でもあると言えます。
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頼藤和寛の人生応援団.jpg頼藤和寛(よりふじ かずひろ)
昭和22(1947)年、大阪市生まれ。昭和47年、大阪大学医学部卒業。麻酔科、外科を経て、精神医学を専攻。昭和50年、堺浅香山病院精神科勤務。昭和54年より阪大病院精神神経科に勤務。昭和61年より大阪府中央児童相談所(現・中央子ども家庭センター)主幹、大阪大学医学部非常勤講師を経て、平成10年より神戸女学院大学人間科学部教授。医学博士。

 産経新聞に平成3年2月より、人生相談「家族診ます(のちに人生応援団に改題)」を連載。
達意の文章とニヒルな人間洞察に支えられた30冊以上の著書を残す。(扶桑社ホームページより)

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オウム一本でいった方が纏まりがあったかも。執行の基準も国民に開示すべきではないか。

私が見た21の死刑判決.jpg 『私が見た21の死刑判決 (文春新書)』 ['09年]

 「21の死刑判決」と言っても、それは著者が今まで見てきた死刑判決の数であって、本書で触れているのはその全てではないです。第2章で池袋通り魔事件、光市母子殺害事件、畠山鈴香事件の3つに触れてはいるものの、全体としては殆どがオウム真理教事件についてであり(この事件だけでも13名に死刑判決が下されているのだが)、その他の"有名事件"も合間または終章に織り込まれていますが、それらについては新聞報道などから拾ってきていると思われるものもあります。

 オウム事件については、林郁夫のような無期懲役の例についての記述もあり、またこの事件は他の事件と性格を異にするところも大であるため、いっそのこと、オウム事件一本でいった方が纏まりがあったかも。

光市母子殺人事件.jpg 纏まりと言えば、著者自身が傍聴して感じたことや判決への憶測、それが下された後の印象などが書かれてはいるものの(光市母子殺害事件の弁護士に対しては、「忌憚のないところをいえば、この弁護士たちが少年を殺したに等しいと思っており、"人権派"に名を借りた"死に神""と呼びたくなる」と明言している)、全体としての死刑制度に対する考え方が見えてこないため、そうした意味でも、やや纏まりがないかなあと思ったりもしました。

 但し、オウム事件でのそれぞれの被告の審理の様子と下された判決を通して、無期懲役と死刑の分かれ目となったのは何かを考察し、また、そうした量刑に対して時に疑問を挟んだりしている(「投げかけている」というレベルだが)のには、読む側としても考えさせられる部分がありました(被告側からすれば、裁判官の当たり外れがある、ということではないかとか)。

 更に、裁判で証人に立った被害者遺族の証言がリアルに描写されていて、それらが心に響くと共に、それがまた裁判官の心証に影響を及ぼしているのではないかと思われるフシもあるように思えました。
 しかも、遺族個々に、その思いの表出方法が異なるのが本書ではよく分かり、林郁夫の公判でみられたように、被告に極刑を望まない遺族もいたし...。
 一方で、林泰男のように、「被告人もまた、不幸かつ不運であったと言える」と裁判官からさえも同情されながらも、死刑判決だった被告もいたわけですが(彼については、警察関係者から、大変な母親思いの性格だと聞かされたことがある)。

 本書では死刑と無期の分かれ目に焦点が当てられていますが、このオウム裁判で思うのは、死刑囚に死刑が本当に執行されるのかということです(されればいいと積極的に思っているわけではない)。
 70年代の「連合赤軍事件」や「連続企業爆破事件」の死刑囚は、'09年現在いまだに1人も刑の執行はされておらず、この両事件は、「思想的確信犯」的事件の要素があることと、犯行後に逃走し(或いは海外逃亡し)捕まっていないメンバーがいるということで共通していて、オウム事件にもこのことがほぼ当て嵌まります。
 強盗殺人などを犯した死刑囚は、近年、刑が確定してから執行までの期間が短くなっているようですが、刑の執行の基準を国民に開示すべきではないかなあ。

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高評価作品が多い30年~50年代。40年~50年代の12作品の著者の評価を自分のと比べると...。

ミュージカル洋画 ぼくの500本.jpg     巴里のアメリカ人08.jpg バンド・ワゴン 映画poster.jpg 南太平洋 チラシ.jpg
ミュージカル洋画ぼくの500本 (文春新書)』 「巴里のアメリカ人」1シーン/「バンド・ワゴン」ポスター/「南太平洋」チラシ

 著者の外国映画ぼくの500本('03年4月)、『日本映画 ぼくの300本』('04年6月)、『外国映画 ハラハラドキドキぼくの500本』('05年11月)、『愛をめぐる洋画ぼくの500本』('06年10月)に続くシリーズ第5弾で、著者は1910年10月生まれですから、刊行年(西暦)の下2桁に90を足せば、刊行時の年齢になるわけですが、凄いなあ。

 本書で取り上げた500本は、必ずしもブロードウェイなどの舞台ミュージカルを映画化したものに限らず、広く音楽映画の全般から集めたとのことですが、確かに「これ、音楽映画だったっけ」というのもあるにせよ、500本も集めてくるのはこの人ならでは。何せ、洋画だけで1万数千本観ている方ですから(「たとえ500本でも、多少ともビデオやDVDを買ったり借りたりするときのご参考になれば幸甚である」とありますが、「たとえ500本」というのが何だか謙虚(?))。

天井桟敷の人々 パンフ.JPG『天井桟敷の人々』(1945).jpg 著者独自の「星」による採点は上の方が厳しくて、100点満点換算すると100点に該当する作品は無く、最高は90点で「天井桟敷の人々」('45年)と「ザッツ・エンタテインメント」('74年)の2作か(但し、個人的には、「天井桟敷の人々」は、一般的な「ミュージカル映画」というイメージからはやや外れているようにも思う)。
 85点の作品も限られており、やはり旧い映画に高評価の作品が多い感じで、70年代から85点・80点の作品は減り、85点は「アマデウス」('84年)が最後、以降はありません。
 これは、巻末の「ミュージカル洋画小史」で著者も書いているように、70年代半ばからミュージカル映画の急激な凋落が始まったためでしょう。

 逆に30年代から50年代にかけては高い評価の作品が目白押しですが、個人的に観ているのは40年代半ば以降かなあという感じで自分で、自分の採点と比べると次の通りです。(著者の☆1つは20点、★1つは5点)

①「天井桟敷の人々」 ('45年/仏)著者 ☆☆☆☆★★(90点)/自分 ★★★★(80点)
天井桟敷の人々1.jpg天井桟敷.jpg天井桟敷の人々 ポスター.jpg 著者は、「規模の雄大さ、精神の雄渾において比肩すべき映画はない」としており、いい作品には違いないが、3時間超の内容は結構「大河メロドラマ」的な要素も。占領下で作られたなどの付帯要素が、戦争を経験した人の評価に入ってくるのでは? 著者は「子供の頃に見た見世物小屋を思い出す」とのこと。実際にそうした見世物小屋を見たことは無いが(花園神社を除いて。あれは、戦前というより、本来は地方のものではないか)、戦後の闇市のカオスに通じる雰囲気も持った作品だし、ヌード女優から伯爵の愛人に成り上がる女主人公にもそれが体現されているような。

「天井桟敷の人々」●原題:LES ENFANTS DU PARADIS●制作年:1945年●制作国:フランス●監督:マルセル・カルネ●製作:フレッド・オラン●脚本:ジャック・プレヴェール●撮影:ロジェ・ユベール/マルク・フォサール●音楽:モーリス・ティリエ/ジョセフ・コズマ●時間:190分●出演:アルレッティ/ジャン=ルイ・バロー/ピエール・ブラッスール/マルセル・エラン/ルイ・サルー/マリア・カザレス/ピエール・ルノワール●日本公開:1952/02●配給:東宝●最初に観た場所:池袋文芸坐(82-03-21)●併映:「ネオ・ファンタジア」(ブルーノ・ボセット)

②「アメリカ交響楽」 ('45年/米)著者 ☆☆☆★★(70点)自分 ★★★☆(70点)
アメリカ交響楽 RHAPSODY IN BLUE.jpgアメリカ交響楽.jpg この映画の原題でもある「ラプソディー・イン・ブルー」や、「スワニー」「巴里のアメリカ人」「ボギーとベス」などの名曲で知られるガーシュウィンの生涯を描いた作品で、モノクロ画面が音楽を引き立てていると思った(著者は、主役を演じたロバート・アルダより、オスカー・レヴァント(本人役で出演)に思い入れがある模様)。因みに、日本で「ロード・ショー」と銘打って封切られた映画の第1号。

「アメリカ交響楽」 ●原題:RHAPSODY IN BLUE●制作年:1945年●制作国:アメリカ●監督:アーヴィン・クーパー●製作:フレッド・オラン●脚本:ハワード・コッホ●撮影:ソル・ポリート●音楽ジョージ・ガーシュウィン●時間:130分●出演:ロバート・アルダ/ジョーン・レスリー/アレクシス・スミス/チャールズ・コバーン/アルバート・バッサーマン/オスカー・レヴァント/ポール・ホワイトマン/ジョージ・ホワイト/ヘイゼル・スコット/アン・ブラウン、アル・ジョルスン/ジュリー・ビショップ●日本公開:1947/03●配給:ワーナー・ブラザース映画●最初に観た場所:テアトル新宿(85-09-23)

