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「タレント」とはどういう人たちなのかを説明した部分が興味深かった。

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「タレント」の時代 世界で勝ち続ける企業の人材戦略論 (講談社現代新書)』['15年]

 本書の著者は、タレントマネジメント分野の人材コンサルタントとして、日本の優秀な技術者が「ものづくり敗戦」の過程でリストラされる場面を散々見てきたとのことです。著者は、日本企業の多くは「タレントを生かす仕組み」を持たずにここまできてしまったとし、今日の変化と競争の激しい時代におけるタレントマネジメントの重要性とその在り方を、本書では掘り下げています。

 3部構成の第1部では、日本企業がおよび日本がうまくいかなくなっている現状の分析を通して、ものつくりやサービスにおいて人々が求めるものがどう作りだされるのかを解説し、そこにおいては設計情報の質が決定的に重要であり、設計情報を作っていく過程で中心的な役割となる優れた人材、すなわち「タレント」が重要になるとしています。そのことを受け、第2部で、タレントとはどういう人たちなのかを説明し、さらに第3部では、タレントを生かす仕組みについて解説しています。

 著者は、優秀な人材を集めても利益に結びつけられず、グローバル競争に敗れた日本企業に対し、「売れないモノを高品質に作り上げたのでは、はじめから終わっている」として、自身の属したことのある通信業界や、凋落を続ける電機産業が犯した誤りを分析し、市場の成熟化や、世の中の情報化・知識化・グローバル化といった流れの中で、そうしたトレンドを正しく読み取って今でも勝ち続けているトヨタと、負け続けている日本のエレクトロニクス産業、あるいはソニーの迷走とアップルの躍進といったように対比的に捉え、「タレントを生かす仕組み」のどこに違いがあったかを解説しています。

 第2部終わりから第3部にかけて、タレントとそれ以外の人の知の領域の違いを示し、タレントを生かすのが難しい理由として、B級人材はA級人材を評価できない、ゆえに採用しない、登用しない、排除する―といった悪循環の構図を分かりやすく解説しています。また、第3部にある、「リーン・スタートアップ」というシリコンバレー発として日本でも注目されている方法が、実は米国が日本企業(トヨタ)に学んだものだったといった話なども興味深いのですが、後半になるとこうした生産工学的な視点からの分析が多くなり、成功モデルとしてトヨタの「主査」制度に注目している点などもやや特定のケーススタディに寄った考察のように思えました。

 人事パーソンの読み処としては、第1部の現状分析と第3部の解決編の繋ぎの部分にあたる第2部での、タレントとはどういう人たちなのかを規定している箇所であるかもしれません。

 第2部で著者は、労働の内容別の賃金相場について、①知識を伴わない定型労働-時給1000円、②改善労働を伴う非定型労働-年収300万~500万円、③知識を伴う定型労働-年収400万~600万円、④複数分野の知識を伴う創造的知識労働-年収1000万~数億円とし、日本ではほとんどの公務員はハタラキに対して賃金が割高であるのに対し、年収的には3000万円~5000万円程度貰っていても不思議でないタレントが、年収600万円~1000万円くらいしか貰っていないとしています。

 それでは、タレントとはどういう人たちなのか―著者によれば、タレントとプロフェッショナルやスペシャリストの違いは、「知識あり・定型労働、既知の事柄を確実にこなす」のがプロフェッショナルであり、「知識あり・定型労働、特定分野の知識に詳しい専門家」スぺシャリストであるのに対し、「複数分野の知識あり、創造的知識労働、目的的・改革・改善・地頭・洞察・未知を既知に変える能力」タレントであるとのこと、単なるスペシャリストは、知識を活用する「目的」よりも「知識そのもの」にアイデンティティを持っている人が多く、プロフェッショナルも同様であるのに対し、優れたタレントは、知識にせよ職業にせよ、「目的」を達成するための「手段」だと考えているところに、際立った特徴があり、そのため、タレントは目的的に知識を獲得し、獲得した知識を手段として使うとしています。

 Amazon,comでの本書の評価は高いようですが、どちらかというと、第1部と第3部はケーススタディ的な要素のウェイトが高く、本書の繋ぎにあたる第2部が、ある意味で最もコンセプチュアルで且つすっきりした(個人的に腑に落ちるといった)論考がなされているように思いました。

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かつての原発労働者を追ったインタビュー。安全教育や被曝対策は前からいい加減だった。

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原発労働者 講談社現代新書 L.jpg    寺尾 紗穂.jpg
原発労働者 (講談社現代新書)』['15年]    寺尾 紗穂 氏(シンガーソングライター)

闇に消される原発被曝者_.jpg シンガーソングライターでエッセイストでもある著者(自らの修士論文が『評伝川島芳子―男装のエトランゼ』('08年/文春新書)として刊行されていたりもする)が、報道写真家の樋口健二氏による、1980年くらいまでの原発労働者を追って彼らに重い口を開いてもらい書かれたルポ『闇に消される原発被曝者』('81年/三一書房)に触発され、自らも、原発労働に従事していた人たちを訪ねて労働現場の模様を聞き取ったルポです(原発労働の現場を自らが原発労働者として各地の発電所で働いて取材した、堀江邦夫氏の『原発ジプシー』('79年/現代書館)からも示唆を受けている)。

闇に消される原発被曝者』['11年/八月書院(増補新版)]

 原発労働者というと福島原発事故の後処理に携わる人を思い浮かべがちですが、本書での聴き取りの対象は福島事故以前から原発労働に従事していた人が殆どで(つまり'平時'に働いていた人)、福島原発に限らず、柏崎狩羽原発や浜岡原発で働いていた人たちも含まれていますが、全6章から成るうちの第1章から第4章にかけてそれぞれ実名で登場する4人の話が(凄まじい話もあったりして)とりわけ印象に残りました。日常的な定期検査やトラブル処理をこなしてきた人たちの話ですが、当時から安全教育や被曝対策がいかにいい加減であったかということ、そうした危険な状況下での過酷な原発労働の実態が浮き彫りにされています。

 著者のインタビューを受けた人のうちの何人かは、そうした経験を経て原発労働の孕む危険性を社会に知らせる活動に携わるようになったり、また、そうした活動と併せて自らの生き方を見直したりもしているわけで、インタビューを受けた人の生き様も伝わってきました。但し、こうした人たちも最初は仕事が無く生活のために、過酷だが給金のいい原発労働に携わるようになった人もいて、実際、彼らの話から、多くのそうした生活困窮者に近い人が原発労働に"流れ着く"といった実態も窺えました(このことに最初にフォーカスしたのが堀江邦夫氏の『原発ジプシー』だと思うが)。

 従って、原発に基本的には反対し、将来は原発に依存しない社会をつくるべきだとしながらも、現状において雇用を下支えしている面もあることから、すぐに全てを廃止するのは難しいとの見方をする人もいて、複雑な現場の事情を反映しているように思えました。

 一方では、外国人労働者が「一回200とか300ミリ被曝する燃料プール内作業」をやっていて、「一回200万円とか300万円もらえるらしい」といった話もあり、これはインタビューされた人の実体験ではなく、彼らの伝聞情報ではありますが、プール潜水のみならず、原子炉内での労働にも「黒人」が駆り出されているというのは元東電社員の証言にもあるとのことで、この辺りをもう少し掘り下げて欲しかった気もします。

 日本で働く労働者である限り労働基準法や安全衛生法の適用対象となるわけですが、おそらく、そうした「黒人」たちは請負労働であり(しかも、法律で禁じられている多重請負である公算が高い)「労働者」扱いにはなっていないのではないでしょうか。それ以前に、そうした説明を充分受けることもなく、また、彼ら自身が、将来の健康上の不安などよりも目先の給金に惹かれてそうした労働に従事しているのではないかと思われます。原発内部の低技術労働者は釜ヶ崎や山谷から借り出されてくるという話もあり、充分な安全教育・安全対策が講じられないまま、ただ今を生きていくためだけに働いている原発労働者が多くいるとなれば、日本人とて流れとしては同じでしょう。

 こうしたことは『原発ジプシー』でも指摘されていたことであり、今すぐに原発を全面廃止した場合、現在働いている人の仕事は一体どうするのかという問題もさることながら、一方で、原発の危険性がある程度認知された今日においては、格差社会が産み出す生活困窮者との相補関係の上に原発労働が成り立っているとの見方も成り立ち、こんなことを続けていていいのかという思いがしました。基本的には、やはり1つずつ廃炉にしていくべきでしょう。それだけでも相当の労働力の投入が必要なわけで、充分に雇用の場を提供することになるのではないでしょうか。原発で潤ってきた地方自治体などは、その間に、完全廃炉以降の財政的自立策を講じていくべきでしょう。

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終わりが無い福島第一原発事故の検証。これを読むと原発はやめた方がいいと思わざるを得ない。

福島第一原発事故 7つの謎0.jpg福島第一原発事故 7つの謎1.jpg福島第一原発事故 7つの謎 (講談社現代新書)』['15年]

福島第一原発事故 7つの謎2.png NHKスペシャルのメルトダウンシリーズとして5つの番組を放送してきた取材班が、取材の過程で新たな証言等を得ることで、それまでわかった気でいた事実関係の確度が怪しくなり、新たな謎として立ちはだかってきたとして、その主だったものを7つ取り上げて、章ごとに検証と考察を行っています。

 まず第1章で、事故当初の3月11日、1号機の非常用冷却装置が、津波直後から動いていなかったことに、なぜ気づかなかったのかに迫り、吉田所長らは、冷却装置が止まっていることに気がつくチャンスを難度も見逃しており、なぜ、チャンスは見過ごされたのかを探っています。

 第2章では、翌12日、メルトダウンした1号機の危機を回避するためのベントが、なぜ長時間できなかったのか、その謎を解き明かし、第3章では、「1号機のベントは成功した」というのが確定した事実であったにも関わらず、吉田所長は生前に「自分は今になっても、ベントができたかどうか自信がない」という言葉を遺しており、吉田所長のこの謎の言葉をきっかけに、1号機のベントを徹底検証した結果、浮かび上がってきた新たな事実を伝えています。

福島原発   .jpg 第4章では、なぜ爆発しなかった2号機で大量の放射性物質の放出があったのか、第5章では、3号機への消防車の注水がなぜメルトダウンを防ぐ役割を果たせなかったのか、消防車が送り込んだ400トンの水はどこに消えたのか、第6章では、2号機のSR弁と呼ばれる緊急時の減圧装置がなぜ動かなかったのかについて、そして最終第7章では、「最後の砦」とされていた格納容器が壊れたのはなぜか、原発内部の最新の調査結果にメスを入れています。


手前から福島第一原発1号機、2号機、3号機、4号機

 時間を経て明らかになった意外な事実もあれば、まだ真相がよく判らない部分もあり、言えることは、1号機から3号機までそれぞれにおいて、異なる不測の事態が複数いっぺんに起きたということであり、今回の福島第一原発事故から多くの教訓を学んで今後の不測の事態に対処するというのが電力会社各社のスタンスですが、今回の事故でこれだけ対応しきれなくて、実際今度は別の原発で同様の事故が起きた場合、今回と同じように全く"経験"の無い所員や技術者たちが、知識だけで万全の対処が可能なのか大いに疑問です。

 本書を読むと、福島第一原発事故の検証には終わりが無いような気もします。そもそも、福島第一原発事故における、1号機から3号機までそれぞれにおいて起きた事態の多様性もさることながら、今度どこかで原発が被災した際に、その何れかと同じような事態が生じる可能性もあれば、それらとは全く異なる、新たな不測の事態が生じる可能性も大いに孕んでいるように思われ、電力会社がそれらに完璧に対応し切れるというイメージは湧きにくいなあと。やはり原発はやめた方がいいと思わざるを得ませんでした。

再稼働の川内原発.jpg国内の原発としては1年11か月ぶりに再稼働した鹿児島県の川内原発1号機〔NHKニュースウェブ・2015(平成27)年8月13日〕

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読んでいて気が滅入るルポだが、知っておくべき日本の労働現場の一面。

中高年ブラック派遣.jpg中高年ブラック派遣 講談社現代新書.jpg 中沢 彰吾.jpg 中沢 彰吾 氏 [Yahoo ニュース これではまるで「人間キャッチボール」!安倍官邸が推し進める規制緩和の弊害と人材派遣業界の闇

中高年ブラック派遣 人材派遣業界の闇 (講談社現代新書)

 ノンフィクションライターによる日雇い派遣業の実態の体験的ルポルタージュですが、甘い言葉(労働条件・待遇)を示して中高年を勧誘し、それが仕事場に行ってみれば年長者であることに配慮するどころか、ヒトをヒトとしてではなく単なる労働力として扱い、反抗すれば恫喝し、気に入らなければ切り捨てていくという、まさに著者が言うところの「奴隷労働」市場のような状況が業界内において蔓延していることが窺える内容でした。

ブラック企業1.jpg 「大佛次郎論壇賞」を受賞した今野晴貴氏の『ブラック企業―日本を食いつぶす妖怪』('12年/文春新書)で、「ブラック企業」の特徴として、正社員を大量に採用して労働基準法ぎりぎりのラインで酷使、消耗、スポイルしてはまた新たな採用を繰り返していることが指摘され、「非正規」ではなく「正社員」が、また、「基準法違反」ではなく「基準法ぎりぎり」というのが新たな着眼点としてクローズアップされましたが、一方で非正規雇用労働者を酷使、消耗する"ブラック企業"も現に多くあるわけであり、同著者の『ブラック企業2―「虐待型管理」の真相』('12年/文春新書)では「ブラックバイト」という言葉が使われています。

 そして、非正規雇用のもう1つの柱である派遣労働者について取り上げたのが本書です。といっても、日雇い派遣の実態が社会問題化され始めたころから、こうした実態を問題視する声はあったように思われますが、本書の場合、その中でも「中高年」にフォーカスしている点が1つの大きな特徴だと思います。

 著者は東京大学卒業後、毎日放送(MBS)に入社し、アナウンサーや記者として勤務した後、身内の介護のために退職し、著述業に転じた人。58歳にして体験した派遣労働の現場では、自分の息子のような年齢の若者に、「ほんとにおまえは馬鹿だな」「いい年して、どうして人並みのことができないんだ!」「いったいここへ何しに来てんだ」「もう来るなよ。てめえみたいなじじい、いらねえから」などと口汚く罵詈雑言を浴びせられたこともあたっということです。

 ここまで言われたら、企業名を出してもいいのではないかという気もしますが、暴露ジャーナリズムとは一線を画すつもりなのか、業界内の特定の1社2社に限ったことではないことを示唆するためか、新聞記事になったような超有名どころのブラック企業はともかく、自らが潜入した"ブラック派遣"会社の名前は明かしていません(再潜入するつもり?)。

 派遣法の改正案が国会で審議される折でもあり、改正のドラフトとしては、労働政策審議会(職業安定分科会労働力需給制度部会)が昨年('14年)に報告(建議)した、専門26業務の撤廃、新しい期間制限(個人単位と事業所単位)、派遣先の事業所単位の期間制限(3年、組合等の意見聴取で延長可)などが骨子としてあり、その中にも幾つかのパターン案があって最終的にどうかなるか、そもそも法案そのものが可決されかどうかも分かりませんが['15年5月末現在]、何れにせよ、政府は経済界の意向を受け、規制緩和の方向へ舵を切ろうとしているのは違いありません。

 今回の改正に関しては、賛否両論ありますが、民主党政権下で、非正規労働者の雇用を安定させようと制定された「無期転換ルール」が平成25年春に施行され、一方が申入れをしただけで本来は合意の上になりたつべきである「契約」が成立してしまうということの方が、個人的には、労働契約の本筋からしてむしろどうだったかなという思いがあります。それさえも早期の契約打ち切りを招いて雇用が不安定になる危険性を孕んでいるとの指摘がありましたが、今回も同様の指摘があり、規制強化路線の揺り戻しであるかのように派遣法を改正するというのは、非正規労働者の問題を政府は本気になって取り組もうとはしていないのではないかという「労側」の声もあります。個人的には、今回の改正案は、派遣労働者の保護よりも派遣先の常用労働者の保護を重視する「常用代替防止」思想からやっと抜け出すと共に、「専門26業務」というとっくに使えなくなっているフレームからも脱却出来るという意味で、法改正の趣旨そのものには肯定的に捉えています。あとは、人材派遣業の業界内の各企業の質のバラツキの問題と、派遣労働者を使う企業側の質のバラツキの問題かなあと。

塩崎恭久厚生労働大臣.jpg 塩崎恭久厚生労働大臣が全国の労働局長にブラック企業の公表を指示したというニュースが最近ありましたが(2015年5月18日)、一方で、働く側も派遣などの「多様な働き方」を望んでいるとしており、そうなると、本書にあるブッラク派遣の実態は企業名の公表で対処出来るような業界内での極めて局所的・例外的実態ということなのでしょうか。個人的にはそうは思えず、人材派遣業界のある一定数の企業は、こうした再就職難の中高年を更にスポイルし消耗するという構造の上に成り立っているように思えます。たとえそのことを糾弾されても、そうした企業は、自分たちが再就職難の中高年の受け皿になっているのだとかいった理屈を捏ねるんだろなあ。

 読んでいて気が滅入るルポですが、知っておくべき日本の労働現場の一面でしょう。

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上から目線で尚且つ分かりにくい。昭和的なものに凝り固まっている旧来型人事の体現者か。

働く。なぜ? 講談社現代新書1.jpg 中澤 二朗 『働く。なぜ?』.JPG働く。なぜ? (講談社現代新書)「働くこと」を企業と大人にたずねたい.jpg 『「働くこと」を企業と大人にたずねたい ―これから社会へ出る人のための仕事の物語』['11年]

 自分で勝手に名付けた「"やや中古"本に光を」シリーズ第1弾(エントリー№2270)。以前に著者の『「働くこと」を企業と大人にたずねたい―これから社会へ出る人のための仕事の物語』('11年/東洋経済新報社)を読み、巷ではそこそこ好評であるのに自分には今一つぴんと来ず、自分の理解力が足りないのか、或いはそもそも相性が悪いのかなどと思ったりもしました。文中にあまりに"考え中"のことが多いような気がして、しかもその"考え中"のことを"考え中"のまま書いているような気がし、そのモヤっとした感じが全体にも敷衍されていて、図説等にもその傾向がみられたように思います。

 今回、同じ著者の本書を読んでみて、また同じような印象を持ちました。前著を読んだ際も感じましたが、著者は真面目な人なのでしょう。今回も、停滞する日本経済がアジア全体の成長に置いていかれ気味な今日、日本で働くことの意味を今一度見つめ直し問い直そうとする真摯な姿勢は感じられました。しかし、如何せん、"考え中"のことを"考え中"のまま書いているという前著での著者のクセは治っていないどころか進行しており、理解に苦しむ図説が再三登場します。

 今回も自分だけが物分かりが悪いのかと思って(ちょっと心配になって?)Amazon.comのレビューなどを見ると、ほかにもそういう人は多くいたようです。まあ、前著同様に良かったという人もいるようですが、個人的には、あまりに我田引水、唯我独尊的な論理展開並びに見せ方に感じられ、大企業の人事出身者に時折見られる上から目線的なものを感じました。

 今まで1万人と面接したとか、ベンチャー企業を起こして売り込みをかけているわけでもないのに、そんなことを誇ってはいけません。冒頭の留学生の疑問に対する回答をはじめ、「日本型雇用の素晴らしさ」を説き、「40年ひとつの会社で働くことの意味」を語っているところなど、逆にこれまでの経験が仇(あだ)になって、昭和的なものに凝り固まってそこから抜け出せないでいる旧来型の人事の体現者のように思えてしまいます。

 「日本は就職ではなく就社」なんて今頃言っているし、「石の上にも三年、下積み十年」という考えが著者の職業人生の礎でありモットーであったのかもしれないけれど、それを上から目線で人に押しつけるのはマズイのではないでしょうか(人事の人って自分が特別な人間だと思い込んでいる人がたまにいるけれど)。

 後半になると「名著名言」の引用だらけで、う~ん、「第2の佐々木常夫」を目指しているのか、この人は。それは著者の勝手ですが、Amazon.comのレビューでも指摘されていたように、M.ヴェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」について致命的な誤読があります。それも旧約聖書と読み間違えたのかというくらい真逆の読み方になっていて、あとがきで謝辞を献じられている大先生らは本書についてどう思っているのか、老婆心ながらもやや心配になりました。本書に関して言えば、「中古本」に光は当たらずじまいか。

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自社の管理職任用アセスメントが形骸化していないかどうかをチェックするうえでいい本。

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部長の資格 アセスメントから見たマネジメント能力の正体 (講談社現代新書)』['13年]

部長コマ.jpg 40年余に渡って経営コンサルティングに携わり、とりわけこの20年は管理職層を対象に、人材の能力評価と能力開発を主題とするヒューマン・アセスメントを行うことで企業を支援してきた著者が、ビジネスマンを読者として想定し、上級管理職である部長に焦点を合せ、彼らの仕事ぶりや様々な言動特徴を取り上げ、彼らのマネジメント能力とその開発方法を解説した本です。

 第1章で、様々なタイプの「困った部長」を大きく4つのグループ(1.的確な意思決定ができない部長、2.計画・管理がきちんとできない部長、3.対人能力に問題がある部長、4.個人特性の面で様々な問題を抱える部長)に分け、さらにそれらを18のタイプに細分化しています。体系的に分類されているだけでなく、18のタイプごとにそれぞれ具体的な言動例を挙げ、更にそれらに共通する特徴を整理し、必要に応じてケース事例を取り上げ、そうした部長が生まれる背景を分析し、他に与える影響などの問題点を解説しています。読んでいて分かりやすく、個人的にはそうしたタイプの「困った部長」に思い当るフシが多々ありました。章の終わりでは、それら「困った部長」への対処方法を概説しています。

 第2章では、部長の役割は何なのか、課長とどこが違うのか、マネジメント能力とは何かを整理しています。近年、経営環境が厳しさを増す中で、部長の役割が、かつての「部の目標達成を管理統制すること」から「所管する部門をより合目的的で効率的な組織に変え、より大きな付加価値を産み出すこと」へ変化してきているとしたうえで、そのような役割を遂行する能力とは何か、課長における求られる能力との違いはどこにあるのかを明らかにしています。

 第3章では、優秀な管理職の証と見做されている一般常識が間違っているケースを取り上げています。例えば一般的にできる部長はリーダーシップに富んでいると見做されますが、その部長にリーダーシップがあるかどうかは、そのリーダーシップが何を指すのか、その組織に本当に必要で効果的なものであるかで決まるとしています(リーダーシップがかえって有害になるケースも挙げている点が興味深い)。

 最後の第4章では、部長の能力開発にフォーカスして、実際の能力開発のステップと方法を示しています。本書の一番の狙いは、読者に気づきを促し、自らのマネジメント能力の開発に役立ててもらうこと、状況に合った効果的な言動を身につけ、タイミングよく発現してもらうことにあります。

 本書によれば、「困った部長」に不足しているマネジメント能力は、「考えてマネジメントする能力(狭義の意思決定能力と計画管理能力)」「人を活かし、組織を機能化させる能力(対人・組織マネジメント能力)」「能力全般の基盤となる個人特性(パーソナリティ)」に分けられ、それぞれ言動に現れるとのことです。「困った部長」のタイプの特徴が分かり易く活き活きと書かれていて、網羅的・体系的でありながら、項目主義的なテキストで終わっていない点がいいです。

部長の資格00.jpg ビジネスパーソンにとって啓発される要素が多いばかりでなく、人事パーソンの視点から見ても、上級管理職についてのアセスメントの重点項目を分かり易く説いたものと言えます。社内に「なんであんな人が部長をやっているんだろう」というような「困った部長」がいる企業の人事パーソンには、自社の管理職任用アセスメントが形骸化していないかどうかをチェックするうえでも、是非一読をお勧めします。

 こうした「上司学」的な本は毎月のように書店に並びますが、中身がスカスカのものも少なくなく、やはりその道のベテランが書いたものの方がいいように思います。本書は新書で読めるのもいいです。

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意外と言うよりは、すんなり腑に落ちる(分析上の)結論ではあったが、提案部分は疑問。

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日本経済の奇妙な常識00_.jpg

日本経済の奇妙な常識 (講談社現代新書)

 全5章構成で、章立ては次の通り。
  第1章 アメリカ国債の謎(コナンドラム)
  第2章 資源価格高騰と日本の賃金デフレ
  第3章 暴落とリスクの金融経済学
  第4章 円高対策という名の通貨戦争
  第5章 財源を考える
 著者自身が述べているように、アメリカ国債の謎を追いかけながら世界経済を見る第1章「アメリカ国債の謎(コナンドラム)」と、円相場の謎を中心に日本経済を見る第4章「円高対策という名の通貨戦争」が本書の中核部分です。

 第1章で言う「アメリカ国債の謎」とは、多くの国の資金がアメリカ国債に流れているという周知の事実である一方で、2011年のアメリカ国債の格下げにかかわらず、金利が下降している事実の謎を指していますが、アメリカの経常赤字と財政赤字という「双子の赤字」の構造変容を示すことで、むしろ、アメリカ国債が世界景気の維持装置の中核部品としてあることを分かり易く説いたものとなっています。

マクドナルドのビックマック.jpg 第4章では、購買力平価から見た円の価値を探っていますが、マクドナルドのビックマックの購買力平価を基準に、各国の通貨価値を探っている点が興味深く、どうしても対ドルレート基準でのみ円の価値を見ようとしがちになる世間に対し、新たな価値基準を示すとともに(これで見ると必ずしも"円高"ではないということになる。但し、これは、"こんな見方も出来る"程度に捉えるべきではないか)、日銀の円安にするための市場介入の失敗及び各国の冷ややかな対応の背景が解説されています。

 それらの指摘も興味深いですが、むしろ、第2章「資源価格高騰と賃金デフレ」において、原油などの資源価格が上昇しても日本の製品がなぜそれほど値上がりしないのかという疑問について、中小企業はコスト高を価格に転嫁できずいるためであるとし、その分立場が弱い労働者に皺寄せがいって賃金デフレを引き起こしており、そうした日本経済が負のスパイラルに突入した転換点が「一九九八年」であることを示していることの方が、自分のような一般読者には興味深かったかも。この頃に、日本の自殺者数は一気に増えているんだなあと。

 第5章「財源を考える」では、増税してもいいことはなく、むしろ小幅な増税ほど危険であり、その前に東日本大震災の復興連動債を発行すべきだという提案をしており、全体を通して、物価が下落しても賃金がそれ以上に下がれば、日本経済は回復しないという、意外と言うよりは、すんなり腑に落ちる(分析上の)結論となっています。

 このことは、新政権がインフレターゲットなどのアベノミックスによって景気浮揚を図っている現在においてもパラレルで当て嵌まると言え、つまり、物価上昇率よりも賃金上昇率の方が低ければ、相対的に見てこれまでとそう状況は変わらないということになるのでは。

 本書刊行から1年半。ここにきての円高で、自動車メーカーなどの輸出産業は一時的に潤い、賞与なども増やしているようですが、小麦などの輸入原材料を扱う食品メーカーやスーパーがそう簡単にコスト高を価格に転嫁できるわけでもなく、そうすると労働分配率を抑えるしかなく、結局、一部の大企業が内部留保を更に膨らませ、多くの労働者は引き続き物価と賃金の上昇率のギャップに苦しみ続けるというのがアベノミックスの行き着く先であるように思えてなりません。

 経済の仕組みを理解する上では参考になりましたが(分析上の結論にはほぼ賛同)、著者は元銀行員であるせいか、一方的に大企業に責任を押し付けている印象もあるし、デリバティブ国債なんて発行して大丈夫なのかなという気も。何だか、金融商品の売り込みみたいになっているよ(提案上の結論には疑問符。著者の新著『日本の景気は賃金が決める』(2013/04 講談社現代新書)も同じような論調なんだろななあ)。

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障害の体系というものを意識すると意外と難しいかも。中級以上向けの「入門書」?

パーソナリティ障害とは何か 講談社現代新書.jpgパーソナリティ障害とは何か (講談社現代新書)

 本書におけるパーソナリティ障害の各タイプの「個々の説明」は比較的分かり易かったのですが、所々突然難しくなる部分もあったりして、特に最初の方のパーソナリティ障害の「体系の説明」が難しかった...。

 そもそも、DSM‐Ⅳ(米国精神医学会の診断基準)に定義される10タイプの人格障害を、本書では以下の通りに組み直したと冒頭にあり、ごく簡単な説明のもとにこれをいきなり示されても、初学者にはどうしてこうした組み換えをしたのかよく分からないのではないかと思いました。

 A群:内面の感情や思考が重みを持ちやすいタイプ
  1.スキゾイド・パーソナリティ障害 (対象に呑み込まれる不安)
   (ⅰ)スキゾイド・パーソナリティ障害
   (ⅱ)スキゾタイパル・パーソナリティ障害
  2.サイクロイド・パーソナリティ障害 (強い一体化願望)
  3.妄想性パーソナリティ障害 (投影という防衛機制)
 B群:主観と客観とが混じりやすい対象関係を持つ
  4.反社会性パーソナリティ障害 (欠落した規範意識)
  5.境界性パーソナリティ障害 (見捨てられ不安)
  6.自己愛性パーソナリティ障害 (尊大な自己の背後)
 C群:外界の価値観を人格の中に組み込んで、存在のありようを外界と対峙させる
  7.回避性パーソナリティ障害 (恥の心理)
  8.強迫性パーソナリティ障害 (感情の切り離し)
  9.演技性パーソナリティ障害 (他の注目を惹こうとする心理)

 まあ、解説を進める上での前提であり、ことわり書であって、冒頭にくるのはやむ得ないし、本文を読んでいくうちに、著者の豊富な臨床経験に基づくカテゴライズであることは何となく掴めてくるのですが、こうなると専門家の数だけタイプ分けの仕方があるということにもなってくるような気がします。

 DSM‐Ⅳの分類にもとより難点があることは、多くの専門家が指摘していることであり、実際、他書ではまた違った「組み換え」や「復活」が見られますが、著者の分類で最も特徴的な点は、クレッチマーによって「循環気質(サイクロイド)」という名のもとに気分障害(躁うつ病)の病前性格として提唱され、現在はDSM診断体系で気分障害(双極性障害)の項に吸収されているサイクロイド・パーソナリティを、対象関係を得ると楽観的になり失うと悲観的になる人格として「サイクロイド・パーソナリティ障害」という呼び名で、人格障害の一類型として「復活」させている点かと思われます。

 著者によれば、サイクロイド・パーソナリティの人は身近に沢山いて、その性格類型を基盤にした気分障害、とりわけ双極性障害(躁うつ病)が注目を浴びるようになるにつれその意義は増し、DSM‐Ⅳにある「依存性パーソナリティ障害」も、その中核的ケースはサイクロイドではないかと考えるようになったとのこと(従って、著者の分類からは「依存性パーソナリティ障害」は除かれている)。

 著者は、パーソナリティ障害はパーソナリティの病気であるという考えのもとに「○○パーソナリティ」と「○○パーソナリティ障害」を区分していて、「○○パーソナリティ」であっても世の中に適合していくことができる、その道筋を本書で、簡潔ではあるものの具体的に示していて、その視点は参考になりました。

 サイクロイド・パーソナリティの捉え方も同じような視点からきていると思われますが、「入門書ほど書いた人の考え方が如実に表れる」ことの典型であるようにも思いました。

 「自己愛性パーソナリティ障害の特徴は、自己愛的な人の周辺で精神科患者が生産されることである」などの記述は腑に落ちるものであり(著者はこれを「自己愛性パーソナリティ障害代理症」と呼んでいる)、基本的には良書だと思いますが、体系というものを意識すると意外と難しいかも。中級以上向けの「入門書」?(最近、講談社現代新書のレベル設定がよく分からない)
 初学者は本書に止まらず、他の専門家が書いたものも読まれることお勧めします。

《読書MEMO》
●(参考)DSM-IV-TRによる分類
クラスターA
風変わりで自閉的で妄想を持ちやすく奇異で閉じこもりがちな性質を持つ。
1 妄想性パーソナリティ障害
2 スキゾイド・パーソナリティ障害
3 統合失調型パーソナリティ障害
クラスターB
感情の混乱が激しく演技的で情緒的なのが特徴的。ストレスに対して脆弱で、他人を巻き込む事が多い。
4 反社会性パーソナリティ障害
5 境界性パーソナリティ障害
6 演技性パーソナリティ障害
7 自己愛性パーソナリティ障害
クラスターC
不安や恐怖心が強い性質を持つ。周りの評価が気になりそれがストレスとなる性向がある。
8 回避性パーソナリティ障害
9 依存性パーソナリティ障害
10 強迫性パーソナリティ障害

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「人の命を奪う自由」が裁判員という一般市民に委ねられたという現実を踏まえた良書。

死刑と正義 (講談社現代新書).jpg  『死刑と正義 (講談社現代新書)』['12年] 森 炎.png 森 炎 氏(略歴下記)

 極刑である「死刑」とは一体どのような基準で決まるかを元裁判官が考察した本で、近年の法廷では、凶悪事件において極刑でやむを得ないかどうかを判断する際に、「永山基準」というものが、裁判官だけでなく検察も弁護側も含め援用されていることは一般にも知られるところですが、この「永山基準」というのは、①犯罪の性質、②動機、計画性など、③犯行態様、執拗さ・残虐性など、④結果の重大さ、特に殺害被害者数、⑤遺族の被害感情、⑥社会的影響、⑦犯人の年齢、犯行時に未成年など、⑧前科、⑨犯行後の情状の9項目を考慮することだそうです。

 本書によれば、裁判員制度が始まる前の最近10年間(1999-2008)の死刑求刑刑事事件における死刑判決率は、「三人以上殺害」の場合は94%、「二人殺害」の場合は73%、「一人殺害」の場合は0.2%で(ここまでは、殺害被害者数が圧倒的な決め手になっていることが窺える)、「二人殺害」について更に見ると、金銭的目的がある場合は82%、金銭的目的が無い場合は52%であるそうですが、著者は、そもそも「永山基準」のような形式論理から「死刑」という結論を導き出して良いものか、という疑問を、共同体原理における正義とは何かといったような死刑制度の根源的(哲学的・道徳倫理学的・社会学的...etc.)意味合いを考察しつつ、読者に投げかけています。

 著者は死刑の意義(価値)を条件付きで肯定しているものの、価値化された死刑の議論を進めるにあたっては、その中に空間の差異というものがあるはずだとし、これを「死刑空間」と呼んで、①「市民生活と極限的犯罪の融合」(ある日、突然、家族が殺されたら)、②「大量殺人と社会的防衛」(秋葉原通り魔事件は死刑で終わりか)、③「永劫回帰する犯罪傾向」(殺人の前刑を終えてまた殺人をくりかえしたら)、④「閉じられた空間の重罪」(親族間や知人間の殺人に社会はどう対処すべきか)、⑤「金銭目的と犯行計画性の秩序」(身代金目的誘拐殺人は特別か)という5つの観点から、実際の凶悪事件とその裁判例を挙げて、人命の価値以外にどのような価値が加わったとき、死刑かそうではないかが分かれるかを示しています。

 しかし、その結論を導くには、これら5つの「死刑空間」ごとの事件の差異を見るだけでは十分ではなく、更に、「変形する死刑空間」として、A「被告人の恵まれない環境」、B「心の問題、心の闇と死刑」、C「少年という免罪符」、D「死刑の功利主義」という5つの視点を提起しています。

 5つの「死刑空間」はそれら同士で重なり合ったりすることもあり、更に、AからDの視点とも結びつくことがある―しかも、単に強弱・濃淡の問題ではなく、それぞれがそこに価値観が入り込む問題であるという、こうした複雑な位相の中で、死刑とすべき客観的要素を公正に導き出すことは、極めて困難であるように思いました(本書には、これまでの死刑判決の根拠の脆弱さや矛盾を解き明かし、最高裁判決を批判的に捉えている箇所もあったりする)。

 著者はこうした考察を通して、詰まるところ死刑の超越論的根拠はないとしていますが(多くの哲学者や思想家の名前が出てくるが、著者の考えに最も近いのはニーチェかも)、本書は、死刑廃止か死刑存置かということを超えて、そのことには敢えて踏み込まず、現実に死刑制度というものがあり、死刑は「正義」であり「善」であるという価値判断が成り立っているという前提のもと(但し、そこには"力の感情"が含まれているとしている)、今、従来は司法の権限であった「人の命を奪う自由」が裁判員という一般市民に委ねられたという現実を踏まえつつ本書を著していて、良質の啓蒙書とも言えます。

 裁判員制度がスタートして3年以上が経ち、この間、死刑判決は若干の増加傾向にあるようですが、犯罪及び死刑にこれだけの複雑な位相があるとすれば裁判官が悩むのは無理もなく、一方、市民裁判官である裁判員が、どこまでこの本に書かれているようなことを考察し、なおかつ、裁判官が提示する判断材料にただ従うのではなく、自らの価値判断を成し得るか、そもそも、裁判官がそれだけの「判断材料」を公正に裁判員に示しているのか、疑問も残るところです。

 最近、玉石混淆気味の講談社現代新書ですが、これは「玉」の部類の本。

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森炎(もり・ほのお) 
1959年東京都生まれ。東京大学法学部卒。東京地裁、大阪地裁などの裁判官を経て、現在、弁護士(東京弁護士会所属)。著書多数、近著に『司法殺人』(講談社)がある。

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着眼点は興味深かったが、事例が強引で、しっくりこないものが多かった。

「上から目線」の時代.jpg 『「上から目線」の時代 (講談社現代新書)』 勝間=ひろゆき対談.jpg「勝間=ひろゆき対談」

 "あの人は「上から目線」だからやり辛い"といった「上から目線」を過剰に意識する現象について、そもそも「上から目線」とは何なのか、「上から目線」という言葉がいつ頃から使われるようになったのか遡ることから考え始め、「上から目線」を過剰意識することの根底にある、日本語で会話する際の独特の当事者間の位置関係や枠組みを考察し、更には、日本文化の底流に流れるものを掘り起こそうと試みた本―但し、個人的には、日本語論、日本文化論というよりも、主にコミュニケーション論として読みました。

 「上から目線」ということがいつ頃から使われるようになったかを政権トップの発言に対する国民の反応から見て行くと、福田康夫首相や麻生太郎首相の頃かららしいですが、このように「上から目線」について「1対多」と「1対1」の両方のコミュニケーション・ケースを扱っていて、「1対多」の方が「首相vs.国民」になっているのが、読み物としては面白けれど、かなり、著者のバイアスが入らざるを得ないものになっているように思いました(一時の首相の言動から、日本文化の底流に流れるものを掘り起こすというのは、普遍性が弱いように思う)。

 一方、「1対1」のコミュニケーションを中心に論じている部分はなるほどと思わされる部分もあり、会話のテンプレートのようなものが、"共通価値観の消滅"により無くなってしまったのかどうかはともかく(そんなに簡単に消滅するかな)、日本語の会話というものが、構造自体に上下関の枠組みがデフォルトとして設定されていて、日本語で会話すると、上下関係が自然に発生してしまうという着眼点は興味深く、確かにそうかもと思いました。

 但し、大きな会社からベンチャー企業に転職してきた人が「僕の会社では」ということを繰り返し言うのが嫌われる(こういうの、「出羽守(ではのかみ)」という)というのは、そうした上下関係が生じていることへの自意識がないからであり、これはあまりに単純な話。

 そんな解説も要さないような話があるかと思うと、一方で、BS-Japanの「デキビジ」での勝間和代氏と元「2ちゃんねる」管理人のひろゆき(西村博之)氏の対談が噛みあわなかったことが、「上から目線」の事例として出てきたりして、勝間氏がひろゆき氏の発言に「上から目線」を感じたのではないか、とのことですが、これ、ちょっと違うんじゃないかなあと。

 著者は両者の「会話」の一部を取り上げ、その食い違いを指摘していますが、「議論」全体としては、勝間氏が「起業しなければ人では無い」的な前提で話していること自体が価値観の押しつけであり(これこそ著者の言うところの「上から目線」)、それを揶揄するというより、その前提がおかしいのではないかと、ひろゆき氏は言っているだけのように思え(意図的に揶揄することで、相手の土俵に乗せられないようにしているとも言えるが)、議論の前提に異議申すことは、頓珍漢なイチャモンでなければ、必ずしも「上から目線」とは言えないのではないかと(「議論」と「会話」が一緒くたになっている)。

そこまで言うか.jpg 「勝間=ひろゆき対談」については、根本的に両者の考え方、と言うより、対談に臨む姿勢が食い違っているように思いましたが、この対談をとり持ったのは、実は、後から2人に割り込んだフリをしている堀江貴文氏かなあ。その後、3人で「仲直り」対談をしたりして(これをネタに本まで出したりして)、共通のプラットフォームが出来あがってしまうと、途端に対談内容がつまらなくなるというのが、外野からみた印象でした(勝間和代氏と香山リカ氏の関係も同じ。ここで言う"共通のプラットフォーム"とは、"世間の注目を集める"こと、つまり、当事者双方にとっての経済合理性か)。

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冒頭の旅館とホテルの事例は良かった。だんだん、ビジネス誌の連載みたいになってくる。

「最強のサービス」の教科書.jpg「最強のサービス」の教科書 (講談社現代新書)

 いかにも編集サイドがつけたようなタイトルですが、「最強のサービス」とは何かということよりも、工学的アプローチにより無駄な部分を廃し、本当に顧客が望むサービスの強化に経営リソースを投下することで、そうして顧客満足を効率的に実現するという「サービス工学」という視点を、事例を通して訴えたかった本のようです。

加賀屋.jpg 社会の状況や顧客の要望、嗜好に合わせ、サービスの内容や提供方法を変化させることで成功し、今も成長を続ける企業8社の事例が紹介されていますが、最初に登場する「加賀屋」の事例が(すでに台湾進出などで、マスコミで取り上げられることも多いが)際立っているように思えました。

「BIGLOBE みんなで選ぶ 温泉大賞」温泉宿部門 総合1位(3年連続)「加賀屋」(石川県・和倉温泉)

 本当の意味での「おもてなし」とは何かを顧客目線で考え、顧客にとって価値を生まないサービスは省力化し、客室係が接客に注力できるようにする一方で、人的サービスが「良質」であるのはいいが、人によってサービスに「ムラ」が出ないように、顧客の要望や意見などをデータベースしている―とりわけこのデータベースの力が大きいように思いました(客室まで客を案内する間に、旅館の様々な情報を教えてくれる宿というのは、最近は少ないなあ)。

 続いてのビジネスホテルチェーン「スーパーホテル」の事例は、チェックイン・アウトの機械化されていて、現金や鍵の収受などフロント業務も行っておらず、ちょうど一見「加賀屋」の対極にあるようにも見えますが、部屋置きの電話機やドリンク入り冷蔵庫など、顧客がメリットをさほど感じていないサービスは廃止し、ユニットバスも無く、代わりに温泉大浴場があって、これが顧客に好評を博しているとのこと、顧客目線に立ったサービスとは何かということを考え、従来の既定のサービスの見直しを行ったという意味では、やはり「加賀屋」に通じるものがあると思いました。

 ベッドの脚を無くして床に直置きにしたのは従業員のアイデアだそうですが、こうなると、経営者や(現場のことをよく知っている)従業員の、常日頃の意識の問題と言うか、「サービス工学」という理論は、後から説明的についてくるような気がしなくもありません。
 
 実際に本書に出てくる企業は何れも、従業員満足(ES)ということに非常に力を注いでおり、そうしたことが、従業員の変革のモチベーションに繋がっているのではないかと思われ、そこへ現場を知らないコンサルタントが入ってきて、「サービス工学」とか振り回しても、あまりに効果はないのではないかというのは、後ろ向きの考え方ということになるのでしょうか。

 「サービス工学」というものへの懐疑もあり、読み進むにつれて、何だかビジネス書で連載されて成功事例集のように思えてきて、う~ん、新書で出すような本なのかなあとも。

 グローバルな視点みて、顧客の創造というものを行っているのは、やはり台湾に進出した「加賀屋」でしょう。
テレビの特番で、現地採用の新米仲居を躾けるベテラン従業員を見ましたが、今後どうなるか注目したいところです。

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経営人事課題の直近のトレンドをよく纏めているが、"おさらい"的な分析に終始しているとも。

「いい会社」とは何か.jpg『 いい会社」とは何か9.jpg
「いい会社」とは何か (講談社現代新書)』['10年]

 「いい会社」とは何かという視点は、経営者だけでなく、人事の仕事に携わる人にとっても欠かせないものだと思いますが、本書は、リクルートマネジメントソリューションズ組織行動研究所(RMS研究所)がこれを研究テーマとして取り上げ、「いい会社」とは何かを探ったものです。

 冒頭で、バブル経済以前から現在までの企業の置かれた環境と、その時々に試みられた人事施策を振り返り、企業における個人と組織の関係の変遷を追いつつ、現代においては、従業員の会社への信頼が低下し、働きがいは長期低落傾向にあるとしています。

 さらに個人の視点に立って「働きがい」とは何かを「マズローのZ理論」(マクレガーのY理論にX理論の強制的因と方向付けの要因を組み合わせた改良型Y理論)などを取り上げながら考察し、「働きがいのある会社」では、経営と働く人間との「信頼」が重要なファクターであることを指摘しています。

 以上を踏まえたうえで、財務的業績がいい企業が「いい会社」であることには違いないが、財務的に大きな飛躍はないものの、長く事業を継続している企業もまた「いい会社」であり、さらに、働く人の「働きがい」というのも、「いい会社」を考える上での大事な視点であるとし、「いい会社」とは何かを探る指標として、この「財務」「長寿」「働きがい」の3つを挙げています。

 さらに、「財務的業績がいい企業」と「長寿企業」に共通する特徴として、①時代の変化に適応するために自らを変革させている、②人を尊重し、人の能力を十分に生かすような経営を行っている、③長期的な視点のもと、経営が行われている、④社会の中での存在意義を意識し、社会への貢献を行っている、という4つを導き出し、それが、本書でいうところの「いい会社の条件」ということになるわけですが、以下、そうした「いい会社」に見られる経営者の考え方や経営人事面での施策を紹介しています。

 ③の「長期的な観点での施策」は、何らかのポリシーに基づかなければ長続きできず、そのよりどころとして、④の会社の「社会的存在意義」を挙げており、「いい会社」においては、企業理念や組織風土に「社会の中で生かされ、社会への貢献」という内容が組み込まれていて、そのことが企業の成長に一役買っていると分析しています。

 会社の「存在意義」を認識していることが信頼関係のベースであるということですが、その信頼関係をより強めるためには、「社員一人ひとりと向き合う」ことが大切であり、そのことが会社の業績を伸ばすことにも繋がるというのが、本書の言わんとするところでしょう。

 経営人事が抱える課題の直近のトレンドを探るうえではよく纏まっており(こうした、これまでの推移及び現状分析は、著者らの得意とするところ)、全体の論旨も、企業の社会的責任(CSR)から、働く人の多様な価値観(ダイバーシティ)へと旨く繋げているように思えました。

 ただ、あまりに旨く纏まり過ぎていて、突飛な主張に走っていないという意味では「抑制が効いている」とも言えますが、逆にあまり読み応えを感じないとうのが、個人的な感想です。

 「社員一人ひとりと向き合う」ことがいかに大変なことであるかは、筆者らも十分に認識しているのですが、その結論に至るまでの"おさらい"的な分析がメインとなり、結論部分の堀り下げは、やや中途半端なまま終わっている感じもしました。

 所謂「研究所」系のレポートみたい。最近の講談社現代新書って、こういうの多くないか?

