Recently in 講談社現代新書 Category

「●原発・放射能汚染問題」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●捕鯨問題」 【1759】 小松 正之 『クジラと日本人
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

かつての原発労働者を追ったインタビュー。安全教育や被曝対策は前からいい加減だった。

原発労働者 講談社現代新書L.jpg
原発労働者 講談社現代新書 L.jpg    寺尾 紗穂.jpg
原発労働者 (講談社現代新書)』['15年]    寺尾 紗穂 氏(シンガーソングライター)

闇に消される原発被曝者_.jpg シンガーソングライターでエッセイストでもある著者(自らの修士論文が『評伝川島芳子―男装のエトランゼ』('08年/文春新書)として刊行されていたりもする)が、報道写真家の樋口健二氏による、1980年くらいまでの原発労働者を追って彼らに重い口を開いてもらい書かれたルポ『闇に消される原発被曝者』('81年/三一書房)に触発され、自らも、原発労働に従事していた人たちを訪ねて労働現場の模様を聞き取ったルポです(原発労働の現場を自らが原発労働者として各地の発電所で働いて取材した、堀江邦夫氏の『原発ジプシー』('79年/現代書館)からも示唆を受けている)。

闇に消される原発被曝者』['11年/八月書院(増補新版)]

 原発労働者というと福島原発事故の後処理に携わる人を思い浮かべがちですが、本書での聴き取りの対象は福島事故以前から原発労働に従事していた人が殆どで(つまり'平時'に働いていた人)、福島原発に限らず、柏崎狩羽原発や浜岡原発で働いていた人たちも含まれていますが、全6章から成るうちの第1章から第4章にかけてそれぞれ実名で登場する4人の話が(凄まじい話もあったりして)とりわけ印象に残りました。日常的な定期検査やトラブル処理をこなしてきた人たちの話ですが、当時から安全教育や被曝対策がいかにいい加減であったかということ、そうした危険な状況下での過酷な原発労働の実態が浮き彫りにされています。

 著者のインタビューを受けた人のうちの何人かは、そうした経験を経て原発労働の孕む危険性を社会に知らせる活動に携わるようになったり、また、そうした活動と併せて自らの生き方を見直したりもしているわけで、インタビューを受けた人の生き様も伝わってきました。但し、こうした人たちも最初は仕事が無く生活のために、過酷だが給金のいい原発労働に携わるようになった人もいて、実際、彼らの話から、多くのそうした生活困窮者に近い人が原発労働に"流れ着く"といった実態も窺えました(このことに最初にフォーカスしたのが堀江邦夫氏の『原発ジプシー』だと思うが)。

 従って、原発に基本的には反対し、将来は原発に依存しない社会をつくるべきだとしながらも、現状において雇用を下支えしている面もあることから、すぐに全てを廃止するのは難しいとの見方をする人もいて、複雑な現場の事情を反映しているように思えました。

 一方では、外国人労働者が「一回200とか300ミリ被曝する燃料プール内作業」をやっていて、「一回200万円とか300万円もらえるらしい」といった話もあり、これはインタビューされた人の実体験ではなく、彼らの伝聞情報ではありますが、プール潜水のみならず、原子炉内での労働にも「黒人」が駆り出されているというのは元東電社員の証言にもあるとのことで、この辺りをもう少し掘り下げて欲しかった気もします。

 日本で働く労働者である限り労働基準法や安全衛生法の適用対象となるわけですが、おそらく、そうした「黒人」たちは請負労働であり(しかも、法律で禁じられている多重請負である公算が高い)「労働者」扱いにはなっていないのではないでしょうか。それ以前に、そうした説明を充分受けることもなく、また、彼ら自身が、将来の健康上の不安などよりも目先の給金に惹かれてそうした労働に従事しているのではないかと思われます。原発内部の低技術労働者は釜ヶ崎や山谷から借り出されてくるという話もあり、充分な安全教育・安全対策が講じられないまま、ただ今を生きていくためだけに働いている原発労働者が多くいるとなれば、日本人とて流れとしては同じでしょう。

 こうしたことは『原発ジプシー』でも指摘されていたことであり、今すぐに原発を全面廃止した場合、現在働いている人の仕事は一体どうするのかという問題もさることながら、一方で、原発の危険性がある程度認知された今日においては、格差社会が産み出す生活困窮者との相補関係の上に原発労働が成り立っているとの見方も成り立ち、こんなことを続けていていいのかという思いがしました。基本的には、やはり1つずつ廃炉にしていくべきでしょう。それだけでも相当の労働力の投入が必要なわけで、充分に雇用の場を提供することになるのではないでしょうか。原発で潤ってきた地方自治体などは、その間に、完全廃炉以降の財政的自立策を講じていくべきでしょう。

「●原発・放射能汚染問題」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒【2341】 寺尾 紗穂 『原発労働者
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

終わりが無い福島第一原発事故の検証。これを読むと原発はやめた方がいいと思わざるを得ない。

福島第一原発事故 7つの謎0.jpg福島第一原発事故 7つの謎1.jpg福島第一原発事故 7つの謎 (講談社現代新書)』['15年]

福島第一原発事故 7つの謎2.png NHKスペシャルのメルトダウンシリーズとして5つの番組を放送してきた取材班が、取材の過程で新たな証言等を得ることで、それまでわかった気でいた事実関係の確度が怪しくなり、新たな謎として立ちはだかってきたとして、その主だったものを7つ取り上げて、章ごとに検証と考察を行っています。

 まず第1章で、事故当初の3月11日、1号機の非常用冷却装置が、津波直後から動いていなかったことに、なぜ気づかなかったのかに迫り、吉田所長らは、冷却装置が止まっていることに気がつくチャンスを難度も見逃しており、なぜ、チャンスは見過ごされたのかを探っています。

 第2章では、翌12日、メルトダウンした1号機の危機を回避するためのベントが、なぜ長時間できなかったのか、その謎を解き明かし、第3章では、「1号機のベントは成功した」というのが確定した事実であったにも関わらず、吉田所長は生前に「自分は今になっても、ベントができたかどうか自信がない」という言葉を遺しており、吉田所長のこの謎の言葉をきっかけに、1号機のベントを徹底検証した結果、浮かび上がってきた新たな事実を伝えています。

福島原発   .jpg 第4章では、なぜ爆発しなかった2号機で大量の放射性物質の放出があったのか、第5章では、3号機への消防車の注水がなぜメルトダウンを防ぐ役割を果たせなかったのか、消防車が送り込んだ400トンの水はどこに消えたのか、第6章では、2号機のSR弁と呼ばれる緊急時の減圧装置がなぜ動かなかったのかについて、そして最終第7章では、「最後の砦」とされていた格納容器が壊れたのはなぜか、原発内部の最新の調査結果にメスを入れています。

 時間を経て明らかになった意外な事実もあれば、まだ真相がよく判らない部分もあり、言えることは、1号機から3号機までそれぞれにおいて、異なる不測の事態が複数いっぺんに起きたということであり、今回の福島第一原発事故から多くの教訓を学んで今後の不測の事態に対処するというのが電力会社各社のスタンスですが、今回の事故でこれだけ対応しきれなくて、実際今度は別の原発で同様の事故が起きた場合、今回と同じように全く"経験"の無い所員や技術者たちが、知識だけで万全の対処が可能なのか大いに疑問です。

 本書を読むと、福島第一原発事故の検証には終わりが無いような気もします。そもそも、福島第一原発事故における、1号機から3号機までそれぞれにおいて起きた事態の多様性もさることながら、今度どこかで原発が被災した際に、その何れかと同じような事態が生じる可能性もあれば、それらとは全く異なる、新たな不測の事態が生じる可能性も大いに孕んでいるように思われ、電力会社がそれらに完璧に対応し切れるというイメージは湧きにくいなあと。やはり原発はやめた方がいいと思わざるを得ませんでした。

再稼働の川内原発.jpg国内の原発としては1年11か月ぶりに再稼働した鹿児島県の川内原発1号機〔NHKニュースウェブ・2015(平成27)年8月13日〕

「●労働経済・労働問題」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●働くということ」 【097】 黒井 千次 『働くということ
「●社会問題・記録・ルポ」の インデックッスへ 「●講談社現代新書」の インデックッスへ

読んでいて気が滅入るルポだが、知っておくべき日本の労働現場の一面。

中高年ブラック派遣.jpg中高年ブラック派遣 講談社現代新書.jpg 中沢 彰吾.jpg 中沢 彰吾 氏 [Yahoo ニュース これではまるで「人間キャッチボール」!安倍官邸が推し進める規制緩和の弊害と人材派遣業界の闇

中高年ブラック派遣 人材派遣業界の闇 (講談社現代新書)

 ノンフィクションライターによる日雇い派遣業の実態の体験的ルポルタージュですが、甘い言葉(労働条件・待遇)を示して中高年を勧誘し、それが仕事場に行ってみれば年長者であることに配慮するどころか、ヒトをヒトとしてではなく単なる労働力として扱い、反抗すれば恫喝し、気に入らなければ切り捨てていくという、まさに著者が言うところの「奴隷労働」市場のような状況が業界内において蔓延していることが窺える内容でした。

ブラック企業1.jpg 「大佛次郎論壇賞」を受賞した今野晴貴氏の『ブラック企業―日本を食いつぶす妖怪』('12年/文春新書)で、「ブラック企業」の特徴として、正社員を大量に採用して労働基準法ぎりぎりのラインで酷使、消耗、スポイルしてはまた新たな採用を繰り返していることが指摘され、「非正規」ではなく「正社員」が、また、「基準法違反」ではなく「基準法ぎりぎり」というのが新たな着眼点としてクローズアップされましたが、一方で非正規雇用労働者を酷使、消耗する"ブラック企業"も現に多くあるわけであり、同著者の『ブラック企業2―「虐待型管理」の真相』('12年/文春新書)では「ブラックバイト」という言葉が使われています。

 そして、非正規雇用のもう1つの柱である派遣労働者について取り上げたのが本書です。といっても、日雇い派遣の実態が社会問題化され始めたころから、こうした実態を問題視する声はあったように思われますが、本書の場合、その中でも「中高年」にフォーカスしている点が1つの大きな特徴だと思います。

 著者は東京大学卒業後、毎日放送(MBS)に入社し、アナウンサーや記者として勤務した後、身内の介護のために退職し、著述業に転じた人。58歳にして体験した派遣労働の現場では、自分の息子のような年齢の若者に、「ほんとにおまえは馬鹿だな」「いい年して、どうして人並みのことができないんだ!」「いったいここへ何しに来てんだ」「もう来るなよ。てめえみたいなじじい、いらねえから」などと口汚く罵詈雑言を浴びせられたこともあたっということです。

 ここまで言われたら、企業名を出してもいいのではないかという気もしますが、暴露ジャーナリズムとは一線を画すつもりなのか、業界内の特定の1社2社に限ったことではないことを示唆するためか、新聞記事になったような超有名どころのブラック企業はともかく、自らが潜入した"ブラック派遣"会社の名前は明かしていません(再潜入するつもり?)。

 派遣法の改正案が国会で審議される折でもあり、改正のドラフトとしては、労働政策審議会(職業安定分科会労働力需給制度部会)が昨年('14年)に報告(建議)した、専門26業務の撤廃、新しい期間制限(個人単位と事業所単位)、派遣先の事業所単位の期間制限(3年、組合等の意見聴取で延長可)などが骨子としてあり、その中にも幾つかのパターン案があって最終的にどうかなるか、そもそも法案そのものが可決されかどうかも分かりませんが['15年5月末現在]、何れにせよ、政府は経済界の意向を受け、規制緩和の方向へ舵を切ろうとしているのは違いありません。

 今回の改正に関しては、賛否両論ありますが、民主党政権下で、非正規労働者の雇用を安定させようと制定された「無期転換ルール」が平成25年春に施行され、一方が申入れをしただけで本来は合意の上になりたつべきである「契約」が成立してしまうということの方が、個人的には、労働契約の本筋からしてむしろどうだったかなという思いがあります。それさえも早期の契約打ち切りを招いて雇用が不安定になる危険性を孕んでいるとの指摘がありましたが、今回も同様の指摘があり、規制強化路線の揺り戻しであるかのように派遣法を改正するというのは、非正規労働者の問題を政府は本気になって取り組もうとはしていないのではないかという「労側」の声もあります。個人的には、今回の改正案は、派遣労働者の保護よりも派遣先の常用労働者の保護を重視する「常用代替防止」思想からやっと抜け出すと共に、「専門26業務」というとっくに使えなくなっているフレームからも脱却出来るという意味で、法改正の趣旨そのものには肯定的に捉えています。あとは、人材派遣業の業界内の各企業の質のバラツキの問題と、派遣労働者を使う企業側の質のバラツキの問題かなあと。

塩崎恭久厚生労働大臣.jpg 塩崎恭久厚生労働大臣が全国の労働局長にブラック企業の公表を指示したというニュースが最近ありましたが(2015年5月18日)、一方で、働く側も派遣などの「多様な働き方」を望んでいるとしており、そうなると、本書にあるブッラク派遣の実態は企業名の公表で対処出来るような業界内での極めて局所的・例外的実態ということなのでしょうか。個人的にはそうは思えず、人材派遣業界のある一定数の企業は、こうした再就職難の中高年を更にスポイルし消耗するという構造の上に成り立っているように思えます。たとえそのことを糾弾されても、そうした企業は、自分たちが再就職難の中高年の受け皿になっているのだとかいった理屈を捏ねるんだろなあ。

 読んでいて気が滅入るルポですが、知っておくべき日本の労働現場の一面でしょう。

「●働くということ」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【2269】 細井 智彦 『会社が正論すぎて、働きたくなくなる
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

上から目線で尚且つ分かりにくい。昭和的なものに凝り固まっている旧来型人事の体現者か。

働く。なぜ? 講談社現代新書1.jpg 中澤 二朗 『働く。なぜ?』.JPG働く。なぜ? (講談社現代新書)「働くこと」を企業と大人にたずねたい.jpg 『「働くこと」を企業と大人にたずねたい ―これから社会へ出る人のための仕事の物語』['11年]

 自分で勝手に名付けた「"やや中古"本に光を」シリーズ第1弾(エントリー№2270)。以前に著者の『「働くこと」を企業と大人にたずねたい―これから社会へ出る人のための仕事の物語』('11年/東洋経済新報社)を読み、巷ではそこそこ好評であるのに自分には今一つぴんと来ず、自分の理解力が足りないのか、或いはそもそも相性が悪いのかなどと思ったりもしました。文中にあまりに"考え中"のことが多いような気がして、しかもその"考え中"のことを"考え中"のまま書いているような気がし、そのモヤっとした感じが全体にも敷衍されていて、図説等にもその傾向がみられたように思います。

 今回、同じ著者の本書を読んでみて、また同じような印象を持ちました。前著を読んだ際も感じましたが、著者は真面目な人なのでしょう。今回も、停滞する日本経済がアジア全体の成長に置いていかれ気味な今日、日本で働くことの意味を今一度見つめ直し問い直そうとする真摯な姿勢は感じられました。しかし、如何せん、"考え中"のことを"考え中"のまま書いているという前著での著者のクセは治っていないどころか進行しており、理解に苦しむ図説が再三登場します。

 今回も自分だけが物分かりが悪いのかと思って(ちょっと心配になって?)Amazon.comのレビューなどを見ると、ほかにもそういう人は多くいたようです。まあ、前著同様に良かったという人もいるようですが、個人的には、あまりに我田引水、唯我独尊的な論理展開並びに見せ方に感じられ、大企業の人事出身者に時折見られる上から目線的なものを感じました。

 今まで1万人と面接したとか、ベンチャー企業を起こして売り込みをかけているわけでもないのに、そんなことを誇ってはいけません。冒頭の留学生の疑問に対する回答をはじめ、「日本型雇用の素晴らしさ」を説き、「40年ひとつの会社で働くことの意味」を語っているところなど、逆にこれまでの経験が仇(あだ)になって、昭和的なものに凝り固まってそこから抜け出せないでいる旧来型の人事の体現者のように思えてしまいます。

 「日本は就職ではなく就社」なんて今頃言っているし、「石の上にも三年、下積み十年」という考えが著者の職業人生の礎でありモットーであったのかもしれないけれど、それを上から目線で人に押しつけるのはマズイのではないでしょうか(人事の人って自分が特別な人間だと思い込んでいる人がたまにいるけれど)。

 後半になると「名著名言」の引用だらけで、う~ん、「第2の佐々木常夫」を目指しているのか、この人は。それは著者の勝手ですが、Amazon.comのレビューでも指摘されていたように、M.ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」について致命的な誤読があります。それも旧約聖書と読み間違えたのかというくらい真逆の読み方になっていて、あとがきで謝辞を献じられている大先生らは本書についてどう思っているのか、老婆心ながらもやや心配になりました。本書に関して言えば、「中古本」に光は当たらずじまいか。

「●上司学・リーダーシップ」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒【2229】 一般社団法人モチベーション・マネジメント協会 『実践 モチベーション・マネジメント
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

自社の管理職任用アセスメントが形骸化していないかどうかをチェックするうえでお勧め。

部長の資格8.JPG部長の資格 アセスメントから見たマネジメント能力の正体 (講談社現代新書)

部長コマ.jpg 40年余に渡って経営コンサルティングに携わり、とりわけこの20年は管理職層を対象に、人材の能力評価と能力開発を主題とするヒューマン・アセスメントを行うことで企業を支援してきた著者が、ビジネスマンを読者として想定し、上級管理職である部長に焦点を合せ、彼らの仕事ぶりや様々な言動特徴を取り上げ、彼らのマネジメント能力とその開発方法を解説した本です。

 第1章で、様々なタイプの「困った部長」を大きく4つのグループ(1.的確な意思決定ができない部長、2.計画・管理がきちんとできない部長、3.対人能力に問題がある部長、4.個人特性の面で様々な問題を抱える部長)に分け、さらにそれらを18のタイプに細分化しています。体系的に分類されているだけでなく、18のタイプごとにそれぞれ具体的な言動例を挙げ、更にそれらに共通する特徴を整理し、必要に応じてケース事例を取り上げ、そうした部長が生まれる背景を分析し、他に与える影響などの問題点を解説しています。読んでいて分かりやすく、個人的にはそうしたタイプの「困った部長」に思い当るフシが多々ありました。章の終わりでは、それら「困った部長」への対処方法を概説しています。

 第2章では、部長の役割は何なのか、課長とどこが違うのか、マネジメント能力とは何かを整理しています。近年、経営環境が厳しさを増す中で、部長の役割が、かつての「部の目標達成を管理統制すること」から「所管する部門をより合目的的で効率的な組織に変え、より大きな付加価値を産み出すこと」へ変化してきているとしたうえで、そのような役割を遂行する能力とは何か、課長における求られる能力との違いはどこにあるのかを明らかにしています。

 第3章では、優秀な管理職の証と見做されている一般常識が間違っているケースを取り上げています。例えば一般的にできる部長はリーダーシップに富んでいると見做されますが、その部長にリーダーシップがあるかどうかは、そのリーダーシップが何を指すのか、その組織に本当に必要で効果的なものであるかで決まるとしています(リーダーシップがかえって有害になるケースも挙げている点が興味深い)。

 最後の第4章では、部長の能力開発にフォーカスして、実際の能力開発のステップと方法を示しています。本書の一番の狙いは、読者に気づきを促し、自らのマネジメント能力の開発に役立ててもらうこと、状況に合った効果的な言動を身につけ、タイミングよく発現してもらうことにあります。

