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嬰児殺や心中も虐待死として捉え、虐待死の全容を分析し予防策を提案している。

虐待死x3j.jpg虐待死1.jpg    児童虐待 現場からの提言.gif
虐待死 なぜ起きるのか,どう防ぐか (岩波新書)』['19年]『児童虐待―現場からの提言』['06年/岩波新書]

 2000年に児童虐待防止法が施行され、行政の虐待対応が本格化したものの、それ以降も、虐待で子どもの命が奪われる事件は後を絶たない状況が続いています。長年、児童相談所で虐待問題に取り組んできた著者が、多くの実例を検証し、様々な態様、発生の要因を考察、変容する家族や社会のあり様に着目し、問題の克服へ向けて具体的に提言したものが本書であるとのことで、『児童虐待―現場からの提言』('06年/岩波新書)の"その後"編とも言える本でした。

 執筆のスタンスの特徴としては、一つは、未来ある子どもの死が私たちの心を激しく揺さぶるからこそ、努めて冷静な筆致を保つようにしたこと、一つは、多くの人に読んでもらえるよう平易な表現に努めたこと、そしてもう一つは、各事例について具体的で詳細な内容を知ることは不可欠だが、個人を特定する必要ないとしたこととのことです。このあたりは、新聞・週刊誌系の出版社から刊行される同じテーマを扱った本とはやや異なるかも(岩波新書らしい?)・ただし、最後の「個人を特定しない」ことについては、「社会的に広く認知された事例とそうでもない事例があることから」地名や発生年の記述の具体性にはむらが出たとのことです。

 第1章で、虐待死の実態を検証しつつ、「虐待死の区分仮説」を示していますが、その特徴としては、まず「心中」を虐待死に含めていることにあり、虐待死を「心中以外」と「心中」に分け、さらに「心中以外」の中に、従来の「身体的虐待」と「ネグレクト」のほかに「嬰児殺」という分類項目を設けていることにあります。そして、以下章ごとに、「暴行死」「ネグレクト死」「嬰児殺」「親子心中」の順で解説し、最終章で、虐待死を防ぐためにどうすればよいかを提言してます。

代理ミュンヒハウゼン症候群.jpg 第2章は「暴行死」を扱い、ここでは、「体罰」とい目黒区5歳女児虐待死事件.jpg野田市小4女児虐待事件.jpgうものが、かつては「しつけ」と「虐待」の中間に位置するグレーなものであったのが、2019年の改正児童虐待防止法により、「しつけ」のための「体罰」が禁止されたため、「虐待」とイコールになったことを解説しています。冒頭に事例として、2010年に江戸川区で起きた、小学1年生の男児が継父の暴行を受けて死亡した事件を取り上げていますが、2018年の「目黒区5歳女児虐待死事件」、2019年の「野田市小4女児虐待事件」も取り上げられています。また、ステップファミリーの問題のほか、産後うつや、代理代理ミュンヒハウゼン症候群についても((南部さおり『代理ミュンヒハウゼン症候群』('10年/アスキー新書)などを引いて)解説されています。

「目黒区5歳女児虐待死事件」(2018年)
「野田市小4女児虐待事件」(2019年)

大阪二児置き去り死事件1.jpgルポ 虐待2.jpg 第3章では「ネグレクト」を扱い、ここでは冒頭に2010年発生の「大阪市二児餓死事件」を取り上げ(杉山春『ルポ 虐待―大阪二児置き去り死事件』('13年/ちくま新書)などを引いて)、児童相談所のが「立入調査」に加えて「隣県・捜索」ができるよう制度改正されても、まだまだ残る壁があることを示しています。その一つが、居所不明児童の問題であり、また、ネグレクトの背景には、貧困や居住空間の分離などさまざまな要因があることを事例やデータから示しています。

「大阪市二児餓死事件」(2013年)

慈恵病院こうのとりのゆりかご.jpg 第4章では「嬰児殺」を扱っており、もともと日本には戦国時代から江戸時代、さらには明治時代にかけて風習として"間引き"があったとして嬰児殺の歴史的ルーツを探るとともに、赤ちゃんポストとして知られる慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」が参考にしたドイツの内密出産法を紹介するなどしています。

慈恵病院「こうのとりのゆりかご」

 第5章では「親子心中」を扱っており、「心中」を虐待死に含めていることが本書の特徴の1つであるわけですが、0歳児が多い「心中以外」の虐待死に比べ「心中」による虐待死は被害児の年齢別割合にバラつきがあるなど、その特徴を分析するとともに、かつて親子心中が美化されていた時代があったことを指摘しています。また、「実母」が単独加害者であることが全体の4分の3近くを占めるとともに、「実母」が単独加害者の場合は「母子」心中が98%だが、「実父」が単独加害者の場合は、「父子心中」が52%、「父母子心中」が43%になるとことをデータ化から示しています(要するに、父親が加害者の場合は、 "一家心中"にばることが多いということになる)。

 最終章の第6章で、これら虐待死を防ぐにはどうすればよいkを総括していますが、著者は、これまで紹介してきた法整備や児相におけるマニュアル作りは今後も進めていかなければならないが、それだけでは虐待死は未然に防げるものではなく、学校や児童相談所の関係者自身が、子どもたちが「どこか変」と感じ取る感性を磨くことが大切であるとし、また、具体的な手段としては、ジェノグラム(相互の関係性まで示した簡易な家系図)の活用を提案しています。また、ソーシャルワーカーという仕事の重要性も説いています。

 立場的には児童相談所の側から書かれていますが、虐待死の問題の難しさを見つめながらも、これまでの経験をどう活かすかという前向きな姿勢が見られます。前著『児童虐待―現場からの提言』と併せて読まれることをお勧めします。

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裁判官の仕事やその舞台裏を分かり易く綴りながら、重いテーマにも触れている好エッセイ。

裁判の非情と人情_1.png裁判の非情と人情.jpg 授賞式での原田國男氏.jpg
裁判の非情と人情 (岩波新書)』['17年]第65回「日本エッセイスト・クラブ賞」贈呈式での原田國男氏(2017.6.26)[岩波新書編集部の公式witterより]

 2017(平成29)年・第65回「日本エッセイスト・クラブ賞」受賞作。

 元東京高裁判事が、裁判員制度、冤罪、死刑などをめぐり、裁判官の知られざる仕事と胸のうちを綴ったもので、岩波書店の月刊誌「世界」の2013年10月号から2017年の1月号まで連載された「裁判官の余白録」をまとめたものです。裁判官の仕事や裁判の舞台裏を、分かり易く時にユーモアも交えて綴っている好エッセイで、文章も名文ですが、中身も硬軟ほどよく採り入れて(仕事では固い文章ばかり書いてきたはずだが)、楽しく読めるとともに、考えさせられるものでした。

 そして何よりも著者の人間性が伝わってきます。今は退官して弁護士になっているとは言え、裁判官って(特に高等審の刑事裁判官って)、そうした個性のようなものをあまり表に出さないイメージがあったため、意外でした。それにしても、著者は、藤沢周平の全集を何度も読み返しているとのことで、読書家だなあと(やはり読書家であることは名文家であることの必要条件か)。裁判官が書いた本などの紹介もありました(裁判官の中にもスゴイ"趣味人"がいたりするのだなあ)。

フライド・グリーン・トマト vhs 2.jpg 映画の話も結構出てきました。「フライド・グリーン・トマト」('91年/米)で白人の差別主義者が殺害された時に現場にいた牧師が、公判で真犯人を庇って偽証する前、証言台に立って宣誓した時、手元に置いてあったのは聖書ではなく、『白鯨』だったのかあ。個人的にはそんな細部のことは忘れてしまったけれど、やはりプロにとっては印象に残ったのだろうなあ。

 中盤以降になればなるほど次第に重いテーマが多くなり、死刑執行起案の経験談もあって、自分が関わった死刑囚の死刑が執行されたことを報道で知った時の気持ちなども書かれています(著者は、死刑は、心情的には殺人(殺害行為)である思うと述べている)。

 また、一般の人と裁判官の考え方の違いについても指摘しています。例えば、裁判官は白か黒かの判断を求められている思われがちであるが、「灰色か黒か」の判断が求められているというのが正しいようです。無罪になった人からすれば、裁判官が完全無罪(無実)を認定してくれないことに不満を持つかもしれないが、それは裁判官の仕事ではないとのことです。

 その流れで、裁判員制度における裁判員の考え方の傾向と現実との開きについても指摘しています。刑事裁判一筋でやってきた著者は、有罪率99%といわれる日本の刑事裁判で、20件以上の無罪判決を言い渡した稀有な裁判官ですが、もし裁判員が、真っ白でなければ有罪だと思っているのなら、無罪はほとんど無くなってしまうと言っています。裁判官自身、無罪判決のすべてを100%無罪だと思って判決を出しているわけではなく、「灰色」は無罪になるということなのでしょう。

 また、量刑相場がどのように形成されるか、裁判員制度の導入で、それまで外部から見てブラックボックスだった量刑問題について、裁判員に対する説明責任が生じていること、実際、裁判員が下した判断が控訴審で量刑相場の観点から変更される事案が起きていることから、その問題の難しさを指摘しています。

 この他にも、冤罪はどう予防すれば良いのか、日米で裁判官と社会の距離はどう違うか、裁判官の良心とは何か、裁判所に対する世の中の批判が喧しい中、裁判所に希望はあるか、といった深いテーマに触れています。

 ラストにいくほどテーマが重くなりますが、あとがきの最後に、「個人的には『寅さんを何度でも観返している裁判官がいる限り、この国の法曹界を信じたい』と思っている」と書いていて、ちょっとほっとさせられました。

《読書MEMO》
●毎日新聞読書欄の「この3冊」で著者が"裁き"と文学をテーマに挙げた藤沢周平の3冊...『海鳴り』『玄鳥』『蝉しぐれ』(17p)
●黒木亮『法服の王国』(岩波現代文庫)⇒かなりのフィクションも含まれるが、最高裁判所を中心とした戦後の司法の大きな流れ(それも暗部)はほぼ正確に摑んでいる。(46p)
●小坂井敏晶『人が人を裁くということ』(岩波新書)―事実認定の難しさ(103p)
●裁判官が書いた本―最近では、大竹たかし『裁判官の書架』(白水社)がいい
毎日新聞読書欄「この3冊」
・鬼塚賢太郎『偽囚記』(1979年/矯正協会)
・岡村治信『青春の柩―生と死の航跡』(1979年/光人社)
・ゆたか はじめ『汽車ポッポ判事の鉄道と戦争』(2015年/弦書房)

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労働社会の現況問題を俯瞰し、今後の方向性を考えるうえではよく纏まっている。

雇用身分社会 岩波新書89.png雇用身分社会 岩波新書_1.jpg雇用身分社会 岩波新書.jpg
雇用身分社会 (岩波新書)

 著者によれば、「過労死」という言葉が急速に広まったのは1980年代末であるが、2005年頃からは「格差社会」という言葉も使われるようになったとのことです。日本ではここ30年ほど、経済界も政府も「雇用形態の多様化」を進めてきたが、90年代に入ると、女性ばかりでなく男性のパート社員化も進み、その過程でアルバイト、派遣、契約社員も大幅に増え、労働者の大多数が正社員・正職員であった時代は終わったとのことです。そして、あたかも企業内の雇用の階層構造を社会全体に押し広げたかのように、働く人々が総合職正社員、一般職正社員、限定正社員、嘱託社員、パート・アルバイト、派遣労働者のいずれかの身分に引き裂かれた「雇用身分社会」が出現したとしています。

 本書では、こうした現代日本の労働社会の深部の変化から生じた「雇用身分社会」を取り上げ、どういう経済的、政治的、歴史的事情が多様な雇用身分に引き裂かれた社会をもたらしたのかを明らかにするとともに、どうすればまともな働き方が再建できるのかを考察しています。

 第1章「戦前の雇用身分制度」では、明治末期から昭和初期の紡績工場や製糸工場における女工の雇用関係や長時間労働を概観し、今日の「ブラック企業」の原型が、多くの過労死・過労自殺を生んだ戦前の暗黒工場にあることを指摘しています。言い換えれば、今日の日本では、戦前の酷い働かせ方が気づかないうちに息を吹き返してきているということです。

 第2章「派遣で戦前の働き方が復活」では、戦後における労働者供給事業の復活を、1980年代半ば以降の雇用の規制緩和と重ねて振り返り、労働者派遣制度の解禁と自由化によって、戦前の女工身分のようなまともな雇用とはいえない雇用身分が復活したとしています。つまり、雇用関係が間接的である点で、今日の派遣労働はかつての女工たちに近い存在であるということです。

 第3章「パートは差別された雇用の代名詞」では、1960年代前後まで遡って、パートタイム労働者は、性別・雇用形態に差別された雇用身分として誕生したとし、今日ではそのパートの間で過重労働と貧困が広がっているとしています。パートタイム労働者は、雇用調整の容易な低賃金労働者であるにもかかわらず、基幹労働力の有力な部隊として以前にもましてハードワークを強いられるようになっているとともに、パートでしか働けないシングルマザーの貧困化が深刻な問題になっているとしています。

 第4章「正社員の誕生と消滅」では、長時間労働と不可分の正社員という身分が一般的になったのは1980年前後であるとし、やがて過労死が社会問題化し、さらに、社員の多様化による一般職・限定正社員の低賃金化、総合職正社員のいっそうの長時間労働化、そして今日「正社員の消滅」が語られるようになるまでの過程を追っています。

 第5章「雇用身分社会と格差・貧困」では、格差社会は雇用身分社会から生まれたという観点から、ワーキングプアの増加を問題にし、労働者階級の階層分解が低所得層の拡大と貧困化を招いており、特に若年層に低賃金労働者が占める割合が著しく高まってきたこと、それと対比して株主資本主義の隆盛で潤う大企業の経営者と株主にも焦点を当て、近年の株主資本主義の台頭は、企業はコスト削減による利潤の増大を求め、その結果リストラや賃金の切り下げや、労働時間の延長などを促す傾向がある一方で、企業の内部留保は増大し、株主配当や役員報酬は増えていることなどを指摘しています。

 第6章「政府は貧困の改善を怠った」では、雇用形態の多様化は雇用の非正規化と身分化を通して所得分布を階層化したことを確認し、官製ワーキングプアの創出や生活保護の切り下げなどにみる政府の責任を追及しています。政府の雇用・労働分野の規制緩和政策の立案にあたっては、経済界の利益が優先されたとし、その結果、近年の日本の相対的貧困率は高まる一方だとしています。

 終章「まともな働き方の実現に向けて」では、雇用身分社会から抜け出す鍵として、(1)労働者派遣制度の見直し、(2)非正規労働者率の引き下げ、(3)規制緩和との決別、(4)最低賃金の引き上げ、(5)八時間労働制の確立、(6)性別賃金格差の解消を掲げています。

 著者は30年ほど日本の労働社会の変化を追いかけてきた専門家です。こうした問題については、結論の導き方(意図的に意見を差し控えているような箇所もあった)や提言の部分については読者それぞれに意見はあろうかと思われますが、日本の労働社会の現況問題を俯瞰し、今後のあるべき方向性を考えるうえでは総体的によく纏まっているテキストとして読めるように思いました。それにしても何となく気が重くなる...。