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組織にも「感情」特性ごとの処方箋。人間性善説に依拠した啓蒙書? 前著の方が良かった。

職場は感情で変わる.png職場は感情で変わる (講談社現代新書)』['09年] 不機嫌な職場―なぜ社員同士で協力できないのか.jpg不機嫌な職場~なぜ社員同士で協力できないのか (講談社現代新書)』 ['08年]

 前著(コンサルタント4人の共著)『不機嫌な職場―なぜ社員同士で協力できないのか』('08年/講談社現代新書)では、社員同士での協力関係が生まれないために、職場がギスギスして、生産性も向上せず、ヤル気のある人から辞めていく、こうした組織における協力関係阻害の要因はどこにあるのかを、「役割構造」「評価情報」「インセンティブ」という3つのフレームで捉えていました。

 例えば、「役割構造」の変化については、従来の日本企業の特徴であった個々の仕事の範囲の「緩さ・曖昧さ」が、協力行動を促すことにも繋がっていたのが、成果主義が導入されると、今度は、個々は自分の仕事のことしか考えなくなり、外からは誰が何をしているのかよくわからなくなって、仕事(役割)が「タコツボ化」しがちになっているが今の状態であるとし、そのことが結果として、組織力の弱体化に繋がっているとした分析は、明快なものであったように思います。

 前著共著者の1人による本書は、「ベストセラー『不機嫌な職場』の解決編登場!」というキャッチコピーで、組織にも「感情」特性があるという視点から、それを「イキイキ感情」「あたたか感情」「ギスギス感情」「冷え冷え感情」の4象限に分類し、それぞれの処方箋を示しています。

 「イキイキ感情」というのは、①高揚感(ワクワクする気持ち)、②主体感(自らやってみようという気持ち)、③連帯感(みんなでがんばろうという気持ち)であり、「あたたか感情」というのは、①安心感(ここにいても大丈夫だよという気持ち)、②支え合い感(お互いに助け合っているという気持ち)、③認め合い感(自分は必要とされているという気持ち)であって、「ギスギス感情」や「冷え冷え感情」を「イキイキ感情」「あたたか感情」に変えていくことが大切だが、それが行き過ぎて「燃え過ぎ感」や「ぬるま湯感」に陥らないようにしなければならないと。

 組織力は個々人の力と個人間のつながりで決まるとの考えに則り、まず、個々人が良い方向に変わっていくことから始めようという、その趣旨はわからないでもないですが、同じことが前著の範囲内で繰り返し何度も書かれているようにも思え、そのトーンも、何となく自己啓発セミナーそのそれに近い感じがしました。

 1人の人間が組織全体をも変えてしまうケースはままあるわけで、書かれていること自体を否定はしませんが、あまりに"人間性善説"的なもの(或いは、マクレガーの「Y理論」的なもの)に依拠し過ぎている感じ。

 前著『不機嫌な職場』とどちらか1冊と言われれば、前著『不機嫌な職場』の方が圧倒的にお奨めで、人事担当者、教育研修担当者や組織リーダー、チームリーダーが次に読む本としては、経営コンサルタントの高間邦男氏の『組織を変える「仕掛け」―正解なき時代のリーダーシップとは』('08年/光文社新書)あたりになるのではないでしょうか。個人的には、そちらの方が、より地に足のついた組織変革の実践論となっているように思えました。

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雇用不安の打開策を冷静な視座から提言。入門書としても読みやすい。

日本の雇用 ほんとうは何が問題なのか.jpg 『日本の雇用--ほんとうは何が問題なのか (講談社現代新書)』['09年]

 執筆時点('09年上期)での雇用問題を分析し、その背後にある雇用不安を意識しながら打開策を考察した本ですが、著者はリクルートワークス研究所の所長であり、さすがに現状分析はシャープです。

日本の雇用 図.png 20年前に比べ今は、正社員が減って非正規社員は増えているが常用雇用率は減っていない、つまり常用雇用に占める「常用・非正規社員」の割合が増えているのであり(正規・非正規2元論から「正社員」「常用・非正規社員」「臨時・非正規社員」の3層化への雇用構造の変化)、また、企業がそれら「常用・非正規社員」を解雇することは、生産性維持のうえでも法規制のうえでも難しくなってきているとしています。

資料出所: 雇用のあり方に関する研究会(座長=佐藤博樹)(2009)『正規・非正規2元論を超えて:雇用問題の残された課題』リクルートワークス研究所

 続いて、「雇用創出」「ワークシェアリング」といった雇用対策が日本の労働市場においてどこまで可能なのかその限界を指摘し、「新卒氷河期」という言葉の"ウソを暴く"一方(この部分については、個人的にはやや異論はある―やっぱり氷河期じゃないの?)、今の雇用不安の中、企業にできることは何か、マネジャーには何が求められるか、働く個人は自らのキャリアとどう向き合うべきかをそれぞれ説いています(著者はここ数年、キャリア形成に関する本を何冊か著している)。

 また、国の雇用対策の三本柱(雇用保険、職業訓練、雇用調整助成金)について、その内容と限界を解説し、著者なりの提案をしていますが、この部分は純粋にそれらについての入門書としても読めます。

 そして最後に、格差問題の根底にある「正社員」の処遇問題を指摘し、ミドル層とシニア層の働き方や処遇の見直しを提案する一方、派遣社員については、登録型から常用型へ切り替えることで、派遣を一つの働き方として位置づける方向性を示唆しています。

 著者には、マネジメントの立場から雇用問題を扱った編著『正社員時代の終焉』('06年/日経BP社)がありますが、現状分析に紙数を割きすぎ、非正社員のキャリア志向の類型やそのマネジメントの要点にも触れていたものの、非正社員の活用に悩む経営者の期待にこたえきれておらず、全体として物足りなさを感じました。

 本書も分析が鋭いわりには提案の部分はやや漠としている感が否めなくありませんが、前著に比べれば"提言度"が高く、また、その対象も企業ばかりでなく、国や社会、働く個々の人々に向けてのものとなっています。

 主張は(新卒採用支援、人材派遣等がリクルートの業務ドメインであることを念頭に置いても)ほぼ筋の通ったものと思われ、声高になりがちな、あるいは難しくなりがちな雇用問題を扱った本の中では、冷静な視点を保持し、かつ入門書としても読みやすいものに仕上がっています。そのことが、本書の一番の特長かもしれません。

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"フリーライダーのタイプ分析までは良かったが、対策は抽象的で、最後は自己啓発書?

フリーライダー―あなたの隣のただのり社員4.jpgフリーライダー―あなたの隣のただのり社員.png 『フリーライダー あなたの隣のただのり社員 (講談社現代新書)』['10年]

 最近よく耳にする「フリーライダー」という言葉ですが、会社で、毎日何をしているかわからないようなことをやっても給料は一人前にもらう人、自分からは動かないで周囲の人をこき使って成果を手にしようとする人、部下が何か新しいことを始めようとしても仕事が増えるからと言ってそれを阻止し、それでいて自分の地位は安泰の人―などを、そう呼ぶようです。

 本書ではそうしたフリーライダーを、もうこれ以上出世できないからとだらだらゲームをやっているような「アガリ型」、人のアイディアを自分のこととしてうまく報告、部下には強いが人事権を持つ上の人には忠犬のように忠誠を見せる「成果・アイディア泥棒型」、自分の仕事を客観評価ができず(都合よく考え)自分を批判する人を攻撃する「クラッシャー型」、最低限の仕事だけこなし、現状維持、改革しようとする人を潰す「暗黒フォース型」の4タイプに分類しています。

 このタイプ分類までは興味深く読めたのですが、それぞれのタイプに対する組織としての問題解決策(対応の仕方)が、例えば、「アガリ型」に対しては、ビジョン、方針を明確化する(何を目指して努力をするのか、努力の先に何があるのかをわかりやすく伝える)とか、上から順番に厳しい成果プレッシャーを与えるとか(組織がポジションにふさわしい能力の人を登用し能力にふさわしい報酬を支払い、報酬に応じたプレッシャーを与えて責任を持たせる)...云々と、制度やシステムへの落とし込みにまでは至らず、抽象レベルで終わっているような印象を受けました。

 後半は、自分がフリーライダーにならないようにするにはどうしたらよいかということが書かれていて、要するに「人の振り見て我が振り直せ」的な自己啓発書だったのか―と。

 著者らは、同じ講談社現代新書の『不機嫌な職場―なぜ社員同士で協力できないのか』('08年)の執筆メンバー4人の内の2人。残り2人の内の1人は『職場は感情で変わる』('09年)を著していますが、"スピンアウト"していくにつれ、自己啓発書みたいになっていって、最初の本が一番まともでした。

 講談社現代新書は、かつてはエスタブリッシュメントなイメージがあったけれども、最近は玉石混交気味で、この本なども、新書で出す意味がよく分からず、時たまと言うか、結構安易な本づくりをしているのではと思わざるを得ません。

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「群生秩序」という視点から、社会学的に「いじめの構造」を鋭く分析。

いじめの構造.gifいじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)』 ['09年]内藤 朝雄.png 内藤朝雄 氏

 いじめが何故起こるのかということを社会学的に分析した本で、著者には『いじめの社会理論』('07年/柏書房)という本書で展開されている分析のベースとなっている本がありますが、個人的はその本は読了していないものの、本書を読めば、大体、著者の考え方は解るのでは。

 自分が以前に読んだ本田由紀・後藤和智両氏との共著『「ニート」って言うな!』('06年/光文社新書)の中で著者は、「最近の若者は働く意欲を欠いている」「コミュニケーション能力に問題があり他者との関わりを苦手とする」「凶悪犯罪に走りやすい」といった根拠の希薄な「青少年ネガティブ・キャンペーン」と相俟って「ニート」が大衆の憎悪と不安の標的とされていることを指摘していて、なかなか明快な分析であると思ったのですが、本書においても、既存の「いじめ問題」に対する教育学者や評論家の論調の非論理・不整合を指摘しつつ、この問題に対し、より社会学者らしい突っ込んだ分析を展開しています。

 著者によれば、いじめの場においては、市民社会の秩序の観点から見れば秩序が解体していることになるが、(著者の命名による)「群生秩序」というもの、つまり群れの勢い(ノリ)による秩序という観点から見れば、むしろ「秩序の過重」が見られるとのこと。また、寄生虫が宿主の行動様式を狂わせることを喩えに、学校という小社会の中では、社会が寄生虫化することが起こりうるとも。

 つまり、学校の集団生活によって「生徒にされた人たち」の間では、付和雷同的に出来上がったコミュニケーションの連鎖の形態が、場の情報(「友だち」の群れの情報)となって、それが個の中に入ると、個の内的モード(行動様式)をいじめモードに切り替えてしまい、内的モードの切り替わった人々のコミュニケーションの連鎖が更に次の時点の生徒達の内的モードを切り替えるということが繰り返され、心理と社会が誘導し合うグループが生じるのだといいます。

 「生徒にされた人たち」は、存在していること自体が落ちつかないという不全感(むかつき)を抱いていて、それが群れを介して誤作動することで全能感に切り替わり、全能感を味わうための暴力の筋書きに沿ってなされるのがいじめ行為であり、逆にいじめの対象が逆らったりしてこの全能感が否定されると、更なる暴発が発生することになると。

 全能感の類型などを細かく定義しており、個人的には必ずしも全て100%納得できた説明ではなかったのですが、実際に起きた様々な(どうしたこうしたことが起きてしまうのだろうという陰惨な)いじめ事件をケーススタディとして、それらに対して一定の解を与える手法で分析を進めているため、それなりの説得力を感じました。

 とりわけ、「投影同一化」という心理的作用によって、いじめがいじめる側の過去の体験の「癒し」となっているという分析は腑に落ち(この論理で児童虐待における「虐待の連鎖」のメカニズムも説明できるのではないか)、また、いじめられる側のいじめる側に呼応してしまうメカニズムについても解説されています(往々にして、加害者だけでなく、被害者や教師も、ある種のメンバーシップに取り込まれていることになる)。

 抽象的な社会・心理学的理論だけ展開して終わるのではなく、打開策も示されていて、短期的政策としては、「学校の法化」(学校内治外法権を廃し、学校内の事も市民社会同様に法に委ねること)と「学級制度の廃止」(とりわけコミュニケーション操作系のいじめに対して)を掲げています。

 本書にあるように、教師までもがこうしたメンバーシップに取り込まれているような状況ならば、学校は聖域だというのは却って危険な考え方であるということになり、また、学級という濃密な人間関係の場がいじめの原因になっているのならば、そうしたものを解体するなり結びつきを弱める方向で検討してみるのも、問題解決へ向けての足掛かりになるのではないかと思われました(どこかの学校で実験的にやらないかなあ)。

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"内部告発"っぽいが、『予習という病』のようなアザトイ本の多い中では、まともなスタンス。

中学受験の失敗学 2.jpg瀬川 松子 『中学受験の失敗学』.JPG 瀬川 松子 『亡国の中学受験』.jpg 予習という病.gif
中学受験の失敗学 (光文社新書)』['08年]/『亡国の中学受験 (光文社新書)』['09年]/高木幹夫+日能研『予習という病 (講談社現代新書)』['09年]

 本書『中学受験の失敗学-志望校全敗には理由(わけ)がある』('08年/光文社新書)では、中学受験に取りつかれ、暴走の末に疲れ果ててしまう親たちを「ツカレ親」と名づけ、親たちをそうした方向へ駆り立てている、中学受験の単行本や受験雑誌、更に、受験塾の指導のあり方を批判しています。

 大手塾で受験指導し、その後、家庭教師派遣会社に転職して受験生を抱える家庭に派遣され、多くの「ツカレ親」を見てきた著者の経験に基づく話はリアリティがあり、モンスターペアレントみたなのが、学校に対してだけでなく、塾や家庭教師派遣会社に対してもいるのだなあと。

 塾や家庭教師の志望校設定には営利的判断が含まれていることがあり、くれぐれも、そうした受験産業の"カモ"にされて、無謀な学習計画や無理な目標設定で我が子をダメにしないようにという著者のスタンスは、至極まっとうに思えました。(評価★★★☆)

 この本が最後に「ダメな勉強法」を示していて、著者がまだ受験指導の現場にいた余韻を残しているのに比べると、続編の『亡国の中学受験-公立不信ビジネスの実態』('09年/光文社新書)は、やや評論家的なスタンスになっているものの、基本的には同じ路線という感じで、タイトルの大仰さが洒落だったというのは洒落にならない?(タイトル通り、きちんと「亡国論」を書いて欲しかった)。

 前著では、受験塾と私立中学の裏の関係なども暴いていましたが(既に組織に属していないから"内部告発"とも言い切れないのだが)、本書では、公立中学への不信感を煽り、私立中高一貫校への幻想を抱かせる、私立中学と受験塾の"戦略"に更にフォーカスしていて、中学受験のシーズンになるとNHKのニュースなどで、報道と併せてトレンド分析のコメントをしている森上研究所とかいうのも、日能研の応援団だったのかと(知らなかった)。(評価★★★)

 その点、高木幹夫+日能研『予習という病』('09年/講談社現代新書)は、日能研の社長が書いているわけだから、分かり易いと言えば分かり易い(皮肉を込めて)。予習をさせないというのは、日能研もSAPIXも同じですが、それが本当にいいかどうかは、授業の程度と生徒の学力の相関で決まるのではないでしょうか、普通に考えて。それを、「福沢諭吉は予習したか?」みたいな話にかこつけているのがアザトイ(「ツカレ親」である妻を持つ夫向け?)。

 実際、塾にお任せしている分、教材の量やテストの数、、夏期講習や冬期講習などの補講は多くなり、それだけの費用がかかるわけで、週末ごとのテストに追われ、ついていけなくなると、結局はどうしても予習(親のアシスト)が必要になり、さもなくば、わからないままに授業を聞いて試験を受けるだけの繰り返しになってしまう...。

 日本社会の中で、未来学力でものを考えられる環境は「私学の中高一貫校」しかないと言い切っていて、そりゃあ、自社の売上げ獲得のためにはそう言うでしょう。大手進学塾の多くは似たようなことをやっているわけだけど、こんな露骨な宣伝本を新書で出してしまっていいのかなあ。(評価★☆)

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入門書の体裁をとりながらも、北森神学の特徴が随所に。聖書の物語の映像化は難しい?

聖書の読み方 講談社現代新書.gif 『聖書の読み方 (講談社現代新書 266)』 ['71年] 聖書の読み方 講談社学術文庫.jpg 『聖書の読み方 (講談社学術文庫)』 ['06年]

kitamori.jpg聖書の読み方 .jpg 北森嘉蔵(きたもり・かぞう、1916‐1998/享年82)は、文芸評論家であり牧師でもある佐古純一郎・二松学舎大学名誉教授の言葉を借りれば、キリスト教が日本の社会で市民権をもつために決定的な貫献をなした人物とのことで、若かりし時から天才ぶりを発揮し、30歳そこそこで発表した『神の痛みの神学』('46年発表)は教会内外に波紋を投げかけ、この人の神学は「北森神学」とも呼ばれていますが、本書は、50代半ば頃に書かれた一般向けの聖書入門書、但し、「北森神学」の入門書になっている面もあるようです。

 著者が本書で提唱している初学者向けの聖書の読み方は、「新幹線から各駅停車へ」というもので、初めて聖書を読むとわからないところばかりで、感動して立ち止まるような箇所はなかなか無いだろうけれども、そういう箇所に出会うまではノン・ストップでひたすら読んでいって構わないと。そのうち、そうした感動出来る箇所に出会うだろうから、そうした時にだけじっくり読めばよく、「あらゆる箇所で感動して停止せねばならぬ」ことはない、但し、これを繰り返すと、次第に感動出来る箇所が増え「各駅停車」の読み方になってくるといことで、そのベースにある考え方は、感動は自発的なものであって、義務ではないということです。

奇跡.jpg 日本人が聖書を読んでよく引っ掛かるのが「奇跡」に関することですが、著者は、「奇跡」と「異象(異常な現象)」とは別であり、現象として信仰の有無に関係なく、誰にも認識できるものは(現象化されたもの)は「奇跡」ではなく「異常な現象」であり、「奇跡」とは認識の対象ではなく、現象の背後にあるものに対する信仰の対象であるとしていて、こうした見方を通して、処女降臨やキリストの復活をどう読むかが、分かり易く解説されています。

 この箇所を読んで思い出すのが、カール・テオドア・ドライヤー監督のヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞した「奇跡」('54年/デンマーク)という映画で(原題"Ordet"の意味は「言葉」)、1930年頃のデンマークという比較的現代劇に近い状況設定において、それまでの家族間の愛憎を写実的に描いた流れの中で、実際に復活の奇跡が起きるというラストは、大いに感動させられる一方で、どこか別の部分で、奇跡を真面目に映像化するのは難しいなあと思ったりもしました。

奇跡 岩波ホール.jpgドライヤー奇跡.jpg '08年にBS2でも放映されましたが、同じような印象を再度受け、映画そのものは静謐なリアリズムを湛えた、恐ろしいほどの美しさのモノクロ映画で、まさに自分の好みでしたが、最後に奇跡を映像で目の当たりに見せられると、すごい冒険をやってのけたという感じはするものの、所詮、映画ではないかという思いがどこかでちらつく面もありました(これを北森嘉蔵流に言えば、事象を見ているからだということになるのか)。

 「奇跡」●原題:ORDET●制作年:1955年●制作国:デンマーク●監督・脚本:カール・テオドア・ドライヤー●製作:エーリク・ニールセン●撮影:ヘニング・ベンツセン●音楽:ポール・シーアベック●原作:カイ・ムンク ●時間:126分●出演:プレベン・レアドーフ・リュエ/ヘンリック・マルベア/ビアギッテ・フェザースピール/カイ・クリスチアンセン/エーミール・ハス・クリステンセン●日本公開:1979/02●配給:フランス映画社●最初に観た場所:岩波ホール (79-02-27) (評価:★★★★)

 本書の本編(2章「聖書そのものへ」)では、旧約・新約の主だった"立ち止まり所"を13箇所ほど紹介していますが、その選び方に著者の特徴がよく表れていてます。
 
 例えば、創世記17章17-19節で、アブラハムが神との契約により100歳近くなって妻サラとの間に子イサクを授かる前、サラは奴隷女のハガルを夫に遣わしてイシマエルを生ませるも、ハガルがサラを敬わなくなったためにハガル親子を放逐したという話は、まるで正妻と側室の三角関係のような話ですが、アブラハムもサラも神の恩寵を最初は信じていなかった(神の言葉を虚無と感じた)ことを大きなポイントとしながらも、ハガル親子に対する見方が、旧約と新約(パウロ)で異なる点に着眼しているのが興味深く(旧約では恩寵を得ているが、新約では悪役的)、新約の律法的性格を指摘するとともに、その必然性を解説しています。

 少なくとも旧約においてハガル親子はアラビア十二族の先祖となる恩寵に浴しているわけですが、続く土師記16章のサムソンとデリラの物語の解説においても、サムソンを「無明」の者の象徴とし、そうしたスキャンダラスで、本来は聖書に登場する資格のないような者まで登場させ、且つ、その者に最終的には救いを与えたとする点に、聖書という物語の特徴を見出すと共に、ここでも旧約と新約の関係性において、サムソンをイエス・キリストの"透かし模様"と見ているのが興味深いです。

Samson-and-Delilah.jpgサムソンとデリラ.jpg この物語は、セシル・B・デミル監督により「サムソンとデリラ」('49年/米)という映画作品になっていて、ジョン・フォード監督の「荒野の決闘」('46年/米)でドク・ホリデイを演じたヴィクター・マチュア(1913-1999)が主演しました。往々にして怪力男は純粋というか単純というか、デリサムソンとデリラ-s.jpgラのような悪女にコロっと騙されるというパターナルな話であり(アブラハム、サラ、ハガルの三角関係同様に?)、全体にややダルい感じがしなくも無いけれど、ヴィクター・マチュアの"コナン時代"のアーノルド・シュワルツネッガーのようなマッチョぶりは様になっていました。最後の方で、髪を切られて怪力を失ったサムソンが囚われの身となり神に嘆願するシーンはストレートに胸をうち、ラストの神から力を得て大寺院を崩壊させるスペクタルシーンは圧巻、それまで結構だらだら観ていたのに、最後ばかりは思わず力が入り、また、泣けました(カタルシスだけで終わってはマズイいんだろうけれど・・・。と言って、勝手にストーリーを変えたりすることも出来ないだろうし、聖書の物語の映像化は案外と難しい?)

安藤美姫.jpg これ、オペラにもなっていて、カミーユ・サン=サーンスが作曲したテーマ曲はフィギアスケートの安藤美姫選手が以前SP(ショート・プログラム)で使っていましたが、その時の衣装もこの物語をイメージしたものなのかなあ。

「サムソンサムソン&デリラ      30dvd.jpgサムソとデリラ 20dvd.jpgとデリラ」●原題:SAMSON AND DELILAH●制作年:1949年●制作国:アメリカ●監督・製作:セシル・B・デミル●脚本:ジェシー・L・ラスキー・ジュニア/フレドリック・M・フランク●撮影:ジョージ・バーンズ●音楽:ヴィクター・ヤング●原作:ハロルド・ラム●時間:128分●出演:ヴィクター・マチュア/ヘディ・ラマー/ジョージ・サンダース/アンジェラ・ランズベリー/ヘンリー・ウィルコクスン●日本公開:1952/02●配給:パラマウント日本支社(評価:★★★☆) 

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短い余命宣告で奈落に落ちた人が、立ち直るにはどうすればよいかを真摯に考察。

がんを生きる 佐々木常雄.gifがんを生きる (講談社現代新書)』 ['09年]

 がんの拠点病院(がん・感染センター都立駒込病院)の院長が書いた本ですが、制がん治療について書かれたものではなく、「もう治療法がない」と言われ、短い余命を宣告されて奈落に落とされた人が、立ち直るようにするにはどうしたらよいかということを真摯に考察したものです。

 本書によれば、'85年頃までは、医師は患者にがん告知をしなかった時代で、それ以降も'00年頃までは、告知しても予後は告げない時代だったとのこと、それが、今世紀に入り、「真実を医師が話し、患者が知る」時代となり、自らの余命が3ヵ月しかない、或いは1ヵ月しかないということを患者自身が知るようになった―そうした状況において、死の淵にある患者の側に立った緩和ケアはいかにあるべきかというのは、極めて難しいテーマだと思いました。

 著者自らが経験した数多くのがん患者の"看取り"から、19のエピソードを紹介していますが、中には担当医から「余命1週間」(エピソード5)と宣告された人もいて、著者自身、個々の患者への対応の在り方は本当にそれで良かったのだろうかと煩悶している様が窺えます。

 端的に言えば、如何にして突如目前に迫った死の恐怖を乗り越えるかという問題なのですが、著者の扱った終末期の患者のエピソードに勝手に解釈を加え、患者が死を受容し精神の高み達したかのように「美談仕立て」にした輩に、著者は憤りを表す一方で、多くの書物や先人の言葉を引いて、そこから緩和ケアの糸口になるものを見出そうとしています。

 親鸞などの仏教者や哲学者、或いは、比較的最近の、宗教系大学の学長や高名な精神科医の言葉なども紹介していますが、それらを相対比較しながらも、あまりに宗教色の強いものや、俗念を離脱して人格の高みに達しているかのようなものには、自分自身がそうはなれないとして、素直に懐疑の念を示しています。

 結局、著者自身、本書で絶対的な"解決策"というものを明確に打ち出しているわけではなく、著者の挙げたエピソードの中の患者も、殆どが失意や無念さの内に亡くなっているというのが現実かと思いますが、それでも、エピソードの紹介が進むつれて、その中に幾つかに、患者が心安らかになる手掛かりとなるようなものもあったように思います。
 
 例えば、毎年恒例となっている病棟の桜の花見会に、末期の患者をその希望に沿ってストレッチャーに乗せて連れていった時、その患者が見せた喜びの表情(エピソード2)、独身男性患者に、亡くなっていく人の心が何らかのかたちで残される人に伝わることを話す看護師の努力(エピソード13)、日々の新聞のコラム記事の切り抜きに没頭する、その切抜きを後で見直す機会は持たない女性患者(エピソード15)、お世話になった人への挨拶など、死に向かう"けじめ"の手続きをこなす余命3ヵ月の元大学教授(エピソード16)、病を得たのをきっかけに亡くなった友人のことを思い出したことで安寧な心を得たように思われる歌人(エピソード16)、余命1ヵ月と聞かされショックを受けた後、今度は急に仕事への意欲が湧いてきた"五嶋さん"という男性(エピソード19)等々(この"五嶋さん"は、余命1週間と言われ、1週間後に著者に挨拶に来て、その2日後に亡くなったエピソード5の人と同人物)。

 最後の"五嶋さん"のエピソードは、同じく余命1ヵ月の病床で、何も出来ず生きていても意味がないと思っていたら、夫から「君が生きていればそれでいい」と言われ、夫が後で見てくれるようにと"家事ノート"を作り始めた"秋葉さん"の話(エピソード1)にも繋がっているように思えました。

 そうしたことを通して末期の患者らの死の恐怖が緩和され、安寧を得たかどうかについても、著者は慎重な見方はしているものの、ただ不可知論で本書を終わらせるのではなく、奈落から這い上がるヒントとなると思われる項目を、「人は誰でも、心の奥に安心できる心を持っているのだ」「生きていて、まだ役に立つことがあると思える人は、奈落から早く這い上がる可能性が高い」など8つ挙げ、また、終章を「短い命の宣告で心が辛い状況にある方へ―奈落から這い上がる具体的方法」とし、その方法を示しています(①気持ちの整理、とりあえず書いてみる、②泣ける、話せる相手を見つける)。

 人間は死が近づいても心の中に安寧でいられる要素を持っているという著者の信念(生物学的仮説)に共感する一方、宗教を信じていない状況で、「あなたの余命は3ヵ月です」などと言われるようなことは医療の歴史では嘗て無かったわけで、心理面での緩和ケアの在り方が、今後のターミナルケアの大きな課題になるように思いました。

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ルポライターの書。病室で患者を診ている医師の視点とはまた異なった訴求力。

まだ、タバコですか?.jpg 『まだ、タバコですか? (講談社現代新書)』 ['07年] 禁煙バトルロワイヤル.jpg 『禁煙バトルロワイヤル (集英社新書 463I)』 ['09年]

 太田光と奥仲哲弥医師の『禁煙バトルロワイヤル』('08年/集英社新書)の後に読みましたが、『禁煙バトルロワイヤル』がどこまで本気で喫煙者にタバコを止めさせようとしているのか、よくわからない部分もあったのに対し、本書はストレートにタバコの害悪を説いた本(但し、あくまでも"害悪"について書かれていて、"止め方"を教示しているのではない)。

 著者は医師ではなく映画助監督を経てルポライターになった人ですが、そのためか、タバコの健康上の害悪だけでなく、タバコの歴史や社会的背景、米国など海外の事情、タバコ製造会社とそれをとりまく内外の事情から、ポイ捨てタバコの環境への影響、新幹線の車内販売員の受動喫煙といったことまで、広範にわたって書かれています。

 タバコが止められない原因を、身体的依存と心理的依存にわけているのは興味深かったですが、著者は心理的依存がかなり大きいと見ているようです(その論法でいくと、本書のような"知識"を提供するのが主体の本は、喫煙者の禁煙への直接的動機づけにはなりにくい?)。

 タバコの身体への影響などの医学的な問題は、科学的なデータをもとにかなり突っ込んで書かれていて、相当の資料・データ収集の跡が窺えます。

 タバコを吸うと頭が冴えると俗に言うけれど、ある予備校の浪人生の大学合格率が、喫煙者20%台、浪人中の禁煙成功者30%台、非喫煙者40%台だったという、その調査結果よりも、よくそんなデータがあったなあと感心してしまいました(この「冴える」という感覚と絶対的な「能力水準」との関係のカラクリも示している)。

 病気との関係も、クモ膜下出血、アルツハイマー病(「喫煙はアルツハイマー病を予防する」というのは誤解に基づく俗説であると)、脳の老化から、肺がんなどのがんや気管支の疾患まで、特定の病気の専門医が書いたものよりも、むしろ広範に取り上げています。

 本書には、IARCの調査(2004)で、喫煙者は非喫煙者に比べ、肺がんには15〜30倍、喉頭がんには10倍罹り易いとありますが、『禁煙バトルロワイヤル』に出ていた別の機関の調査では、肺がんには4.5倍、喉頭がんには32.5倍になっていて、喉頭がんの危険性の方が強調されていました。

 但し、本書では、実際に喉頭がんに罹った人を取材していて、こちらの方が訴求力あるように思われ、更には『禁煙バトルロワイヤル』で「死ぬに死ねない」苦しい病気とされていたCOPD(慢性気管支炎や肺気腫などの慢性閉塞性肺疾患の総称)についても、実際にそうした病気を抱えながら、生きて日々の生活を送っている人を複数取材しています。

 喫煙の危険性を世に訴えるために取材に協力した、そうした人々の生活の実際に踏み込んで取材しているため、病室で患者を診ている医師の視点とはまた異なった訴求力を持ったものになっているように思いました。

 米国で、タバコの健康に対する悪影響について、タバコ会社内で研究結果の隠蔽が行われたことが、司法上の問題になった事例が取り上げられていますが、著者は、日本専売公社の元研究員への取材から、日本において政府官庁から、そうした研究に対して同様の圧力があったことを示唆しています。

 著者も指摘するように、JTの筆頭株主は財務省(全株式の50%を保有)であり、こうした構図が変わらない限りは、著者流に言えば、国民を"騙し続ける"体質は変わらないのではないかと。

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分かり易い解説で甦ったハッブル宇宙望遠鏡の宇宙遺産を伝える。新書スペースをフルに使った写真が美しい。

カラー版ハッブル望遠鏡 宇宙の謎に挑む.gif
         カラー版 ハッブル望遠鏡の宇宙遺産.jpg  『カラー版 ハッブル望遠鏡の宇宙遺産 (岩波新書)』['04年]
カラー版ハッブル望遠鏡 宇宙の謎に挑む (講談社現代新書)』['09年]

 サイエンスライターの野本氏は、多くの著書でハッブル宇宙望遠鏡の成果を我々に紹介していますが、新たに著者が出されると、写真の美しさをあって、ついついまた買ってしまいます。但し、そこには、ハッブル望遠鏡から送られてきた、前著には無かった新しい写真が掲載されているので、宇宙学についての分かり易い解説を、そうした最新の写真を楽しみながら復習できるというメリットがあり、買って後悔することはまずありません。

オリオン座。左上の明るい星がベテルギウス.jpgベテルギウスの表面.jpg 本書は、講談社現代新書としては珍しい(?)カラー版で、同氏の『カラー版 ハッブル望遠鏡の宇宙遺産』('04年/岩波新書)と内容的にかぶるのではないかとも思ったのですが、読んでみて、或いは写真を見て、今回も期待を裏切るものではありませんでした。 

 「星の誕生と死」などについての著者の解説は、いつもながらに分かり易いものですが、そう言えば、'09年1月6日にNASAが、オリオン座のベテルギウス(木星の軌道よりも巨大な赤色超巨星)に超新星爆発へ向かうと見られる兆候が観測されたと発表したばかりです。

ベテルギウスの表面[NASA・パリ天文台提供]と位置(オリオン座の左上の星)[沼沢茂美氏撮影]

 さすがにそのことまでは載っていないものの、入門書としての解説と併せて、岩波新書の前著から5年間の間の新たな研究成果がふんだんに織り込まれていて、著者が毎回丹念に書き下ろしているということが窺えます。

エリダヌス座エプシロン星の惑星(イラスト).jpg 老朽化しつつあるハッブル宇宙望遠鏡について、NASAが、国際宇宙ステーションの軌道外にハッブル宇宙望遠鏡があることから、予算難に加えて宇宙飛行士の安全を確保出来ないことを理由に修理見送りの決定を下したため、著者が前著で、"人類遺産"の対語として命名された"宇宙遺産"だが、ハッブル宇宙望遠鏡そのものの"遺産"ということになってしまうのかと嘆いていたのを覚えています。

 それが、宇宙に関心を寄せる多くの一般ピープルの要望で、NASAの決定が覆り、'09年5月に新たなサービスミッションによる補修作業が行われ、以前より性能はアップし、また、後継の宇宙望遠鏡である"ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡(JWST)"の打ち上げ計画('13年予定)も着々と進んでいるいうのは、たいへん喜ばしいし、楽しみなことだと思います。   エリダヌス座エプシロン星の惑星(イラスト)

 本書は特に、新書版のスペースをフルに使った写真が美しく、個人的には、銀河同士の衝突の写真(銀河団同士の衝突を捉えたものもある)に特に関心がそそられ、今世紀に入り発見数が著しく伸びている系外惑星の写真や想像イメージ(イラスト)にも、ロマンを掻き立てられました。

衝突する銀河 (本書より)
衝突する銀河.jpg

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たいへん分かり易い入門書。興味を惹く図説や記述が多かった。

人類進化の700万年.jpg人類進化の700万年2.jpg['05年] 人類の進化史 埴原和郎.jpg['04年]
人類進化の700万年―書き換えられる「ヒトの起源」 (講談社現代新書)』 埴原和郎『人類の進化史―20世紀の総括 (講談社学術文庫)』 
人類進化の系統樹.gif
 ややアカデミックな埴原和郎著『人類の進化史-20世紀の総括 』('04年/講談社学術文庫)のすぐ次に読んだということもありますが、たいへん分かり易い入門書でした。個人的には、学術文庫の復習を本書でするような形になりましたが、こちらを先に読んで、それから学術文庫の方を読むという読み方でもいいかも。

 '05年の刊行であるるため、タイトルからみてとれるように、'02年に発見された700〜600万年前の人類化石"サヘラントロプス・チャデンシス"の発見は織り込み済みで、それを起点に、「猿人→原人→旧人→新人」という進化の過程に沿って解説しています。

 この「猿人・原人・旧人・新人」という区分は必ずしも絶対的な時系列にはなっておらず(同じ時代に複数の"人類"がいた)、また、ホモ・ハビリスのように「猿人」と「原人」の中間に位置する人類もいたりするため、欧米では現在はあまり使われなくなっているようですが、「猿人・原人・旧人・新人」といった枠を外して個々の"人類"名を全てカタカナで表記するだけだと分かりづらいため、敢えて、旧来の「猿人・原人・旧人・新人」という言葉を用い、例えばホモ・ハビリスはホモ・エレクトスと同じく「原人」としてグループ化するなどして、読者が概念把握し易いように配慮しています。

 「直立二足歩行」は「犬歯の縮小」とともに、人類誕生初期からの特徴であるとのことですが(脳の大型化や言語の使用などはずっと後のこと)、なぜ人類が直立二足歩行を始めたのかは大きな謎であるとのことです。この問題についての諸説が紹介されていますが、オスがメスに対し、より多くの食糧を運び易いようにするためそうなったという説が有力であるというのが興味深いです。

 但し、進化には目的があるのではなく突然変異から起きる、という法則に沿ってこれを正確に言うならば、「オスは、メスに食糧を運ぶために二足歩行に適した体に進化し、繁殖機会を増やした」のではなく、「二足歩行が出来るように進化した人類のオスは、メスに食糧を運ぶことで繁殖機会を増やした」となると。

アフリカ単一起源説による人類進化.jpg 「新人」に関しては、ネアンデアルタール人(ホモ・ネアンデアルターレンシス)とクロマニヨン人(ホモ・サピエンス)の関係などを図説でもって分かり易く解説していますが、形態的な進化の過程を探るだけでなく、"おしゃれ"の始まりなどの「心の進化」の過程や、農耕、家畜の飼育、飲酒などの習慣がいつ頃から始まったのかを解説し、また我々にとって興味深い「日本人の起源」についても考察していますが、こと後者については、遺伝子情報から解析すると相当複雑で、単に「南から来た」とか「北から来た」といった二者択一的な解答を出すのは難しいようです(このテーマについては、篠田謙一『日本人になった祖先たち-DNAから解明するその多元的構造』('07年/NHKブックス)により詳しく解説されている)。

 化石の年代測定法(放射性同位元素による方法など)や、遺伝子情報学についても、概説とは言え、相当のページを割いているのも本書の特徴であり、また、魚類から両生類や爬虫類、鳥類にかけての進化の過程では色覚を持っていたのに、哺乳類はなぜ色盲になってしまい、またそれが人類になって復活したのはなぜかといった考察も興味深いものでした。

《読書MEMO》
●なぜアフリカだったのか(アフリカの類人猿(チンパンジー等)は人類に進化したのに、アジアの類人猿(オランウータン等)はなぜ進化しなかったのか)
⇒アフリカでは急激な乾燥化が起こり、木から下りる必要が生じたが、アジアの熱帯林は豊かで樹上生活を続けることができたため(60‐61p)
●人類がアフリカを出たのは180万年前(2002年にグルジアで化石が発見された。脳の大きさは600ccで初期原人に及ばない)。人類は誕生してから500万年間、アフリカで生きていた(92‐94p)
●東アジア(北京周辺)到達は166万年前(97‐98p)
●4万〜3万年前のヨーロッパには、ネアンデルタール人と現生人類(クロマニョン人)が共存していたらしい。但し、混血は無かった(126‐128p)
●恐竜全盛時代、多くの哺乳類は夜行性 ⇒ 色覚が退化(221‐222p)
●ミルクを飲むのは哺乳類の子どもだけ ⇒ 人類は遺伝子の突然変異で大人でもラクトース(乳糖)が分解できるようになった(今でもミルクが苦手な人がいる)(230p)

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難解な著作の著者、孤高の哲学者というイメージとはまた違った、人間味ある人柄。

ウィトゲンシュタイン―天才哲学者の思い出4.JPGウィトゲンシュタイン   .jpgウィトゲンシュタイン―天才哲学者の思い出.jpg
ウィトゲンシュタイン―天才哲学者の思い出 (講談社現代新書)』['74年]『ウィトゲンシュタイン―天才哲学者の思い出 (平凡社ライブラリー)』['98年]

Ludwig Wittgenstein( 1889-1951).jpg 冷徹な分析的知能と炎のような情熱を併せ持ち、20世紀最大の哲学的天才と言われるルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein、1889‐1951)の評伝で、著者は、かつて彼の学生であり、後に公私にわたって彼と長く親交のあった米国の哲学者であり、評伝と言うより、サブタイトルにある「思い出」と言った方が確かにぴったりくる内容。

中央公論社・世界の名著第58巻.jpg ウィトゲンシュタインの著作でまともに完結しているのは『論理哲学論考』しかないそうですが(小学生向けの教科書を除いて―哲学研究に挫折して田舎で小学校の教師をしていた時期がある)、『論考』という本は、部分部分の考察は独創的でありながらも、全体を通してはかなり難解な論文であり、これ読んで分かる人がどれぐらいいるのかと思ったりもしました(評論家の立花隆氏は若い頃最も影響を受けた本として『論考』を挙げている)。

 その『論考』を未消化のまま読み終えた後で本書を読んで、むしろウィトゲンシュタインの"人柄"に興味を惹かれました。

世界の名著〈58〉ラッセル,ウィトゲンシュタイン,ホワイトヘッド (1971年)

 難しい顔した大学の先生風かと思いきや、(確かに難しそうな顔をしているのだが)アカデミズムの虚飾的な雰囲気を嫌い、英国や北欧の田舎で隠遁生活みたいな暮らしぶりをしていた時期もあり、統合失調質(ジゾイド)人格障害の典型例としてよくその名が挙がりますが、確かに「孤高の人」という感じはするものの、本書の著者をはじめ近しい人に対しては、その家族をも含め、思いやりを以って(どちらかと言うと他人にお世話されることの方が多かったので、"感謝の念を以って"と言った方が妥当かも)接していたことが分かります。

IMG_2858.JPG ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジでバートランド・ラッセルの学生であったこともあり、ラッセルが教えていて、生徒の中に自分より優秀な人間がいることが分かり教授を続けるのを辞めた、その「自分より優秀な学生」というのがウィトゲンシュタインだったというのを、別のところで読んだことがありますが、本書によれば、哲学だけでなく、美学・建築・音楽など様々な分野での才能があり、また、推理小説と映画が好きだったようです(映画を身る時、いつも最前列に座り、「こうして見ていると、シャワーを浴びているような感じがする」と著者に囁いたというエピソードには、個人的に共感した)。

 ウィトゲンシュタインが『論考』でテーゼとしているのは、「成立している事態の全体が世界である」ということであり、彼は、「世界」については、その世界を構成しているモノ(コト)以外のモノ(コト)で世界を語れるわけはない、言い換えれば、世界を構成するモノやコトを指し示す言葉によってしか語れないと言っているのですが、これは『論考』における第一段階の更に前段階ぐらいに過ぎず、更にどんどん深い《論理的‐哲学的》考察へと入っていき、しかも、後に、自ら『論考』自体を自己否定していて、過去の自分の業績に固執しない、と言うより、殆ど過去を振り返らない性質であったと言えます。
 常に思索の壁を突き破ろうと邁進するその姿勢は、俗っぽい表現の印象評価になってしまいますが、生涯を通じて「脳の壁」に挑戦し続けた人という感じがします。

板坂元.jpg 訳者は、ハーバード大学で日本文学・日本語を教えていた板坂元で、同著者(N・マルコム)による『回想のヴィトゲンシュタイン』('74年/教養選書)という似たタイトルの本(哲学者の藤本隆志の訳)がありますが、同じ元本を同時期に別々の訳者が訳した偶然の結果であるとのこと、哲学者ではない板坂元が本書を訳したのは、本書にも見られる、異国の地で苦悶しながらも真摯に学生と向き合う教育者としてのウィトゲンシュタインの姿への共感からではないかと思われます。
板坂 元 (1922-2004)