 本書によれば、「困った部長」に不足しているマネジメント能力は、「考えてマネジメントする能力(狭義の意思決定能力と計画管理能力)」「人を活かし、組織を機能化させる能力(対人・組織マネジメント能力)」「能力全般の基盤となる個人特性(パーソナリティ)」に分けられ、それぞれ言動に現れるとのことです。「困った部長」のタイプの特徴が分かり易く活き活きと書かれていて、網羅的・体系的でありながら、項目主義的なテキストで終わっていない点がいいです

部長の資格00.jpg ビジネスパーソンにとって啓発される要素が多いばかりでなく、人事パーソンの視点から見ても、上級管理職についてのアセスメントの重点項目を分かり易く説いたものと言えます。社内に「なんであんな人が部長をやっているんだろう」というような「困った部長」がいる企業の人事パーソンには、自社の管理職任用アセスメントが形骸化していないかどうかをチェックするうえでも、是非一読をお勧めします。

 こうした「上司学」的な本は毎月のように書店に並びますが、中身がスカスカのものも少なくなく、やはりその道のベテランが書いたものの方がいいように思います。本書は新書で読めるのもいいです。

「●経済一般」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【2331】 トマ・ピケティ 『トマ・ピケティの新・資本論
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

意外と言うよりは、すんなり腑に落ちる(分析上の)結論ではあったが、提案部分は疑問。

日本経済の奇妙な常識.jpg 『日本経済の奇妙な常識 (講談社現代新書)

 全5章構成で、章立ては次の通り。
  第1章 アメリカ国債の謎(コナンドラム)
  第2章 資源価格高騰と日本の賃金デフレ
  第3章 暴落とリスクの金融経済学
  第4章 円高対策という名の通貨戦争
  第5章 財源を考える
 著者自身が述べているように、アメリカ国債の謎を追いかけながら世界経済を見る第1章「アメリカ国債の謎(コナンドラム)」と、円相場の謎を中心に日本経済を見る第4章「円高対策という名の通貨戦争」が本書の中核部分です。

 第1章で言う「アメリカ国債の謎」とは、多くの国の資金がアメリカ国債に流れているという周知の事実である一方で、2011年のアメリカ国債の格下げにかかわらず、金利が下降している事実の謎を指していますが、アメリカの経常赤字と財政赤字という「双子の赤字」の構造変容を示すことで、むしろ、アメリカ国債が世界景気の維持装置の中核部品としてあることを分かり易く説いたものとなっています。

マクドナルドのビックマック.jpg 第4章では、購買力平価から見た円の価値を探っていますが、マクドナルドのビックマックの購買力平価を基準に、各国の通貨価値を探っている点が興味深く、どうしても対ドルレート基準でのみ円の価値を見ようとしがちになる世間に対し、新たな価値基準を示すとともに(これで見ると必ずしも"円高"ではないということになる。但し、これは、"こんな見方も出来る"程度に捉えるべきではないか)、日銀の円安にするための市場介入の失敗及び各国の冷ややかな対応の背景が解説されています。

 それらの指摘も興味深いですが、むしろ、第2章「資源価格高騰と賃金デフレ」において、原油などの資源価格が上昇しても日本の製品がなぜそれほど値上がりしないのかという疑問について、中小企業はコスト高を価格に転嫁できずいるためであるとし、その分立場が弱い労働者に皺寄せがいって賃金デフレを引き起こしており、そうした日本経済が負のスパイラルに突入した転換点が「一九九八年」であることを示していることの方が、自分のような一般読者には興味深かったかも。この頃に、日本の自殺者数は一気に増えているんだなあと。

 第5章「財源を考える」では、増税してもいいことはなく、むしろ小幅な増税ほど危険であり、その前に東日本大震災の復興連動債を発行すべきだという提案をしており、全体を通して、物価が下落しても賃金がそれ以上に下がれば、日本経済は回復しないという、意外と言うよりは、すんなり腑に落ちる(分析上の)結論となっています。

 このことは、新政権がインフレターゲットなどのアベノミックスによって景気浮揚を図っている現在においてもパラレルで当て嵌まると言え、つまり、物価上昇率よりも賃金上昇率の方が低ければ、相対的に見てこれまでとそう状況は変わらないということになるのでは。

 本書刊行から1年半。ここにきての円高で、自動車メーカーなどの輸出産業は一時的に潤い、賞与なども増やしているようですが、小麦などの輸入原材料を扱う食品メーカーやスーパーがそう簡単にコスト高を価格に転嫁できるわけでもなく、そうすると労働分配率を抑えるしかなく、結局、一部の大企業が内部留保を更に膨らませ、多くの労働者は引き続き物価と賃金の上昇率のギャップに苦しみ続けるというのがアベノミックスの行き着く先であるように思えてなりません。

 経済の仕組みを理解する上では参考になりましたが(分析上の結論にはほぼ賛同)、著者は元銀行員であるせいか、一方的に大企業に責任を押し付けている印象もあるし、デリバティブ国債なんて発行して大丈夫なのかなという気も。何だか、金融商品の売り込みみたいになっているよ(提案上の結論には疑問符。著者の新著『日本の景気は賃金が決める』(2013/04 講談社現代新書)も同じような論調なんだろななあ)。

「●精神医学」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【2335】 岡田 尊司 『回避性愛着障害
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

障害の体系というものを意識すると意外と難しいかも。中級以上向けの「入門書」?

パーソナリティ障害とは何か 講談社現代新書.jpgパーソナリティ障害とは何か (講談社現代新書)

 本書におけるパーソナリティ障害の各タイプの「個々の説明」は比較的分かり易かったのですが、所々突然難しくなる部分もあったりして、特に最初の方のパーソナリティ障害の「体系の説明」が難しかった...。

 そもそも、DSM‐Ⅳ(米国精神医学会の診断基準)に定義される10タイプの人格障害を、本書では以下の通りに組み直したと冒頭にあり、ごく簡単な説明のもとにこれをいきなり示されても、初学者にはどうしてこうした組み換えをしたのかよく分からないのではないかと思いました。

 A群:内面の感情や思考が重みを持ちやすいタイプ
  1.スキゾイド・パーソナリティ障害 (対象に呑み込まれる不安)
   (ⅰ)スキゾイド・パーソナリティ障害
   (ⅱ)スキゾタイパル・パーソナリティ障害
  2.サイクロイド・パーソナリティ障害 (強い一体化願望)
  3.妄想性パーソナリティ障害 (投影という防衛機制)
 B群:主観と客観とが混じりやすい対象関係を持つ
  4.反社会性パーソナリティ障害 (欠落した規範意識)
  5.境界性パーソナリティ障害 (見捨てられ不安)
  6.自己愛性パーソナリティ障害 (尊大な自己の背後)
 C群:外界の価値観を人格の中に組み込んで、存在のありようを外界と対峙させる
  7.回避性パーソナリティ障害 (恥の心理)
  8.強迫性パーソナリティ障害 (感情の切り離し)
  9.演技性パーソナリティ障害 (他の注目を惹こうとする心理)

 まあ、解説を進める上での前提であり、ことわり書であって、冒頭にくるのはやむ得ないし、本文を読んでいくうちに、著者の豊富な臨床経験に基づくカテゴライズであることは何となく掴めてくるのですが、こうなると専門家の数だけタイプ分けの仕方があるということにもなってくるような気がします。

 DSM‐Ⅳの分類にもとより難点があることは、多くの専門家が指摘していることであり、実際、他書ではまた違った「組み換え」や「復活」が見られますが、著者の分類で最も特徴的な点は、クレッチマーによって「循環気質(サイクロイド)」という名のもとに気分障害(躁うつ病)の病前性格として提唱され、現在はDSM診断体系で気分障害(双極性障害)の項に吸収されているサイクロイド・パーソナリティを、対象関係を得ると楽観的になり失うと悲観的になる人格として「サイクロイド・パーソナリティ障害」という呼び名で、人格障害の一類型として「復活」させている点かと思われます。

 著者によれば、サイクロイド・パーソナリティの人は身近に沢山いて、その性格類型を基盤にした気分障害、とりわけ双極性障害(躁うつ病)が注目を浴びるようになるにつれその意義は増し、DSM‐Ⅳにある「依存性パーソナリティ障害」も、その中核的ケースはサイクロイドではないかと考えるようになったとのこと(従って、著者の分類からは「依存性パーソナリティ障害」は除かれている)。

 著者は、パーソナリティ障害はパーソナリティの病気であるという考えのもとに「○○パーソナリティ」と「○○パーソナリティ障害」を区分していて、「○○パーソナリティ」であっても世の中に適合していくことができる、その道筋を本書で、簡潔ではあるものの具体的に示していて、その視点は参考になりました。

 サイクロイド・パーソナリティの捉え方も同じような視点からきていると思われますが、「入門書ほど書いた人の考え方が如実に表れる」ことの典型であるようにも思いました。

 「自己愛性パーソナリティ障害の特徴は、自己愛的な人の周辺で精神科患者が生産されることである」などの記述は腑に落ちるものであり(著者はこれを「自己愛性パーソナリティ障害代理症」と呼んでいる)、基本的には良書だと思いますが、体系というものを意識すると意外と難しいかも。中級以上向けの「入門書」?(最近、講談社現代新書のレベル設定がよく分からない)
 初学者は本書に止まらず、他の専門家が書いたものも読まれることお勧めします。

《読書MEMO》
●(参考)DSM-IV-TRによる分類
クラスターA
風変わりで自閉的で妄想を持ちやすく奇異で閉じこもりがちな性質を持つ。
1 妄想性パーソナリティ障害
2 スキゾイド・パーソナリティ障害
3 統合失調型パーソナリティ障害
クラスターB
感情の混乱が激しく演技的で情緒的なのが特徴的。ストレスに対して脆弱で、他人を巻き込む事が多い。
4 反社会性パーソナリティ障害
5 境界性パーソナリティ障害
6 演技性パーソナリティ障害
7 自己愛性パーソナリティ障害
クラスターC
不安や恐怖心が強い性質を持つ。周りの評価が気になりそれがストレスとなる性向がある。
8 回避性パーソナリティ障害
9 依存性パーソナリティ障害
10 強迫性パーソナリティ障害

「●司法・裁判」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●死刑制度」 【793】 加賀 乙彦 『死刑囚の記録
「●死刑制度」の インデックッスへ 「●講談社現代新書」の インデックッスへ

「人の命を奪う自由」が裁判員という一般市民に委ねられたという現実を踏まえた良書。

死刑と正義 (講談社現代新書).jpg  『死刑と正義 (講談社現代新書)』['12年] 森 炎.png 森 炎 氏(略歴下記)

 極刑である「死刑」とは一体どのような基準で決まるかを元裁判官が考察した本で、近年の法廷では、凶悪事件において極刑でやむを得ないかどうかを判断する際に、「永山基準」というものが、裁判官だけでなく検察も弁護側も含め援用されていることは一般にも知られるところですが、この「永山基準」というのは、①犯罪の性質、②動機、計画性など、③犯行態様、執拗さ・残虐性など、④結果の重大さ、特に殺害被害者数、⑤遺族の被害感情、⑥社会的影響、⑦犯人の年齢、犯行時に未成年など、⑧前科、⑨犯行後の情状の9項目を考慮することだそうです。

 本書によれば、裁判員制度が始まる前の最近10年間(1999-2008)の死刑求刑刑事事件における死刑判決率は、「三人以上殺害」の場合は94%、「二人殺害」の場合は73%、「一人殺害」の場合は0.2%で(ここまでは、殺害被害者数が圧倒的な決め手になっていることが窺える)、「二人殺害」について更に見ると、金銭的目的がある場合は82%、金銭的目的が無い場合は52%であるそうですが、著者は、そもそも「永山基準」のような形式論理から「死刑」という結論を導き出して良いものか、という疑問を、共同体原理における正義とは何かといったような死刑制度の根源的(哲学的・道徳倫理学的・社会学的...etc.)意味合いを考察しつつ、読者に投げかけています。

 著者は死刑の意義(価値)を条件付きで肯定しているものの、価値化された死刑の議論を進めるにあたっては、その中に空間の差異というものがあるはずだとし、これを「死刑空間」と呼んで、①「市民生活と極限的犯罪の融合」(ある日、突然、家族が殺されたら)、②「大量殺人と社会的防衛」(秋葉原通り魔事件は死刑で終わりか)、③「永劫回帰する犯罪傾向」(殺人の前刑を終えてまた殺人をくりかえしたら)、④「閉じられた空間の重罪」(親族間や知人間の殺人に社会はどう対処すべきか)、⑤「金銭目的と犯行計画性の秩序」(身代金目的誘拐殺人は特別か)という5つの観点から、実際の凶悪事件とその裁判例を挙げて、人命の価値以外にどのような価値が加わったとき、死刑かそうではないかが分かれるかを示しています。

 しかし、その結論を導くには、これら5つの「死刑空間」ごとの事件の差異を見るだけでは十分ではなく、更に、「変形する死刑空間」として、A「被告人の恵まれない環境」、B「心の問題、心の闇と死刑」、C「少年という免罪符」、D「死刑の功利主義」という5つの視点を提起しています。

 5つの「死刑空間」はそれら同士で重なり合ったりすることもあり、更に、AからDの視点とも結びつくことがある―しかも、単に強弱・濃淡の問題ではなく、それぞれがそこに価値観が入り込む問題であるという、こうした複雑な位相の中で、死刑とすべき客観的要素を公正に導き出すことは、極めて困難であるように思いました(本書には、これまでの死刑判決の根拠の脆弱さや矛盾を解き明かし、最高裁判決を批判的に捉えている箇所もあったりする)。

 著者はこうした考察を通して、詰まるところ死刑の超越論的根拠はないとしていますが(多くの哲学者や思想家の名前が出てくるが、著者の考えに最も近いのはニーチェかも)、本書は、死刑廃止か死刑存置かということを超えて、そのことには敢えて踏み込まず、現実に死刑制度というものがあり、死刑は「正義」であり「善」であるという価値判断が成り立っているという前提のもと(但し、そこには"力の感情"が含まれているとしている)、今、従来は司法の権限であった「人の命を奪う自由」が裁判員という一般市民に委ねられたという現実を踏まえつつ本書を著していて、良質の啓蒙書とも言えます。

 裁判員制度がスタートして3年以上が経ち、この間、死刑判決は若干の増加傾向にあるようですが、犯罪及び死刑にこれだけの複雑な位相があるとすれば裁判官が悩むのは無理もなく、一方、市民裁判官である裁判員が、どこまでこの本に書かれているようなことを考察し、なおかつ、裁判官が提示する判断材料にただ従うのではなく、自らの価値判断を成し得るか、そもそも、裁判官がそれだけの「判断材料」を公正に裁判員に示しているのか、疑問も残るところです。

 最近、玉石混淆気味の講談社現代新書ですが、これは「玉」の部類の本。

_________________________________________________
森炎(もり・ほのお) 
1959年東京都生まれ。東京大学法学部卒。東京地裁、大阪地裁などの裁判官を経て、現在、弁護士(東京弁護士会所属)。著書多数、近著に『司法殺人』(講談社)がある。

「●文章技術・コミュニケーション」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●プレゼンテ-ション」 【161】 ジョン・メイ 『プレゼンテーション必勝テクニック 
「●や‐わ行の現代日本の作家」の インデックッスへ 「●講談社現代新書」の インデックッスへ

着眼点は興味深かったが、事例が強引で、しっくりこないものが多かった。

「上から目線」の時代.jpg 『「上から目線」の時代 (講談社現代新書)』 勝間=ひろゆき対談.jpg「勝間=ひろゆき対談」

 "あの人は「上から目線」だからやり辛い"といった「上から目線」を過剰に意識する現象について、そもそも「上から目線」とは何なのか、「上から目線」という言葉がいつ頃から使われるようになったのか遡ることから考え始め、「上から目線」を過剰意識することの根底にある、日本語で会話する際の独特の当事者間の位置関係や枠組みを考察し、更には、日本文化の底流に流れるものを掘り起こそうと試みた本―但し、個人的には、日本語論、日本文化論というよりも、主にコミュニケーション論として読みました。

 「上から目線」ということがいつ頃から使われるようになったかを政権トップの発言に対する国民の反応から見て行くと、福田康夫首相や麻生太郎首相の頃かららしいですが、このように「上から目線」について「1対多」と「1対1」の両方のコミュニケーション・ケースを扱っていて、「1対多」の方が「首相vs.国民」になっているのが、読み物としては面白けれど、かなり、著者のバイアスが入らざるを得ないものになっているように思いました(一時の首相の言動から、日本文化の底流に流れるものを掘り起こすというのは、普遍性が弱いように思う)。

 一方、「1対1」のコミュニケーションを中心に論じている部分はなるほどと思わされる部分もあり、会話のテンプレートのようなものが、"共通価値観の消滅"により無くなってしまったのかどうかはともかく(そんなに簡単に消滅するかな)、日本語の会話というものが、構造自体に上下関の枠組みがデフォルトとして設定されていて、日本語で会話すると、上下関係が自然に発生してしまうという着眼点は興味深く、確かにそうかもと思いました。

 但し、大きな会社からベンチャー企業に転職してきた人が「僕の会社では」ということを繰り返し言うのが嫌われる(こういうの、「出羽守(ではのかみ)」という)というのは、そうした上下関係が生じていることへの自意識がないからであり、これはあまりに単純な話。

 そんな解説も要さないような話があるかと思うと、一方で、BS-Japanの「デキビジ」での勝間和代氏と元「2ちゃんねる」管理人のひろゆき(西村博之)氏の対談が噛みあわなかったことが、「上から目線」の事例として出てきたりして、勝間氏がひろゆき氏の発言に「上から目線」を感じたのではないか、とのことですが、これ、ちょっと違うんじゃないかなあと。

 著者は両者の「会話」の一部を取り上げ、その食い違いを指摘していますが、「議論」全体としては、勝間氏が「起業しなければ人では無い」的な前提で話していること自体が価値観の押しつけであり(これこそ著者の言うところの「上から目線」)、それを揶揄するというより、その前提がおかしいのではないかと、ひろゆき氏は言っているだけのように思え(意図的に揶揄することで、相手の土俵に乗せられないようにしているとも言えるが)、議論の前提に異議申すことは、頓珍漢なイチャモンでなければ、必ずしも「上から目線」とは言えないのではないかと(「議論」と「会話」が一緒くたになっている)。

そこまで言うか.jpg 「勝間=ひろゆき対談」については、根本的に両者の考え方、と言うより、対談に臨む姿勢が食い違っているように思いましたが、この対談をとり持ったのは、実は、後から2人に割り込んだフリをしている堀江貴文氏かなあ。その後、3人で「仲直り」対談をしたりして(これをネタに本まで出したりして)、共通のプラットフォームが出来あがってしまうと、途端に対談内容がつまらなくなるというのが、外野からみた印象でした(勝間和代氏と香山リカ氏の関係も同じ。ここで言う"共通のプラットフォーム"とは、"世間の注目を集める"こと、つまり、当事者双方にとっての経済合理性か)。

「●ビジネス一般」の  インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1630】 佐藤 義典 『新人OL、つぶれかけの会社をまかされる』 
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

冒頭の旅館とホテルの事例は良かった。だんだん、ビジネス誌の連載みたいになってくる。

「最強のサービス」の教科書.jpg「最強のサービス」の教科書 (講談社現代新書)

 いかにも編集サイドがつけたようなタイトルですが、「最強のサービス」とは何かということよりも、工学的アプローチにより無駄な部分を廃し、本当に顧客が望むサービスの強化に経営リソースを投下することで、そうして顧客満足を効率的に実現するという「サービス工学」という視点を、事例を通して訴えたかった本のようです。