③「錨を上げて」 ('45年/米)著者 ☆☆☆★(65点)自分 ★★★(60点)
錨を上げて08.jpg錨を上げて2.jpg錨を上げて.jpgAnchors Aweigh.jpg 4日間の休暇を得てハリウッドへ行った2人の水夫の物語。元気のいい映画だけど、2時間20分は長かった。ジーン・ケリーがアニメ合成でトム&ジェリーと踊るシーンは「ロジャー・ラビット」の先駆けか(著者も、その技術を評価。ジーン・ケリーが呼び物の映画だとも)。
錨を上げて アニメ.jpg
「錨を上げて」●原題:ANCHORS AWEIGH●制作年:1945年●制作国:アメリカ●監督:ジョージ・シドニー●製作:ジョー・パスターナク●脚本:イソベル・レナート●撮影:ロバート・プランク/チャールズ・P・ボイル●音楽監督:ジョージー・ストール●原作:ナタリー・マーシン●時間:140分●出演:フランク・シナトラ/キャスリン・グレイソン/ジーン・ケリー/ホセ・イタービ /ディーン・ストックウェル/パメラ・ブリットン/ジョージ・シドニー●日本公開:1953/07●配給:MGM日本支社●最初に観た場所:テアトル新宿(85-10-19)

④「夜も昼も」 ('46年/米)著者 ☆☆☆★(65点)自分 ★★★(60点)
NIGHT AND DAY 1946.jpg夜も昼も NIGHT AND DAY.jpgNight and Day Cary Grant.jpg アメリカの作曲家コール・ポーターの伝記作品。著者の言う通り、「ポーターの佳曲の数々を聴かせ唄と踊りの総天然色場面を楽しませる」のが目的みたいな作品(曰く「その限りにおいては楽しい」と)。

「夜も昼も」●原題:NIGHT AND DAY●制作年:1946年●制作国:アメリカ●監督:マイケル・カーティズ●製作:アーサー・シュワルツ●脚本:チャールズ・ホフマン/レオ・タウンゼンド/ウィリアム・バワーズ●撮影:ペヴァレル・マーレイ/ウィリアム・V・スコール●音楽監督:レオ・F・フォーブステイン●原作:ナタリー・マーシン●時間:116分●出演:ケーリー・グラント/アレクシス・スミス/モンティ・ウーリー/ジニー・シムズ/ジェーン・ワイマン/カルロス・ラミレス●日本公開:1951/01●配給:セントラル●最初に観た場所:テアトル新宿(85-10-19)

⑤「赤い靴」('48年/英)著者 ☆☆☆☆(80点)自分 ★★★(60点)
赤い靴 ポスター.jpg赤い靴.jpg赤い靴2.jpg ニジンスキーとロシア・バレエ団の主宰者ディアギレフとの関係がモデルといわれているバレエもの(ハーバート・ロス監督の「ニジンスキー」('79年/英)は両者の確執にフォーカスした映画だった)だが、主人公が女性になって、「仕事か恋か」という今も変わらぬ?テーマになっている感じ。著者はモイラ・シアラーの踊りを高く評価している。ヨーロッパには「名人の作った赤い靴をはいた者は踊りの名手になれるが、一生踊り続けなければモイラ・シアラー.jpgならない」という「赤い靴」の伝説があるそうだが、「赤い靴」と言えばアンデルセンが先に思い浮かぶ(一応、そこから材を得ているとのこと)。

「赤い靴」 ●原題:THE RED SHOES●制作年:1948年●制作国:イギリス●監督:エメリック・プレスバーガー●製作:マイケル・パウエル/エメリック・プレスバーガー●脚本:マイケル・パウエル/エメリック・プレスバーガー●撮影:ジャック・カーディフ●音楽演奏:ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ●原作:ハンス・クリスチャン・アンデルセン●時間:136分●出演:アントン・ウォルブルック/マリウス・ゴーリング/モイラ・シアラー/ロバート・ヘルプマン/レオニード・マシーン●日本公開:1950/03●配給:BCFC=NCC●最初に観た場所:高田馬場パール座(77-11-10)●併映:「トリュフォーの思春期」(フランソワ・トリュフォー)
モイラ・シアラー

⑥「イースター・パレード」('48年/英)著者 ☆☆☆☆(80点)自分 ★★★☆(70点)
Easter Parade (1949).jpgイースター・パレード dvd.jpg ジュディ・ガーランドとフレッド・アステアのコンビで、ショー・ビズものとも言え、一旦引退したアステアが、骨折のジーン・ケリーのピンチヒッター出演で頑張っていて、著者の評価も高い(戦後、初めて輸入された総天然色ミュージカルであることも影響している?)。

「イースター・パレード」●原題:EASTER PARADE●制作年:1948年●制作国:アメリカ●監督:チャールズ・ウォルターズ●製作:アーサー・フリード●脚色:シドニー・シェルダン/フランセス・グッドリッチ/アルバート・ハケット●撮影:ハリー・ストラドリング●音楽演奏:ジョニー・グリーン/ロジャー・イーデンス●原作:フランセス・グッドリッチ/アルバート・ハケット●時間:136分●出演:ジュディ・ガーランド/フレッド・アステア/ピーター・ローフォード/アン・ミラー/ジュールス・マンシュイン●日本公開:1950/02●配給:セントラル●最初に観た場所:テアトル新宿(85-10-19)

⑦「踊る大紐育」('49年/米)著者 ☆☆☆☆★(85点)自分 ★★★☆(70点)
踊る大紐育.jpg 24時間の休暇をもらった3人の水兵がニューヨークを舞台に繰り広げるミュージカル。3人が埠頭に降り立って最初に歌うのは「ニューヨーク、ニューヨーク」。振付もジーン・ケリーが担当した。著者はヴェラ=エレンの踊りが良かったと。

踊る大紐育(ニューヨーク) dvd.jpg「踊る大紐育」●原題:ON THE TOWN●制作年:1949年●制作国:アメリカ●監督:スタンリー・ドーネン●製作:アーサー・フリード●脚本:ベティ・カムデン/アドルフ・グリーン●撮影:ハロルド・ロッソン●音楽:レナード・バーンスタイン●原作:ベティ・カムデン/アドルフ・グリーン●時間:98分●出演:ジーン・ケリー/フランク・シナトラ/ジュールス・マンシン/アン・ミラー/ジュールス・マンシュイン/ベティ・ギャレット/ヴェラ・エレン●日本公開:1951/08●配給:セントラル●最初に観た場所:テアトル新宿(85-09-23)

巴里のアメリカ人 ポスター.jpg⑧「巴里のアメリカ人」 ('51年/米)著者 ☆☆☆☆★(85点)自分 ★★★★(80点)
巴里のアメリカ人2.jpg巴里のアメリカ人 dvd.jpg 音楽はジョージ・ガーシュイン。踊りもいいし、ストーリーも良く出来ている。著者の言う様に、舞台装置をユトリロやゴッホ、ロートレックなど有名画家の絵に擬えたのも楽しい。著者は「一番感心すべきはジーン・ケリー」としているが、アクロバティックな彼の踊りについていくレスリー・キャロンも中国雑伎団みたいで凄い(1951年アカデミー賞作品)。

ジーンケリーとレスリーキャロン.jpg巴里のアメリカ人09.jpg「巴里のアメリカ人」●原題:AN AMERICAN IN PARIS●制作年:1951年●制作国:アメリカ●監督:ヴィンセント・ミネリ●製作:アーサー・フリード●脚本:アラン・ジェイ・ラーナー●撮影:アルフレッド・ギルクス●音楽:ジョージ・ガーシュイン●時間:113分●出演:ジーン・ケリー/レスリー・キャロン/オスカー・レヴァント/ジョルジュ・ゲタリー/ユージン・ボーデン/ニナ・フォック●日本公開:1952/05●配給:MGM日本支社●最初に観た場所:高田馬場パール座(78-05-27)●併映:「シェルブールの雨傘」(ジャック・ドゥミ)

⑨「バンド・ワゴン」('53年/米)著者 ☆☆☆☆★(85点)自分 ★★★★(80点)
バンド・ワゴン08.jpgバンド・ワゴン2.jpgバンド・ワゴン.jpgバンド・ワゴン 特別版 [DVD].jpgシド・チャリシー.jpg 落ち目のスター、フレッド・アステアの再起物語で、「イースター・パレード」以上にショー・ビズもの色合いが強い作品だが、コメディタッチで明るい。ストーリーは予定調和だが、本書によれば、ミッキー・スピレーンの探偵小説のパロディが織り込まれているとのことで、そうしたことも含め、通好みの作品かも。但し、アステアとシド・チャリシーの踊りだけでも十分楽しめる。シド・チャリシーの踊りも、レスリー・キャロンと双璧と言っていぐらいスゴイ。

THE BANDO WAGON.jpg「バンド・ワゴン」●原題:THE BANDO WAGON●制作年:1953年●制作国:アメリカ●監督:ヴィンセント・ミネリ●製作:アーサー・フリード●脚本:ベティ・コムデン/アドルフ・グリーン●撮影:ハリー・ジャクソン●音楽:アドルフ・ドイッチ/コンラッド・サリンジャー●時間:112分●出演:フレッド・アステア/シド・チャリシー/オスカー・レヴァント/ナネット・ファブレー●日本公開:1953/12●配給:MGM●最初に観た場所:テアトル新宿(85-10-19)

⑩「パリの恋人」('53年/米)著者 ☆☆☆☆(80点)自分 ★★★☆(70点)
パリの恋人dvd.jpg『パリの恋人』(1957).jpgパリの恋人 映画ポスター.jpg 著者曰く「すばらしいファション・ミュージカル」であり、オードリー・ヘプバーンの魅力がたっぷり味わえると(原題の「ファニー・フェイス」はもちろんヘップバーンのことを指す)。
Funny Face.jpg 衣装はジバンシー、音楽はガーシュウィンで、音楽と併せて、女性であればファッションも楽しめるのは確か。
'S Wonderful.bmp ちょっと「マイ・フェア・レディ」に似た話で、「マイ・フェア・レディ」が吹替えなのに対し、こっちはオードリー・ヘプバーン本人の肉声の歌が聴ける。それにしても、一旦引退したこともあるはずのアステアが元気で、とても57才とは思えない。結局、更に20余年、「ザッツ・エンタテインメント」('74年)まで活躍したから、ある意味"超人"的。