 「雇用身分社会」の「身分」という言葉は、労働基準法では「使用者は、労働者の国籍、信条又は社会的身分を理由として、賃金、労働時間その他の労働条件について、差別的取扱をしてはならない」(第3条)と定められていますが、判例法理では、「身分」とは「生来のもの、自らの力では変えられないものを指すとされているため、非正規社員が正社員と賃金が異なるのは、「身分」による差別にはならないとなっています。なぜならば、自分の力で正社員になれる可能性があるからです。

 本書では、法的な意味ではなく「社会における人々の地位や職業の序列」という意味でこの「身分」という言葉を用いていますが、先の判例法理のイメージからすると、いよいよ、個人の力ではどうしようもなくなってきているのかなあと思った次第です。

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ヒットメーカーによる自伝的歌謡曲史。楽しく、懐かしく読めた1冊。

愛すべき名歌たち.jpg 阿久悠1.jpg 
愛すべき名歌たち (岩波新書)』阿久 悠 作詞の初ヒット曲「白い蝶のサンバ」(1970、森山加代子)

 『愛すべき名歌たち』('99年/岩波新書)は、作詞家・阿久悠(あく・ゆう)(1937-2007/享年70)が、1997年4月から1999年4月にかけて「朝日新聞」夕刊芸能面に通算100回連載したコラムの新書化で、『書き下ろし歌謡曲』('97年/岩波新書)に続く著者2冊目の岩波新書です。

 サブタイトルに「私的昭和歌曲史」とあるように、高峰三枝子の「湖畔の宿」から始まって美空ひばりの「川の流れのように」まで全100曲を選び、自分史に重ねる形で、それぞれぞれの時代に流行った歌謡曲やそれに纏わる思い出が書き綴られており、半ば自伝とも言える体裁。当然のことながら、後半はヒットメーカーとして知られた著者自身が作詞家として関わった曲が多く取り上げられています(Wikipediaで取り上げている曲の一覧を見ることが出来る)。

 それらの時代区分としては、以下の通りとなっています。
  Ⅰ 〈戦後〉という時代の手ざわり(1940~1954)(幼年時代;高校まで)
  Ⅱ 都会の響きと匂い(1955~1964)(大学時代;広告の世界で)
  Ⅲ 時代の変化を感じながら(1964~1971)(放送作家時代;遅れてきた作詞家)
  Ⅳ 競いあうソングたち(1971~1975)(フリー作家の時代;新感覚をめざして)
  Ⅴ 時代に贈る歌(1976~1989)(歌の黄金時代)

 非常に読み易く、文章をよく練っている印象。個人的には第Ⅰ章の自伝色が強い部分と、やはり第Ⅱ章の最初の広告業界に入った頃の話が特に興味深く読めました。

 著者が就職活動をしたのは1958(昭和33)年で不況の折でしたが、当時はテレビ番組の「月光仮面」が驚異的な視聴率でブームを巻き起こしていて、その仕掛け人である広告会社が就職先の選択肢となり得たとのこと。但し、本書には書かれていませんが、この番組は当初スポンサーが付かず、広告会社(宣弘社)が自らプロダクションを興して制作にあたった番組でした(著者は結局、この会社=宣弘社にコピーライターとして7年間務めることになる)。

森山加代子 .jpg白い蝶のサンバ.jpg 作詞家に転じてからの著者は、最初の作品「朝まで待てない」を出して以来、3年間結果が残せていなかったとのことで、初の本格ヒットがが生まれたのは、本書の第Ⅲ章も終わり近い1970(昭和45)年の「白い蝶のサンバ」でした森山加代子はこの曲でNHK紅白歌合戦に8年ぶりの出場を果たす)。個人的にもちょうど歌番組など観るようになった頃で、懐かしい曲でありました(早口言葉みたな感じの歌として流行ったけれど、著者が言うように、今みるとそんなに早口というわけでもない)。
  
 本書は、作詞家・阿久悠の「自分史」を軸とした歌謡曲史でしたが、一方、同じく岩波新書の高譲(こう・まもる)『歌謡曲―時代を彩った歌たち』('11年/岩波新書)の方は、客観的な「ディスコグラフィ(Discography)」としての歌謡曲史でした。この中で、目次をの'節'のタイトルに「阿久悠の時代」というのがあり、目次で個人名が出てくるは著者だけでした。こうしたことからも、やはり、歌謡曲史に大きな足跡を残した人物と言えるのでしょう。楽しく、また懐かしく読めた1冊でした。

歌謡曲 岩波新書.jpg 『歌謡曲―時代を彩った歌たち』の方は、版元の紹介文によれば―、
 「ディスコグラフィ(Discography)」という言葉があります.日本では「アーティストの作品目録」として理解されることの多い言葉ですが、本来の意味からするとむしろ、その楽曲は、だれが、どのように作り出したのか、どう歌われているのかを客観的に考察する、学術的な分野を指します。著者の高護さんは、知る人ぞ知る、歌謡曲では唯一無二のディスコグラファーです。その該博な知識と確かな分析で、歌謡曲の魅力をあますところなく解説します
 ―とのことです。
歌謡曲――時代を彩った歌たち (岩波新書)

 歌謡曲とは何かということについてはいろいろ議論はあるかと思われますが、この本ではそうした"概論"乃至"総論"的な話はせず、いきなり歌謡曲史に入っており、各1章ずつ割いている60年代、70年代、80年代が本書の中核を成しています。ものすごく網羅的ですが、一方で、一世を風靡した、或いは時代を画した歌手や歌曲には複数ページを割いて解説するど、メリハリが効いています。読んでいくと、グループサウンズ、例えば「タイガース」などは、専らソロ歌手としての沢田研二に絞って取り上げていたりし、ジャニーズ系も「たのきんトリオ」以降グループとしては全然触れられておらず、後の方に出てくる「おニャン子クラブ」などもソロになった新田恵利だけが取り上げられています。この続きが書かれるとしたら、「AKB48」などは入ってこないのかなあ。ザ・ピーナッツ(伊藤エミ(1941-2012)、伊藤ユミ(1941-2016))とかは当然取り上げているわけで、和製ポップスは取り上げ、J-ポップは取り上げないというわけでもないでしょうが(J-ポップが登場したのが'88年頃なので、殆ど本書の対象期間とずれていて何とも言えない)。ニューミュージックも取り上げていますが、そもそもどこからどこまでがニューミュージックなのか分かりませんけれど(森進一が歌いレコード大賞曲となった「襟裳岬」は吉田拓郎の曲だった)。あまり考えすぎると楽しめないのかもしれず、本書が歌謡曲とは何かという議論を避けているのは、ある意味賢い選択であったかも。
ザ・ピーナッツ(活動期間:1959-1975)「恋のバカンス」(1975年 さようならピーナッツ)

 歌手に限らず、作詞家、作曲家、編曲家まで取り上げており、確かに阿久悠の存在は大きいけれど、その前にも 岩谷時子(作詞)・いずみたく(作曲)といった強力なコンビがいて「夜明けのうた」('64年/歌:岸洋子)、「太陽のあいつ」('67年/歌:ジャニーズ)、「恋の季節」('68年/歌:ピンキーとキラーズ)等々、数多くのヒットを生んでいるし(2人とも歌謡曲が"本業"でも"専業"でもなかったという点が興味深い)、五木ひろしの芸名の名付親だった「よこはま・たそがれ」('71年)の山口山口洋子.jpg洋子(1937-2014)なども平尾昌晃(1937-2017))と最強タッグを組んでいたし(山口洋子は同じ作詞家で直木賞受賞作家でもあるなかにし礼よりも15年前に直木賞を受賞している)、作曲家では「ブルー・ライト・ヨコハマ」('69年/歌:いしだあゆみ)以来、この本の終わり、つまり80年代終わりまでこの世界のトップに君臨し続け、70年代、80年代を席巻した筒美京平なんてスゴイ人もいました(因みに、阿久悠作詞、筒美京平作曲で最初で最大のヒット曲は日本レコード大賞の大賞受賞曲「また逢う日まで」('71年/歌:尾崎紀世彦(1943-2012))。これもまた、懐かしい思いで読めた1冊でした。

《読書MEMO》
●『歌謡曲―時代を彩った歌たち』章立て
序 章
戦前・戦後の歌謡曲
第1章 和製ポップスへの道―1960年代  
1960年代概説
1 新たなシーンの幕開け
2 カヴァーからのはじまり
3 青春という新機軸
4 ビート革命とアレンジ革命
5 新しい演歌の夜明け 
第2章 歌謡曲黄金時代―1970年代  
1970年代概説
1 歌謡曲の王道
2 アイドル・ポップスの誕生
3 豊饒なる演歌の世界
4 阿久悠の時代 
第3章 変貌進化する歌謡曲―1980年代  
1980年代概説
1 シティ・ポップスの確立
2 演歌~AOR歌謡の潮流
3 アイドルの時代 
終 章 90年代の萌芽―ダンス・ビート歌謡

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自動車の社会的費用の内部化の道を探り、あるべき都市交通の姿を示唆。なかなか色褪せない本。

自動車の社会的費用 (1974年) (岩波新書)_.jpg 自動車の社会的費用 (岩波新書)_.jpg   宇沢弘文.jpg    宇沢弘文のメッセージ.jpg
自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47)』宇沢 弘文(1928-2014)『宇沢弘文のメッセージ (集英社新書)

 1974(昭和49)年・第28回「毎日出版文化賞」(人文・社会部門)受賞作。

 昨年['14年]9月に亡くなった宇沢弘文(1928-2-2014/享年86)の一般向け著書で、先に取り上げた宇野弘蔵(1897-1977/享年79)とは一世代ずれますが、この人も宇野弘蔵と同様、生前はノーベル経済学賞の有力候補として度々名前が挙げられていた人です。

 本書は、混雑や事故、環境汚染など自動車がもたらす外部不経済を、社会的費用として内部化する方法を試みたものです。社会的費用とは、受益者負担の原則が貫かれていないために社会全体が被っている損失のことですが、そのコストを明確にし自動車利用者に負担させようというのが外部費用の内部化であり、本書では、自動車の社会的費用を具体的に算出し、その内部化の道を探ることを通して、あるべき都市交通の姿をも示唆しています(そうした意味では社会学的要素も含んでいる)。

 著者は、自動車のもたらす社会的費用は、具体的には交通事故、犯罪、公害、環境破壊などの形で現われるが、何れも健康や安全歩行などという市民の基本的権利を侵害し、しかも人々に「不可逆的な損失」を与えるものが多いとし、一方、このように大きな社会的費用の発生に対して、自動車の便益を享受する人々はごく僅かしかその費用を負担しておらず、逆に言えば、自動車の普及は、自動車利用者がこのような社会的費用を負担しないでも済んだからこそはじめて可能になったとも言えるとしています。

 ここで著者が問題にするのは、「不可逆的な損失」という概念であり、損失が可逆的であるならば、元に戻すのに必要な費用を計算すれば社会的費用を見積もることが出来るが、その損失が不可逆的である場合、一体どれだけの費用が妥当とされるのかということです。交通事故による死傷の被害額を算出する方法にホフマン方式があますが、人間を労働を提供して報酬を得る生産要素とみなして、交通事故によってどれだけその資本としての価値が減少したかを算定するというのは、被害者側の立場に立てば、これほどヒトとして許せない算出方法もないだろうともしています(仮に純粋にこの方式に拠るとすれば、所得を得る能力を現在も将来も持たないと推定される人が交通事故に遭って死亡した場合、その被害額はゼロと評価されることになる)。

 よって著者は、自動車の社会的費用を算出する際に、交通事故に伴う損失をホフマン方式のような方法を用いるのは適切ではないとし、同様のことは,環境破壊についても言えるとしています。具体的には、公共投資などにおいて社会的便益と社会的費用の差を指標とするコスト・ベネフィット分析について、たとえどのように大きな社会的費用を発生したとしても、社会的便益がそれを大きく上回れば望ましい公共投資として採択されることになってしまい、結果として、実質的所得配分はさらにいっそう不平等化するという結果をもたらすとしています。

 なぜ「実質的所得配分はさらにいっそう不平等化する」のかと言うと、低所得者層ほど環境破壊などの影響を深刻に受けるからであり、例えば、公害が発生した場合、高所得者層はその土地から離れることができても低所得者層にそのような選択をする余裕はなく、また、ホフマン方式が示ように低所得者が被る損害は少額にしかなり得ず、更には、人命・健康、自然環境の破壊は不可逆的な現象であって、ここで考えられているような社会的費用の概念をもってしては元々計測することができないものであるとしていています。

 しかしながら、これまで不適切な社会的費用の計算方法がまかり通ってきたのは、社会的費用の計算根拠を新古典派経済理論に求めてきたことに原因があるとしています。新古典派経済理論の問題点は、1つは、生産手段の私有制が基本的な前提条件となっていて、共有される社会的資本に対する思慮が欠落しているという問題と、もう1つは、人間を単に労働を提供する生産要素として捉えるという面が強調され、社会的・文化的・歴史的な存在であるという面が捨象されていることだとし、新古典派経済理論は、都市問題や環境問題など現代社会においてもっとも深刻な社会的・経済的問題を引き起こしている現象を解明するための理論的フレームワークを提供していないとしています。

 では、どうすればよいのか。自動車について著者は、自動車を所有し運転する人々は、他の人々の市民的権利を侵害しないような構造をもつ道路について運転を許されるべきであって、そのような構造に道路を変えるための費用と自動車の公害防止装置のための費用とを負担することが、社会的な公正性と安定性という観点から要請されてくるとしています。つまりは、自動車の通行を市民的権利を侵害しないように行うとすれば、道路の建設・維持にどれだけの追加的な費用を必要とし、自動車の無公害化のためにどれだけの投資をしなければならないかということを計算するべきであり、市民的権利を金銭換算して評価関数に組み込むのではなく、市民的権利を守ることを制約条件とするとの考えに基づいて、自動車の社会的費用を算出する必要があるとのことです。

 そのうえで著者が試算した自動車の社会的費用(投資基準)は1台あたり200万円で、当時の運輸省の試算額7万円と大きく異なっており、これこそまさに著者の言う、社会的費用の発生に対して、自動車の便益を享受する人々はごく僅かしかその費用を負担していないという実態であり、その数字の差は、人の死や環境破壊など不可逆的な市民的権利の侵害を認めるか認めないかの違いであるということになります。

 著者はこうした投資基準は自動車通行のための道路だけでなく、一般に社会的共通資本の建設にも適用することが出来るとし、このような基準に基づき公共投資を広範な用途に、例えば代替的な公共交通機関や道路に配分するとき、社会的な観点から望ましい配分をもたらすものとなり、この基準を適用することで、どのような地域に住む人々も、またどのような所得階層に属する人々も、社会的な合意をえて決定された市民の基本的権利を侵害されることがなく、他人の基本的権利を侵害するような行動は社会的に許されないという原則が貫かれ、すべての経済活動に対してその社会的費用は内部化され、福祉経済社会への転換が可能となり、ヒトにとって住みやすい、安定的な社会を実現することが出来るとしています。