加賀屋.jpg 社会の状況や顧客の要望、嗜好に合わせ、サービスの内容や提供方法を変化させることで成功し、今も成長を続ける企業8社の事例が紹介されていますが、最初に登場する「加賀屋」の事例が(すでに台湾進出などで、マスコミで取り上げられることも多いが)際立っているように思えました。

「BIGLOBE みんなで選ぶ 温泉大賞」温泉宿部門 総合1位(3年連続)「加賀屋」(石川県・和倉温泉)

 本当の意味での「おもてなし」とは何かを顧客目線で考え、顧客にとって価値を生まないサービスは省力化し、客室係が接客に注力できるようにする一方で、人的サービスが「良質」であるのはいいが、人によってサービスに「ムラ」が出ないように、顧客の要望や意見などをデータベースしている―とりわけこのデータベースの力が大きいように思いました(客室まで客を案内する間に、旅館の様々な情報を教えてくれる宿というのは、最近は少ないなあ)。

 続いてのビジネスホテルチェーン「スーパーホテル」の事例は、チェックイン・アウトの機械化されていて、現金や鍵の収受などフロント業務も行っておらず、ちょうど一見「加賀屋」の対極にあるようにも見えますが、部屋置きの電話機やドリンク入り冷蔵庫など、顧客がメリットをさほど感じていないサービスは廃止し、ユニットバスも無く、代わりに温泉大浴場があって、これが顧客に好評を博しているとのこと、顧客目線に立ったサービスとは何かということを考え、従来の既定のサービスの見直しを行ったという意味では、やはり「加賀屋」に通じるものがあると思いました。

 ベッドの脚を無くして床に直置きにしたのは従業員のアイデアだそうですが、こうなると、経営者や(現場のことをよく知っている)従業員の、常日頃の意識の問題と言うか、「サービス工学」という理論は、後から説明的についてくるような気がしなくもありません。
 
 実際に本書に出てくる企業は何れも、従業員満足(ES)ということに非常に力を注いでおり、そうしたことが、従業員の変革のモチベーションに繋がっているのではないかと思われ、そこへ現場を知らないコンサルタントが入ってきて、「サービス工学」とか振り回しても、あまりに効果はないのではないかというのは、後ろ向きの考え方ということになるのでしょうか。

 「サービス工学」というものへの懐疑もあり、読み進むにつれて、何だかビジネス書で連載されて成功事例集のように思えてきて、う~ん、新書で出すような本なのかなあとも。

 グローバルな視点みて、顧客の創造というものを行っているのは、やはり台湾に進出した「加賀屋」でしょう。
テレビの特番で、現地採用の新米仲居を躾けるベテラン従業員を見ましたが、今後どうなるか注目したいところです。

「●人事マネジメント全般」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒  【1621】 ダニエル・ピンク『モチベーション3.0
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

経営人事課題の直近のトレンドをよく纏めているが、"おさらい"的な分析に終始しているとも。

「いい会社」とは何か.jpg 『「いい会社」とは何か (講談社現代新書)』['10年]

 「いい会社」とは何かという視点は、経営者だけでなく、人事の仕事に携わる人にとっても欠かせないものだと思いますが、本書は、リクルートマネジメントソリューションズ組織行動研究所(RMS研究所)がこれを研究テーマとして取り上げ、「いい会社」とは何かを探ったものです。

 冒頭で、バブル経済以前から現在までの企業の置かれた環境と、その時々に試みられた人事施策を振り返り、企業における個人と組織の関係の変遷を追いつつ、現代においては、従業員の会社への信頼が低下し、働きがいは長期低落傾向にあるとしています。

 さらに個人の視点に立って「働きがい」とは何かを「マズローのZ理論」(マクレガーのY理論にX理論の強制的因と方向付けの要因を組み合わせた改良型Y理論)などを取り上げながら考察し、「働きがいのある会社」では、経営と働く人間との「信頼」が重要なファクターであることを指摘しています。

 以上を踏まえたうえで、財務的業績がいい企業が「いい会社」であることには違いないが、財務的に大きな飛躍はないものの、長く事業を継続している企業もまた「いい会社」であり、さらに、働く人の「働きがい」というのも、「いい会社」を考える上での大事な視点であるとし、「いい会社」とは何かを探る指標として、この「財務」「長寿」「働きがい」の3つを挙げています。

 さらに、「財務的業績がいい企業」と「長寿企業」に共通する特徴として、①時代の変化に適応するために自らを変革させている、②人を尊重し、人の能力を十分に生かすような経営を行っている、③長期的な視点のもと、経営が行われている、④社会の中での存在意義を意識し、社会への貢献を行っている、という4つを導き出し、それが、本書でいうところの「いい会社の条件」ということになるわけですが、以下、そうした「いい会社」に見られる経営者の考え方や経営人事面での施策を紹介しています。

 ③の「長期的な観点での施策」は、何らかのポリシーに基づかなければ長続きできず、そのよりどころとして、④の会社の「社会的存在意義」を挙げており、「いい会社」においては、企業理念や組織風土に「社会の中で生かされ、社会への貢献」という内容が組み込まれていて、そのことが企業の成長に一役買っていると分析しています。

 会社の「存在意義」を認識していることが信頼関係のベースであるということですが、その信頼関係をより強めるためには、「社員一人ひとりと向き合う」ことが大切であり、そのことが会社の業績を伸ばすことにも繋がるというのが、本書の言わんとするところでしょう。

 経営人事が抱える課題の直近のトレンドを探るうえではよく纏まっており(こうした、これまでの推移及び現状分析は、著者らの得意とするところ)、全体の論旨も、企業の社会的責任(CSR)から、働く人の多様な価値観(ダイバーシティ)へと旨く繋げているように思えました。

 ただ、あまりに旨く纏まり過ぎていて、突飛な主張に走っていないという意味では「抑制が効いている」とも言えますが、逆にあまり読み応えを感じないとうのが、個人的な感想です。

 「社員一人ひとりと向き合う」ことがいかに大変なことであるかは、筆者らも十分に認識しているのですが、その結論に至るまでの"おさらい"的な分析がメインとなり、結論部分の堀り下げは、やや中途半端なまま終わっている感じもしました。

 所謂「研究所」系のレポートみたい。最近の講談社現代新書って、こういうの多くないか?

「●組織論」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1893】 スティーブン・P・ロビンス 『組織行動のマネジメント
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

組織にも「感情」特性ごとの処方箋。人間性善説に依拠した啓蒙書? 前著の方が良かった。

職場は感情で変わる.png職場は感情で変わる (講談社現代新書)』['09年] 不機嫌な職場―なぜ社員同士で協力できないのか.jpg不機嫌な職場~なぜ社員同士で協力できないのか (講談社現代新書)』 ['08年]

 前著(コンサルタント4人の共著)『不機嫌な職場―なぜ社員同士で協力できないのか』('08年/講談社現代新書)では、社員同士での協力関係が生まれないために、職場がギスギスして、生産性も向上せず、ヤル気のある人から辞めていく、こうした組織における協力関係阻害の要因はどこにあるのかを、「役割構造」「評価情報」「インセンティブ」という3つのフレームで捉えていました。

 例えば、「役割構造」の変化については、従来の日本企業の特徴であった個々の仕事の範囲の「緩さ・曖昧さ」が、協力行動を促すことにも繋がっていたのが、成果主義が導入されると、今度は、個々は自分の仕事のことしか考えなくなり、外からは誰が何をしているのかよくわからなくなって、仕事(役割)が「タコツボ化」しがちになっているが今の状態であるとし、そのことが結果として、組織力の弱体化に繋がっているとした分析は、明快なものであったように思います。

 前著共著者の1人による本書は、「ベストセラー『不機嫌な職場』の解決編登場!」というキャッチコピーで、組織にも「感情」特性があるという視点から、それを「イキイキ感情」「あたたか感情」「ギスギス感情」「冷え冷え感情」の4象限に分類し、それぞれの処方箋を示しています。

 「イキイキ感情」というのは、①高揚感(ワクワクする気持ち)、②主体感(自らやってみようという気持ち)、③連帯感(みんなでがんばろうという気持ち)であり、「あたたか感情」というのは、①安心感(ここにいても大丈夫だよという気持ち)、②支え合い感(お互いに助け合っているという気持ち)、③認め合い感(自分は必要とされているという気持ち)であって、「ギスギス感情」や「冷え冷え感情」を「イキイキ感情」「あたたか感情」に変えていくことが大切だが、それが行き過ぎて「燃え過ぎ感」や「ぬるま湯感」に陥らないようにしなければならないと。

 組織力は個々人の力と個人間のつながりで決まるとの考えに則り、まず、個々人が良い方向に変わっていくことから始めようという、その趣旨はわからないでもないですが、同じことが前著の範囲内で繰り返し何度も書かれているようにも思え、そのトーンも、何となく自己啓発セミナーそのそれに近い感じがしました。

 1人の人間が組織全体をも変えてしまうケースはままあるわけで、書かれていること自体を否定はしませんが、あまりに"人間性善説"的なもの(或いは、マクレガーの「Y理論」的なもの)に依拠し過ぎている感じ。

 前著『不機嫌な職場』とどちらか1冊と言われれば、前著『不機嫌な職場』の方が圧倒的にお奨めで、人事担当者、教育研修担当者や組織リーダー、チームリーダーが次に読む本としては、経営コンサルタントの高間邦男氏の『組織を変える「仕掛け」―正解なき時代のリーダーシップとは』('08年/光文社新書)あたりになるのではないでしょうか。個人的には、そちらの方が、より地に足のついた組織変革の実践論となっているように思えました。

「●労働経済・労働問題」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒  【1691】 濱口 桂一郎 『新しい労働社会
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

雇用不安の打開策を冷静な視座から提言。入門書としても読みやすい。

日本の雇用 ほんとうは何が問題なのか.jpg 『日本の雇用--ほんとうは何が問題なのか (講談社現代新書)』['09年]

 執筆時点('09年上期)での雇用問題を分析し、その背後にある雇用不安を意識しながら打開策を考察した本ですが、著者はリクルートワークス研究所の所長であり、さすがに現状分析はシャープです。

日本の雇用 図.png 20年前に比べ今は、正社員が減って非正規社員は増えているが常用雇用率は減っていない、つまり常用雇用に占める「常用・非正規社員」の割合が増えているのであり(正規・非正規2元論から「正社員」「常用・非正規社員」「臨時・非正規社員」の3層化への雇用構造の変化)、また、企業がそれら「常用・非正規社員」を解雇することは、生産性維持のうえでも法規制のうえでも難しくなってきているとしています。

資料出所: 雇用のあり方に関する研究会(座長=佐藤博樹)(2009)『正規・非正規2元論を超えて:雇用問題の残された課題』リクルートワークス研究所

 続いて、「雇用創出」「ワークシェアリング」といった雇用対策が日本の労働市場においてどこまで可能なのかその限界を指摘し、「新卒氷河期」という言葉の"ウソを暴く"一方(この部分については、個人的にはやや異論はある―やっぱり氷河期じゃないの?)、今の雇用不安の中、企業にできることは何か、マネジャーには何が求められるか、働く個人は自らのキャリアとどう向き合うべきかをそれぞれ説いています(著者はここ数年、キャリア形成に関する本を何冊か著している)。

 また、国の雇用対策の三本柱(雇用保険、職業訓練、雇用調整助成金)について、その内容と限界を解説し、著者なりの提案をしていますが、この部分は純粋にそれらについての入門書としても読めます。

 そして最後に、格差問題の根底にある「正社員」の処遇問題を指摘し、ミドル層とシニア層の働き方や処遇の見直しを提案する一方、派遣社員については、登録型から常用型へ切り替えることで、派遣を一つの働き方として位置づける方向性を示唆しています。

 著者には、マネジメントの立場から雇用問題を扱った編著『正社員時代の終焉』('06年/日経BP社)がありますが、現状分析に紙数を割きすぎ、非正社員のキャリア志向の類型やそのマネジメントの要点にも触れていたものの、非正社員の活用に悩む経営者の期待にこたえきれておらず、全体として物足りなさを感じました。

 本書も分析が鋭いわりには提案の部分はやや漠としている感が否めなくありませんが、前著に比べれば"提言度"が高く、また、その対象も企業ばかりでなく、国や社会、働く個々の人々に向けてのものとなっています。

 主張は(新卒採用支援、人材派遣等がリクルートの業務ドメインであることを念頭に置いても)ほぼ筋の通ったものと思われ、声高になりがちな、あるいは難しくなりがちな雇用問題を扱った本の中では、冷静な視点を保持し、かつ入門書としても読みやすいものに仕上がっています。そのことが、本書の一番の特長かもしれません。

「●人事マネジメント全般」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1575】 石田 淳/ダネール・ラトル 『たった1つの行動が、職場ストレスをなくしモチベーションを高める
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

"フリーライダーのタイプ分析までは良かったが、対策は抽象的で、最後は自己啓発書?

フリーライダー―あなたの隣のただのり社員.png 『フリーライダー あなたの隣のただのり社員 (講談社現代新書)』['10年]

フリーライダー―あなたの隣のただのり社員4.jpg 最近よく耳にする「フリーライダー」という言葉ですが、会社で、毎日何をしているかわからないようなことをやっても給料は一人前にもらう人、自分からは動かないで周囲の人をこき使って成果を手にしようとする人、部下が何か新しいことを始めようとしても仕事が増えるからと言ってそれを阻止し、それでいて自分の地位は安泰の人―などを、そう呼ぶようです。

 本書ではそうしたフリーライダーを、もうこれ以上出世できないからとだらだらゲームをやっているような「アガリ型」、人のアイディアを自分のこととしてうまく報告、部下には強いが人事権を持つ上の人には忠犬のように忠誠を見せる「成果・アイディア泥棒型」、自分の仕事を客観評価ができず(都合よく考え)自分を批判する人を攻撃する「クラッシャー型」、最低限の仕事だけこなし、現状維持、改革しようとする人を潰す「暗黒フォース型」の4タイプに分類しています。

 このタイプ分類までは興味深く読めたのですが、それぞれのタイプに対する組織としての問題解決策(対応の仕方)が、例えば、「アガリ型」に対しては、ビジョン、方針を明確化する(何を目指して努力をするのか、努力の先に何があるのかをわかりやすく伝える)とか、上から順番に厳しい成果プレッシャーを与えるとか(組織がポジションにふさわしい能力の人を登用し能力にふさわしい報酬を支払い、報酬に応じたプレッシャーを与えて責任を持たせる)...云々と、制度やシステムへの落とし込みにまでは至らず、抽象レベルで終わっているような印象を受けました。

 後半は、自分がフリーライダーにならないようにするにはどうしたらよいかということが書かれていて、要するに「人の振り見て我が振り直せ」的な自己啓発書だったのか―と。

 著者らは、同じ講談社現代新書の『不機嫌な職場―なぜ社員同士で協力できないのか』('08年)の執筆メンバー4人の内の2人。残り2人の内の1人は『職場は感情で変わる』('09年)を著していますが、"スピンアウト"していくにつれ、自己啓発書みたいになっていって、最初の本が一番まともでした。

 講談社現代新書は、かつてはエスタブリッシュメントなイメージがあったけれども、最近は玉石混交気味で、この本なども、新書で出す意味がよく分からず、時たまと言うか、結構安易な本づくりをしているのではと思わざるを得ません。

「●子ども社会・いじめ問題」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1787】 森田 洋司 『いじめとは何か
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

「群生秩序」という視点から、社会学的に「いじめの構造」を鋭く分析。

いじめの構造.gifいじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)』 ['09年]内藤 朝雄.png 内藤朝雄 氏

 いじめが何故起こるのかということを社会学的に分析した本で、著者には『いじめの社会理論』('07年/柏書房)という本書で展開されている分析のベースとなっている本がありますが、個人的はその本は読了していないものの、本書を読めば、大体、著者の考え方は解るのでは。

 自分が以前に読んだ本田由紀・後藤和智両氏との共著『「ニート」って言うな!』('06年/光文社新書)の中で著者は、「最近の若者は働く意欲を欠いている」「コミュニケーション能力に問題があり他者との関わりを苦手とする」「凶悪犯罪に走りやすい」といった根拠の希薄な「青少年ネガティブ・キャンペーン」と相俟って「ニート」が大衆の憎悪と不安の標的とされていることを指摘していて、なかなか明快な分析であると思ったのですが、本書においても、既存の「いじめ問題」に対する教育学者や評論家の論調の非論理・不整合を指摘しつつ、この問題に対し、より社会学者らしい突っ込んだ分析を展開しています。

 著者によれば、いじめの場においては、市民社会の秩序の観点から見れば秩序が解体していることになるが、(著者の命名による)「群生秩序」というもの、つまり群れの勢い(ノリ)による秩序という観点から見れば、むしろ「秩序の過重」が見られるとのこと。また、寄生虫が宿主の行動様式を狂わせることを喩えに、学校という小社会の中では、社会が寄生虫化することが起こりうるとも。

 つまり、学校の集団生活によって「生徒にされた人たち」の間では、付和雷同的に出来上がったコミュニケーションの連鎖の形態が、場の情報(「友だち」の群れの情報)となって、それが個の中に入ると、個の内的モード(行動様式)をいじめモードに切り替えてしまい、内的モードの切り替わった人々のコミュニケーションの連鎖が更に次の時点の生徒達の内的モードを切り替えるということが繰り返され、心理と社会が誘導し合うグループが生じるのだといいます。

 「生徒にされた人たち」は、存在していること自体が落ちつかないという不全感(むかつき)を抱いていて、それが群れを介して誤作動することで全能感に切り替わり、全能感を味わうための暴力の筋書きに沿ってなされるのがいじめ行為であり、逆にいじめの対象が逆らったりしてこの全能感が否定されると、更なる暴発が発生することになると。

 全能感の類型などを細かく定義しており、個人的には必ずしも全て100%納得できた説明ではなかったのですが、実際に起きた様々な(どうしたこうしたことが起きてしまうのだろうという陰惨な)いじめ事件をケーススタディとして、それらに対して一定の解を与える手法で分析を進めているため、それなりの説得力を感じました。

 とりわけ、「投影同一化」という心理的作用によって、いじめがいじめる側の過去の体験の「癒し」となっているという分析は腑に落ち(この論理で児童虐待における「虐待の連鎖」のメカニズムも説明できるのではないか)、また、いじめられる側のいじめる側に呼応してしまうメカニズムについても解説されています(往々にして、加害者だけでなく、被害者や教師も、ある種のメンバーシップに取り込まれていることになる)。

 抽象的な社会・心理学的理論だけ展開して終わるのではなく、打開策も示されていて、短期的政策としては、「学校の法化」(学校内治外法権を廃し、学校内の事も市民社会同様に法に委ねること)と「学級制度の廃止」(とりわけコミュニケーション操作系のいじめに対して)を掲げています。

 本書にあるように、教師までもがこうしたメンバーシップに取り込まれているような状況ならば、学校は聖域だというのは却って危険な考え方であるということになり、また、学級という濃密な人間関係の場がいじめの原因になっているのならば、そうしたものを解体するなり結びつきを弱める方向で検討してみるのも、問題解決へ向けての足掛かりになるのではないかと思われました(どこかの学校で実験的にやらないかなあ)。

「●教育」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●国語」【848】 齋藤 孝 『ちびまる子ちゃんの音読暗誦教室
「●光文社新書」の インデックッスへ 「●講談社現代新書」の インデックッスへ

"内部告発"っぽいが、『予習という病』のようなアザトイ本の多い中では、まともなスタンス。

瀬川 松子 『中学受験の失敗学』.JPG中学受験の失敗学.jpg    瀬川 松子 『亡国の中学受験』.jpg     予習という病.gif
中学受験の失敗学 (光文社新書)』['08年]/『亡国の中学受験 (光文社新書)』['09年]/高木幹夫+日能研『予習という病 (講談社現代新書)』['09年]