『パリの恋人』(1957) 2.jpgパリの恋人 パンフ.jpg「パリの恋人」●原題:FUNNY FACE●制作年:1956年●制作国:アメリカ●監督:スパリの恋人 パンフ.jpgタンリー・ドーネン●製作:アーサー・フリード●脚本:レナード・ガーシェ●撮影:レイ・ジューン●音楽:ジョージ・ガーシュウィン/アドルフ・ドイッチ●時間:103分●出演:オードリー・ヘプバーン/フレッド・アステア/ケイ・トンプスン/ミシェル・オークレール●日本公開:1957/02●配給:パラマウント映画●最初に観た場所:高田馬場ACTミニシアター(85-11-03)●併映:「リリー・マルレーン」(ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー) 
南太平洋パンフレット.jpg
⑪「南太平洋」('58年/米)著者 ☆☆☆★(65点)自分 ★★★☆(70点)
  1949年初演のブロードウェイ版の監督であるジョシュア・ローガンが映画版でもそのまま監督したもので、ハワイのカウアイ島でロケが行われた(一度だけ行ったことがあるが、火山活動によって出来た島らしい、渓谷や湿地帯ジャングルなど、野趣溢れる自然が満喫できる島だった)。
 著者は「戦時色濃厚な」作品であるため、あまり好きになれないようだが、それを言うなら、著者が高得点をつけている「シェルブールの雨傘」などは、フランス側の視点でしか描かれていないとも言えるのでは。超エスニック、大規模ロケ映画で、空も海も恐ろ「南太平洋」(自由が丘武蔵野館).jpgしいくらい青い(カラーフィルターのせいか?)。トロピカル・ナンバーの定番になった主題歌「バリ・ハイ」や「魅惑の宵」などの歌曲もいい。

「南太平洋」映画チラシ/期間限定再公開(自由が丘武蔵野館) 1987(昭和62)年7月4日~7月31日 
       
                                             
南太平洋(87R).jpg南太平洋.jpg「南太平洋」●原題:SOUTH PACIFIC●制作年:1958年●制作国:アメリカ●監督:ジョシュア・ローガン●製作:バディ・アドラー●脚本:ポール・オスボーン●撮影:レオン・シャムロイ●音楽:リチャード・ロジャース●原作:ジェームズ・A・ミッチェナー「南太平洋物語」●原作戯曲:オス自由が丘武蔵野館.jpgカー・ハマースタイン2世/リチャード・ロジャース/ジョシュア・ローガン●時間:156分●出演:ロッサノ・ブラッツィ/ミッチー・ゲイナー/ジョン・カー/レイ・ウォルストン/フランス・ニューエン/ラス・モーガン●日本公開:1959/11●配給:20世紀フォックス●最初に観た場所:自由が丘武蔵野館(87-07-05)(リバイバル・ロードショー) 自由が丘武蔵野館 (旧・自由が丘武蔵野推理) 1951年「自由が丘武蔵野推理」オープン。1985(昭和60)年11月いったん閉館し改築、「自由が丘武蔵野館」と改称し再オープン。2004(平成16)年2月29日閉館。

⑫「黒いオルフェ」('59年/仏)著者 ☆☆☆☆(80点)自分 ★★★★(80点)
黒いオルフェ2.jpg黒いオルフェ (1959).jpg黒いオルフェ dvd.jpg 娯楽作品と言うより芸術作品。ジャン・コクトーの「オルフェ」('50年)と同じギリシア神話をベースにしているとのことだが、ちょっと難解な部分も。著者も言うように、リオのカーニヴァルの描写が素晴らしい。

「黒いオルフェ」●原題:ORFEO NEGRO●制作年:1959年●制作国:フランス●監督:マルセル・カミュ●製作:バディ・アドラー●脚本:マルセル・カミュ/ジャック・ヴィオ●撮影:ジャン・ブールゴワン●音楽:アントニオ・カルロス・ジョビン/ルイス・ボンファ●原作:ヴィニシウス・デ・モライス●時間:107分●出演:ブレノ・メロ/マルペッサ・ドーン/マルセル・カミュ/ファウスト・グエルゾーニ/ルルデス・デ・オリベイラ/レア・ガルシア/アデマール・ダ・シルバ●日本公開:1960/07●配給:東和●最初に観た場所:八重洲スター座(79-04-15)

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人類進化に関する知識をリフレッシュするのに手頃。諸説をバランスよくまとめ入門書。

人類進化99の謎.jpg 『人類進化99の謎 (文春新書)』 ['09年]

Sahelanthropus tchadensis.gif 本書によれば、人類進化学というのは、大体10年ごとに人類化石の大きな発見があり、その度に進化図ががらりと書き換えられているそうですが、21世紀に入って起源的人類の発見が相次ぎ、2001年にアフリカ中部のチャド共和国で見つかった化石(サヘラントロプス・チャデンシス (Sahelanthropus tchadensis))により、人類のルーツは700万年前に遡ったそうで、もっと古い人類種が未発見で眠っているとも推定されるとのことです。

The red dot marks the site at which a skull of Sahelanthropus tchadensis was found.

 以前に、ネアンデルタール人の研究をしている奈良貴史氏が養老孟司氏との対談『養老孟司 ガクモンの壁』('03年/日経ビジネス人文庫)(『養老孟司・学問の挌闘―「人間」をめぐる14人の俊英との論戦』('99年/日本経済新聞社)改題 )で、ネアンデルタール人がホモ・サピエンス(現生人類)とある期間共存していたと言っていたのが興味深かったですが、ネアンデルタール人というのはホモ・サピエンスの"先祖"ではなく、学術名がそれぞれ Homo neanderthalensis、Homo sapiens sapiens となっているように、両者はホモ属の中で"従兄弟"関係にあることを本書で再認識しました(ホモ属全体で見ると200数十年前からいて、ネアンデルタール人が滅んだのは2万数千年前とのこと)。

Sahelanthropus tchadensis.bmp かつて学校でアウストラロピテクス((Australopithecus)が一番古い猿人だと習いましたが、アウストラロピテクスというのは属名で、その中にもいろいろあり、それでも一番古いもので400数十万年前だったように思いますが(このあたりまでは習ったような記憶がある)、サヘラントロプス・チャデンシスの「700万年前」というと、それより200数十万年も古いことになります。

Sahelanthropus tchadensis

 1テーマ見開き2ページですが、ある程度テーマが繋がっていて、あまりぶつ切り感がなく読めるのが本書の特長かと思います。
 それでも巻末の「人類進化の系統図」を参照しながらでないと、ホモ属にしろアウストラロピテクスにしろ、それより古い猿人にしろ、今どの年代の辺りにいた人類の話をしているかわからなくなる―それはとりもなおさず、本書が新書でありながら、細分化された各種の最新の情報を丁寧に読者に提供しようとしていることの証なのかも知れません。

 「ヒトはいつ、どこで誕生したのか」「ヒトははたして強い狩猟者だったのか」「いつから火を使い出したのか」「ヒトはなぜ、いつ、アフリカを出たのか(ヒトは永らくアフリカにいた)」「ヒトはいつから言葉をしゃべれるようになったのか」「ヒトの暴力性は古くからあったのか」「ヒトの性による役割の違いは、いつからは始まったのか」といった素朴な問いの設定からもそのことが窺え、多くは推論でしかないと言えばそうなるのかも知れませんが、諸説をバランス感覚を以って取り纏めているような印象を受けました。

人類進化の本38.400万年の人類史.jpg 著者は学者ではなく元朝日新聞社の科学ジャーナリストですが、この分野を長らく深耕している人で、著者の本を個人的に最初に読んだのは、『400万年の人類史―ヒトはいかにして地球の主になったか』('83年/カッパ・サイエンス)であり、分かり易い人類学の入門書であるとともに、当時のアメリカにおける最新の人類学や考古学の状況が取材に基づいて報告されていました。

 著者のより最近の著書『ネアンデルタールと現代人―ヒトの500万年史』('99年/文春新書)でも、サブタイトルの通り、最古の人類は「500万年」前とされているし、そう、意外と最近まで、最古の人類は「400万年前」乃至「500万年前」とされていたのだなあ。今世紀に入って一気に200万年も遡ったというのは、サヘラントロプス・チャデンシスの発見の衝撃がいかに大きかったかを思わせます。

400万年の人類史―ヒトはいかにして地球の主になったか (カッパ・サイエンス)

 どの年代においても複数種の人類がいたのに、今はホモ・サピエンスしかいないというのは確かに不思議で(著者はこのことについても一応の推論をしているが)、この先、人類は更に進化するのかなあ。人口は増えているけれど、ホモ属としては先細りしているような気もしないでもないです。

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年齢基準の「定年制」の方が能力基準よりマシという見解自体に異論は無いが...。

いつでもクビ切り社会2.jpgいつでもクビ切り社会―「エイジフリー」の罠 (文春新書)』['09年]森戸 英幸.jpg 森戸 英幸 氏

 「年齢差別から能力本位へ」という掛け声の下、「エイジフリー」の美名において「定年制廃止」を理想の雇用形態とするような議論が進んでいる事に対して、気鋭の労働法学者が疑問を呈した本、と言っても、肩肘張らず楽しみながら読める内容です。

企業年金の法と政策.jpg 著者の『企業年金の法と政策』('03年/有斐閣)は良書だったと思いますが、その中にもアメリカと日本の年金制度の違いが詳しく述べられていたように、本書においてもアメリカを始めとする欧米と日本の雇用及びその枠組みとなる社会の違いについて、時折ユーモアを交えて考察しています。