 今でこそ、外部費用の内部化と言う論点は自動車のみならず環境問題などでもよく見られる議論であり、特に東日本大震災以降、「原発」の社会的費用の議論が活発化したように思われ、「大佛次郎論壇賞」を受賞した大島堅一氏の『原発のコスト―エネルギー転換への視点』('11年/岩波新書)などもその1つでしょう(この本によれば、原発の事故リスクコストやバックエンドコストは計り知れないほどの金額となるという)。しかしながら、本書が早くからこうした観点を提起していたのは評価すべきだと思います(しかも、分かり易く)。

2015東京モーターショーX.jpg 但し、自動車の問題に立ち返っても、著者が提起した問題はなんら解消されたわけではなく、実はこれ書いている今日から東京モーターショーが始まるのですが、自動車メーカーの開発課題が、スピードやスタイリングからエコへ、更に自動&安全運転へ向かっているのは当然の流れかも。
 一方で、先だってフォルクスワーゲン(VW)の排出ガス不正問題が発覚したとの報道があったり、また、つい先日は宮崎市で、認知症と思われる高齢者による自動車死亡事故があったばかりなのですが(歩道を暴走した軽乗用車にはねられ2人が死亡、4人が重軽傷。最近、この種の事故が急に多くなった)。

 それらの意味でも本書は、(幸か不幸か)なかなか色褪せることのない本と言えるかもしれません。

 尚、宇沢弘文の"人と思想"については、没後ほぼ1年となる今年['15年]9月、大塚信一・岩波書店元社長による『宇沢弘文のメッセージ』(集英社新書)が刊行されています。『自動車の社会的費用』は宇沢弘文の初めての単著であるとともに、大塚氏にとっても最初に編集した宇沢弘文の著作であったとのことで、『自動車の社会的費用』が書かれた際の経緯などが紹介されていて興味深いですが、宇沢の方から初対面の挨拶が終わるや否や大塚氏に「ぼくに『自動車の社会的費用』というタイトルで新書を書かせてくれませんか」と言ってきたとのことです。

宇沢弘文のメッセージ obi.png 『宇沢弘文のメッセージ』では、宇沢が数学から経済学に転じアメリカで活躍するようになった頃から『自動車の社会的費用』を著すまで、更に、近代経済学を再検討して日本という《「豊かな国」の貧しさ》を課題視し、「成田」問題(三里塚闘争)、地球温暖化問題、教育問題へとそのフィールドを移していく過程を通して、彼の社会的共通資本という思想を解説していますが、宇沢の人柄を伝えるエピソードが数多く含まれていて「人」という部分では興味深い一方、著者の専門外ということもあって「思想」という部分ではやや弱いかも。但し、著者はまえがきで、「宇沢の場合、その人柄と学問は一体化したもので、両者は切り離すことはできない」としており、その点は読んでいてなるほどと思わせるものがあり、また、宇沢弘文の偉大さを伝えるものにもなっているように思いました。

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マルクスの愛の生涯、その情熱と幸福、悲惨と絶望を手紙や回想録から浮彫りに。

人間マルクス.JPG  マルクス&ジェニー.jpg KarlMarx_Tomb.jpg  マルクス・エンゲルス小伝.jpg フリードリヒ・エンゲルス.jpg
マルクス&ジェニー/マルクスの墓(ロンドン/ハイゲイト墓地) 『マルクス・エンゲルス小伝 (岩波新書 青版 543)』/フリードリヒ・エンゲルス
人間マルクス その愛の生涯 (岩波新書)

 本書は、カール・マルクス(1818-1883/享年64)の生涯をフランスのジャーナリストが追ったものです。サブタイトルに「その愛の生涯」とあり、また、本書の原題も"La vie amoureuse de Karl Marx"イェニー・マルクス.jpgであるように、カール・マルクスの愛情生活を徹底的に追ったものとなっており、マルクスが4歳年上の妻ジェニー(イェニー)をいかに愛し続けたか、その情熱と幸福、悲惨と絶望を、夫人や娘たちとの手紙や友人・知己の多くの回想録等をもとに炙り出しています。また、そうすることによって、マルクスの人間性そのものを浮き彫りにし、それが彼の膨大な仕事にどのように反映されたか推し量る貴重な資料にもなっています。
ジェニー(イェニー)・マルクス

 マルクスは、ベルリン大学卒業後、ケルンの「ライン新聞」の編集長になって政治・経済問題の論文に健筆を奮いますが、急進的な論調のためプロイセン政府の検閲に遭って新聞は発禁処分になり、それが原因で1849年にパリに追放され、ブリュッセルでの生活を経てロンドンに居住し、後半生をその地で過ごすことになります。このことは、生涯のかなりの部分を亡命者として過ごしたことなるとともに、本書を読むと、常に貧困と隣り合わせだったことが窺えます。ロンドンでの彼の運動と著作は、その後の世界の社会主義運動に大きな影響を与えることになりますが、生きていた間は、その名前すら一般の人には殆ど知られていなかったようです。

Marx+Family_and_Engels.jpg ジェシーとの間に生まれた2男4女のうち、成人を迎えることができたのは長女ジェニー(妻と同じ名)・次女ラウラ・四女エリナの3人だけで、あとは病気などで亡くなっており、家計が苦しく医者に診せる費用さえ十分に捻出し得なかったことも子ども達の早逝の一因として考えられるというのはかなり悲惨です(このほか更に、出生死の子が1人いた)。また、そうした苦境を乗り越えてきたからこそ、それだけ二人の愛は強まったとも言えるかと思います。

マルクスと妻ジェニー、次女ラウラ、四女エリナ、エンゲルス。

 一方で、マルクス家に献身的に仕え、マルクス夫婦と同じ墓地に埋葬されているマルクス家の女中ヘレーネ・デムート(マルクスの家のやり繰りが苦しい時は無償で働いた)が生んだ私生児フレディの父親が、実はマルクスであったということも、本書には既にはっきり記されています(本書の原著刊行は1970年。1989年に発見されたヘレーネ・デムートの友人のエンゲルス家の女中の手紙から、ヘレーネの息子の父親がマルクスであることが確実視されるようになった)。

イェニー・マルクス.png マルクスの妻ジェニー(イェニー)は夫の不義に悩みながらもそれを許したようですが、封印されたこの一家の秘密は、その後家族に多くの抑圧を残します(この辺りは、フランソワーズ・ジルー著『イェニー・マルクス―「悪魔」を愛した女』('95年/新評論)に詳しい)。そして妻ジェニーは1881年の年末に亡くなり、悲しみに暮れるマルクスに、更にその1年後に長女ジェニーが亡くなるという悲劇が襲い、その2か月後にはマルクスも息を引き取ります。月並みな解釈ですが、やはり、マルクスにとって、妻と娘たちが生きるエネルギーの源泉だったということでしょうか(因みに、マルクス逝去の時点で存命していた2人の娘のうち、マルクスと「告白」遊びをしたりした次女ラウラは1911年に夫と共に自殺、四女エリナは1898年に恋人と無理心中して自分だけ亡くなっているが、これについては偽装殺人の疑いがもたれている)。
イェニー・マルクス―「悪魔」を愛した女

 本書によれば、マルクスは、ロンドン時代も夜となく昼となく読み、且つ書いて、膨大な著作を生み出したものの、それらは殆ど金にならず彼は絶望したとのこと、現実にそれは何年も家庭に「貧困」が腰を据えるという形で妻や子度たちの苦しめたため、彼はイギリスの鉄道会社に書記として就職しようとしたとのこと、但し、非常な悪筆のため採用を断られたとのことです(何度も彼の原稿の清書をした妻ジェニーは、マルクスの字をハエの足跡のようと言っている)。これは1862年頃の話ということで、『資本論』の第1巻が世に出るのはその5年後ですから、もし生活のために鉄道会社に勤めていたら(もしマルクスが達筆だったなら)『資本論』の方はどうなっていたでしょうか。

大内兵衛.jpg この他に、マルクスの生涯をその「仕事」よりに辿ったものに、大内兵衛(1888-1980)による『マルクス・エンゲルス小伝』('64年/岩波新書)があり、『ドイツ・イデオロギー』『哲学の貧困』『共産党宣言』『経済学批判』そして『資本論』といった著作がどのような経緯で成立したのかが、マルクスの思想形成の流れやその折々の時代背景と併せて解説されています。多少エッセイ風と言うか、著者は、「これは勉強して書いた本ではない。一老人の茶話である」とはしがきで述べていますが、「茶話」としてこれだけ書いてしまうのはやはり大家の成せる技でしょうか。

 前半3分の2がマルクス伝であるのに対し、後半3分の1はフリードリヒ・エンゲルス(1820-1895/享年74)の小伝となっています。個人的に印象に残ったのはマルクスの死後まもなくエンゲルスが旧友に送った手紙で、その中でエンゲルスは、「僕は一生の間いつも第二ヴァイオリンばかり弾いていた。これならば相手上手といったところまでやれたように思う。が、何といっても、マルクスエンゲルス.jpgという第一ヴァイオリンが上手であったのですっかり有頂天になっていた。これからはこの学説を代表して僕が第一ヴァイオリンを弾かねばならぬのだ。よほど用心をしないと世間の物笑いになるかもしれない」と書いており、並々ならぬ決意と覚悟が窺えます。『共産党宣言』はマルクスとエンゲルスの共作であるし、エンゲルスはマルクスの『資本論』執筆に際しても多くの示唆を与え続けていたとのこと、そのマルクスが亡くなった時点で『資本論』は第1巻しか刊行されておらず、『資本論』の第2巻と第3巻は、マルクスとエンゲルスの共著とも言え、『資本論』が完結を見たのはエンゲルスの功績が大きいようです。
フリードリヒ・エンゲルス(1820-1895/享年74)

マルクスとエンゲルスの銅像.jpg エンゲルスは実業家でもあり、マルクスのロンドン時代に彼はマンチェスターでエルメン・エンエルス商会の番頭として「金儲け」をし(本人の本当の関心は勉学にあったようだが)、その産物の一部をマルクスに捧げることでマルクスとその家族の生活を支える一方、自らも仕事の傍ら勉強に力を入れたとのこと、また、堂々とした体躯と奥深い知識と智慧で「将軍」などと呼ばれたりもしていたようですが(実際、軍事分野における造詣が深く、この分野の著作もあった)、ユーモアと社交性に富み、非常に魅力的な人物像であったようです。大内兵衛は本書で何度か、マルクス=エンゲルスの関係を「管鮑の交わり」と表現しています。
東ドイツ時代に建てられたマルクスとエンゲルスの銅像(ドイツ・ベルリン)

《読書MEMO》
●「告白」(ラウラからマルクスへの問いとマルクスの回答)(『人間マルクス』より)
最も高く評価する特質 ...... 一般には素朴、男性では力、女性では弱さ
性格の特徴 ...... 一貫した目的を追うこと
幸福とは ...... 闘うこと
不幸とは ...... 服従すること
最も赦しがちな欠点 ...... 軽信
最も嫌悪する欠点 ...... 奴隷根性
毛嫌いするもの ...... マーティン・タッパー ( 当時のイギリスの詩人 )
好きな仕事 ...... 古本屋あさり (あるいは本食い虫になること )
好きな詩人 ...... シェイクスピア、アイスキュロス、ゲーテ
好きな散文作家 ...... ディドロ
好きな英雄 ...... スパルタクス、ケプラー
好きなヒロイン ...... グレートヒェン ( ゲーテ『ファウスト』のヒロイン )
好きな花 ...... 月桂樹(laurel ... Laura=ラウラ)
好きな色 ...... 赤
好きな名 ...... ラウラ=ジェニー
好きな料理(Dish) ...... 魚(Fish)
好きな格言 ...... 人間に関することは何一つ私に無縁ではない(テレンティウス(ローマの劇作家)
好きな標語 ...... すべてを疑え

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この問題に対する著者の真摯な姿勢が感じられる。「労側」の弁護士が書いた本との捉え方は意味をなさない。

過労自殺 第二版.jpg過労自殺 第二版 (岩波新書)』  過労自殺 .jpg過労自殺 (岩波新書)』 

 同著者の1998年刊行の『過労自殺』の16年ぶりの全面改訂版であり、第1章では事例をすべて書き換え、著者が直接裁判などを担当して調査を行った資料を中心に、過労自殺の実態を具体的に示しています。
 それらの事例と、続く第2章の統計から、20代や30代の若者や女性たちの間にも、仕事による過労・ストレスが原因と思われる自殺が拡大していることがわかり、そのことはたいへん危惧すべきことであるように思いました。また、旧版『過労自殺』にもそうした事例はありましたが、パワハラが絡んでいるものが少なからずあるということと、こうした事件がよく名前の知られた大企業またはその系列会社で起きているということも非常に気になりました。

 第2章では、新しい統計・研究を組み込んで、過労自殺の特徴・原因・背景・歴史を考察しています。旧版『過労自殺』によれば、1995~1997年度の過労自殺の労災申請は、それぞれ10件、11件、22件で、それに対し労災認定件数は各0件、1件、2件しかなかったとありました(有名な「電通事件」裁判も、労災申請を認めなかった労基署の判断が退けられたという形をとっている)。
 それが、本書によれば、2007~2012年度の間では毎年度63~93件の自殺労災認定があったとのこと。しかし、これは厚労省労働基準局統計による数字であって、警察庁・内閣府統計では、2007~2012年の間「勤務問題」が原因・動機の自殺が毎年2,500件前後あったとなっており、著者が過労自殺の被災者は実質的には年間2,000人以上になるとしているのは、必ずしも大袈裟とは言えないように思いました。

 第3章では、そうした実態も踏まえ、過労自殺と労災補償の関係を整理し、具体的にQ&A式で説明しています。基本的には労働者や被災者とその家族向けに書かれていますが、企業の人事労務担当者が基礎知識として知っておくべきことも含まれています。

 第4章では、今年成立した過労死等防止対策推進法(略称・過労死防止法)などの情勢の進展を踏まえ、過労自殺をなくすにはどうすればよいかについて、職場に時間的なゆとりを持たせることや、精神的なゆとりを持たせることなど、いくつかの観点から提言を行っています。個人的には、「義理を欠くことの大切さ」を説いているのが興味深かったです(版元のウェブサイトの自著の紹介でも、著者は、女優の小雪さんが語りかける「風邪?のど痛い?明日休めないんでしょ?」というCMを見て、風邪気味でのどが痛くとも、熱っぽい状態であっても、仕事を休まずに出勤することを前提にしていることに違和感を感じたとしている)。

 過労自殺はあってはならないというこの問題に対する著者の真摯な姿勢が感じられるとともに、この問題は企業と働く側の双方で(それと社会とで)解決していかなければならない問題であるとの思いを改めて抱きました(本書では、元トリンプ・インターナショナル・ジャパン社長の吉越浩一郎氏の『「残業ゼロ」の仕事力』(2007年/日本能率協会マネジメントセンター)や株式会社ワークライフバランス社長の小室淑恵氏の『6時に帰る チーム術』(2008年/日本能率協会マネジメントセンター)などの著書からの肯定的な引用もある)。
 ともすると、「労(働者)側」の弁護士が書いた本だと捉えられがちですが、著者は実際には企業のコンプライアンス委員会などにも関与しており、過労自殺を予防するといった観点からは、「労(働者)側」「使(用者)側」という見方はあまり意味を成さないのかもしれません。
 人事労務担当者としては押さえておきたい1冊です。