 本書『中学受験の失敗学-志望校全敗には理由(わけ)がある』('08年/光文社新書)では、中学受験に取りつかれ、暴走の末に疲れ果ててしまう親たちを「ツカレ親」と名づけ、親たちをそうした方向へ駆り立てている、中学受験の単行本や受験雑誌、更に、受験塾の指導のあり方を批判しています。

 大手塾で受験指導し、その後、家庭教師派遣会社に転職して受験生を抱える家庭に派遣され、多くの「ツカレ親」を見てきた著者の経験に基づく話はリアリティがあり、モンスターペアレントみたなのが、学校に対してだけでなく、塾や家庭教師派遣会社に対してもいるのだなあと。

 塾や家庭教師の志望校設定には営利的判断が含まれていることがあり、くれぐれも、そうした受験産業の"カモ"にされて、無謀な学習計画や無理な目標設定で我が子をダメにしないようにという著者のスタンスは、至極まっとうに思えました。(評価★★★☆)

 この本が最後に「ダメな勉強法」を示していて、著者がまだ受験指導の現場にいた余韻を残しているのに比べると、続編の『亡国の中学受験-公立不信ビジネスの実態』('09年/光文社新書)は、やや評論家的なスタンスになっているものの、基本的には同じ路線という感じで、タイトルの大仰さが洒落だったというのは洒落にならない?(タイトル通り、きちんと「亡国論」を書いて欲しかった)。

 前著では、受験塾と私立中学の裏の関係なども暴いていましたが(既に組織に属していないから"内部告発"とも言い切れないのだが)、本書では、公立中学への不信感を煽り、私立中高一貫校への幻想を抱かせる、私立中学と受験塾の"戦略"に更にフォーカスしていて、中学受験のシーズンになるとNHKのニュースなどで、報道と併せてトレンド分析のコメントをしている森上研究所とかいうのも、日能研の応援団だったのかと(知らなかった)。(評価★★★)

 その点、高木幹夫+日能研『予習という病』('09年/講談社現代新書)は、日能研の社長が書いているわけだから、分かり易いと言えば分かり易い(皮肉を込めて)。
 予習をさせないというのは、日能研もSAPIXも同じですが、それが本当にいいかどうかは、授業の程度と生徒の学力の相関で決まるのではないでしょうか、普通に考えて。
 それを、「福沢諭吉は予習したか?」みたいな話にかこつけているのがアザトイ(「ツカレ親」である妻を持つ夫向け?)。

 実際、塾にお任せしている分、教材の量やテストの数、、夏期講習や冬期講習などの補講は多くなり、それだけの費用がかかるわけで、週末ごとのテストに追われ、ついていけなくなると、結局はどうしても予習(親のアシスト)が必要になり、さもなくば、わからないままに授業を聞いて試験を受けるだけの繰り返しになってしまう...。

 日本社会の中で、未来学力でものを考えられる環境は「私学の中高一貫校」しかないと言い切っていて、そりゃあ、自社の売上げ獲得のためにはそう言うでしょう。
 大手進学塾の多くは似たようなことをやっているわけだけど、こんな露骨な宣伝本を新書で出してしまっていいのかなあ。(評価★)

「●聖書」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1312】 三浦 綾子 『新約聖書入門
「●講談社現代新書」の インデックッスへ 「●講談社学術文庫」の インデックッスへ
「●た‐な行の外国映画の監督」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ

入門書の体裁をとりながらも、北森神学の特徴が随所に。聖書の物語の映像化は難しい?

聖書の読み方 講談社現代新書.gif 『聖書の読み方 (講談社現代新書 266)』 ['71年] 聖書の読み方 講談社学術文庫.jpg 『聖書の読み方 (講談社学術文庫)』 ['06年]

kitamori.jpg聖書の読み方 .jpg 北森嘉蔵(きたもり・かぞう、1916‐1998/享年82)は、文芸評論家であり牧師でもある佐古純一郎・二松学舎大学名誉教授の言葉を借りれば、キリスト教が日本の社会で市民権をもつために決定的な貫献をなした人物とのことで、若かりし時から天才ぶりを発揮し、30歳そこそこで発表した『神の痛みの神学』('46年発表)は教会内外に波紋を投げかけ、この人の神学は「北森神学」とも呼ばれていますが、本書は、50代半ば頃に書かれた一般向けの聖書入門書、但し、「北森神学」の入門書になっている面もあるようです。

 著者が本書で提唱している初学者向けの聖書の読み方は、「新幹線から各駅停車へ」というもので、初めて聖書を読むとわからないところばかりで、感動して立ち止まるような箇所はなかなか無いだろうけれども、そういう箇所に出会うまではノン・ストップでひたすら読んでいって構わないと。そのうち、そうした感動出来る箇所に出会うだろうから、そうした時にだけじっくり読めばよく、「あらゆる箇所で感動して停止せねばならぬ」ことはない、但し、これを繰り返すと、次第に感動出来る箇所が増え「各駅停車」の読み方になってくるといことで、そのベースにある考え方は、感動は自発的なものであって、義務ではないということです。

奇跡.jpg 日本人が聖書を読んでよく引っ掛かるのが「奇跡」に関することですが、著者は、「奇跡」と「異象(異常な現象)」とは別であり、現象として信仰の有無に関係なく、誰にも認識できるものは(現象化されたもの)は「奇跡」ではなく「異常な現象」であり、「奇跡」とは認識の対象ではなく、現象の背後にあるものに対する信仰の対象であるとしていて、こうした見方を通して、処女降臨やキリストの復活をどう読むかが、分かり易く解説されています。

 この箇所を読んで思い出すのが、カール・テオドア・ドライヤー「奇跡」('54年/デンマーク)という映画で(原題"Ordet"の意味は「言葉」)、1930年頃のデンマークという比較的現代劇に近い状況設定において、それまでの家族間の愛憎を写実的に描いた流れの中で、実際に復活の奇跡が起きるというラストは、大いに感動させられる一方で、どこか別の部分で、奇跡を真面目に映像化するのは難しいなあと思ったりもしました。

奇跡 岩波ホール.jpgドライヤー奇跡.jpg '08年にBS2でも放映されましたが、同じような印象を再度受け、映画そのものは静謐なリアリズムを湛えた、恐ろしいほどの美しさのモノクロ映画で、まさに自分の好みでしたが、最後に奇跡を映像で目の当たりに見せられると、すごい冒険をやってのけたという感じはするものの、所詮、映画ではないかという思いがどこかでちらつく面もありました(これを北森嘉蔵流に言えば、事象を見ているからだということになるのか)。

 「奇跡」●原題:ORDET●制作年:1955年●制作国:デンマーク●監督・脚本:カール・テオドア・ドライヤー●製作:エーリク・ニールセン●撮影:ヘニング・ベンツセン●音楽:ポール・シーアベック●原作:カイ・ムンク ●時間:126分●出演:プレベン・レアドーフ・リュエ/ヘンリック・マルベア/ビアギッテ・フェザースピール/カイ・クリスチアンセン/エーミール・ハス・クリステンセン●日本公開:1979/02●配給:フランス映画社●最初に観た場所:岩波ホール (79-02-27) (評価:★★★★)

 本書の本編(2章「聖書そのものへ」)では、旧約・新約の主だった"立ち止まり所"を13箇所ほど紹介していますが、その選び方に著者の特徴がよく表れていてます。
 
 例えば、創世記17章17-19節で、アブラハムが神との契約により100歳近くなって妻サラとの間に子イサクを授かる前、サラは奴隷女のハガルを夫に遣わしてイシマエルを生ませるも、ハガルがサラを敬わなくなったためにハガル親子を放逐したという話は、まるで正妻と側室の三角関係のような話ですが、アブラハムもサラも神の恩寵を最初は信じていなかった(神の言葉を虚無と感じた)ことを大きなポイントとしながらも、ハガル親子に対する見方が、旧約と新約(パウロ)で異なる点に着眼しているのが興味深く(旧約では恩寵を得ているが、新約では悪役的)、新約の律法的性格を指摘するとともに、その必然性を解説しています。

 少なくとも旧約においてハガル親子はアラビア十二族の先祖となる恩寵に浴しているわけですが、続く土師記16章のサムソンとデリラの物語の解説においても、サムソンを「無明」の者の象徴とし、そうしたスキャンダラスで、本来は聖書に登場する資格のないような者まで登場させ、且つ、その者に最終的には救いを与えたとする点に、聖書という物語の特徴を見出すと共に、ここでも旧約と新約の関係性において、サムソンをイエス・キリストの"透かし模様"と見ているのが興味深いです。

Samson-and-Delilah.jpgサムソンとデリラ.jpg この物語は、セシル・B・デミル監督により「サムソンとデリラ」('49年/米)という映画作品になっていて、ジョン・フォード監督の「荒野の決闘」('46年/米)でドク・ホリデイを演じたヴィクター・マチュア(1913-1999)が主演しました。往々にして怪力男は純粋というか単純というか、デリサムソンとデリラ-s.jpgラのような悪女にコロっと騙されるというパターナルな話であり(アブラハム、サラ、ハガルの三角関係同様に?)、全体にややダルい感じがしなくも無いけれど、ヴィクター・マチュアの"コナン時代"のアーノルド・シュワルツネッガーのようなマッチョぶりは様になっていました。最後の方で、髪を切られて怪力を失ったサムソンが囚われの身となり神に嘆願するシーンはストレートに胸をうち、ラストの神から力を得て大寺院を崩壊させるスペクタルシーンは圧巻、それまで結構だらだら観ていたのに、最後ばかりは思わず力が入り、また、泣けました(カタルシスだけで終わってはマズイいんだろうけれど・・・。と言って、勝手にストーリーを変えたりすることも出来ないだろうし、聖書の物語の映像化は案外と難しい?)

安藤美姫.jpg これ、オペラにもなっていて、カミーユ・サン=サーンスが作曲したテーマ曲はフィギアスケートの安藤美姫選手が以前SP(ショート・プログラム)で使っていましたが、その時の衣装もこの物語をイメージしたものなのかなあ。

「サムソンサムソン&デリラ      30dvd.jpgサムソとデリラ 20dvd.jpgとデリラ」●原題:SAMSON AND DELILAH●制作年:1949年●制作国:アメリカ●監督・製作:セシル・B・デミル●脚本:ジェシー・L・ラスキー・ジュニア/フレドリック・M・フランク●撮影:ジョージ・バーンズ●音楽:ヴィクター・ヤング●原作:ハロルド・ラム●時間:128分●出演:ヴィクター・マチュア/ヘディ・ラマー/ジョージ・サンダース/アンジェラ・ランズベリー/ヘンリー・ウィルコクスン●日本公開:1952/02●配給:パラマウント日本支社(評価:★★★☆) 

「●医療健康・闘病記」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1770】 上田 真理子 『脳梗塞からの"再生"
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

短い余命宣告で奈落に落ちた人が、立ち直るにはどうすればよいかを真摯に考察。

がんを生きる 佐々木常雄.gifがんを生きる (講談社現代新書)』 ['09年]

 がんの拠点病院(がん・感染センター都立駒込病院)の院長が書いた本ですが、制がん治療について書かれたものではなく、「もう治療法がない」と言われ、短い余命を宣告されて奈落に落とされた人が、立ち直るようにするにはどうしたらよいかということを真摯に考察したものです。

 本書によれば、'85年頃までは、医師は患者にがん告知をしなかった時代で、それ以降も'00年頃までは、告知しても予後は告げない時代だったとのこと、それが、今世紀に入り、「真実を医師が話し、患者が知る」時代となり、自らの余命が3ヵ月しかない、或いは1ヵ月しかないということを患者自身が知るようになった―そうした状況において、死の淵にある患者の側に立った緩和ケアはいかにあるべきかというのは、極めて難しいテーマだと思いました。

 著者自らが経験した数多くのがん患者の"看取り"から、19のエピソードを紹介していますが、中には担当医から「余命1週間」(エピソード5)と宣告された人もいて、著者自身、個々の患者への対応の在り方は本当にそれで良かったのだろうかと煩悶している様が窺えます。

 端的に言えば、如何にして突如目前に迫った死の恐怖を乗り越えるかという問題なのですが、著者の扱った終末期の患者のエピソードに勝手に解釈を加え、患者が死を受容し精神の高み達したかのように「美談仕立て」にした輩に、著者は憤りを表す一方で、多くの書物や先人の言葉を引いて、そこから緩和ケアの糸口になるものを見出そうとしています。

 親鸞などの仏教者や哲学者、或いは、比較的最近の、宗教系大学の学長や高名な精神科医の言葉なども紹介していますが、それらを相対比較しながらも、あまりに宗教色の強いものや、俗念を離脱して人格の高みに達しているかのようなものには、自分自身がそうはなれないとして、素直に懐疑の念を示しています。

 結局、著者自身、本書で絶対的な"解決策"というものを明確に打ち出しているわけではなく、著者の挙げたエピソードの中の患者も、殆どが失意や無念さの内に亡くなっているというのが現実かと思いますが、それでも、エピソードの紹介が進むつれて、その中に幾つかに、患者が心安らかになる手掛かりとなるようなものもあったように思います。
 
 例えば、毎年恒例となっている病棟の桜の花見会に、末期の患者をその希望に沿ってストレッチャーに乗せて連れていった時、その患者が見せた喜びの表情(エピソード2)、独身男性患者に、亡くなっていく人の心が何らかのかたちで残される人に伝わることを話す看護師の努力(エピソード13)、日々の新聞のコラム記事の切り抜きに没頭する、その切抜きを後で見直す機会は持たない女性患者(エピソード15)、お世話になった人への挨拶など、死に向かう"けじめ"の手続きをこなす余命3ヵ月の元大学教授(エピソード16)、病を得たのをきっかけに亡くなった友人のことを思い出したことで安寧な心を得たように思われる歌人(エピソード16)、余命1ヵ月と聞かされショックを受けた後、今度は急に仕事への意欲が湧いてきた"五嶋さん"という男性(エピソード19)等々(この"五嶋さん"は、余命1週間と言われ、1週間後に著者に挨拶に来て、その2日後に亡くなったエピソード5の人と同人物)。

 最後の"五嶋さん"のエピソードは、同じく余命1ヵ月の病床で、何も出来ず生きていても意味がないと思っていたら、夫から「君が生きていればそれでいい」と言われ、夫が後で見てくれるようにと"家事ノート"を作り始めた"秋葉さん"の話(エピソード1)にも繋がっているように思えました。

 そうしたことを通して末期の患者らの死の恐怖が緩和され、安寧を得たかどうかについても、著者は慎重な見方はしているものの、ただ不可知論で本書を終わらせるのではなく、奈落から這い上がるヒントとなると思われる項目を、「人は誰でも、心の奥に安心できる心を持っているのだ」「生きていて、まだ役に立つことがあると思える人は、奈落から早く這い上がる可能性が高い」など8つ挙げ、また、終章を「短い命の宣告で心が辛い状況にある方へ―奈落から這い上がる具体的方法」とし、その方法を示しています(①気持ちの整理、とりあえず書いてみる、②泣ける、話せる相手を見つける)。

 人間は死が近づいても心の中に安寧でいられる要素を持っているという著者の信念(生物学的仮説)に共感する一方、宗教を信じていない状況で、「あなたの余命は3ヵ月です」などと言われるようなことは医療の歴史では嘗て無かったわけで、心理面での緩和ケアの在り方が、今後のターミナルケアの大きな課題になるように思いました。

「●医療健康・闘病記」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【962】 大井 玄 『「痴呆老人」は何を見ているか
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

ルポライターの書。病室で患者を診ている医師の視点とはまた異なった訴求力。

まだ、タバコですか?.jpg 『まだ、タバコですか? (講談社現代新書)』 ['07年] 禁煙バトルロワイヤル.jpg 『禁煙バトルロワイヤル (集英社新書 463I)』 ['09年]

 太田光と奥仲哲弥医師の『禁煙バトルロワイヤル』('08年/集英社新書)の後に読みましたが、『禁煙バトルロワイヤル』がどこまで本気で喫煙者にタバコを止めさせようとしているのか、よくわからない部分もあったのに対し、本書はストレートにタバコの害悪を説いた本(但し、あくまでも"害悪"について書かれていて、"止め方"を教示しているのではない)。

 著者は医師ではなく映画助監督を経てルポライターになった人ですが、そのためか、タバコの健康上の害悪だけでなく、タバコの歴史や社会的背景、米国など海外の事情、タバコ製造会社とそれをとりまく内外の事情から、ポイ捨てタバコの環境への影響、新幹線の車内販売員の受動喫煙といったことまで、広範にわたって書かれています。

 タバコが止められない原因を、身体的依存と心理的依存にわけているのは興味深かったですが、著者は心理的依存がかなり大きいと見ているようです(その論法でいくと、本書のような"知識"を提供するのが主体の本は、喫煙者の禁煙への直接的動機づけにはなりにくい?)。

 タバコの身体への影響などの医学的な問題は、科学的なデータをもとにかなり突っ込んで書かれていて、相当の資料・データ収集の跡が窺えます。

 タバコを吸うと頭が冴えると俗に言うけれど、ある予備校の浪人生の大学合格率が、喫煙者20%台、浪人中の禁煙成功者30%台、非喫煙者40%台だったという、その調査結果よりも、よくそんなデータがあったなあと感心してしまいました(この「冴える」という感覚と絶対的な「能力水準」との関係のカラクリも示している)。

 病気との関係も、クモ膜下出血、アルツハイマー病(「喫煙はアルツハイマー病を予防する」というのは誤解に基づく俗説であると)、脳の老化から、肺がんなどのがんや気管支の疾患まで、特定の病気の専門医が書いたものよりも、むしろ広範に取り上げています。

 本書には、IARCの調査(2004)で、喫煙者は非喫煙者に比べ、肺がんには15〜30倍、喉頭がんには10倍罹り易いとありますが、『禁煙バトルロワイヤル』に出ていた別の機関の調査では、肺がんには4.5倍、喉頭がんには32.5倍になっていて、喉頭がんの危険性の方が強調されていました。

 但し、本書では、実際に喉頭がんに罹った人を取材していて、こちらの方が訴求力あるように思われ、更には『禁煙バトルロワイヤル』で「死ぬに死ねない」苦しい病気とされていたCOPD(慢性気管支炎や肺気腫などの慢性閉塞性肺疾患の総称)についても、実際にそうした病気を抱えながら、生きて日々の生活を送っている人を複数取材しています。

 喫煙の危険性を世に訴えるために取材に協力した、そうした人々の生活の実際に踏み込んで取材しているため、病室で患者を診ている医師の視点とはまた異なった訴求力を持ったものになっているように思いました。

 米国で、タバコの健康に対する悪影響について、タバコ会社内で研究結果の隠蔽が行われたことが、司法上の問題になった事例が取り上げられていますが、著者は、日本専売公社の元研究員への取材から、日本において政府官庁から、そうした研究に対して同様の圧力があったことを示唆しています。

 著者も指摘するように、JTの筆頭株主は財務省(全株式の50%を保有)であり、こうした構図が変わらない限りは、著者流に言えば、国民を"騙し続ける"体質は変わらないのではないかと。

「●宇宙学」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1250】 井田 茂/中本 泰史 『ここまでわかった新・太陽系
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