 途中まで「エイジフリー」社会の素晴らしさを讃えていますが、これが逆説的「前振り」であることは本のタイトルから容易に窺え、「いつ落とすか、いつ落とすか」という感じで読んでいました。
 その落としどころも、タイトルから解ってしまう訳で、推理小説ではないので、むしろ最初から著者の考えが解ってこの方がいいかも。

 玄田有史氏も『仕事のなかの曖昧な不安』('01年/中央公論新社)の中で「定年制廃止」に批判的でしたが(本書も参考文献を見る限りでは、慶応義塾大学の新塾長になった清家篤氏の「定年破壊」論がターゲットになっているようだ)、玄田氏はその理由として、定年制廃止が「既に雇われている人々の雇用機会を確保することにはなっても、新しく採用されようとする人から就業機会を奪うこと」になる怖れがあることを挙げており、一方、著者は本書において、定年が無くなれば解雇によってしか従業員を「退職させる」手段が無くなるため、人選の納得性などをどう担保するかが困難である点を指摘しています。

 この考え自体は、著者と同門である労働法学者の大内伸哉氏が『雇用社会の25の疑問』('07年/弘文館)でも言っていたような気がしますが、定年制という「制度」があるから人は納得して会社を去るのであり、「60歳になったらウチの会社ではまあ大体使い物にならないよね」という割り切りが対象者個々人に通じるかどうかという著者の投げかけは、大変解り易いものです。

 その上で、「エイジフリー」社会を目指すにはどうしなければならないか、「エイジフリー」社会が到来した際には働く側はどうしたらよいかといったことまで述べていますが、前半の欧米と日本の比較社会論のところでかなり「遊んだ」という感じ。

 その分楽しく読めたし、「エイジフリー」ということを考え直すという点では良かったのですが、肝心な結論の部分ではやはり、「年齢基準の方が能力基準よりマシである」という消極的選択の域を出ていないため、さほど新味は感じられませんでした(個人的にはその考えというか見通しそのものには異論は無いのだが)。

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グレート・ギャツビーの"グレート"は反語である前にその通りの意味もあったのではないかと。
グレート・ギャツビー.jpg グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー) 和田誠.jpg グレート・ギャツビー 野崎訳.jpgグレート・ギャツビー 新潮文庫2.jpg 翻訳夜話.jpg
愛蔵版グレート・ギャツビー』 『グレート・ギャツビー(村上春樹翻訳ライブラリー)』『グレート・ギャツビー(村上春樹翻訳ライブラリー)』(装幀・カバーイラスト:和田 誠)/『グレート・ギャツビー (新潮文庫)』(野崎孝:訳)/村上 春樹・柴田 元幸『翻訳夜話 (文春新書)

First edition cover (1925)
The Great Gatsby.jpg 1920年代初頭、米国中西部出身のニック・キャラウェイは、戦争に従軍したのち故郷へ帰るも孤独感に苛まれ、証券会社でフランシス・スコット・フィッツジェラルド.jpg働くためにニューヨーク郊外ロング・アイランドにある高級住宅地ウェスト・エッグへと引っ越してくるが、隣の大邸宅では日々豪華なパーティが開かれていて、その庭園には華麗な装いの男女が夜毎に集まっており、彼は否応無くその屋敷の主ジェイ・ギャツビーという人物に興味を抱くが、ある日、そのギャツビー氏にパーティに招かれる―。

 1925年に出版された米国の作家フランシス・スコット・フィッツジェラルド(Francis Scott Fitzgerald、1896‐1940/享年44)の超有名作品ですが、ニックがパーティに出てみると、参加者の殆どがギャツビーについて正確なことを知らず、ニックには主催者のギャツビーがパーティの場のどこにいるかさえわからない、しかし、たまたま自分の隣にいた青年が実は...なんてところから、ニックとギャツビーの交遊が始まるという初めの方の展開が単純に面白かったです。

 しかし、この小説、中間部分は今一つ波に乗れなかったというか、自分が最初に読んだのは野崎孝(1917‐1995)訳『偉大なるギャツビー』でしたが、今回、翻訳のリズムがいいと評判の村上春樹氏の訳を読んでも、若干の中だるみ感は拭えませんでした(金持ち同士の恋の鞘当てみたいな話が続き、その俗っぽさがこの作品の持つ1つの批判的テーマであると言えるのだが...)。
 但し、ギャツビーという人物の来歴と、彼の自らの心の空洞を埋めようとするための壮大な計画が明かされていく過程は、やはり面白いなあと―。そしてラスト、畳み掛けるようなカタストロフィに―と、小説としての体裁もきっちりしていることはきっちりしています。

 ギャツビーにはモデルがいるそうですが、ニックとギャツビーのそれぞれがフィッツジェラルドの分身であり(ついでに言えば、妻に浮気されるトム・ブキャナンも)、そしてフィッツジェラルド自身が美人妻ゼルダ(後に発狂する)と高級住宅地に住まいを借りてパーティ漬けの派手な暮らしをしながら、やがて才能を枯渇させてしまうという、華々しさとその後の凋落ぶりも含めギャツビーと重なるのが興味深いですが、これはむしろ小説の外の話で、ニックの眼から見た"ギャツビー"の描写は、こうした実生活での作者自身との相似に反して極めて冷静な筆致で描かれていると言ってよいでしょう。

『グレート・ギャツビー』 (2006).JPG 新訳というのは大体読みやすいものですが、村上訳は、ギャツビーがニックを呼ぶ際の「親友」という言葉を「オールド・スポート」とそのまま訳したりしていて(訳していることにならない?)、日本語でしっくりくる言葉がなければ、無理して訳さないということみたいです(柴田元幸氏との対談『翻訳夜話』('00年/文春新書)でもそうした"ポリシー"が語られていた)。但し、個人的には、「オールド・スポート」を敢えて「親友」と訳さなかったことは、うまく作用しているように思いました。

 そうした意味では、タイトルを『グレート・ギャツビー』としたこともまた村上氏らしく、この"グレート"というのは反語なのだなあと。

『グレート・ギャツビー(村上春樹翻訳ライブラリー)』(2006)

 但し、野崎訳も'89年の「新潮文庫」改訂時に『グレート・ギャツビー』に改題していて、故・野崎氏に言わせれば、フィッツジェラルドは、親から受け継いだ資産の上に安住している金持ち階級を嫌悪し(作中のブキャナン夫妻がその典型)、自らの才覚と努力によって財を成した金持ち(ギャツビーがこれに該当)には好意と尊敬の念を抱いていたとのこと('74年版「新潮文庫」解説)。だから、"グレート"というのは反語である前に、敬意も込められていると見るべきなのでしょう。

日はまた昇る.jpg 村上氏はこの作品を"生涯の1冊"に挙げており、同じ"ロスト・ジェネレーション"の作家ヘミングウェイ『日はまた昇る』(この作品とシチュエーションが似てい翻訳夜話2.jpgる面がある)より上に置いていますが、傑作であるには違いないものの、個人的にはそれほどダントツにスゴイ作品なのかなあという気もしてしまいます。 

 因みに、先に挙げた『翻訳夜話』は、柴田氏と村上氏が、東京大学の柴田教室と翻訳学校の生徒、さらに6人の中堅翻訳家という、それぞれ異なる聴衆に向けて行った3回のフォーラム対談の記録で、村上氏は翻訳に際して「大事なのは偏見のある愛情」であると言い、柴田氏は「召使のようにひたすら主人の声に耳を澄ます」と言っています。

 レイモンド・カーバーとポール・オースターの短編小説を二人がそれぞれ「競訳」したものが掲載されていて、カーバーの方は村上氏の方が訳文が長めになり、オースターの方は柴田氏の方が長めになっているのが、両者のそれぞれの作家に対する思い入れの度合いを反映しているようで興味深かったです。

グレート・ギャツビー (愛蔵版).jpgグレート・ギャツビー 村上春樹翻訳ライブラリー2.jpg【1957年文庫化[角川文庫(大貫三郎訳『華麗なるギャツビー』)]/1974年再文庫化[早川文庫(橋本福夫訳『華麗なるギャツビー』)]/1974年再文庫化[新潮文庫(野崎孝訳『偉大なるギャツビー』)・1989年改版(野崎孝訳『グレート・ギャツビー』)]/1978年再文庫化[旺文社文庫(橋本福夫訳『華麗なるギャツビー』)]/1978年再文庫化[集英社文庫(野崎孝訳『偉大なギャツビー』]/2006年新書化[中央公論新社・村上春樹翻訳ライブラリー(『グレート・ギャツビー』]/2009年再文庫化[光文社古典新訳文庫(小川高義訳『グレート・ギャツビー』)】[左]『愛蔵版グレート・ギャツビー』(2006/11 中央公論新社)/[右]『グレート・ギャツビー(村上春樹翻訳ライブラリー)』(2006/11 中央公論新社)(共に装幀・カバーイラスト:和田 誠


グレート・ギャツビー 新潮文庫im.jpg華麗なるギャツビー 1974  .jpg「華麗なるギャツビー」(1976年/米) 監督:ジャック・クレイトン、出演:ロバート・レッドフォード/ミア・ファロー /ブルース・ダーン/ サム・ウォーターストン/スコット・ウィルソン/ カレン・ブラック/ロイス・チャイルズ/パッツィ・ケンジット/ハワード・ダ・シルバ/ロバーツ・ブロッサム/キャスリン・リー・スコット

新潮文庫(野崎孝訳)映画タイアップ・カバー(レッドフォード版・ディカプリオ版)

グレート・ギャツビー 新潮文庫2.jpgグレート・ギャツビー 映画.jpg「華麗なるギャツビー」(2013年/米) 監督:バズ・ラーマン、出演:レオナルド・ディカプリオ/トビー・マグワイア/キャリー・マリガン/ジョエル・エドガートン/アイラ・フィッシャー/エリザベス・デビッキ