 【1998年・再新書化[平凡社ライブラリー]/(藤本隆志:訳)1974年[教養選書(『回想のヴィトゲンシュタイン』)]】

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一般社会人が身につけておきたい精神医学の知識。"新型うつ病"を"ジャンクうつ"と断罪。

ビジネスマンの精神科.gif岩波 明 『ビジネスマンの精神科』2.JPG   うつ病.jpg
ビジネスマンの精神科 (講談社現代新書)』['09年] 『うつ病―まだ語られていない真実 (ちくま新書)』['07年]

 タイトルからすると職場のメンタルヘルスケアに関する本のようにも思われ、「中規模以上の企業」に勤めるビジネスマンを読者層として想定したとあり、実際、全11章の内、「企業と精神医学」と題された最終章は職場のメンタルヘルスケアの問題を扱っていますが、それまでの各章においては、うつ病、躁うつ病、うつ状態、パニック障害、その他の神経症、統合失調症、パーソナリティ障害、発達障害などを解説していて、実質的には精神医学に関する入門書です。タイトルの意味は、一般社会人として出来れば身に着けておきたい、精神医学に関する概括的な知識、ということではないかと受け止めました(勿論、こうした知識は、職場のメンタルヘルスケアに取り組む際の前提知識として重要であるには違いない)。

 基本的にはオーソドックスな内容ですが、うつ病の治療において「薬物療法をおとしめ、認知療法など非薬物療法をさかんに推奨する人」を批判し、例えば「認知療法を施行することが望ましい患者は、実は非常に限定される」、「そもそも、認知療法を含む非薬物療法は急性期のうつ病の症状に有効性はほとんどない。かえって症状を悪化させることもある」といった記述もあります(前著『うつ病―まだ語られていない真実』('07年/ちくま新書)では、高田明和氏とかを名指しで批判していたが、今回は名指しは無し。名指ししてくれた方がわかりやすい?)。

 その他に特徴的な点を挙げるとすれば、「適応障害」は一般的な意味からは「病気」とは言えないとしているのは、DSMなどの診断基準で"便宜的"区分として扱われて売ることからも確かに"一般的"であるとしても、「適応障害よりもさらに"軽いうつ状態"を"うつ病"であると主張する人たちがいる。その多くは、マスコミ向けの実態のない議論である」とし、「"新型うつ病"という用語がジャーナリズムでもてはやされた時期があった」と過去形扱いし、「分析すること自体あまり意味があるように思えないが、簡単に述べるならば、"新型うつ病"は、未熟なパーソナリティの人に出現した軽症で短期間の"うつ状態"である。(中略)精神科の治療は必要ないし、投薬も不要である」、「こうした"ジャンクなうつ状態"の人は、自ら病気であると主張し、これを悪用することがある。彼らはうつ病を理由に、会社を休職し、傷病手当金を手にしたりする」(以上、98p-99p)と断罪気味に言っていることでしょうか。

 『うつ病―まだ語られていない真実』には、「気分変調症(ディスサイミア)」の症例として、被害妄想から自宅に放火し、自らの家族4人を死に至らしめた女性患者が報告されていて(これ読むと、かなり重い病気という印象)、うつ病や気分変調症と、適応障害やそれ以外の"軽いうつ状態"を厳格に峻別している傾向が見られ、個人的には著者の書いたものに概ね"信を置く"立場ですが、自分は重症うつ病の"現場"を見てきているという自負が、こうした厳しい姿勢に現われるのかなあとも。

 但し、個人における症状を固定的に捉えているわけではなく、適応障害から「気分変調症」に進展したと診断するのが適切な症例も挙げていて、この辺りの判断は、専門医でも難しいのではないかと思わされました。

 その他にも、「精神分析」を「マルクス主義」に擬えてコキ下ろしていて(何だか心理療法家そのものに不信感があるみたい)、フロイトの理論で医学的に証明されたものは1つもないとし、フーコーやラカンら"フロイトの精神的な弟子"にあたる哲学者にもそれは当て嵌まると(125p)。
 
田宮二郎.jpg 入門書でありながら、所々で著者の"持ち味"が出るのが面白かったですが、
一番興味深かったのは、「躁うつ病」の例で、自殺した田宮二郎(1935-1978/享年43)のことが詳しく書かれていた箇所(72p-77p)で、彼は30代前半の頃から躁うつ病を発症したらしく、テレビ版の「白い巨塔」撮影当初は躁状態で、自らロケ地を探したりもしていたそうですが、終盤に入ってうつ状態になり、リハーサル中に泣き出すこともあったりしたのを、周囲が励ましながら撮影を進めたそうで、彼が自殺したのは、テレビドラマの全収録が終わった日だったとのこと。
 躁状態の時に実現が困難な事業に多額の投資をし、借金に追われて、「俺はマフィアに命を狙われている」とかいう、あり得ない妄想を抱くようになっていたらしい。
 へえーっ、そうだったのかと。

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著者のやり口は変わったけれど中身はあまり変わってないか。

信田 さよ子 『選ばれる男たち.jpg選ばれる男たち―女たちの夢のゆくえ.gif
選ばれる男たち―女たちの夢のゆくえ (講談社現代新書)』 ['09年]

 DV(ドメスティック・バイオレンス)の専門家である臨床心理士の著者の本ですが、いきなりイケメンドラマの話から入り、おばさんたちが韓流ドラマに夢中になるのは何故かということを、自分自身が「ヨン様」、つまりペ・ヨンジュンの熱狂的ファンであることをカミングアウトしつつ語っていて、あれ、先生どうしたの、という感じも。

 著者によれば、若い男性の「萌え」ブームは、彼らが女性の成熟への価値を喪失したためのものであり、女性たちの「草食系男子」への指向や、おばさんたちの間での「韓流ブーム」も、女性にとっての既存の理想の男性像が変わってきて、成熟した男性より「うぶで無垢な王子」といったタイプが好かれるようになってきたためであると。

 ということで、前半部分、いい男について語るのは楽しいとしながらも、読む側としては何が言いたいのだろうと思って読んでいると、中盤、第3章「正義の夫、洗脳する夫」は、著者の臨床例にみるDVを引き起こす男性の典型例が挙げられていて、一気に重たい気分にさせられます。
 家庭という密室の中での彼らの権力と暴力の行使はホントにひどいもので、でも、実際、こういうの、結構いるのだろうなあと。

 但し、そうした配偶者の暴力に遭いながらも離婚に踏み切れない女性もいるわけで(著者が言うところの「共依存」という類)、著者は「理想の男性像を描き直せ」、「男を選んでいいのだ」と言っており、これが前段の、「男を愛でることがあっていい」「男性像の価値観は変わった」という話にリンクしてたわけか、と後半残り3分の1ぐらいのところにさしかかって、やっと解りました。

選ばれる男たち―女たちの夢のゆくえ2.gif 著者のもう1つの専門領域である児童虐待に関する本を読んだ際に、子どもへの虐待を、「資本家-労働者」、「男-女」と並ぶ「親-子」の支配構造の結果と捉えていることでフェニミズム色が濃くなっていて、子どもへの虐待をことさらにイデオロギー問題化するのはどうかなあと(読んでいて、しんどい。論理の飛躍がある)。

 そうしたかつての著者の本に比べると、韓流ドラマの話から入る本書は、ちょっと戦術を変えてきたかなあという感じはします。

 DV常習者になるような「だめ男」の見分け方のようなものも指南されていますが、そうした問題のある男性と一般の男性がジェンダー論として混同されていて、基本的には、この人の、病理現象的なものを社会論的に論じる物言いに、オーバーゼネラリゼーション的なものを感じ(結果的に、本書に出てくるサラリーマンとか中年オヤジというのは、極めて画一化された捉え方をされている)、やり口は変わったけれど中身はあまり変わってないかなあ、という印象も。

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イデオロギー至上主義が人間性を踏みにじる様が具体的に描かれている。

私の紅衛兵時代6.jpg私の紅衛兵時代―ある映画監督の青春.jpg    さらばわが愛~覇王別姫.jpg 写真集さらば、わが愛/覇王別姫.jpg
私の紅衛兵時代 ある映画監督の青春 (講談社現代新書)』['90年/'06年復刻]/「さらば、わが愛覇王別姫」中国版ポスター/写真集『さらば、わが愛覇王別姫』より

陳凱歌(チェン・カイコー).jpg 中国の著名な映画監督チェン・カイコー(陳凱歌、1952年生まれ)が、60年代半ばから70年代初頭の「文化大革命」の嵐の中で過ごした自らの少年時代から青年時代にかけてを記したもので、「文革」というイデオロギー至上主義、毛沢東崇拝が、人々の人間性をいかに踏みにじったか、その凄まじさが、少年だった著者の目を通して具体的に伝わってくる内容です。

紅衛兵.jpg 著者の父親も映画人でしたが、国民党入党歴があったために共産党に拘禁され、一方、当時の共産党員幹部、知識人の子弟の多くがそうしたように、著者自身も「紅衛兵」となり、「毛沢東の良い子」になろうとします(そうしないと身が危険だから)。

 無知な少年少女が続々加入して拡大を続けた紅衛兵は、毛沢東思想を権威として暴走し、かつて恩師や親友だった人達を糾弾する、一方、党は、反国家分子の粛清を続け、"危険思想"を持つ作家を謀殺し、中には自ら命を絶った「烈士」もいたとのことです。

 そしてある日、著者の父親が護送されて自宅に戻りますが、著者は自分の父親を公衆の面前で糾弾せざるを得ない場面を迎え、父を「裏切り」ます。

 共産党ですら統制不可能となった青少年たちは、農村から学ぶ必要があるとして「下放」政策がとられ、著者自身も'69年から雲南省の山間で2年間農作業に従事しますが、ここも発狂者が出るくらい思想統制は過酷で、但し、著者自身は、様々の経験や自然の中での肉体労働を通して逞しく生きることを学びます。

 語られる数多くのエピソードは、それらが抑制されたトーンであるだけに、却って1つ1つが物語性を帯びていて、「回想」ということで"物語化"されている面もあるのではないかとも思ったりしましたが、う~ん、実際あったのだろなあ、この本に書かれているようなことが。

紅いコーリャン [DVD]」張藝謀(チャン・イーモウ)監督
紅いコーリャン .jpgチャン・イーモウ(張藝謀).jpg 結果的には「農民から学んだ」とも言える著者ですが、17年後に映画撮影のため同地を再訪し、その時撮られたのが監督デビュー作である「黄色い大地」('84年)で、撮影はチャン・イーモウ(張藝謀、1950年生まれ)だったとのこと。

 個人的には、チャン・イーモウ監督の作品は「紅いコーリャン」('87年/中国)を初めて観て('89年)、これは凄い映画であり監督だなあと思いました(この作品でデビューしたコン・リー(鞏俐)も良かった。その次の作品「菊豆<チュイトウ>」('90年/日本・中国)では、不倫の愛に燃える若妻をエロチックに演じているが、この作品も佳作)。 
               
童年往事 時の流れOX.jpg童年往事 時の流れ.png童年往時5.jpg その前月にシネヴィヴァン六本木で観た台湾映画「童年往時 時の流れ」('85年/台湾)は、中国で生まれ、一家とともに台湾へ移住した"アハ"少年の青春を描いたホウ・シャオシェン(侯孝賢、1947年生まれ)監督の自伝的作品でしたが(この後の作品「恋恋風塵」('87年/台湾)で日本でも有名に)、中国本土への望郷の念を抱いたまま亡くなった祖母との最期の別れの場面など、切ないノスタルジーと独特の虚無感が漂う佳作でした(ベルリン国際映画祭「国際批評家連盟賞」受賞作)。
【映画チラシ】童年往時/「童年往事 時の流れ [DVD]」 (パンフレット)

坊やの人形.jpg ホウ監督の作品を観たのは、一般公開前にパルコスペースPART3で観た「坊やの人形」('83年/台湾)に続いて2本目で、「坊やの人形」は、サンドイッチマンという顔に化粧をする商売柄(チンドン屋に近い?)、家に帰ってくるや自分の赤ん坊を抱こうとするも、赤ん坊に父親だと認識されず、却って怖がられてしまう若い男の悲喜侯孝賢.jpg劇を描いたもので、台湾の3監督によるオムニバス映画の内の1小品。他の2本も台湾の庶民の日常を描いて、お金こそかかっていませんが、何れもハイレベルの出来でした。

坊やの人形 [DVD]」/侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督

 両監督作とも実力派ならではのものだと思いましたが、同じ中国(または台湾)系でもチャン・イーモウ(張藝謀)とホウ・シャオシェン(侯孝賢)では、「黒澤」と「小津」の違いと言うか(侯孝賢は小津安二郎を尊敬している)、随分違うなあと。

陳凱歌監督 in 第46回カンヌ映画祭 「さらば、わが愛~覇王別姫 [DVD]」 /レスリー・チャン
覇王別姫第46回カンヌ映画祭パルムドール.jpgさらば、わが愛/覇王別姫.jpg覇王別姫.jpgレスリー・チャン.gif 一方、チェン・カイコー(陳凱歌)監督の名が日本でも広く知られるようになったのは、もっと後の、1993年・第46回カンヌ国際映画祭パルム・ドール並びに国際映画祭国際映画批評家連盟賞受賞作「さらば、わが愛/覇王別姫」('93年/香港)の公開('94年)以降でしょう。米国でも評価され、ゴールデングローブ賞外国語映画賞、ニューヨーク映画批評家協会賞外国語映画賞などをを受賞しています(これも良かった。妖しい魅力のレスリー・チャン、残念なことに自殺してしまったなあ)。

 本書も刊行されたのは'90年ですが、その頃はチェン・カイコー監督の名があまり知られていなかったせいか、一旦絶版になり、「復刊ドットコム」などで復刊要望が集まっていたのが'06年に実際に復刻し、自分自身も復刻版(著者による「復刊のためのあとがき」と訳者によるフィルモグラフィー付)で読んだのが初めてでした。

 「さらば、わが愛/覇王別姫」にも「紅いコーリャン」にも「文革」の影響は色濃く滲んでいますが、前者を監督したチェン・カイコー監督は早々と米国に移住し(本書はニューヨークで書かれた)、ハリウッドにも進出、後者を監督したチャン・イーモウ監督は、かつては中国本国ではその作品が度々上映禁止になっていたのが、'08年には北京五輪の開会式の演出を任されるなど、それぞれに華々しい活躍ぶりです(体制にとり込まれたとの見方もあるが...)。


「中国問題」の内幕.jpg中国、建国60周年記念式典.jpg 中国は今月('09年10月1日)建国60周年を迎え、しかし今も、共産党の内部では熾烈な権力抗争が続いて(このことは、清水美和氏の『「中国問題」の内幕』('08年/ちくま新書)に詳しい)、一方で、ここのところの世界的な経済危機にも関わらず、高い経済成長率を維持していますが(GDPは間もなく日本を抜いて世界第2位となる)、今や経済界のリーダーとなっている人達の中にも文革や下放を経験した人は多くいるでしょう。記念式典パレードで一際目立っていたのが毛沢東と鄧小平の肖像画で、「改革解放30年」というキャッチコピーは鄧小平への称賛ともとれます(因みに、このパレードの演出を担当したのもチャン・イーモウ)。

 中国人がイデオロギーやスローガンに殉じ易い気質であることを、著者が歴史的な宗教意識の希薄さの点から考察しているのが興味深かったです。
 
童年往来事ド.jpg「童年往時/時の流れ」●原題:童年往来事 THE TIME TO LIVE AND THE TIME TO DIE●制作年:1985年●制作国:台湾●監督:侯孝賢(ホウ・シャオシェン)●製作:徐国良(シュ・クオリヤン)●脚本:侯孝賢(ホウ・シャオシェンシネヴィヴァン六本木.jpg)/朱天文(ジュー・ティエンウェン)●撮影:李屏賓(リー・ピンビン)●音楽:呉楚楚(ウー・チュチュ)●時間:138分●出演:游安順(ユーアンシュ)/辛樹芬(シン・シューフェン)/田豊(ティェン・フォン)/梅芳(メイ・フアン)●日本公開:1988/12●配給:シネセゾン●最初に観た場所:シネヴィヴァン六本木(89-01-15)(評価:★★★★)
シネヴィヴァン六本木 1983(平成5)年11月19日オープン/1999(平成11)年12月25日閉館

坊やの人形 <HDデジタルリマスター版> [Blu-ray]
坊やの人形 00.jpg坊やの人形 00L.jpg「坊やの人形」(「シャオチの帽子」「りんごの味」)●原題:兒子的大玩具 THE SANDWICHMAN●制作年:1983年●制作国:台湾●監督:侯孝賢(ホウ・シャオシェン)/曹壮祥(ゾン・ジュアンシャン)/萬仁(ワン・レン)●製作:明驥(ミン・ジー)●脚本:呉念眞(ウー・ニェンジェン)●撮影:Chen Kun Hou●原作:ホワン・チュンミン●時間:138分●出演:陳博正(チェン・ボージョン)/楊麗音(ヤン・リーイン)/曽国峯(ゾン・グオフォン)/金鼎(ジン・ディン)/方定台(ファン・ディンタイ)/卓勝利(ジュオ・シャンリー)●日本公開:1984/10●配給:ぶな企画●最初に観た場所:渋パルコスペース Part3.jpg渋谷シネクイント劇場内.jpgCINE QUINTO tizu.jpg谷・PARCO SPACE PART3(84-06-16)(評価:★★★★)●併映:「少女・少女たち」(カレル・スミーチェク)
PARCO SPACE PART3 1981(昭和56)年9月22日、演劇、映画、ライヴパフォーマンスなどの多目的スペースとして、「パルコ・パート3」8階にオープン。1999年7月~映画館「CINE QUINTO(シネクイント)」。 2016(平成28)年8月7日閉館。

「さらば、わが愛/覇王別姫」(写真集より)/「さらば、わが愛/覇王別姫」中国版ビデオ
『さらば、わが愛/覇王別姫』(1993) 2.jpgさらばわが愛~覇王別姫.jpg「さらば、わが愛/覇王別姫」●原題:覇王別姫 FAREWELL TO MY CONCUBI●制作年:1993年●制作国:香港●監督:陳凱歌(チェン・カイコー)●製作:徐淋/徐杰/陳凱歌/孫慧婢●脚本:李碧華/盧葦●撮影:顧長衛●音楽:趙季平(ヂャオ・ジーピン)●原作:李碧華(リー・ビーファー)●時間:172分●出演:張國榮(レスリー・チャン)/張豊毅(チャン・フォンイー)/鞏俐(コン・リー)/呂齊(リゥ・ツァイ)/葛優(グォ・ヨウ)/黄斐(ファン・フェイ)/童弟(トン・ディー)/英達(イン・ダー)●日本公開:1994/02●配給:ヘラルド・エース=日本ヘラルド映画(評価:★★チャン・フォンイー、コン・リー、レスリー・チャン.jpgさらば、わが愛 覇王別姫 鞏俐 コン・リー.jpg★★☆)

鞏俐(コン・リー)in「さらば、わが愛 覇王別姫」(1993年・二ューヨーク映画批評家協会賞 助演女優賞受賞)
張豊毅(チャン・フォンイー)、鞏俐(コン・リー)、張國榮(レスリー・チャン)in 第46回カンヌ国際映画祭フォトセッション

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文学者の眼から見たサルトル像、小説・戯曲への手引。ボーヴォワールを嫉妬に狂わせたサルトル。
「サルトル」入門 (講談社現代新書)2_.jpgサルトル入門.JPG「「サルトル」入門5.JPG「サルトル」入門 (1966年) (講談社現代新書)』 

 '07年から'08年にかけて松浪信三郎訳の『存在と無』がちくま文庫(全3冊)に収められたかと思ったら、'09年には岩波文庫で『自由への道』の刊行が始まり、こちらは全6冊に及ぶと言うサルトル-まだ読む人がいるのだなあという思いも。

白井浩司.jpg 著者の白井浩司(1917-2004)はサルトル研究の第一人者として知られたフランス文学者で、サルトルの『嘔吐』『汚れた手』などの翻訳も手掛けており、本書は、文学者・実存主義者・反戦運動の指導者など多様な活動をしたサルトルの人間像を捉えたものであるとのことですが、とりわけ、その小説や戯曲を分り易く解説しているように思いました。

 文学者の眼から見たサルトル像、サルトルの小説や戯曲へのサルトルとボーボワール.jpg手引書であると言え(とりわけ『嘔吐』の主人公ロカンタンが感じた〈吐き気〉などについては、詳しく解説されている。片や『存在と無』などの解説が物足りなさを感じるのは、著者がやはり文学者だからか)、その一方で、彼の生い立ちや人となり(これがなかなか興味深い)、ボーヴォワールをはじめ多くの同時代人との交友やカミュなどとの論争についても書かれています。

 彼は20代後半から30代前半にかけての長い修業時代に、まず、セリーヌの『夜の果ての旅』を読み、その文章に衝撃を受けて、その後いろいろな作家の作品を読み漁っていますが、カフカとフォークナーに特に共感したとのこと、また、映画を文学と同等に評価していて、カウボーイや探偵の活躍する娯楽映画も好きだったそうです(サルトルは映画狂だとボーヴォワールは書いている)。
サルトルとボヴォワール(来日時)

 彼の政治的な活動をも追う一方で、私生活についてもその恋愛観を含め書かれており、サルトルとボーヴォワールの2人の愛は有名ですが、サルトルはボーヴォワールと知り合った20代前半にはボーヴォワールに対してよりも年上の美女カミーユに恋をしており、また、ボーヴォワールと既に深い関係にあった30歳の頃には、3歳年下のボーヴォワールを差し置いて、12歳年下のオルガという少女に夢中になり、ボーヴォワールを嫉妬に狂わせたとのこと、そうこうしながら同時に『嘔吐』の原案も練っていたりして、ホント、精力的だなあと。

 60歳の時に「プレイボーイ」誌のインタヴューに答えて、「男性とよりも、女性と一緒にいる方が好き」で、それは「奴隷でもあり共犯者でもある女性の境遇からくる、女性の感受性、優雅さ、敏感さにひかれるからで」あると答えていますが、彼の恋愛観は一般には受け入れられていないと著者は書いています。

聖ジュネ(文庫)下.jpg聖ジュネ(文庫)上.jpg また、戦後も『聖ジュネ』などの文学評論の大作を発表しているものの、小説を書かなくなったのは、彼が政治に深入りしすぎたためであると書いており、この辺りは著者の見方が入っているように思えます。
 確かに、本書の冒頭には、「20億の飢えた人が地球上にいる現在、文学に専念するのは自分を欺くことだ」という'64年の記者会見での談話が紹介されてはいますが(同じ年、ノーベル文学賞を辞退している)。

 本書の初版が刊行された年にサルトルは初来日していて、各地での講演会は立錐の余地もないほどの盛況だったとのこと(そういう時代だったのだなあ)、一方、ホテルについた彼が最初にやったことは、老いた母親に無事着いたことを打電することだったそうで、彼のこうした行為や壮年になっても続いた女性遍歴は、父親を早くに亡くしたこととと関係があるのではないかと、個人的には思った次第です(彼には父親の記憶が無かった)。

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催眠について新書で科学的な観点から取り上げた点は先駆的だったと言える。

暗示と催眠の世界―2.JPG 暗示と催眠の世界s.jpg  日本人の対人恐怖.jpg
暗示と催眠の世界―現代人の臨床社会心理学 (1969年) (講談社現代新書)』『日本人の対人恐怖 (Keiso c books―社会心理学選書)
暗示と催眠の世界22.JPG暗示と催眠の世界5.JPG 『日本人の深層心理』『日本人の対人恐怖』などの著書のある臨床心理学者・木村駿(1930-2002/享年72)の著書。

 「暗示」と「催眠」について分り易く解説した本で、とりわけ催眠については、それまで学術書以外では、実用書のようなもので「催眠術」としてしか扱われてなかったものを、「講談社現代新書」というエスタブリッシュな新書で科学的な観点から取り上げたのは先駆的だったかも。メスメルから始まる催眠の歴史から説き起こし、催眠時における脳波の測定結果などを示して催眠状態とは如何なるものかを解説したうえで、その技法についても、著者の実演写真入りで紹介しています(簡潔ではあるけれども、一応、技法書としても使える)。

 さらに、自動車交通事故の誘因の1つともされるハイウェイ催眠など、日常に見られる催眠現象及びその類似現象について解説し、自律訓練法や脳性麻痺のリハビリテーションなどの催眠法による治療を紹介すると共に、後半は、学生運動における群集心理や政治における大衆操作などの「社会現象」としての催眠(暗示)を扱っています。

暗示と催眠の世界23.JPG暗示と催眠の世界24.JPG 「政治家のイメージも暗示で作られる」としているのは、最近言われる「ポピュリズム政治」をある意味先取りしており、リーダーを「父親型」と「母親型」に分類していて、"最近のわが国の政治家"の例としてそれぞれ、'68年の参議院議員選挙の全国区でトップ当選した石原慎太郎と、'67年に東京都知事選挙で勝利した美濃部亮吉を挙げているのが興味深く、また、時代を感じさせます(宗教界の父親型リーダーに創価学会の池田大作、母親型リーダーとして立正佼成会の庭野日敬を挙げており、集団の性格は、リーダーのタイプによって象徴されるとしている)。

 最後に、広告・宣伝における大衆暗示について述べていて、ビールはイメージ商品であり、キリン、サッポロ、アサヒの3社のビールの味の違いは、ビール会社の技師でも分らないと言っていたとあり、当時ビール市場に参入して間もないサントリーのテレビCMを巧妙と絶賛する一方、ビール市場からの撤退を余儀なくされた「タカラビール」を、味は他社にひけを取らないのに焼酎のイメージから脱却できなかった「悲劇的な例」としています。

 社会心理にまで言及したことで、1冊にやや盛り込み過ぎになったきらいもありますが、入門書としては読み易く、読み直すことでまた新たな興味が湧く部分もありました。

「●広告宣伝・ネーミング」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【170】 学研 『13か国語でわかる新・ネーミング辞典

ブランド資産、ブランド育成といったものを理解する上では、纏まっていて読み易いテキスト。

企業を高めるブランド戦略2.jpg企業を高めるブランド戦略.jpg企業を高めるブランド戦略 (講談社現代新書)』['02年]

 かつて電通に勤務し、現在は大学でマーケティングを教える著者が、ブランド戦略について書いた入門書で、新書でありながらもかっちりした内容となっています。

 ブランドは企業の資産であるという考え方をベースに、「ブランド」とは何か、「ブランドマネジメント」とはどいったことを言うのか、消費者にとってのブランドの意味は何かといったことから説き起こした上で、本題であるブランド戦略に関して、新たなブランドの創造、成熟ブランドの活性化、企業ブランドのマネジメント、ブランドコミュニケーションについてを解説し、更に、企業戦略とブランド戦略の関係について述べています。

 ブランド資産、ブランド育成といった概念は、本書刊行時には既に日本においても、それぞれブランド・エクイティ、ブランディングという原語のまま定着していたように思われ、そうした意味では、これまでの潮流も含めて解説したインナー向けの教科書的な内容という感じもしないでも無いですが、カタカナをズラズラ並べるのではなく、ちゃんと自分の言葉にして書かれている感じがして、それが全体としての読み易さに繋がっているのかも(一方で、新書1冊にしては詰め込みすぎで、説明がやや簡潔すぎたり、尻切れトンボになっているきらいも)。終わりの方にあるブランドの効果を巡っての院生と行った実験の結果や、各企業に取材したブランド育成戦略の中身についても、なかなか興味深いものでした。

キッコーマン/リーフレット「新酒 2003」
キッコーマン/リーフレット「新酒 2003」.jpg 著者によれば、日本は企業ブランド社会であるとのこと、だから醤油メーカーのキッコーマンが70年代に初めてワインを発売した当初、「キッコーマンのワインは醤油が入っているような気がする」と関係者に言われ、「マンズワイン」というブランドを作ることで企業ブランドの使用を避けたとのこと。

ネスレマギーブイヨン.jpg 一方、ネスレの調味料マギーのように、ネスレというブランドがマギーという当初はあまり認知されていなかったブランドの「保証マーク」として働く場合もあるわけで、この辺り、単一製品をイメージさせるブランドなのか、製品より(食品ならば食品全般にわたる)技術水準をイメージさせるブランドなのかの違いは大きいなあ(後者の方が汎用性が高い)。

スターバックッス ロゴ.jpg また、「スター・バックス」の日本での成功例などに見られるように、今日ではブランドを短期的に育成し活用していくような経営・マーケティング戦略が競争優位をもたらす市場状況が出現しているという指摘も興味深いものでした(デル・コンピュータなどもそうだが、サービスプロバイダー型のブランドにとりわけ見られる特色とも言えるが)。

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ある意味、丸々1冊、コピー的な手法で書かれた「発想法」の本。

 コピーライターの発想IMG_0593.jpgコピーライターの発想IMG_0594.jpg 土屋耕一全仕事.jpg
コピーライターの発想 (講談社現代新書 (724))』['74年]/『土屋耕一全仕事』['84年/マドラ出版]/「A面で恋をして」資生堂CM['81年](アーティスト:ナイアガラ・トライアングル(大滝詠一、佐野元春、杉真理))

コピーライターの発想s.jpg '09年3月に亡くなったコピーライター・土屋耕一(1930-2009/享年78)の本で、'74年刊行ですから、40歳代半ば頃の著作ということになります。

戻っておいで・私の時間.jpg 伊勢丹とか資生堂の広告コピーは、一時この人の独壇場だったなあ。竹内まりやのデビューシングルにもなった伊勢丹の「戻っておいで・私の時間」、アリスの堀内孝雄によりヒットした資生堂の「君のひとみは10000ボルト」など、CMソングがヒットチャートの上位を占める現象のハシリもこの人の作品でした。

「戻っておいで・私の時間」(竹内まりや/伊勢丹'78年CMテーマソング)

 大瀧永一(1948-2013/享年65))の「A面で恋をして」も、この人のコピー(コマーシャル・テーマを歌っている「ナイアガラ・トライアングル」(大滝詠一、佐野元春、杉真理)はまだ全然売れておらず、大瀧永一は逆にCMソングが自分たちの代表曲になってしまうことを危惧して作曲を断ろうとしたが、コピーが"A面で恋をして"で言われたとき曲が「パッとできちゃった」そうな。結局、代表曲になったわけだが)。著者は「軽い機敏な仔猫何匹いるか」などの回文作家としても知られていました(そう言えば、「でっかいどお。北海道。」のコピーライター・眞木準も亡くなった(1948-2009/享年60))。

 コピーライターという職業が脚光を浴び始めつつも、1行文章を書いてたんまり報酬を貰うナンダカ羨ましい職業だなあという偏見や誤解が勝っていたような時代に、コピーライターというのが実際にはどういった仕事の仕方をしているのか、その発想はどのようにして生まれるかを(これが結構たいへんな作業)わかり易く、また楽しく書いたものだと言えますが、そうした意味では、コピーライターや広告業界志望者へのガイドブックにとどまらず、「発想術」「ひらめき術」の本とも言え、広くビジネスに応用が利くのでは。

君のひとみは10000ボルト.jpg "ひらめき"と"思いつき"はやはり違うわけで、本書によれば、「唐突に、頭の中の風にやってくるものは、浜べに打ち寄せられる、あの、とりとめのない浮遊物と同じであって、すべては単なる思いつきのたぐいにすぎないのだ」と。

「君のひとみは10000ボルト」(堀内孝雄/資生堂'78年秋のキャンペーンソング)

 「ひらめきだって結局は頭の中に、ぱっとやってくることは、やってくるのだ。ただ、その現われたものが、ほかの浮遊物とちがうところは、それの到着をこちら側で待ちのぞんでいたものがやってくる、という、このところでありますね。ひらめきとは、じつに、『待っていた人』なのである」とのこと。何となく分る気がします。

 口語調に近い文体で書かれているのも、この頃の新書としては珍しかったのではないでしょうか。でも、こうした柔らかい感じで文章を書くというのは、本当は結構難しいのだろうなあと、読み返した今は、そのように思われました。それと、やはり"比喩"表現の豊富さ! ある意味、丸々1冊、コピー的な手法で書かれた「発想法」の本とも言えるかも知れません。

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会社組織の日本的特質に関する考察は鋭いが、タイトルがちょっと...。
法律より怖い「会社の掟」.jpg 法律より怖い「会社の掟」,200_.jpg
法律より怖い「会社の掟」―不祥事が続く5つの理由 (講談社現代新書 1939)』 ['08年]

 本書は全3章の構成で、第1章で、企業不祥事が無くならないのは何故かということについて、日本人の法意識や自我の問題、日本人によって構成される組織の原理と行動について分析し、日本人は伝統的な徳目など「見えない規範」によって行動するが、そこにはキリスト教の聖書やイスラム教のコーランのような絶対的契約文書が存在しないため、その時々で禁忌される行動が変わってしまうという深刻な問題を孕んでおり、共同体的な組織は共同体の存続、対面を保つための「会社の掟」が不文律として浸透しがちで、組織の構成員は無意識的にそれに従ってしまう傾向があるのが、不祥事が無くならない理由であるとしています。
 この部分は明快な文化論、日本人論にもなっているようにも思えました。

 第2章では、企業不祥事を、「不正利得獲得」傾向が強い不祥事と、「共同体維持」傾向が強い不祥事に大別し、多くの事例を挙げてそれらを細分化し(この部分が本書のユニークポイントであり白眉かも)、第3章では、近江商人の「三方よし」という理念とその根底にある経済活動の社会性や共生・協働、勤勉・努力を尊ぶ考え方に着目して、それが今で言うCSR(企業の社会的責任)に近似することを指摘し、そこから、企業不祥事が無くすにはどうすれば良いかを考察しています。
 個人的には、やはり、「共同体維持」傾向が強い不祥事に日本人組織の特質を感じました(「不正利得獲得」傾向が強い不祥事と言うのは、エンロン事件とか海外でも多くあったのでは)。

 全体に鋭い考察と含蓄に富む指摘の詰まった内容ですが、読みながらずっと心に引っ掛かったのは、「会社の掟」をネガティブな意味合いで捉えていることで、それはそれで論旨の流れの上ではいいのですが、そうであるならば「法律より怖い『会社の掟』」という表題は、ミスリードを生じさせやすいのではないかと(日本企業の"現状"であって、"あるべき状態"へ向けてのベクトルが無いタイトル)。

 テキサス・インスツルメント社の「エシックス(倫理)・カード」が紹介されていますが、IBMのBCG(ビジネス・コンダクト・ガイドライン)などは、これの比ではないスゴさでしょう(ウェブで公開されているので、多くの人に見て欲しい)。
 こうした独自に倫理基準を持っている外資系企業では、抜群に高い業績を上げ、いずれは役員になること間違いなしと言われていた人が、いつの間にか急にいなくなっていたりする―その殆どは、こうした「社内の倫理基準」に反する行為がどこかであったためであり、刑事訴追されるわけでもなければ懲戒発令されるわけでもない、でも、もうその人はその会社にはいない―これこそ、「法律より怖い『会社の掟』」であり、また、そうあるべきだろうと思った次第です。

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同じような本が無いために、いまだにロングセラーであり続ける...。

プレゼンテーションの説得技法.bmp 『プレゼンテーションの説得技法(テクニック)』 ['89年] レポート・プレゼンに強くなるグラフの表現術.jpg 『レポート・プレゼンに強くなるグラフの表現術 (講談社現代新書)』 ['05年]

 プレゼンテーションにおける効果的なビジュアル・ドキュメントの作り方をわかり易く解説したもので、マニュアル的に使えるせいか、'89年という旧い刊行ながらも、いまだにロングセラーとなっている本です。

 各種グラフやチャートの特徴と有効な使用例を、解説編とサンプル編にわけて多くの事例を用いて指し示すだけでなく、シートのサイズやレイアウト、文字の大きさから始まって、チャートに入れる文字の字数や行数、囲み罫からの距離まで示していて、実際のプレゼン場面でのテクニックや留意点、例えばスライドを映すスクリーンの適切な高さなどということまで記されており、まさに至れり尽くせり。

 そう、この頃はまだ、切り張りして図や資料を作り(網目模様やカラーのセロファンをカッターで切って棒グラフの枠内に糊で貼り付けていたりしていた)、OHPシートにコピーするなどしてスライド化し、それをOHPで映すということがまだまだ一般に行われていたなあと(これ、藤城清治か?というような、凝ったプレゼンを見たことがある)。

 でも、この本が地味ながらも売れ続けているのは、結局、ビジュアル・ドキュメントの作成の基本は変わっていないということと、網羅している範囲の広さやサンプルの多さ、ワンポイントのアドバイスの的確さなどにおいて、同じような本がその後、手頃なところでは殆ど出ていないということもあるのではないでしょうか。

 近年の同系統のものでは、大学でプログラミングを教えている先生が書いた『レポート・プレゼンに強くなるグラフの表現術』('05年/講談社現代新書)がありますが、その本にしても、エクセルの使用をベースに書かれている分、グラフの作り方だけで1冊終わってしまっていて、知っていることは既に知っているし、知らないものは、あまり使いそうもないものだったりし、確かにアプリケーションのマニュアル本よりは実戦的ですが、本書ほどの"至れり尽くせり"感はありませんでした。
 ハンドブックとして役立つかもしれませんが、「新書」(横書き)という体裁が目新しいだけで、「新書」に限らなければ(新書にもあるが)、類書はいくらでもあるように思えました(評価★★☆)

 『プレゼンテーションの説得技法』は、富士ゼロックス内のプロジェクトが編纂したもので、アプリケーションのマニュアル本の範囲を超えた、こうしたビジュアル・ドキュメント作成に関する分野というのは、オブジェクトの作成とプレゼンの実施の間にある、ある意味"隙間"であり、意外とそれ自体を専門としている人がいないのかも。

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さほど目新しさが感じらず、むしろ、テレビって簡単には変われないのかも、とも。

テレビ進化論.jpg 『テレビ進化論 (講談社現代新書 1938)』 ['08年]

 梅田望夫氏の『ウェブ進化論』('06年/ちくま新書)を模したようなタイトルで、本書の方もそれなりに売れたようですが、内容的にはさほど目新しさが感じられませんでした。

 コンテンツ・ビジネスの現状を、最近のトピックス(かなり瑣末なものも含まれているように思える)を織り交ぜ、「再確認」的な意味でわかり易く取り纏めてはいるものの、最近の動向や現状分析が主体で、主テーマであるはずのテレビの「今後」ということに関してはやや漠としており、角川が昔やったメディアミックス戦略(出版・TVと広告と芸能キャラクターの複合戦略)に注目していたりしますが、これって、多かれ少なかれ今はどこの局でも(NHKですら)やっていることではないかと。

 一見、「ギョーカイ」人が語るメディアの未来像みたいなムードを漂わせていますが、著者は最近まで経済産業省の官僚であった人で、TV局や映画会社など映像メディアの流通・配信に関わる産業が、いかに過去の因習やインフラ整備に係る法的な規制に縛られているかという「業界」内の産業構造の問題点が重点的に指摘されており、電波事業は郵政省の許認可及び監督事業であるわけですが、経済産業省にもメディアコンテンツ課というのがあり(著者はかつてここに勤務していた)、やはり人は自分の得意分野のことしか書けないということか、とも思ったりしました。

 但し、グーグルのビジネス技法の特徴を「直接収益のように単一の受益者に金銭対価を要求するのではなく、複数の受益者を想定し、ある受益者には無償で利益を与え、そこから、獲得した情報と引き換えに別の受益者から金銭を回収するというやり方」だとし(これも言わば"再確認"事項に過ぎないが)、こうした「情報の三角貿易」を映像ビジネス世界でも模索する動きがあるというのには関心を持ちました。

 ただ全体としては、ウェブの世界でアルゴリズム化されたOne To Oneマーケティングが進む中、テレビの方はそう簡単には変われないのではないか(「地デジ」にしても、郵政族議員の利権の上に進められているのであって、そうした双方向効果が具体的に見えているわけではない)という思いを、本書を読むことで更に強くしました。

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社員同士の協力関係を、役割構造、評価情報、インセンティブの3つで捉える。

不機嫌な職場―なぜ社員同士で協力できないのか.jpg不機嫌な職場―2044.jpg不機嫌な職場~なぜ社員同士で協力できないのか (講談社現代新書)』 ['08年]

 なかなか惹きつけるタイトルで、こういう場合、読んでみたら通り一遍のことしか書いてない紋切り型の"啓蒙書"だったりしてガッカリさせられることがままありますが、この本は悪くなかったです。但し、やはり基本的には(いい意味での)"啓蒙書"であり、読んで終わってしまってはダメで、書かれていることで自分が納得したことを、常に意識し、実践しなければならないのでしょう。

 社員同士での協力関係が生まれないために、職場がギスギスして、生産性も向上せず、ヤル気のある人から辞めていく―こうした協力関係阻害の要因を、役割構造、評価情報、インセンティブという3つのフレームで捉えた第2章(ワトソンワイアット・永田稔氏執筆)が、特にわかり易く、また、頷ける点が多かったです。

 特に、「役割構造」の変化について、従来の日本企業の特徴であった、会社で仕事をする際に決められる「仕事の範囲」の「緩さ・曖昧さ」が協力行動を促すことにも繋がっていたことを指摘しているのには頷けて(但し、フリーライド、つまり、仕事してないのに仕事しているように見せる"ただ乗り"を許すことにも繋がっていた)、それが、成果主義が導入されると、今度は、個々は自分の仕事のことしか考えず、外からは、誰が何をしているのかよくわからなくなって、仕事が「タコツボ化」していると―。

 それが、組織力の弱体化に繋がるとしているわけですが、これは、成果主義の弊害としてよく言われることであるものの、併せて、個々の仕事が高度化していることも、仕事が「タコツボ化」する要因として挙げているのには、確かにその通りかもしれないと思いました。

 このことは、続く、インフォーマル・コミユニケーションを通じての社員同士の「評価情報」の共有化がもたらす効果や、金銭的報酬以外の、社内や仕事仲間の間での承認願望の充足がもたらす「インセンティブ」効果という話に、スムーズに繋がっているように思えました。

 「仕事の高度化」ということで言えば、IT企業などは正にそうでしょうが、第4章で、組織活性化に成功している企業の事例が3社あり、その内2社は、グーグルとサイバーエージェントです。
 両社の組織活性化施策は、人事専門誌などでは、もうお馴染みの事例となっていますが、本書におけるそれまでの繋がりの中で読んでみると、改めて新鮮でした。

 ワトソンワイアットは、外資系の中では日本企業の人事制度構築に定評のあるファームですが、日本での強さのベースには、組織心理学に重きを置いている点にあるのかも。

《読書MEMO》
●八重洲ブックセンター八重洲本店 公式Twitterより(2018年5月21日)
【1階】講談社現代新書『不機嫌な職場』あなたの職場がギスギスしている本当の理由。社内の人間関係を改善する具体的な方法をグーグルなどの事例もあげて解説。
不機嫌な職場』se.jpg

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網羅的なマニュアル、精神論主体の啓蒙書の域に止まり、読後に残らない。

あなたの会社の評判を守る法.gifあなたの会社の評判を守る法 (講談社現代新書)』 ['07年]

 「コーポレート・レピュテーション」という概念を紹介していますが、レピュテーション(reputation)とは「評判」であり、「コーポレート・レピュテーション」とは、「企業人の判断・行動、発言に対して、消費者や投資家、取引先、ジャーナリズム、地域社会といった全てのステークホルダーが下す正または負の評価のこと」であると、本書では定義しています。

 冒頭に、「ブランド価値というのは、基本的にはその企業が提供する商品もしくはサービスに対する評価である」といった、いかにもマーケッターっぽい「ブランド・エクイティー戦略」の話などが出てきて、経歴を読まずとも、著者の出自が推し測れてしまいました(企業のマーティング部門から品質管理・市場対応部門に転属、その後、独立してコンサルタントに)。

 自らの体験に近いところで書かれているようで、「製品不良問題に対する市場対応」問題に話は集中していています(レピュテーションの対象とするものは、これに止まらないと思うが)。
 確かにこれだけでも、石油ファンヒーター、湯沸かし器から食品・菓子類まで、近年の製品事故の事例は枚挙に暇が無いわけで、そうした例を挙げながら、事故対応の問題点を指摘し、あるべき対応策を整理しています。
 但し、素材に新しさはあるけれども、内容的にはマニュアルを圧縮しただけの感じもして、特にハッとさせられるようなものなく、消費者関連法など法律面についても、限定的な紹介しかされていないように思えました。

 「会社の評判」は決して「金で買えるもの」ではないという趣旨は尤もですが、「全てがトップ次第」であると言いつつ、不祥事が起こった際、それに対して真摯に取り組んでいるかいないかは相手に伝わるものであり、「社員ひとり一人がステークホルダーに向き合え」とも言っており、結局、基本は網羅的なマニュアル書で、論説部分は精神論主体の啓蒙書の域に止まっています(読んで目から鱗が落ちたという人がいれば、そちらの方が問題)。

 レスリー・ゲインズ=ロス『「社長の評判」で会社を伸ばす』('06年/日本経済新聞社)ではないですが、受身的なマニュアル本や精神論主体の啓蒙書よりも、何か「決め打ち」的な戦略が示されているものの方が、読んだ後に残るものがあるように思いました。

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キャリアの入り口に立ったばかりの人向け、と言うよりジュニア向け?