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厳しい現況を概観するうえではよく纏まっている。企業側にも反省が求められるか。

森岡 孝二 『就職とは何か―〈まともな働き方〉の条件』.JPG就職とは何か 森岡孝二.jpg               森岡孝二氏.jpg 森岡孝二氏
就職とは何か―〈まともな働き方〉の条件 (岩波新書)』 

 学生の就職を巡る本は、ハウツー本が多く(所謂「就活本」)、なぜこうした厳しい就職環境になったのか、就職後にどのような状況が学生を待ち受けているかについて書かれた本は少なく、本書は、その空白を埋める試みであるとのこと。

 著者は『働きすぎ時代』('05年/岩波新書)、『貧困化するホワイトカラー』('09年/ちくま新書)などの著書がある労働経済学者であり、本書は主にこれから就職しようとする学生に向けて書かれたものですが、採用する側からみても、いろいろ考えさせられる面があったように思います。

 第1章「就職氷河期から新氷河期へ」では、大学生の就活スケジュールと内定までのおよその流れを説明するとともに、近年の内定率の悪化と長期的な採用減の実態を示し、大学のキャリア支援や就活ビジネスの動向を含む最近の就職事情を概観しています。
 労働経済学者らしく、本書全体を通して図表を多用し、統計データで議論の裏付けをしていますが、「失業率」と「就職 内定率」の算出方法、並びに、それぞれの実情との乖離などは、採用関係者にとっては既知のことであっても、それ以外の人にとっては、初めて知る事実かもしれません。

 第2章「就活ビジネスとルールなき新卒採用」では、就活ビジネスやインターンシップに言及するとともに、日本独特の定期採用制度の特徴を考察し、就職協定の発足から廃止に至る変遷を追いつつ、就活の早期化・長期化が学生・大学・企業にもたらす弊害と、その見直しの論議を行っています。
 人事部所属であっても採用業務を行ったことのない人や、採用の現場を離れて久しい人には、かつて自分が学生時代に就職活動したり、採用担当をしていたりした際の採用スケジュールと、現在の学生たちのそれが大きく異なっていることを確認するうえで、参考になるかと思います。
 「就職協定」に代わる日本経団連の「倫理憲章」で、3年生の12月から広報活動開始となっていても、これは自粛規定に過ぎず、多くの会員企業が大学3年10月からエントリーシートを受付け、12月から1月にかけて面接選考、3月から4月に「内々定」を出すというスケジュールであるため、4年生の4月までに内定を貰えなければ、5月には殆どの企業が内定通知を終了してしまっているというのが、現在の状況です。(これについては、今月('13年4月)、安倍晋三首相が経済3団体に対し、就職活動の解禁時期の後ろ倒しを要請し、2016年卒の大学生から就職活動の解禁時期が現在より3カ月遅い3年生の3月、面接などの企業の選考活動開始が4カ月遅い4年生の8月に、それぞれ変わる見通しとなった。これはこれで、中小企業にとっては大手の選考が一段落してから本格選考が始まるため、不利な立場に立たされるという問題点もあるとの指摘もある。
 
 第3章「雇われて働くということ」では、学生達を待ち受ける働き方にスポットをあて、学生が企業選択する際の一つの目安となる初任給の"記載"の問題、若者の労働組合意識の低下の問題、派遣労働の問題などを取り上げています。
 「正社員」という雇用身分が、70年代後半のパート社員の増加とともに定着し、同時期に労働組合の企業主義・協調主義路線が定まったという分析は興味深く、ユニオンショップ制が労働組合の組織率低下を緩慢に抑えた一方で(′09年の日本における組織率は18%台なのに対し、米国では組織率は12%台)、若者の労働組合への意識の低下の原因にもなっているとの考察にも頷かされるものがありました。

 第4章「時間に縛られて働くということ」では、正社員の働きすぎに焦点を絞り、最近言われる「社会的基礎力」に疑問を投げかけ、若者に広がる過労死・過労自殺の実態を示して、企業が新入社員にどんな働き方を求めているかを述べています。
 経済産業省が言うところの「社会的基礎力」というのが、残業推奨型の内容になっているというのにはやや驚き(これ、本省の若手キャリア官僚の働き方だなあと)。残業手当を組み込んだ「初任給」の事例は、"ブラック企業"に限られたケースとの印象を与えるかもしれませんが、個人的には、多くの企業でこうしたことが行われているとの印象があります。

 第5章「就職に求められる力と働き方」では、大学のキャリア教育から小中学校におけるキャリア教育に立ち帰り、それがひたすら「適応力」を育てることに狙いがあることを批判的に検証したうえで、採用に際して企業が学生に求める能力を検討しています。

 終章「<まともな働き方>を実現するために」では、<まともな働き方>の条件を賃金、労働時間、雇用、社会保障を柱に整理し、なぜ<まともな働き方>ができないのかを考察し、働き方改善策を提案しています。
 過労死(過労自殺)の件数の公式統計はないそうですが、過労死問題に取り組んできた川人博弁護士によると、犠牲者は年間1万人を超えるとのこと(過労からうつになり自殺に至ったケースも含めると、あながち大袈裟とは言えないのではないか)、三六協定の"ザル法"的性格を指摘しているのは妥当ですが、状況改善に向けての提案部分が、やや抽象的でインパクトが弱いのが、本書の難点かと(但し、全体としては、大学生の就職の厳しい現況と内包する問題を概観するうえで、よく纏まっている本)。

 ただ、人事担当者が、自分達の学生時代は、専門の勉強はそれなりにやった一方で、バイトして金貯めて海外旅行に行ったりもし、また仲間には留学して勉学と遊びの両方を海外で経験したヤツも多かったのに、今の若いのはガラパゴス化していてそうした海外経験が少ないなどボヤいていても、著者の言うように、そもそも3年生の半ばから就職戦線に赴かなければならないならば、専門の勉学を深めることも出来ないし、海外留学(従来は3年時に行くことが多かった)の機会も大いに失われるというもの。
 企業側も、若手のグローバル人材が不足していると言うばかりでなく、こうした事情を認識し、考えてみる(反省する)必要があるのではないかなあ。

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面白い本の面白い部分だけを紹介した『面白い本』。"オフ会"活動の延長としての『ノンフィクションはこれを読め!』。

面白い本 成毛.jpg  ノンフィクションはこれを読め2.jpg ノンフィクションはこれを読め1.jpg honzu.jpg
面白い本 (岩波新書)』『ノンフィクションはこれを読め! - HONZが選んだ150冊』 本紹介サイト「HONZ - ノンフィクションはこれを読め!」

HONZ.jpg 元マイクロソフト日本法人社長の成毛眞氏によるもので、そう言えば『本は10冊同時に読め!―本を読まない人はサルである!』(三笠書房)なんていうのもあったなあ、この人。基本的に小説などは読まないみたいで、ノンフィクション一本。それにしてもすごく広いジャンルの本を読んでいるなあと。

 「面白い本」の面白い部分だけを抜書きして紹介しているため、実際"面白く"読めましたが、ちょっと立花隆氏と似ている感じも。立花氏も、ノンフィクション一本だし、本の良し悪しよりも、面白い本の面白い部分だけを紹介するようなスタイルには共通するものがあります。

ぼくの血となり肉となった五〇〇冊そして血にも肉にもならなかった一〇〇冊.jpg 立花氏の『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』や『ぼくの血となり肉となった五〇〇冊 そして血にも肉にもならなかった一〇〇冊』(いずれも文藝春秋)などの「週刊文春」連載の書評を纏めたシリーズを読んで思ったのですが、紹介されている本を読破しようなんて思わないことだなあと。その本自体を愉しめばいいのだと―。
 
HONZ サイト.jpg 因みに著者は、2011年に自らのブログで呼びかけて始めた、ノンフィクションに限定した「HONZ」という書評サイト及び書評勉強会を始めていて、今やその「HONZ」のサイトの会員であるレビュアーによって紹介された本が、書店で売れ筋になるほどの影響力を持っているそうです(氏自身は、「HONZ」は書評サイトではなく、「おすすめ本」を紹介するサイトであると断っている)。

 その「HONZ」のレビューを抜粋・編集したものが、本書より少し前に刊行された『ノンフィクションはこれを読め!―HONZが選んだ150冊』('12年/中央公論新社)ですが、こちらもそれなりに面白いのですが、書評を読んだだけで満足してしまいそうなもの(いいのか悪いのか?)、普通の新刊案内レビューとあまり変わらないようなもの、個人的エッセイ風のものと、まあ20人くらいの書き手が書いているためトーンそのものが雑多な印象も。

 評論家の山形浩生氏が自らのブログで、「HONZにある書評のほとんどに共通するダメなところというのは、基本的に、評者が本を読んで『おもしろかった』というのを、その本の中だけで閉じて言っていることだ。その本の範疇を出る書評がほとんどない」と述べていましたが、やや厳し過ぎる批判のように思えるものの、そうした面は確かにあるかもしれません。でも、成毛氏にしても「HONZ」の書評家にしても、実生活に全く役に立たないような本を紹介することを敢えて身上としている面もあるんだよなあ。山形氏のように、自らの書評の「足元にも及ばない」とイキらなくても、それはそれでいいのではないかという気もします(「HONZ」のサイトによれば、成毛氏自身は「書評ブログ講座なんぞをやってみようかと企画中」とのこと)。

 「HONZ」のサイト自体は新刊書に限定しているので、ジャンルを問わず新刊で面白そうな本はないかという時には便利ですが、確かに「書き方に工夫がない」(山形氏)とまでは言わないけれど、やや物足りない面はあるかも。「HONZ」の書評家たちも著名人、書店員、フツーの人の区分けなく錚々たるメンバー並びに上質のレビュアーだと思いますが)「「HONZ」のレビュアーになるための審査をパスした人だけが書いているらしい)、それだけにレビュアー各自の纏め方自体は上手いと思いますが、「人の多様性」×「ジャンルの多様性」で、見ているとやや情報過多になってしまうキライも。。やはり、『面白い本』の場合は、成毛氏という著名な個人がこれだけの本に接しているという点が興味を引くのかもしれません。「立花氏が選んだ」とか「成毛氏が選んだ」というのは、自分の中で一つの指標になっているのかもね(これって権威主義的?)。

HONZ3.jpg 『ノンフィクションはこれを読め!』の方が情報量としては多いけれど、『面白い本』の方が新刊書に限っていない分、 『ノンフィクションはこれを読め!』よりある意味幅広いとも言えるかも。それでいてすらすら読めるのは、成毛氏のその本の「面白どころ」の掴み方が上手いのかも。この辺りも立花氏に通じます(面白くないところは、本人もスキップして読んでるんだろなあ。そうでないと、こんなに読めないよ)。

売れ行き左右-ノンフィクション書評サイト「HONZ」(BOOK asahi.com 2013年2月20日)

 「HONZO」というのは、書評勉強会が楽しいのでしょう。『ノンフィクションはこれを読め!』の刊行も、そうした"オフ会"活動の延長、1年の振り返りといった印象を受けます。今後、毎年刊行していくんだろなあ。サイトの内容を纏め読みできるという意味では便利かも。