華麗なるギャツビー 2013 _1.jpg
  

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画家もその時々において大変だったのだなあ(或いは、「色々計算していたのだなあ」)と。

近代絵画の暗号.jpg 『近代絵画の暗号 (文春新書)フラゴナール、『閂(かんぬき)』.jpg ジェリコー「メデューズ号の筏」.jpg
                        フラゴナール 「閂」     ジェリコー 「メデューズ号の筏」

 近代絵画の名作に隠された暗号、本書での"暗号"とは、絵をじっと見つめていてもわかるものではなく、その絵が描かれた際の政治・経済・社会・世相・科学などの時代背景と、その時に画家の置かれた状況との相関において読み解いていくもの、ということになります。

アングル 「グランド・オダリスク」     
アングル「グランド・オダリスク」.jpg 著者によれば、美術評論の世界では70年代の「古色蒼然たる作品論・作家論が未だ幅を利かせて情報の更新を怠っている」とのことで、「誰もが知っている名画」ほど、ある意味「誰にも顧みられない名画」になっているとのこと、本書では、名画の背後にある歴史を紐解き、その絵が描かれた動機や意図を新たな視点から探っています。

 その著者の視点でいくと、フラゴナール「閂」は、宮廷画の時代に遅れて登場した画家が、仄暗い宮廷のエロスを大衆ヴィジュアルメディアに持ち込み大衆の下卑た心を刺激したものであり、ジェリコー「メデューズ号の筏」は、漂流者の間でのカニバリズム(食人)が憶測された実際の事件を"視覚的報道"として写真週刊誌並みに表したもの、アングル「グランド・オダリスク」は、ナポレオン時代の帝室画家だったのが王政復古によってクライアントを失い、ギリシャ・フェチ(ヌード・フェチ)の作品が王政下でウケるか賭け出た作品であるとのこと。

マネ 「草上の昼食」        マネ 「オランピア」.
マネ「草上の昼食」.jpgマネ「オランピア」.jpg 更には、マネ「草上の朝食」は、写真技術の開発と一般への広まりに先駆けて撮影者の視点からスキャンダラスな要素を含ませながら計算づくで描いたもの、同じくマネの描いた「オランピア」に至っては、資本主義の台頭により社会も文化も偽善的な性倫理の上に成り立つようになっていく風潮を、娼館の女性を描くことでスキャンダラスに告発した確信犯的作品と言うことになるらしいです(著者の論を端的に解釈すれば)。

 全てその通りかどうかは別として(と言っても、異論を挟むほどの知識がこちらには無い)、我々は名画を「芸術作品」と崇めがちですが、「芸術」そのものが動機や目的になるものではないということは改めて思った次第。
 画家もその時その時において、生活の工面や世間への思惑などがあって大変だったのだなあ(或いは、「色々計算していたのだなあ」)と思わされました。

マグリット 「ピレネーの城」/ゴーギャン 「黄色いキリストのある自画像」
ルネ・マグリット 「ピレネーの城」.jpgゴーギャン「黄色いキリストのある自画像」.jpg 「古色蒼然たる作品論」にアンチテーゼを投げかける著者の意気込みはわかりますが、そうした周辺や背後の状況を知らねばこの絵は理解できないとなると、また新たな知識的権威主義に陥ってしまうので、そうしたことを知ることで、名画の違った側面が見えてくるという程度の捉え方でもいいのではないでしょうか。

 ゴーギャン「黄色いキリストのある自画像」には、有能な証券マンだったゴーギャンが脱サラして専業画家になったことで家族から見捨てられた苦渋が表れていて、マグリット「ピレネーの城」は宙に浮かぶ飛行船のイメージであるとしていますが、それぞれの背景に、大手証券会社の倒産による株暴落事件があったとか、自宅屋根に飛行船が不時着した事件があったなどと、読んでいて面白いことは面白いけれど、フツーの人にはそこまでのことはわからないし。

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全体の構成にはやや違和感を覚えたが、随所で考えさせられる点も。

私家版・ユダヤ文化論.jpg私家版・ユダヤ文化論 (文春新書)』 ['06年] ユダヤ人.jpg J‐P.サルトル 『ユダヤ人 (岩波新書)

 2007(平成19)年度・第6回「小林秀雄賞」受賞作。

 ユダヤ人問題の研究を永年続けてきた著者が、「なぜ、ユダヤ人は迫害されるのか」ということを論じたもので、第1章では「ユダヤ人」の定義をしていますが、「ユダヤ人はユダヤ教徒のことではない」としている時点で、「あっ、これ哲学系か」という感じでサルトル『ユダヤ人』('56年/岩波新書)を思い出し、案の定、「ユダヤ人は反ユダヤ主義者が"創造"した」というサルトルの考えが紹介されていました(そっか、この人、"元・仏文学者"だった。今は、思想家? 評論家?)。

 但し、「ユダヤ人とは『ユダヤ人』という呼称で呼ばれる人間のことである」という命題は、サルトルの言うほどに「単純な真理」ではないとし、レヴィナスの「神が『私の民』だと思っている人間」であるという"選び"の視点を示しています。
 レヴィナスは読んでいないので、個人的には、(お手軽過ぎかも知れないが)いい"レヴィナス入門"になりました(冒頭で著者が、自らの「学問上の師はユダヤ人」としているのはそういうことだったのか)。

 世界の人口の0.2%しかいないユダヤ人に何故、思想・哲学分野などで傑出した天才が多いのか、ノーベル賞科学系分野の受賞者数において高い率を占めるのか、といった興味深いテーマについても、サルトルとの対比で、レヴィナスの思惟を解答に持ってきていて、但し、こうしたサルトル vs.レヴィナスという形で結論めいたことが語られているのは終章においてであり、第2章から第3章にかけては、ユダヤ人陰謀史観が、「ペニー・ガム法」(自販機に硬貨を入れたらガムが出てくるのを見て「銅がガムに変化した」と短絡的に解釈してしまう考え方)に基づく歴史解釈であることを説明しています(ある種、情報リテラシーの問題がテーマであるとも言えるかも)。

 具体的には、第2章では、『シオン賢者の議定書』という反ユダヤ主義文書が19世紀末から20世紀にかけての日本人の反ユダヤ主義者に与えた影響や、エドゥアール・ドリュモンというフランス人の書いた『ユダヤ的フランス』というかなり迷妄的な本、並びに、その本に影響を受けたモレス侯爵という19世紀の奇人の政治思想や活動が紹介されていて、さながら、奇書・奇行を巡る文献学のような様相も呈しており、ある意味、この「トンデモ本」研究の部分が、最も"私家版"的であるととる読者もいるかも(自分も、半分はそうした印象を持った。実際には、「あくまでも私見に基づいて論じる」という意味だが)。

 全体の構成にはやや違和感を覚えましたが、随所にサルトル的な知性を感じ、その分既知感はあったものの、人間の嵌まり易い思考の陥弄を示しているようで、面白く読めました。
 一方で、レヴィナスの言葉を引いての著者の、ユダヤ人は自らが「神から選ばれた民」であるがゆえに、幾多の不幸をあえて引き受ける責務を負うとの考えを集団的に有している、という言説には、旧約聖書に馴染みの薄い自分には、ちょっと及びもつかない部分があったことは確か。

 本書は、学生への講義録がベースになっているそうで、「ユダヤ人が世界を支配している」というようなことを言う人間がいるが、そういう奇想天外な発想がどうして生成したかを論じるつもりが、「ユダヤ人が世界を支配しているとはこの講義を聞くまでは知りませんでした」というレポートを書いた学生が散見され、慌てて翌年に、文芸誌に「文化論」として整理し直して発表したものであるとのこと、そんな学生がいるのかなあ、神戸女学院には。

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夫のピート・ハミル氏と現場ではぐれた...! 9.11テロとその後の1週間をリポート。

 目撃アメリカ崩壊.jpg目撃 アメリカ崩壊 (文春新書)』['01年]

目撃 アメリカ崩壊2.jpg ニューヨーク・マンハッタン、世界貿易センター(WTC)ビルから数百メートルのところに住むフリージャーナリストである著者が、自らが体験した9.11テロとその後の1週間を、事件直後から継続的に日本に配信したメールなどを交え、1日ごとに振り返ってリポートしたもので、本書自体も事件1ヵ月後に脱稿し、その年11月には新書として早々と出版されたものであっただけに当時としては生々しかったです。

 事件直後、WTC付近で仕事をしていた夫のピート・ハミル氏の安否を気遣い現場に直行、そこでWTC南タワーの崩壊に出くわし、避難する最中に夫とはぐれてしまうなど、その舞い上がりぶりは、著者の、週刊文春の「USA通信」での大統領選レポートなどとはまた違った高揚したトーンで、緊迫感がよく伝わってきます(身近にこんな大事件が起きれば、しかも現場で次々とビルから身を投げる人々を目撃すれば、混乱しない方がどうかしているが)。

 1日1章でまとめられていて、各章の冒頭にロウアーマンハッタンの地図が挿入されているため地理的状況が把握しやすく、著者の住むキャナルストリート以南が立ち入り禁止区域になり、事件後何日かは、出かけると自宅に戻れなくなる可能性があったとのこと。
 こうした規制下での生活、友人の安否情報、食料調達状況などの身辺の話や、事件直後、国民の前から姿をくらましたブッシュ、現場へ早々に出向いたジュリアーニ、ヒラリー・クリントンといったTVニュースを通しての政治家の動きとそれに対する国民の反応など、書かれていることはジャーナリストというよりも地元ニューヨーカーとしての視点に近い感じです(「ニューズウィーク日本版」ニューヨーク支局長などのキャリアがある著者だが、基本的には、この人、"じっくり型"ジャーナリスト?)。
 クリントン政権以来、テロの危機に鈍感になってしまっていたアメリカ国民の能天気を批判していますが、今後の国際情勢については、アメリカに報復戦争の口実を与えてしまったとして、貧困に喘ぐアフガニスタンの国情悪化を懸念する夫のピート・ハミル氏の憂いなどを通して、著者自身はこれから考え始めるといった段階である観もあります。