職業とは何か.jpg職業とは何か (講談社現代新書)』 ['08年]

 本書の趣旨は、職業とは「〜をやりたい」という主観だけではなく「〜を通じて社会の一員となる」という社会性がより重要であり、「自分に合った仕事探し」という考え方をやめて、社会が要請している仕事を探すべきであるということで、この内容からも察せされるように、キャリアの入り口に立ったばかりの人向けの本とでも言うべきものなのでしょう。

 キャリア教育の専門家が書いた真面目な本であり、書かれている内容も正論だと思いますが、「自分探し」なんてやめろということは養老孟司氏なども以前から言っていることであってあまりインパクトが感じられず、「職業とは何か」と言うことを「仕事とは何か」ということから考察している部分は、むしろ「仕事とは」の方にウェイトがいってしまっている感じもしました。

 「キャリアの入り口に立ったばかりの人向け」と最初に書きましたが、就職を間近に控えた人が読んでも、即“応用”という風にはならないかも。
 むしろ、イチロー、三浦和良、マザー・テレサから大前研一、三木谷浩史、小椋佳まで(誰彼と無くと言っていいほど多くの)有名人の歩んだキャリアや仕事観がその発言や著作などから引用されていて、こういうのってジュニア向けの書籍によくあるパターンではないかと。

 それでいて、冒頭にフランク・パーソンズの「職業選択」理論が出てきて、終わりの方では「ライフサイクル」論のダニエル・レビンソンの著作を紹介していたりもしていますが、但しそれらの解説も浅いもので、キャリア論を深く展開するというところまでは行っておらず、本全体として総花的一般論という感じは拭いきれませんでした。

 大学に入学したばかりぐらいの人向けか、あるいは高校生向けといったところかも知れません。

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専門的な内容を含みながらも入手しやすい本。特に小中学校の教育現場の人に読んで欲しい。

発達障害の子どもたち.jpg 『発達障害の子どもたち (講談社現代新書 1922)』 ['07年]

発達障害の豊かな世界.jpg 発達障害の子どもたちの療育に長く関わってきた著者による初めての新書で、最初に出版社から新書を書かないかと誘われたときは、既に発達障害の豊かな世界』('00年/日本評論社)という一般向けの本を上梓しており、また、著者自身の臨床に追われる殺人的なスケジュールのため逡巡したとのことですが、外来臨床で障害児を持つ親と話しているうちに、まだまだ本当に必要な知識が正しく伝わっていないのではないかとの思いを抱き、改めて、「発達障害に対する誤った知識を減らし、どのようにすれば発達障害を抱える子どもたちがより幸福に過ごすことができるようになるのか、正しい知識を紹介する目的」(46p)で本書を書いたとのこと。

 一般書でもあるということで、最新の脳科学的な見地など、読者の知的好奇心に応えるトピックも盛り込まれていますが、メインである発達障害に関する記述(発達障害を、認知全般の遅れである「精神遅滞・境界知能」、社会性の障害である「広汎性発達障害(自閉症スペクトラム)」、ADHDやLDなどの所謂「軽度発達障害」、そして「子どもの虐待」にもとづく発達障害症候群の4つのグループに分けてそれぞれ解説)については、手抜き無しの密度の濃い内容です(そのため、専門用語に不慣れな初学者にはやや難しい部分もあるかも)。

 中でも、「第4の発達障害」と言われる「虐待による障害」は、著者が最近の臨床を通して注目している点であり、学童を中心とする被虐待児の8割に多動性行動障害が見られたという報告も本書で紹介されていますが、一般的な広汎性発達障害やADHDに比べ、器質的な障害が明確に見られることが多く、また、ADHDの現れ方も異なるため、治療や療育のアプローチも異なってくるなど、対応の難しさが窺えます。

 一方で、実際の小中学校などの教育現場で、こうした児童が学究崩壊を引き起こす原因となっていることも考えられ、純粋なADHDであれば「軽度発達障害」として対応すべきであるし、仮に虐待が原因の"ADHD様態"であれば、家庭環境との相関が高いことが考えられ、これはこれで、単に「躾け問題」として扱うのではなく、「障害」としての知識と対応が必要になるかと思いました(解離性障害などを併発していないか、といったチェックが出来る教師やスクールカウンセラーが、はたしてどれだけいるだろうか)。

 誤った知識から自らが偏見に囚われていることはないか、障害児を持つ親たちがそれをチェックするためにも読んで欲しい本ですが、専門的な内容を含みながらも新書という入手しやすいスタイルで刊行されたわけで、今まで「発達障害」にあまり関心の無かった多くの人にも、特に小中学校の教育現場にいる人に読んでもらいたい本であり、その思いを込めて星5つ。

《読書MEMO》
●(PTSD、フラッシュバックなど)強いトラウマ反応を生じる個人は、(脳機能の器質障害もあるが)もともと扁頭体が小さい。マウスなどの実験により、小さい扁頭体が作られる原因は被虐体験らしいことが現在最も有力な説となっている。(37p)
●注意欠陥多動性障害(ADHD)と広汎性発達障害の一群であるアスペルガー障害との併発は、より重大な問題である「社会性の障害」の方が優先されるため、注意欠陥多動性障害の症状とアスペルガー障害の症状との両者があれば、「多動を伴ったアスペルガー障害」という診断になる。(42p)
●適切な特別支援教育を持ってきちんと就労し、幸福な結婚と子育てが可能になった者と、その逆の道を辿った者とその道のりを見ると、発達障害の適応を決めるものは実は「情緒的なこじれ」であることが見えてくるのではないか。(59p)
●自閉症の認知の特徴...①情報の中の雑音の除去が出来ない ②一般化・概念化という作業が出来ない ③認知対象との間に心理的距離が持てない(79p)
―「遠足の作文を書きましょう」という課題を与えられてパニックに。遠足といっても、どこが遠足なのかわからない(学校に集まって、バスに乗って、バスの中でゲームがあり、目的地について、集会や班ごとの活動があり、弁当を食べて...どこを書けば良いのかわからない)(86-87p)
●あまりに対応に困る多動児は、基盤に「社会性の障害」を抱えている(つまり高機能広汎性発達障害である)ことが多い。(104p)
●子どもの心の問題に対応する専門家として登場したスクールカウンセラーの大半は、当初、発達障害の知識も経験も欠落していて役に立たなかった。(中略)今や学校カウンセラーが機能するか否かは、発達障害への知識と経験を持ち、彼らへの対応ができるか否かによって決まるとまで言われるようになった。(105p)
●今日の日本で、小学校に実際に出かけて低学年の教室を覗くと、(中略)授業中にうろうろと立ち歩いたり、前後の生徒にちょっかいを出したりを繰り返す「多動児」が、4〜5人ぐらいは存在するのが普通である。(129p)
●(被虐待児は)状況によって意識モードの変化が認められる⇒虐待の後遺症としての「解離性障害」(157p)

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全体としては、ケータイ・リテラシーを高めることの重要性を説いているのだが...。

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ケータイ世界の子どもたち21.jpg

ケータイ世界の子どもたち (講談社現代新書 1944) 』['08年]

魔法のiらんど.jpg 今は小学生ぐらいから "ケータイ・デビュー"することがごく普通になってきていますが、親が日常で使っているのを見れば、子どもも自然とそうなるのでしょう。中学生などは、自宅からでも置き電話を使わず、メールで友だちと連絡を取り合うことが普通みたいだし...。つまり彼らは、電話としてよりも、メールやゲームでケータイを使用しているわけですが、本書を読んで、小中学生にとってケータイの世界が、かなりウェイトが大きいものになっているということがわかりました。本書で「人気ベスト3」として紹介されている、「モバゲータウン」や「プロフ」、多くの"ケータイ小説"を生んでいる「魔法のiらんど」など、それぞれに凄い数の利用者がいるわけです。

 著者が本書執筆中の'08年3月に、千葉県柏市で「プロフ」の書き込みを巡って中学生同士の殺人未遂事件があり、本書刊行とほぼ同時期の'08年5月には、政府の「教育再生懇談会」が、「小中学生の携帯電話使用に関して何らかの使用制限をするべき」との提言を出していて、著者も、文科省の「ネット安全安心全国推進会議」とかいうものの委員であるらしい。

 本書でも、ケータイが犯罪に使われた例をあげ、子どものコミュニケーション能力の伸長に支障をきたす原因となっているような論調が見られたので、最後に、「だから、子どもにケータイを持たせるのはやめましょう」と訴える、その系の"御用学者"かなとも思いましたが、読み終えてみると必ずしもそうでもなかったみたい。

 地域で行われている子どもたちのケータイの利用を抑制する運動なども紹介していますが、どちらかと言うと著者自身は、親には、子どもにケータイを持たせる際に、危険性もあることの注意を促し、濫用させないようにする約束事を定めるのがよいとし、行政や企業にはフィルタリングの徹底を求め、全体としては、ケータイ・リテラシーを高めることの重要性を説いているといった感じでしょうか。

 但し、現代の教育やしつけの問題への言及が拡がり過ぎて(著者の専門は教育学)、それら全てをケータイを起点にして論じるのはちょっと強引に感じられ、それでも言っていることはまあまあ正論なのかも知れませんが、「教育テレビ」を見ているような感じ、とでも言うか、あまりインパクトをもって伝わってこない。「モバゲー」を問題ありとする一方で、やたら「魔法のiらんど」の肩を持っているように思われる点も、少し気になりました。

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物価から昭和ヒトケタの時代の"サラリイマン"など庶民の生活を探った労作。

「月給百円」のサラリーマン.jpg 「月給百円」のサラリーマン 2.jpg
「月給百円」のサラリーマン―戦前日本の「平和」な生活 (講談社現代新書)』['06年]

 著者は共同通信社の中国総局に勤務する記者であるとのことですが、そういった人が個人で、昭和ヒトケタの時代の日本人の暮らしぶりを、モノの価格を中心にミクロ的な観点から調べ上げたもので、その精緻な調査ぶりには脱帽させられます。最近の講談社現代新書は、本によって密度の濃い薄いの差が激しいように思うのですが、これは濃い方で、庶民生活史としては第一級史料的なものに仕上がっているのではないでしょうか。

 大正から昭和になって不況があり、デフレ後は物価安定期が続いたとのことで、昭和ヒトケタの時代の物価は、目安として大体2千倍すれば今の物価に該当するとのこと。だから、「月給百円」というのは今の20万円で、その頃は今で言う年収240万円ぐらいで、まあまあ何とか生活できたらしい(本書を読み進む上では、この「2千倍」計算を頭の中で何度となく繰り返すことになる)。但し、モノの価格が2千倍なのに対し、ヒトの収入の方は5千倍に上がっているそうで(500万円が平均ということか)、やはり、日本人の暮らしは確実に豊かになったと捉えるべきなのでしょう。

 因みに、当時と今と比べて、"2千倍"比率を超えて相対的に大きく価格上昇しているのは、住宅(地価)と教育費(大学授業料など)であるとのことで、地価はともかく大学授業料は、大学出が超エリートだった当時と比べると(但し、やがて大学を出ても就職できないような状況も生まれるが)、今は大学進学がかなり普通のことになっているだけに、やはり、今の授業料高はおかしいのではと、個人的には思った次第。

 著者による調査は、日常の生活物価だけでなく、一流企業の初任給や軍人の俸給から花街の玉代まで多岐に及んでいて、どの会社も国立大(帝大)卒と私立大卒では同じ大卒でも初任給が違った、などといったことから、身売りしてきた娼妓の前借りが平均千百円(今の2百万円ぐらいか)だった、ということなどまで、様々なことを本書で初めて知りました。

 数字だけでなく、間に挿入されている庶民生活や風俗に関する記述も興味深く(「援助交際」や「サラ金」なども当時からあった)、但し、本書は"サラリイマン"など一般の都市生活者を中心に書かれていて、一方で、資本家と労働者、都市と農村の貧富の差が今以上にずっと大きいものであったことを指摘することも忘れてはいません(そうした点で、今の中国が1930年代の日本によく似ていると指摘しているのが興味深い)。

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「蘊蓄本」と言えばそれまでだが、構成は工夫されている『漢字の常識・非常識』。
 
漢字の常識・非常識.jpg  漢字遊び.gif   『難字と難訓』.jpg
加納 喜光『漢字の常識・非常識 (講談社現代新書)』['89年] 山本昌弘『漢字遊び (講談社現代新書 (783))』['85年] 長谷川 滋成『難字と難訓 (講談社現代新書)』['88年]

 講談社現代新書には、漢字読み書き大会(写研主催)で"漢字博士"になった山本昌弘氏の『漢字遊び』('85年)という本がありましたが、テスト問題形式で、漢字のパズル本といった感じ(読めるけれど書けない字が多かった)。「海」という字が「あ・い・う・え・お」と読めるということ(海女のア、海豚のイ、海胆のウ、海老のエ、海髪(おご)のオ)など、新たに知った薀蓄多かったけれども、どこまでも薀蓄だけで構成されている本という印象も。 
 また、漢文学者・長谷川滋成氏の『難字と難訓』('88年)は、難字の字源解説にウェイトを置き、こちらは白川静の本などに通じるものがありました。

 これらに対し、中国の医学・博物学史が専門である加納喜光氏による本書 『漢字の常識・非常識』('89年)は、漢字の用法にまつわる古代から現代までのエピソード(文化大革命で中国の漢字がどのように変化したかなども紹介されている)をパターン別に紹介していて、その応用としてのクイズなども含まれていますが、蘊蓄が楽しめるとともに、読み物としてもそこそこに味わえるものでした。

 こうして見ると、日本に入ってからかなり柔軟に用法が変わったものも多い(代用や誤用で)ということがわかり、例えば「気迫」などは意味を成しておらず(気が迫る?)、元々「気魄」の代理として用いられたものだとのこと(「緒戦」→「初戦」、「波瀾」→「波乱」などもそう)。
 「旗色鮮明」が「旗幟鮮明」の誤用であることは判るとして、「弱冠29歳」などというのも、「弱冠」は二十歳の異名だそうだから、ちょっと離れすぎで、今までさほど意識しなかったけれど、誤用と言えるかも。

 「忸怩」「齷齪」「髣髴」「齟齬」など著者は"双生字"と洒落て呼んでいますが、共通部位のある字をカップルにして用いて初めて意味を成すものなのだそうです(「檸檬」「葡萄」「蝙蝠」など、意外と多い。「婀娜」「揶揄」「坩堝」などもそう)。
 これらに対し、"雌雄"の組み合わせを"陰陽字"と呼んでいて、「翡翠(ひすい=カワセミ)」「鴛鴦(えんおう=オシドリ)」などがそうですが、「鳳凰」「麒麟」というのも"陰陽字"であるとのこと(同時に"双生字"でもあるものが多い)。「虹」はオスのにじで、メスのにじを表す字が別にあるそうです。
 また、「卓袱(しっぽく)料理」の「卓袱」に「台」をつけると「卓袱(ちゃぶ)台」になるけれども、こういうのは、"二重人格"の字と言えるようです。

 「虫」が病気のシンボルであるというのは興味深いですが、「蟲惑」の「蟲」が、虫を使った呪術を表わすということは、白川静も言っていました。
 知らなかったのは、「美人」が宮廷の女官名であったということ(項羽の「虞美人」などもそう)、「夫人」も同じく女官名でしたが、美人より遥かに位は上だったそうな。

 この手の本は「蘊蓄本」と言えばそれまでで、(本書は構成が工夫されている方だが、それでも)読んでもさほど残らないのだけれども、その分、何回でも読み返せる?

《読書MEMO》
●山本昌弘 『漢字遊び』
①画数最大は「龍×4」の64画 →「雲×3+龍×3」の「たいと」84画説も
②読み方の多い漢字は「生」 200通り近くあるという説も
③「子子子子子子子子子子子子」→「猫の子の子猫、獅子の子の子獅子」
④「海海海海海」→「あいうえお」
⑤「髯」はほお、「髭」は口、「鬚」はあごのひげ
⑥漢字の2番目の音は「イウキクチツン」の7つのみ(苦痛いんちき)
⑦「春夏冬ニ升五合」→「商いますます繁盛」

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日本人の言語表現を通し、その心性を浮き彫りに。一番驚いたのは、著者の博覧強記ぶり。

日本人の言語表現862.JPG日本人の言語表現.gif     日本語 金田一春彦.jpg
日本人の言語表現 (講談社現代新書 410)』['75年]  『日本語』岩波新書['57年]

 日本人の言語表現が諸外国人に比べてどのような特色を持つかを論じた本で、著者は、自著『日本語』('57年/岩波新書)が日本語の「ラング」(言語体系)の特色を論じたのに対し、前著『日本語の生理と心理』('62年/至文堂)をベースとした本書は、日本語の「パロール」の性格を考えたものだと言っています(「パロール」とは何かと言うと、言語活動には「ラング(言語)」と「パロール(発話)」があり、「ラング」を言語体系とすれば、「パロール」は個人の意思や思想を伝えるために発する「お喋り」と言ってもいいだろう。この分類をしたソシュールは、言語学は「ラング」のみを対象とすべきだとしたが、そうした意味においても、本書は、「日本語論」であると同時に「日本人論」であると言える)。

 古今の様々な使用例を引き、日本語表現の「言い過ぎず、語り過ぎず」「努めて短く済ます」、「なるべく穏やかに表し」「間接表現を喜ぶ」といった特徴と、その背後にある日本人の心性を浮き彫りにしていますが、本書の特徴は何といっても、その使用例の"引用"の多さにあるでしょう。

 『古事記』『日本書紀』『万葉集』『今昔物語』『伊勢物語』『源氏物語』『枕草子』『平家物語』『大鏡』『古今著聞集』『源平盛衰記』『義経記』『梁塵秘抄』『徒然草』といった古典から、西鶴の『武道伝来記』『諸国話』『世間胸算用』、或いは『里見八犬伝』『浮世風呂』などの江戸文学、『葉隠』や『奥の細道』から洒落本まで、更に、歌舞伎(『絵本太功記』『仮名手本忠臣蔵』『白波五人男』など)、狂言、浄瑠璃、謡曲、落語、浪曲、常磐津に至るまで、近代文学では、永井荷風(『濹東綺譚』)、芥川龍之介(『貝殻』)、尾崎紅葉(『金色夜叉』)、夏目漱石(『坊ちゃん』)、泉鏡花(『婦系図』)、志賀直哉(『城の崎にて』『暗夜行路』)、小泉八雲といった近代文学、これに山崎豊子の『華麗なる一族』など現代文学も加わり、ラジオ・テレビなどのアナウンサーやタレント(黒柳徹子や大橋巨泉も出てくる)の言葉使いなども例として引いています。

ことばと文化.jpg「甘え」の構造5.jpg日本人とユダヤ人.jpg日本人の論理構造.jpg日本人の意識構造(1970).jpg 更に、べネディクト『菊と刀』、会田雄次『日本人の意識構造』『日本人の忘れもの』、板坂元『日本人の論理構造』、ベンダサン(山本七平)『日本人とユダヤ人』、土井健郎『甘えの構造』、南博『日本人の心理』など、先行する多くの日本人論を参照し、祖父江孝男、鶴見俊輔、上甲幹一(『日本人の言語生活』)、渡辺紳一郎、清水幾太郎、ドナルド・キーン、鈴木孝夫など多くの学者・評論家の言説も引いています(これらは、ほんの一部に過ぎない)。

 あまりに引用が多すぎて、解説がコメント的になり、「論」としての印象が弱い感じもしますが、作品のエッセンスを読み物的に一気に読ませて、全体のニュアンスとして日本語の「喋り」の特質を読者に感覚的に掴ませようとする試みともとれなくもありません(ちょっと、穿った見方か?)。

 個人的には、「辞世の句」とかいうのは日本においてのみ顕著に見られるもので、新聞などに俳壇や歌壇があって一般の人が投稿するなどというのも外国人から見ると驚きであるというのが印象に残りましたが、元々、俳句・短歌というのが日本独特の短詩型だからなあ(鈴木大拙、李御寧、板坂元などの日本人論にも、俳諧論は必ず出てくる)。
むしろ、一番驚いた(圧倒された)のは、著者の博覧強記ぶりだったかも。

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日本語独特の表現の底にある日本人の価値観を探り、日本文化論・日本人論へと展開。

日本人の論理構造2857.JPG日本人の論理構造.jpg 板坂 元 『日本人の論理構造』.jpg 板坂元.jpg 板坂 元 (1922-2004)
日本人の論理構造 (講談社現代新書 258)』 ['71年]

 「芥川の言葉じゃないが、人生は一行のボードレールにもしかない」ってまさに芥川の言葉なのに、どうしてわざわざ「芥川の言葉じゃないが」と言う表現を用いるのか? こんな切り口から入って、日本語の言葉の背後にある日本人独特の論理や価値観を探り出した本。

 著者の板坂元は、当時ハーバード大学で日本文学を教えていて、本書では先ず、英語には訳せない言葉を分析対象にしており、「なまじ」「いっそ・どうせ」「せめて」といった言葉をとりあげていますが(確かに英訳できないだろうなあ)、それらの分析がなかなか興味深かったです。

 日本語においては「れる・られる」「なる」といった自然発生的な感覚の表現(感じられる・考えられる・思われる・なりました・決まりました...etc.)が多いのは(この受身的表現も外国人には不可思議なものらしい)、"責任逃れ"する日本人の心性ともとられるけれども、"奥ゆかしさ"を重んじる日本人の心性の表れと見る方が妥当だろうと。

 「やはり」とか「さすが」というのも、日本語独特のニュアンスを含むわけで、無精髭で有名な男が格式ばった場に望んだ際に、「さすがに彼も髭を剃ってきた」「さすが、彼は髭を剃らずに来た」と相反する状況で使えるというのは、面白い指摘でした。

 著者によれば、日本語には、皮膚感覚的表現(手応え・滲み滲み...etc.)が多い一方で、空間(位置)感覚的言葉は少ないらしく(確かに、英語の前置詞などは種類も多いし用法もはなはだ複雑)、こうしたところから更に、日本文学における情景描写のあり方や浮世絵、連歌・俳諧など文学・芸術論に話は及び、後半になればなるほど、本書は、日本文化論、日本人論の色合いを強めていきますが、本書の刊行時、ちょうど『日本人とユダヤ人』('70年/山本書店)などの刊行もあって、世の中は日本人論ブームだったわけです。

日本人の人生観.jpg日本人の言語表現.gif 本書での著者の博学を駆使した日本語論は、金田一春彦『日本人の言語表現』('75年/講談社現代新書)と読み比べると面白いかと思いますが(この人の博学ぶりも"超"級)、著者の場合、長年アメリカで教鞭をとってきただけあって、英語圏との比較文化論的な視点において、多くの示唆に富んだものであると言えます。

 例えば、「明日、試験があった」という表現が成り立ってしまう(手帳にメモを見つけた際など)ような「時制」に対する日本人の感覚から敷衍して、常に「歴史」の流れの外側に身を置き、「歴史」を「思い出」としてしまう日本人の心性を指摘している点などは、山本七平『日本人の人生観』('78年/講談社)にある指摘に通じるものを感じました。、

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複雑な問題をわかり易く説明することのプロが、時間をかけて書いた本だけのことはあった。

まんが パレスチナ問題.jpg sadat.jpg アラファト.jpg 屋根の上のバイオリン弾き dvd.jpg さすらいの航海 dvd.jpg
まんが パレスチナ問題 (講談社現代新書)』['05年]「屋根の上のバイオリン弾き [DVD]」「さすらいの航海 [DVD]

 旧約聖書の時代から現代まで続くユダヤ民族の苦難とパレスチナ難民が今抱える問題、両者の対立を軸とした中東問題全般について、その宗教の違いや民族を定義しているものは何かということについての確認したうえで、複雑な紛争問題の歴史的変遷を追ったもので、周辺諸国や列強がどのようなかたちでパレスチナ問題に関与したか、それに対しイスラエルやパレスチナはどうしたかなどがよくわかります。

 最初のうちは、マンガ(と言うより、イラスト)がイマイチであるとか、解説が要約され過ぎているとか、地図の一部があまり見やすくないとか、心の中でブツブツ言いながら読んでいましたが、結局、読み出すと一気に読めてしまい、振り返ってみれば、確かに史実説明が短い文章で切られているため因果関係が見えにくくなってしまい、歴史のダイナミズムに欠ける部分はあるものの、全体としては、わかり易く書かれた本であったという印象です。

 ユダヤの少年ニッシムとパレスチナの少年アリによるガイドという形式をとっていて、(会話体の割には教科書的な調子の記述傾向も一部見らるものの)双方のパレスチナ問題に関する歴史的事件に対する見解の違いを浮き彫りにする一方で、ちょっと工夫されたエンディングも用意されています。

 著者は、広告代理店の出身で、教育ビデオの制作などにも携わった経験の持ち主ですが、複雑な問題をわかり易く説明することにかけてのプロなわけで、そのプロが、2年半もの時間をかけて書いた本、というだけのことはありました。

 読み終えて、ロンドンのロスチャイルドのユダヤ人国家建国の際の政治的影響力の大きさや、'48年、'56年、'67年、'73年の4度の中東戦争の経緯などについて新たに知る部分が多かったのと、サダト・元エジプト大統領に対する評価がよりプラスに転じる一方で、アラファト・元PLO議長に対する評価のマイナス度が大きくなりました。


 要所ごとに、「十戒」「クレオパトラ」「チャップリンの独裁者」「アラビアのロレンス」「夜と霧」「屋根の上のバイオリン弾き」「栄光への脱出」といった関連する映画がイラストで紹介されているのも馴染み易かったです。

屋根の上のバイオリン弾き.jpg屋根の上のバイオリン弾き2.jpg ノーマン・ジュイスン監督の「屋根の上のバイオリン弾き」('71年)は、もともと60年代にブロードウェイ・ミュージカルとして成功を収めたもので、ウクライナ地方の小さな村で牛乳屋を営むユダヤ人テヴィエの夫婦とその5人の娘の家族の物語ですが、時代背景としてロシア革命前夜の徐々に強まるユダヤ人迫害の動きがあり、終盤でこの家族たちにも国外追放が命じられる―。

Topol in Fiddler On the Roof
『屋根の上のバイオリン弾き』(1971).jpg 映画もミュージカル映画として作られていて、テーマ曲のバイオリン独奏はアイザック・スターン。ラストの「サンライズ・サンセット」もいい。

 主演のトポルはイスラエルの俳優で、舞台で既にテヴィエ役をやっていたので板についていますが、森繁の舞台を先に見た感じでは、やはりこの作品は映画より舞台向きではないかという気がしました("幕間"というものが無い映画で3時間は結構長い)。

Katharine Ross in Voyage Of The Damned
さすらいの航海0_n.jpgKatharine Ross Voyage Of The Damned.jpgさすらいの航海(VOYAGE OF THE DAMNED).jpg 事件的にはややマイナーなためか紹介されていませんが、第2次大戦前夜、ドイツから亡命を希望するユダヤ人937名を乗せた客船が第二の故郷を求めて旅する実話のスチュアート・ローゼンバーグ監督による映画化作品「さすらいの航海」('76年/英)なども、ユダヤ人の流浪を象徴する映画だったと思います。

 船に乗っているのは比較的裕福なユダヤ人たちですが、ナチスVoyage of the Damned1.jpgの策略で国を追い出されアメリカ大陸に向かったものの、キューバ、米国で入港拒否をされ(ナチス側もそれを予測し、ユダヤ人差別はナチスだけではないことを世界にアピールするためわざと出航させた)、結局また大西洋を逆行するという先の見えない悲劇に見舞われます。

Voyage of the Damned2.jpg この映画はユダヤ人資本で作られたもので、マックス・フォン・シドーの船長役以下、オスカー・ヴェルナーとフェイ・ダナウェイの夫婦役、ネヘミア・ペルソフ、マリア・シェルの夫婦役、オーソン・ウェルズやジェームズ・メイソンなど、キャストは豪華絢爛。今思うと、フェイ・ダVOYAGE OF THE DAMNED Faye Dunaway.jpgナウェイのスクリーン 1976年 10月号 表紙=キャサリン・ロス.jpgさすらいの航海 キャサリン ロス.jpgような大物女優からリン・フレデリック、キャサリン・ロスのようなアイドル女優まで(キャサリン・ロスは今回は両親を養うために娼婦をしている娘の役でゴールデングローブ賞助演女優賞を受賞。アイドル女優と言っては失礼か)、よく揃えたなあと。さすがユダヤ人資本で作られた作品。但し、グランドホテル形式での人物描写であるため、どうしても1人1人の印象が弱くならざるを得なかったという、このタイプの映画にありがちな弱点も見られたように思います。
 
「スクリーン」1976年 10月号 表紙=キャサリン・ロス
 
  
FIDDLER ON THE ROOF 1971.png『屋根の上のバイオリン弾き』(1971)2.jpg「屋根の上のバイオリン弾き」●原題:FIDDLER ON THE ROOF●制作年:1971年●制作国:アメリカ●監督・製作:ノーマン・ジュイスン●脚本:ジョセフ・スタイン●撮影:オズワルド・モリス●音楽:ジョン・ウィリアムス●原作:ショーレム・アレイヘム「牛乳屋テヴィエ」●時間:179分●出演:トポル/ノーマ・クレイン/ロザリンド・ハリス/ミシェル・マーシュ/モリー・スカラ座.jpg新宿スカラ座22.jpgピコン/レナード・フレイ/マイケル・グレイザー/ニーバ・スモール/レイモンド・ラヴロック/ハワード・ゴーニー/新宿スカラ123  .jpg新宿スカラ座.jpgヴァーノン・ドブチェフ●日本公開:1971/12●配給:ユナイト●最初に観た場所:新宿ビレッジ2(88-11-23)(評価:★★★☆)

新宿スカラ座 閉館.jpg新宿ビレッジ1・2 新宿3丁目「新宿レインボービル」B1(新宿スカラ座・新宿ビレッジ1・2→新宿スカラ1(620席)・2(286席)・3(250席)) 2007(平成19)年2月8日閉館

新宿ビレッジ1・2 → 新宿スカラ2・3
 

 

「さすらいの航海」サウンドトラック
サウンドトラック - さすらいの航海.jpg「さすらいの航海」●原題:VOYAGE OF THE DAMNED●制作年:1976年●制作国:イギリス●監督・製作:スチュアート・ローゼンバーグ●撮影:オズワルド・モリス●音楽:ラロ・シフリン●原作:ゴードン・トマス/マックス・モーガン・ウィッツ「絶望の航海」●時間:179分●出演:フェイ・ダナウェイオーソン・ウェルズさすらいの航海 ウェルズ2.jpgさすらいの航海 リン・フレデリック4.jpg/オスカー・ヴェルナー/リン・フレデリック/マックス・フォン・シドー/マルコム・マクダウェル/リー・グラント/キャサリン・ロス/ジェームズ・メイソン/マリア・シェル/ネヘミア・ペルソフ/ホセ・フェラー/フェルナンド・レイ●日本公開:1977/08●配給:日本ヘラルド映画●最初吉祥寺東亜.jpg吉祥寺セントラル・吉祥寺スカラ座.jpgに観た場所:吉祥寺スカラ座 (77-12-24)(評価:★★★)●併映:「シビルの部屋」(ネリー・カフラン)

吉祥寺スカラ座・吉祥寺オデヲン座・吉祥寺セントラル・吉祥寺東宝

吉祥寺スカラ座 1954(昭和29)年、吉祥寺駅東口付近に「吉祥寺オデヲン座」オープン。1978(昭和53)年10月、吉祥寺オデヲン座跡に竣工の吉祥寺東亜会館3階にオープン(5階「吉祥寺セントラル」、2階「吉祥寺アカデミー」(後に「吉祥寺アカデミー東宝」→「吉祥寺東宝」)、B1「吉祥寺松竹オデヲン」(後に「吉祥寺松竹」→「吉祥寺オデヲン座」)。 2012(平成24)年1月21日、同会館内の全4つの映画館を「吉祥寺オデヲン」と改称、同年8月31日、地下の前・吉祥寺オデヲン座(旧・吉祥寺松竹)閉館。 

吉祥寺東亜会館
吉祥寺オデオン.jpg 吉祥寺オデヲン.jpg

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資本主義における「欲望のフロンティア拡張運動」を説く。「欲望」発生の原理論が面白い。

「欲望」と資本主義1.jpg「欲望」と資本主義2.jpg 『「欲望」と資本主義―終りなき拡張の論理 (講談社現代新書)』 ['93年]

 著者は本書で、社会主義(計画経済)と資本主義の違いについて、新たな技術や製品を開発し、新たなマーケットを開発する精神こそ資本主義のドライビング・フォースであり、これが社会主義(計画経済)には欠けていたとしています。
 では、市場経済=資本主義なのかというと、従来の経済学ではそうであったが、著者はそこで、経済学の前提にある「稀少性」という概念を裏返し、生産とは常に「過剰」なものであり、人間は「過剰」な消費を繰り返してきたのであり、それがかつてはポトラッチに蕩尽(=浪費)されていたものが、資本主義のもとでは、「欲望の拡張」によって処理されるのであると。

 本書の白眉は、資本主義における「欲望の拡張」の、その「欲望」自体は(予め誰もが持っているものではないのに)どうやって生じるのかについての考察であり、欲望の対象となるものには「価値」があり、価値の対象となるものには「効用」があり、効用とは「満足」であるが、満足は「距離」や「障害」を克服したときに得られるものである、つまり、いつでも入手できるものに人は欲望を感じない(ジンメルの欲望論)、そうすると、みんなが欲しがるものは手に入りにくいため「距離」や「障害」が出来、そこで「欲望」が生まれる―、これをフランスの哲学者ルネ・ジラールは、欲望は他人のそれを「模倣」することで発生するという言い方をしているとのこと(一応、ジンメルやジラールを援用しているが、この両者の結びつけは、著者のオリジナルと思われる)。

個人主義の運命.jpg つまりジラールは、他人を模倣することから欲望が発生すると言っているのですが(作田啓一氏の『個人主義の運命-近代小説と社会学』('81年/岩波新書)のジラールによるドストエフスキーの「永遠の夫」の解題にもこのことはあった)、欲望の充足が個人的な満足を超えた社会的効果をもたらすという点では、ジンメルの「距離」の欲望論と同じであり、つまり欲望は本質的に社会性を持ったものであると。(ウ〜ん。半分以上は先達の理論からの援用だが、でもやはり面白い)

 但し、本書の主要な論点は、資本主義における「欲望のフロンティアの拡張運動」についてであり、それが過去に(例えば産業革命前では)どのように行われてきたか、歴史的に確認するとともに、実体の伴わないまま投機的に欲望が拡大し、「技術のフロンティアと欲望のフロンティア」が乖離してしまうことへの危惧を表しています。

 本書は、バブル経済が弾ける半年前に刊行されたものです。

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昨今の経済学者とは一味異なる視座を与えてくれる「豊かさ」3部作。

「豊かさ」とは何か.jpg  「ゆとり」とは何か.jpg 「豊かさ」のあとに.jpg   飯田経夫.gif 飯田 経夫(1932‐2003/享年70)
豊かさとは何か―現代社会の視点 (講談社現代新書 581)』『「ゆとり」とは何か―成熟社会を生きる (講談社現代新書 (655))』『「豊かさ」のあとに―幸せとは何か (講談社現代新書 (723))

「豊かさ」とは何か2886.JPG  理論経済学者・飯田経夫の本で、第1章で、「日本人はもう充分豊かになっている」「自分たちの住まいをウサギ小屋というのはやめよう」といい、これは当時('80年)としては多くから反発もありそうな呼びかけですが、そう述べる論拠を著者なり示していて、この章と、続く第2章で「ヒラの人たちの頑張りと平等社会」が日本を支えているという論は、今読んでもなかなか面白いし、外国人労働者が日本に入ってきたとき、日本の"平等社会"はどう変質するかといった考察などには、興味深いものがありました。

 この人はケインズ主義者であり、第3章以下では、1930年代の資本主義の危機の中で、ケインズが何をもたらし、何を変えたかを論じていますが、アダム・スミス以来の"自由放任"を終わらせたことよりも、ケインズ以前の"厳しすぎる"規律(均衡財政や金本位制)を終わらせたことにポイントを置いており、アダム・スミスに戻る流れに繋がる新古典派も、貨幣数量説のミルトン・フリードマンら反ケインズ派も、著者は認めていないようです。

 ただ、こうした経済政策論もさることながら、経済だけでなく日本社会をその特殊性をベースに考える著者独特の洞察は、輸入経済学を"翻訳"しているばかりの昨今の経済学者とは一味異なり、新たな視座を与えてくれるものでありました。

「ゆとり」とは何か2.jpg 著者は、本書を著した後も、日本経済が好況を持続し向かうところ敵無しという状況の中で、本当の意味での豊かさを問う『「ゆとり」とは何か-成熟社会を生きる』('82年)『「豊かさ」のあとに-幸せとは何か』('84年)を著し、これは講談社現代新書における「豊かさ」3部作というべきものになっていますが、当時としては、このようなテーマに執拗に注目している経済学者は少なかったのではないでしょうか(むしろ、社会学のテーマとされていた)。

 その後、更に、『日本経済はどこへ行くのか-危うい豊かさと繁栄の中で』('86年/PHP新書)で、マネーゲームの危うさなどを指摘していますが、バブル絶頂期に書かれた現代新書の第4作『日本経済ここに極まれり』('90年)においては、タイトルに反して当時の日本の好況を安定的な実力ではないと警鐘を鳴らしつつも、この人自身、それがいつか急激に弾けるバブルのようなものであるとまでは考えていなかったようです。

経済学の終わり-「豊かさ」のあとに来るもの.jpg しかし、バブル崩壊後、バブルを煽った多くの経済学者やエコノミストが何ら懺悔の言葉を発することがなかったのに対し、『経済学の終わり-「豊かさ」のあとに来るもの』('97年/PHP新書)で、「バブルに対して警告を発することなく、むしろそれを煽りさえした経済学者・エコノミストたちの罪は重い。私自身も」と反省しています(評価★★★★)。『経済学の終わり―「豊かさ」のあとに来るもの (PHP新書)

 地元である名古屋圏の地域経済の活性化にも関心を示し、新幹線「のぞみ」開通した時に東京-名古屋間の時間的距離が縮まることを喜びながらも、名古屋圏の文化・経済特性をどう維持するかが課題であると言っていたのが、印象に残っています。

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全体としては、それほど「易しい」という感想は持てなかった。

経済学はむずかしくない.gif経済学はむずかしくない (講談社現代新書)』['74年] 経済はなぜ変動するか.jpg経済はなぜ変動するか (講談社現代新書 224)』['70年]

経済はなぜ変動するか975.JPG 本書と同じ講談社現代新書にあった理論経済学者の伊達邦春・早大名誉教授の『経済はなぜ変動するか』('70年)は、経済変動がなぜ生じるかを、ケインズの国民所得決定理論から始めて、ハロッドやドーマーの成長理論などを説いたもので、学部生の副読本に勝るとも劣らないカッチリした内容。

 ヒックスの景気循環モデルに結びつけての新古典派成長理論などにも解説は及んでいて、新書でもムダを省けばここまでカバーできるのかというぐらいの内容ですが、その辺りまでいくと、如何せん、自分の頭がついていかない...。

 この本の前後に、有斐閣新書の古典学派関連の本を読んでいたのですが、そちらは経済思想中心で、それに対し、本書では線形数学による解説がかなりを占めているので、新書スタイルでとっつき易いとは言え、こうした本を読み慣れていない人には、ちょっと難しいのではないかという気がしました(経済学部の学生や出身者にとってはどうなのだろうか)。

経済学はむずかしくない976.JPG都留重人.jpg これに比べると、都留重人(1912‐2006、本書刊行時は一橋大学学長)の『経済学はむずかしくない[第2版]』('74年、初版は'64年)は、一応はタイトル通りの「入門書」と言えるものであるようで、"バロメータ"という概念を中心に据え、目には見えない経済の状態を反映するバロメータにどのようなものがあるかを、平易な事例と言葉で解説しています。 

 そうしながら、ミクロ経済やマクロ経済を解説しているわけですが、ミクロからマクロへと話を進める中で、経済の重要なバロメータとして、物価や賃金、利子率や為替率を解説していて、それらの関係はまあまあ把握し易く、マクロ経済の解説も「家計」の事例から入るなど、初学者への配慮が見られます。

 しかしながら、こちらも、利潤の極大化や成長理論の話になると、すぐに微分数式などが顔を出してきて、ちょっと理解しにくいところもあり、結局、全体としては、タイトルほど「易しい」という印象は受けない...。

 本書で、都留重人は、資本主義が変わってきたからこそ、マクロ経済が生まれるようになったのであり、経済の仕組みは一度それが定着すると永久に変化しないというようなものではないとし、また、我々は、資本主義により発展してきた国にいるため、資本主義の「競技規則」に従わざるを得ないが、その中で「必然を洞察した自由」を持つべきで、そのためには資本主義の仕組みをよく知らねばならず、そのことにより、仕組みそのものをより良いものに変えていくこともできるだろうと言っています。

 ハーバード大学出身ですが、アメリカに渡った頃はマルクス主義者だったらしく、アメリカのそうした学者たちに影響を与え、彼自身も「マルクス主義的ケインズ経済学者」と言われたりした人で、自らは、自身を「リベラルな社会主義者」であると言っていたそうです(今で言えば、構造改革路線に近いということか)。

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素材(話題)は古いが、"ケータイ"カメラ時代に考えさえられる点も。

映像のトリック2.jpg映像のトリック.jpg  秋葉原通り魔事件.jpg
映像のトリック (講談社現代新書)』['86年] 秋葉原通り魔事件 NHKスペシャル「追跡・秋葉原通り魔事件」(2008.6.20)より

 『写真のワナ』('94年/情報センター出版局)や『疑惑のアングル』('06年/平凡社)などの著書がある"告発系"(?)フォトジャーナリストである著者が、まだ共同通信社の写真部に在籍していた頃の著書で、'86年2月刊。

心霊写真.jpg 報道写真のウソを、太平洋戦争時から直近までの事例で以って説明していて、新書にしては写真が豊富です。但し、戦争中の報道写真なんてウソの報道ばかりであることは想像に難くなく、写真合成のひどさ(いい加減という意味も含めて)は、最近読んだ、小池壮彦氏の『心霊写真』('02年/ 宝島社新書)を髣髴させるものがありました("心霊写真"は世間を騒がせただけだが、本書にある"戦争報道写真"などは当時の日本国民を欺いたわけで、ずっと罪は重いと言えるが)。

『カプリコン・1』(1977).jpgCapricorn One.jpgCapricorn 1.jpg アメリカなどの戦勝国も、朝鮮戦争やベトナム戦争を含め、同じようなこと(報道統制・映像による虚偽行為)をしていたことがわかり、そう言えば、スタジオの中でいかにも火星着陸に成功したかのように演出してみせる、ピーター・ハイアムズ原作・脚本・監督、エリオット・グルード主演の「カプリコン・1」というSF映画(と言うより、完全な政治映画)などもあったなあと思い出したりもしました(この映画は米英両国の合作製作で、NASAは当初協力的だったが、試写で内容を知ってから協力を拒否した。アメリカ本国での公開は日本での公開より半年遅かった)。
"Capricorn One" (1977)

 "直近"の出来事では、日航機墜落事故'85年8月)で遺族に頭を下げている日航社長の姿勢が、実はカメラマンを意識したものであったとか、そのほか、グリコ・森永事件'84年)でのCGによる捜査写真の問題点などを扱っていますが、この頃が、CG写真やデジタルカメラ(本書では「電子カメラ」)の草創期だったのだなあ、と事件と共に思い出すとともに、今となっては話題(素材)が古すぎて、昔の新聞を読んでいるみたいな感じも。

豊田商事事件.jpg  本書は"トリック"というテーマには限定せず、ロス疑惑事件の三浦和義"疑惑人"逮捕('85年9月)前後の過熱報道など様々なケースを取り上げていますが、多くの報道陣の目の前で殺人が為された豊田商事事件(永野会長刺殺事件)('85年6月-何だか、事件が続いた時期だった)について、現場に居合わせたカメラマンの、夢中でシャッターだけ切り、急に身の危険を感じて逃げるべきかその場に居るべきか、という考えが一瞬頭の中をよぎったものの、後は冷静さを失い、結局自らはどうすることも出来なかったという証言を載せているのが関心を引きました。

豊田商事・永野会長刺殺事件 (本書より) 1985.6.19 毎日新聞(朝刊)

 これは、カメラマンだからこそ、撮るべきだったか、止(と)めるべきだったか、結局、後で悩むわけで(悲惨な戦争の報道でカメラマンが被写体に対して、撮影するしない以前の問題として何かしてやれなかったのかとよく非難されるパターンと同じ)、最近は一般の人が常に"ケータイ"というカメラを持っており、駅のホームで落下事故や飛び込みがあると、助けるわけでも人を呼びにいくわけでもなく、一斉に"ケータイ"で写真を撮り始めるという―(その写真を早速友人たちに転送している彼らは、後で思い悩むことがあるのだろうか)。

秋葉原通り魔事件 ケータイ.jpg 何だか現代社会の疎外を象徴する殺伐とした「お話」だと思っていたら、秋葉原通り魔事件が今月('08年6月8日)に起き、その際に居合わせた群集の一部が、一斉に"ケータイ"カメラを現場に向けているという光景が見られ、「現実」のこととしておぞましく感じられました。そんな中、ある30代の男性が、倒れた被害者を救助すべく、素手で口に手をこじ入れ気道確保をしたうえで、他の通行人と協力して心臓マッサージや人工呼吸を試み、到着した救急隊に被害者を引き渡したが、この人は写真が趣味で、当日も首からカメラをぶら下げていたにも関わらず、「目の前に倒れている人を救助したい一心」で、事件の写真は1枚も撮らなかった―という記事が読売新聞にあり、多少救われたような気持ちになりました。