《読書MEMO》
●『面白い本』で紹介されている本
第1章 ピンポイント歴史学
「ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語 (ハヤカワ文庫NF)」 [文庫] スティーヴン・ジェイ・グールド
「イヴの七人の娘たち (ヴィレッジブックス)」 [単行本] ブライアン サイクス
「死海文書のすべて」青土社 [単行本] ジェームス・C. ヴァンダーカム
「ロゼッタストーン解読 (新潮文庫)」 [文庫] レスリー・アドキンズ
「トンパ文字―生きているもう1つの象形文字」マール社 [単行本] 王 超鷹
「ヴォイニッチ写本の謎」青土社 [単行本] ゲリー・ケネディ
「全国アホ・バカ分布考―はるかなる言葉の旅路 (新潮文庫)」 [文庫] 松本 修
「TOKYO STYLE (ちくま文庫)」 [文庫] 都築 響一
「マタギ 矛盾なき労働と食文化」エイ出版社 [単行本(ソフトカバー)] 田中康弘
「サルたちの遺言 宮崎幸島・サルと私の六十五年」祥伝社 [単行本] 三戸サツヱ
「オオカミの護符」新潮社 [単行本] 小倉 美惠子
「毛沢東の大飢饉 史上最も悲惨で破壊的な人災 1958?1962」草思社 [単行本] フランク・ディケーター
「ポル・ポト―ある悪夢の歴史」白水社 [単行本] フィリップ ショート
「悲しみの収穫―ウクライナ大飢饉」恵雅堂出版 [単行本] ロバート・コンクエスト
「731―石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く (新潮文庫)」 (新潮文庫) [文庫] 青木 冨貴子
第2章 学べない生き方
「ザ・ビッグイヤー 世界最大のバードウォッチング競技会に挑む男と鳥の狂詩曲」アスペクト [単行本] マーク・オブマシック
「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」河出書房新社 [単行本] ウェンディ・ムーア
「「李香蘭」を生きて (私の履歴書)」日本経済新聞社 [単行本] 山口 淑子
マリス博士の奇想天外な人生.jpg「マリス博士の奇想天外な人生 (ハヤカワ文庫 NF)」 [文庫] キャリー・マリス
「死にたい老人 (幻冬舎新書)」 [新書] 木谷 恭介
「ブッシュ妄言録」ぺんぎん書房 [単行本] フガフガ・ラボ (著), 村井 理子 (著)
「演歌よ今夜も有難うー知られざるインディーズ演歌の世界」平凡社 [単行本] 都築 響一
「なぜ人妻はそそるのか? 「よろめき」の現代史 (メディアファクトリー新書)」 (メディアファクトリー新書) [新書] 本橋信宏
「武士マニュアル (メディアファクトリー新書) [新書] 氏家幹人
「なかのとおるの生命科学者の伝記を読む」学研メディカル秀潤社 [単行本] 仲野徹
大村智 2億人を病魔から守った化学者.png「大村智 - 2億人を病魔から守った化学者」中央公論新社 [単行本] 馬場 錬成
「ミドリさんとカラクリ屋敷」集英社 [単行本(ソフトカバー)] 鈴木 遥
「クマムシ?!―小さな怪物 (岩波 科学ライブラリー)」 [単行本] 鈴木 忠
「ヒドラ――怪物?植物?動物! (岩波科学ライブラリー〈生きもの〉)」 [単行本(ソフトカバー)] 山下 桂司
ロウソクの科学改訂版.jpg「ロウソクの科学 (角川文庫)」 [文庫] ファラデー
第3章 ヘビーなサイエンス
「ヒトは食べられて進化した」化学同人 [単行本] ドナ・ハート、ロバート W.サスマン 
「笑うカイチュウ」 (講談社文庫) [文庫] 藤田 紘一郎
「ハダカデバネズミ―女王・兵隊・ふとん係」 (岩波科学ライブラリー) [単行本] 吉田 重人、岡ノ谷 一夫
「チェンジング・ブルー―気候変動の謎に迫る」岩波書店 [単行本] 大河内 直彦
凍った地球―スノーボールアースと生命進化の物語.jpg「凍った地球―スノーボールアースと生命進化の物語 」(新潮選書) [単行本] 田近 英一
「破局噴火-秒読みに入った人類壊滅の日 」(祥伝社新書) [新書] 高橋 正樹
「ノアの洪水」集英社 [単行本] ウォルター・ピットマン ウィリアム・ライアン
「恐竜はなぜ鳥に進化したのか―絶滅も進化も酸素濃度が決めた」 (文春文庫) [文庫] ピーター・D. ウォード
「医学探偵ジョン・スノウ―コレラとブロード・ストリートの井戸の謎」日本評論社 [単行本] サンドラ・ヘンペル
「ペニシリンはクシャミが生んだ大発見―医学おもしろ物語25話」 (平凡社新書) [新書] 百島 祐貴
「不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生 」講談社[単行本] レベッカ・スクルート
「アンティキテラ古代ギリシアのコンピュータ」文春文庫 [単行本] ジョー・マーチャント
「フェルマーの最終定理」 (新潮文庫) [文庫] サイモン・シン
「暗号解読―ロゼッタストーンから量子暗号まで] (新潮文庫) [文庫] サイモン・シン
「完全なる証明―100万ドルを拒否した天才数学者」 (文春文庫) [文庫] マーシャ ガッセン
第4章 シチュエーション別読書法
「鑑賞のためのキリスト教美術事典」視覚デザイン研究所 [単行本] 早坂 優子
「死にカタログ」大和書房 [単行本] 寄藤 文平
「ゲームシナリオのためのSF事典 知っておきたい科学技術・宇宙・お約束110」ソフトバンククリエティブ [単行本] クロノスケープ (著), 森瀬 繚 (監修)
「ゲームシナリオのためのファンタジー事典 知っておきたい歴史・文化・お約束110」ソフトバンククリエティブ [単行本] 山北 篤
「ゲームシナリオのためのミリタリー事典 知っておきたい軍隊・兵器・お約束110」ソフトバンククリエティブ[単行本] 坂本 雅之
「ゲームシナリオのためのミステリ事典 知っておきたいトリック・セオリー・お約束110」ソフトバンククリエティブ [単行本] ミステリ事典編集委員会 (著), 森瀬 繚 (監修)
「原色金魚図艦―かわいい金魚のあたらしい見方と提案」池田書店 [単行本] 川田 洋之助 (監修), 岡本 信明
「はい、泳げません」新潮文庫 [単行本] 高橋 秀実
「日本全国津々うりゃうりゃ」廣済堂出版 [単行本] 宮田 珠己
「エロティック・ジャポン」河出書房新社 [単行本] アニエス・ジアール
「人間の大地 労働―セバスティアン・サルガード写真集」岩波書店 [大型本] セバスティアン サルガード
「ピュリツァー賞 受賞写真 全記録 」ナショナル ジオグラフィック社[単行本(ソフトカバー)] ハル・ビュエル (著)、ナショナル ジオグラフィック(編)
「BONES ― 動物の骨格と機能美」早川書房 [ハードカバー] 湯沢英治 (著), 東野晃典 (著), 遠藤秀紀 (監修)
「新装版 道具と機械の本――てこからコンピューターまで」岩波書店 [大型本] デビッド・マコーレイ
「絵本 夢の江戸歌舞伎 (歴史を旅する絵本)」岩波書店 [大型本] 服部 幸雄 (著), 一ノ関 圭 (イラスト)
「東海道五十三次 将軍家茂公御上洛図―E・キヨソーネ東洋美術館蔵」河出書房新社 [単行本] 福田 和彦
「宇宙創成」 (新潮文庫) [文庫] サイモン シン
「エレガントな宇宙―超ひも理論がすべてを解明する」草思社 [単行本] ブライアン グリーン
「宇宙を織りなすもの――時間と空間の正体」草思社 [単行本] ブライアン・グリーン
「バースト! 人間行動を支配するパターン」NHK出版 [単行本] アルバート=ラズロ・バラバシ
第5章 嘘のノンフィクション
「鼻行類―新しく発見された哺乳類の構造と生活」 (平凡社ライブラリー) [新書] ハラルト シュテュンプケ
「バチカン・エクソシスト」 (文春文庫) [文庫] トレイシー ウイルキンソン
「ご冗談でしょう、ファインマンさん」 (岩波現代文庫) [文庫] リチャード P. ファインマン
「二重らせん―DNAの構造を発見した科学者の記録」(講談社ブルーバックス)ジェームス・D.ワトソン
「ロザリンド・フランクリンとDNA―ぬすまれた栄光」草思社 [単行本] アン・セイヤー
「ヒトラー・マネー」講談社 [単行本] ローレンス・マルキン
「ジーニアス・ファクトリー」早川書房 [単行本] デイヴィッド・プロッツ
「私はフェルメール 20世紀最大の贋作事件」武田ランダムハウスジャパン [単行本] フランク・ウイン
「偽りの来歴 ─ 20世紀最大の絵画詐欺事件」白水社 [単行本] レニー ソールズベリー、アリー スジョ
「FBI美術捜査官―奪われた名画を追え」柏書房 [単行本] ロバート・K. ウィットマン, ジョン シフマン
「スエズ運河を消せ―トリックで戦った男たち」柏書房 [単行本] デヴィッド・フィッシャー

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「●岩波新書」の インデックッスへ 「●中公新書」の インデックッスへ 「●「毎日出版文化賞」受賞作」の インデックッスへ(『マヤ文明―世界史に残る謎』)

マヤ文明入門の新旧2冊。マヤ文明に関心がある人にはどちらもお薦め。

マヤ文明 青山和夫 岩波新書.jpg  青山和夫.jpg 青山和夫氏  石田英一郎 マヤ文明―世界史に残る謎.jpg  石田英一郎.jpg 石田英一郎(1903-1968)
マヤ文明―密林に栄えた石器文化 (岩波新書)』['12年] 『マヤ文明―世界史に残る謎 (中公新書 127)』['63年]

 『マヤ文明―密林に栄えた石器文化』は('12年/岩波新書)、2008(平成20)年3月に「古典期マヤ人の日常生活と政治経済組織の研究」で第4回(平成19年度)日本学士院学術奨励賞を受賞した青山和夫・茨城大学教授の著書ですが、近年のマヤ考古学の成果から、その時代に生きていた人々の暮らしがどのようなものであったかを探るとともに、マヤ文字の解読などから、王や貴族の事績や戦争などの王朝史を解き明かしています。

マヤ文明の謎.jpg 個人的には、青木晴夫『マヤ文明の謎』('84年/講談社現代新書)以来のマヤ学の本であったため、知識をリフレッシュするのに役立ちましたが、本書の前半部分では、著者とマヤ文明との出会いから始まって、マヤ文明に対する世間一般の偏見や誤謬を、憤りをもって指摘しており、読み物としても興味深いものでした。

人類大移動 アフリカからイースター島へ.jpg マヤ人はどこから来たかというと、1万2000年以上前の氷河期にアジア大陸から無人のアメリカ大陸に到達したモンゴロイドの狩猟採集民が祖先であるとのこと(この辺りは、印東道子・編『人類大移動―アフリカからイースター島へ』('12年/朝日新書)の中の関雄二「最初のアメリカ人の探求―最初のアメリカ人」に詳しい)、従って、コロンブスがアメリカ大陸を「発見」したのではないと。

 コロンブスがアメリカ大陸をインドだと思い込んだためにこの地を「インディアス」(東洋)と呼び、この地の住民をスペイン語で「インディオ」、英語で「インディアン」と呼ぶようになったわけで、これはヨーロッパ人が誤解して名付けた差別的用語であるとのことです。

 著者によれば、マヤ文明をはじめとするメソアメリカ(メキシコと中央アメリカ北部)と南米のアンデスというアメリカの二大文明は、旧大陸の「四大文明」(メソポタミア、エジプト、インダス、黄河)と共に何も無いところから発した一次文明であり、「四大文明」史観は時代遅れで、「六大文明」とするのが正しいと(マヤとアステカ・インカを一纏めにすることも認めていない)。

吉田洋一『零の発見』.jpg マヤ文明では、文字、暦、算術、天文学が発達し、6世紀の古代インドに先立って人類史上最初にゼロを発見しており、算術は二十進法が基本、また、マヤ暦は様々な周期の暦を組み合わせたもので、長期暦は暦元が前3114年で、2012年12月23日で一巡したことになり、この長期暦の「バクトゥン」という5125年の単位が最も大きいスパンを表すとされていた(吉田洋一『零の発見』('49年/岩波新書)にもそうあった)ために、ここから、映画「2012」('09年/米)のモチーフにもなった「マヤ文明の終末予言」なるものが取り沙汰されたわけですが、実際にはマヤには長期暦よりもそれぞれ20倍、400倍、8000倍、16万倍の長さの周期の4つの暦があることが判っており、16万倍だと6312万年周期になりますが、更にこの上に19もの二十進法の単位(200兆年×兆倍)があり、2京8000千兆年×兆倍の循環暦も見つかったとのことです(ちょっと凄すぎる)。従って、2012年で暦が終わるので世界も終末を迎える―などという話はまったくの捏造映画「2012」.jpgであり、こうした捏造されたマヤ文明観がオカルトブーム、商業主義と相まって横行していることに対して著者は憤りを露わにしています。

映画「2012」('09年/米)

クリスタルスカルの魔宮.jpg 映画「インディー・ジョーンズ」シリーズの「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」('08年/米)などに出てくる"クリスタルスカル"のモチーフとなった"マヤの水晶の髑髏"も19世紀にドイツで作られたものと判っているそうで、東京ディズニーシーのアトラクション「クリスタルスカルの魔宮」も、その名からしてマヤ文明への正確な理解を妨げるものということになるようです。

 因みに、マヤ人というのも別に滅んだわけではなく、今もグアテマラなどに多数生活しているわけで、但し、「マヤ人」を一つの民族として規定すること自体が誤りであるようです。第1章でこうしたマヤ文明への誤った理解にも言及したうえで、第2章以下第6章まで、ホンジュラスでの世界遺産コバン遺跡発掘調査のレポートと考察(マヤ文明の衰退の主因は森林伐採による環境破壊説が有力だが、コバン衰退の原因は戦争だったようだ)、マヤ文明における国家・諸王・貴族たち(インカなどとは異なり、諸王朝が遠距離交換ネットワークを通して様々な文化要素を共有しながら共存した)、農民の暮らし(社会の構成員の9割以上が被支配層で、その大部分が農民だった。トウモロコシは前7000年頃にマヤ人が栽培化し、品種改良を重ねた)、宮廷の日常生活などについての解説がなされています。

 それらの記述に比べると、むしろマヤについて多くの人が関心を持つ文字、算術、暦などに関する記述は第1章に織り込まれていて、相対的には軽く触れられているだけのような印象も受けますが、それは著者が石器研究を専門とする考古学者であることとも関係しているのかもしれないものの、自分が最初に読んだマヤ学の本である石田英一郎の『マヤ文明―世界史に残る謎』('67年/中公新書)に立ち返ると、既に当時の時点で、マヤ文字やマヤの算術、暦学、天文学などについてはかなりのことが判っていたことが窺えます(よって本書は、専ら近年の新たな知見にフォーカスした本であるとも言える)。

『マヤ文明―世界史に残る謎』.jpg 石田英一郎(1903-1968)は考古学者ではなく"桃太郎"研究などで知られる文化人類学者であり、中公新書版のこの本を書くにあたって、「これは専門家のための専門書でもなければ、また専門家によって書かれた通俗書でもない」と断っていますが、1953年と63年の2度に渡ってマヤ地帯を旅した経験をも踏まえ、マヤ文明に関する当時のスタンダード且つ最新の知識を紹介するとともに、それを人類文化史の中に位置付ける構成になっており、文字、算術、暦などに関する解説はもとより、文化人類学者の視点から宗教等に関するかなり専門的な記述も見られます。
それは、最初の"謙遜"っぽい断りが専門家に対する若干の嫌味に思えるくらいであり、但し、当時"マヤ学者"と呼ばれるほどにマヤに特化した専門家は殆ど皆無だったようですが、そうした背景があるにしても、昔の学者は、自らの専門に固執せず、どんどん未開拓の分野へ踏み込んでいったのだなあと(本書は第21回(1967年)毎日出版文化賞[人文・社会部門]受賞)。

 また、第1章は、著者個人のマヤへの想いが迸ったエッセイ風の記述になっており(冒頭の、スペイン船の乗組員で船が難破してマヤの捕虜となり、マヤの酋長に仕えるうちにマヤの習慣に同化した男の話が興味深い)、そうしたことも含め、青山和夫氏の新著に共通するものを感じました。

 新旧両著とも新書の割には図版が豊富で読み易く、マヤ文明に関心がある人にはどちらもお薦めです。

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軍医、作家ではなく、一家庭人としての鷗外の人間味が滲み出ている書簡集。

『森鷗外 妻への手紙』.JPG 森鷗外 妻への手紙.jpg    森鷗外.jpg 森鷗外(1862-1922/享年60)
森鴎外妻への手紙 (昭13年) (岩波新書〈第17〉)』『妻への手紙 (ちくま文庫)
志げ夫人
志げ夫人.jpg 今年(2012年)は森鷗外(1862-1922/享年60)没後150周年。本書は、鷗外の二度目の妻・しげ(志げ)への書簡集で(最初の妻・登志子とは、別居後に離婚)、編纂者の小堀杏奴(1909-1998)は鷗外の次女です。しかし、長男(登志子との間の子)の名前が於菟(おと)で、長女が茉莉(まり)(作家の森茉莉)、次女が杏奴(あんぬ)で二男が不律(ふりつ)、三男が類(るい)というのはすごいネーミングだなあ。オットー、マリ、アンヌ、フリッツ、ルイと片仮名で書いたほうがよさそうなぐらいです。

 1904(明治37)年から鷗外の没年である1922(大正11)年までの手紙を収めていて、その多くは鷗外が軍医部長として従軍した日露戦争(1904-05)中のもので、とりわけ1905(明治38)年に集中していますが、この年は、(前年末からの)旅順攻略、奉天会戦、日本海海戦、講和へとめまぐるしい戦局の変化があった年。

 しかし、鷗外の手紙の中で戦局の報告は極めて簡潔になされており、後は「新聞を読むように」とかいった具合で、むしろ、妻の健康と日常の暮らしぶり、生まれたばかりの娘・茉莉(1903-1987)の成長の様子を窺う文章で埋め尽くされているといった感じ(茉莉は何が出来るようになったか、病気はしてないか、といった具合に)。
   