 後半は、むしろ、北タワー83階から1時間15分かけて脱出した人の話などの方が印象に残りました。
 北タワーは航空機突入から崩壊まで1時間40分持ちましたが、15分後に航空機が突っ込んだ南タワーの方は、その後50分ぐらい崩壊したので、この人が南タワーにいたら助からなかったかも。

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セルフカウンセリング的な効用がある本? 「夢を持つこと」が難しい社会なのかも...。

傷つくのがこわい.jpg 『傷つくのがこわい (文春新書)』 〔'05年〕 人と接するのがつらい.jpg人と接するのがつらい―人間関係の自我心理学 (文春新書 (074))』 ['99年]

ca_img02.jpg  この著者には、同じ文春新書で『人と接するのがつらい―人間関係の自我心理学』('99年)という本もあり、自我心理学が専門だと思いますが、人間関係など社会生活で悩んでいる人への思いやりが感じられ、本書もまた、ブックレビューなどを読むと好評のようです。

 前半部では、傷つくとはどういうことか、なぜ若者は傷つきやすいのかが、最近の社会動向、学校・家庭・職場内で見られる傾向なども分析しながら丁寧に解説されていて、後半部では心傷ついたときにはどうすればよいか、傷つかない心を持つにはどうしたらよいかが、カウンセリング理論をベースに、自律訓練法やリラクゼーションなどの方法論にまで落とし込んで書かれています。

 新書という体裁上、1つ1つの方法論についての解説は簡略なものですが、そこに至るまでに「傷つく」ということを心理学者の立場から臨床的に分析しているため、読者にすれば、本書を読むことで自らの「傷つき」を対象化することができ、セルフカウンセリング的な効果が得られる、それが好評である一因なのではないかと思われます。

 前半と後半の間に、「傷つきやすい若者への接し方」という章があって、社会そのものが若者を傷つけやすい構造になってきていることを指摘し、そうした「傷つきやすい若者」に対して、よき相談相手になることと、彼らの「自己価値観」を高める配慮をすることの大切さを説いています。

 この中で注目すべきは、フリーターやニートの増加を、単に若者の労働意欲の低下によるものではなく、彼らをとりまく厳しい労働環境との関係で捉えている点で、レビンソンの〈ライフサイクル論〉を引きながらも、現代の若者が大人としてのアイデンティティの確立が遅れているのは、社会が「余裕のない」「夢を持てない」ものになっているからだとしています(叶わぬ「夢」を保留するために現実への関与を避け、その結果モラトリアム期間が長期化するということ)。

 "新米成人"にとって「非現実的な夢にしがみつくこと」も「夢の全面的放棄」も満足な生活を与えてくれるものでなはなく、レビンソンに習って、「夢を生活構造の中に位置づけること」が大切であるとしながら、著者自身が認識するように、社会そのものが「夢を持てない」ものになっているというのは、結構キツイ状況だなあと感じました。

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「日本版401k」の入門書。「術」というほど特別なことが書いてあるわけでもなく...。

年金術.jpg 『年金術』 文春新書 〔'03年〕

401k.jpg 「年金術」というタイトルですが、本文全5章のうち4章は日本版401kについて述べられていて、日本版401kについての加入者・受給者(つまり一般の人)の側に立った解説書と言えます。

 先行して導入した企業(主に大企業)の事例や金融機関の動きと運用の中心になりそうな商品、制度のあらまし及び仕組み、先例としてのアメリカの401kの歴史と現在の姿、日本版401kの今後のゆくえなどが解説されていて、本書刊行当時('03年)としては、まとまった入門書として読めたかも知れません。

 ただし、著者はジャーナリストということですが、日本版401kをあまりに肯定的に捉えるその姿勢には、同じ新書で『投資信託を買う前に』('00年)という前著もあるように、銀行系の金融コンサルタントのような色合いを強く感じます。

 と言って、タイトルに「術」と付けるほどの特別なことが書いてあるわけでもなく、前著もそうでしたが、読んでも概説的な知識が得られるだけで、具体的にどうすれば良いのかはあまり見えてきません。
 1章だけ公的年金についての問題点や改革の方向性について触れていますが、それらについても一般的な概説の域を出ていないように思えます。

 「日本版401k」という言葉も、現在では「確定拠出年金」と言った方が良いだろうし、加入者の一部についての拠出限度額や確定給付年金からの移換限度額など、すでに細部においては法律が改定されている部分もあり、こうした本をタイムリーであるというだけで新書として出版するのはどんなものだろうかという気がしました(著者にとっては大いに"箔付け"になるかもしれないが)。

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ネット社会の「司祭」? グーグル。入門書または啓蒙書としても読めるが...。

グーグルGoogle.bmp 『グーグル―Google 既存のビジネスを破壊する 文春新書』  ウェブ進化論.jpg 『ウェブ進化論』 

google news.bmp 梅田望夫氏の『ウェブ進化論―本当の大変化はこれから始まる』('06年/ちくま新書)が、ビジネス分析の視点は面白いもののグーグルに対するあまりの絶賛ぶりに満ちていたのが少し気になっていたところ、本書ではグーグルの怖い部分が書かれているということで手にしましたが、もともとの視点が異なる本だったという感想です。

 「グーグルニュース」の編集権問題の経緯から始まる話は、これをホームページに置いている自分には馴染みやすく、また新たに知る事実があって興味深いものでした。

 グーグルがとっている「アルゴリズムによるニュース記事の編集」という手法(メディアから編集許諾を得て、生身の人間が記事選択したり編集しているのではないということ)に、当初は編集権の問題で抵抗していた各メディアが、グーグルの影響力の大きさに押され次第に譲歩していく過程が描かれています。

 『ウェブ進化論』が鳥瞰的なビジネス進化論とすれば、こちらは"グーグル現象"を、地を這うようなジャーナリストの目線でとらえているという感じで、"ロングテール"戦略についても、実際に著者が取材した零細の駐車場やメッキ工場の成功例で説明しています。

 ただし、グーグルは一体何で企業収入を得ているのかということは、わざわざ本書中盤まで引っぱらなくとも答えが「キーワード広告」(アドワーズ)であることは多くの人が知るところであり、むしろその先において指摘している、個人のホームページに対する広告配信システム(アドセンス)を投入して「巨大な広告代理店」化していること、「アテンション」(注目されること)をキーワードに無料サービスと有料広告の組み合わせによる収益構造を構築していることなどが注目されるべき点であり、この辺りにもう少しページを割いてもよかったのでは。

 世界中のありとあらゆる情報を集め、ネット社会の「司祭」と化しているグーグル―、ただし「グーグル八分」(本書では司祭による「宗教的追放」に喩えられている)というような話は、本書刊行後1年余りの間にNHKスペシャルなどでより具体的な例をもって紹介されているのでさほど新味はなく、この辺りが、既成の報道や既刊の書物からの引用に多く依存している本書後半部分の弱みか。

 それでも、「グーグルマップ」の利用者などが、そのまま地域広告などのターゲットになっているという構造は、確かに近未来小説を想わせるちょっと気味悪い面ではあるなあと。
 「グーグル」という固有名詞にこだわらければ、ネット社会の近未来についての入門書または啓蒙書としても読めます(どちらの意味でも新味やインパクトが少し弱いが)。

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通し読みすると著者の映画観や評価スタンスがわかり、巻末の「ぼくの映画史」も味わい深い。

外国映画ぼくの500本.jpg ぼくの採点表 2 1960年代.jpg 黄金狂時代 1925.jpg黄金狂時代 コレクターズ・エディション [DVD]
外国映画ぼくの500本』 文春新書〔'03年〕 『ぼくの採点表 2 1960年代―西洋シネマ大系 (2)』 (全5巻)
映画雑誌『スクリーン』1957年1月号
映画雑誌『スクリーン』1957年1月号.jpg双葉十三郎.jpg 映画雑誌「スクリーン」に長年にわたって映画評論を書き続けてきた著者による、20世紀に公開された外国映画500選の評論です。何しろ1910年生まれの著者は、見た洋画が1万数千本、邦画も含めると約2万本、1920年代中盤以降公開の作品はほとんどリアルタイムで見ているというからスゴイ!