カプリコン1.jpg「カプリコン・1」●原題:CAPRICORN ONE●制作年:1977年●制作国:アメリカ/イギリス●監督・脚本・原作:ピーター・ハイアムズ●製作:ポール・N・ラザルス3世●音楽:ジェリー・ゴールドスミス●出演:エリオット・グールド/ジェームズ・ブローリン/ブレンダ・バッカロ/サム・ウォーターストーン/O・J・シンプソン/ハル・ホルブルック/カレン・ブラック/テリー・サバラス●時間:124分●日本公開:1977/12●配給:東宝東和●最初に観た場所:池袋文芸坐 (78-12-13) (評価:★★★)●併映「ネットワーク」(シドニー・ルメット)

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「日本人論」ブーム以前に、斬新な日本人論を展開。

日本人の意識構造m.jpg日本人の意識構造(1970).jpg  日本人の意識構造.jpg日本人の意識構造2.gif  会田雄次(あいだゆうじ).jpg 会田雄次(1916‐1997/享年81)
日本人の意識構造―風土・歴史・社会 (1970年)』 『日本人の意識構造―風土・歴史・社会 (講談社現代新書)』 ['72年]

日本人の意識構造 (講談社現代新書)2.jpg 子どもを危険から守る時、日本人は必ず前に抱きかかえるのは何故か。日本人が危険に対して咄嗟に背を向ける形になるのに対し、アメリカ人は子どもをまず後ろに跳ね除け、危険と対峙する形をとるそうで、本書では、普段は意識されることがないこうした動作の民族的固有性、例えば、西洋鉋(かんな)は押して削るが、日本の鉋は引いて削る(日本刀も引いて斬る)といったことなどから、日本人論を展開しているのがまず興味深かったです。

 著者によれば、日本人は、敵は後ろからやってくると考えており、戦国時代の戦さも、背後から仕掛けるのが主流の戦法だったとのこと(これは近代戦においてはほぼ通用しない)、例えば、組織においても、組織の内側に敵を求めるのが日本人の特質であり(専ら後方の敵ばかり気にしている)、また、ヨーロッパなどでは平和や家庭は「作る」もの、「建設するもの」であるのに対し、日本では、平和や家庭は「守る」ものになり、「平和になる」というように、自己の決断でさえ自然発生的なものとして表すのも、日本人の特徴であるとのこと。

 こうした日本人の意識の柔弱さ、欠点とも思われる部分を小気味良いまでに次々と明らかにしていて、一方で、短期決戦、突貫工事に力を発揮する日本人、壮大な長期目標が無いと意欲が湧かない西洋人、というように、それぞれの長所・短所という捉え方もしていて、読み進むとむしろ、英国人の自己中心主義や権威主義(家柄主義)、米国人男性がいかに妻や家庭に縛られ不自由にしているか、などが述べられていて、特に教育において、英国の名門大学(オックスフォード・ケンブリッジ)と日本の東京大学(帝大)の、そこに属する人の社会的地位の意味合いの違いについては、考えさせられるものがありました(読んでると、だんだん日本っていいなあ、みたいな気分になってくる)。

 個人的には、著者に対し保守派の論客というイメージを持っていましたが、本書でもナショナリズムの復権を訴えてはいるものの、そこに政治性はあまり感じられず、むしろ、ちょっと外国人と接触しただけで「国際人」になった気分になるオメデタイ人たちに対し、日本人と西欧人のいかに異なるかをもっと認識せよと(多分にシニカルに)言っているように思えました。『アーロン収容所』を再読して以降、「西洋人が別の生き物に見えた」という著者独自のトラウマのようなものを感じ、但し、著者の指摘する日本人と西洋人の意識構造の違いというのは、そうしたことを割り引いても、確かにナルホドと思わせるものがあります。

 本書後半は論考集で、結果として本としては若干寄せ集め気味の構成ですが、この中にも、ベネディクトの『菊と刀』における西洋人の「罪の意識」と日本人の「恥の意識」という単純な論理展開に、西洋人にも「監視の意識」はあると反駁している部分などがあり、これらは'65(昭和40)年ぐらい、つまり『日本人とユダヤ人』('70年/山本書店)などによる日本人論ブームが起こる以前に書かれた日本人と西洋人との比較論であることを思うと、その独自性、先見性は再評価されてもよいのではないかと思われます。

 【1972年新書化[講談社現代新書]】

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中国民族に根ざす思想と芭蕉にまで至るその系譜。宇宙・生命の起源論にまで及ぶテーマ。

「無」の思想.jpg無の思想 旧カバー.jpg 『無の思想―老荘思想の系譜 (講談社現代新書 207)』 ['69年] 

 中国で初めて「自然」の哲学を立てたのは老子・荘子ですが、本書によれば、「自然」の第一義は、「他者の力を借りないで、それ自身の内にある働きによって、そうなること」であり、この「他者」を人為または意識的な作為として捉えるとき、そこに「無為自然」の思想が現れる、つまり「自然」にとって「他者」は人為であり、人為を対立者として排除することが「無為自然」であるとのことです。

「無」の思想―老荘思想の系譜 3.jpg 「無」の思想―老荘思想の系譜4.jpg

 しかし、「老子・荘子」は、それぞれ一代で出来上がったものではなく、従って、そこに現れる「無為自然」の考え方にも、法や道徳で人を束ねようようとする為政者に対する批判としての自然回帰を説いた"虚無自然"(老子)から、形而上学的認識論としての"無差別自然(万物斉同)"(荘子)、中国民族の運命観に根ざす"運命自然"(荘子)、後の"数理自然"(陰陽五行説)、"本性自然"(性善説・性悪説)に繋がるものなど、同じ「無為自然」でも幾つかの異なる概念パターンが見られるようです。

 更には、これら「無為自然」とは別の、儒教の"則天自然"や列子、淮南子に見られる「有為自然」の考え方も見られるとのこと、更に更に、これも有為自然の1つですが、練習によって得られる"練達自然"(荘子)というものさえ説いていて、これは六朝時代以降の仏教に影響を及ぼしているとのことですが、何れにせよ、「老荘」に見られる諸概念は多岐広範であるとともに、中国人の死生観、宗教観・人生観に深い影響を及ぼしていることがわかります。

 仏教の中でも禅宗は最も老荘思想に近いものと考えられますが、著者は、老荘思想は「無為自然」のウェイトが高く、禅宗は「有為自然」のウェイトが高いのがそれぞれの違いだと言っており、確かに、座禅を組むということは、努力を伴う人為であり、有為自然と言えますが、一方、浄土教の「自然」(じねん)の概念は、親鸞の「自然法爾」までは「無為自然」に近いようです。

 本書後半では、こうした老荘の自然が、江戸時代の荻生徂徠ら儒学古学派や賀茂真淵、本居宣長らに与えた影響を探り、最後に、松尾芭蕉における「荘子」の影響と、彼の後期の「運命自然」観(「有為自然」である俳諧を捨て、「無為自然」の境地に)を考察していて、ここはなかなか興味深かったです。

 それと、冒頭で、「荘子」の脚注者としては現存最古である晋(3世紀)の郭象の荘子の読解に着目していて、郭象が、万物の主宰者の存在を否定するに止まらず、一般の物の生成には原因が存在しないという、独特の主張をしているというのが興味深かったです。
 老荘思想の根本には、「有は無から生まれる」という考えがありますが、郭象は、脚注者でありながら、「無は有を生じることはできない」としていて、老荘が「無」を唱えたのは、「有は有自身から生まれるもので、有を生じせしめるような他者は無い」という意味なのだと踏み込んで解釈しています(形而上学的には、こっちの方が洗練されている)。
 一見「老荘」を我田引水に解釈しているようで、実は「自然」の第一義に適った考え方であり(著者はこれを「無因自然」と呼んでいるが、同じ頃インドに無因論子という外道哲学の一派があり、偶然に同じようなことを言っていたらしい)、本書のメインタイトルに最も近いテーマであるとともに、宇宙や生命の起源論にまで及ぶ壮大なテーマでもあるように思えました。

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『北回帰線』についての着眼点などがいい。もっと作品数を絞ってもよかった。

アメリカ文学のレッスン.jpgアメリカ文学のレッスン2.gif 『アメリカ文学のレッスン (講談社現代新書)』 ['00年] 北回帰線.jpg ヘンリー・ミラー 『北回帰線』

 アメリカ文学作品の紹介や翻訳で定評のある著者が、「名前」「幽霊の正体」「建てる」といった鍵言葉を設定し、その言葉から思いつく作品をいくつか挙げて解説したもので、「強引に三題噺的結びつけて語った」と前口上にあるように、キーワードからランダムに作品を拾いながら、アメリカ文学の全体像が何となく浮かび上がれば、といった感じの試みでしょうか。

 気楽に読めるけれども、それぞれの分析は鋭く新鮮で、著者自身は、1つ1つの作品について述べていることは研究者の間ではそれほど目新しいことではないと謙遜していますが、著者なりの作品評価も窺えて興味深かったです。

 但し、対象となる「アメリカ文学」と言ってもその幅が広く、メルヴィル、ヘンリー・ジェイムズ、エドガー・ポーなどから現代作家まで幅広く抽出していて、日本文学で言えば、江戸近世文学から村上春樹まで扱っているようなもので、その部分での散漫さは否めないような気もし、「破滅」「組織」「勤労」といった抽象概念をキーワードに多く選んでいるのも、少しキツイ。

 1つのキーワードについて、例えば、「食べる」であれば、ヘンリー・ミラーの『北回帰線』とカーヴァーの『ささやかだけれど、役にたつこと』に殆ど費やしていて、一方で、項によっては、並列的に幾つもの作品を取り上げている箇所もあり、この辺りも、方法論的にこれで良かったのか(著者自身は、型を気にせず楽しみながら書いている感じだが)。

 結局、個人的には、「性の世界」を描いたと思われている『北回帰線』が、ミーラー自身を模した主人公の視点で眺めると、「食べること」に固執した作品と見なすことができるという論が、意外性もあり、また、よく検証されている分、最も印象に残り、同じ項のカーヴァーの作品で、子供を交通事故で亡くした両親にパン屋がパンを食べさせる話を通して、「食べること」が持つ救いを示していることを解説した部分も、紹介の仕方が旨く、印象に残りました。

 大体、各項これぐらいに作品数を絞って、作品ごとにもっとじっくり解説した方が良かったのでは。

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「●か 香山 リカ」の インデックッスへ 「●講談社現代新書」の インデックッスへ  ○レトロゲーム(闘人魔境伝 ヘラクレスの栄光)

何でもかんでも「劣化」ということで括って個々の問題の解決に繋がるのならともかく...。

なぜ日本人は劣化したか.gif 『なぜ日本人は劣化したか』 (2007/04 講談社現代新書)

闘人魔境伝 ヘラクレスの栄光.png闘人魔境伝 ヘラクレスの栄光.jpg  かつて、ゲームの世界では、RPGでは「ファイナルファンタジー」「ドラゴンクエスト」などの大作があり、個人的にはドラクエよりもFFの方が好きでしたが、ギリシャ神話の世界観をベースにした「ヘラクレスの栄光」というゲームも、出た当初は「ドラクエのパクリ」などと揶揄されたものの、やってみればなかなか味わい深いものがありました(シリーズ第1作「闘人魔境伝ヘラクレスの栄光」('87年)は、ギリシャ神話に出てくるヘラクレスの12功業をモチーフにして、諸悪の根源ハデスを倒しビーナスを救い出すという筋立て)。

 こんな思い出を言うのは、たまたま昔のゲームのことを思い出したことぐらいしか本書には個人的に印象に残る部分が無かったからかも。著者によると、こうしたRPGのビックタイトルは最近出てなくて、売れているのは「脳トレ」のような「短時間で手軽に遊べる」「脳年齢が若返る」といったゲームばかりだそうです。

 著者は、こうしたゲームの傾向をもって「コンテンツが劣化している」と言っています。でも、RPGをやる人と「脳トレ」をやる人とでは、勿論どちらも単なる時間潰しでやることはあるだろうけれども、本来的にはそれをやる目的が違うのではないかという気がします。なので、「ヘラクレスの栄光」はストーリー等において(個人的見解ではあるが)「ドラクエ」を凌駕しているとか、大人向きだとか言えるかもしれませんが、レトロなRPGが今の「脳トレ」より大人向きだったとか進んでいたという言い方はしないように思います(そもそも比較の対象にならない)。

 著者はゲームに関して劣化したとするのと同様に、言葉の乱れを指して日本語は劣化しているとし、地べたに座り込む若者を見て体力も劣化しているとし、ともかくおしなべて日本人の考える力が劣化し、知性は退廃していると本書で述べています。

 「劣化」ということで括って個々の問題の解決に繋がるのならともかく、「劣化」を連呼するだけ連呼して特に解決案を示さず、「これをなんとか食い止めねばならない」で終わっているため、拍子抜けしてしまいます。

いまどきの「常識」.jpg 一時、著者が「愛国心」について書いたものを何冊か読みましたが、『〈私〉の愛国心』('04年/ちくま新書)において精神分析のタームを濫用しながら"素人政治談議"、"床屋談議"をしているのにやや辟易し、それでも、『いまどきの「常識」』('05年/岩波新書)などは、世相をざっと概観するには手軽だったかなあという気もしました。

 しかし、本書においては、評論家がテレビや雑誌の限られた時間やスペースの枠内で、一般向けにどうでもいいようなコメントをしている(著者自身、その一員になりつつある?)、そうしたものを、ただ繋ぎ合わせただけという感じがします。

 最近の著者は、この類の本を量産しているようで、講談社現代新書でもこれが初めてではないようですが、新書が「劣化」しているのか?「売れるものはよいもの」という考えを著者は批判していますが、本人はどうなの、と言いたくなります(商売目的の粗製乱造なのか、本気で世直ししたいと思っているのか?)。

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民俗学的アプローチから歴史哲学的考察を展開。ユニークな視点を示している。

日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか.gif 『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか (講談社現代新書)』 ['07年]

 著者は世の中の近代化の流れに背を向け、20代から群馬の山奥の小村に入り、その地において、自然や風土と共同体や労働との関係についての過去と現在を見つめ、自から思索をしてきた異色の哲学者で、里山の復活運動などの"身体的"実践も行ってきている人。
 本書は、日本人がキツネに騙されたという話は何時頃まであったのかという、民俗学的な切り口から入り、実際、キツネの騙し方のパターンの分類などは、そうした興味から面白く読めました。

 著者によれば、キツネに騙されたという話を聞かなくなったのは1965年頃だということで、そうなった理由として、
  ① 高度経済成長には経済的価値のみが唯一の価値となり、自然・神・歴史と自分との連携意識が衰えた、
  ② 科学的真理を唯一の真理とする合理主義により、科学的に説明できないことは迷信やまやかしとして排除された、 
  ③ テレビ゙の普及で与えられた情報だけ事実として受け取るようになり、自然の情報を読み取る能力が衰えた、
  ④ ムラの中で生きていくための教育体系(通過儀礼や年中行事など)が崩れ、受験教育一辺倒になった、
  ⑤ 自然や共同体の中の生死という死生観が変化し、個人としての"人間らしさ"を追求するのが当然になった、
 などを挙げていて、かくして日本人は「キツネに騙される能力」を失った―という、騙されなくなったことを精神性の"衰退"とする捉え方をしているわけです。

 本書を読み進むとわかりますが、本書でのこうした民俗学的な話は、歴史とは何かという歴史哲学へのアプローチだったわけで、著者によれば、日本人は、西洋的な歴史観=幻想(歴史は進歩するものであり、過去は現在よりも劣り、量的成長や効率化の追求が人を幸せにする)をそのまま受け入れた結果、国家が定めた制度やシステムが歴史学の最上位にきて、「キツネに騙された」というような「ムラの見えない歴史」は民俗学の対象とはなっても歴史としては扱われていと、そのことを指摘していて、そこでは、人間にとって大切なものは何かと言う価値観の検証も含めた歴史学批判が展開されており(645年に大化の改新があったことを知って何がわかったというのか)、併せて、近代的な価値観の偏重に警鐘を鳴らしているように思えました。
日本人の歴史意識.jpg
 著者は、民俗学の宮本常一、歴史学の網野善彦などの思想に造詣が深いようですが、個人的には、今まで読んだ本の中では、網野善彦の『日本中世の民衆像』('80年/岩波新書)などもさることながら、それ以上に、方法論的な部分で、西洋史学者・阿部謹也『日本人の歴史意識』('04年/岩波新書)を想起させられるものがありました(中世の民衆の「世間」観を考察したこの本の前半部分は、「日本霊異記」から10話ほどが抜粋され、その解説が延々と続く)。

 本書後半部分の思索は、人にとって「生」とは何か、その営みの歴史における意味は?ということにまで及んで深いが、一方で"キツネ"というアプローチが限定的過ぎる気もし、1965年という区切りの設定も随分粗っぽい。それでも、ユニークな視点を示しているものであることには違いなく、コミュニティ活動のヒントになるような要素も含まれている(具体的にではなく、思考のベクトルとしてだが)ように思えました。

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人間は日々作り替えられているのだ...。読み易く、わかり易い(藤原正彦の本と少しだぶった)。

生物と無生物のあいだ_2.jpg生物と無生物のあいだ.gif            福岡伸一.jpg 福岡 伸一 氏 (略歴下記)
生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891)』 ['07年]

 2007(平成19)年度「サントリー学芸賞」(社会・風俗部門)受賞作であり(同賞には「政治・経済」部門、「芸術・文学」部門、「社会・風俗」部門、「思想・歴史」部門の4部門があるが、元々人文・社会科学を対象としているため、「自然科学」部門はない)、また、今年(2008年)に創設された、書店員、書評家、各社新書編集部、新聞記者にお薦めの新書を挙げてもらいポイント化して上位20傑を決めるという「新書大賞」(中央公論新社主催)の第1回「大賞」受賞作(第1位作)でもあります。

 刊行後1年足らずで50万部以上売り上げた、この分野(分子生物学)では異例のベストセラーとか言うわりには、読み始めて途端に"ノックアウトマウス"の話とかが出てくるので、一瞬構えてしまいましたが、読み進むにつれて、ベストセラーになるべくしてなった本という気がしてきました。

Rudolf Schoenheimer (1898-1941).jpg プロローグで、表題に関するテーマ、「生物」とは何かということについて、「自己複製を行うシステム」であるというワトソン、クリックらがDNAの螺旋モデルで示した1つの解に対して、「動的な平衡状態」であるというルドルフ・シェ―ンハイマーの論が示唆されています。

Rudolf Schoenheimer (1898-1941)

 本編では、自らのニューヨークでの学究生活や、生命の謎を追究した世界的な科学者たちの道程が、エッセイ又は科学読み物風に書かれている部分が多くを占め(これがまた面白い)、その上で、DNAの仕組みをわかり易く解説したりなどもしつつ、元のテーマについても、それらの話と絡めながら導き、最後に結論をきっちり纏めていて、盛り込んでいるものが多いのに読むのが苦にならず、その上、読者の知的好奇心にも応えるようになっています。

 著者は、シェーンハイマーの考えをさらに推し進め、「生命とは動的平衡にある流れである」と再定義しています。
 ヒトの皮膚も臓器も、細部ごとに壊されまた再生されていて、一定期間ですっかり入れ替わってしまうものだとはよく言われることですが、本書にある、外部から取り込まれたタンパク質が身体のどの部位に蓄積されるかを示したシェーンハイマーの実験には、そのことの証左としての強いインパクトを受けました(歯も骨も脳細胞までも、常にその中身は壊され、作り替えられているということ)。

ダークレディと呼ばれて―二重らせん発見とロザリンド・フランクリンの真実.jpgマリス博士の奇想天外な人生.jpg また、シェーンハイマーという自殺死した天才学者に注目したのもさることながら、科学者へのスポットの当て方がいずれも良く、ノーベル生理学・医学賞をとったワトソンやクリックよりも、無類の女性好きでサーフィン狂でもあり、ドライブ・デート中のひらめきからDNAの断片を増幅するPCR(ポメラーゼ連鎖反応)を発明したというキャリー・マリス博士(ワトソン、クリックらと同時にノーベル化学賞を受賞)や、ワトソン、クリックらの陰で、無名に終わった優秀な女性科学者ロザリンド・フランクリンの業績(本書によれば、ワトソンらの業績は、彼女の研究成果を盗用したようなものということになる)を丹念に追っている部分は、読み物としても面白く、また、こうした破天荒な博士や悲運な女性科学者もいたのかと感慨深いものがありました(著者は、キャリー・マリス、ロザリンド・フランクリンのそれぞれの自叙伝・伝記の翻訳者でもある)。 『マリス博士の奇想天外な人生 (ハヤカワ文庫 NF)』 『ダークレディと呼ばれて 二重らせん発見とロザリンド・フランクリンの真実

若き数学者のアメリカ 文庫2.jpgワープする宇宙.jpg アメリカでスタートを切った学究生活やそこで巡り合った学者たちのこと、野口英世の話(彼の発表した研究成果には間違いが多く、現在まで生き残っている業績は殆ど無いそうだ)のような、研究や発見に纏わる科学者の秘話などを、読者の関心を絶やさずエッセイ風に繋いでいく筆致は、海外の科学者が書くものでは珍しくなく、同じ頃に出た多元宇宙論を扱ったリサ・ランドール『ワープする宇宙』('07年/日本放送協会)などもそうでしたが、科学の"現場"の雰囲気がよく伝わってきます。 『ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く
 日本では、こうした書き方が出来る人はあまりいないのでは。強いて言えば、数学者・藤原正彦氏の初期のもの(『若き数学者のアメリカ』『心は孤独な数学者』など)と少し似てるなという気がしました。 『若き数学者のアメリカ (新潮文庫)

 俗流生物学に当然のことながら批判的ですが、今度´08年5月から、その"代表格"竹内久美子氏が連載を掲載している「週刊文春」で、著者も連載をスタート、更に、脳科学者の池谷裕二氏も同時期に連載をスタートしました。
 どうなるのだろうか(心配することでもないが)。竹内久美子氏は、もう、連載を降りてもいいのでは。
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福岡 伸一(ふくおか・しんいち)
1959年東京生まれ。京都大学卒。米国ロックフェラー大学およびハーバード大学医学部博士研究員、京都大学助教授を経て、青山学院大学 理工学部化学・生命科学科教授。分子生物学専攻。研究テーマは、狂牛病 感染機構、細胞の分泌現象、細胞膜タンパク質解析など。専門分野で論文を発表するかたわら一般向け著作・翻訳も手がける。最近作に、生命とは何かをあらためて考察した『生物と無生物のあいだ』(講談社)がある。

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遺伝主義批判・平等主義の人類学者による幅広い観点からの入門書。「人種」は現代の神話に過ぎない?
文化人類学の世界 C.クラックホーン 講談社現代新書.jpg文化人類学の世界.gif クライド・クラックホーン 2.jpgClyde Kluckhohn.jpg Clyde Kluckhohn
文化人類学の世界―人間の鏡 (講談社現代新書 255)』 ['71年]

 米国の人類学者クライド・クラックホーン(1905-1960)の『人間のための鏡("Mirror for Man")』(原著は'49年刊行)の訳本(光延明洋訳/サイマル出版会)とほぼ同時期に新書として刊行された、言語学者・外山滋比古氏らによる同本の抄訳で、原著では自然人類学、文化人類学の双方を扱っているところを、入門書として文化人類学に関する部分を主に抽出して訳したとのことですが、自然人類学についての記述も一部含まれていて、人類学とは何をする学問なのかを、人類と文化、人種、言語、習慣などとの関係を説きながら、幅広い観点から解説しています。

 文化人類学というと、何かフィールド・ワークを通して"決定論"的な法則を探ろうとする学問のようなイメージがありますが、人類学者が、例えば「性格」というものを見る場合(人個人としてではなく社会集団として見る)、社会の構成員が社会的存在として持つ欲望や欲求を"取捨選択"して作り上げた結果として、それを見るのだと著者は言っています。
 つまり、「性格」は大部分が学習(教育)の産物であり、学習はまた多くの部分が文化によって決められ、規制されているのだと。

 教育は「文化を道徳として教える」が、それは例えば、文化にとって良い習慣には褒美を与え、悪い著者には苦痛や罰を与えればいいだけのことで、ただし、著者によれば、文化は選択可能であり、人間は教育次第でどんな人間にでもなれると言っており、ここに著者独自の平等思想があります。

 クラックホーンは遺伝主義を批判したことでも知られていますが、ある子供が有能で魅力的な人物にならなかったとしても、悪い事を親や祖先のせいにしてしまえばそれでお仕舞いで、遺伝主義は「悪いのは俺ではなく自然だ」という考えを擁護し、優生学的な偏見の温床になるというのが彼の考えであり、同じ運命を享受しながらも成功した人間は幾らでもおり、人は運命に逆らう力を持っているという彼の考えは、サルトルとレヴィ=ストロースが対立論争した実存主義と構造主義の関係構図とは対照的に、実存主義に近いものを感じました。

 個人的には、自然人類学に関して書かれている部分が面白く感じられ(「人種」に関する箇所)、
 ●ユダヤ人は、これまで住んだことのある国々の人と完全に混血しているので、いかなる肉体的特性によっても人種として他から区別できない
  (日本人と韓国人だって、理屈から言えば同じことが言える面もあるかも)
 ●家系図は無意味であり、祖先が半分ヨーロッパ系の人なら、シャルル大帝を系図に入れてよいことになる
  (2人の父母、4人の祖父母、8人の曾祖父母、16人の高祖父母と、"尊属"は前世代になるほど増えていくため、必然的にそうなる)
 ●知能指数200の人は、黒人にも白人にも同じ割合でいる
  (確か、ゴンドリーザ・ライス国務長官って200以上あるって聞いたことがある。政治的脚色もあるかも知れないが...)
 等々、なるほどと思わされました(その「なるほど」の中には、多分にこえrまで自分が無意識に抱いていた偏見に気づかされたものもあった)。
 クラックホーンは本書の中で、「人種」を指して「現代の神話」と言っています。

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若者の精神病理を示す"流行語"を再整理し、総括概念を提唱。過渡期的産物の本?

正常と異常のはざま.gif 『正常と異常のはざま―境界線上の精神病理 (講談社現代新書)』 ['89年]

正常と異常のはざま 境界線上の精神病理.jpg 精神医学者が、「正常と異常の間」を指す「境界線」の視点から、主に病める現代の青春群像を巡って語ったもので、"現代"と言っても本書の刊行は'89年ですが、この頃から既に、極端な精神病状を示す患者は減っていて、逆に、青春期危機、青い鳥症候群、登校拒否や家庭内暴力など、つまり、正常と異常の境界領域に位置する人が、とりわけ若者を中心に多くなってきていたことが窺えます。

 そうした、若者の精神病理を示す言葉として、その他にも青春期痩せ症(摂食障害)、リストカット・シンドローム、アパシー・シンドローム、ピーターパン・シンドロームなどの様々な病態、症候群が、若者特有のものとして注目されていた時期でもあり、著者は、こうした、あたかも流行語のように氾濫する言葉を、1つ1つ症例を挙げて丁寧に解説しています。

 その上で、これら若者特有の病理を総括的に捉える概念として「青春期境界線症候群」というものを提唱し、それは、子供から大人への過渡期に起きる心の病気で、人格形成の歪みを主因として常軌を逸脱するが、軽症から重症まで幅は広く、と言っても、重症でも生涯にわたって病院と縁が切れないといったものではなく、また、これは社会的不安や変化を背景として多発傾向にある「現代病」であるとしています。

 若者の間で蔓延する精神病態に対し、「現代病」という観点から着目した点は先駆的ですが、用語には現時点ではノスタルジーを感じるものもあり、今ならば、「引きこもり」などが入ってくるのかも(「引きこもる」という言葉自体は本書でも使われているが)。

ボーダーライン障害.jpg 精神医学上の「境界例」と「青春期境界線症候群」の各種との対応関係を整理していますが、この辺りからかなり専門的な話になってきて難しい。
 難しく感じるのは、「境界例」(ボーダーライン)というものの位置づけが、元々、'67年にカーンバークが神経症でも精神病でもないある種の人格障害として「境界線パーソナリティ構造」を提唱したまではともかく、「境界性パーソナリティ障害」としてDSM‐Ⅲ('80年)に組み入れられるに至って、問題行動を横断的に捉えた、単なる診断カテゴリーになってしまった(結果として、「境界」という言葉も、「当初は精神病と神経症の中間にあると考えられたから、そう呼ぶのであって、今では歴史的な意味しか持たない」と言う人もいる)からではないかという気がします。

 本書の中で著者は、発達論から見た「境界例」の発症メカニズムを探ろうとしていますが、実際には「境界例」は外見的な診断カテゴリーとして定着して、観察的基準においてのみその後も修正が行われてきたのであり、その意味では、本書は過渡期的な内容の本になってしまっている面もあります。
 「境界例」を社会における「境界の不鮮明化」とのアナロジーで論じている点も、ちょっとキツイかなあという感じがしましたが、治療に「育てなおし」という概念を入れ、健常な生活へと帰還する道しるべを提供している点は、評価されるべきものであるかと思います

《読書MEMO》
●躁うつ病については、近頃では躁・うつの病相が緩やかになり、典型的な躁病はほとんど見られなくなった。その反面、今日の高度に文明化した余裕のないストレスフルな社会状況を反映して、神経症的な不安や葛藤をはらむ「神経症性うつ病」や、心気症状や心身症状を呈する「仮面うつ病」が増えている。すなわち、(躁)うつ病の発病率は高くなっているが、その一方で正常と異常の中間的な軽症の病像へと変化を生じ、その大半がこれまでの「精神病」の範疇には入らなくなっているのである(17‐18p)
●最近の約30年間を顧みると、そこには、人間一人一人の力ではいかんともしがたい社会の大きなうねりがあり、怒濤のごとく押し寄せてきていることが指摘できる。その社会の大きなうねりは、要するに戦後の制度解体、高度な文明化、経済成長などによってもたらされたもので、生きる規範が不確かとなった"境界不鮮明"、強いていえば"境界喪失""の状態といえるだろう(24‐25p)
●最近の目まぐるしく変化する社会では、大人と子供、男性と女性、世代間の境界、社会的な役割、仕事と遊び、そして季節や昼夜など、ありとあらゆる面で"境界の不鮮明化"が起こり、正常と異常の区別がわからなくなっている。そのために、異常現象や心の病気が急激に増えているのである。こういう正常と異常のはざまについては、これまでにもたびたび論じられ、まさに20世紀後半における精神医学の中心テーマとなっていた。そこで、本書では、原点に戻って、現象的にも、病理的にも共通する「境界線」という視点を導入することで、正常と異常のはぎまを総括的に理解し、それぞれにある微妙な鑑別点や、本来の発達をベースとする治療的アプローチ、家族や周囲の者の留意点などについて述ベてみた(241‐242p)

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新味が無く、むしろキーワードへの牽強付会が目につく。

キャラ化するニッポン.jpg 『キャラ化するニッポン (講談社現代新書)』 ['07年]

 バンダイのキャラクター研究所の所長とかいう人が書いた本で、日本は「キャラ化」の方向へ向かっていると述べていますが、「キャラクターにハマる」ことと、「自らをキャラクター化する」ことを一緒くたに論じていて、その辺りの違いを、「キャラ化」というタームを軸に多くの事例を引くことで韜晦させてしまっている感じがし、何か、プランナーがプレゼンでスポンサーのお偉いさん達を煙に巻くときのやり方に似てる感じもしましたが、新書として読むとなると、牽強付会が目に付きました。

あなたは人にどう見られているか.jpg Amazonによると、この本を読んでいる人が他に読んでいる本として『あなたは人にどう見られているか』('07年/文春新書)などがあり、「キャラとしての私」というのは、要するに、そういうことを意識するというだけのことではないでしょうか。

 「仮想都市におけるアバターとしての私」などを通して、現実生活においても、「生身の私」と「キャラとしての私」のヒエラルキー逆転が起こるかもしれないという著者の論は、テクノロジーの面では講談社のブルーバックスなどにより詳しく書かれたものが多くあり、分析面においては、既に多くの社会学者や評論家が述べていることで、あまり新味がありませんでした。

カーニヴァル化する社会.jpg 結局、著者は何を最も言いたかったのか、世の中に警鐘を鳴らしたかったのか、自らの"洞察"を世に示したかっただけなのか、その辺りもはっきりしません。

 テーマはやや異なりますが、'76年生まれの社会学者・鈴木謙介氏の『カーニヴァル化する社会』('05年/講談社現代新書)もそうだったように、1つのキーワードに引きつけて何でもかんでも一般化してしまう傾向と、他書からの引用が多いわりには(むしろ、そのことにより)説得力が無いというのが、本書からも感じられたことでした(それぞれの著者にとって初めての「新書」であり、今後に期待したい)。

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最初に読むうつ病の本としてならば、オーソドックスで読みやすい。

うつ病をなおす.jpg 『うつ病をなおす (講談社現代新書)』 ['04年] 野村総一郎.jpg 野村 総一郎 氏(防衛医科大学教授) NHK教育テレビ「福祉ネットワーク」 '05.05.28 放映 「ETVワイド-"うつに負けないで"」より

うつ.jpg 「うつ病」の入門書であり、「うつ病」をうつ病性障害」、「双極性障害(躁うつ病)」、「気分変調症の3タイプに分け、代表的症状をわかり易く解説していますが、この内「うつ病性障害」が「大うつ病」と訳されているのに対し、このタイプを「うつ病」と呼び、いろいろなタイプを総括した呼び名を「気分障害」とした方が良いのでは、といった著者なりの考えも随所に織り込まれています。

 「特殊なうつ病」や、うつ病ではないがうつ病に関連があると言われているタイプについても、「仮面うつ病」、「子供のうつ病」、「マタニティーブルー」や、「軽症うつ病」(「気分変調症」以外の「小うつ病」、「短期うつ病」など)、「双極2型障害」(ウツが重く躁が軽い)、「季節性うつ病」(冬だけ発症する)、「血管性うつ病」(高齢者に発症、アルツハイマーとは症状が異なる)などの解説がされていて、改めてウツには様々なタイプがあることを知りました。

 患者の側に立って書かれている本でもあり、趣味・気晴らしもウツ気分の時はかえってエネルギー枯渇を招き、症状を悪化させることがあるといった指摘などもされています。
 うつ病の人は休養するのが一番なのだが、「休むなんてとんでもない」というのがうつ病者独特の考え方であり、そこで著者の場合は、そうした努力好きの性格を利用して、「休暇を取る」ことだけに向けて「努力」してもらうよう説得するとのこと。
薬.jpg
 薬物療法についても、症状のタイプ別に「治癒アルゴリズム」という概念を用いて、一般に抗うつ剤や安定剤がどの段階でそのように処方されるかがわかり易く書かれているほか、精神療法については、それぞれに患者との相性の違いがあるとしながらも、その中で、元来うつ病の治療と予防を目的として作られた「認知療法」に的を絞って解説しています。

 最初に読むうつ病の本としてはオーソドックスで読み易いものであるともに、網羅的でありながらさらっと読める分、やや物足りなさも。
 最後に「うつ病」の病因について「こだわり遺伝子」という仮説を示していて、「物事の重みづけができない」ため「全てをやって初めて成功すると感じる」、逆にそれが出来ないと不全感に囚われストレスに見舞われるという、遺伝子に根ざす「こだわり」がその原因ではないかとしているのが、興味深い考察に思えました。

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用語の適用は変遷しているが、メンタルヘルス担当者が今読んでも、参考となる点は多い。

軽症うつ病―「ゆううつ」の精神病理.jpg軽症うつ病―「ゆううつ」の精神病理.jpg軽症うつ病.jpg  笠原 嘉2.gif
軽症うつ病―「ゆううつ」の精神病理 (講談社現代新書)』['96年]笠原 嘉 氏

退却神経症.jpg 著者は、日本で最初に「軽症うつ」という概念を提唱した人で(「うつ」と紛らわしい「退却神経症」というものを概念として提唱したのも著者)、本書では、人に気づかれにくい、また、自分でも気づきにくいタイプのうつ病である「軽症うつ」ついて、とりわけ、ひとりでに起こる「内因性うつ」について、患者サイドに立って、わかりやすく解説しています。

 但し、本書で取り上げられている「軽症うつ」は、最近では、「大うつ病」(狭義の「うつ病」)以外のうつ病として「気分変調症」と呼ばれているようで、それでは「軽症うつ」という言葉が使われていないかというと、ある時は、「大うつ病」と「気分変調症」以外の病的なうつ状態を指す言葉として、またある時は、「大うつ病」以外の病的なうつ状態(「気分変調症」含む)を指す言葉として使われているようで、ややこしい。
 更に、「内因性うつ」と「心因性うつ」を無理に区別しようとしないのも最近のトレンドのようです(本書でも、ある出来事が引き金となって「内因性うつ」が発症することがあることを事例で示している)。

 少し古い本だけに、こうした用語の適用の変遷には一応の注意を払わねばならないという面はありますが、「ゆううつ」の要素として、「ゆううつ感」のほかに「不安・いらいら」「おっくう感」をあげ、回復期において「おっくう感」が一番最後まで残り、仕事などに復帰しても何故かヤル気が出ないことがあるといった指摘は鋭いです。

 職場のメンタルヘルス対策として、復帰者の受け入れ体性をつくる際に、原則として今までの職場に復帰させ、ならし出勤からスタートするといった、最近、人事関係の専門誌によく書かれていることが、すでに本書では提唱されているなどはさすがであり、その他にも、うつ病が何事も几帳面にやり遂げないと気がすまない「執着性格」と相関が高いことや、回復期に「三寒四温」的な気分変調が見られることなど、職場のメンタルヘルス(保健推進)担当者などが今読んでも、参考になることが多いと思われます。

《読書MEMO》
●急性期治療の七原則(149p)
(1) 治療対象となる「不調」であって、単なる「気の緩み」や「怠け」でないことを告げる。
(2) できることなら、早い時期に心理的休息をとるほうが立ち直りやすいことを告げる。
(3) 予想される治癒の時点を告げる。
(4) 治療の間、自己破壊的な行動をしないと約束する。
(5) 治療中、症状に一進一退のあることを繰り返し告げる。
(6) 人生にかかわる大決断は治療終了まで延期するようアドバイスする。
(7) 服薬の重要性、服薬で生じるかもしれない副作用について告げる。

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数式を使わないで相対性理論を説明。文系向きで楽しく読める入門書。

宇宙時代の常識-教養としての相対性理論.jpg 『宇宙時代の常識―教養としての相対性理論』 講談社現代新書 ['66年] 数式を使わない物理学入門.jpg 『数式を使わない物理学入門―アインシュタイン以後の自然探検 (1963年)』 光文社カッパブックス

宇宙時代の常識―教養としての相対性理論0.JPG アインシュタインの相対性理論の入門書として、たいへん分かり易い本で、同時期に読んだ何冊かの中で、内容が最もすんなり頭に入った本でした。

 版元は講談社ですが、〈ブルーバックス〉ではなく〈現代新書〉の方に入っているのがミソというか、初心者向きであるとともに文系向きであり、殆ど数式を使わず、比喩表現など言い表し方を工夫することで補っています。

 説明を補足する図も、図というより「絵」的で(真鍋博のイラスト)、喩え話として挿入されている宇宙旅行の話なども含め、SF小説感覚で読めます。

猪木 正文.JPG 例えば、加速度(重力)が時間を遅らせることの説明を、年上の妻との不和を解消するにはどうしたらよいかといったユーモラスな話で説明したり(妻を宇宙船に乗せて旅をさせ、年齢差を逆転させることで不和解消?)、遊星間または恒星間宇宙船は可能かというSF的テーマのもと試算結果を検討したりして(原理的には、例えば20光年先にある星ならば地球時間で18年で往復可能ということになる)、読者の興味を惹き付けるのが上手。

 著者の猪木正文(1911‐1967)は、湯川秀樹、朝永振一郎らを育てた仁科芳雄(1890‐1951)に師事した物理学者ですが、『数式を使わない物理学入門』('63年/カッパブックス)といった著書もあり、「数式を使わない説明」を得意としていたのでしょうか、本書刊行の翌年、50代半ばで亡くなっているのが惜しまれます。

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自己暗示も記憶喪失も嘘の類型であると―。印象に残った記憶喪失者の話。

『うその心理学』相場均(講談社現代新書).jpgうその心理学.jpg            異常の心理学.jpg
うその心理学』 講談社現代新書〔'65年〕『異常の心理学』〔'69年〕

『うその心理学』相場均(談社現代新書)2.jpg 本書でも紹介されている、子犬を絞め殺した夢を見た女性のフロイトによる分析の話は有名ですが、こうした憎しみの「転移」は、夢の中で自分に嘘をついているとも言え、本書を読むと、人間というのは、夢に限らず現実においても嘘をつくようにできているということになります。
 但し、自己中心的な嘘をつき続ける人は、やはり虚言症と呼ばれる病気であり、クレペリンの調べでは、虚言症者の43%は自殺を図っているそうです(周囲の誰かが病気だということに気づいてあげないと危険な状況になるかも)。

 自己暗示などは意識的に自分を騙すような要素もあるわけで、一方、記憶喪失の場合は、無意識のうちに(自己防衛的に)自分に嘘をつく(自分を欺く)ものと言えるようです。
 同じ著者の 『異常の心理学』('69年/講談者現代新書)を読んだ時に記憶喪失の症例が印象に残りましたが、本書でも、特に印象に残ったのは、ルーという記憶喪失者の話(124p)。

West Country Gallery web site.jpg ルーは貧しい若者だった。母と2人、とある町に住み、小さな店で働いていた。仕事は単調で、生活は苦しく味気なかった。彼の楽しみといえば、場末の酒場に集まる船員たちに混じって、彼らの冒険談に聞き入ることだった。危険とスリルに富んだ海の男の生活。熱帯の陽光に輝く紺碧の海。遠い国々の風景。ルーは夢み、そして憧れた。しかし、彼には養わねばならない母がある...。

 ある日、ルーは突然姿を消した。年老いた母親の嘆き。探索。ルーはあちこちの家の手伝いをしたりして僅かな路銀を稼ぎながら、海辺の町へと旅をしたのだった。初めて、運河をゆき過ぎる荷船で働き、辛い労働によく耐えた。やがて、あちこちを流れ歩く鋳掛屋の徒弟になった。海への憧れは満たされたとは言えないが、それでも変化のある生活が送れた。

 数ヵ月たったある日、親方は徒弟たちに酒を振舞った。「今日はちょっとお目出度いことがあるのでな。祝杯でもやってくれ。」ルーは親方に今日は何日ですかと聞いた。親方が日を教えたとき、突然ルーは叫んだ。「今日は母さんの誕生日だ。」若者は、はっとわれにかえった。ここはどこだろう。今まで僕は何をしていたのだろう。いつも行く場末の酒場で船乗りたちと酒を飲み、彼らの話を聞き、そして酒場を出た―彼の頭の中にあるのは、それだけだった。そこからは空白なのだ。今まで何をしていたのか全然記憶が無い。びっくりして彼を見つめている親方の顔も、ルーには全く見知らぬ人の顔だった―。
 これって、今で言うところの「解離性遁走」に近いのではないだろうか。

Ronald Colman, Greer Garson in Random Harvest
『心の旅路』グリア・ガースン、ロナルド・コールマン.bmp こうした記憶喪失は映画などのモチーフしても扱われており、よく知られているのがマーヴィン・ルロイ監督の「心の旅路」(原題:Random Harvest、'42年/米)です(原作は『チップス先生、さようなら』『失われた地平線』などの作者ジェームズ・ヒルトン)。

 第1次世界大戦の後遺症で記憶を失ったスミシィ(仮称)という男が、入院先を逃げ出し彷徨っているところを、踊り子ポーラにに助けられ、2人は結婚し田舎で安穏と暮らすが、出張先で転倒したスミシィは、自分がレイナーという実業家の息子であった記憶喪失以前の記憶を取り戻し、逆に、ポーラと過ごした記憶喪失以後の3年間のことは忘れてしまう―。

 かなりご都合主義的な展開ととれなくもありませんが、「コールマン髭」のロナルド・コールマンが記憶喪失になった男を好演していて(共演はグリア・ガーソン)、同じマーヴィン・ルロイ監督の"メロドラマ"「哀愁」よりも、こちらの"メロドラマ"の方が素直に感動してしまいました("記憶喪失"というモチーフの面白さもあったが)。

「心の旅路」パンフレット
心の旅路 パンフレット.jpg「心の旅路」●原題:RANDOM HARVEST●制作年:1942年●制作国:アメリカ●監督:マーヴィン・ルロイ●製作:シドニー・フランクリン ●脚本:クローディン・ウェスト/ジョージ・フローシェル/アーサー・ウィンペリス●撮影:ジョセフ・ルッテンバーグ ●音楽:ハーバート・ストサート●原作:ジェームズ・ヒルトン「心の旅路」●時間:124分●出演: ロナルド・コールマン/グリア・ガーソン/フィリップ・ドーン/スーザン・ピータース/ヘンリー・トラヴァース/レジナルド・オーウェン/ライス・オコナー●日本公開:1947/07●配給:MGM=セントラル●最初に観た場所:高田馬場ACTミニシアター(84-12-23)(評価:★★★★)●併映「舞踏会の手帖」(ジュリアン・デュビビエ)

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1冊で世界史が分かるだけでなく、歴史とは何かを考えさえてくれる本。