分かり易い解説で甦ったハッブル宇宙望遠鏡の宇宙遺産を伝える。新書スペースをフルに使った写真が美しい。

カラー版ハッブル望遠鏡 宇宙の謎に挑む.gif
         カラー版 ハッブル望遠鏡の宇宙遺産.jpg  『カラー版 ハッブル望遠鏡の宇宙遺産 (岩波新書)』['04年]
カラー版ハッブル望遠鏡 宇宙の謎に挑む (講談社現代新書)』['09年]

 サイエンスライターの野本氏は、多くの著書でハッブル宇宙望遠鏡の成果を我々に紹介していますが、新たに著者が出されると、写真の美しさをあって、ついついまた買ってしまいます。但し、そこには、ハッブル望遠鏡から送られてきた、前著には無かった新しい写真が掲載されているので、宇宙学についての分かり易い解説を、そうした最新の写真を楽しみながら復習できるというメリットがあり、買って後悔することはまずありません。

オリオン座。左上の明るい星がベテルギウス.jpgベテルギウスの表面.jpg 本書は、講談社現代新書としては珍しい(?)カラー版で、同氏の『カラー版 ハッブル望遠鏡の宇宙遺産』('04年/岩波新書)と内容的にかぶるのではないかとも思ったのですが、読んでみて、或いは写真を見て、今回も期待を裏切るものではありませんでした。 

 「星の誕生と死」などについての著者の解説は、いつもながらに分かり易いものですが、そう言えば、'09年1月6日にNASAが、オリオン座のベテルギウス(木星の軌道よりも巨大な赤色超巨星)に超新星爆発へ向かうと見られる兆候が観測されたと発表したばかりです。

ベテルギウスの表面[NASA・パリ天文台提供]と位置(オリオン座の左上の星)[沼沢茂美氏撮影]

 さすがにそのことまでは載っていないものの、入門書としての解説と併せて、岩波新書の前著から5年間の間の新たな研究成果がふんだんに織り込まれていて、著者が毎回丹念に書き下ろしているということが窺えます。

エリダヌス座エプシロン星の惑星(イラスト).jpg 老朽化しつつあるハッブル宇宙望遠鏡について、NASAが、国際宇宙ステーションの軌道外にハッブル宇宙望遠鏡があることから、予算難に加えて宇宙飛行士の安全を確保出来ないことを理由に修理見送りの決定を下したため、著者が前著で、"人類遺産"の対語として命名された"宇宙遺産"だが、ハッブル宇宙望遠鏡そのものの"遺産"ということになってしまうのかと嘆いていたのを覚えています。

 それが、宇宙に関心を寄せる多くの一般ピープルの要望で、NASAの決定が覆り、'09年5月に新たなサービスミッションによる補修作業が行われ、以前より性能はアップし、また、後継の宇宙望遠鏡である"ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡(JWST)"の打ち上げ計画('13年予定)も着々と進んでいるいうのは、たいへん喜ばしいし、楽しみなことだと思います。   エリダヌス座エプシロン星の惑星(イラスト)

 本書は特に、新書版のスペースをフルに使った写真が美しく、個人的には、銀河同士の衝突の写真(銀河団同士の衝突を捉えたものもある)に特に関心がそそられ、今世紀に入り発見数が著しく伸びている系外惑星の写真や想像イメージ(イラスト)にも、ロマンを掻き立てられました。

衝突する銀河 (本書より)
衝突する銀河.jpg

「●人類学」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1831】 クリス・ストリンガー 『ビジュアル版人類進化大全
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

たいへん分かり易い入門書。興味を惹く図説や記述が多かった。

人類進化の700万年.jpg ['05年] 人類の進化史 埴原和郎.jpg ['04年]
人類進化の700万年―書き換えられる「ヒトの起源」 (講談社現代新書)』『人類の進化史―20世紀の総括 (講談社学術文庫)』 
人類進化の系統樹.gif
 埴原和郎著『人類の進化史-20世紀の総括 』('04年/講談社学術文庫)のすぐ次に読んだということもありますが、たいへん分かり易い入門書でした。
 個人的には、学術文庫の復習を本書でするような形になりましたが、こちらを先に読んで、それから学術文庫の方を読むという読み方でもいいかも。

 '05年の刊行であるるため、タイトルからみてとれるように、'02年に発見された700〜600万年前の人類化石"サヘラントロプス・チャデンシス"の発見は織り込み済みで、それを起点に、「猿人→原人→旧人→新人」という進化の過程に沿って解説しています。

 この「猿人・原人・旧人・新人」という区分は必ずしも絶対的な時系列にはなっておらず(同じ時代に複数の"人類"がいた)、また、ホモ・ハビリスのように「猿人」と「原人」の中間に位置する人類もいたりするため、欧米では現在はあまり使われなくなっているようですが、「猿人・原人・旧人・新人」といった枠を外して個々の"人類"名を全てカタカナで表記するだけだと分かりづらいため、敢えて、旧来の「猿人・原人・旧人・新人」という言葉を用い、例えばホモ・ハビリスはホモ・エレクトスと同じく「原人」としてグループ化するなどして、読者が概念把握し易いように配慮しています。

 「直立二足歩行」は「犬歯の縮小」とともに、人類誕生初期からの特徴であるとのことですが(脳の大型化や言語の使用などはずっと後のこと)、なぜ人類が直立二足歩行を始めたのかは大きな謎であるとのことです。
 この問題についての諸説が紹介されていますが、オスがメスに対し、より多くの食糧を運び易いようにするためそうなったという説が有力であるというのが興味深いです。
 但し、進化には目的があるのではなく突然変異から起きる、という法則に沿ってこれを正確に言うならば、「オスは、メスに食糧を運ぶために二足歩行に適した体に進化し、繁殖機会を増やした」のではなく、「二足歩行が出来るように進化した人類のオスは、メスに食糧を運ぶことで繁殖機会を増やした」となると。
アフリカ単一起源説による人類進化.jpg
 「新人」に関しては、ネアンデアルタール人(ホモ・ネアンデアルターレンシス)とクロマニヨン人(ホモ・サピエンス)の関係などを図説でもって分かり易く解説していますが、形態的な進化の過程を探るだけでなく、"おしゃれ"の始まりなどの「心の進化」の過程や、農耕、家畜の飼育、飲酒などの習慣がいつ頃から始まったのかを解説し、また我々にとって興味深い「日本人の起源」についても考察していますが、こと後者については、遺伝子情報から解析すると相当複雑で、単に「南から来た」とか「北から来た」といった二者択一的な解答を出すのは難しいようです(このテーマについては、篠田謙一『日本人になった祖先たち-DNAから解明するその多元的構造』('07年/NHKブックス)により詳しく解説されている)。

 化石の年代測定法(放射性同位元素による方法など)や、遺伝子情報学についても、概説とは言え、相当のページを割いているのも本書の特徴であり、また、魚類から両生類や爬虫類、鳥類にかけての進化の過程では色覚を持っていたのに、哺乳類はなぜ色盲になってしまい、またそれが人類になって復活したのはなぜかといった考察も興味深いものでした。

《読書MEMO》
●なぜアフリカだったのか(アフリカの類人猿(チンパンジー等)は人類に進化したのに、アジアの類人猿(オランウータン等)はなぜ進化しなかったのか)
⇒アフリカでは急激な乾燥化が起こり、木から下りる必要が生じたが、アジアの熱帯林は豊かで樹上生活を続けることができたため(60‐61p)
●人類がアフリカを出たのは180万年前(2002年にグルジアで化石が発見された。脳の大きさは600ccで初期原人に及ばない)。人類は誕生してから500万年間、アフリカで生きていた(92‐94p)
●東アジア(北京周辺)到達は166万年前(97‐98p)
●4万〜3万年前のヨーロッパには、ネアンデルタール人と現生人類(クロマニョン人)が共存していたらしい。但し、混血は無かった(126‐128p)
●恐竜全盛時代、多くの哺乳類は夜行性 ⇒ 色覚が退化(221‐222p)
●ミルクを飲むのは哺乳類の子どもだけ ⇒ 人類は遺伝子の突然変異で大人でもラクトース(乳糖)が分解できるようになった(今でもミルクが苦手な人がいる)(230p)

「●哲学一般・哲学者」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●中国思想」 【216】 福永 光司 『荘子
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

難解な著作の著者、孤高の哲学者というイメージとはまた違った、人間味ある人柄。

ウィトゲンシュタイン   .jpgウィトゲンシュタイン―天才哲学者の思い出.jpg 『ウィトゲンシュタイン―天才哲学者の思い出 (講談社現代新書)』['74年]『ウィトゲンシュタイン―天才哲学者の思い出 (平凡社ライブラリー)』['98年]
Ludwig Wittgenstein( 1889-1951).jpg 冷徹な分析的知能と炎のような情熱を併せ持ち、20世紀最大の哲学的天才と言われるルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein、1889‐1951)の評伝で、著者は、かつて彼の学生であり、後に公私にわたって彼と長く親交のあった米国の哲学者であり、評伝と言うより、サブタイトルにある「思い出」と言った方が確かにぴったりくる内容。

中央公論社・世界の名著第58巻.jpg ウィトゲンシュタインの著作でまともに完結しているのは『論理哲学論考』しかないそうですが(小学生向けの教科書を除いて―哲学研究に挫折して田舎で小学校の教師をしていた時期がある)、『論考』という本は、部分部分の考察は独創的でありながらも、全体を通してはかなり難解な論文であり、これ読んで分かる人がどれぐらいいるのかと思ったりもしました(評論家の立花隆氏は若い頃最も影響を受けた本として『論考』を挙げている)。

 その『論考』を未消化のまま読み終えた後で本書を読んで、むしろウィトゲンシュタインの"人柄"に興味を惹かれました。

世界の名著〈58〉ラッセル,ウィトゲンシュタイン,ホワイトヘッド (1971年)

 難しい顔した大学の先生風かと思いきや、(確かに難しそうな顔をしているのだが)アカデミズムの虚飾的な雰囲気を嫌い、英国や北欧の田舎で隠遁生活みたいな暮らしぶりをしていた時期もあり、統合失調質(ジゾイド)人格障害の典型例としてよくその名が挙がりますが、確かに「孤高の人」という感じはするものの、本書の著者をはじめ近しい人に対しては、その家族をも含め、思いやりを以って(どちらかと言うと他人にお世話されることの方が多かったので、"感謝の念を以って"と言った方が妥当かも)接していたことが分かります。

IMG_2858.JPG ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジでバートランド・ラッセルの学生であったこともあり、ラッセルが教えていて、生徒の中に自分より優秀な人間がいることが分かり教授を続けるのを辞めた、その「自分より優秀な学生」というのがウィトゲンシュタインだったというのを、別のところで読んだことがありますが、本書によれば、哲学だけでなく、美学・建築・音楽など様々な分野での才能があり、また、推理小説と映画が好きだったようです(映画を身る時、いつも最前列に座り、「こうして見ていると、シャワーを浴びているような感じがする」と著者に囁いたというエピソードには、個人的に共感した)。

 ウィトゲンシュタインが『論考』でテーゼとしているのは、「成立している事態の全体が世界である」ということであり、彼は、「世界」については、その世界を構成しているモノ(コト)以外のモノ(コト)で世界を語れるわけはない、言い換えれば、世界を構成するモノやコトを指し示す言葉によってしか語れないと言っているのですが、これは『論考』における第一段階の更に前段階ぐらいに過ぎず、更にどんどん深い《論理的‐哲学的》考察へと入っていき、しかも、後に、自ら『論考』自体を自己否定していて、過去の自分の業績に固執しない、と言うより、殆ど過去を振り返らない性質であったと言えます。
 常に思索の壁を突き破ろうと邁進するその姿勢は、俗っぽい表現の印象評価になってしまいますが、生涯を通じて「脳の壁」に挑戦し続けた人という感じがします。

板坂元.jpg 訳者は、ハーバード大学で日本文学・日本語を教えていた板坂元で、同著者(N・マルコム)による『回想のヴィトゲンシュタイン』('74年/教養選書)という似たタイトルの本(哲学者の藤本隆志の訳)がありますが、同じ元本を同時期に別々の訳者が訳した偶然の結果であるとのこと、哲学者ではない板坂元が本書を訳したのは、本書にも見られる、異国の地で苦悶しながらも真摯に学生と向き合う教育者としてのウィトゲンシュタインの姿への共感からではないかと思われます。
板坂 元 (1922-2004)

 【1998年・再新書化[平凡社ライブラリー]/(藤本隆志:訳)1974年[教養選書(『回想のヴィトゲンシュタイン』)]】

「●精神医学」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1824】 牛島 定信 『パーソナリティ障害とは何か
「●メンタルヘルス」の インデックッスへ 「●「うつ」病」の インデックッスへ 「●講談社現代新書」の インデックッスへ

一般社会人が身につけておきたい精神医学の知識。"新型うつ病"を"ジャンクうつ"と断罪。

岩波 明 『ビジネスマンの精神科』.JPGビジネスマンの精神科.gif        うつ病.jpg 
ビジネスマンの精神科 (講談社現代新書)』 ['09年] 『うつ病―まだ語られていない真実 (ちくま新書 690)』 ['07年]

 タイトルからすると職場のメンタルヘルスケアに関する本のようにも思われ、「中規模以上の企業」に勤めるビジネスマンを読者層として想定したとあり、実際、全11章の内、「企業と精神医学」と題された最終章は職場のメンタルヘルスケアの問題を扱っていますが、それまでの各章においては、うつ病、躁うつ病、うつ状態、パニック障害、その他の神経症、統合失調症、パーソナリティ障害、発達障害などを解説していて、実質的には精神医学に関する入門書であり、タイトルの意味は、一般社会人として出来れば身に着けておきたい、精神医学に関する概括的な知識、ということではないかと受け止めました(勿論、こうした知識は、職場のメンタルヘルスケアに取り組む際の前提知識として重要であるには違いないが)。

 基本的にはオーソドックスな内容ですが、うつ病の治療において「薬物療法をおとしめ、認知療法など非薬物療法をさかんに推奨する人」を批判し、例えば「認知療法を施行することが望ましい患者は、実は非常に限定される」、「そもそも、認知療法を含む非薬物療法は急性期のうつ病の症状に有効性はほとんどない。かえって症状を悪化させることもある」といった記述もあります(前著『うつ病―まだ語られていない真実』('07年/ちくま新書)では、高田明和氏とかを名指しで批判していたが、今回は名指しは無し。名指ししてくれた方がわかりやすい?)。

 その他に特徴的な点を挙げるとすれば、「適応障害」は一般的な意味からは「病気」とは言えないとしているのは、DSMなどの診断基準で"便宜的"区分として扱われて売ることからも確かに"一般的"であるとしても、「適応障害よりもさらに"軽いうつ状態"を"うつ病"であると主張する人たちがいる。その多くは、マスコミ向けの実態のない議論である」とし、「"新型うつ病"という用語がジャーナリズムでもてはやされた時期があった」と過去形扱いし、「分析すること自体あまり意味があるように思えないが、簡単に述べるならば、"新型うつ病"は、未熟なパーソナリティの人に出現した軽症で短期間の"うつ状態"である。(中略)精神科の治療は必要ないし、投薬も不要である」、「こうした"ジャンクなうつ状態"の人は、自ら病気であると主張し、これを悪用することがある。彼らはうつ病を理由に、会社を休職し、傷病手当金を手にしたりする」(以上、98p-99p)と断罪気味に言っていることでしょうか。

 『うつ病―まだ語られていない真実』には、「気分変調症(ディスサイミア)」の症例として、被害妄想から自宅に放火し、自らの家族4人を死に至らしめた女性患者が報告されていて(これ読むと、かなり重い病気という印象)、うつ病や気分変調症と、適応障害やそれ以外の"軽いうつ状態"を厳格に峻別している傾向が見られ、個人的には著者の書いたものに概ね"信を置く"立場ですが、自分は重症うつ病の"現場"を見てきているという自負が、こうした厳しい姿勢に現われるのかなあとも。

 但し、個人における症状を固定的に捉えているわけではなく、適応障害から「気分変調症」に進展したと診断するのが適切な症例も挙げていて、この辺りの判断は、専門医でも難しいのではないかと思わされました。

 その他にも、「精神分析」を「マルクス主義」に擬えてコキ下ろしていて(何だか心理療法家そのものに不信感があるみたい)、フロイトの理論で医学的に証明されたものは1つもないとし、フーコーやラカンら"フロイトの精神的な弟子"にあたる哲学者にもそれは当て嵌まると(125p)。
 
田宮二郎.jpg 入門書でありながら、所々で著者の"持ち味"が出るのが面白かったですが、
一番興味深かったのは、「躁うつ病」の例で、自殺した田宮二郎(1935-1978/享年43)のことが詳しく書かれていた箇所(72p-77p)で、彼は30代前半の頃から躁うつ病を発症したらしく、テレビ版の「白い巨塔」撮影当初は躁状態で、自らロケ地を探したりもしていたそうですが、終盤に入ってうつ状態になり、リハーサル中に泣き出すこともあったりしたのを、周囲が励ましながら撮影を進めたそうで、彼が自殺したのは、テレビドラマの全収録が終わった日だったとのこと。
 躁状態の時に実現が困難な事業に多額の投資をし、借金に追われて、「俺はマフィアに命を狙われている」とかいう、あり得ない妄想を抱くようになっていたらしい。
 へえーっ、そうだったのかと。

「●女性論」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 「●男性論」 【304】 小谷野 敦 『もてない男
「●男性論」の インデックッスへ 「●講談社現代新書」の インデックッスへ

著者のやり口は変わったけれど中身はあまり変わってないか。

選ばれる男たち―女たちの夢のゆくえ.gif 『選ばれる男たち―女たちの夢のゆくえ (講談社現代新書)』 ['09年]

 DV(ドメスティック・バイオレンス)の専門家である臨床心理士の著者の本ですが、いきなりイケメンドラマの話から入り、おばさんたちが韓流ドラマに夢中になるのは何故かということを、自分自身が「ヨン様」、つまりペ・ヨンジュンの熱狂的ファンであることをカミングアウトしつつ語っていて、あれ、先生どうしたの、という感じも。

 著者によれば、若い男性の「萌え」ブームは、彼らが女性の成熟への価値を喪失したためのものであり、女性たちの「草食系男子」への指向や、おばさんたちの間での「韓流ブーム」も、女性にとっての既存の理想の男性像が変わってきて、成熟した男性より「うぶで無垢な王子」といったタイプが好かれるようになってきたためであると。

 ということで、前半部分、いい男について語るのは楽しいとしながらも、読む側としては何が言いたいのだろうと思って読んでいると、中盤、第3章「正義の夫、洗脳する夫」は、著者の臨床例にみるDVを引き起こす男性の典型例が挙げられていて、一気に重たい気分にさせられます。
 家庭という密室の中での彼らの権力と暴力の行使はホントにひどいもので、でも、実際、こういうの、結構いるのだろうなあと。

 但し、そうした配偶者の暴力に遭いながらも離婚に踏み切れない女性もいるわけで(著者が言うところの「共依存」という類)、著者は「理想の男性像を描き直せ」、「男を選んでいいのだ」と言っており、これが前段の、「男を愛でることがあっていい」「男性像の価値観は変わった」という話にリンクしてたわけか、と後半残り3分の1ぐらいのところにさしかかって、やっと解りました。

選ばれる男たち―女たちの夢のゆくえ2.gif 著者のもう1つの専門領域である児童虐待に関する本を読んだ際に、子どもへの虐待を、「資本家-労働者」、「男-女」と並ぶ「親-子」の支配構造の結果と捉えていることでフェニミズム色が濃くなっていて、子どもへの虐待をことさらにイデオロギー問題化するのはどうかなあと(読んでいて、しんどい。論理の飛躍がある)。