森茉莉.jpg "しげ"とは1902(明治35年)、鷗外が41歳、彼女が23歳で結婚しており、結婚して3年、娘・茉莉が生まれて2年ということで(しかも妻との年の差18歳)、手紙文は読みやすい文体で書かれており、中には(娘に対して)でれでれ状態と言ってもいいくらいのトーンのものもあるのは無理もないか(鷗外の堅いイメージとは裏腹に、ごくフツーの親ばかといった感じ)。

 ドイツ留学時代に彼の地に残してきた恋人のことを生涯胸に秘めつつ、家族に対してはこうした手紙を書いていたのだなあというのはありますが、妻や子への鷗外の想いは偽らざるものであったのでしょう。

 鷗外の妻への過剰とも思える気遣いの背景には、小堀杏奴があとがきに該当する「父の手紙」のところでも記しているように、妻と鷗外の母との不仲(所謂"嫁姑の確執"があったことも関係しているのかも。

森茉莉(12歳) 1915(大正4)年
    
森鷗外 妻への手紙 奥.JPG 手紙の多くが、「○月○日のお前さんの手紙を見た」「その後はまだお前さんお手紙は来ない」といった文章で始まっているように、妻の方からも、近況を伝える返信を書き送っていたと思われ、その妻の手紙は公表されていないわけですが、鷗外が自らの手紙でその内容をなぞったりしているので、大方の内容の見当はつきます。

 鷗外は必ずしも戦地で常に多忙を極めていたわけではないようで、妻から手紙は鷗外自身の無聊を慰めてもいたのでしょう。写真の感想なども多く、そうした鷗外の気持ちを察するかのように、妻しげは、家族の写真などもしばしば送っていたことが窺えます。

 鷗外の手紙の現物は杏奴の死後にも多く見つかっており、その殆どは既に杏奴を通して公表され全集にも収められていたとのことで、杏奴による時系列の並べ順の誤り(ミス)などが一部に見られるものの、少なくとも日露戦争時の手紙はそのまま全部収められているとみていいのではないかと思われます。

 軍医、作家といった鎧を脱ぎ棄て、一家庭人としての鷗外の人間味が滲み出ている書簡集でした。

【1996年文庫化[ちくま文庫(森鷗外『妻への手紙』)]】

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分かれば分かるほど、分からないことが増える。「宇宙論」って奥が深い。

宇宙は何でできているのか1.jpg宇宙は何でできているのか2.jpg 宇宙は何でできているのか3.jpg  野本 陽代 ベテルギウスの超新星爆発.jpg  宇宙論入門 佐藤勝彦.jpg
宇宙は何でできているのか (幻冬舎新書)』 野本 陽代 『ベテルギウスの超新星爆発 加速膨張する宇宙の発見 (幻冬舎新書)』 佐藤 勝彦 『宇宙論入門―誕生から未来へ (岩波新書)

 村山斉氏の『宇宙は何でできているのか―素粒子物理学で解く宇宙の謎』は、「宇宙はどう始まったのか」「私たちはなぜ存在するのか」「宇宙はこれからどうなるのか」という誰もが抱く素朴な疑問を、素粒子物理学者が現代宇宙物理学の世界で解明出来ている範囲で分かり易く解説したもので、本も売れたし、2011年の第4回「新書大賞」の第1位(大賞)にも輝きました。

 分かり易さの素は「朝日カルチャーセンター」での講義が下敷きになっているというのがあるのでしょう。但し、最初は「岩波ジュニア新書」みたいなトーンで、それが章が進むにつれて、「ラザフォード実験」とか「クォークの3世代」とかの説明に入ったくらいから素粒子物理学の中核に入っていき(小林・益川理論の基本を理解するにはいい本)、結構突っ込んだ解説がされています。

 その辺りの踏み込み具合も、読者の知的好奇心に十分応えるものとして、高い評価に繋がったのではないかと思われますが、一般には聞きなれない言葉が出てくると、「やけに難しそうな専門用語が出てきましたが」と前フリして、「喩えて言えば次のようなことなのです」みたいな解説の仕方をしているところが、読者を難解さにめげさせることなく、最後まで引っ張るのだろうなあと。

 本書によれば、原子以外のものが宇宙の96%を占めているというのが分かったのが2003年。「暗黒物質」が23%で「暗黒エネルギー」が73%というところまで分かっているが、暗黒物質はまだ謎が多いし、暗黒エネルギーについては全く「正体不明」で、「ある」ことだけが分かっていると―。

 分からないのはそれらだけでなく、物質の質量を生み出すと考えられている「ヒグス粒子」というものがあると予言されていて、予想される量は宇宙全体のエネルギーの10%の62乗―著者は「意味がさっぱり分かりませんね」と読者に寄り添い、今のところ、それが何であるか全て謎だとしています。

 しかしながらつい最近、報道で「ヒッグス粒子」(表記が撥音になっている)の存在が確認されたとあり、早くも今世紀最大の発見と言われていて、この世界、日進月歩なのだなあと。

 小林・益川理論は粒子と反粒子のPC対称性の破れを理論的に明らかにしたもので、それがどうしたと思いたくもなりますが、物質が宇宙に存在するのは、宇宙生成の最初の段階で反物質よりも物質の方が10億分の2だけ多かったためで、このことが無ければ宇宙には「物質」そのものが存在しなかったわけです(但し、それがなせ「10億分の2」なのかは、小林・益川理論でも説明できていないという)。

 本書はどちらかというと「宇宙」よりも「素粒子」の方にウェイトが置かれていますが(著者の次著『宇宙は本当にひとつなのか―最新宇宙論入門 (ブルーバックス)』('11年)の方が全体としてはより"宇宙論"的)、最後はまた宇宙の話に戻って、宇宙はこれからどうなるかを述べています。

 それによると、10年ばかり前までは、減速しながらも膨張し続けているという考えが主流だったのが(その中でも、膨張がストップすると収縮が始まる、減速しながらも永遠に膨張が続く、「永遠のちょっと手前」で膨張が止まり収縮もしない、という3通りの考えがあった)、宇宙膨張は減速せず、加速し続けていることが10年前に明らかになり、そのことが分かったのは超新星の観測からだといいます(この辺りの経緯は、野本陽代氏の『ベテルギウスの超新星爆発-加速膨張する宇宙の発見』('11年/幻冬舎新書)にも書かれている)。

 加速膨張しているということは、膨張しているのにエネルギーが薄まっていないということで、この不思議なエネルギー(宇宙の膨張を後押ししているエネルギー)が「暗黒エネルギー」であり、その正体は何も分かっていないので、宇宙の将来を巡る仮説は、今は「何でもアリ」の状況だそうです。

 分かれば分かるほど、分からないことが増える―それも、細部においてと言うより、全体が―。「宇宙論」って奥が深いね(当然と言えば当然なのかもしれないけれど)。

 そこで、更に、著者が言うところのこの「何でもアリ」の宇宙論が今どうなっているかについて書かれたものはと言うと、本書の2年前に刊行された、佐藤勝彦氏の『宇宙論入門―誕生から未来へ (岩波新書)』('08年)があります。

佐藤 勝彦.jpg この本では、素粒子論にも触れていますが(『宇宙は何でできているのか』の冒頭に出てくる、自分の尻尾を飲み込もうとしている蛇の図「ウロボロスのたとえ」は、『宇宙論入門』第2章「素粒子と宇宙」の冒頭にも同じ図がある)、どちらかというとタイトル通り、宇宙論そのものに比重がかかっており、その中で、著者自身が提唱した宇宙の始まりにおける「インフレーション理論」などもより詳しく紹介されており、個人的にも、本書により、インフレーション理論が幾つかのパターンに改変されものが近年提唱されていることを知りました(著者は「加速的宇宙膨張理論の研究」で、2010年に第100回日本学士院賞を受賞)。
佐藤 勝彦

  第4章「宇宙の未来」では、星の一生をたどる中で「超新星爆発」についても解説されており、最後の第5章「マルチバースと生命」では、多元宇宙論と宇宙における生命の存在を扱っており、このテーマは、村山斉氏の『宇宙は本当にひとつなのか―最新宇宙論入門』とも重なるものとなっています(佐藤氏自身、『宇宙はわれわれの宇宙だけではなかった (PHP文庫)』('01年)という著者もある)。

 『宇宙論入門』は、『宇宙は何でできているのか』よりやや難解な部分もありますが、宇宙論の歴史から始まって幅広く宇宙論の現況を開設しており、現時点でのオーソドックスな宇宙論入門書と言えるのではないかと思います。

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人類はなぜ戦争をするようになったのか。96歳の老ジャーナリストの自伝的エッセイ風社会批評。

希望は絶望のど真ん中に.jpg 『希望は絶望のど真ん中に (岩波新書)』 [10年]

 著者(武野武治氏)は1915年秋田県生まれで、本書執筆時点(2011年)で96歳。自伝的エッセイ風社会批評とでもいうか。一見して最近の世の中を大いに悲観しているようで、実はその中に無限の未来を見出そうとしていて、例えば、「ジャーナリズムは死んだか」という問いに対し、ジャンーナリズムはとっくにたばっており、それを生き返らせるために皆で命がけで頑張ろうというスタンス。まさにタイトル通り、希望を失わない楽天性がこの人の本質なのかも。

 著者は東京外国語学校を卒業し、報知新聞社秋田支局に入社した2年後に盧溝橋事件から日中戦争が始まり、東京支社社会部記者として北京から内モンゴルを取材した際に、中国民衆は日本に屈服することはなく、日本軍に勝利はないと確信したとのこと(但し、そんなことは記事には書けない状況だった)。

 中国から帰国後に報知新聞を辞めると朝日新聞社から声が掛かり、1940(昭和15)年に同社会部の遊軍となり、2年後にジャカルタ支局に異動、ジャワ上陸作戦に従軍するなどしますが、終戦を迎え、戦時にジャーナリズムが軍事国家の先鋒を担いだ反省から、自らにけじめをつけるべく朝日新聞を退社し、秋田に戻ります。そして1948(昭和23)年に横手市で週刊新聞「たいまつ」を創刊し、30年間にわたり主幹を務めるも、1978(昭和53)年に経営難により休刊(63歳)、その後も執筆・講演活動を通じて30年以上にわたりジャーナリストとして活動してきた人です。

 先ず「人類はなぜ戦争をするようになったのか」ということを、独自の人類史観から考察していて、人類の歴史は700万年前まで遡るが、約2万5000年前にひとつの系統のみが生き残り(言語を話すホモ・サピエンスの系統)、農耕が1万年前に始まり、5500年前にチグリス河流域に都市文明(国家)が発生、最も手っ取り早い富の拡大手段として戦争が始まったとのこと。

この辺り、クニの原初形態が「国際」となる過程が詳しく説かれていて興味深く、以下、大航海時代から帝国主義時代、20世紀へと、戦争と国家の関係史を追っていますが、戦争は国家間の権力抗争の決め手となるもので、戦争は人間の本姓であるとか、戦争は消費を促進し不景気対策の必要悪だとかいうのは、みんな支配者の嘘であるとのこと、これは、先の太平洋戦争でも同じことが言えるようです。

 続いて「人類に未来はあるのか」ということを考察していて(テーマがデカイね)、人類の余命は、世界中で大戦争が起り、核兵器で人類が死滅するとすればあと40年ほど、地球の寿命であるガス星雲化するまでとすればあと40億年あるとのことで、40年か40億年かは人類次第だという―確かに。

 著者の批判は日本の現状に向けられ、東日本大震災後の福島第一原発事故対応で明らかになった産業構造の腐敗、政治の無責任、科学技術者の退廃を糾弾するとともに、戦後の日本社会は過ちばかりが目立ち、日本人は真摯な反省と真面目な努力をどこに忘れてしまったのとしつつも、大局的に見れば「ヒューマニズム」そのものは人類が国家をつくるまでには存在していたが、国家が形成され欲望を達成しようとした5500年前に戦争が始まってヒューマニズムは地に堕ち、爾来、人類は戦争ばかりやってきたのを「進歩」したと錯覚していると―国家権力と結びついた金融経済もまた謀略と戦争を孕んでおり、資本主義の綻びはいつも戦争で償われてきたが、2008年のリーマンブラザーズの破綻は恐慌を予感させる危険な兆候であり、新自由主義の行き着く先は労働者の貧困化と奴隷化であって、あと一歩で国民の奴隷化に行き着くだろうとしています。

 そうした中、労働から疎外された若者は、同じ苦しみや悲しみを背負う若者とは協力する方向へ努力せず、秋葉原事件などを起こしたりして自滅する方向へ流れるのはなぜか―こうしたことを皆の問題として受け止め取り組もうと、若者と触れ合ってきた著者は、この問題を、希望と絶望、学習、コミュニティに分けて論じています。

 先ず絶望すべき対象にはしっかり絶望し、それを克服する努力を重ねて希望に転化してゆこう、希望は絶望のど真ん中に実在している。みんなで学習する時は対等に隔てなく意見を述べ合うことが大事である―というのが著者の結論であり、後半は啓発的であるともにやや抽象的なメッセージになっていますが、96歳にして、大いに絶望しつつもその絶望を突きぬけて、そこから前向きなメッセージを発信しているそのパワーが、そもそもスゴイなあと思いました。

 個人的には、終戦を迎えた際の朝日新聞社内の様子などの記述が興味深かったです(う~ん、日本人の国民性としての当事者意識の無さがよく分かる。新聞記者だって宮仕えなんだなあと)。
むのたけじ.jpg 全体としてはやや牽強付会なところもありますが、何せ96歳ですから、目の前で話されたらもう大人しく聴くしかないかも。この人、所謂"優秀老人"と言うか、ボケないタイプなんだろなあ。「書く」という行為は、ボケ防止にいいのかも。喋りもスゴクしっかりしている...。
むのたけじ「希望は絶望のど真ん中に」刊行記念講演(2011年)

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学術書を一般向けに噛み砕いた感じ。アルツ予防にはカロリー摂取の制限と、運動、知的活動か。

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ぼけの予防 (岩波新書)

第1章「ぼけとは何か」と第2章「ぼけの診断」において認知症(老人性痴呆症)について概説し、認知症の中でも90年代以降アルツハイマー病が増えてきていることを指摘、本書のメインとなる第3章「アルツハイマー病の予防」で、その予防法を、本書刊行時における最新の臨床研究の成果を紹介しながら、傾向的に解説しています。

 そのため、認知症全般の予防というよりは、アルツハイマー病の予防に関する研究成果を紹介した入門書と言ってよく、但し、アルツハイマー病との関連上、健康・長寿に関する話なども出てきます。

 「臨床研究からこうした傾向が見られるが、その原因は幾つか考えられ(諸説あり)、一つは○○...」といった書かかれ方をしている部分が多いですが、アプリオリに特定の原因と予防法を押し付けるのではなく、データを基に傾向として示しているところに、かえって信頼感が持てました。

 アルツハイマー病の予防に関しては、食生活、嗜好品のとり方、生活習慣と頭の使い方、薬とサプリメントの効用の4つの点から解説していますが、食生活のおいては、摂取カロリーを制限することが予防に有効であることは、統計的に証明されているようです。