講談社現代新書 教養としての世界史_.jpg教養としての世界史.jpg 『教養としての世界史 (講談社現代新書 80)』 〔'66年〕

西村貞二.jpg 一人の歴史家が単独で著した世界史の通史で、しかも新書1冊にコンパクトに纏められていますが、過去にも現在にもこうした試みを為した歴史学者は少ないように思え、また、そうしたことが出来る人というのもあまりいなくなっている気がします。

 著者の西村貞二(1913‐2004)は西洋史学者であり、専門は西欧近世史ですが、本書では、西洋史だけでなく、東洋史(東西アジア、インド)、アフリカ史までを網羅し、西洋史の方は、教科書でわかるようなことは出来るだけ端折って、より本質的な、出来事に至る歴史背景や、その出来事によって何がどう変ったのか、それを支えた文化・思想・哲学は何だったのかなどに踏み込んでいるのに対し、東洋史の方はやや教科書的な観があるもののその差は僅かで、全体を通して、史実の取捨選択とポイントを抑えた解説に、歴史に対する透徹した眼力が窺えます。

 とは言え、語り口は極めて平易で、著者なりの史観が、私見として断りを入れながらもどんどん盛り込まれているので、読み物として楽しめながら読めます。

 例えば、ギリシア・ローマ時代を比較し、歴史は教訓ではないとしながらも、あえて歴史に教訓を求めようとするならば、ギリシアよりもローマから学ぶものが多いとしていたり、中国の唐以前の文化に対して唐の文化を極めて高く評価していたり、中世ヨーロッパの歴史を概説した後、これを8世紀のイスラム文化や7世紀から13世紀の中国文化と比べると、明らかに東洋の方に分があるとしています。

 アジア史における日本の位置づけ、特に清朝末期と比較した場合の、明治維新に対する評価と問題点の指摘なども興味深く、誤りの無い歴史はないというか、誤りがあったからこそ前進があったという著者の考えは、最後に自らが引いているヘーゲルの「歴史の幸福なページは空白」なのかもしれないという指摘に通じるものがあります。

 但し、「ヘーゲル史観」などという難しい話は本書には殆ど出てこない、それでいて、読者に知識を与えるだけでなく、歴史とは何かということを考えさせる筆の運びになっているのが、本書の妙ではないかと思います。

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世間に人気のあった平蔵がなぜ町奉行になれなかったのかを解明。

鬼平と出世 旗本たちの昇進競争.jpg 『鬼平と出世―旗本たちの昇進競争 (講談社現代新書)』〔'02年〕 旗本たちの昇進競争 鬼平と出世.jpg 『旗本たちの昇進競争―鬼平と出世 (角川ソフィア文庫 337 シリーズ江戸学)』〔'07年〕

 池波正太郎が「鬼平犯科帳」シリーズのモデルとした旗本の長谷川平蔵(1745-1795)は、1787年から8年間、火付盗賊改を務めていますが、当時の噂話を集めた『よしの冊子』をもとに、彼の仕事ぶりや世間の評判、上司の評価などを読み解き、世間に人気のあった彼がなぜ町奉行になれなかったのかを解き明かしています。

 本書によれば、実際に彼には実力があり、また、不正には厳しく部下や弱者には慈悲深いその姿勢は、周囲や世間から歓迎されたようですが、一方で、前科者を目明しとして使用したり、スタンドプレイが多いことで、一部に反感も買っていたようです。

 何よりも、田沼意次失脚後に権力者となった松平定信が、平蔵の功績は認めたものの「山師」的人物というふうに彼を見ていて、平蔵本人は、出世して私腹を肥やそうというのではなく、世に貢献したいという気持ちで出世を強く望んでいましたが、上司とそりが合わなくてはどうしようもなく、頭打ちになってしまったようです。

 まあ世にライバルは多くいたようで、本書後半でスポットが当てられている平蔵の後任の、平蔵とは異なる知性派タイプの森山孝盛も、猟官活動を熱心にやったにも関わらず、町奉行になれないで終わっています(平蔵とは逆に、その杓子定規な性格が評価面で災いしたとも言える)。

 田沼時代に森山の同僚が、同格者に対する接待の席でブランド羊羹の1つ格下の羊羹を出して後で詮索された話などは、人望獲得を巡る悲喜劇と言え、江戸時代の"サラリーマン"も、出世しようとするならば、なかなか大変だったのだなあと。

サラリーマン武士道 江戸のカネ・女・出世.jpg 『サラリーマン武士道』('01年/講談社現代新書)に続く週刊誌連載コラムの新書化で、内容と共に黒鉄ヒロシの絵も楽しめ、また本書では、長谷川平蔵と森山孝盛の2人に焦点を絞っているために、コラムとコラムの繋がりがスムーズで一気に読めます。

 現代のサラリーマン生活との類似による身近さ、読みやすさのためか、'07年には、『旗本たちの昇進競争』(角川ソフィア文庫)として文庫化されています。

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「幕府が大名に参勤交代を義務づけたのは、その経済力を奪うため」は俗説似すぎないと。

参勤交代.jpg参勤交代2.jpg 『参勤交代 (講談社現代新書)』〔'98年〕 江戸お留守居役の日記.jpg 江戸お留守居役の日記―寛永期の萩藩邸 (講談社学術文庫).jpg 『江戸お留守居役の日記―寛永期の萩藩邸』〔'94年/講談社文庫〕/『江戸お留守居役の日記―寛永期の萩藩邸 (講談社学術文庫)』〔'03年〕
歌川広重「東海道五十三次」(日本橋)
日本橋 参勤交代 広重.jpg 著者は、東京大学史料編纂所の先生で、「日本エッセイスト・クラブ賞」を受賞した『江戸お留守居役の日記』('91年/読売新聞社、'94年/講談社文庫)が、"エッセイ"のわりには結構アカデミックだったのに対し(その後、講談社学術文庫に収録)、近年の著作はかなりわかりやすいものが多いような気がします。

 ただし、史料の読み込みは当然のことながらしっかりしていて、本書では、大名が江戸と各藩を往復した参勤交代制度の成立やその変遷、大名行列の実態や道中でのトラブルの対応・予防などがどのように行われたかが、史料を丁寧に読み込み、わかりやすく解説されています。                  

参勤交代2.jpg 参勤交代の行列は、加賀前田家などの最大規模のもので数千人、遠方の藩だと江戸まで1箇月以上の旅程となり、その費用は現在価値で数億円にもなったことを、詳細な史料から細かく試算しています。今でも「加賀百万石祭り」など各地の祭りで大名行列が再現されていますが、当時デモンストレーション的要素もあって、徳川吉宗などは簡素化を図ったようですが、なかなかそうもいかなかったらしいです。

 しかし、参勤交代の費用を藩財政の中に置いて考えると、その費用は確かに巨額ですが、財政全体に占める割合は数パーセントに過ぎず、幕府が諸大名に参勤交代を義務づけたのは、その経済力を奪おうとしたためだというのは俗説に過ぎないとのことです。

 参勤交代は、大名の幕府への服従儀礼であり、幕府はこれにより諸藩の地方分権の強化を抑え、中央集権体制を260年維持することができたと見るのが、正しい見方のようです(政権安定期の将軍・吉宗には、その辺りの目的認識があまり実感としてなかった?)。

 ただし、著者が作成した藩の損益計算書から読み取れるのは、江戸藩邸をはじめ出先機関の維持費が諸藩の財政を圧迫していている点で、参勤交代制を「行列」ではなく「制度」として捉えた場合、やはり、本来目的とは別に、諸藩の財政に大きな負担を強いていた制度であったことには違いないように思えます。

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ちょっと気軽に、自分の"数学脳"をリフレッシュさせるにはいい本。

数学的思考法.jpg 『数学的思考法―説明力を鍛えるヒント 講談社現代新書』 〔'05年〕

 桁数の多い掛算を行う「インド式算数」が注目され、インドがソフトウエア開発の大国である理由がその計算力にあるように思われたりしていますが、本書によれば、インドの数学教育はむしろ、証明力、問題解決力を重視しており、たとえ証明問題でなくとも、答えに至る説明が証明問題のようにしっかり書かれていなければ、答えが合っていても大幅に減点されるとのこと。

 著者は、計算能力を軽視しているわけではないのですが、「条件反射丸暗記」的な計算訓練だけでは「説明力」はつかないとし、現在の日本の算数・数学教育に見られるプロセス軽視傾向を批判しています。

 「説明力」を鍛えるにはどうすればよいかということについて、著者は、証明のための「試行錯誤」の重要性を説いていて、学生などを観察していても、答案を「見直し」によって正しく直せる者は、「条件反射丸暗記」的な問題に弱くても、試行錯誤して考えることは得意な傾向にあるそうです。

 こうした試行錯誤を通してきちんとした「説明」に至るために必要な「数学的思考」をするためのヒントや、「論理的な説明」の鍵となるポイントが、本書後半部では書かれています。

 著者は、算数・数学教育における数学的思考の重要性を意見し続けている数学者で、近年デリバティブ(金融派生商品)取引で日本の金融機関が大幅な損失を計上したのも、背景には数学力の弱さがあるとのこと。

 その他にも数学的思考は、ビジネスや生活の様々な場面で求められ、役に立っていることが、時にパズル形式で、時にエッセイ・社会批評風に述べられています。
 内容的には、同著者の『子どもが算数・数学好きになる秘訣』('02年/日本評論社)などとかなりネタがダブっていますが、初めて読む人には1話1話は面白いと思うし、書かれていることも尤もだと頷かされることが多いのでは。
 ただ、話が広がりすぎて、全体としてやや散漫になった感じも否めませんでした。

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読み物としては楽しいが、実践には疑問も。タイトルもイマイチ。

カレーを作れる子は算数もできる.jpg 『カレーを作れる子は算数もできる (講談社現代新書)』 〔'06年〕 算数のできる子どもを育てる.jpg算数のできる子どもを育てる』〔'00年〕

 同じ著者の『算数のできる子どもを育てる』('00年/講談社現代新書)の続編にあたる本で、前著では、「鯨8頭とサンダル2足は足すことができるか」といった問いから、算数を教える前に先ず数の概念を理解させることの大切さを説いていてナルホドと思わせるものがありましたが、今回は、数学者・秋山仁氏の掲げる「数学を理解する能力」について解説するという形をとっています。

カレーを作れる子は算数もできる3.jpg 秋山氏の言う「数学を理解する能力」=「日常生活を支障なく過ごす能力」とは、
 ①靴箱に靴を揃えて入れることができる、
 ②料理の本を見て、作ったことのない料理を作ることができる、
 ③知らない単語を辞書で引くことができる、
 ④家から学校までの地図を描くことができる、
 という4つの能力で、前掲の「鯨8頭と...」は①に該当し、①から③までが具体的処理能力の段階で、④が抽象化能力ということになるようです。

 これらの能力の具体的意味と、それが身につくには代数や幾何問題にどう取り組んだらよいのかを、「理科」的な発想を導入して"実験的に"解説していく様は、読み物としては楽しいものでした(円の面積の求め方の裏づけ説明などは、目からウロコだった)。

 しかし、これを学校で教えるとなると、教師の資質にもよりますが、あまり現実的ではないように思えます。一部、学校教育の現場でも導入されているものもありますが、著者は、フリースクールの主宰者という立場で、こうした教え方をしているわけです。

 著者自身も、本書において後半はネタ切れ気味というか、暗記や公式に頼った解説になっている面もありあます。「カレーを作れる子は算数もできる」とうタイトルも少し気になるところで(4つの能力表象の1つに過ぎない)、これを真(ま)に受けて、小学校受験の面接対策で、「家でお手伝いすることはありますか」という質問に答えられるように、子どもにカレーのレシピを覚えさせる親もいるとか。編集部の意向もあるのかも知れませんが、こうしたタイトルのつけ方には一長一短があるように思います(前著『算数のできる子どもを育てる』の方がタイトルとしてはマトモだが、『続・算数のできる子どもを育てる』ではマトモすぎてインパクトが弱いと思ったのだろなあ)。

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親にもセンスが求められるかも。読んでいて楽しい本でもある。

『わが子に教える作文教室』.JPGわが子に教える作文教室.jpg
わが子に教える作文教室 (講談社現代新書)』〔'05年〕

 作家であり、10年以上にわたり小学生に作文指導を行っている著者による本。作文指導でまず大事なのは「褒める」ということ、褒めてやる気を出させ、そのうえで、ポイントを絞ってアドバイスするのが効果的とのことですが、どこを褒め、どこをどのように指導するか、親にもセンスが求められる(?)と思いました。

 上手な作文だけでなく、一見"下手くそ"な作文も多く紹介されていますが、著者に導かれてそれらをよく分析してみると、行間に生き生きとした感性や感情が込められていて味わいがあったりする、なのに大人はついついそうした良さを見落とし、言葉使いや句読点の正誤に目がいったり、「そのとき君はどう思ったの」と無理やり感想めいたことを書かせがちであると(確かに)。

 著者によれば、こうした"心模様"を書かせようとすることは、作文に文学性を持たせようとしていることの表れであるけれども、多くの子どもはそう指導されても戸惑うことが多く、そうした文章を書くのが得意な子もいれば、観察文的な文章において能力を発揮する子もいるわけです。
 小学校高学年になると、書いたもの立派な調査報告文になっているケースもあって、それらを、気持ちが描かれていないとして貶したり、無理やり直させるのはマズイと。

 著者が良くないとしていることのもう1つは、作文に道徳を持ち込むことで、それをやると国語教育ではなく道徳教育になってしまい、作文から生気が失われてしまうわけですが、学校教育の場においては、知らず知らずのうちにその傾向があるかもしれません。

 著者はテクニックを否定しているわけではなく、接続詞の使い方をきちんと教えること、比喩表現や擬人法などを遊び感覚で用いることを推奨していて、そうした著者の指導のもとで書かれた子どもの作文には、独特の勢いやリズムがあったり、思わず微笑んでしまうような楽しいものが多いですが、文体を強制したりユーモアを強要するのではなく、子ども自身にセンスが育つのを待つことが肝要であると。

 「週刊現代」に連載されていたものを1冊の新書にしたもので、「教える」側として父親を意識して書かれていますが、母親や教師が読んでも参考になると思われます。
 子どものセンスがストレートに発揮された場合、こんな面白い文章が出来上がるのかと感心させられる箇所が多く、読んでいて楽しい本でもありました。

《読書メモ》
●作文指導でまず大事なのは「褒める」ということ。褒めてやる気を出させる
●"心模様"を書かせること(作文に文学性を持たせること)を強要しない
●作文に道徳を持ち込むと、国語教育ではなく道徳教育になってしまう

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1つ1つの話は面白いが、全体の纏まりを欠く。かつてのビートニク世代の指向に近い?

山折 哲雄 『神秘体験』1.jpg神秘体験.jpg          山折哲雄.jpg 山折 哲雄 氏 (宗教学者)
神秘体験 (講談社現代新書)』〔'89年〕

 宗教学者で、『神と仏-日本人の宗教観』('83年/講談社現代新書)から『親鸞をよむ』('07年/岩波新書)まで一般向けの著書も山折 哲雄 『神秘体験』2.jpg多い山折哲雄氏が、神秘体験について考察したもので、刊行は'89年。

 なぜ人は幻覚や幻聴に天国や地獄を見るのかということを、自らが高地ラサで体験した神秘体験から語り起こしていて、宗教に付き物の神秘体験が、地理的・気候的環境による心身の変調により起きやすくなるケースがあることを、著者自身が自覚したうえで、古今東西に見られた神秘体験を紹介し、そうした神秘体験が生まれる共通条件を探ろうしているように思えました。

 話は、キューブラー=ロスやシャーリー・マクレーンらの神秘体験に続いて、神秘主義思想、エスクタシーとカタルシス、"聖なるキノコ"などへと広がり、グノーシス思想からウパニシャッド哲学、カルガンチュア物語からハタ・ヨーガ、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」からグレゴリオ聖歌まで、とりあげる話題は豊富です。

 1つ1つの話は面白く、著者が博学であるのはわかりますが、宗教人類学的な視点で論じているにしても、それらの事例の結び付け方がやや強引な気もします。
 エッセイとしてみれば、そのあたりの恣意性も許されるのかも知れませんが、個人的には、そうした神秘話への感応力が自分には不足しているためか今一つで、加えて、論旨をどこへ持っていきたいのかがわからず、読みながら少しイライラしました。

 そうしたら最後に、死と輪廻転生の思想について、三島由紀夫の行為と作品などを引きながら語られていて、これはこれで章としては面白いのですが、結局全体として何が言いたいのかよくわからなかったです。

 こういう本は感覚的に読むべきものだろうなあ。神秘体験を宗教体験の入り口として積極的に指向する人にとっては、抵抗無くスイスイ読めて、さらにそうした指向を強める助けとなる本でもあるような気がしました。

 冒頭に自ら神秘体験を書いているのは、中沢新一氏が『チベットのモーツァルト』('83 年)の中で、チベット仏教の修行中に空中歩行を為し得たことを書いているのと少し似ていますが、この本の持っている雰囲気は、「オウム真理教」に入った人たちが嵌まった神秘主義というよりも、'50年代頃のビートニク世代の指向に近い感じがします(アレン・ギンズバーグの名も本書に出てくるし)。

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自傷行為に対する本人・周囲・専門医の果たすべき役割と留意点が具体的に。

リストカット.jpg 『リストカット―自傷行為をのりこえる (講談社現代新書 1912)』 〔'07年〕

 自傷行為に関する本は、少なくとも日本においては、一部に研究者向けの専門書があるものの一般向きの本は少なく、あるとすれば、社会学的見地から書かれた評論風のものや自傷者本人が書いた情緒的なエッセイが多いのでは。
 本書は、タイトルは「リストカット」ですが、「緩やかな自殺」などを含む自傷行為全般を扱っていて、それはどうして起こるのか、どうやって克服するかが一般向けに解説された、精神科医(とりわけ自傷行為の専門家)による本です。

monroe.jpgダイアナ妃の真実.jpg とは言え、「リストカット」は自傷行為の"代表格"であるには違いなく、本書で事例として登場するダイアナ妃もリストカッターだったわけです(彼女については、最終的には自傷行為を克服した例とされている)。
 この他に、自殺未遂を繰り返したマリリン・モンローのケースなどが取り上げられていて(『卒業式まで死にません』('04年/新潮文庫)の「南条あや」と)、入り口として一般読者の関心を引くに充分ですが、同時に、様々ある自傷行為の原因を大別すると〈社会文化的要因〉と〈生物学的要因〉がある(とりわけ精神疾患やパーソナリティ障害と高い相関関係がある)という本書の趣旨に沿うかのように、ダイアナ妃、M・モンローの2人ともが、両方の要因が複合した典型例であったことがわかります。

 著者自身の臨床例もモデルとして3タイプ紹介されていて、何れも、治療関係の構築、自傷行為に走る心理要因の把握(自傷行為は心理的な苦痛を軽減させるために行われることが多い)から入り、長期にわたる根気強い治療により自傷を克服するまでのプロセスが描かれていますが、著者自身は、自傷行為への取り組みに最も影響力があるのは本人であり、次に大きな力になるのは家族・友人・教師といった周囲の人々であり、本書で示した精神科療法は、そうした自己及び周囲の働きかけを援助するものに過ぎないというスタンスであり、これは、カウンセリング理論にも通じるところがあるなあと思いました。

 こうした本において、自傷行為と精神疾患の関係を解説した箇所などはどうしても専門用語が多くなりがちですが、本書においては、この部分の原因論的解説は簡潔にし、自傷行為の克服について、本人、周囲、専門医のそれぞれの果たすべき役割と留意点を具体的に述べることに重きを置き、とりわけ、本人と周囲の援助者に向けては、最後に呼びかけるようなかたちをとるなど、一般読者への配慮が感じられる良書だと思います。

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「決戦」型戦争しか知らず、中国のソフトパワーの前に破れた日本のハードパワー。

日中戦争.jpg 『日中戦争 殲滅戦から消耗戦へ (講談社現代新書)』 〔'07年〕 小林英夫.jpg 小林英夫・早稲田大学アジア太平洋研究センター教授 (略歴下記)

 1937年7月の盧溝橋事件に端を発した日中戦争における日中の戦略的スタンスの違いを、短期決戦(殲滅戦)で臨んだ日本に対し、消耗戦に持ち込もうと最初から考えていた中国という捉え方で分析しています。

蒋介石.jpg  本書によると、日本軍は開戦後まもなく上海に上陸し、さらに南京に侵攻、国民政府・蒋介石は首都・南京を捨て、重慶にまで後退して戦力補充を図ったために戦局は消耗戦へと移行する―、こうした流れはもともと蒋介石により仕組まれたものであり、過去に消耗戦の経験を持たず「決戦」的な戦争観しか持たない日本(このことは太平洋戦争における真珠湾攻などで繰り返される)に対し、蒋介石は、日本側の長所・短所、自国の長所・短所を的確に把握していて、消耗戦に持ち込めば日本には負けないと考えていたようです。
蒋介石 (1887‐1975)

 日本に留学した経験もある蒋介石は、日本軍が規律を守ることに優れ、研究心旺盛で命令完遂能力が高い一方、視野が狭い、国際情勢に疎い、長期戦に弱い、などの欠点を有することを見抜いており、また、下士官クラスは優秀だが、将校レベルは視野が狭いために稚拙な作戦しか立てられないと見ていましたが、著者がこれを、現代の日本の企業社会にも当て嵌まる(従業員は優秀だが、社長や取締役は必ずしもそうではない)としているのが、興味深い指摘でした。

 著者はさらに、武器勢力などのハードパワーに対し、外交やジャーナリズムに訴えるやり方をソフトパワーと呼んでいて、外国勢力との結びつきの強い上海を戦場化し、さらに南京において大量虐殺を行うなどして、自らの国際的立場を悪くし、一方で、戦局が劣勢になっても本土国民に対し、あたかも優勢に戦っているかのような情報しか流さなかった日本のやり方は、戦局が長期化するにつれ綻びを生じざるを得なかったとしています。

 本書後半50ページは、日本の軍部が検閲・押収した兵士やジャーナリストの手紙・文書記録からの抜粋となっており、これを読むと、戦線に遣られた兵士の絶望的な状況が伝わってきますが、中国で捕虜などに残虐行為を働いた兵士が、そのことで自らも厭世的気分に陥り戦意阻喪しているのが印象的でした。

 1945年8月、日中戦争は日本の敗北で終わりますが、それは、優位性を誇る自らのハードパーワーに頼った日本が、外交・国際ジャーナリズムなどソフトパワーを活かす戦略をとった中国に破れた戦いだったいうのが本書の視点であり、現在の国際経済競争などにおいて、はたしてこの教訓が活かされているだろうかという疑問を、著者は投げかけています。
_________________________________________________
小林英夫 (コバヤシ・ヒデオ)
1943(昭和18)年東京生まれ。早稲田大学アジア太平洋研究センター教授。専攻は、日本近現代経済史、アジア経済論。著書に『「大東亜共栄圏」の形成と崩壊』『「日本株式会社」を創った男――宮崎正義の生涯』『満鉄――「知の集団」の誕生と死』『戦後アジアと日本企業』など。

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マヤ学の基本書。最大の謎は、なぜ華やかな学芸を誇った文明が滅んだのかということ。

青木 晴夫 『マヤ文明の謎』.jpgマヤ文明の謎2.jpg                 マヤ文明.gif 
マヤ文明の謎』講談社現代新書〔'84年〕   

 本書冒頭にありますが、マヤ・アステカ・インカ文明のうちマヤは、同系の言語を話す「王国」の集団であり、マヤという国家があったわけでもなく、またその起源も紀元前2000年に遡ると考えられているぐらい古いものです(他の2つの文明は13〜15世紀に王朝が始まったとされていて、ただしインカ帝国は、文化史的にはそれ以前の紀元前からあるアンデス古代文明の流れを引いている)。

 さらにマヤ文明は、西暦10世紀には最盛を誇った古典期を終え、ヨーロッパ人到来の500年前にはマヤの都市はほとんど廃墟となっていたという点でも、16世紀にコルテス、ピサロによって一気に滅ぼされた他の2つの文明とは異なります。

カンペチェ州、カラクムールの古代マヤ都市.jpg 本書は、その多岐にわたるマヤ文明の全貌(といっても一部しか解明されていないということになるが)と特質を理解する入門書、基本書といえますが、著者が有名な「ティカル遺跡」(現在のグアテマラの北部にある)を訪問するところから始まり、マヤの生活や社会構造、宗教や数表記、暦法などを解説していく過程には引き込まれるものがあります。

カンペチェ州、カラクムールの古代マヤ都市 (C)Mexico Tourism Board

 何と言っても一番驚かされるのは、260日周期と365日周期の2つの暦を組み合わせで用いる極めて正確な暦法と、芸術的というより、芸術そのものになっている絵文字ではないでしょうか。

 なぜ、望遠鏡も使わずに精密な天体観測が可能だったのか? なぜ大ジャングル内の都市は自在な交通を確保できたのか? こうした謎を本書では1つ1つ解き明かしていますが、「天体観測」については、エジプトのピラミッドを利用したやり方とほぼ同じ、ジャングル内の交通路については、その辺りが湿地帯であることに思いを馳せれば何となく答えは見えてくる―。                                                                  
 ところが、どうしてもわからないのが、なぜ、華やかな学芸を誇った文明が音もなく滅び去ったのかということで、本書にも疫病説、食糧難説など多くの説が挙げられていますが、決定的なことはわかっていないようです。

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生け贄はアステカ的美? アステカ文明のダークな一面をまざまざと。

アステカ文明の謎2.jpgアステカ文明の謎 いけにえの祭り.jpg  マヤ文明の謎.jpg
アステカ文明の謎―いけにえの祭り』 青木晴夫『マヤ文明の謎

 本書と同じく講談社現代新書で中央アメリカの古代文明を扱ったものとして、青木晴夫氏のマヤ文明の謎』('84年)があり、そちらを読んだ後で本書を読んだのですが、アステカもマヤと同じく高度の天文技術を持った文明でありながら、驚かされるのは、アステカでは18カ月周期の正確な暦に沿って、各月ごとに様々な形で生け贄を捧げているということ。

 マヤ文明の諸国でも生け贄の儀式は行われていましたが、アステカのそれは凄惨で、敵国の捕虜だけでなく、自国の若者・女・子どもが次々と人身御供として捧げられていく様は(両手両足を押さえつけられて、生きたまま心臓を抉りとられるのが最も一般的なパターンですが)、読んでいて気分が悪くなるぐらいです。

 両著に生け贄を捧げる理由が書かれていますが、生け贄を捧げないと、沈んだ太陽が昇ってこなくなると考えていたらしく(天文学が発達していたことと宗教は全くリンクしないのか...)、それにしても、この高山氏の著書の方は"生け贄"に的を絞って人身御供の捧げられ方が詳細に書かれているだけに、アステカという文明に対して非常にダークなイメージを抱かざるを得ませんでした(青木氏の著書にも、マヤ文明が後期において生け贄を捧げる習慣を強めたのは、後発であるアステカ族の影響であるようなことが書かれている)。

Tenochtitlán,.jpg ラテンアメリカ民俗学の第一人者・増田義郎氏の『古代アステカ王国―征服された黄金の国』('63年/中公新書)の中にも、高度に文明化した水上首府(公衆トイレとかもあってスペイン人が驚いたという)の街の中央にピラミッドがあり、その頂きの祭壇は、生け贄になった犠牲者の血に塗られているという、現代の我々から見れば極めてアンバランスな宗教と文明の同居状態が紹介されていました。

 著者(高山氏)は、「このようなことから彼らを簡単に野蛮で残酷な民族だという烙印を押してしまうのは早計すぎ」としていて、古代の宗教的儀式を現代人の倫理感覚で捉えようとしても無理があるということは自分にもよくわかりますが、現代人も戦争をするし、「腹切りが日本的美なら、生け贄はアステカ的美」であって、これは価値観の問題なのだという著者の言い方には、ややついて行けない感じもしました。
 書物としては、真摯な姿勢で書かれた研究・解説書なのですが...。

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進むM&Aと、求められるVBA(企業価値向上)ガバナンス。

企業買収の焦点.jpg 『企業買収の焦点―M&Aが日本を動かす (講談社現代新書)』 〔'05年〕

堀江・村上.jpg 著者は国際会計事務所KPMGの出身のM&Aコンサルタントで、第1章で、近年なぜ日本でM&Aが増え、「企業価値」という言葉が登場してきたのかを、第2章では、「会社は誰のものか」議論の背景にある日本特有の「企業意識」と「企業価値」との関係を述べ、第3章、第4章は、M&Aの種類や財務理論を解説したテキストになっています。
 本書が刊行されたのが、村上ファンドの村上世彰氏による阪神電鉄株の大量取得や、ライブドアとフジテレビのニッポン放送株を巡る経営権取得攻防があった'05年で、そうした事例が各章の解説に生々しく盛り込まれています。

 「会社は株主のものだ」とか「いや、社員のものだ」という議論がありますが(著者の基本的立場は「株主のもの」ということだろう)、著者の言う「企業価値」を高めるということは、財務的に健全で長期的に発展可能な組織を築くということであり、それには、そうした立場の違いからくる議論を超え、経営者や社員が頑張って生産性や効率性を追求する「内科療法」だけでなく、M&Aなどの「外科療法」が必要であり、また、「企業価値」をバロメータに健全性のチェックをする「VBA(企業価値向上)ガバナンス」の機能が必要だとして、第5章でそのモデル図を示しています。

 著者によれば、このガバナンスの機能を担うのが、「持ち株会社」であったり「ファンド」であったりするようですが、それがすべての企業にあてはまるか、また、うまくガバナンス機能が働くのかという"?"は残りました(著者の立場からすれば、大丈夫ということなのだろうが)。
 '05年6月のニレコのポイズン・ピル(新株予約権発行)に対する差し止め命令が紹介されていますが、この判断をしたのは東京地裁だったわけで、今後、こうした係争が増えるのでは...。

 それにしても、本書に列挙されている'05年のM&Aをめぐる動きを見ると、ライブドア、村上ファンドにとどまらず、バンダイ(ピープル株取得)、楽天(TBS株取得)、ブルドッグソース(イカリソースの営業権取得)など、慌しいと言うか夥しいものがあります。
 「株式持ち合い」の解消(相対的に外部株主の発言権が強まる)やカリスマ経営者の退場(現場主義の限界)が、こうした流れと無関係ではないことを指摘している点は、ナルホドと思いました。

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年金制度のアウトラインをつかむうえで参考になった。

年金の常識2869.JPG年金の常識.jpg        河村 健吉 『娘に語る年金の話』.jpg
年金の常識』 講談社現代新書   河村健吉 『娘に語る年金の話 (中公新書)』 〔01年〕

 年金とはそもそもどのようなものであり、保険料の納付から受給までの仕組みはどのようになっているのか、年金制度はどのような問題を抱えているのか、厚生年金や国民年金の仕組みはどうなっているかなどをわかりやすく説いた入門書で、自分がまだ年金の知識がさほどない時期に読んで、公的年金制度のアウトラインをつかむうえで参考になりました。

 今後の保険料の逓増と給付の逓減のスケジュールがわかりやすく示されていますが、それでも少子高齢化が進行する状況においては、相当の経済成長がない限り一定給付水準の維持は難しいとし、社会保障制度の横断的見直しを訴えています。

 著者は毎日新聞社の経済部長、論説委員などを経てフリーになった方ですが(本書刊行直後に亡くなった)、新書本で200ページ、表現も平易で図表もふんだんに生かされており、法改正により、一部の記述は現在ではあてはまらなくなっているため、必ずしも今読む本としてはお薦めできませんが、個人的には、年金制度の基礎を理解するうえでたいへんお世話になった本です。

 本書の最後に示された"リッチ老人"問題-老人に対する過剰投資の問題は考えさせられ、当時読んでやや憤りを覚えましたが、この部分では、高齢者の所得に応じた給付調整などの法改正が行われる一方で、そのお金が今までは次世代に回流していたという見方もあり(結局のところ現役世代の負担は変わらないことになる)、なかなか一筋縄ではいかない問題だと、今になって思います。

 このほかの年金問題を扱ったものとしては、信託銀行出身の年金コンサルタント・河村健吉氏の『娘に語る年金の話』('01年/中公新書)が、年金制度の歴史(生成・発展・変質)を知る上で参考になり、また、社会政策の観点から広く年金問題を分析していて、とりわけ雇用問題・雇用政策との関連について述べているのが興味深かったです(少子化問題の背後には女性などの雇用条件の問題があるという論点)。 

 片や制度に関する入門書、片や年金問題を扱ったものとしての色合いが強いですが、社会保障制度全体の横断的見直しが急務であるという点では論点が一致しています。

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わかりやすく書かれている分、新味がなく物足りなさを感じた。

上司につける薬!.jpg 『上司につける薬!』 講談社現代新書 〔'06年〕 高城 幸司 氏.jpg 高城 幸司 氏(セレブレイン社長)

 上司に対する対処の仕方を書いた本のようなタイトルですが、サブタイトルに「マネジメント入門」とあるように、上司(マネジャー)にとって"マネジメント力"とは何かを説いた本。
 著者は、大学卒業後リクルートに入社し、起業支援雑誌「アントレ」の編集長、人材斡旋会社リクルートエイブリック(現リクルートエージェンシー)などを経て、人材コンサルティング会社を経営する40代前半の人で、リクルート時代"トップ"営業マンだった経験を生かして(売りにして?)、これまでに「営業力」をテーマに多くの本を書いています。

 本書は、現在マネジャーである人に向けてというよりも、30代前半の団塊ジュニア世代に向けて書かれていて、この年代からマネジメントというものを意識せよという考えやビジョンと戦略を重視する姿勢には共感できるし、マネジメントの技術論として「判断する」「叱る」「任せる」「心躍らせる」「伝える」「信頼される」の6つを挙げていているのも「ごもっとも」という感じ。

 ただし、若年層向けにわかりやすく書かれている分、「任せるのと丸投げは違う」とか意外と新味がなく、それでも読んでモチベーションアップに繋がった人もいたかもしれないけれど、物足りなさを感じた人もいたのではないでしょうか。
 現代新書であるわりには、これまで著者が書いてきた本と基調は似ており、「成功本」とまでは言わないが、一般のビジネス啓蒙書との差異が見出しがたい(内容よりもそのトーンにおいて)。

 マネジメント力をつけることにより、"よき上司"になると言うより、一足飛びに「経営メンバー」になる、或いは「ベンチャー経営者」になるという発想が現代的だと思いました。
 一方で、総じて仕事経験の浅い人の起業は成功率が低く、活躍しているのは、会社員時代に新規事業を経験したり、経営メンバーだった経験がある人だということで(169p)、この辺りが、著者が見てきた現実に近いのでは。

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認知心理学の視点からみた自閉症入門書。

自閉症からのメッセージ2.jpg 自閉症からのメッセージ.jpg     rain man.jpg Kim Peek/Dustin Hoffman
自閉症からのメッセージ (講談社現代新書)』〔'93年〕 

自閉症からのメッセージ2891.JPG 少し以前に書かれた本ですが、一般向けの自閉症入門書としては読みやすい内容だと思います。映画「レインマン」('88年/米)で、ダスティン・ホフマン演じるところの自閉症者レイモンドが、ばら撒かれたつま楊枝の数を一瞬にして言い当てた場面などを引き(この映画は、キム・ピ-ク氏という実在の自閉症者に取材して作られている)、自閉症の「優れた空間認識や記憶力」に注目していますが、こうした特徴は自閉症のすべてに現れるわけではないのでやや誤解を招く恐れもあります。 

 しかし、その行動・言語・記憶・時間・感情について"謎"を問いかけ、認知心理学の視点から実験結果などを踏まえ考察していく過程は、自閉症を通して「私」とは何かというテーマを浮き彫りにする帰結に至るまで、一般読者の知的関心をひくかと思います。本書出版当時のことを考えると、自閉症に対する認知度を高める効用はあったと思います。

 療育に携わる立場にいる人でも、「オウム返し」や「カレンダー・ボーイ」といった特徴に対し不思議な思いは抱くし、「選択肢が立てられない」「今日学校で何をしたかという問いに答えるのが苦手」「パニックが終わったら意外とケロリとしている」といった特徴について、何故だろうと思うことがあるのではと思います。

 著者の謎解きに全面的に賛同するかはともかく、自閉症をより深く理解し、教育的アプローチの手立てとするのに役立つ本です。

RAIN MAN film.jpgRAIN MAN (1988)s.jpg「レインマン」●原題:RAIN MAN●制作年:1988年●制作国:アメリカ●監督:バリー・レヴィンソン●撮影:ジョン・シール●音楽:ハンス・ジマー●原作・脚本:バリー・モロー●時間:133分●出演:ダスティン・ホフマン/トム・クルーズ/バレリア・ゴリノ/ジェリー・モルデン/ジャック・ マードック/マイケル・D・ロバーツ/ボニー・ハント●日本公開:1989/02●配給:ユナイテッド・アーティスツ●最初に観た場所:新宿グランドヲデオン座(89-04-15) (評価★★★★)


《読書MEMO》
●『レインマン』で自閉症者レイモンドがばら撒かれたつま楊枝の数を一瞬にして言い当てた場面(19p)
●『レインマン』の企画にダスティン・ホフマンが強い挑戦意欲を持ったのは、「自閉症者は火星人のようなものだから理解できるとは思わないほうがいい」と心理学者に言われて(64p)。
●選択肢が立てられない、今日学校で何をしたかという問いに答えるのが苦手(64p)
●パニックが終わると意外とケロリとしている(211p)
●私たちは、時間を一次元的な軸の上を進むものとして解釈している。過去の出来事は時がたてばたつほど遠いセピア色の世界となっていく。だからこそ、自分にとっては時間の果てにあると感じられる誕生日の曜日を、息子にぴったりと当てられた母親は「怖いような」「気持ちの悪いような」気分になるわけである。しかし、自閉症者は、私たちがイメージしているような時間軸というものをはたして意識しているのだろうか。M君とN君は、カレンダーを記憶する方法は少し違っていた。しかし両名とも、カレンダーという二次元空間の上を移動しながら指定された日付の曜日を探しに当てていた、という点では共通している。つまり、彼らは地図を見ていたのであり、二次元的なパターンを操作していたのだということができる。

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企業などでメンタルヘルスを担当されている方には参考になると思える。

退却神経症.jpg退却神経症―無気力・無関心・無快楽の克服』 講談社現代新書〔'88年〕 笠原 嘉.gif 笠原 嘉(よみし) 氏(略歴下記)
退却神経症 無気力・無関心・無快楽の克服/笠原嘉1.jpg いるいる、こんな人、これぞまさに著者の言う「退却神経症」ではないかと思い当るフシがありました。
 休みがちなのに、出社したときの仕事ぶりはしっかりしていたりして...。でも結局しばらくするとまた休むようになってしまうのですね(ただし休職届け添付の医師の診断書は「自律神経失調症」とか「うつ病」となっていることが多いのですが)。 

 「退却神経症」とは著者の考えた言葉であり、'70年安保の大学紛争の頃に、学生運動もせずに密かに社会の前線から退却して沈潜する「大学生特有の無気力」現象が見られ、そうした現象が青年期をこえたサラリ-マンの間にも「出勤拒否症」などとして拡がっている事態を意識したのが始まりだということで、これは、最近の社会現象として言われている「ひきこもり」に通じるところがあるかと思えます。 

 著者が関心を持ったのは、例えば「欠勤多発症」の青年は、職場を離れていればまったく元気であったりすることが多いということで、「会社を休むくせに、休日の運動会や小旅行は目立ってハッスルすることがある」といった点などです。 

 こうした人たちは、アブセンティーズム(欠勤症)やアパシー(無気力)状態になる前は、真面目で物事にキッチリした性格だった人が多く、また現在は、自分でもよくわからない漠然とした不安を心の内に抱えていて、それでいて、不眠に陥るでなく(むしろ過眠症だったりする)、他人の助けも求めない(この辺りが、不眠を伴うことが多く、他者に助けを求めることも多い「うつ病」とは異なる)、それでいて突然の失踪や自殺という最悪の結果に至ることがあるということです。 

退却神経症 無気力・無関心・無快楽の克服/笠原嘉2.jpg 著者は、大学生の「スチューデン・アパシー」現象について書かれた海外の論文を見つけたことから、これらが大学紛争の際の一時的現象ではなく、その後も続いている現象であると考え、これを「退却神経症」という新しいタイプのノイローゼと位置づけて、うつ病やパーソナリティ障害との比較をしています。

 学生の「五月病」なども、この「退却神経症」の系譜として捉えると確かにわかりやすいです。 
 さらには、中・高校生の「登校拒否」にも同様のアパシー症候群が見られるとし、こうした症状の治療と予防について、教育制度の問題も含め提案しています。
  
 提言部分についてはそれほど頁を割けないまま終わっている感じがありますが、「ひきこもり」や「登校拒否」の問題に対し、いち早く慧眼を示した本であり、この1冊に偏りすぎるのはどうかと思いますが、企業などでメンタルヘルスを担当されている方には参考になるかと思います。
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笠原 嘉(かさはら・よみし).名古屋大学名誉教授
1928年 神戸市に生れる。
1952年 京都大学医学部卒業。精神医学専攻。
1972年 名古屋大学教授就任
1992年 名古屋大学教授退官
名古屋大学医学部教授、同付属病院長などを経て、現在、藤田保健衛生大学医学部客員教授。社団法人被害者サポートセンターあいち元会長、現顧問。
中井久夫や木村敏と並んで著名な精神科医。スチューデント・アパシー student apathy や退却神経症などを提唱。

《読書MEMO》
●不安ノイローゼ・強迫ノイローゼ・ヒステリー型ノイローゼ+「退却神経症」(=新しいタイプのノイローゼ)
●うつ病の人は寮にいても苦しい、退却神経症の人は、会社を休むくせに、休日の運動会や小旅行は目立ってハッスルする(28p)
●休みがちなのに、出社したときの仕事ぶりはしっかりしている(28p)
●完全主義。プライドが高く、人に容易に心を開かない(48p)

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ノイローゼの入門書としてオーソドックス。

ノイローゼ2861.JPGノイローゼ.jpg ノイローゼ (1964年) (講談社現代新書0_.jpg 宮城音弥.jpg 宮城音弥
ノイローゼ (講談社現代新書 336)』〔'73年・新訂版〕/『ノイローゼ (1964年) (講談社現代新書)』〔'64年・旧版〕

 1964年刊行の『ノイローゼ』の新訂版。著者の宮城音弥(1908‐2005/享年97)は、ノイローゼを、「心の病気」のうち、脳に目に見える障害がなく、また人格も侵されていないもので、精神的原因でおこるものとしています。本書内のノイローゼと神経病(脳神経の病気)・精神病(人格の病気)・精神病質(性格の病気)との関係図はわかりやすいものでした。

0702003.gif ノイローゼの種類を神経衰弱(疲労蓄積による)・ヒステリー(病気への逃避・性欲抑制など)・精神衰弱(強迫観念・恐怖症・不安神経症など)の3つに区分し(この区分は現在もほぼ変わらないと思いますが)、症例と併せわかりやすく解説しています。 

 著者によれば、ノイローゼの症状はすべての精神病にもあるとのこと、つまり分裂病(統合失調症)やうつ病にも同じ症状があると。そうであるならば、実際の診断場面での難しさを感じないわけにはいきません。

 本書そのものは全体を通して平易に書かれていて、かつ精神病との違いやその療法にまで触れた包括的内容なので、メンタルヘルス等に関心のある方の入門書としては良いかと思います。

《読書MEMO》
●ノイローゼ...「心の病気」の内で、脳に目に見える障害がなく、また、人格が侵されていないもので、精神的原因によっておこってきたもの-神経病(脳神経の病気)・精神病(人格の病気)・精神病質(性格の病気)との関係図参照(30p)
●ノイローゼの種類...
・神経衰弱(疲労蓄積による)
・ヒステリー(病気による逃避など・性欲抑圧)
・精神衰弱(強迫観念・恐怖症・不安神経症)
●ノイローゼの症状は全ての精神病にある(129p)...分裂病>躁うつ病>ノイローゼ

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「異常」の構造を通して「正常」の構造を解き明かす。

異常の構造 木村敏.jpg異常の構造.jpg   木村 敏.jpg 木村 敏 氏(略歴下記)
異常の構造 (講談社現代新書 331)』 〔'73年〕

 本書では、精神分裂病者(統合失調症)の病理や論理構造を通じて「異常」とは何か、それでは「正常」とはいったい何かを考察しています。

 精神異常を「常識」の欠落と捉え、「常識」とは、世間的日常性の公理についての実践的感覚とし、分裂症病者はそれが欠落していると。
 ヴィンスワンガーの患者で精神分裂病者の例として紹介されている話で、 ガンを患って余命いくばくもない娘へのクリスマスプレゼントに、父(分裂病者)は棺おけを贈った、という話は、贈り物というものが贈られた人に役に立つという理屈にはあっているが、贈られた人が喜ぶという意味は欠如していていて、衝撃的であるとともに、「常識の欠落」という症状をわかり易く示していると思いました。

 さらに、「正常人」が自分たちより"自由"な論理構造を持つはずの「異常人」を差別することの「合理性」と、その合理性の枠内にある「正常者の社会」の構造を分析し、なぜ「正常者」がそうした差別構造をつくりあげるのかを、その「合理性」の脆弱性とともに指摘しています。

 分裂病を「治癒」しようとする考えの中に潜む排除と差別の論理を解き明かし、精神病者の責任能力の免除こそは差別であるとするなど、ラディカル(?)な面も感じられます。
 論理的にわかっても、心情的についていくのが...という部分もありましたが、考察のベースになっている精神分裂病を理解するための症例が豊富であるため、「異常」の構造とはどいったものかを知るうえで参考になります。