 そうしたかつての著者の本に比べると、韓流ドラマの話から入る本書は、ちょっと戦術を変えてきたかなあという感じはします。

 DV常習者になるような「だめ男」の見分け方のようなものも指南されていますが、そうした問題のある男性と一般の男性がジェンダー論として混同されていて、基本的には、この人の、病理現象的なものを社会論的に論じる物言いに、オーバーゼネラリゼーション的なものを感じ(結果的に、本書に出てくるサラリーマンとか中年オヤジというのは、極めて画一化された捉え方をされている)、やり口は変わったけれど中身はあまり変わってないかなあ、という印象も。

「●国際(海外)問題」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【314】 ボブ・ウッドワード 『司令官たち
「●中国史」の インデックッスへ 「●映画」の インデックッスへ 「●講談社現代新書」の インデックッスへ 「●た‐な行の外国映画の監督」の インデックッスへ 「●は行の外国映画の監督②」の インデックッスへ 「○外国映画 【制作年順】」の インデックッスへ 「○都内の主な閉館映画館」の インデックッスへ(シネヴィヴァン六本木) 「○都内の主な閉館映画館」のインデックッスへ(PARCO SPACE PART3)

イデオロギー至上主義が人間性を踏みにじる様が具体的に描かれている。

私の紅衛兵時代1.jpg私の紅衛兵時代―ある映画監督の青春.jpg          写真集さらば、わが愛/覇王別姫.jpg
私の紅衛兵時代 ある映画監督の青春 (講談社現代新書)』['90年/'06年復刻]写真集『さらば、わが愛覇王別姫』より

陳凱歌(チェン・カイコー).jpg 中国の著名な映画監督チェン・カイコー(陳凱歌、1952年生まれ)が、60年代半ばから70年代初頭の「文化大革命」の嵐の中で過ごした自らの少年時代から青年時代にかけてを記したもので、「文革」というイデオロギー至上主義、毛沢東崇拝が、人々の人間性をいかに踏みにじったか、その凄まじさが、少年だった著者の目を通して具体的に伝わってくる内容です。

紅衛兵.jpg 著者の父親も映画人でしたが、国民党入党歴があったために共産党に拘禁され、一方、当時の共産党員幹部、知識人の子弟の多くがそうしたように、著者自身も「紅衛兵」となり、「毛沢東の良い子」になろうとします(そうしないと身が危険だから)。

 無知な少年少女が続々加入して拡大を続けた紅衛兵は、毛沢東思想を権威として暴走し、かつて恩師や親友だった人達を糾弾する、一方、党は、反国家分子の粛清を続け、"危険思想"を持つ作家を謀殺し、中には自ら命を絶った「烈士」も。

 そしてある日、著者の父親が護送されて自宅に戻りますが、著者は自分の父親を公衆の面前で糾弾せざるを得ない場面を迎え、父を「裏切り」ます。

 共産党ですら統制不可能となった青少年たちは、農村から学ぶ必要があるとして「下放」政策がとられれ、著者自身も'69年から雲南省の山間で2年間農作業に従事しますが、ここも発狂者が出るくらい思想統制は過酷で、但し、著者自身は、様々の経験や自然の中での肉体労働を通して、逞しく生きることを学びます。

 語られる数多くのエピソードは、それらが抑制されたトーンであるだけに、却って1つ1つが物語性を帯びていて、「回想」ということで"物語化"されている面もあるのではないかとも思ったりしましたが、う〜ん、実際あったのだろなあ、この本に書かれているようなことが。

紅いコーリャン [DVD]」チャン・イーモウ(張藝謀)
紅いコーリャン .jpgチャン・イーモウ(張藝謀).jpg 結果的には「農民から学んだ」とも言える著者ですが、17年後に映画撮影のため同地を再訪し、その時撮られたのが監督デビュー作である「黄色い大地」('84年)で、撮影はチャン・イーモウ(張藝謀、1950年生まれ)だったとのこと。

 個人的には、チャン・イーモウは「紅いコーリャン」('87年/中国)を初めて観て('89年)、これは凄い映画であり監督だなあと思いました(この作品でデビューしたコン・リー(鞏俐)も良かった。その次の作品「菊豆<チュイトウ>」('90年/日本・中国)では、不倫の愛に燃える若妻をエロチックに演じているが、この作品も佳作)。 
               
童年往事 時の流れOX.jpg童年往事 時の流れ.png童年往時5.jpg その前月にシネヴィヴァン六本木で観た台湾映画「童年往時 時の流れ」('85年/台湾)は、中国で生まれ、一家とともに台湾へ移住した"アハ"少年の青春を描いたホウ・シャオシェン(侯孝賢、1947年生まれ)監督の自伝的作品でしたが(この後の作品「恋恋風塵」('87年/台湾)で日本でも有名に)、中国本土への望郷の念を抱いたまま亡くなった祖母との最期の別れの場面など、切ないノスタルジーと独特の虚無感が漂う佳作でした。
【映画チラシ】童年往時/「童年往事 時の流れ [DVD]」/侯孝賢 (パンフレット)

坊やの人形.jpg ホウ監督の作品を観たのは、一般公開前にパルコスペースPART3で観た「坊やの人形」('83年/台湾)に続いて2本目で、「坊やの人形」は、サンドイッチマンという顔に化粧をする商売柄(チンドン屋に近い?)、家に帰ってくるや自分の赤ん坊を抱こうとするも、赤ん坊に父親だと認識されず、却って怖がられてしまう若い男の悲喜侯孝賢.jpg劇を描いたもので、渋谷パルコスペース3で上映された台湾の3監督によるオムニバス映画の内の1小品。他の2本も台湾の庶民の日常を描いて、お金こそかかっていませんが、何れもハイレベルの出来でした。
坊やの人形 [DVD]」/侯孝賢

 両監督作とも実力派ならではのものだと思いましたが、同じ中国(または台湾)系でもチャン・イーモウ(張藝謀)とホウ・シャオシェン(侯孝賢)では、「黒澤」と「小津」の違いと言うか(侯孝賢は小津安二郎を尊敬している)、随分違うなあと。

さらば、わが愛~覇王別姫 [DVD]」 /レスリー・チャン
さらば、わが愛/覇王別姫.jpg覇王別姫.jpgレスリー・チャン.gif 一方、チェン・カイコーの名が日本でも広く知られるようになったのは、もっと後の「さらば、わが愛/覇王別姫」('93年/香港)の公開('94年)以降でしょう(これも良かった。妖しい魅力のレスリー・チャン、自殺してしまったなあ)。

 本書も刊行されたのは'90年ですが、その頃はチェン・カイコーの名があまり知られていなかったせいか、一旦絶版になり、「復刊ドットコム」などで復刊要望が集まっていたのが'06年に実際に復刻し、自分自身も復刻版(著者による「復刊のためのあとがき」と訳者によるフィルモグラフィー付)で読んだのが初めてでした。

 「さらば、わが愛/覇王別姫」にも「紅いコーリャン」にも「文革」の影響は色濃く滲んでいますが、前者を監督したチェン・カイコーは早々と米国に移住し(本書はニューヨークで書かれた)、ハリウッドにも進出、後者を監督したチャン・イーモウは、かつては中国本国ではその作品が度々上映禁止になっていたのが、'08年には北京五輪の開会式の演出を任されるなど、それぞれに華々しい活躍ぶりです(体制にとり込まれたとの見方もあるが...)。


「中国問題」の内幕.jpg中国、建国60周年記念式典.jpg 中国は今月('09年10月1日)建国60周年を迎え、しかし今も、共産党の内部では熾烈な権力抗争が続いて(このことは、清水美和氏の『「中国問題」の内幕』('08年/ちくま新書)に詳しい)、一方で、ここのところの世界的な経済危機にも関わらず、高い経済成長率を維持していますが(GDPは間もなく日本を抜いて世界第2位となる)、今や経済界のリーダーとなっている人達の中にも文革や下放を経験した人は多くいるでしょう。記念式典パレードで一際目立っていたのが毛沢東と鄧小平の肖像画で、「改革解放30年」というキャッチコピーは鄧小平への称賛ともとれます(因みに、このパレードの演出を担当したのもチャン・イーモウ)。

 中国人がイデオロギーやスローガンに殉じ易い気質であることを、著者が歴史的な宗教意識の希薄さの点から考察しているのが興味深かったです。
 
シネヴィヴァン六本木.jpg「童年往時/時の流れ」●原題:童年往来事 THE TIME TO LIVE AND THE TIME TO DIE●制作年:1985年●制作国:台湾●監督:侯孝賢(ホウ・シャオシェン)●製作:徐国良(シュ・クオリヤン)●脚本:侯孝賢(ホウ・シャオシェン)/朱天文(ジュー・ティエンウェン)●撮影:李屏賓(リー・ピンビン)●音楽:呉楚楚(ウー・チュチュ)●時間:138分●出演:游安順(ユーアンシュ)/辛樹芬(シン・シューフェン)/田豊(ティェン・フォン)/梅芳(メイ・フアン)●日本公開:1988/12●配給:シネセゾン●最初に観た場所:シネヴィヴァン六本木(89-01-15)(評価:★★★★)
シネヴィヴァン六本木 1983(平成5)年11月19日オープン/1999(平成11)年12月25日閉館
坊やの人形 <HDデジタルリマスター版> [Blu-ray]
坊やの人形 00.jpg坊やの人形 00L.jpg「坊やの人形」(「シャオチの帽子」「りんごの味」)●原題:兒子的大玩具 THE SANDWICHMAN●制作年:1983年●制作国:台湾●監督:侯孝賢(ホウ・シャオシェン)/曹壮祥(ゾン・ジュアンシャン)/萬仁(ワン・レン)●製作:明驥(ミン・ジー)●脚本:呉念眞(ウー・ニェンジェン)●撮影:Chen Kun Hou●原作:ホワン・チュンミン●時間:138分●出演:陳博正(チェン・ボージョン)/楊麗音(ヤン・リーイン)/曽国峯(ゾン・グオフォン)/金鼎(ジン・ディン)/方定台(ファン・ディンタイ)/卓勝利(ジュオ・シャンリー)●日本パルコスペース Part3.jpg渋谷シネクイント劇場内.jpgCINE QUINTO tizu.jpg公開:1984/10●配給:ぶな企画●最初に観た場所:渋谷・PARCO SPACE PART3(84-06-16)(評価:★★★★)●併映:「少女・少女たち」(カレル・スミーチェク)
PARCO SPACE PART3 1981(昭和56)年9月22日、演劇、映画、ライヴパフォーマンスなどの多目的スペースとして、「パルコ・パート3」8階にオープン。1999年7月~映画館「CINE QUINTO(シネクイント)」。 2016(平成28)年8月7日閉館。


「さらば、わが愛/覇王別姫」(写真集より)/「さらば、わが愛/覇王別姫」中国版ビデオ
『さらば、わが愛/覇王別姫』(1993) 2.jpgさらばわが愛~覇王別姫.jpg「さらば、わが愛/覇王別姫」●原題:覇王別姫 FAREWELL TO MY CONCUBI●制作年:1993年●制作国:香港●監督:陳凱歌(チェン・カイコー)●製作:徐淋/徐杰/陳凱歌/孫慧婢●脚本:李碧華/盧葦●撮影:顧長衛●音楽:趙季平(ヂャオ・ジーピン)●原作:李碧華(リー・ビーファー)●時間:172分●出演:張國榮(レスリー・チャン)/張豊毅(チャン・フォンイー)/鞏俐(コン・リー)/呂齊(リゥ・ツァイ)/葛優(グォ・ヨウ)/黄斐(ファン・フェイ)/童弟(トン・ディー)/英達(イン・ダー)●日本公開:1994/02●配給:ヘラルド・エース=日本ヘラルド映画(評価:★★★★☆)

「●哲学一般・哲学者」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【2333】 ピエール・デュラン 『人間マルクス
「●講談社現代新書」の インデックッスへ 「●文学」の インデックッスへ

文学者の眼から見たサルトル像、小説・戯曲への手引。ボーヴォワールを嫉妬に狂わせたサルトル。
「サルトル」入門 (講談社現代新書)2_.jpg
サルトル入門.JPG「「サルトル」入門5.JPG 『「サルトル」入門 (1966年) (講談社現代新書)』 

 '07年から'08年にかけて松浪信三郎訳の『存在と無』がちくま文庫(全3冊)に収められたかと思ったら、'09年には岩波文庫で『自由への道』の刊行が始まり、こちらは全6冊に及ぶと言うサルトル-まだ読む人がいるのだなあという思いも。

白井浩司.jpg 著者の白井浩司(1917-2004)はサルトル研究の第一人者として知られたフランス文学者で、サルトルの『嘔吐』『汚れた手』などの翻訳も手掛けており、本書は、文学者・実存主義者・反戦運動の指導者など多様な活動をしたサルトルの人間像を捉えたものであるとのことですが、とりわけ、その小説や戯曲を分り易く解説しているように思いました。

 文学者の眼から見たサルトル像、サルトルの小説や戯曲へのサルトルとボーボワール.jpg手引書であると言え(とりわけ『嘔吐』の主人公ロカンタンが感じた〈吐き気〉などについては、詳しく解説されている。片や『存在と無』などの解説が物足りなさを感じるのは、著者がやはり文学者だからか)、その一方で、彼の生い立ちや人となり(これがなかなか興味深い)、ボーヴォワールをはじめ多くの同時代人との交友やカミュなどとの論争についても書かれています。

 彼は20代後半から30代前半にかけての長い修業時代に、まず、セリーヌの『夜の果ての旅』を読み、その文章に衝撃を受けて、その後いろいろな作家の作品を読み漁っていますが、カフカとフォークナーに特に共感したとのこと、また、映画を文学と同等に評価していて、カウボーイや探偵の活躍する娯楽映画も好きだったそうです(サルトルは映画狂だとボーヴォワールは書いている)。
サルトルとボヴォワール(来日時)

 彼の政治的な活動をも追う一方で、私生活についてもその恋愛観を含め書かれており、サルトルとボーヴォワールの2人の愛は有名ですが、サルトルはボーヴォワールと知り合った20代前半にはボーヴォワールに対してよりも年上の美女カミーユに恋をしており、また、ボーヴォワールと既に深い関係にあった30歳の頃には、3歳年下のボーヴォワールを差し置いて、12歳年下のオルガという少女に夢中になり、ボーヴォワールを嫉妬に狂わせたとのこと、そうこうしながら同時に『嘔吐』の原案も練っていたりして、ホント、精力的だなあと。

 60歳の時に「プレイボーイ」誌のインタヴューに答えて、「男性とよりも、女性と一緒にいる方が好き」で、それは「奴隷でもあり共犯者でもある女性の境遇からくる、女性の感受性、優雅さ、敏感さにひかれるからで」あると答えていますが、彼の恋愛観は一般には受け入れられていないと著者は書いています。

聖ジュネ(文庫)下.jpg聖ジュネ(文庫)上.jpg また、戦後も『聖ジュネ』などの文学評論の大作を発表しているものの、小説を書かなくなったのは、彼が政治に深入りしすぎたためであると書いており、この辺りは著者の見方が入っているように思えます。
 確かに、本書の冒頭には、「20億の飢えた人が地球上にいる現在、文学に専念するのは自分を欺くことだ」という'64年の記者会見での談話が紹介されてはいますが(同じ年、ノーベル文学賞を辞退している)。

 本書の初版が刊行された年にサルトルは初来日していて、各地での講演会は立錐の余地もないほどの盛況だったとのこと(そういう時代だったのだなあ)、一方、ホテルについた彼が最初にやったことは、老いた母親に無事着いたことを打電することだったそうで、彼のこうした行為や壮年になっても続いた女性遍歴は、父親を早くに亡くしたこととと関係があるのではないかと、個人的には思った次第です(彼には父親の記憶が無かった)。

「●心理学」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【775】 土居 健郎 『「甘え」の構造
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

催眠について新書で科学的な観点から取り上げた点は先駆的だったと言える。

「 暗示と催眠の世界」.jpg 『暗示と催眠の世界―現代人の臨床社会心理学 (1969年) (講談社現代新書)

 『日本人の深層心理』『日本人の対人恐怖』などの著書のある臨床心理学者・木村駿(1930-2002/享年72)の著書。

 「暗示」と「催眠」について分り易く解説した本で、とりわけ催眠については、それまで学術書以外では、実用書のようなもので「催眠術」としてしか扱われてなかったものを、「講談社現代新書」というエスタブリッシュな新書で科学的な観点から取り上げたのは先駆的だったかも。

 メスメルから始まる催眠の歴史から説き起こし、催眠時における脳波の測定結果などを示して催眠状態とは如何なるものかを解説したうえで、その技法についても、著者の実演写真入りで紹介しています(簡潔ではあるけれども、一応、技法書としても使える)。

 さらに、自動車交通事故の誘因の1つともされるハイウェイ催眠など、日常に見られる催眠現象及びその類似現象について解説し、自律訓練法や脳性麻痺のリハビリテーションなどの催眠法による治療を紹介すると共に、後半は、学生運動における群集心理や政治における大衆操作などの「社会現象」としての催眠(暗示)を扱っています。

 「政治家のイメージも暗示で作られる」としているのは、最近言われる「ポピュリズム政治」をある意味先取りしており、リーダーを「父親型」と「母親型」に分類していて、"最近のわが国の政治家"の例としてそれぞれ、'68年の参議院議員選挙の全国区でトップ当選した石原慎太郎と、'67年に東京都知事選挙で勝利した美濃部亮吉を挙げているのが興味深く、また、時代を感じさせます(宗教界の父親型リーダーに創価学会の池田大作、母親型リーダーとして立正佼成会の庭野日敬を挙げており、集団の性格は、リーダーのタイプによって象徴されるとしている)。

 最後に、広告・宣伝における大衆暗示について述べていて、ビールはイメージ商品であり、キリン、サッポロ、アサヒの3社のビールの味の違いは、ビール会社の技師でも分らないと言っていたとあり、当時ビール市場に参入して間もないサントリーのテレビCMを巧妙と絶賛する一方、ビール市場からの撤退を余儀なくされた「タカラビール」を、味は他社にひけを取らないのに焼酎のイメージから脱却できなかった「悲劇的な例」としています。

 社会心理にまで言及したことで、1冊にやや盛り込み過ぎになったきらいもありますが、入門書としては読み易く、読み直すことでまた新たな興味が湧く部分もありました。

「●広告宣伝・ネーミング」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【170】 学研 『13か国語でわかる新・ネーミング辞典

ブランド資産、ブランド育成といったものを理解する上では、纏まっていて読み易いテキスト。

企業を高めるブランド戦略.jpg 『企業を高めるブランド戦略 (講談社現代新書)』 ['02年]

 かつて電通に勤務し、現在は大学でマーケティングを教える著者が、ブランド戦略について書いた入門書で、新書でありながらもかっちりした内容となっています。

 ブランドは企業の資産であるという考え方をベースに、「ブランド」とは何か、「ブランドマネジメント」とはどいったことを言うのか、消費者にとってのブランドの意味は何かといったことから説き起こした上で、本題であるブランド戦略に関して、新たなブランドの創造、成熟ブランドの活性化、企業ブランドのマネジメント、ブランドコミュニケーションについてを解説し、更に、企業戦略とブランド戦略の関係について述べています。

 ブランド資産、ブランド育成といった概念は、本書刊行時には既に日本においても、それぞれブランド・エクイティ、ブランディングという原語のまま定着していたように思われ、そうした意味では、これまでの潮流も含めて解説したインナー向けの教科書的な内容という感じもしないでも無いですが、カタカナをズラズラ並べるのではなく、ちゃんと自分の言葉にして書かれている感じがして、それが全体としての読み易さに繋がっているのかも(一方で、新書1冊にしては詰め込みすぎで、説明がやや簡潔すぎたり、尻切れトンボになっているきらいも)。
 終わりの方にあるブランドの効果を巡っての院生と行った実験の結果や、各企業に取材したブランド育成戦略の中身についても、なかなか興味深いものでした。