 本書のベースとなっているのは「スクリーン」の連載をまとめた『西洋シネマ体系 ぼくの採点表』という全5巻シリーズで、この中にある約8,900本の洋画の中からさらに500本を厳選し、1本当たりの文字数を揃えて五十音順に並べたのが本書であるとのことです(著者は『西洋シネマ体系 ぼくの採点表』全5巻完結の年に第49回「菊池寛賞」を受賞している)。

 名作と呼ばれる映画の多くを網羅していて、強いて言えば心温まる映画が比較的好みであるようですが、古い映画の中にはDVDなどが廃盤になっているものも多いのが残念です。

 映画評論の大家でありながら、B級映画、娯楽映画にも暖かい視線を注いでいて、一般観客の目線に近いところで見ているという感じがし、自分たちが青春時代に見た映画も著者自身は老境に入って見ているはずなのに、感想には若者のようなみずみずしさがあって、ああこの人は万年青年なのだなあと。

 1本ごとの見どころを短文の中にうまく盛り込んでいて、リファレンスとしても使え"外れ"も少ないと思いますが、一通り読んでみることをお薦めしたいです。著者の映画観や映画を評価するということについてのスタンスがわかります。すべての作品に白い星20点、黒い星5点での採点がされていますが、「映画とは点数が高ければいいというものではない」という著者の言葉には含蓄があります。

 因みに、90点以上は「黄金狂時代(チャールズ・チャップリン)」「西部戦線異状なし(リュウイス・マイルストン)」「大いなる幻影(ジャン・ルノワール)」「駅馬車(ジョン・フォード)」「疑惑の影(アルフレッド・ヒッチコック)」「天井桟敷の人々(マルセル・カルネ)」「サンセット大通り(ビリー・ワイルダー)」「河(ジャン・ルノワール)」「恐怖の報酬(アンリ・ジョルジュ・クルーゾー)」「禁じられた遊び(ルネ・クレマン)」「水鳥の生態(ドキュメンタリー)」「野いちご(イングマール・ベルイマン)」「突然炎のごとく(フランソワ・トリュフォー)」「スティング(ジョージ・ロイ・ヒル)」「ザッツ・エンタテイメント(ジャック・ヘイリー・ジュニア)」の15本となっています。

 先の「点数が高ければいいというものではない」という著者の言葉もあってこれを著者のベスト15ととっていいのかどうかは分かりませんが、故・淀川長治2.jpg淀川長治(1909-1998)が「キネマ旬報」1980年12月下旬号に寄せた自らのベスト5が「黄金狂時代(チャールズ・チャップリン)」「戦艦ポチョムキン(セルゲイ・エイゼンシュテイン)」「グリード(エリッヒ・フォン・シュトロハイム)」「大いなる幻影(ジャン・ルノワール)」「ベニスに死す(ルキノ・ヴィスコンティ)」となっており、「黄金狂時代」と「大いなる幻影」が重なっています。年齢が近かったこともありますが(双葉氏が1歳年下)、意外と重なるなあという印象でしょうか。巻末の「ぼくの映画史」も、著者の人生と映画の変遷が重なり、その中で著者が、映画の過去・現在・将来にどういった思いを抱いているかが窺える味わい深いものでした。

 「野いちご」('57年/スウェーデン)などベルイマンの作品を高く評価しているのが印象に残ったのと、チャップリン作品で淀川長治と同じく「黄金狂時代」('25年/米)をベ黄金狂時代 01.jpgストに挙げているのが興味を引きました(淀川長治は別のところでは、"生涯の一本"に「黄金狂時代」を挙げている)。「黄金狂時代」はチャップリン初の長編劇映画であり、ゴールドラッシュに沸くアラスカで一攫千金を夢見る男たちを描いたもので黄金狂時代 03.jpgすが、チャップリンの長編の中では最もスラップスティック感覚に溢れていて楽しめ(金鉱探しのチャーリーたちの寒さと飢えがピークに達して靴を食べるシーンも秀逸だが、その前の腹が減った仲間の目からはチャーリーがニワトリに見えてしまうシーンも可笑しかった)、個人的にもチャップリン作品のベストだと思います(後期の作品に見られるべとべとした感じが無い)。

黄金狂時代es.jpg黄金狂時代_15.jpg黄金狂時代14.jpg「チャップリンの黄金狂時代(黄金狂時代)」●原題:THE GOLD RUSH●制作年:1936年●制作国:アメリカ●監督・製作・脚本:チャールズ・チャップリン●撮影:ローランド・トザロー●時間:82~96分(サウンド版73分)●出演:チャールズ・チャップリン/ビッグ・ジム・マッケイ/マック・スウェイン/トム・マレイ/ヘンリー・バーグマン/マルコム・ウエイト/スタンリー・J・サンフォード/アルバート・オースチン/アラン・ガルシア/トム・ウッド/チャールズ・コンクリン/ジョン・ランドなど●日本公開:1925/12●配給:ユナイテッド・アーティスツ●最初に観た場所:高田馬場パール座 (79-03-06)(評価:★★★★☆)●併映:「モダン・タイムス」(チャールズ・チャップリン)

《読書MEMO》
●「双葉十三郎 ぼくの採点表」
☆☆☆☆★★(90点)
1925 黄金狂時代/チャールズ・チャップリン
1930 西部戦線異状なし/リュウイス・マイルストン
1937 大いなる幻影/ジャン・ルノワール
1939 駅馬車/ジョン・フォード
1942 疑惑の影/アルフレッド・ヒッチコック
1945 天井桟敷の人々/マルセル・カルネ
1950 サンセット大通り/ビリー・ワイルダー
1951 河/ジャン・ルノワール
1952 恐怖の報酬/アンリ・ジョルジュ・クルーゾー
1952 禁じられた遊び/ルネ・クレマン
1953 水鳥の生態/ドキュメンタリー
1957 野いちご/イングマール・ベルイマン
1961 突然炎のごとく/フランソワ・トリュフォー
1973 スティング/ジョージ・ロイ・ヒル
1974 ザッツ・エンタテイメント/ジャック・ヘイリー・ジュニア

☆☆☆☆★(85点)
■1920年代以前
 月世界旅行/ジョルジュ・メリエス
 イントレランス/D・W・グリフィス
 カリガリ博士/ロベルト・ウィーネ
■1920年代
 キッド/チャールズ・チャップリン
 ドクトル・マブゼ/フリッツ・ラング
 幌馬車/ジョン・フォード
 アイアン・ホース/ジョン・フォード
 結婚哲学/エルンスト・ルビッチ
 ジークフリート/フリッツ・ラング
 戦艦ポチョムキン/エイゼンシュテイン
 ビッグ・パレード/キング・ビダー
 巴里の屋根の下/ルネ・クレール
■1930年代
 会議は踊る/エリック・シャレル
 自由を我等に/ルネ・クレール
 暗黒街の顔役/ハワード・ホークス
 街の灯/チャールズ・チャップリン
 仮面の米国/マーヴィン・ルロイ
 グランド・ホテル/エドマンド・グールディング
 巴里祭/ルネ・クレール
 四十二番街/ロイド・ベーコン
 或る夜の出来事/フランク・キャプラ
 商船テナシチー/ジュリアン・デュヴィヴィエ
 たそがれの維納/ヴィリ・フォルスト
 オペラ・ハット/フランク・キャプラ
 孔雀夫人/ウィリアム・ワイラー
 望郷/ジュリアン・デュヴィヴィエ
 我等の仲間/デュヴィヴィエ
 舞踏会の手帖/デュヴィヴィエ
 風と共に去りぬ/ヴィクター・フレミング
 スミス都へ行く/フランク・キャプラ
■1940年代
 わが谷は緑なりき/ジョン・フォード
 ヘンリイ五世/ローレンス・オリヴィエ
 逢びき/デヴィッド・リーン
 ダイー・ケイの天国と地獄/ブルース・ハンバーストン
 荒野の決闘/ジョン・フォード
 黄金/ジョン・ヒューストン
 悪魔の美しさ/ルネ・クレール
 踊る大紐育/スタンリー・ドーネン
 黄色いリボン/ジョン・フォード
 情婦マノン/アンリ・ジョルジュ・クルーゾー
 第三の男/キャロル・リード
■1950年代
 アニーよ銃をとれ/ジョージ・シドニー
 イヴの総て/ジョゼフ・マンキウイッツ
 戦慄の七日間/ジョン・ブールティング
 巴里のアメリカ人/スタンリー・ドーネン
 グレンミラー物語/アンソニー・マン
 シェーン/ジョージ・スティーヴンス
 バンド・ワゴン/ヴィンセント・ミネリ
 ローマの休日/ウィリアム・ワイラー
 悪魔のような女/アンリ・ジョルジュ・クルーゾー
 波止場/エリア・カザン
 エデンの東/エリア・カザン
 赤い風船/アルベール・ラモリス
 第七の封印/イングマール・ベルイマン
 情婦/ビリー・ワイルダー
 魔術師/イングマール・ベルイマン
■1960年代
 甘い生活/フェデリコ・フェリーニ
 処女の泉/イングマール・ベルイマン
 太陽がいっぱい/ルネ・クレマン
 ウエストサイド物語/ロバート・ワイズ
 アラビアのロレンス/デヴィッド・リーン
 8 1/2/フェデリコ・フェリーニ
 シェルブールの雨傘/ジャック・ドゥミ
 戦争は終った/アラン・レネ
 アルジェの戦い/ジッロ・ポンテコルヴォ
 バージニア・ウルフなんかこわくない/マイク・ニコルズ
 ロシュフォールの恋人たち/ジャック・ドゥミ
 冒険者たち/ロベール・アンリコ
 素晴らしき戦争/リチャード・アッテンボロー
■1970年代
 ジョニーは戦場へ行った/ドルトン・トランボ
 叫びとささやき/イングマール・ベルイマン
 フェリーニのアマルコルド/フェデリコ・フェリーニ
 タワーリング・インフェルノ/ジョン・ギラーミン
■1980年代
 ファニーとアレクサンデル/イングマール・ベルイマン
 アマデウス/ミロス・フォアマン
■1990年代以降
 霧の中の風景/テオ・アンゲロプロス
 恋におちたシェークスピア/ジョン・マッデン

映画雑誌『スクリーン』1957年1月号 目次
映画雑誌『スクリーン』1957年1月号 目次.jpg

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「歴史探偵」的趣きの鼎談。歴史の違った見方を教えてくれる。

昭和史の論点.jpg  『昭和史の論点』 文春新書 〔'00年〕 坂本 多加雄.jpg 坂本 多加雄 (1950−2002/享年52)

 雑誌『諸君!』で行われた4人の昭和史の専門家の鼎談をまとめたもの。
 文芸春秋らしい比較的「中立的」な面子ですが、それでも4人の立場はそれぞれに異なります。

 『国家学のすすめ』('01年/ちくま新書)などの著者があり、52歳で亡くなった坂本多加雄は「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーでもあったし、秦郁彦は「南京事件」に関しては中間派(大虐殺はあったとしているが、犠牲者数は学者の中で最も少ない数字を唱えている)、半藤一利は『ノモンハンの夏』('98年/文藝春秋)などの著書がある作家で、保阪正康は『きけわだつみのこえ』に根拠なき改訂や恣意的な削除があったことを指摘したノンフィクション作家です。