 こうした「異常」の構造を通して「正常」の構造を解き明かすというかたちでの精神病理学は、'60年代から'70年代にかけて、実存主義哲学の興隆とあわせて盛んで、「病跡学」とかもありましたが、実存主義のブームが去るとともにあまり流行らなくなっているようです。
 精神医学の世界にも、比較的短い年月の間に流行り廃れがあるということでしょうが、分裂病という難しい病をその中心に据えたことにも衰退の原因はあったかも。
 ましてや、実存主義哲学とかが絡んできても、医学部に入る人間が必ずしもそうした哲学的指向をもっているわけではないし...。
 ただし、個人的には、この本、名著だと思います。
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木村 敏(きむら・びん) 京都大学名誉教授、龍谷大学教授
1931年、旧朝鮮生まれ。精神病理学者。1955年、京都大学医学部卒業。1961年、ミュンヘン大学留学。1969年、ハイデルベルグ大学留学。1974年、名古屋市立大学大学医学部教授。その後、京都大学医学部教授、河合文化教育研究所主任研究員を経て、龍谷大学教授。
精神分裂病、躁鬱病、てんかん、境界例に興味関心を持ち、精神病理の観点から独自の哲学を展開する。
著書に『自覚の精神病理』(紀伊国屋書店)、『人と人の間』(弘文堂)、『分裂病の現象学』(弘文堂)、『自己・あいだ・時間』(弘文堂)、『時間と自己』(中公新書)、『生命のかたち/かたちの生命』(青土社)、『偶然性の精神病理』(岩波書店)、『心の病理を考える』(岩波書店)ほか多数。クラシック愛好家としても知られる。
 
《読書MEMO》
●「周囲の人たちがふつうに自然にやっていることの意味がわからない。皆も自分と同じ人間なんだということが実感としてわからない。―なにもかも、すこし違っているみたいな感じ。なんだか、すべてがさかさまになっているみたいな気がする」(58p)
●「面接のたびに患者から再三再四もち出される「どうしたらいいでしょう」という質問は、私たちが通常ほとんど疑問にも思わず、意識することすらないような、日常生活の基本的ないとなみの全般にわたっていた」(59p)
●「なにかが抜けているんです。でも、それが何かということをいえないんです。何が足りないのか、それの名前がわかりません。いえないんだけど、感じるんです。わからない、どういったらいいのか」(78p)
●「ちなみに、私の印象では子供を分裂病者に育て上げてしまう親のうち、小・中学校の教師、それも教頭とか校長とかいった高い地位にまで昇進するような、教師として有能視されている人の数がめだって多いようである」(102p)
●「実際、分裂病者の大半がこのような恋愛体験をきっかけとして決定的な異常をあらわしてくる、といっても過言ではない。恋愛において自分を相手のうちに見、相手を自分のうちに見るという自他の相互滲透の体験が、分裂病者のように十分に自己を確立していない人にとっていかに大きな危機を招きうるものであるかということが、この事実によく示されている」(103p)
●・「常識的日常性の世界の一つの原理は、それぞれのものが一つしかないということ、すなわち個物の個別性である」(109p)
・ 「常識的日常性の世界を構成する第二の原理としては、個物の同一性ということをあげることができる」(111p)
・「常識的日常性の世界の第三の原理は、世界の単一性ということである」(115p)
●「患者は私たち「正常人」の常識的合理性の論理構造を持ちえないのではない。すくなくとも私たちと共通の言語を用いて自己の体験を言いあらわしているかぎりにおいて、患者は合理的論理性の能力を失っているわけではない。むしろ逆に、私たち「正常人」が患者の側の「論理」を理解しえないのであり、分裂病的(反)論理性の能力を所有していないのである。患者がその能力において私たちより劣っているのではなくて、私たちがむしろ劣っているのかもしれない」(140p)
・「「正常人」とは、たった一つの窮屈な公式に拘束された、おそろしく融通のきかぬ不自由な思考習慣を負わされた、奇形的頭脳の持主だとすらいえるかもしれない」(141p)
●「まず、合理性はいかなる論理でもって非合理を排除するのであるか。次に、合理性の枠内にある「正常者」の社会は、いかなる正当性によって非合理の「異常者」の存在をこばみうるのであるか」(145p)
●「「異常者」は、「正常者」によって構成されている合理的常識性の世界の存立を根本から危うくする非合理を具現しているという理由によってのみ、日常性の世界から排除されなくてはならないのである。そしてこの排除を正当化する根拠は、「正常者」が暗黙のうちに前提している生への意志にほかならない」(157p)
●「分裂病者を育てるような家族のすべてに共通して認められる特徴は、私たちの社会生活や対人関係を円滑なものとしている相互信頼、相互理解の不可能ということだといえるだろう」(174p)
●「アメリカの革新的な精神分析家のトマス・サスは、ふつうの病気がテレビ受像機の故障にたとえられるならば精神病は好ましからざるテレビ番組にたとえられ、ふつうの治療が受像機の修理に相当するとすれば精神病の精神療法は番組の検閲と修正に相当するといっている」(179p)
・「分裂病を「病気」とみなし、これを「治療」しようという発想は、私たちが常識的日常性一般の立場に立つことによってのみ可能となるような発想である」(180p)
●「分裂病とはなにかを問うことは、私たちがなぜ生きているのかを問うことに帰着するのだと思う。私たちが生を生として肯定する立場を捨てることができない以上、私たちは分裂病という事態を「異常」で悲しむべきこととみなす「正常人」の立場をも捨てられないのではないだろうか」(182p)

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前半はわかりやすく、後半のニューロンと遺伝子の関係はやや専門的。

脳と記憶の謎.jpg
 

  
脳と記憶の謎―遺伝子は何を明かしたか』 講談社現代新書 〔'97年〕山元 大輔.bmp 山元 大輔 ・東北大教授(行動遺伝学)(略歴下記)

 冒頭の、「頭の記憶」(陳述記憶)がダメになるアルツハイマーと、「体の記憶」(手続き記憶)がダメになるピック病との対比で、記憶とは何かを述べるくだりはわかりやすいものでした。
Illustration by Lydia Kibiuk.jpg 扁桃体が情動記憶センターだとすれば、海馬は陳述記憶の集配基地であり長期記憶に関わる-この説明の仕方もわかりやすい。

 さらに、短期記憶にも長期記憶にも前頭前野が深く関わっており、記憶の座とは一点にあるものではないことがわかります。ここまでが前半部分。

 後半はニューロンの情報記憶メカニズムに迫りますが、NMDAレセプターがグルタミン酸に結合し、神経細胞を興奮させるイオンチャンネルとして働く...、NMDAレセプターへの刺激により一酸化炭素が発生し、LTP(長期増強)が起こるが、このとき転写を起こす遺伝子群がある...、といったニューロンによる遺伝子の読み出しという考え(多分これが著者の一番言いたかったこと)に至るプロセスは、分子生物学の初学者である自分には、ちょっと難解に感じられました。
 
 本書の前半と後半の難易度にギャップを感じたのは、自分だけだろうか。

《読書MEMO》
●アルツハイマー型痴呆...「体の記憶」(手続き記憶)はOKだが、「頭の記憶」(陳述記憶)はダメ。ピック病は、その逆(ホッチキスで爪を切る...)(28-29p)
●海馬は陳述記憶、扁桃体は情動記憶。海馬がなくても体が反応、ただし自分では覚えていない。扁桃体がないと、覚えているのに感じない(81p)
●《概要》記憶のシステムは筋肉を動かすシステムと同じ刺激=反応で、ニューロンが未知の刺激には電気反応を起さないのに、過去に経験した刺激につては特徴的反応を示すのは、経験済みの刺激だけ通りやすくなっているため

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山元 大輔(やまもと・だいすけ)
1954年生まれ。東京農工大学大学院修了。米国ノースウエスタン大医学部博士研究員、三菱化学生命科学研究所室長をへて、99年より早稲田大学人間科学部教授、03年より現職。『恋愛遺伝子運命の赤い糸を研究する』(光文社)は、遺伝子の専門知識がない人でも面白く読める本として注目を集めた。そのほかにも『行動を操る遺伝子たち』(岩波書店)など著書多数。

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進化論を使った知的冒険。進化論の歴史もわかりやすく解説されている。

進化論という考えかた3.JPG進化論という考えかた.jpg進化論という考えかた2.jpg 進化論の挑戦.jpg 佐倉 統.jpg 佐倉統 氏(略歴下記)
進化論という考えかた (講談社現代新書)』〔'02年〕『進化論の挑戦 (角川選書)』〔'97年〕 

 「進化論をおもしろく紹介するよりも、進化論を使って知的冒険を展開してみたかった」と後書きにあるように、人間がほかの動物から進化してきたという事実から「人間性」も進化したと考えるべきではないかとし、進化論の方法をキーに、人間の心(倫理観など)や行動、文化の生成の謎に迫ることができるのではという考えを示しています。

『進化論の挑戦』['97年/角川選書 '03年/角川ソフィア文庫]
『進化論の挑戦』('97年/角川選書.jpg進化論の挑戦2.jpg 著者は以前に、『進化論の挑戦』('97年/角川選書・'03年/角川ソフィア文庫)の中で、進化論の失敗を含めた歴史的背景を振り返り(例えば進化論が「優生思想」に形を歪められ、ヒトラーらの政治手段として利用されたようなケース)、既存の倫理観、宗教観、フェミニズム、心理学などの学問領域を進化論的側面から再検証した上で、新たな思想の足場となる生物学的な人間観を提示しようとしました。

 個人的には、人間の文化は、遺伝子には刻まれない情報ではあるが、集団的に受け継がれていくものであるという「ミーム論」的なニュアンスを感じましたが(著者は遺伝学的決定論には批判的である)、話の結論としては、哲学、心理学、社会学など個別の領域で行われてきた研究は、進化論の考え方を導入することで統合され飛躍的に発展するだろうということになっている印象を受けました。ただし、あまりに多くのことに触れている分、各分野については浅く(学術書ではなく啓蒙書であるからそれでいいのかも知れないが)、大枠では著者の主張はわかならいでもないまでも、もやっとした不透明感が残りました。
    
進化論という考えかた2897.JPG そうした著者の言説をわかりやすく噛み砕いたもの(元々そうした趣旨において書かれたもの)が本書『進化論という考えかた』('02年/講談社現代新書)であるとも言えますが、ただし、本書において具体的にそうした学問領域の間隙を埋める作業に入っているのではなく、むしろそうした作業をする場合に著者が自らに課す"心構え"のようなものを「センス・オブ・ワンダー」(自然への畏敬の念)という概念基準で示しています(この言葉はレイチェル・カーソンの著作名からとっているが、著者なりの言葉の使い方とみた方がよいのでは)。そして、この基準を満たさないものとして、竹内久美子氏の"俗流"進化生物学や澤口俊之氏の『平然と車内で化粧する脳』('00年/扶桑社)などを挙げて批判しています。

 本書の第1章では、進化論の歴史がわかりやすく解説されていて、入門書としても読めます。ここが、本書の最もお薦めのポイントで、後はどれだけ著者の「知的冒険」に付き合えるかで、本書に対する読者個々の相性や評価が決まってくるのではないでしょうか。

 進化学の手法が万能であるような楽観的すぎる印象も受けましたが、〈ミーム論〉は現時点では学問と言える体系を成していないとするなど、冷静な現状認識も見られ、今後注目してみたい学者の一人ではあると思えました。 
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佐倉 統
1960年生まれ。著書に 『現代思想としての環境問題』(中公新書)『進化論の挑戦』(角川書店)『生命の見方』(法藏館)など。専攻は進化生物学だが、科学史から先端科学技術論まで幅広く研究テーマを展開。横浜国立大学経営学部助教授。

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論理的だが、アニメ、ゲームなどの物語や構造に「世界」を仮託し過ぎ?

動物化するポストモダンsim.jpg動物化するポストモダン2.jpg 動物化するポストモダン .jpg   東 浩紀.jpg 東 浩紀 氏
動物化するポストモダン―オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)』 ['01年]

 本書では、アニメ、ゲームなどサブカルチャーに耽溺する人々の一群を「オタク」とし、「オタク系文化」の本質と、「'70年代以降の文化的世界=ポストモダン」との社会構造の関係を考察しています。
 著者はオタク系文化の特徴として「シュミラークル」(二次創作)の存在と「虚構重視」の態度をあげ、後者は人間の理性・理念や国家・イデオロギーなどの価値規範の機能不全などによる「大きな物語の凋落」によるとしたうえで、
 (1)シュミラークルはどのように増加し、ポストモダンでシュミラークルを生み出すのは何者なのか
 (2)ポストモダンでは超越性の観念が凋落するとして、人間性はどうなってしまうのか
 という2つの問いを投げかけています。

 (1)の問いに対しては、大塚英志氏の「物語消費」論をもとに、ポストモダンの世界は「データベース型」であり、物語(虚構)の消費(読み込み)により「データベース」化された深層から抽出された要素が組み合わされ表層のシュミラークルが派生すると。
 ただし、「キャラ萌え」と呼ばれる'90年代以降の傾向は、虚構としての物語さえも必要としておらず、自らの表層的欲求が瞬時に機械的に満たされることが目的化しており、著者は、コジェーヴがアメリカ型消費社会を指して「動物的」と呼んだことを援用して、これを「動物化」としているようです(つまり(2)の問いに対する答えは、ヒトは「データベース型動物」になるということ)。

 著者は27歳で『存在論的、郵便的-ジャック・デリダについて』('98年/新潮社)を書き、浅田彰に『構造と力』は過去のものになったと言わしめたポストモダニズムの俊英だそうですが、本書は、オタク系文化と現代思想の融合的解題(?)ということでさらに広い注目を浴び、サブカルチャーが文化社会学などでのテーマとしての"市民権"を得る契機になった著書とも言えるかも知れません。

 個人的には、アニメ、ゲームなどの物語や構造に「世界」を仮託し過ぎて書かれている気がしましたが、「萌え」系キャラクターの生成過程の分析などから探る(1)の著者の答えには論理的な説得力を感じました。
 著者自身も明らかにオタクです。中学生のときに、「うる星やつら」のTVシリーズ復活嘆願署名運動に加わったりしている(前著『郵便的不安たち』('99年/朝日新聞社)より)。
 ゆえに本書は、オタクから支持もされれば、批判もされる。物語の読み込み方が個人に依存することとパラレルな気がします。

 個人的には、オタクを3つの世代に分類し、10代で何を享受したかによってその質が異なることを分析している点が興味深かったけれど、最近の社会学者ってみんなアニメ論やるなあ(社会学の必須科目なのか、それとも著者のように、もともとオタク傾向の人が社会学者になるのか)。

新世紀エヴァンゲリオン.jpg機動戦士ガンダム.jpgさらば宇宙戦艦ヤマト.jpg《読書MEMO》
●オタクの3つの世代(10代で何を享受したか)(13p)
 ・'60年前後生まれ...『宇宙戦艦ヤマト』『機動戦士ガンダム』
 ・'70年前後生まれ...先行世代が作り上げた爛熟・細分化したオタク系文化
 ・'80年前後生まれ...『エヴァンゲリオン』

宇宙戦艦ヤマトdvd メモリアルBOX.jpg「宇宙戦艦ヤマト」●演出:松本零士●制作:西崎義展●脚本:藤川桂介/田村丸/山本暎一●音楽:宮川泰●原案:西崎義展●出演(声):納谷悟朗/富山敬/麻上洋子/青野武/永井一郎/仲村秀生/伊武雅之(伊武雅刀)/広川太一郎/平井道子/大林丈史/緒方賢一/山田俊司(キートン山田)●放映:1974/10~1975/03(全26回)●放送局:読売テレビ

機動戦士ガンダム dvd.jpg「機動戦士ガンダム GUNDAM」●演出:富野喜幸●制作:渋江靖夫/関岡渉/大熊伸行●脚本:星山博之/松崎健一/荒木芳久/山本優/富野 喜幸(富野由愁季)●音楽:渡辺岳夫/松山祐士●原作:矢立肇/富野喜幸●出演(声):古谷徹/池田秀一/鵜飼るみ子/鈴置洋孝/古川登志夫/鈴木清信/飯塚昭三/井上瑤/白石冬美/塩沢兼人/熊谷幸男/玄田哲章/戸田恵子●放映:1979/04~1980/01(全43回)●放送局:名古屋テレビ

新世紀エヴァンゲリオン1.jpg「新世紀エヴァンゲリオン」●演出:庵野秀明●制作:杉山豊/小林教子●脚本:榎戸洋司●音楽:鷲巣詩郎●原作:ガイナックス●出演(声):緒方恵美/三石琴乃/林原めぐみ/山口由里子/宮村優子/石田彰/立木文彦/清川元夢/結城比呂/長沢美樹/子安武人/山寺宏一/関智一/岩永哲哉/岩男潤子●放映:1995/10~1996/03(全24回)●放送局:テレビ東京


●「データベース型世界の二重構造に対応して、ポストモダンの主体もまた二層化されている。それは、シミュラークルの水準における「小さな物語への欲求」とデータベースの水準における「大きな非物語への欲望」に駆動され、前者では動物化するが、後者では擬似的で形骸化した人間性を維持している。要約すればこのような人間像がここまでの観察から浮かび上がってくるものだが、筆者はここで最後に、この新たなる人間を「データベース的動物」と名づけておきたいと思う」(140p)

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マクロ経済の参考書として読めるが、やや乱暴な論調も。

経済論戦の読み方.jpg田中 秀臣 『経済論戦の読み方』3.JPG
経済論戦の読み方』 講談社現代新書〔'04年〕

 著者は、インフレターゲット論者として、論文、一般向け書籍、ネットなどで活発な活動を続けている人ですが(この人の個人サイトは映画の話題などもあって面白い)、本書は"経済論戦"の現状を俯瞰的に眺望する前に、マクロ経済理論の解説を行っています。このあたりの解説自体は丁寧で、「IS-LM分析」や「流動性の罠」理論を理解するうえでの適切な参考書としては読めます。

 しかし具体的に持論の解説がないまま「構造改革主義」批判に入り、そこでも経済理論の解説が続くため、論点を"読み解く"うえでは、自分のレベルでは必ずしも読みやすいものではありませんでした。
 特に著者の唱える「漸進的な構造改革」は、構造改革論者にも同じことを唱えている人がいるのでややこしい。

竹中平蔵.jpg 最初に一般論としてのエコノミストの分類をしていますが、「政策プロモーター型」の竹中平蔵氏について、度々の変節を揶揄して「カオナシ」と呼んでいるところは著者らしいユーモア。

 しかし、 "経済論戦"というものが何だか今ひとつ分かりにくくて本書を手にとった自分のような読者が期待する "読み方"の部分については、章間にある"辛口ブックレビュー・コラム"がその端的な形と言えるかと思いますが、これが一番面白いものの、やや乱暴な論調も見られ、明らかに主題から外れた揚げ足取りの部分もあるように思えました。

《読書MEMO》
●辛口ブックレビュー・コラム
◆デフレが人を自由にすると説く奇妙な論理...榊原英資 『デフレ生活革命』('03年/中央公論新社)
◆時代遅れの経済学を前提とした主張...リチャード・クー 『デフレとバランスシート不況の経済学』('03年/徳間書店)
◆日銀をあまりにも過大評価している...リチャード・A・ヴェルナー 『謎解き!平成大不況』('02年/PHP研究所)
◆年金問題に数字を伴う処方箋を提示してほしい...金子勝 『粉飾国家』('04年/講談社現代新書)
◆「万年危機論者」たちの終わらない宴...高橋乗宣 『"カミカゼ"景気』('04年/ビジネス社)、ラビ・バトラ 『世界同時大恐慌』('04年/あ・うん)、副島隆彦 『やがてアメリカ発の大恐慌が襲いくる』('04年/ビジネス社)、本吉正雄 『元日銀マンが教える預金封鎖』('04年/PHP研究所)、藤井厳喜 『新円切替』('04年/光文社ペーパーバックス)、吉川元忠 『経済敗走』('04年/ちくま新書)
◆木村剛の「キャピタル・フライト論」の大きな誤り...木村剛 『戦略経営の発想法』('04年/ダイヤモンド社)、『キャピタル・フライト-円が日本を見棄てる』('01年/実業之日本社)
◆思い込みばかりが浮き彫りになる「御用学者」批判...奥村宏 『判断力』('04年/岩波新書)

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作家・作品論的視点で「萌え」考察。「美少女」萌えのルーツなど、面白くは読めたが...。

美少女」の現代史.jpg 〈美少女〉の現代史.gif   ルパン三世 カリオストロの城2.bmp ルパン三世 カリオストロの城 3.jpg 『〈美少女〉の現代史――「萌え」とキャラクター』 講談社現代新書 〔'04年〕 「ルパン三世 - カリオストロの城

 〈まんが・アニメに溢れる美少女像はいつ生まれてどう変化したのか?「萌え」行動の起源とは? 70年代末から今日までの歴史を辿る〉という表紙カバー(旧装)の口上が本書の内容をよく要約しているかと思います。「萌える」という言葉に正確な定義はないそうですが、本書では「キャラクター的なものに対して強い愛着を感じる」という意味で用いています。

海のトリトン2.jpg まずアニメ好きの女性たちにテレビアニメ「海のトリトン」('72年)を契機に組織的な動きがあったということで、手塚治虫ってここでも関わっているのか!という感じ。ただし、アニメ版は原作と雰囲気が多少異なるもので(その一部はウェブ動画でも見ることができる)、放映時はそれほど好視聴率でもなかったようです。忘れかけていた作品だったということもありますが、「萌え」のルーツが、実は少年向けアニメに対する女性たちの思い入れにあったという論旨が新鮮でした。
「海のトリトン」('72年/朝日放送・手塚プロ・東北新社)

 男性が「美少女」に萌えたルーツは、吾妻ひでお「不条理日記」('78年)で、それに高橋留美子の「うる星やつら」('78年)が続き(この作品、「メゾン一刻」より前のものなんだなあ)、更に宮崎駿監督の劇場用アニメ「ルパン三世〜カリオストロの城」('79年)が続く、とのこと。 

うる星やつら/オンリー・ユー パンフ.jpg 「うる星やつら」の劇場版シリーズ第1作から第3作までを論評すると、第1作「うる星やつら/オンリー・ユー」('83年)は、あらかじめ観客とファンUrusei Yatsura 2:Byûtifuru dorîmâ (1984) .jpgを限定して作られたためマニアックな傾向が強く、良くも悪しくも、日本のスラプスティク・アニメの典型のように思え、第2作「うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー」('84年)が一番の出来だと思うのですが(但し、コミックファンの間では、高橋留美子の原作を外れたと憤慨する声もある)、第3作「うる星やつら3/リメンバー・マイ・ラブ」('85年)は、監督が押井守から別の人(やまざきかずお)に変わって、ウェットなラブ・ストーリーになってしまい、作画のレベルは高いのに、内容的には駄作になってしまったように思います。
Urusei Yatsura 2: Byûtifuru dorîmâ (1984)  シネマUSEDパンフレット『うる星やつら/オンリーユー』☆映画中古パンフレット通販☆「うる星やつら オンリー・ユー」(1983)[A4判]

「うる星やつら」のテレビアニメ版は'81年から'86年にかけて195回に渡って放映されていますが(スペシャル版も含めると218話)、調べてみると、押井守は劇場版「うる星やつら2/ビューティフル・ドリーマー」公開翌年の'84年に、第106回放映分をもってTV版の方のチーフディレクター(CD)も降りています(理由は「体力的・精神的な限界」とのこと)。原作がTV放映に追いつかなくなったということもありますが、アニメの方も、CDが変わると(やまざきかずおが引き継いだ)作風が変わるんだなあと思いました。

ルパン三世 カリオストロの城11.jpg 一方、先に劇場映画作品として公開された「ルパン三世〜カリオストロの城」は、ヒロインのクラリス姫が特定のファンの間で非常に人気があるこルパン三世 カリオストロの城.jpgとは聞いていましたが、ルパンはこの「自分も泥棒の手伝いをするから」とまで言う健気なお姫様の想いに応えることなく、笑顔で去って行くわけで、ラストの銭形警部の「ルパンはとんでもないものを盗んでいきました。貴方の心です」という台詞が、臭さを超えてスンナリ受け入れられるほどに、クラリスよりルパンそのもののカッコ良さの方が個人的には印象に残ったかなあ。

ルパン三世 - カリオストロの城 [DVD]

モンキー・パンチ.jpg 原作者のモンキー・パンチ氏(1937-2009/81歳没)はこの映画の試写を観て、「僕には描けない、優しさに包まれた、"宮崎君の作品"としてとてもいい作品だ」と言ったそうですが、宮崎アニメとしての「ルパン三世」の中に自分の作風とは異質の「萌え」のニオイを嗅ぎ付けたのではないでしょうか。

ルパン三世 TV第1シリーズ.jpg 「ルパン三世」のテレビアニメ版は、'71~'72年、'77年~'80年、'84年~'85年の3シリーズに渡って放映されていますが、第1シリーズは、当初は大人向けの作品を意向していたのが、当時の視聴者の関心を集めることができず、対象年齢を下げるという路線変更の後に打ち切られたとのこと。

「ルパン三世」TVシリーズ1(1971)

 第1シリーズがローカル局で再放映されるうちに人気がじわじわ出てきて第2シーズンの放映が決まったとのことですが、シリーズの人気を決定付けた第2シーズンはハナから子ども向けで、この第2シリーズ放映中の'77年~'80年の丸4年間の間に、劇場版第1作「ルパン三世~ルパンVS複製人間」('78年)と第2作「ルパン三世~カリオストロの城」('79年)が劇場公開されたということになります。

ルパン三世 ルパンVS複製人間 1.jpg 第1シリーズ当初からのファンの中には、そのやや大人びた雰囲気が好きな層も多くいたようで、劇場版第1作「ルパン三世~ルパンVS複製人間」は、クローン人間をテーマとしたSFチックな壮大なストーリー(低年齢化したテレビ版の反動か。怪人「マモー」に果てしない人間の欲望を感じたこの作品が、個人的には一番面白かった)、それが第2作「ルパン三世~カリオストロの城」で、重厚な物語設定ながらも子どもにも分かり易い話になり(一方で「クラリス萌え」という密かなブームを引き起こしていたのだが)、更に、宮崎駿の推挙により押井守が監督した第3作「ルパン三世~バビロンの黄金伝説」('87年)では「うる星やつら」のようなギャグタッチが随所に見られるという、映画は結局6作まで作られていますが、こちらも監督が変わるごとにトーンがそれぞれに随分と違っている...。(2013年に17年ぶりの劇場版第7作「ルパン三世〜VSコナン THE MOVIE」が作られ、翌2014年に第8作「ルパン三世〜次元大介の墓標」も作られた。尚、TV版の単発スペシャル版は1989年から2013年までほぼ毎年1作のペースで作られ放映されている。)
   
 本書の著者は漫画雑誌の編集長だったせいか、〈文化社会学〉的視点よりも〈作家・作品論〉的視点で書かれていて(だからこそ、タイトルより「口上」の方が、本書内容をよく表していると思う)、その中で作品と受け手の関係を考察しています。著者は「萌え」の背景を、男性が男らしく戦う根拠を失い、女性にそれを向けるも受け入れられず、さらに女性を見るだけの存在となって「純粋な視線としての私」に退行していったと捉えています。

 それなりに面白く読めましたが、ある意味、それほど斬新さを感じない視点である一方、細部においては我田引水と感じられる部分もあります。まんが・アニメ史を俯瞰的によく網羅し解説していると思われる反面、著者の場合、自分の論に沿って事例を集めることは可能だろうという気もします。大塚英志氏などがアニメを論じた本もそうですが、細部を論じれば論じるほど個人的思い入れが反映されやすいのが、このジャンルの特徴ではないかと思いました(このブログの当項においても、個々の作品の方に話がそれたように...)。

海のトリトン題.jpg海のトリトンTriton.jpg「海のトリトン」●演出:富野喜幸●制作:ア海のトリトン_500.jpgニメーション・スタッフルーム●脚本:辻真先/松岡清治/宮田雪/松元力/斧谷稔●音楽:鈴木宏昌●原作:手塚治虫「青いトリトン」●出演(声):塩谷翼/広川あけみ/北浜晴子/八奈見乗児/野田圭一/沢田敏子/杉山佳寿子/北川国彦/渡部猛/増岡弘/渡辺毅/塩見龍助/滝口順平/矢田耕司/中西妙子/柴田秀勝●放映:1972/04~09(全27回)●放送局:朝日放送
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Urusei Yatsura 1:Onri yû (1983).jpgうる星やつら/オンリー・ユー.jpg「うる星やつら/オンリー・ユー」●制作年:1983年●監督・脚うる星やつら/オンリー・ユー7.jpg色:押井守●製作:多賀英典●演出:安濃高志●脚本:金春智子●撮影監督:若菜章夫●音楽:小林泉美・安西史孝・天野正道●原作:高橋留美子●時間:80分●声の出演:平野文/古川登志夫/島津冴子/神谷明●公開:1983/02●配給:東宝●最初に観た場所:大井ロマン(85-05-05)(評価:★★☆)●併映:「うる星やつら2」(押井守)/「うる星やつら3」(やまざきかずお)

うる星やつら2/ ビューティフル・ドリーマー4.jpg「うる星やつら2/ ビューティフル・ドリーマー」●制作年:1984年●監督・脚本:押井守●製作:多賀英典●演出:西うる星やつら2/ ビューティフル・ドリーマー00.jpg村純二●撮影監督:若Urusei Yatsura 2 Byûtifuru dorîmâ (1984)_.jpgうる星やつら2/ ビューティフル・ドリーマー.jpg菜章夫●音楽:星勝●原作:高橋留美子●時間:98分●声の出演:平野文/古川登志夫/島津冴子/神谷明/杉山佳寿子/鷲尾真知子/田中真弓/藤岡琢也/千葉繁/村山明●公開:1984/02●配給:東宝●最初に観た場所:大井ロマン(85-05-05)(評価:★★★)●併映:「うる星やつら」(押井守)/「うる星やつら3」(やまざきかずお)

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うる星やつら3/リメンバー・マイ・ラブ16.jpgうる星やつら3/リメンバー・マイ・ラブ0.jpg「うる星やつら3/リメンバー・マイ・ラブ」●制作年うる星やつら3/リメンバー・マイ・ラブ1985.jpg:1985年●監督:やまざきかずお●脚本:金春智子●撮影:若菜章夫●音楽:ミッキー吉野●原作:高橋留美子●時間:90分●声の出演:平野文/古川登志夫/岩田光央/島本須美/京田尚子●公開:1985/01●配給:東宝●最初に観た場所:大井ロマン(85-05-05)(評価:★★)●併映:「うる星やつら」(押井守)/「うる星やつら2」(押井守)
劇場版 うる星やつら3 リメンバー・マイ・ラヴ [DVD]

うる星やつら2/ ビューティフル・ドリーマーl.jpg「うる星やつら」(テレビアニメ版)●チーフディレクター:押井守(1話 - 129話)/やまざきかずお(130話 - 218話)●プロデューサー:布川ゆうじ/井上尭うる星やつら TVテーマソング.jpg一/久保真/稲毛正隆/長谷川優/菊池優●音楽:風戸慎介/安西史孝/西村コージ/星勝/ミッキー吉野●原作:高橋留美子●出演(声):古川登志夫/平野文/神谷明/島津冴子/杉山佳寿子/鷲尾真知子/小原乃梨子/三田ゆう子/上瑤/小宮和枝/玄田哲章/納谷六朗(1932-2014)●放映:1981/10~1986/03(全195回+スペシャル、全214話)●放送局:フジテレビうる星やつら TVテーマソング ベスト」 

ルパン三世 カリオストロの城  LUPIN THE 3RD THE CASTLE OF CAGLIOSTRO  dvd.jpgルパン三世 カリオストロの城12.jpg「ルパン三世〜カリオストロの城」●制作年:1979年●監督:宮崎駿●製作:片山哲生●脚本:宮崎駿/山崎晴哉●作画監督:大塚康生●音楽:大野雄二 ●原作:モンキー・パンチ●時間:98分●声の出演:山田康雄(1932-1995)/島本須美/納谷悟朗(1929-2013)/小林清志/井上真樹夫/増山江威子/石田太郎/加藤正之/宮内幸平/寺島幹夫/山岡葉子/常泉忠通/平林尚三/松田重治/永井一郎/緑川稔/鎗田順吉/阪脩●公開:1979/12●配給:東宝 (評価:★★★☆)
ルパン三世 カリオストロの城 / LUPIN THE 3RD: THE CASTLE OF CAGLIOSTRO

ルパンVS複製人間.jpgルパン三世〜ルパンVS複製人間 poster.jpgルパン三世 ルパンVS複製人間.jpg「ルパン三世〜ルパンVS複製人間」●制作年:1978年●監督:吉川惣司●製作:藤岡豊●脚本:大和屋竺/吉川惣司●作画監督:椛島義夫/青木悠三●音楽:大野雄二●原作:モンキー・パンチ●時間:102分●声の出演:山田康雄/納谷悟朗/小林清志/井上真樹夫/増山江威子/西村晃/(以下、特別出演)三波春夫/赤塚不二夫/梶原一騎●公開:1978/12●配給:東宝 (評価:★★★★)
ルパン三世 ルパン vs 複製人間 [DVD]

「ルパン三世 ルパン vs 複製人間」劇場公開ポスター

「ルパン三世」(テレビアニメ版)●監督:(第1シリーズ)大隈正秋/(第3シリーズ)こだま兼嗣/鍋島修/亀垣一/奥脇雅晴ほか●プロデューサー:(第2シリーズ)高橋靖二(NTV)/高橋美光(TMS)/(第3シリーズ) 松元理人(東京ムービー新社)/佐野寿七(YTV)●音楽:山下毅雄/(第2シリーズ)大野雄二●原作:モンキー・パンチ●出演(声):山田康雄/小林清志/二階堂有希子/増山江威子/井上真樹夫/大塚周夫/納谷悟朗●放映:1971/10~1972/03(全23回)/1977/10~1980/10(全155回)/1984/03~1985/12(全50回)●放送局:読売テレビ(第1シリーズ)/日本テレビ(第2・第3シリーズ)

「ルパン三世」(テレビアニメ・スペシャル版)
ルパン三世 霧のエリューシヴ.pngルパン三世 sweet lost night.jpg「ルパン三世 霧のエリューシヴ」(2007)/「ルパン三世 sweet lost night」(2008)

ルパン三世 VS名探偵コナン.jpgルパン三世 the Last Job.jpg「ルパン三世 VS名探偵コナン」(2009)/「ルパン三世 the Last Job」(2010)

ルパン三世 血の刻印.jpgルパン三世 東方見聞録.jpg「ルパン三世 血の刻印」(2011)/「ルパン三世 東方見聞録」(2012)

ルパン三世 princess of the breeze.jpgルパン三世 2016.jpg「ルパン三世 princess of the breeze」(2013)/「ルパン三世 イタリアン・ゲーム」(2016)

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多少マニアックな映画ファンが楽しんで読めるヒッチコック入門書。 

ヒッチコック.jpg  ヒッチコック2.jpg 白い恐怖 チラシ.jpg
ヒッチコック』 講談社現代新書 〔'86年〕/筈見 有弘 (1937-1997/享年59)/「白い恐怖 [DVD]」チラシ
ヒッチコック2.jpg
 ヒッチコックぐらい、その多くの作品が日本で見られる外国の監督はいないのではないでしょうか。例えば双葉十三郎『外国映画ぼくの500本』('03年/文春新書)でも、結果として作品数的にはヒッチコック作品が最も多く取り上げられていたし、自分自身も、劇場で見たものだけで20本を超えます(しかもハズレが少ない)。本書はそうしたヒッチコック映画の数々を、ストーリーや状況設定、小道具や出演女優など様々な角度から分析し、よく使われる「共通項」をうまく抽出しています。

『白い恐怖』(1945)2.jpgsiroikyouhu3.jpg  例えば、白と黒の縞模様を見ると発作を起こす医師をグレゴリー・ペック、彼を愛し発作の原因を探りだそうとする精神科医をイングリッド・バーグマンが演じた「白い恐怖」(原作はフランシス・ヒーディングの『白い恐怖』、本国での発表は1927年)では、グレゴリー・ペックの見る夢のシーンで用いられたサルバドール・ダリによるイメージ構成にダリの実験映画と同じような表現手法が見出せましたが(これにテルミンの音楽が被る)、この部分はあまりにストーレートで杓子定規な精神分析的解釈で、個人的にはさほどいいとは思えず、著者も「本来のヒチコックの映像造形とはかけ離れている」としています。

「白い恐怖」より(イメージ構成:サルバドール・ダリ)
    
白い恐怖 イングリッド・バーグマン.jpg  一方、イングリッド・バーグマンがはじめはメガネをかけていたことにはさほど気にとめていませんでしたが、他の作品では眼鏡をかけた女性が悪役で出てくるのに対し、この映画では、一見冷たさそうに見える女性が、恋をすると情熱的になることを効果的に表すために眼鏡を使っているとのことで、ナルホドと(イングリッド・バーグマンはこの作品で「全米映画批評家協会賞」の主演女優賞を受賞)。

 同じ小道具へのこだわりでも、その使い方は様々なのだなあと感心させられました(ただし、眼鏡をかけたイングリッド・バーグマンもまた違った魅力があり、ヒッチコックという人は、元祖「眼鏡っ子」萌え―だったかもと思ったりもして...。

マーニー 01.jpgマーニー 02.jpg 一方、「白い恐怖」と同様に精神分析の要素が織り込まれていたのが「マーニー」('64年)でした(日本では「マーニー/赤い恐怖」の邦題でビデオ発売されたこともある)。ある会社の金庫が破られ、犯人は近頃雇い入れたばかりの女性事務員に違いないとういうことになるが、当の彼女はその頃ホテルでブルネットの髪を洗って黒い染髪料を洗い流すとブロンドに様変わり。よって、その行方は知れない―幼児期の体験がもとで盗みを繰り返し、男性やセックスにおびえる女性マーニーを「鳥」('63年)のティッピ・ヘドレンが演じ(彼女も血筋的にはバーグマンと同じ北欧系)、彼女と結婚して彼女を救おうとする夫を「007 ロシアより愛をこめて」('63年)のショーン・コネリーが演じていますが、夫が妻を過去と対峙させてトラウマから解放する手法が精神分析的でした(夫は単なる金持ちの実業家で、精神分析ではないのだが)。

マーニー bul.jpg 著者はこの映画を初めて観たとき、ブルネットのときは盗みを働き、ブロンドの時は本質的に善であるマーニーから、ヒッチコックのブロンド贔屓もずいんぶん露骨だと思ったそうです。「裏窓」('54年)のグレース・ケリー、「めまい」('58年)のキム・ノヴァクも確かにブロンだしなあ。今まで観たことのある作品もナルホドという感じで、次にもう一度観る楽しみが増えます。
"Spellbound by Beauty: Alfred Hitchcock and His Leading Ladies (English Edition)"
Spellbound by Beauty.jpg 本書179pに、ティッピ・ヘドレンはグレース・ケリーをしのぐほどにクールなブロンド美女で、「生来の内気さを失ったヒッチコックは、彼女に言いよったが、彼女の方では相手にしなかったという噂もある」とありザ・ガール ヒッチコックに囚われた女.jpgますが、実際セクハラまがいのこともしたようです(ヒッチコックによるヘドレンへのセクハラを描いたドナルド・スポトの『Spellbound by Beauty: Alfred Hitchcock and His Leading Ladies』が、2012年に米・英・南アフリカ合作のテレビ映画「ザ・ガール ヒッチコックに囚われた女」としてトビー・ジョーンズ、シエナ・ミラー主演で映像化されていて、2013年にスター・チャンネルとWOWOWで放送されたようだが、個人的には未見)。
     
ヒッチコック アートプリント(Alfred Hitchcock Collage)
ヒッチコック アートプリント.jpg 著者なりの作品のテーマ分析もありますが、「すべてエンターテイメントのために撮った」というヒチコックの言葉に沿ってか、それほど突っ込んで著者の考えを展開しているわけではありません。

 むしろ映像として、あるいは音として表されているものを中心に、ヒッチコックのこだわりを追っていて、映画ファンというのは誰でも多少マニアックなところがあるかと思うのですが、そうしたファンが楽しんで読めるヒチコック入門書になっています。

映画術 フランソワ トリュフォー.jpg 因みに、映画監督のフランソワ・トリュフォーによるヒッチコックへのインタビュー集『映画術―ヒッチコック・トリュフォー』('81年/晶文社)では、ヒッチコックは、「バーグマンは私の演出を好まなかった。私は議論が嫌だったから、"イングリッド、たかが映画じゃないか"と言った。彼女は名作に出ることだけを望んだ。製作中の映画が名作になるかならないかなんて誰がわかる?」とボヤいています。ヒッチコックは当初バーグマンに特別な感情を抱いていたため、バーグマンとイタリア人監督ロベルト・ロッセリーニとの不倫劇はヒッチコックを大いに失望させたそうで、その辺りがこうしたコメントにも反映されているのかもしれません。ヒッチコックはバーグマンを「白い恐怖」('45年)、「汚名」('46年)、「山羊座のもとに」('49年)の3作で使っていますが、バーグマンとロッセリーニが正式に結婚した1950年以降は使っていません(ヒッチコックがバーグマンに"たかが映画じゃないか"と言ったのは「山羊座のもとに」撮影中のことだが、これはヒッチコックの口癖でもあったらしく、「サイコ」('60年)の主演女優のジャネット・リーにも同じことを言い、「そう、たかが映画よね。たった45秒のシーンのために、監督は8日間カメラを回し、70回カメラアングルを変えたわ」と切り返されたそうだ)。

 しかし、ともあれ、あのヒッチコックが"たかが映画じゃないか"と言ったというのが面白く、この言葉は、山田宏一、和田誠両氏の共著のタイトルになっています(『たかが映画じゃないか』('78年/文藝春秋))。

白い恐怖 [DVD]
白い恐怖 イングリッド・バーグマン/グレゴリー・ペック.jpg白い恐怖.jpg 「白い恐怖」●原題:SPELLBOUND●制作年:1945年●制作国:アメリカ●監督:アルフレッド・ヒッチコック●製作:デヴィッド・O・セルズニック●脚本:ベン・ヘクト/アンガス・マクファイル●撮影:ジョージ・バーンズ●音楽:ミクロス・ローザ●原作:フランシス・ビーディング(ジョン・パーマー/ヒラリー・エイダン・セイント・ジョージ・ソーンダーズ)●時間:111分●出演:イングリッド・バーグマン/グレゴリー・ペック/レオ・G・キャロル/ロンダ・フレミング/ジョン・エメリー/ノーマン・ロイド/ビル・グッドウィン ●日本公開:1951/11●配給:ユナイテッド・アーティスツ●最初に観た場所:三鷹オスカー (83-10-22) (評価:★★★☆)●併映:「めまい」「レべッカ」(アルフレッド・ヒッチコック)
マーニー [DVD]
マーニー 1964.jpgマーニー 05.jpg「マーニー(マーニー/赤い恐怖)」●原題:MARNIE●制作年:1964年●制作国:アメリカ●監督・製作:アルフレッド・ヒッチコック●脚本:ジェイ・プレッソン・アレン●撮影:ロバート・バークス●音楽:バーナード・ハーマン●原作:ウィンストン・グレアム「マーニー」●時間:130分●出演:ショーン・コネリー/ティッピー・ヘドレン/マーティン・ガベル/ダイアン・ベイカー/ルイーズ・ラサム/ブルース・ダーン●日本公開:1964/08●配給:ユニバーサル・ピクチャーズ(評価:★★★☆)

《読書MEMO》
●ヒチコックは「間違えられた男」の話が好き...暗殺者の家・三十九夜・弟3逃亡者・断崖・間違えられた男・泥棒成金・北北西に進路を取れ・フレンジー...
●偏執狂的小道具演出法...
・チキン料理(断崖・ロープ・知りすぎていた男)
・眼鏡をかけた女(弟3逃亡者・北北西に進路を取れ・三十九夜・断崖・白い恐怖・知りすぎていた男)
・イニシャル入りライター(見知らぬ乗客)など

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平易な言葉で"モンタージュ"技法などの「感動」させる仕組みを解き明かしている。

映画芸術への招待2.jpg  自転車泥棒.jpg 自転車泥棒b.jpg ランベルト・マジョラーニ(右)
映画芸術への招待 (1975年)』講談社現代新書「自転車泥棒 [DVD]

『自転車泥棒』(1948) 2.jpg ビットリオ・デ・シーカ監督に「自転車泥棒」('48年/伊)という名画があり、世界中の人を感動させたわけですが、実際自分がフィルムセンター(焼失前の)でこの作品を観たときも、上映が終わって映画館から出てくる客がみんな泣いていました。

zitensha.jpg この映画の主人公を演じたランベルト・マジョラーニは、演技においては全くのズブの素人だったとのことで、ではなぜ、そんな素人が演じた映画が名画たりえたかと言うと、それは"モンタージュ"によるものであるとして、著者は、その"モンタージュ"という「魔法」を、この本でわかり易く解説しています(素人の演技が何故世界中の人々を泣かせるのかという導入自体がすでに"モンタージュ"の威力を示しており、効果的なイントロだと言える)。

東京物語.jpg つまり映画とは"断片"から構成されるもので、例えば小津安二郎の映画は、1分間に平均10カットあり、役者は6秒間だけ演技を持続すればよい―、となると、役者の演技力の持続性は求められないわけです。そして、「現実」を映すだけの映画が「芸術」になりうるのは、まさにこのモンタージュにはじまる技法によるもので、本書ではそうした技法の秘密を、具体的に良く知られている内外の作品に触れながら解説しています。