日野原重明.bmp 個別事例としては、1911年生まれの日野原重明氏が紹介されていて(本書刊行時94歳)、NHKのドキュメンタリーで紹介された、当時のある一日の暮らしぶり、仕事ぶりを改めて紹介していますが、朝起きて柔軟体操をした後に、りんごジュース、にんじんスープ、牛乳とコーヒーという液体だけの朝食(りんごジュースにはサラダ油をちょっと落とす)、午前中に講演した後の昼食は立食パーティで牛乳コップ1杯のみ、午後は大学で90分立ちっぱなしで講義し、夕食は茶碗少し目のご飯に味噌汁、サラダと副食二品、1日の摂取カロリーは1300キロカロリー。

 年齢によって理想の摂取カロリーは変わってきますが、摂取カロリーの高い人は低い人の1.5倍の率でアルツハイマーになりやすく(これも原因は分かっていない)、日野原氏自身が言う「腹七分目」というのは、アルツハイマー病予防の一つの鍵なのだろうなあと。

 但し、日野原氏と同じような生活をしても日野原氏のように長生きできるかどうかは、寿命には様々な要素が絡むため分からないとのこと(この人、100歳を超えて今も元気だなあ。やや怪物的かも)。

 食生活ではそのほか、動物性脂肪のとりすぎは悪く、野菜や果物をよくとることは予防にいいとし、「酒」は飲み過ぎは良くないが適量であれば飲まないよりはよく、「運動すること」や「頭を使うこと」はアルツ予防にいいと―。

 このあたりは大方の予想がつきそうな内容でしたが、統計的にそのことを示す一方で、原因が科学的に解明されている部分と未解明の部分があることを示し、未解明の部分については考えられている仮説を逐一紹介したりしているのが「岩波新書」らしいところ(学術研究書を一般向けに噛み砕いた感じ)。

 「頭を使うこと」が予防にいいということについて、大変興味深い海外のケースが紹介されていて、ある修道院の修道女を対象に行った加齢と認知症に関する追跡調査で、調査協力の意思表明後101歳で死亡した修道女の脳を解剖したら、脳萎縮などのアルツハイマー病の症状が見られたものの、この修道女は亡くなる直前まで聡明で知能検査でも高い得点を出していたと。

 彼女に認知症の症状がなく聡明だった理由は、若い時分からから老年期に至るまで知的好奇心と知的活動を維持してためと考えられるようですが、脳を使えば使うほど、神経細胞の一部は数が多くなり、脳内のネットワークが強化され、加齢による神経細胞の脱落をカバーして、認知症になるのを遅らせることに繋がるようです。

 それにしても、脳が実際にルツハイマー病の症状を呈していたのに、生活面でそれが症状として現れることが無かったというのは、実に興味深い事例だと思いました。

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屠場の仕事とそこで働く人たちをルポ。差別問題に偏り過ぎず、食文化の根源を見つめ直すうえでも好著。

『ドキュメント屠場』.jpgドキュメント 屠場 (岩波新書)』['98年] 本橋成一写真展「屠場」.jpg 本橋成一『屠場』['11年]

鎌田慧  .jpg 『自動車絶望工場』『日本の原発地帯』『原発列島を行く』の鎌田慧氏が、東京・芝浦屠場、横浜屠場、大阪・南港屠場などで働く人びとを取材したもので、そうすると何だか「暗い職場」だというイメージを抱きかねませんが、全然違います。皆、職人気質で明るい!
 
 鎌田氏自身、本橋成一氏の写真集『屠場』('11年/平凡社)に寄せて、「機械化される前の職人の熟練とプライドの世界」「屠殺は生き物を相手にする労働であって、自動車工場のように、画一化された部品に支配された労働ではない。たとえ機械化されたにしても、労働の細分化と単純化は不可能である」と書いています。

 屠場で働く人たちが、プライドを持って活き活きと仕事する様、牛や豚の解体作業の技術的高度さ、職人たちの仕事にかける心意気などが伝わってくるとともに、こうした仕事に対する差別の歴史と、それを彼らが乗り越えてきたか、若い職人たちは自分たちの仕事をどう考えているかなどが分かります。

 更に、歴史記録に遡って屠殺(食肉加工)のルーツを辿るとともに(牛などの肉食文化は基本的には明治以降に外国人が入ってきてから一般化したわけだが、江戸時代にもあったことはあった)、日本書紀の時代からある「殺生禁断」(殺生戒)の思想や「穢れ感」が部落差別と結びついて、こうした仕事を「賤業」と見做す風潮が今にも続いていることを分析しています。

 確かに職人には伝統的に被差別部落出身者が多いようですが、全てを部落差別に結び付けて考えるのも事実誤認かも知れず、それまでの仕事よりも給料がいいから転職してきたという人もいるようです。

 それぞれの取材先でのインタビューに加えて、職人同士の座談会などもあって、精神的な差別よりも、ちょっと前の昔まで、雇用形態が安定していなかったことの方がたいへんだったみたいで(今で言えば、偽装請負で働かされているようなもの)、それが組合運動等で随分と改善されたとのこと。

 横浜屠場の取材では、若い職人たちの座談会も組まれていて、これがなかなか興味深く、2代目・3代目が多いのですが、現実に差別に遭いそれと闘ってきた親の代と違って、親の職業により差別を受けた人もいれば、差別を何となく感じながらも、この仕事に就いた後で、あれが差別だったのだなあと振り返って再認識したという人もいます。

 自らの仕事にプライドを持ち、自分の技術を少しでも高めることを目標にしている点では皆同じで、先輩に少しでも追いつこう、後輩に負けまいと切磋琢磨していて、その意味ではスペシャリスト同士の競争の場ですが、元々公私にわたって職場の仲間同士の繋がりが強いうえに、今は協働化が進みつつある、そんな職場のようです(機械化が進んでも、機械の方が人間より上手に処理するとは限らないとのこと。そうした意味では、職人の技は、ある意味"伝統技能"と言える)。

 「屠場」は「屠殺場」の略語のようなもので、この言葉自体は差別用語ではないようですが、小説などで「戦場は屠殺場のようだった」というような"差別的意味合い"を込めて使われていることが縷々あるわけなのだなあ(岩波書店の刊行物の中にもあったそうだ)。

 使われ方が差別的であるために、言葉自体が"差別用語"だと思われてしまうという(だから、「食肉市場」とか名称を変えても根本解決にはなっていない)―こうした事例は外にもあるね。

 但し本書は、「差別」の問題を丹念に取り上げながらもそこに偏り過ぎず、食肉加工の工程なども細かく紹介されており、興味深く読めるとともに、人間の食文化の根源にあるものを見つめ直してみるうえでも好著です。

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原発推進もオウムやテロと同じ世界破壊「信仰」?! 相変わらず、もやっとした感じの本。

夢よりも深い覚醒へ9.JPG夢よりも深い覚醒へ―3・11後の哲学.jpg            文明の内なる衝突.bmp  不可能性の時代.jpg
夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)』['12年]『文明の内なる衝突―テロ後の世界を考える (NHKブックス)』['02年]『不可能性の時代 (岩波新書 新赤版 (1122))』['08年] 

 自分のイマジネーションが著者に追いつかないのか、はたまた単に相性が悪いだけなのか、相変わらず、本当にもやっとした感じの本でした。

 朝日新聞に掲載されていた比較文化学者の田中優子氏の書評によると、タイトルの「夢よりも深い覚醒へ」というのは、著者の師匠である見田宗介の言葉だそうで、悪夢から現実へと覚醒するのではなく、夢よりも深く内在することで覚醒するという意味だそうです。

 著者によれば、阪神・淡路大震災とオウム事件は何かの終りであり、おそらく東日本大震災と原発事故は、その終わり始めたものを本当に終わらせる出来事であったとのことで、要するにこれらは、破局と絶望に一連の流れ上にあると。

 9.11(テロ・アフガニスタン)と3.11(震災・原発事故)を同種の破局であるとして、進化論を持ち出してどちらも「理不尽な絶滅」であるとしているのは、震災とテロを一緒くたにして何だかハルマゲドンを煽っているっぽいなあという気がしたのですが、著者の論点は、まさにこの"同一視"に依拠しています。

 著者が、9.11テロとそれに対するアメリカの反攻に内在する思想的な問題(ナショナリズム)を、「文明の衝突」というハンチントンの概念を援用して読み説いた『文明の内なる衝突―テロ後の世界を考える』('02年/NHKブックス)を著した理由は、9.11テロが世界同時性を持ちながら、日本の知識人にとっては対岸の火事であって実存的問題にならず、著者自身も、社会学者としての無力感に見舞われざるを得なかったとのことからではなかったと思います。

 そうした忸怩たる思いでいたところが、3.11によってやっと著者自身、「理不尽な絶滅」を実感することができたというところでしょうか。前著『不可能性の時代』('08年/岩波新書)に既にその傾向はありましたが、全ての事象を、この「理不尽な絶滅」へ強引に収斂させているという印象を受けました。

 著者は、『文明の内なる衝突』において、イスラームやキリスト教の中にある資本主義原理を指摘する一方、「資本主義は徹底的に宗教的な現象である」としていましたが、本書では、世界を破壊する否定の力への信仰がオウムであるとすれば、原子力もまた、その破壊潜在力への「信仰」ではないかとしています。

 「日本人の戦後史の中で、原子力は、事実上、神のように信仰されていた」とあり、原爆の恐怖を知って間もないはずの日本人が、活発な地震帯の上に50基以上もの原子炉を建設してきたことは、まさに「破壊への欲望」であり、これは、オウム、9.11テロと重なる―という論旨は、個人的にはかなり牽強付会に思えるのですが...。

 マイケル・サンデルの「暴走機関車」の例え話から始まって、原発問題を倫理哲学的に考察し、後半はカント、ヘーゲルを持ち出し、イエス・キリストの思想を持ち出し、「神の國」と現実をいろいろ行ったり来たりしているのですが、これ、サブタイトルにあるように思想哲学の本だったのか―(だとすれば、ある程度の牽強付会はありなのか?)。

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ソーシャルメディアの活躍と「公式報道」のていたらく、海外の報道と日本のマスコミ報道のギャップ。

震災と情報 岩波新書.jpg 『震災と情報――あのとき何が伝わったか (岩波新書)

 東日本大震災の発生直後、警報も届かずに津波で命を落とした人は数多くいたわけで、更に、電話の不通など情報経路の寸断は首都圏にまで及び、また、その後も繰り返される政府発表の「安全神話」的報道を、どこまで信じたらいいのかも分からず、首都圏にいてもこうした状況でしたから、被災した現地にいた人の混乱と不安は、尚のこと大きなものだったでしょう。

 本書は、ソフトウェア生成系や情報ネットワークが専門である理学博士の著者が、震災後の情報伝達のあり方、マスコミ報道とインターネットやモバイル機器を通しての報道のスピードや正確さのギャップなどを、再検証したものですが、興味深いのは、震災後「最初の1時間」「最初の24時間」「最初の1週間」「最初の1ヵ月」「最初の6ヵ月」というように、何れも震災直後を起点としてスパンのみ変えて、そのスパンの長さに沿ったイシューを追っている点です。

 尚且つ、報道された事実を克明に織り込み、一つ一つのイシューについてはそれほど深く突っ込まず、情報を「数」の面で多く拾っていて、そうした「数」の集積から、実態を浮かび上がらせようとしており、こうした"記録"の残し方も一つの方法かと思いました。

 最初の1時間は、主に大津波警報がどのように伝わったかなどが検証されていますが、福島第一原発事故が明るみになってからは、やはり原発事故報道が本書の大部分を占め、最後は「日本では原子力発電は終わらせよう。地震の多い日本では、リスクが巨大すぎて商業的発電方式として合理的コストに見合わないからである」との言葉で締め括られており、やはりこの辺りは岩波系か。

 振り返ってみると、原発事故発生当初から、ソーシャルメディアを含む海外の報道と、所謂「公式報道」に近い日本のマスコミ報道に、事の重大さに対する認識の度合いに大きな温度差があったことが窺えます。

 淡々と記している中にも、日本のテレビと原子力工学者が、毎回「ただちに心配することはない」を繰り返したことにはさすがに義憤を覚えているようで、「現時点で特に心配する必要はないと言っていると、一号機建屋の爆発が起こる。爆発が起こっても、これは作業の一環でわざと起こした爆発かもしれないと擁護的に説明する。いよいよ水素爆発だったということになると、今度は爆発によって外部へ放射性物質が漏洩することはないだろうと言う。やがて放射性物質が外部へ出たことがわかると、今度は放出量は人体に影響がない範囲だろうと言う」と―確かにこの通りだったなあ。憤りを感じない方がおかしいよ。

 保育園や心身障害児施設の子供達が緊急避難先の公民館で孤立し、電話が繋がらないため園長が電子メールでロンドンの家族に連絡し、家族からの救援要請が東京都副知事に届いて救援のヘリコプターが来たとか、停車した電車の中で、乗客が携帯ワンセグ放送で津波が迫っているのを知り、乗り合わせていた若い巡査らが乗客を避難誘導して全員無事だったとか、インターネット等が人命を救った話はあったなあ。

 極めつけは、NHKテレビで災害放送を見ていた広島の中学生が、テレビ・ラジオに接することのできない被災現地の人々のために、ユ―ストリームのサイトを利用して自宅からNHKをライブ中継したというもので、著作権法違反ではないかとのと問い合わせがNHKにあったけれども、担当者が、自分の責任において容認すると発信したそうです。

 この他にも、様々なケースでこうしたソーシャルメディアが活用された一方で、政府の避難勧告やSPEEDIなどのデータ公表の遅れにより、多くの人が、高濃度放射能汚染地域からの初期避難が遅れたり、放射性物質の飛んでいく風下の方へ避難したりしたわけで、今考えると、国の罪は重いと言うか、情報は自分で集めなければならないということなのか。

 日本のマスコミの政府や東電の話をそのまま横流ししているような報道姿勢に早くから不信を抱いていた外国人特派員らは、テレビに出ている擁護的な原子力工学専門家の説明とは違う説明を聞くために、3月15日には、原子炉格納容器の元設計者・後藤政志氏を講師に招いて講演会を開催し、4月25日の原子力安全・保安院と東電による海外メディア向けの合同記者会見の参加者はゼロ、保安院と東電は、誰もいない記者席に向かって説明を行ったとのことです。

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やはり代替エネルギーも一応は考える必要があるが、「節電」=「発電」にはナルホドと。

脱原子力社会へ.jpg 『脱原子力社会へ――電力をグリーン化する (岩波新書)

 社会学者が、電力の「グリーン化」をキーワードに、海外の事例を引きながら、政府・企業・NGO・消費者の協働に基づく、未来志向的な「脱原子力大国」への政策転換を提言した本。

 冒頭第1章で、今回の福島第一原発の事故を振り返りつつ、なぜ原子力は止まらないのかを考察しています。その中で、原発の非常用発電機がタービン建屋内の「地下」にあったために津波で浸水し機能しなくなったことが指摘されていますが、これは広河隆一氏の『福島 原発の人びと』('11年8月/岩波新書)の中にもありましたが、竜巻やハリケーンを想定した「米国式設計」をそのまま採用し、東電は「フル・ターン・キ―契約」という始動気キーをひねるだけの契約で、全てはGEに丸投げだったということだったのだなあと。