 しかし対談は、既存の歴史観や個々のイデオロギーに拘泥されず、むしろ「歴史探偵」的趣きで進行し、張作霖事件、満州事変、二・二六事件、盧溝橋事件...etc.の諸事件に今も纏わる謎を解き明かそうとし、またそれぞれの得意分野での卓見が示されていて面白かったです(自分の予備知識が少なく、面白さを満喫できないのが残念)。
 昭和史と言っても敗戦までですが、最近になってわかったことも随分あるのだなあと。昭和天皇関係の新事実は、今後ももっと出てきそうだし。

 歴史に"イフ(if)"はないと言いますが、この対談は後半に行くに従い"イフ(if)"だらけで、これがまた面白く、歴史にはこういう見方もあるよ、と教えてくれます。
 その"イフ(if)"だらけを一番に過激にやっているのが秦郁彦で、やや放談気味ではありますが、こうした立場を越えた自由な鼎談が成り立つのは、月刊「文芸春秋」の編集長だった半藤一利に依るところが大きいのではないかと思います。

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面白さで言えば、ナビスコの事例が一番面白い。あとは通読でも。

企業合併.jpg  『企業合併』 文春新書 〔'01年〕 メガバンクの誤算.jpg  『メガバンクの誤算―銀行復活は可能か

 著者は元長銀執行役員で、放漫な経営陣を批判して銀行を辞し、コンサルタントに転じてた人で、 『メガバンクの誤算-銀行復活は可能か』('02年/中公新書)などの著書もあります。

 本書において、資本家や投資家の飽くなき欲望と、冷徹な資本の論理がぶつかり合うのが欧米の企業合併であるとすれば、日本のそれは、経営者の面子や旧財閥のしがらみ、行政の強引な介入などが絡んだ経済合理性の無い企業合併ばかりで、それでは経済の国際化がますます進むなかで、国際競争についてはいけなくなることを示唆しています。

 前半3章でRJRナビスコ、タイムワーナー、スイス銀行といった海外の合併事例を、後半3章で三井物産・三菱商事の大合同、海運大再編、新日鉄など国内の事例を取り上げています。

e0076461_1221590.jpg 読んで面白いのは海外のもので、とりわけRJRナビスコの、〈経営陣によるMBO〉vs.〈投資顧問会社によるLBO〉の対決劇と、その後フィリップ・モリスに買収されるまでの顛末を追った第1章の「タバコとビスケット」は、スケールの大きさと逆転に次ぐ逆転劇で引き込まれるように読めます。

 LBO、ゴールデン・パラシュート、ベア・ハッグ、TOB、白馬の騎士といった要素がすべてこの章に盛り込まれていて、その用語が出てきたところで著者が簡潔な解説を挟んでいるため、今まであまりこうした用語に縁の無かった自分の頭にも、その意味がすんなり入ってきました。

 ただ、後半の日本の合併劇は、著者自身が言うように"あまりドラマがない"もので、その狙いもスケールメリットを図るという一本調子なものばかり。
 一応最後まで読みましたが、ナビスコの章だけじっくり読めば、あとは通読でよかったかも知れません。

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この本と相性が合う人は、今まで面接で相当苦戦をしている?

面接力.jpg 『面接力』 (2004/11 文春新書)  梅森浩一.jpg 梅森 浩一 氏 (略歴下記) クビ.jpg

 ベストセラーとなった『「クビ!」論。』('03年/朝日新聞社)から『「サラリー」論。』('04年/小学館)と読み進んで、この著者の著作には特定の外資系企業で行われていることを過度に一般化して語る傾向があると感じ、少し気になっていたのですが、本書に関しては、的が「面接」に絞られているせいか、それほど違和感が無く、内容的にもマアマアまとまっています。

 ただしこうした本の当然の帰結ですが、結局のところ対話力、コミュニケーション力が大切という当たり前の話に落ち着いてしまいます。
 面接のテクニックも一応は示していますが、ダメな例はよくわかるものの、良い例というのは今ひとつピンときません。
 これは、良い受け答えというのは本来ユニークなものであって、こうして本に書かれ一般化されてしまえば陳腐化してしまうということもあるのではないかと思います。
 それでも、面接を受け続けている間は、結果に一喜一憂し、逆に自分のことがわからなくなることもあるので、セルフチェック用に読めなくもありません。「そっかあ〜」みたいな感じでしっくりくる人もいるかもしれません。
 まあ、相性のようなもので、皮肉な見方をすれば、この本と相性が合い過ぎる人というのは、今まで面接で相当苦戦をしているかも知れない…と勝手ながら思うのです。

 それと、タイトルが、面接を受ける側にとっての「力」なのか、面接をする側にとってのそれなのかわかりにくいのもどうかと。
 結局双方にとってのことのようですが、時々どちらに対して言っているのかわからなくなるような書き方が気になりました(この人の今までの著作も大体において、企業・人事部担当者と一般サラリーマン・学生の両方に向いているのですが)。
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梅森 浩一 (アップダウンサイジング・ジャパン代表)
1958年生まれ。青山学院大学経営学部卒業後、三井デュポン・フロロケミカルに入社。1988年チェース・マンハッタン銀行に転職。1993年、35歳でケミカル銀行東京支店の日本統轄人事部長に就任。以後、チェース・マンハッタン銀行、ソシエテ・ジェネラル証券東京支店で、人事部長を歴任。
主な著書に『「クビ!」論。』(朝日新聞社)『面接力』(文春新書)『残業しない技術』(扶桑社)『超絶!シゴト術』(マガジンハウス)『梅森浩一のサクッ!と手帳2007』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)など多数。

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電機メーカーの人事制度の取材はそれなりに深いが、提案面は肩透かし。

成果主義を超える.jpg    江波戸哲夫.gif  江波戸哲夫 氏 (作家) 集団左遷3.jpg 映画「集団左遷」
成果主義を超える』 文春新書 〔'02年〕

 『集団左遷』('93年/世界文化社)、『部長漂流』('02年/角川書店)などの企業小説や『会社葬送-山一証券最後の株主総会』('01年/新潮社)、『神様の墜落-"そごうと興銀"の失われた10年』('03年/新潮社)などの企業ドキュメントで知られる作家の江波戸哲夫氏が、企業を取材し、各社の成果主義人事制度の現状を分析、考察したものです。

 一般に人事制度の取材・とりまとめは専門のジャーナリストやライターが行うことが多いのですが、著者の取材はそれらに劣らない深さがあり、企業側だけでなく労働者や労働組合のコメントも取っているところにもバランスの良さを感じます。

 ただし、ある時期(2001年前後)のある業界の一定規模以上の企業のみを対象にした分析なので、確かに電機業界はいろいろな面で日本の産業のリーダー的役割を果たしてきた面はありますが(例えば週休2日制を最初に導入した大手企業は「松下」です)、これが日本企業全体の動向かと言われると若干の疑問もあります。

 鳴り物入りで導入された新人事制度の中には、一応機能しているものもあれば尻すぼみになっているものもあることがわかり、この辺りの取材はかなり緻密で、個人的には、大企業の人事部の中には、トレンドに合わせて何か新しい制度を入れて、自社適合性のチェックは後回しになっていると言うか、軽んじられている風潮があるのではないかと考えさせられる節もあります。
 いや、"自社適合"にばかり重きを置いていたら、何も出来ないまま同業他社から遅れていく、という焦りもあるかも。

 著者は、企業がリストラをしつつも根本的には雇用延長を図っていることに着眼し、企業への帰属意識(愛社精神)の効果は確かに見過ごせないとしています。
 しかしながら結論的には、企業は、年功序列・終身雇用制を弱めて従業員の帰属意識の減退を図りながらも、仕事へのエネルギーを引き出さなければならないという難しい課題を抱えていると...。

 確かにその通りですが、こうしたやや"感想"的結論で終わっているため、タイトルから具体的な"提案"を期待した向きには肩透かしの内容となっていることは否めないと思います。
 現実は、小説や映画のようなスッキリした締めくくり方にはならないということか...。

集団左遷」 ('94年/東映)
集団左遷1.bmp集団左遷2.jpg 因みに江波戸氏の小説『集団左遷』('93年/世界文化社)は映画化もされていて、バブル崩壊後に大量の余剰人員を抱えた不動産会社が、新規事業部に余剰人員50人を送り込み、達成不可能な販売目標を課して人員の削減を図るというリストラ計画を実行し、そうした中での50人のリストラ社員たちが逆境に立ち向かっていく姿を描いたものでした。

 梶間俊一監督はヤクザ映画系の出身の人で、テンポはいいし、"成果主義を超えた"かどうかはどもかく、一応"スッキリした締めくくり方"にはなっていますが、そこに至るつくりはやや粗いような気もしました(原作は未読。読めば結構面白いのかも)。
集団左遷2.bmp 柴田恭平がリストラされた社員のリーダーを熱演していて、この映画で「熱血ビジネスマン」のイメージが定着したとも言えるのではないでしょうか(脚本は'04年に自殺した野沢尚が書いている)。

「集団左遷」●制作年:1994年●製作:東映●監督:梶間俊一●脚本:野沢尚●撮影:鈴木達夫 ●音楽:小玉和之●原作:江波戸哲夫●時間:116分●出演:柴田恭平/中村敦夫/津川雅彦/高島礼子/小坂一也/河原崎建三/萬田久子/北村総一朗/江波杏子/伊東四朗●劇場公開:1994/12●配給:東映 (評価★★★)

「集団左遷」柴田強兵/高島礼子

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