 モンタージュ技法を最初に完成させたと言われるのが「戦艦ポチョムキン」('25年/ソ連)のセルゲイ・エイゼンシュテインですが、日本公開は昭和42年だったものの、作られた年代(大正14年)を考えるとスゴイ作品です。

 「戦艦ポチョムキン」.jpg 「戦艦ポチョムキン [DVD]

『戦艦ポチョムキン』(1925)2.jpg『戦艦ポチョムキン』(1925)1.jpg

イワン雷帝(DVD).jpgイワン2.jpgイワン1.jpg エイゼンシュテインは更に歌舞伎の影響を強く受け、結局「イワン雷帝」(第1部'44年/第2部'46年/ソ連)などはその影響を受け過ぎて歌舞伎っぽくなってしまったとのことですが、確かに、あまりに大時代的で自分の肌に合わなかった...(この映画、ずーっと白黒で、第2部の途中からいきなり極彩色カラーになるのでビックリした。「民衆の支持を得た独裁者」というパラドクサルな主題のため、時の独裁者スターリンによって公開禁止になった作品。第3部は未完)。そのエイゼンシュテインに影響を与えた歌舞伎は、実は人形浄瑠璃の影響を受けているというのが興味深く、まさに「自然は芸術を模倣する」(人が人形の動きを真似する)という言葉の表れかと思います。

 日本映画「白い巨塔」で、田宮二郎演じる主人公が執刀する手術の場面と教授選の場面が交互に出てくるシーンや、「砂の器」で、最後のピアノ演奏会と刑事の逮捕状請求場面と海辺をさすらう主人公の幼年時代がトリプル・ラッシュするのも、モンタージュ技法であると。三四郎.jpg八月の光.jpg更に、詩人である著者は、詩や小説にも同様の技法が用いられていることを示唆していて、フォークナーの『八月の光』と漱石の『三四郎』において、同じようなモンタージュ的表現が使われていることを指摘しています。

 難解になりがちな映像美学に関するテーマを扱いながら、終始平易な言葉で「感動」の仕組みを解き明かしていて、映画鑑賞に新たな視点を提供してくれる本だと思います。

Jitensha dorobô (1948)
Jitensha dorobô (1948).jpg
『自転車泥棒』(1948).jpg自転車泥棒2.jpg「自転車泥棒」●原題:LADRI DI BICICLETTE●制作年:1948年●制作国:イタリア●監督・製作:ビットリオ・デ・シーカ●脚本:チェーザレ・ザヴァッティーニ/オレステ・ビアンコーリ/スーゾ・チェッキ・ダミーコ/アドルフォ・フランチ/ジェラルド・グェリエリ●撮影:カルロ・モンテュオリ●音楽:アレッサンドロ・チコニーニ●原作:ルイジフィルムセンター旧新 .jpg・ バルトリーニ●時間:93分●出演:ランベルト・マジョラーニ/エンツォ・スタヨーラ/ジーノ・サルタメレンダ/リアネッラ・カレル/ヴィットリオ・アントヌッチ/エレナ・アルティエリ●日本京橋フィルムセンター.jpg公開:1950/08●配給:イタリフィルム●最初に観た場所:京橋フィルムセンター(78-11-30) (評価:★★★★)
旧・京橋フィルムセンター(東京国立近代美術館フィルムセンター) 1970年5月オープン、1984(昭和59)年9月3日火災により焼失、1995(平成7)年5月12日リニューアル・オープン。

戦艦ポチョムキン.jpg 「戦艦ポチョムキン」●原題:IVAN THE TERRIBLE IVAN GROZNYI●制作年:1925年)●制作国:ソ連●監督:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン●脚本:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン/ニーナ・アガジャノヴァ・シュトコ●撮影:エドゥアルド・ティッセ●音楽:ニコライ・クリューコフ●時間:66分●出演:アレクサンドル・アントノーフ/グリゴーリ・アレクサンドロフ/ウラジミール・バルスキー/セルゲイ・M・エイゼンシュテイン●日本公開:1967/10●配給:東和=ATG●最初に観た場所:武蔵野推理(78-12-18)●2回目:池袋文芸坐 (79-04-11) (評価:★★★★)●併映(1回目):「兵士トーマス」(スチュアート・クーパー)●併映(2回目):「イワン雷帝」(セルゲイ・エイゼンシュタイン) 「戦艦ポチョムキン [DVD]

イワン4.jpgイワン3.jpg 「イワン雷帝」●原題:IVAN THE TERRIBLE IVAN GROZNYI●制作年:1946年(第1部・1944年)●制作国:ソ連●監督・脚本:セルゲイ・M・エイゼンシュテイン●撮影:アンドレイ・モスクヴィン/エドゥアルド・ティッセ ●音楽:セルゲイ・プロコフィエフ●時間:209分●出演:ニコライ・チェルカーソフ/リュドミラ・ツェリコフスカヤ/セラフィマ・ビルマン/パーヴェル・カドチニコフ/ミハイル・ジャーロフ●日本公開:1948/11●配給:東和●最初に観た場所:池袋文芸坐 (79-04-11) (評価:★★★)●併映:「戦艦ポチョムキン」(セルゲイ・エイゼンシュタイン)

杉山平一2.jpg 杉山 平一(すぎやま へいいち、1914年11月2日 - 2012年5月19日)詩人、 映画評論家。2012年5月19日、肺炎のため死去。97歳。

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芸術の根源は、我々の日常の何気ない動作や感覚と地続きなのだということがわかる。

杉山 平一 『詩のこころ・美のかたち』.jpg           映画芸術への招待.jpg    sugiyama3.jpg 杉山 平一 氏
詩のこころ・美のかたち (講談社現代新書 575)』['80年] 『映画芸術への招待 (1975年)』 講談社現代新書

詩のこころ美のかたち2864.JPG 著者は関西では長老格の現役詩人で、最近も『詩と生きるかたち』 ('06年/編集工房ノア)を出版するなど息の長い活動を続けていますが、『映画芸術への招待』('75年/講談社現代新書)、『映画の文体』('03年/行路社)などの著書もあるように映画評論家でもあり、本書は、そうした幅広い素地を生かした一般向けの "美学"入門書とも言える本であり、人はどういうものに「美」やその喜びを見出すかが、模倣、カタルシス、リズムなど19のキーワードに沿ってわかりやすく書かれています。

 例えば、「デパートの1階に生活必需品を置かないのはなぜか」というような身近なところから「装飾」というものについて考察していたり、さらに、古今東西の作家の作品からの引用もよく知られたものが多く、著者の考察を的確に例証していて、特別な予備知識がなくともスッと入っていける内容です。
 
 それでいて、読んでいて「あっ、なるほど」と気づかされることが多く、また本当に理解しようと思えば、なかなか奥が深いのではないかとも。
 芸術の根源は、我々の日常の何気ない動作や感覚と地続きなのだなあと思いました。
 
《読書MEMO》
●「源氏物語」や「細雪」は、独立した短篇を横につないだ長篇。一方、西洋の長篇は、伏線と伏線がからみ合って構築されていく(7p)
●「朦朧」は日本人が喜ぶ美意識(谷崎潤一郎『陰翳礼賛』)(8p)
●《模倣》...真似とか、模倣による追体験は、感動の表明である(17p)
●志賀直哉の小説『城の崎にて』は"描写の妙"によって面白い(20p)
●《記録》...人間には、日記をつけるとか、記録しようとする本能がある―事実を再現することでの自己の「存在証明」にほかならない(26‐27p)
●《浄化(カタルシス)》...悲劇映画で涙を流す観客にとって、そのとき、悲劇は、キャラメルのように甘くしゃぶられている(36p)
●《舞踏》...「思考は筋肉に従う」(アラン『幸福論』)(50p)
●《リズム》...「あらゆる芸術は、常に音楽の状態にあこがれる」(62p)
●《反復》...子供は、珍しい話よりも同じ話をする方を喜ぶことが多い(64p)→反復を喜ぶ本能は、根源的な芸術感情
●《装飾》...一番無駄なものこそ、心の底で必要なもの(74p)カンディンスキーが感心した絵は、さかさまに置いてあった自分の絵だった。美に酔わせるのは抽象的なものである(78p)
●《遊戯》...カイヨワの「遊びの4原理」(競争・偶然・模倣・めまい)(86p)
●《目的性》...芸術性を重視した小林多喜二の作品が、目的意識だけに傾いた他のプロレタリア作家のものより、今日残った(98p)
●《象徴》...意外な結びつきは面白く、入れ替えられる面白さは尽きない(114-117p)
●《一瞬》...「人生は一行のボオドレエルにも若かない」小さな時間、小さなものの魅力をうち出した芥川(124p) 「或阿呆の一生」の高圧線のスパークの火花を命と換えても欲しいと思う気持ちに通じる

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自死した先駆的美術評論家によるロマン派絵画の独自の分析。

ロマン.jpg 『ロマン派芸術の世界』 講談社現代新書  坂崎乙郎.jpg 坂崎 乙郎 (1927-1985/享年57)

幻想芸術の世界-シュールレアリスムを中心に.jpg夜の画家たち.jpg 美術評論家・坂崎乙郎(1927‐1985)の〈講談社現代新書〉における3冊の著書の1つで、あと2冊は『幻想芸術の世界-シュールレアリスムを中心に』('69年)、『夜の画家たち-表現主義の芸術』('78年)ですが、3冊とも絶版になってしまいました。
 このうち実際には最も初期に書かれ、表現主義を日本の美術ファンに紹介したかたちとなった『夜の画家たち』だけ、〈平凡社ライブラリー〉に移植されています。

ロマン派2863.JPG ロマン主義の画家にどのような人がいたかと調べてみれば、ブレーク、フリードリヒ、ターナー、ジェリコー、そして大御所ドラクロアなどが代表的画家であるようですが、著者はロマン主義の画家に見られる特質を分析し、背景としての「夜」の使われ方や、モチーフとしての「夢」の役割、分裂病質とも言える「狂気」の表れ、デフォルメなどの背後にある「美の計算」などを独自に解き明かしています。
 例えばロマン主義絵画において「馬」は死の象徴として多用されているといった指摘は、紹介されている絵画とともに興味深いものでした(しかしそれにしても、ドラクロアのデッサン力が突出しているのは驚き)。

 ロマン主義絵画とは、著者によれば、上昇する意志と下降する欲望という相反するものを内包していて、例えばゴヤの幻視世界を描いた絵もロマン主義の萌芽と見ることが出来、後の写実主義や印象派絵画にもロマン主義的な要素が引き継がれていることを示しています。
 もともと個人的にはこの画家は何々派という見方をする方ではないのですが(それほど詳しくないから)、絵画の潮流というものが、ある時期ぱっと変わるものではないことがわかります。
 
 日本におけるロマン主義の芸術家として、'70年に自決した三島由紀夫をとりあげているのも興味深く、本書を読んでロマン主義というのが「死」への恐れと「死」への欲求の相克と隣り合わせにあることがわかります(パラパラとめくって図版を見るだけでも陰鬱なムードが伝わってくる)。

 著者は早大教授職にあった'85年に亡くなっていますが、後で自死であったことを知り、著者自身がそうしたものに憑かれていたのかとも思わないわけにはいかず、一方で、『幻想芸術の世界』の冒頭だったと思いますが、著者が家族と遊園地にいった話で始まっていたのをなんとなく思い出しました。

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漱石の作品をメッセージの複数の"宛先"という観点から読み解いていて面白かった。

漱石と三人の読者.jpg  『漱石と三人の読者』 講談社現代新書 〔'04年〕

 著者によれば、漱石はすでに「教科書作家」の1人でしかなく、『こころ』によってかろうじて首の皮一枚残って「国民作家」と見なされているのが現状だそうですが、漱石の小説の中に私たちの「顔」が映っているからこそ、漱石は「国民作家」たりえているのではないかという考えのもとに、漱石の言葉の"宛先"を明らかにしようと試みたのが本書です。

 『吾輩は猫である』を書いた後、大学教授の仕事を振って朝日新聞社専属の新聞小説作家となった漱石は、「顔の見えない読者」、「なんとなく顔の見える読者」、「具体的な何人かの"あの人"」の3種類の読者を想定し、それぞれの読者に対してのメッセージを込めて小説を書いていると著者は言います。

 当時の朝日の知識層を取り込もうとする戦略と合致する読者層は、「都会に住み会社勤めをするホワイトカラー層」で、当時の新聞発行部数から見れば新聞読者というのは「教育ある且尋常なる士人」であったわけですが、漱石の小説を単行本(今の価格で1万円以上した)で買うほどの文人・文学者ではない、そうした新聞読者層(現代のそれよりもハイブローな層)が、漱石にとっては「なんとなく顔の見える読者」にもあたり、また、そうした読者層が、現代の高学歴・ホワイトカラー社会における漱石の読者層に繋がっているのだと。

 一方、漱石にとって具体的に顔が見えている読者とは、『猫』を書いた時に漱石の周辺にいた文人や白樺派の文壇人、本郷東大のエリートたちで、漱石の本を単行本で読む読者であり、顔の見えない読者とは「三四郎」の田舎郷里の世界の人たちのようにおそらく新聞もまず読まない人ということになるようです。

 あくまでも仮説という立場ですが、漱石の主要作品を、こうしたメッセージの複数の"宛先"という観点からわかりやすく読み解いていて、なかなか面白かったです。

test_346.jpg 例えば『三四郎』においても、三四郎の美禰子に対する片思いと、それに対する美禰子の振る舞いの謎という一般的な読み解きに対し、三四郎自身にも見えていない美禰子と野々宮の関係という隠されたテーマが、美禰子と三四郎・野々宮の出会いの場面で読み取れるとしています。

 ただしこれは、東大構内と心字池(三四郎池)の構図がわかっていないと読み取れない(!)という、本郷東大を知る人にしかわからないものとなっているという分析は、個人的には大変スリリングでした(イヤミ臭いともとれるけれど)。
 一応自分も最近再読したときに地図開いて読んでいたけれど、そこまではわかりませんでした。

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埴谷雄高から村上春樹・龍、吉本ばななまで。作品ごとの世界観に触れた文芸評論として読めた。

「死霊」から「キッチン」へ2.jpg「死霊」から「キッチン」へ―9.jpg
「死霊」から「キッチン」へ―日本文学の戦後50年』講談社現代新書 〔'95年〕

 本書は'95年の刊行で、それまで戦後50年の日本文学が何を表現してきたかを、時代区分ごとに、代表的な作家とその作品を1区分大体10人または10作品ぐらいずつ挙げて解説しています。

 埴谷雄高、武田泰淳(「ひかりごけ」)、大岡昇平(「俘虜記」)、三島由紀夫(「金閣寺」)などの「戦後文学者」から始まり、遠藤周作(「沈黙」)ら「第三の新人」などを経て、安部公房(「デンドロカカリア」、「砂の女」ほか)から中上健次(「岬」ほか)までの時代、さらには大庭みな子(「三匹の蟹」ほか)から松浦理英子(「親指Pの修行時代」」)までの女流作家、村上龍(「限りなく透明に近いブルー」、「五分後の世界」)、村上春樹(「羊をめぐる冒険」、「ねじまき鳥のクロニコル」ほか)、吉本ばなな、などの近年の作家までをカバーしています。

 「世界のかたちの与え方」というのが著者の作品解説の視座になっていて、埴谷雄高も安部公房も大江健三郎も、そして村上春樹も、それぞれ別の世界にいるのではなく、同じ世界の上にいながら「世界のかたちの与え方」が時代の流れとともに変ってきているのであり、埴谷、安部、大江らが世界に通じる新しい通路を開いてきたからこそ、現在、村上春樹によって新しい通路を開かれつつある、といった見方が解説基盤になっています。

 大江健三郎に単独で1章を割いていて、大江作品では常に「谷間の村」が基点になっているといった読解や「雨の木(レイン・ツリー)」の発端がどこにあったかという話は、本書を読む上で、大江ファンにはいいアクセントになるのでは(本書では、大江はもう新たな小説を書かないことになっていますが)。

 「雨の木(レイン・ツリー)」が何のメタファーかを論じると同じく、他の作家、例えば、村上春樹の「羊」などについても、メタファーの解題を行うなどしており、戦後から現代にかけての作品を俯瞰するテキストにとどまらず、各作品で描かれていた世界観に触れた文芸評論として読めました。

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比較的楽しく読め、読んで頭に残り、また後で読み返しやすい。

日本語誤用・慣用小辞典2.jpg日本語誤用・慣用小辞典.jpg  国広哲弥(東京大学 <br />
名誉教授).jpg 国広 哲弥 氏(東大名誉教授)
日本語誤用・慣用小辞典』 講談社現代新書 〔'91年〕カバーイラスト:南 伸坊

 新書本で250ページほどの言わば"読む"辞典ですが、項目数を絞った上で1項目あたりの用例解説が充実しているので、類書の中では比較的楽しく読め、読んで頭に残り、また後で読み返しやすいものとなっています。
 
 「浮き上がる」と「浮かび上がる」、「絵に描いた」と「絵に描いたような」の違いなどの、あまり今まで考えたこともないようなものもありましたが、基本的には典型的な誤用例などを拾っていて、そのままクイズの問題にもなりそうなものも多いです。
 ただし、正誤もさることながら、背後にあるニュアンスの違いを重視し、必要に応じて、誤用の原因やどこまで許容されるかといことまで突っ込んで説明しているのが本書の特長でしょうか。

 誤用例として、テレビや雑誌などからも拾っていますが、中には著名な文筆家のもののあり、ちょっと気の毒な部分もありました。
 恥ずかしくない程度の常識は備えておくべきでしょうが、国語学者はどうしても語源や文法に縛られる面もあるので、自分なりの納得度というのも大切にすべきかも。

《読書MEMO》
●一姫二太郎→子供が生まれる順序○
●「おざなり」と「なおざり」
●「食間」に飲む薬○
●濡れ手で泡×→粟○
●逼塞→八方塞で手も足も出ず、世間の片隅にひっそり隠れていること○(多忙×)
●役不足→役目の方が軽すぎる○(力不足×)
●押しも押されぬ×→押しも押されもせぬ○
●体調をこわす×→体調を崩す○
●的を得る→的を射る、当を得る○
●嘘ぶく×→嘯く○
●折込済み×→織込み済み○
●亡き人を忍ぶ×→偲ぶ○ 

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意外性を感じる独自の「黒幕」(=足利義昭)説。興味深くは読めたが...。

NHK「その時歴史が動いた」 本能寺の変 信長暗殺.jpg謎とき 本能寺の変.jpg謎とき本能寺の変.jpg  『謎とき本能寺の変』 講談社現代新書 〔'03年〕
NHK「その時歴史が動いた」 本能寺の変 信長暗殺!~闇に消えた真犯人~「戦国編」 [DVD]

 1582(天正10)年に起きた「本能寺の変」は、日本史最大の謎の1つとされていますが、従来の「光秀怨恨説」(明智光秀が個人的怨恨により単独実行したとする説)に対して、「朝廷関与説」(信長の権勢に危機感を持った朝廷が参画したとする説)がよく聞かれます。しかし本書では、本当の黒幕は、京都からの追放後、毛利氏に身を寄せていた足利義昭ではなかったか、というかなり意外なものです。

 確かに、智将・光秀が何の後ろ盾も将来展望もなくクーデーターに及んだというのは考えにくいのかも知れません。しかし、都を追われ遠く中国地方に居候の身でいた抜け殻のような将軍が、光秀の後ろ盾になるのかどうか疑問を感じます。著者は本書刊行の前年にNHKの「その時歴史が動いた」('02年7月24日放送分)にゲスト出演し、松平定知アナの前ですでにこの「足利義昭黒幕説」という自説を展開していたのですが、あのときの番組の反響はどうだったのでしょうか。

本能寺の変 時代が一変した戦国最大の事変.jpg本能寺の変―時代が一変した戦国最大の事変00_.jpg ('07年7月刊行の学研の新・歴史群像シリーズ『本能寺の変―時代が一変した戦国最大の事変』でも、この「足利義昭黒幕説」は「朝廷関与説」などと並んで3大有力説の1つとしてとりあげられている。)

 本書自体は、冒頭で本能寺の変にまつわる従来の諸説を整理し、また政変から毛利氏と対峙し備中高松城を水攻め中だった秀吉の帰還(中国大返し)、山崎(天王山)の合戦までの流れを、信長や秀吉の政治観などを交えながら(大学教授らしく文献に基づいて)検証的に解説していて、それなりに興味深く読めるものではありました。
 
 全行程200kmをたった5日で移動したという秀吉の「中国大返し」の迅速ぶりなどについても、話が出来すぎているみたいで謎が多いようです。筒井康隆の歴史SFモノに、黒田官兵衛が電話で新幹線の座席を買い占めて、秀吉軍が岡山から「ひかり」で移動するというナンセンス小説(「ヤマザキ」)があったのを思い出しました。

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歴史的反証を多く含み、モンゴル帝国の新たな側面が見えてくる本。

杉山 正明 『モンゴル帝国の興亡 (上・下)』 .jpgモンゴル帝国の興亡.jpg モンゴル帝国の興亡 下.jpg 『モンゴル帝国の興亡〈上〉軍事拡大の時代 モンゴル帝国の興亡〈下〉―世界経営の時代』講談社現代新書 〔96年〕

 上巻「軍事拡大の時代」で、チンギスの台頭(1206年カン即位)から息子オゴタイらによる版図拡大、クビライの奪権(1260年即位)までを、下巻「世界経営の時代」で、クビライの築いた巨大帝国とその陸海にわたる諸システムの構築ぶりと、その後帝国が解体に至る(1388年クビライ王朝滅亡)までを、従来史観に対する反証的考察を多く提示しつつ辿る、密度の濃い新書です。

 拡大期、(ドイツ会戦「ワールシュタットの戦い」は実際にあったか疑わしいとしているものの)遠くハンガリやポーランドに侵攻し、またバクダッド入りしてアッバース朝を滅ぼすなど、その勢いはまさに「世界征服」という感じですが、皇帝が急逝すると帝位争奪のために帰国撤退し、それで対峙していた国はたまたま救われるというのが、歴史に影響を及ぼす偶然性を示していて(そのために一国が滅んだり生き延びたりする...)何とも言えません。
クビライ
クビライ.jpg クビライの時代には帝国は、教科書によく出てくる「元国及び四汁(カン)国」という形になっていたわけですが、本書では一貫して「国」と呼ばず、遊牧民共同体から来た「ウルス」という表現を用いており、また、ウルス間の対立過程において、それらの興亡や版図が極めて流動的であったことを詳細に示しています。

 チンギスの名を知らない人は少ないと思いますが、クビライ(Qubilai, 1215‐1294)がやはり帝国中興の祖として帝国の興隆に最も寄与した人物ということになるのでしょう。
 人工都市「大都」(北京)を築き、運河を開削し海運を発達させ、経済大国を築いた―伝来の宗教的寛容のため多くの人種が混在する中、これら事業に貢献したのは、ムスリムや漢人だったり、イラン系やアラブ系の海商だったりするわけで、2度の元寇で日本が戦った相手も高麗人や南宋人だったのです。

 "野蛮"なモンゴル人による単一民族支配という強権帝国のイメージに対し、拡大期においてすら無駄な殺戮を避ける宥和策をとり、ましてモンゴル人同士での殺戮など最も忌み嫌うところであったというのは、そうした既成の一般的イメージを覆すものではないでしょうか。
 安定期には自由貿易の重商主義政策をとり、そのために能力主義・実力主義の人材戦略をとり、多くの外国人を登用したという事実など、帝国の新たな側面が見えてくる本です。

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オスマン帝国が超大国になりえた理由、衰亡した原因を独自に考察。

オスマン帝国―イスラム世界の「柔らかい専制」.jpgオスマン帝国.jpgオスマン帝国』 講談社現代新書 鈴木董.jpg 鈴木董(すずき・ただし)氏 (東大東洋文化研究所教授)

 学校教育の世界史の中でもマイナーな位置づけにある「オスマン帝国」は、イスラム帝国につきまとう「コーランか剣か」という征服者的イメージに、近年の過激な原理主義のイメージが重なり、ネガティブ・イメージさえ持たれているかもしれません。しかし本書を読むと、内陸アジアの遊牧民に始祖を持つトルコ民族が築いたこの国が、宗教的に寛容な多民族国家であり、多様な人材を登用するシステムを持った「柔らかい」支配構造であったがゆえに超大国たりえたことが、よくわかります。
スレイマニモスク
モスク.jpg オスマン帝国と言えばスレイマン大帝(スレイマン1世)ですが、1453年にビザンツ(東ローマ)の千年帝都コンスタンティノープルを無傷のまま陥落させたメフメット2世というのも、軍才だけでなく、多言語を操り西洋文化に関心を示した才人で、宗教を超えた能力主義の人材登用と開放経済で世界帝国への道を拓いた人だったのだなあと。

 そして16世紀のスレイマン時代に、エジプト支配、ハンガリー撃破、ウィーン包囲と続き(やはり戦いには強かった)、3大陸に跨る帝国の最盛期を迎えますが、古代ローマ帝国に比する地中海制海権を握ったことも見逃せません。

 本書後半は、スレイマンが帝国の組織やシステムの整備をどのように行ったが、政治・行政・司法・財政・外交・軍事・教育など様々な観点から述べられており、特に、羊飼いから大臣になった人物がいたり、小姓から官僚になったりするコースがあったり、また、そうした人材登用のベースにある「開かれた大学制度」などは興味深いものでした(次第に富裕層しか行けないものになってしまうところが、今日の「格差社会」論に通じるところがあります)。

 1571年のレパント海戦に敗れて帝国は衰退の道を辿りますが、一般には「魚は頭から腐る」というトルコの諺を引いて、権力者や官僚の堕落と腐敗が衰亡の原因とされているところを、著者はまた違った見方を示しているのが興味深いです。

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独自視点でヨーロッパ史中心の世界史を批判した原子物理学者の著書。

新しい世界史の見方4.jpg新しい世界史の見方-ユーラシア文化の視点から2.jpg  謝 世輝.jpg謝世輝 氏(元東海大学文明史教授)
新しい世界史の見方 (講談社現代新書)』『新版 新しい世界史の見方―ユーラシア文明の視点から

 本書ではヨーロッパ史中心の世界史を批判し、ユーラシア史こそ世界史の中心であるとしています。
 その証拠に四大文明はすべてユーラシア大陸に起源を持ち、その後も騎馬民族文化、インド文明、中国文明、イスラム文明の4つが世界文明をリードしてきたのであって、"ユーラシアの片田舎に過ぎない"ヨーロッパを世界史の中心に据えるのは偏向であると。
 そして、インド、中国、イスラムの文明の特質とそれらの豊かさ、高度さを検証し、文明史区分の見直しをしています。

 インド数学における零の発見、中国での木版印刷や火薬の発明、イスラム文明における天文学や医学の先駆性などの技術面だけでなく、イスラムの道徳、インドの悟性、中国の思考法など、その人間観・世界観における優越性にも言及し、
それらにはかなりの説得力を感じました。

世界史の新しい読み方.jpg 著者はもともと原子物理学者で、以後、科学技術史から文明史、世界史などに研究対象を広げ、さらにその後は、成功哲学の啓蒙書を多く著述・翻訳しています。
 著者の近著にはスピリチュアリズムの色合いが強いものが多いのですが、'70年代に出版された本書は、既成の文明史観に対する斬新な批判と優れた示唆に富むものであり(ほぼ同じ主張内容で文庫化されている著書もある)、現在でも一読の価値があると思います。

30ポイントで理解する世界史の新しい読み方―脱「ヨーロッパ中心史観」で考えよう(PHP文庫)』('03年)

《読書MEMO》
●中国文化の特徴→決定的な宗教が無いため現実主義/四大文明で唯一、再生を繰り返す(漢民族は不死鳥)(32p)
●ウパニシャッド哲学...宇宙の根源ブラフマンと人間の本体アートマンの合一(梵我一如)(85p)
●零の発見とインド数字(→アラビア)(89p)
●11世紀トレドに集まるイスラム天文学者→ポルトガルへ(113p)

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わかりやすいが、入門書として良いかどうかは別問題。

「タオ=道」の思想.jpg
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「タオ=道」の思想』講談社現代新書〔'02年〕孔子・老子・釈迦「三聖会談」.jpg 諸橋轍次『孔子・老子・釈迦「三聖会談」』('82年/講談社学術文庫)

 『「タオ=道」の思想』は、中国文学者による「老子」の入門書で、その思想をわかりやすく紹介し、終章には「老子」の思想の影響を受けた、司馬遷や陶淵明ら中国史上の人物の紹介があります。

 「和光同塵」
 「功遂げ身退くは、天の道なり」
 「無用の用」
 「天網恢恢、疎にして漏らさず」
 などの多くの名句が丁寧に解説されていて、
 「大器は晩成す」
 という句が一般に用いられている意味ではなく、完成するような器は真の大器ではなく、ほとんど完成することがないからこそ大器なのだとする解釈などは、興味深かったです。

 但し、「もし今日、老子がなお生きていたならば、いつもこの地球上のどこかでくり返し戦争を起こし、どこまで行きつくか知れない自然環境の破壊に手を貸している人智の愚かしさに、彼はいきどおっているにちがいない」という記述のように、著者の主観に引きつけて筆が走っている部分が多々見られます。
 「老子」が"老子"という人物1人で成ったものでないことは明らかだし、その"老子"という人物すら、実在したかどうか疑わしいというのが通説であるはずですが...。

 漢字学者・諸橋轍次(1883-1982/享年99)の『孔子・老子・釈迦「三聖会談」』('82年/講談社学術文庫)などもそうでしたが、文学系の人の「老子」本には、同じような「人格化」傾向が(諸橋氏の場合はわざとだが)見られます。
 『孔子・老子・釈迦「三聖会談」』は、聖人らの三者鼎談という架空のスタイルを用いることにより、例えば老子の説く「無」と釈迦の説く「空」はどう異なるのかといった比較検討がなされていて、そうした解説にもいきなりではなく落語の枕のようなものを経て入っていくため親しみ易く、入門書としてはそう悪くもないのかも知れませんが、「学術文庫」に入っているというのはどんなものでしょうか(見かけ上"学術"っぽく見える部分も多々あるから紛らわしい)。
 
加島祥造 タオ―老子.jpg 英米文学者・加島祥造氏(1923-2015/享年92)の『タオ―老子』('00年/筑摩書房)における「老子」の名訳(超"意訳"?)ぐらいに突き抜けてしまえばいいのかも知れませんが(「加島本」の"抽象"を自分はまだ理解できるレベルにないのですが)、本書も含め入門書として良いかというと別問題で、入門段階では「中国思想」の専門家の著作も読んでおいた方がいいかも知れません。

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ユリゲラーは"下手な奇術師"?人がいかに騙されやすいかがわかる。

松田 道弘 『超能力のトリック』.jpg  ユリ・ゲラー.jpgユリ・ゲラーHarryHoudini1899.jpg Houdini Columbo Goes to the Guillotine.jpg
超能力のトリック』講談社現代新書〔'85年〕「新・刑事コロンボ/汚れた超能力」

 本書はタイトルの通り、テレパシーや透視、予知能力、念力など世間で超能力ではないか言われているもののトリックを、マジック研究家の立場から次々と解き明かしていくものです。ですから本書自体は「超心理学」そのものについての本ではありませんが、宮城音弥『超能力の世界』〈'85年/岩波新書〉にも紹介されていた〈マージェリー〉という有名な女性霊媒師のトリックを、フーディーニ(Harry Houdini)という奇術師が暴いていく過程などは結構スリリングでした(図説が詳しく、宮城氏のものよりわかりやすい)。あのユリゲラー(懐かしい?)については、スプーン曲げから透視や念力まで、フーディーニならぬ著者自身がその"稚拙な"トリックを解き明かしています。

 本書で知ったのですが、ユリゲラーはイカサマがばれて母国イスラエルを追放になった後に米国に渡ってマスコミデビューし成功、スタンフォード研究所の調査もパスしたけれども、後であれはおかしいのではという話になり、それで更に日本に活動の場を移したということだったそうな(その後、訳のわからないシングル版レコードを出したりもしたが、ミステリー作家になって成功し、エルビス・プレスリーの旧邸宅を購入している!)。普通レベルの奇術師なら簡単にできるところを、"下手な奇術師"ユリゲラーが下手にやればやるほど人々が信じてしまうという逆説が面白い。  

汚れた超能力3.jpg「汚れた超能力」3.jpg そう言えば、「刑事コロンボ」が新シリーズで11年ぶりに再開した際の第1弾(通算では第46話)が「汚れた超能力」(「超魔術への招待」)というもので「汚れた超能力」.jpg、これに出てくる「超能力」とは、被験者が地図所上で任意に示した場所に行き、そこで見たものを「超能力者」が念視して書写するというものであり、これは、ユリゲラーの名を一躍世界に知らしめたスタンフォード大学での超能力テストをそのまま再現したものだそうです(このシリーズの作品には全て"モデル"がいるという触れ込みだった)。 Columbo: Columbo goes to the Guillotine (1989)

 トリックは判ってしまえばチープで、新シリーズの第1弾としては物足りなく、その割にはコロンボが、謎解きに際してかなり危険を伴う賭けをしているのが気になりましたが、「トリックが単純であればあるほど騙され易い」という本書にあるセオリーには適っていたかも(監督のレオ・ペンは俳優ショーン・ペンの父親)。 

 本書では「超能力」についての正統的説明も一応はされていますが、むしろ「超能力と言われるもの」についての本と言った方が適切で、マジシャンの"企業秘密"が勿体ぶらずおおっぴらに書かれていて、気軽に楽しく読めます。しかし一方で、昔も今も人というものがいかに騙されやすいかを思い知らされ、怖さも感じます。こんな"稚拙"なトリックにひっかかって怪しげな宗教に入る人もいるわけで...。

ガダラの豚.jpg 因みに中島らもの『ガダラの豚』('93年/実業之日本社)という日本推理作家協会賞を受賞した小説には、本書を参照したと思われる部分が多々あり、実際その本の巻末の「参考文献」欄にも本書の名がありましたが〈この小説にはフーディーニのような人物が登場する〉、そうした"ネタ"が詰まった本とも言えます。

超魔術への招待.jpg「新・刑事コロンボ(第46話)/汚れた超能力」 (「刑事コロンボ'90/超魔術への招待」)●原題:COLUMBO: COLUMBO GOES TO THE GUILLOTINE●制作年:1989年●制作国:アメリカ●監督:レオ・ペン●製作:スタンリー・カリス/ジョン・A・マルティネリ/リチャード・アラン・シモンズ/ピーター・V・ウェア●脚本:ウィリアム・リード・ウッドフィールド●撮影:ロバート・シーマン●音楽:ジョン・カカヴァス●時間:93分●出演:ピーター・フォーク/アンソニー・アンドリュース/カレン・オースティン/ジェームズ・グリーン/アラン・ファッジ/ダナ・アンダーセン/ロバート・コンスタンツォ/アンソニー・ザーブ●日本放映:1993/05 (NTV)●最初に観た場所:自宅(VHS)(91-09-04)(評価:★★★)

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この線でいくと、星占いでも何でも心理学になり得るのではないかと...。

トランスパーソナル心理学入門―人生のメッセージを聴く (講談社現代新書).jpgトランスパーソナル心理学入門.jpgトランスパーソナル心理学入門―人生のメッセージを聴く』講談社現代新書 〔'99年〕

 本書によれば、〈トランスパーソナル心理学〉とは"個を越えたつながり"を志向する心理学で、行動主義・科学主義心理学や精神分析への批判から、第3の流れとして登場したマズローやロジャーズらの〈人間性心理学〉の、そのまた発展プロセスの中で生まれた"第4の勢力"としています。

 マズローらの〈人間性心理学〉が「自己実現」を目指すとすれば、それさえもエゴイズムやナルシズムから新たな心の呪縛に陥るという矛盾を孕むもので、〈トランスパーソナル心理学〉では、その呪縛を解き放つために、「私の癒し」と「世界の癒し」「地球の癒し」を不可分とした"個を越えたつながり"を志向することで自分に起こる全ての出来事に意味を見出し "個が生きるつながり"を回復するとしています。

 カウンセリングでの応用においては個人の〈超心理学〉的体験も重視しますが、むしろ考え方としては〈超心理学〉のレベルをも超えてスピリチュアリティを重視した心理学で、こうした考えに惹かれる人もいれば、新手の宗教のように思えて引いてしまう人もいるかも知れないと思います。

 自分も(将来的には考え方が変わるかも知れないけれど、今のところ)後者の方で、実際、本書で紹介されているケン・ウィルバーには、 『宗教と科学の統合』という著作もあるし、自らの想像力が貧困なのかも知れませんが、この線でいくと、本書巻末にもその名のある「鏡リュウジ」じゃないけれど、星占いでも何でも心理学になり得るのではないかと(ウィルバーには、『ウィルバー・メッセージ 奇跡の起こし方』という著書もある)。

 著者の諸富氏は、日本トランスパーソナル学会の会長であるとともにカウンセリングの専門家であり、〈フォーカシング〉などの技法を生かした心理療法の記述は参考になりましたが、確かに〈フォーカシング〉を〈トランスパーソナル心理学〉の応用的手法と捉えることが出来るかもしれませんが、「世界の癒し」「地球の癒し」となると、心理学の「了解」範囲を超えているような気がします。

 こうした心理学の流れががあるということは知っておいて無駄ではないと思いますが、本書は新書という手軽さはあるものの、諸富氏自身も本書の内容を「私の色に染まったトランスパーソナル心理学」と自ら述べているように、ウィルバーの思想の人生論的解釈と、プラグマティカルな心理療法に重点が置かれ、どの部分が心理「学」なのかよくわからない本でした。

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喫煙者にとってのタバコの心理的効用を多角的に検討している。

タバコ―愛煙・嫌煙.jpg  『タバコ―愛煙・嫌煙』 講談社現代新書 〔'83年〕  cigar.jpg

タバコ2865.JPG 本書出版の頃には既にタバコの健康に与える害は強調され、嫌煙運動は広まりつつありましたが、敢えて著者は、ストレス解消や作業能率向上などの、喫煙者にとってのタバコの効用を検討することも必要ではないかとし、タバコが人間の心理や行動に及ぼす影響を多面的に分析・考察しています。

 反応時間テストで、喫煙者がタバコを吸うと心理的緊張力が高まり、非喫煙者を上回る好成績を上げるそうですが、喫煙者と非喫煙者は同一人物ではないので、この辺りに実験そのものの難しさがあることも、著者は素直に認めています(それでも、タバコが長期記憶を良くするが短期記憶には影響がないといった実験結果は興味深い)。

 一方でタバコには心理的緊張力を解く効果もありますが、深層心理を表面化させ、詩人や作家の創造活動に繋がるケースがあるのではないかという考察は面白いです(フロイトは、医師に禁煙を命じられていた間は「知的関心が大幅に減少した」とボヤいていた)。

 コロンブスが米大陸から持ち帰ったタバコは、流布されて長い期間「薬」とされていたなどという歴史から、喫煙習慣と性格の相関、女性の場合は女子大の学生の方が共学よりも喫煙率が高いなど、性格・社会・文化心理学な観点まで、とりあげている範囲は広く、ニコチンの生理学的な影響やガンと喫煙の相関についてもしっかり言及しています(1日に吸う本数もさることながら、"吸い方"の影響が大きいことがわかる)。

 読み物としても楽しいですが(喫煙者ならば妙に安心できる?)、マスメディアが「タバコ=悪」という単一論調である今日において、「分煙」という現実的方法を探る際に一読してみるのもいいのでは。

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異常を通して人間心理の不思議に迫る。記憶喪失の症例が印象的だった。

異常の心理学 旧.jpg異常の心理学.jpg  相場均.jpg 相場 均 (1924‐1976)
異常の心理学』〔'69年〕

 本書では、魔女狩りから説き起こし現代の精神医学に至るまで異常心理の歴史とでも言うべきもの述べたうえで、群集心理、催眠現象、記憶喪失、知覚のゆがみ、異常性格などさまざま事象・症例をあげて考察し、人の心の中に潜む異常性を浮き彫りにしています。

うその心理学.jpg 前著『うその心理学』('65年/講談社現代新書)に続いての心理学全般にわたる入門書としても読めますが、病理学から社会心理学までやや間口を広げすぎた印象もあります。しかしながら、間口が拡がった分、誰にでも読みやすいものとなっており、意図的に前著との差別化を図ったのではないかと推察します。両方読んで損はないと思いました。

 個人的に印象に残ったのは、ある記憶喪失の症例で、患者の青年が催眠療法で記憶を取り戻す過程で自分の家は富豪だったと思い出したように言ったが、実は貧農だったという話。著者は記憶喪失を「精神の自殺」と表現していますが、この青年は過去の記憶を何重にも封印したことになります。こうした現象が起きる原理を精神力動論的には分かり易く解説していますが、理屈でわかっても、実際どうしてそうなるかは、やはりまだ不思議な気がするというのが正直なところです(だからこそ、こうした本を読むのが面白いのかもしれないが)。 

            
相場均 孤独の考察.jpg体格と性格―体質の問題および気質の学説によせる研究.jpgクレッチマー.jpg 著者の相場均は、『孤独の考察』('73年/平凡社)などの名著がある心理学者で、エルンスト・クレッチメル(クレッチマー)『体格と性格』('78年/文光堂)の訳者でもあります。

ダヴィート・カッツの肥満型・細長型の合成写真-クレッチマー『体格と性格』(相場均訳)より

 たまたま生前の著者に大学での授業を通して接する機会がありました(クレッチマーの『体格と性格』がテキストだったので、いやおうなしに購入したが、読んでみたら面白かった)。講義の中で、連続殺人犯・大久保清の精神鑑定を依頼されたけれども、「死刑になることがほぼ確実な人物の鑑定はやりにくい」として断ったと話していました。

石原慎太郎 裕次郎.jpg 学生の前で、石原慎太郎・裕次郎兄弟の性格の違いを分析してみせたりもしていました。慎太郎氏がやたら瞬き(正確には"しばたき")することが多いのは、作家特有の神経症的気質からきていると...。素質的に豪放磊落な弟に比べると、実は兄貴の方はずっと神経質で防衛機制が強く働くタイプであると言っていましたが、当たっている?

 また、自分の母親が最近亡くなったことを振り返り、「ボケて死ぬのが一番幸せかもしれない」とおしゃっていましたが、その数ヵ月後、大学の夏休み中に急逝されました。まだ50代前半の若さだったのが惜しまれます。                     

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第一人者による「論理療法」の考え方の実生活での応用。

『〈自己発見〉の心理学』.JPG〈自己発見〉の心理学.jpg  〈自己発見〉の心理学2.jpg 『「自己発見」の心理学』 講談社現代新書 〔'91年〕

 人は「ねばらなぬ」の思い込み(ビリーフ)に縛られており、その非合理性に気づき、そこから自己を開放することの大切さを、「論理療法」の第一人者である著者が、自らの人生観や経験を交えわかりやすく述べています。

 社会、学習、家庭、職業の4つの生活局面から、「人を拒否すべきではない」「暗記式の勉強はすべきでない」「配偶者はやさしくなければならない」「いばるべきではない」といった普段何となく正しいと信じられている考え方(ビリーフ)を4つずつ16個挙げ、それらに反駁していく過程は、こなれた文章により理解しやすく、そのまま「論理療法」の考え方(技法)の応用を示すものにもなっています。

 「家庭は憩いの港たるべきである」と考えるのではなく「...にこしたことはない」とか、「第二の職場である」と考える方が事実に即している―。
 ナルホドと、以下、自分なりに考えてみました。

 会社で仕事でしんどい思いをして、やっと終わってホッとして、これで家に帰ってくつろげると思ったら、家に帰ってもやること(やらされること?)がいっぱいあってイライラする...。つまりこれは、家に帰ってみたらそこでもやるべきことがあったという事実A(Activatin event)に対して、イライラするという結果C(Consequence)が生じているのですが、この結果を招いているのは 「家庭は憩いの港たるべきである」という思い込みB(Beliefe)であると。
 この思い込みがそもそも誤りではないかという反駁D(Dispute)を自分自身に対して行い、最初から「家にも仕事がある」と思っていれば、会社での仕事が終わっても、「ああ、これで今日の仕事の8割が終わった。家に帰って、あと2割、"家の仕事"をやらなくちゃ」という前向きな考えになる効果E(Effect)が得られるということか。
 
《読書MEMO》
●目標達成志向の人生観とプロセス主義の人生観(今ここを大事にする)(62p)
●家庭は憩いの港である→にこしたことはないが第二の職場であると考える(119p)
●職場で女性がお茶汲み→男性が女性に母親を期待することを許容する文化(144p)
●おとなになってからも自力で大人の小学校教育を自分に施す(163p)
●「認められたいと願うのは自分の利益優先ゆえ、生き方として高級ではないと思う人がいる。地の塩としての生き方の方が高級だというわけである。
 このような考え方には検討の余地がある。
 この人生は自分のために用意されたものではない。したがって世人は私に奉仕するために存在しているのではない。それゆえ、自分のことは自分でするというのが、この人生を生きるための常識である。
 人は私を認めるために生きているのではない。人に認めてほしければ、自分で人に認めてもらうよう何かをすることである。自力で自分を幸福にする。そのことにひけめや恥かしさや自責の念を持つ必要はない。自分がまず幸福にならないと、人を幸福にするのはむつかしいからである」(188‐189p)
●会社は私を認めるべきだ、認められない人間はダメだ→人を不満に陥れる(192p)

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