キッコーマン/リーフレット「新酒 2003」
キッコーマン/リーフレット「新酒 2003」.jpg 著者によれば、日本は企業ブランド社会であるとのこと、だから醤油メーカーのキッコーマンが70年代に初めてワインを発売した当初、「キッコーマンのワインは醤油が入っているような気がする」と関係者に言われ、「マンズワイン」というブランドを作ることで企業ブランドの使用を避けたとのこと。

ネスレマギーブイヨン.jpg 一方、ネスレの調味料マギーのように、ネスレというブランドがマギーという当初はあまり認知されていなかったブランドの「保証マーク」として働く場合もあるわけで、この辺り、単一製品をイメージさせるブランドなのか、製品より(食品ならば食品全般にわたる)技術水準をイメージさせるブランドなのかの違いは大きいなあ(後者の方が汎用性が高い)。
スターバックッス ロゴ.jpg また、「スター・バックス」の日本での成功例などに見られるように、今日ではブランドを短期的に育成し活用していくような経営・マーケティング戦略が競争優位をもたらす市場状況が出現しているという指摘も興味深いものでした(デル・コンピュータなどもそうだが、サービスプロバイダー型のブランドにとりわけ見られる特色とも言えるが)。

「●広告宣伝・ネーミング」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1207】 石井 淳蔵 『ブランド―価値の創造』
「●仕事術・整理術」の インデックッスへ 「●講談社現代新書」の インデックッスへ

ある意味、丸々1冊、コピー的な手法で書かれた「発想法」の本。

 コピーライターの発想IMG_0593.jpgコピーライターの発想IMG_0594.jpg 土屋耕一全仕事.jpg
「A面で恋をして」資生堂CM ['81年]『コピーライターの発想 (講談社現代新書 (724))』 ['74年]『土屋耕一全仕事』 ['84年/マドラ出版]

コピーライターの発想s.jpg '09年3月に亡くなったコピーライター・土屋耕一(1930-2009/享年78)の本で、'74年刊行ですから、40歳代半ば頃の著作ということになります。

 伊勢丹とか資生堂の広告コピーは、一時この人の独壇場だったなあ。竹内まりやの戻っておいで・私の時間.jpgデビューシングルにもなった伊勢丹の「戻っておいで・私の時間」、アリスの堀内孝雄によりヒットした資生堂の「君のひとみは10000ボルト」など、CMソングがヒットチャートの上位を占める現象のハシリもこの人。大瀧永一(1948-2013/享年65))の「A面で恋をして」も、この人のコピー。「軽い機敏な仔猫何匹いるか」などの回文作家としても知られていました(そう言えば、「でっかいどお。北海道。」の眞木準も亡くなった(1948-2009/享年60))。
「戻っておいで・私の時間」(竹内まりや/伊勢丹'78年CMテーマソング)

 コピーライターという職業が脚光を浴び始めつつも、1行文章を書いてたんまり報酬を貰うナンダカ羨ましい職業だなあという偏見や誤解が勝っていたような時代に、コピーライターというのが実際にはどういった仕事の仕方をしているのか、その発想はどのようにして生まれるかを(これが結構たいへんな作業)わかり易く、また楽しく書いたものだと言えますが、そうした意味では、コピーライターや広告業界志望者へのガイドブックにとどまらず、「発想術」「ひらめき術」の本とも言え、広くビジネスに応用が利くのでは。

君のひとみは10000ボルト.jpg "ひらめき"と"思いつき"はやはり違うわけで、本書によれば、「唐突に、頭の中の風にやってくるものは、浜べに打ち寄せられる、あの、とりとめのない浮遊物と同じであって、すべては単なる思いつきのたぐいにすぎないのだ」と。

「君のひとみは10000ボルト」(堀内孝雄/資生堂'78年秋のキャンペーンソング)

 「ひらめきだって結局は頭の中に、ぱっとやってくることは、やってくるのだ。ただ、その現われたものが、ほかの浮遊物とちがうところは、それの到着をこちら側で待ちのぞんでいたものがやってくる、という、このところでありますね。ひらめきとは、じつに、『待っていた人』なのである」とのこと。何となく分る気がします。

 口語調に近い文体で書かれているのも、この頃の新書としては珍しかったのではないでしょうか。でも、こうした柔らかい感じで文章を書くというのは、本当は結構難しいのだろうなあと、読み返した今は、そのように思われました。それと、やはり"比喩"表現の豊富さ! ある意味、丸々1冊、コピー的な手法で書かれた「発想法」の本とも言えるかも知れません。

「●企業倫理・企業責任」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1661】 佐々木 政幸 『不祥事でバッシングされる会社にはワケがある
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

会社組織の日本的特質に関する考察は鋭いが、タイトルがちょっと...。

法律より怖い「会社の掟」.jpg 『法律より怖い「会社の掟」―不祥事が続く5つの理由 (講談社現代新書 1939)』 ['08年]

 本書は全3章の構成で、第1章で、企業不祥事が無くならないのは何故かということについて、日本人の法意識や自我の問題、日本人によって構成される組織の原理と行動について分析し、日本人は伝統的な徳目など「見えない規範」によって行動するが、そこにはキリスト教の聖書やイスラム教のコーランのような絶対的契約文書が存在しないため、その時々で禁忌される行動が変わってしまうという深刻な問題を孕んでおり、共同体的な組織は共同体の存続、対面を保つための「会社の掟」が不文律として浸透しがちで、組織の構成員は無意識的にそれに従ってしまう傾向があるのが、不祥事が無くならない理由であるとしています。
 この部分は明快な文化論、日本人論にもなっているようにも思えました。

 第2章では、企業不祥事を、「不正利得獲得」傾向が強い不祥事と、「共同体維持」傾向が強い不祥事に大別し、多くの事例を挙げてそれらを細分化し(この部分が本書のユニークポイントであり白眉かも)、第3章では、近江商人の「三方よし」という理念とその根底にある経済活動の社会性や共生・協働、勤勉・努力を尊ぶ考え方に着目して、それが今で言うCSR(企業の社会的責任)に近似することを指摘し、そこから、企業不祥事が無くすにはどうすれば良いかを考察しています。
 個人的には、やはり、「共同体維持」傾向が強い不祥事に日本人組織の特質を感じました(「不正利得獲得」傾向が強い不祥事と言うのは、エンロン事件とか海外でも多くあったのでは)。

 全体に鋭い考察と含蓄に富む指摘の詰まった内容ですが、読みながらずっと心に引っ掛かったのは、「会社の掟」をネガティブな意味合いで捉えていることで、それはそれで論旨の流れの上ではいいのですが、そうであるならば「法律より怖い『会社の掟』」という表題は、ミスリードを生じさせやすいのではないかと(日本企業の"現状"であって、"あるべき状態"へ向けてのベクトルが無いタイトル)。

 テキサス・インスツルメント社の「エシックス(倫理)・カード」が紹介されていますが、IBMのBCG(ビジネス・コンダクト・ガイドライン)などは、これの比ではないスゴさでしょう(ウェブで公開されているので、多くの人に見て欲しい)。
 こうした独自に倫理基準を持っている外資系企業では、抜群に高い業績を上げ、いずれは役員になること間違いなしと言われていた人が、いつの間にか急にいなくなっていたりする―その殆どは、こうした「社内の倫理基準」に反する行為がどこかであったためであり、刑事訴追されるわけでもなければ懲戒発令されるわけでもない、でも、もうその人はその会社にはいない―これこそ、「法律より怖い『会社の掟』」であり、また、そうあるべきだろうと思った次第です。

「●プレゼンテ-ション」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【163】 杉田 敏 『人を動かす! 話す技術
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

同じような本が無いために、いまだにロングセラーであり続ける...。

プレゼンテーションの説得技法.bmp 『プレゼンテーションの説得技法(テクニック)』 ['89年] レポート・プレゼンに強くなるグラフの表現術.jpg 『レポート・プレゼンに強くなるグラフの表現術 (講談社現代新書)』 ['05年]

 プレゼンテーションにおける効果的なビジュアル・ドキュメントの作り方をわかり易く解説したもので、マニュアル的に使えるせいか、'89年という旧い刊行ながらも、いまだにロングセラーとなっている本です。

 各種グラフやチャートの特徴と有効な使用例を、解説編とサンプル編にわけて多くの事例を用いて指し示すだけでなく、シートのサイズやレイアウト、文字の大きさから始まって、チャートに入れる文字の字数や行数、囲み罫からの距離まで示していて、実際のプレゼン場面でのテクニックや留意点、例えばスライドを映すスクリーンの適切な高さなどということまで記されており、まさに至れり尽くせり。

 そう、この頃はまだ、切り張りして図や資料を作り(網目模様やカラーのセロファンをカッターで切って棒グラフの枠内に糊で貼り付けていたりしていた)、OHPシートにコピーするなどしてスライド化し、それをOHPで映すということがまだまだ一般に行われていたなあと(これ、藤城清治か?というような、凝ったプレゼンを見たことがある)。

 でも、この本が地味ながらも売れ続けているのは、結局、ビジュアル・ドキュメントの作成の基本は変わっていないということと、網羅している範囲の広さやサンプルの多さ、ワンポイントのアドバイスの的確さなどにおいて、同じような本がその後、手頃なところでは殆ど出ていないということもあるのではないでしょうか。

 近年の同系統のものでは、大学でプログラミングを教えている先生が書いた『レポート・プレゼンに強くなるグラフの表現術』('05年/講談社現代新書)がありますが、その本にしても、エクセルの使用をベースに書かれている分、グラフの作り方だけで1冊終わってしまっていて、知っていることは既に知っているし、知らないものは、あまり使いそうもないものだったりし、確かにアプリケーションのマニュアル本よりは実戦的ですが、本書ほどの"至れり尽くせり"感はありませんでした。
 ハンドブックとして役立つかもしれませんが、「新書」(横書き)という体裁が目新しいだけで、「新書」に限らなければ(新書にもあるが)、類書はいくらでもあるように思えました(評価★★☆)

 『プレゼンテーションの説得技法』は、富士ゼロックス内のプロジェクトが編纂したもので、アプリケーションのマニュアル本の範囲を超えた、こうしたビジュアル・ドキュメント作成に関する分野というのは、オブジェクトの作成とプレゼンの実施の間にある、ある意味"隙間"であり、意外とそれ自体を専門としている人がいないのかも。

「●ビジネス一般」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1211】 新田 義治 『成功本はムチャを言う!?
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

さほど目新しさが感じらず、むしろ、テレビって簡単には変われないのかも、とも。

テレビ進化論.jpg 『テレビ進化論 (講談社現代新書 1938)』 ['08年]

 梅田望夫氏の『ウェブ進化論』('06年/ちくま新書)を模したようなタイトルで、本書の方もそれなりに売れたようですが、内容的にはさほど目新しさが感じられませんでした。

 コンテンツ・ビジネスの現状を、最近のトピックス(かなり瑣末なものも含まれているように思える)を織り交ぜ、「再確認」的な意味でわかり易く取り纏めてはいるものの、最近の動向や現状分析が主体で、主テーマであるはずのテレビの「今後」ということに関してはやや漠としており、角川が昔やったメディアミックス戦略(出版・TVと広告と芸能キャラクターの複合戦略)に注目していたりしますが、これって、多かれ少なかれ今はどこの局でも(NHKですら)やっていることではないかと。

 一見、「ギョーカイ」人が語るメディアの未来像みたいなムードを漂わせていますが、著者は最近まで経済産業省の官僚であった人で、TV局や映画会社など映像メディアの流通・配信に関わる産業が、いかに過去の因習やインフラ整備に係る法的な規制に縛られているかという「業界」内の産業構造の問題点が重点的に指摘されており、電波事業は郵政省の許認可及び監督事業であるわけですが、経済産業省にもメディアコンテンツ課というのがあり(著者はかつてここに勤務していた)、やはり人は自分の得意分野のことしか書けないということか、とも思ったりしました。

 但し、グーグルのビジネス技法の特徴を「直接収益のように単一の受益者に金銭対価を要求するのではなく、複数の受益者を想定し、ある受益者には無償で利益を与え、そこから、獲得した情報と引き換えに別の受益者から金銭を回収するというやり方」だとし(これも言わば"再確認"事項に過ぎないが)、こうした「情報の三角貿易」を映像ビジネス世界でも模索する動きがあるというのには関心を持ちました。

 ただ全体としては、ウェブの世界でアルゴリズム化されたOne To Oneマーケティングが進む中、テレビの方はそう簡単には変われないのではないか(「地デジ」にしても、郵政族議員の利権の上に進められているのであって、そうした双方向効果が具体的に見えているわけではない)という思いを、本書を読むことで更に強くしました。

「●組織論」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1191】 高間 邦男 『組織を変える「仕掛け」
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

社員同士の協力関係を、役割構造、評価情報、インセンティブの3つで捉える。

不機嫌な職場―なぜ社員同士で協力できないのか.jpg不機嫌な職場~なぜ社員同士で協力できないのか (講談社現代新書)』 ['08年]

 なかなか惹きつけるタイトルで、こういう場合、読んでみたら通り一遍のことしか書いてない紋切り型の“啓蒙書”だったりしてガッカリさせられることがままありますが、この本は悪くなかったです。
 但し、やはり基本的には(いい意味での)“啓蒙書”であり、読んで終わってしまってはダメで、書かれていることで自分が納得したことを、常に意識し、実践しなければならないのでしょう。

 社員同士での協力関係が生まれないために、職場がギスギスして、生産性も向上せず、ヤル気のある人から辞めていく―こうした協力関係阻害の要因を、役割構造、評価情報、インセンティブという3つのフレームで捉えた第2章(ワトソンワイアット・永田稔氏執筆)が、特にわかり易く、また、頷ける点が多かったです。

 特に、「役割構造」の変化について、従来の日本企業の特徴であった、会社で仕事をする際に決められる「仕事の範囲」の「緩さ・曖昧さ」が協力行動を促すことにも繋がっていたことを指摘しているのには頷けて(但し、フリーライド、つまり、仕事してないのに仕事しているように見せる“ただ乗り”を許すことにも繋がっていた)、それが、成果主義が導入されると、今度は、個々は自分の仕事のことしか考えず、外からは、誰が何をしているのかよくわからなくなって、仕事が「タコツボ化」していると―。

 それが、組織力の弱体化に繋がるとしているわけですが、これは、成果主義の弊害としてよく言われることであるものの、併せて、個々の仕事が高度化していることも、仕事が「タコツボ化」する要因として挙げているのには、確かにその通りかもしれないと思いました。

 このことは、続く、インフォーマル・コミユニケーションを通じての社員同士の「評価情報」の共有化がもたらす効果や、金銭的報酬以外の、社内や仕事仲間の間での承認願望の充足がもたらす「インセンティブ」効果という話に、スムーズに繋がっているように思えました。

 「仕事の高度化」ということで言えば、IT企業などは正にそうでしょうが、第4章で、組織活性化に成功している企業の事例が3社あり、その内2社は、グーグルとサイバーエージェントです。
 両社の組織活性化施策は、人事専門誌などでは、もうお馴染みの事例となっていますが、本書におけるそれまでの繋がりの中で読んでみると、改めて新鮮でした。

 ワトソンワイアットは、外資系の中では日本企業の人事制度構築に定評のあるファームですが、日本での強さのベースには、組織心理学に重きを置いている点にあるのかも。

「●企業倫理・企業責任」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1205】 稲垣 重雄 『法律より怖い「会社の掟」
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

網羅的なマニュアル、精神論主体の啓蒙書の域に止まり、読後に残らない。

あなたの会社の評判を守る法.gifあなたの会社の評判を守る法 (講談社現代新書)』 ['07年]

 「コーポレート・レピュテーション」という概念を紹介していますが、レピュテーション(reputation)とは「評判」であり、「コーポレート・レピュテーション」とは、「企業人の判断・行動、発言に対して、消費者や投資家、取引先、ジャーナリズム、地域社会といった全てのステークホルダーが下す正または負の評価のこと」であると、本書では定義しています。

 冒頭に、「ブランド価値というのは、基本的にはその企業が提供する商品もしくはサービスに対する評価である」といった、いかにもマーケッターっぽい「ブランド・エクイティー戦略」の話などが出てきて、経歴を読まずとも、著者の出自が推し測れてしまいました(企業のマーティング部門から品質管理・市場対応部門に転属、その後、独立してコンサルタントに)。

 自らの体験に近いところで書かれているようで、「製品不良問題に対する市場対応」問題に話は集中していています(レピュテーションの対象とするものは、これに止まらないと思うが)。
 確かにこれだけでも、石油ファンヒーター、湯沸かし器から食品・菓子類まで、近年の製品事故の事例は枚挙に暇が無いわけで、そうした例を挙げながら、事故対応の問題点を指摘し、あるべき対応策を整理しています。
 但し、素材に新しさはあるけれども、内容的にはマニュアルを圧縮しただけの感じもして、特にハッとさせられるようなものなく、消費者関連法など法律面についても、限定的な紹介しかされていないように思えました。

 「会社の評判」は決して「金で買えるもの」ではないという趣旨は尤もですが、「全てがトップ次第」であると言いつつ、不祥事が起こった際、それに対して真摯に取り組んでいるかいないかは相手に伝わるものであり、「社員ひとり一人がステークホルダーに向き合え」とも言っており、結局、基本は網羅的なマニュアル書で、論説部分は精神論主体の啓蒙書の域に止まっています(読んで目から鱗が落ちたという人がいれば、そちらの方が問題)。

 レスリー・ゲインズ=ロス『「社長の評判」で会社を伸ばす』('06年/日本経済新聞社)ではないですが、受身的なマニュアル本や精神論主体の啓蒙書よりも、何か「決め打ち」的な戦略が示されているものの方が、読んだ後に残るものがあるように思いました。

「●働くということ」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1197】 駒崎 弘樹 『働き方革命
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

キャリアの入り口に立ったばかりの人向け、と言うよりジュニア向け?

職業とは何か.jpg職業とは何か (講談社現代新書)』 ['08年]

 本書の趣旨は、職業とは「〜をやりたい」という主観だけではなく「〜を通じて社会の一員となる」という社会性がより重要であり、「自分に合った仕事探し」という考え方をやめて、社会が要請している仕事を探すべきであるということで、この内容からも察せされるように、キャリアの入り口に立ったばかりの人向けの本とでも言うべきものなのでしょう。

 キャリア教育の専門家が書いた真面目な本であり、書かれている内容も正論だと思いますが、「自分探し」なんてやめろということは養老孟司氏なども以前から言っていることであってあまりインパクトが感じられず、「職業とは何か」と言うことを「仕事とは何か」ということから考察している部分は、むしろ「仕事とは」の方にウェイトがいってしまっている感じもしました。

 「キャリアの入り口に立ったばかりの人向け」と最初に書きましたが、就職を間近に控えた人が読んでも、即“応用”という風にはならないかも。
 むしろ、イチロー、三浦和良、マザー・テレサから大前研一、三木谷浩史、小椋佳まで(誰彼と無くと言っていいほど多くの)有名人の歩んだキャリアや仕事観がその発言や著作などから引用されていて、こういうのってジュニア向けの書籍によくあるパターンではないかと。

 それでいて、冒頭にフランク・パーソンズの「職業選択」理論が出てきて、終わりの方では「ライフサイクル」論のダニエル・レビンソンの著作を紹介していたりもしていますが、但しそれらの解説も浅いもので、キャリア論を深く展開するというところまでは行っておらず、本全体として総花的一般論という感じは拭いきれませんでした。

 大学に入学したばかりぐらいの人向けか、あるいは高校生向けといったところかも知れません。

「●自閉症・アスペルガー症候群」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1801】 佐々木 正美/梅永 雄二 『大人のアスペルガー症候群
「●LD・ADHD」の インデックッスへ 「●講談社現代新書」の インデックッスへ

専門的な内容を含みながらも入手しやすい本。特に小中学校の教育現場の人に読んで欲しい。

発達障害の子どもたち.jpg 『発達障害の子どもたち (講談社現代新書 1922)』 ['07年]

発達障害の豊かな世界.jpg 発達障害の子どもたちの療育に長く関わってきた著者による初めての新書で、最初に出版社から新書を書かないかと誘われたときは、既に発達障害の豊かな世界』('00年/日本評論社)という一般向けの本を上梓しており、また、著者自身の臨床に追われる殺人的なスケジュールのため逡巡したとのことですが、外来臨床で障害児を持つ親と話しているうちに、まだまだ本当に必要な知識が正しく伝わっていないのではないかとの思いを抱き、改めて、「発達障害に対する誤った知識を減らし、どのようにすれば発達障害を抱える子どもたちがより幸福に過ごすことができるようになるのか、正しい知識を紹介する目的」(46p)で本書を書いたとのこと。

 一般書でもあるということで、最新の脳科学的な見地など、読者の知的好奇心に応えるトピックも盛り込まれていますが、メインである発達障害に関する記述(発達障害を、認知全般の遅れである「精神遅滞・境界知能」、社会性の障害である「広汎性発達障害(自閉症スペクトラム)」、ADHDやLDなどの所謂「軽度発達障害」、そして「子どもの虐待」にもとづく発達障害症候群の4つのグループに分けてそれぞれ解説)については、手抜き無しの密度の濃い内容です(そのため、専門用語に不慣れな初学者にはやや難しい部分もあるかも)。

 中でも、「第4の発達障害」と言われる「虐待による障害」は、著者が最近の臨床を通して注目している点であり、学童を中心とする被虐待児の8割に多動性行動障害が見られたという報告も本書で紹介されていますが、一般的な広汎性発達障害やADHDに比べ、器質的な障害が明確に見られることが多く、また、ADHDの現れ方も異なるため、治療や療育のアプローチも異なってくるなど、対応の難しさが窺えます。

 一方で、実際の小中学校などの教育現場で、こうした児童が学究崩壊を引き起こす原因となっていることも考えられ、純粋なADHDであれば「軽度発達障害」として対応すべきであるし、仮に虐待が原因の"ADHD様態"であれば、家庭環境との相関が高いことが考えられ、これはこれで、単に「躾け問題」として扱うのではなく、「障害」としての知識と対応が必要になるかと思いました(解離性障害などを併発していないか、といったチェックが出来る教師やスクールカウンセラーが、はたしてどれだけいるだろうか)。

 誤った知識から自らが偏見に囚われていることはないか、障害児を持つ親たちがそれをチェックするためにも読んで欲しい本ですが、専門的な内容を含みながらも新書という入手しやすいスタイルで刊行されたわけで、今まで「発達障害」にあまり関心の無かった多くの人にも、特に小中学校の教育現場にいる人に読んでもらいたい本であり、その思いを込めて星5つ。

《読書MEMO》
●(PTSD、フラッシュバックなど)強いトラウマ反応を生じる個人は、(脳機能の器質障害もあるが)もともと扁頭体が小さい。マウスなどの実験により、小さい扁頭体が作られる原因は被虐体験らしいことが現在最も有力な説となっている。(37p)
●注意欠陥多動性障害(ADHD)と広汎性発達障害の一群であるアスペルガー障害との併発は、より重大な問題である「社会性の障害」の方が優先されるため、注意欠陥多動性障害の症状とアスペルガー障害の症状との両者があれば、「多動を伴ったアスペルガー障害」という診断になる。(42p)
●適切な特別支援教育を持ってきちんと就労し、幸福な結婚と子育てが可能になった者と、その逆の道を辿った者とその道のりを見ると、発達障害の適応を決めるものは実は「情緒的なこじれ」であることが見えてくるのではないか。(59p)
●自閉症の認知の特徴...①情報の中の雑音の除去が出来ない ②一般化・概念化という作業が出来ない ③認知対象との間に心理的距離が持てない(79p)
―「遠足の作文を書きましょう」という課題を与えられてパニックに。遠足といっても、どこが遠足なのかわからない(学校に集まって、バスに乗って、バスの中でゲームがあり、目的地について、集会や班ごとの活動があり、弁当を食べて...どこを書けば良いのかわからない)(86-87p)
●あまりに対応に困る多動児は、基盤に「社会性の障害」を抱えている(つまり高機能広汎性発達障害である)ことが多い。(104p)
●子どもの心の問題に対応する専門家として登場したスクールカウンセラーの大半は、当初、発達障害の知識も経験も欠落していて役に立たなかった。(中略)今や学校カウンセラーが機能するか否かは、発達障害への知識と経験を持ち、彼らへの対応ができるか否かによって決まるとまで言われるようになった。(105p)
●今日の日本で、小学校に実際に出かけて低学年の教室を覗くと、(中略)授業中にうろうろと立ち歩いたり、前後の生徒にちょっかいを出したりを繰り返す「多動児」が、4〜5人ぐらいは存在するのが普通である。(129p)
●(被虐待児は)状況によって意識モードの変化が認められる⇒虐待の後遺症としての「解離性障害」(157p)

「●子ども社会・いじめ問題」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1317】 内藤 朝雄 『いじめの構造
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

全体としては、ケータイ・リテラシーを高めることの重要性を説いているのだが...。

ケータイ世界の子どもたち.jpg 『ケータイ世界の子どもたち (講談社現代新書 1944) 』 ['08年]

魔法のiらんど.jpg 今は小学生ぐらいから "ケータイ・デビュー"することがごく普通になってきていますが、親が日常で使っているのを見れば、子どもも自然とそうなるのでしょう。中学生などは、自宅からでも置き電話を使わず、メールで友だちと連絡を取り合うことが普通みたいだし...。
 つまり彼らは、電話としてよりも、メールやゲームでケータイを使用しているわけですが、本書を読んで、小中学生にとってケータイの世界が、かなりウェイトが大きいものになっているということがわかりました。
 本書で「人気ベスト3」として紹介されている、「モバゲータウン」や「プロフ」、多くの"ケータイ小説"を生んでいる「魔法のiらんど」など、それぞれに凄い数の利用者がいるわけです。

 著者が本書執筆中の'08年3月に、千葉県柏市で「プロフ」の書き込みを巡って中学生同士の殺人未遂事件があり、本書刊行とほぼ同時期の'08年5月には、政府の「教育再生懇談会」が、「小中学生の携帯電話使用に関して何らかの使用制限をするべき」との提言を出していて、著者も、文科省の「ネット安全安心全国推進会議」とかいうものの委員であるらしい。
 本書でも、ケータイが犯罪に使われた例をあげ、子どものコミュニケーション能力の伸長に支障をきたす原因となっているような論調が見られたので、最後に、「だから、子どもにケータイを持たせるのはやめましょう」と訴える、その系の"御用学者"かなとも思いましたが、読み終えてみると必ずしもそうでもなかったみたい。

 地域で行われている子どもたちのケータイの利用を抑制する運動なども紹介していますが、どちらかと言うと著者自身は、親には、子どもにケータイを持たせる際に、危険性もあることの注意を促し、濫用させないようにする約束事を定めるのがよいとし、行政や企業にはフィルタリングの徹底を求め、全体としては、ケータイ・リテラシーを高めることの重要性を説いているといった感じでしょうか。

 但し、現代の教育やしつけの問題への言及が拡がり過ぎて(著者の専門は教育学)、それら全てをケータイを起点にして論じるのはちょっと強引に感じられ、それでも言っていることはまあまあ正論なのかも知れませんが、「教育テレビ」を見ているような感じ、とでも言うか、あまりインパクトをもって伝わってこない。
 「モバゲー」を問題ありとする一方で、やたら「魔法のiらんど」の肩を持っているように思われる点も、少し気になりました。

「●日本史」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【761】 小林 英夫 『日中戦争
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

物価から昭和ヒトケタの時代の"サラリイマン"など庶民の生活を探った労作。

「月給百円」のサラリーマン.jpg 『「月給百円」のサラリーマン―戦前日本の「平和」な生活 (講談社現代新書)』 ['06年]

 著者は共同通信社の中国総局に勤務する記者であるとのことですが、そういった人が個人で、昭和ヒトケタの時代の日本人の暮らしぶりを、モノの価格を中心にミクロ的な観点から調べ上げたもので、その精緻な調査ぶりには脱帽させられます。最近の講談社現代新書は、本によって密度の濃い薄いの差が激しいように思うのですが、これは濃い方で、庶民生活史としては第一級史料的なものに仕上がっているのではないでしょうか。

 大正から昭和になって不況があり、デフレ後は物価安定期が続いたとのことで、昭和ヒトケタの時代の物価は、目安として大体2千倍すれば今の物価に該当するとのこと。だから、「月給百円」というのは今の20万円で、その頃は今で言う年収240万円ぐらいで、まあまあ何とか生活できたらしい(本書を読み進む上では、この「2千倍」計算を頭の中で何度となく繰り返すことになる)。但し、モノの価格が2千倍なのに対し、ヒトの収入の方は5千倍に上がっているそうで(500万円が平均ということか)、やはり、日本人の暮らしは確実に豊かになったと捉えるべきなのでしょう。

 因みに、当時と今と比べて、"2千倍"比率を超えて相対的に大きく価格上昇しているのは、住宅(地価)と教育費(大学授業料など)であるとのことで、地価はともかく大学授業料は、大学出が超エリートだった当時と比べると(但し、やがて大学を出ても就職できないような状況も生まれるが)、今は大学進学がかなり普通のことになっているだけに、やはり、今の授業料高はおかしいのではと、個人的には思った次第。

 著者による調査は、日常の生活物価だけでなく、一流企業の初任給や軍人の俸給から花街の玉代まで多岐に及んでいて、どの会社も国立大(帝大)卒と私立大卒では同じ大卒でも初任給が違った、などといったことから、身売りしてきた娼妓の前借りが平均千百円(今の2百万円ぐらいか)だった、ということなどまで、様々なことを本書で初めて知りました。

 数字だけでなく、間に挿入されている庶民生活や風俗に関する記述も興味深く(「援助交際」や「サラ金」なども当時からあった)、但し、本書は"サラリイマン"など一般の都市生活者を中心に書かれていて、一方で、資本家と労働者、都市と農村の貧富の差が今以上にずっと大きいものであったことを指摘することも忘れてはいません(そうした点で、今の中国が1930年代の日本によく似ていると指摘しているのが興味深い)。

「●日本語」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【246】 国広 哲弥 『日本語誤用・慣用小辞典
「●講談社現代新書」の インデックッスへ

「蘊蓄本」と言えばそれまでだが、構成は工夫されている『漢字の常識・非常識』。
 
漢字の常識・非常識.jpg     漢字遊び.gif     『難字と難訓』.jpg
加納 喜光『漢字の常識・非常識 (講談社現代新書)』['89年] 山本昌弘『漢字遊び (講談社現代新書 (783))』['85年] 長谷川 滋成『難字と難訓 (講談社現代新書)』['88年]

 講談社現代新書には、漢字読み書き大会(写研主催)で"漢字博士"になった山本昌弘氏の『漢字遊び』('85年)という本がありましたが、テスト問題形式で、漢字のパズル本といった感じ(読めるけれど書けない字が多かった)。「海」という字が「あ・い・う・え・お」と読めるということ(海女のア、海豚のイ、海胆のウ、海老のエ、海髪(おご)のオ)など、新たに知った薀蓄多かったけれども、どこまでも薀蓄だけで構成されている本という印象も。 
 また、漢文学者・長谷川滋成氏の『難字と難訓』('88年)は、難字の字源解説にウェイトを置き、こちらは白川静の本などに通じるものがありました。

 これらに対し、中国の医学・博物学史が専門である加納喜光氏による本書 『漢字の常識・非常識』('89年)は、漢字の用法にまつわる古代から現代までのエピソード(文化大革命で中国の漢字がどのように変化したかなども紹介されている)をパターン別に紹介していて、その応用としてのクイズなども含まれていますが、蘊蓄が楽しめるとともに、読み物としてもそこそこに味わえるものでした。

 こうして見ると、日本に入ってからかなり柔軟に用法が変わったものも多い(代用や誤用で)ということがわかり、例えば「気迫」などは意味を成しておらず(気が迫る?)、元々「気魄」の代理として用いられたものだとのこと(「緒戦」→「初戦」、「波瀾」→「波乱」などもそう)。
 「旗色鮮明」が「旗幟鮮明」の誤用であることは判るとして、「弱冠29歳」などというのも、「弱冠」は二十歳の異名だそうだから、ちょっと離れすぎで、今までさほど意識しなかったけれど、誤用と言えるかも。

 「忸怩」「齷齪」「髣髴」「齟齬」など著者は"双生字"と洒落て呼んでいますが、共通部位のある字をカップルにして用いて初めて意味を成すものなのだそうです(「檸檬」「葡萄」「蝙蝠」など、意外と多い。「婀娜」「揶揄」「坩堝」などもそう)。
 これらに対し、"雌雄"の組み合わせを"陰陽字"と呼んでいて、「翡翠(ひすい=カワセミ)」「鴛鴦(えんおう=オシドリ)」などがそうですが、「鳳凰」「麒麟」というのも"陰陽字"であるとのこと(同時に"双生字"でもあるものが多い)。「虹」はオスのにじで、メスのにじを表す字が別にあるそうです。
 また、「卓袱(しっぽく)料理」の「卓袱」に「台」をつけると「卓袱(ちゃぶ)台」になるけれども、こういうのは、"二重人格"の字と言えるようです。

 「虫」が病気のシンボルであるというのは興味深いですが、「蟲惑」の「蟲」が、虫を使った呪術を表わすということは、白川静も言っていました。
 知らなかったのは、「美人」が宮廷の女官名であったということ(項羽の「虞美人」などもそう)、「夫人」も同じく女官名でしたが、美人より遥かに位は上だったそうな。

 この手の本は「蘊蓄本」と言えばそれまでで、(本書は構成が工夫されている方だが、それでも)読んでもさほど残らないのだけれども、その分、何回でも読み返せる?

《読書MEMO》
●山本昌弘 『漢字遊び』
①画数最大は「龍×4」の64画 →「雲×3+龍×3」の「たいと」84画説も
②読み方の多い漢字は「生」 200通り近くあるという説も
③「子子子子子子子子子子子子」→「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」
④「海海海海海」→「あいうえお」
⑤「髯」はほお、「髭」は口、「鬚」はあごのひげ
⑥漢字の2番目の音は「イウキクチツン」の7つのみ(苦痛いんちき)
⑦「春夏冬ニ升五合」→「商いますます繁盛」

「●日本語」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【873】 白川 静 『漢字百話
「●日本人論・日本文化論」の インデックッスへ 「●講談社現代新書」の インデックッスへ

日本人の言語表現を通し、その心性を浮き彫りに。一番驚いたのは、著者の博覧強記ぶり。

日本人の言語表現.gif日本人の言語表現 (講談社現代新書 410)』 ['75年] 日本語 金田一春彦.jpg 『日本語』 岩波新書 ['57年]

日本人の言語表現862.JPG 日本人の言語表現が諸外国人に比べてどのような特色を持つかを論じた本で、著者は、自著『日本語』('57年/岩波新書)が日本語の「ラング」(言語体系)の特色を論じたのに対し、前著『日本語の生理と心理』('62年/至文堂)をベースとした本書は、日本語の「パロール」の性格を考えたものだと言っています(「パロール」とは何かと言うと、言語活動には「ラング(言語)」と「パロール(発話)」があり、「ラング」を言語体系とすれば、「パロール」は個人の意思や思想を伝えるために発する「お喋り」と言ってもいいだろう。この分類をしたソシュールは、言語学は「ラング」のみを対象とすべきだとしたが、そうした意味においても、本書は、「日本語論」であると同時に「日本人論」であると言える)。

 古今の様々な使用例を引き、日本語表現の「言い過ぎず、語り過ぎず」「努めて短く済ます」、「なるべく穏やかに表し」「間接表現を喜ぶ」といった特徴と、その背後にある日本人の心性を浮き彫りにしていますが、本書の特徴は何といっても、その使用例の"引用"の多さにあるでしょう。

 『古事記』『日本書紀』『万葉集』『今昔物語』『伊勢物語』『源氏物語』『枕草子』『平家物語』『大鏡』『古今著聞集』『源平盛衰記』『義経記』『梁塵秘抄』『徒然草』といった古典から、西鶴の『武道伝来記』『諸国話』『世間胸算用』、或いは『里見八犬伝』『浮世風呂』などの江戸文学、『葉隠』や『奥の細道』から洒落本まで、更に、歌舞伎(『絵本太功記』『仮名手本忠臣蔵』『白波五人男』など)、狂言、浄瑠璃、謡曲、落語、浪曲、常磐津に至るまで、近代文学では、永井荷風(『濹東綺譚』)、芥川龍之介(『貝殻』)、尾崎紅葉(『金色夜叉』)、夏目漱石(『坊ちゃん』)、泉鏡花(『婦系図』)、志賀直哉(『城の崎にて』『暗夜行路』)、小泉八雲といった近代文学、これに山崎豊子の『華麗なる一族』など現代文学も加わり、ラジオ・テレビなどのアナウンサーやタレント(黒柳徹子や大橋巨泉も出てくる)の言葉使いなども例として引いています。

ことばと文化.jpg「甘え」の構造5.jpg日本人とユダヤ人.jpg日本人の論理構造.jpg日本人の意識構造(1970).jpg 更に、べネディクト『菊と刀』、会田雄次『日本人の意識構造』『日本人の忘れもの』、板坂元『日本人の論理構造』ベンダサン(山本七平)『日本人とユダヤ人』土井健郎『甘えの構造』、南博『日本人の心理』など、先行する多くの日本人論を参照し、祖父江孝男、鶴見俊輔、上甲幹一(『日本人の言語生活』)、渡辺紳一郎、清水幾太郎、ドナルド・キーン、鈴木孝夫など多くの学者・評論家の言説も引いています(これらは、ほんの一部に過ぎない)。

 あまりに引用が多すぎて、解説がコメント的になり、「論」としての印象が弱い感じもしますが、作品のエッセンスを読み物的に一気に読ませて、全体のニュアンスとして日本語の「喋り」の特質を読者に感覚的に掴ませようとする試みともとれなくもありません(ちょっと、穿った見方か?)。

 個人的には、「辞世の句」とかいうのは日本においてのみ顕著に見られるもので、新聞などに俳壇や歌壇があって一般の人が投稿するなどというのも外国人から見ると驚きであるというのが印象に残りましたが、元々、俳句・短歌というのが日本独特の短詩型だからなあ(鈴木大拙、李御寧、板坂元などの日本人論にも、俳諧論は必ず出てくる)。
むしろ、一番驚いた(圧倒された)のは、著者の博覧強記ぶりだったかも。

About this Archive

This page is an archive of recent entries in the 講談社現代新書 category.

中公新書 is the previous category.

講談社学術文庫 is the next category.

Find recent content on the main index or look in the archives to find all content.

Categories

Pages

Powered by Movable Type 6.1.1