 第1章で、地震列島に54基もの原発が立地することの「環境リスク管理」の技術的・経済的・社会的困難さがフクシマの事故で明らかになったとし、続く第2章で、エネルギーの効率利用と、脱原子力に基づく電力のグリーン化への転換を説いていいて、ここが本書の肝であると思われます。

 海外の事例の中ではアメリカの事例が冒頭にあり、アメリカは原発推進国とされてきたように感じていましたが、70年代後半には原子力ブームはもう終わっていたのだなあと。地域的な事例ですが、電力設備は増やさずに稼働率を高めるなどして脱原発を果たしたり、住民と電力会社が協働で太陽光発電の導入を推進したりといった事例が紹介されていて、それぞれに、「省電力は発電である」というコンセプトが根底にあるという点が興味深かったです。

 「グリーン・エネルギー」というと風力や太陽光発電が思い浮かびますが、節電することも、効果的には発電していることと同じになるわけか。「クリーン・エネルギー」という言葉は実際海外で使われているようですが、「クリーン電力」と言わず「グリーン電力」という言葉を著者が推すのは、「クリーンな電力」というのが原発の宣伝の常套句であったということもあるためのとのこと。

 グリーン化のために消費者ができることを、例えば、希望者が自発的に再生可能エネルギーの発電事業者に寄付する「寄付方式」など5通り挙げていて、その他「出資金方式」「「電力証書方式」「電力力金転嫁方式」などが紹介されてますが、主に海外の事例を参照しつつも、一部、国内でも限定的に試行されたりしているものもあり、この点は個人的には新たな知見でした。

 第3章では、日本の各地域からも脱原発の声が上がっていることを、住民投票などの事例で紹介していますが、まだ「脱原発」を訴えるだけで「代替エネルギー」等の提案までいってないのが大方の状況ながらも、前章の事例のほか、再生エネルギーによる地域おこし、市民風車や市民共同発電といったプロジェクトなどが紹介されています。

 「脱原発」を訴えるのはいいが、やはり次の代替エネルギーを考えないとね。そうした意味では、「脱原子力社会」へ向けての具体的な提案の書。
 但し、風力発電などは、効率面での失敗例もあるし、電磁波障害など新たな"公害"問題を引き起こしているケースもあったはず。そうしたネガティブ情報については、意識的に触れられていないように思えるのが、ややどうかなあという気も。

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写真の伝える力もさることながら、取材文章にも緊迫感があり、今後の課題についても考察。

福島 原発と人びと 岩波新書.jpg福島原発事故~チェルノブイリから何を学ぶか.jpg
広河隆一氏.jpg 広河隆一氏 (フォトジャーナリスト、戦場カメラマン、市民活動家)
写真展「福島原発事故~チェルノブイリから何を学ぶか」(2011年5月3日~18日)
福島 原発と人びと (岩波新書)

 スリーマイル島やチェルノブイリの原発事故の際に、実態を現地に行って取材し報道したことで講談社出版文化賞を受賞している筋金入りのフォトジャーナリストである著者が、'11年3月11日に東日本大震災が発生し、福島第一原発でメルトダウン事故が起きたのを受けて直ぐに現地を訪れ、その後も何度か現地を取材したものを纏めたルポルタージュ。

 全体を通して写真が多く、やはり写真の伝える力というのは凄いと思いましたが、それだけでなく、文章の方も、冒頭第1章の原発事故の報を受けて急遽現地入りするまでの経過などは非常に緊迫感に満ちていて、避難指示地域に入って放射線測定器の針が振り切れてしまったというのにはぞっとさせられました。

 著者は基本的に、現地から避難してくる人たちと逆方向に、出来るだけ原発事故被災地の中心部へと向かったわけですが、一方、事故当時の現地の人々の避難は漫然としたものであり、事故後3日目の、その"測定器の針が振り切れた"という原発から3キロ地点の双葉町の街中でさえ人々がいて、自転車やバイクで移動していたというのには驚かされました。

 こうした状況を目の当たりにし、著者は急遽取材を止め、道で会った人々に避難を呼びかけるとともに、市区町村役場を廻り、住民により緊急の避難を促すよう説いていて、政府の初動体制の緩慢さから、多くの人が相当量被曝したであろうことが窺えます。

 続く第2章の原発作業員への取材や、第3章の浪江町に住むある老夫婦とその娘たちの家族にフォーカスした取材も、震災並びに事故直後から動きを時系列で追っていて、たいへん緊迫感がありました。

 第4章では、原発事故報道で東電、保安院、官邸が隠蔽した情報を検証し、第5章では、地域の農家などを取材し、拡がる放射能被害の実態を伝え、第6章では、学校や住民は子供達を放射能被害からどう守ろうとしたかが報じられています。

 更に、チェルノブイリの現在を伝えることで、そこから何を学ぶべきかを示唆していますが、著者がチェルノブイリ取材で甲状腺ガンに苦しむ子供達やその家族と接して以来、「チェルノブイリ子ども基金」などを通じて、現地の子供達の支援活動を続けているということは、この章の記述で初めて知りました。

 チェルノブイリ原発火災の消火活動で多くの消防士を失った消防隊長が、「当時は放射能の恐ろしさを知らされてなかった」と語るとともに、「放射能防護服といわれるものは世界中にまだ一着も存在していないのです」と言っているのが印象に残りました(放射能物資の身体への付着を避けるだけであって、γ線や中性子線は、どんどん身体を突き抜けているわけだから)。

 最後の、チェルノブイリの現状を参照しつつ、フクシマにおいて今後懸念されることを考察していますが、やはり、放射能被害が顕在化してくることが一番危惧されるべきことなのでしょう。

 一方で、長崎大学の長瀧名誉教授らを筆頭に多くの原発推進派の学者が早々と現地に送り込まれ、住民を安心させるためだけの根拠無い安全講話をして廻ったため、そうした危機意識の持ち方にも被災した住民の間でムラがあるようで、こうした御用学者の犯した罪は重いように思われました。

 著者は報道写真の月刊誌「DAYS JAPAN(デイズジャパン)」の編集長としてフリージャーナリストを多く受け入れていますが、岩波書店もフリージャーナリストを多く受け入れ彼らの本も出しており、本書は原発事故の記録として岩波新書に加えるに相応しい一冊と言えるかもしれません。

【読書MEMO】
広河隆一.jpg●写真誌「DAYS JAPAN」を発行するデイズジャパン(東京)は(2018年12月)26日、フォトジャーナリストの広河隆一氏(75)を25日付で代表取締役から解任したことを明らかにした。週刊文春2019年1月3日・10日号で、広河氏からのセクハラ行為を訴える女性の元スタッフらの証言が報じられていた。[2018年12月26日WEB東奥日報(共同通信社)]

「週刊文春」 2019年 1/10 号/「DAYS JAPAN(デイズジャパン)」2019年 2月号
広河 隆一 雑誌.jpg広河 隆一 zassi.jpg

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反原発科学者の遺作。立ち上がりから杜撰だった日本の原子力開発の実態がわかる。

原発事故はなぜくりかえすのか.jpg  高木 仁三郎.jpg 高木仁三郎06.jpg
原発事故はなぜくりかえすのか (岩波新書)』 高木仁三郎(1938-2000/享年62)/原子力資料情報室の設立総会(1999年1月30日)

 『プルトニウムの恐怖』('81年/岩波新書)などで早くから原発とそれを巡る放射能汚染事故発生の危険性を訴え、原子力科学者でありながら「反原発の旗手」でもあった高木仁三郎(1938-2000)が直腸ガンと告知されたのは'98年夏のことであり、最後に書き遺しておきたいこととして『市民科学者として生きる』('99年/岩波新書)を著します。

東海村JCO臨界事故.bmp しかし、その「最後の著書」が刊行された'99年9月に、茨城県東海村でJOCの臨界事故が起きたことで、さらに「言い遺しておきたいこと」ができた著者が、闘病生活の病床で口述筆記により著したのが本書です。

東海村JOCの臨界事故

 実際に録音が行われたのが'00年の夏で、著者は同年10月、本書刊行前に帰らぬ人となってしまいましたが、すでに本書口述中に自らの死を覚悟していたと思われ、本書の最後には「偲ぶ会」での最後のメッセージが付されています。

 原子力発電の科学的・社会的な問題点と放射能汚染事故の危険性を訴える語り口は淡々としており、それでいて、JOCの臨界事故という悲惨な出来事が、原子力産業・技術・文化の様々な問題点の集積の結果として起きたものであることを、鋭く指摘しています。

 自らが原子化学者として日本原子力事業や東大原子力研究所といった企業・機関で研究に携わっていたころの原子力・放射能の危険性に対する認識の甘さや管理の杜撰さ―これは体質的なものであり、どうしてそのような体質が成り立ったか、更にそれが綿々と続いているのは何故かということを、体験的に分かり易く述べています。

 それによれば、国の原子力開発事業というものは、徹頭徹尾、科学という実態も或いは産業的基礎もないままに、上からの非常に政治的な思惑によってスタートし、更に、三井・三菱・住友といった財閥系企業や大手銀行がそれに乗っかり、「議論なし」「批判なし」「思想なし」の中で進められとのこと。この「三ない主義」は徹底されていた、と言うより、むしろ強制であったとしています。

 そうしたことに疑問を感じた科学者も当初は少なからずいて、著者もその一人でありそうしたことから反原発に転じましたが、反原発に転じなくとも多くの優秀な科学者が他分野の研究に転じ、上から指示を唯々諾々と守る、思想無き体制順応型の技術者や科学者だけが"エリート"として後に残った末に、国・企業と一体となって、所謂「原子力村」という特殊な社会を形成していったようです。

 著者は20代の頃からそうした実態を生身で体験していたわけですが、自分たちが研究に携わっていたころ安全管理意識の希薄さ、実験研究等における放射能管理の杜撰さなども語っており、そうした意味では、著者の研究人生を反省と共に振り返るものともなっている一方で、特定の科学者に見られる思考回路の科学的な弱点を指摘し、更には、科学者として「自分の考え」を持つことの重要さを訴えています。

 また、こうした科学者個々に対する啓蒙だけでなく、国・政府機関などの原子力行政の在り方の問題点を指弾するものとなっており、更に一方では前著同様に、原子力科学の入門書にもなっており、プルトニウムをはじめとする様々の放射能性物質の特性やその危険性が、分かり易く解説されています。

 原子力推進派の科学者の中には、著者のことを蛇蝎の如く嫌う人も多くいたかと思われますが(そうした人には著者の死は安堵感を与えたかも知れない)、一方で、その科学的水準の高さ、指摘の的確さに密かに畏敬の念を抱いていた人もいたように聞きます。

 東日本大震災による福島第一原発事故が起きてみれば、ある意味、予見的な著者であったとも言えますが、本書刊行以前にも多くの原発事故及び事故隠しが行われていたことが本書の中で一覧に示されており、むしろ、本書におけるプルトニウムの危険性の記述を読んで、本書刊行の契機となったJOCの事故が、使用済み核燃料からプルトニウムを取り出すためのMOX燃料を巡る事故とであったことを思うと、更に先々の危険を予言している本であるとも言えます(その予言が的中しないことを祈るのみだが)。

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ただ「計算してみました」というだけの内容を遥かに超え、脱原発への道筋を示している。

原発のコスト 岩波新書.jpg 『原発のコスト――エネルギー転換への視点 (岩波新書)』 大島 堅一.jpg 大島 堅一 氏

 40代半ば中堅の環境経済学者による著書で(朝日新聞社主催の2012(平成24)年度・第12回「大佛次郎論壇賞」受賞)、第1章で東日本大震災による福島第一原発の事故では一体何が起きたのかを振り返り、環境被害の深刻さ、人体への影響、生活への影響を検証しています。

 続く第2章では、被害補償をどのように進めるべきかを論じていて、事故費用を①損害賠償費用、②事故収束・廃炉費用、③原状回復費用、④行政費用に区分し、それぞれ試算しています。

 それによると、①の住民の被害に直接関わる費用である「損害賠償費用」を、直接的な被害だけでなく、営業費用(実害と風評被害)や就労不能による損害、財産価値の喪失・減少など経済的被害なども併せた「被害の総体」を賠償する費用と捉えると、それだけで5.9兆円になり、これに②~④を加えると8.5兆円になるとしていますが(④の行政費用は、国や自治体が行う防災対策と放射能汚染対策、それに放射能汚染により出荷できなくなった食品の買い取り費用も含まれる)、廃炉費用を東京電力の試算を基に1.68兆円と見積もっているものの、これは1号機から4号機の被害状況が十分確認されていない段階での試算であり(チェルノブイリ原発の廃炉費用は19兆年かかっていることからもっと増える可能性がある)、更には、この「8.5兆円」という数字には、③の原状回復費用は"試算不能"として含まれていません(放射性廃棄物貯蔵施設の建設費用だけで80兆円かかるという報道もあるとのこと)。

 そこで次には、このうちの何がどこまで賠償されるかということが問題になってきますが、原子力損害賠償制度というのは、事業者である東京電力の過失責任であった場合、賠償措置が一定の限度額を超えると国が補完援助することになっていて、更には、新たな損害賠償スキームとして登場した原子力損害賠償支援機構は、仕組み上は、この東京電力への援助に上限を設けず、必要があれば何度でも援助できるようにして、東京電力が債務超過に陥らせないようにするようになっているとのこと。こうなると、著者が言うように、東京電力を守るための機構であり、また、原賠法が事業者の責任を明確にした上での国の援助を定めていたのに、東京電力の責任もどんどん曖昧になっていくのではないかなあ(それが、機構を設立した目的なのかもしれないが、最終的な負担は国民の税金にかかってくるため、東京電力にオブリゲーションが無いまま、負担増だけが国民に強いられるというのは解せない)。

 第3章では、原子力は水力・火力に比べ発電コストが安いとされているが、本当にそうなのかを検証していて、この計算のまやかしは以前から言われていたかと思いますが、本書では、原子力発電に不可欠な技術開発コスト、立地対策コストを政策コストとして勘案すると、火力や水力よりも電力コストは高くなることを計算によって示しています(一キロワット当たり、原子力は10.25円、火力は9.91円、水力は7.19円)。

 これらに加えて、原子力発電には、原子力事故後に発生するコスト(事故コスト)が高く、これを事故リスクコストとして計算すること自体に無理あり、更には、核燃料の使用後に発生する使用済燃料の処理・処分にかかる所謂バックエンドコスト(総合資源エネルギー調査会がこれを18.8兆円と計算しているが、実際の額はもっと高くなると想定される)まで含めると、その「経済性」は疑われるとしていますが、尤もだと思いました。

 このようにコストがかかる上に、危険でもある原子力発電ですが、第4章では更に踏み込んで、こうした中、原子力複合体(所謂「原子力村」)がいかにして「安全神話」を作り上げてきたかが検証されていて、そこには反対派の徹底排除を進めるうちに、推進する当事者の側で、危険性を問題視すること自体がタブーとして形成されてしまったというのが実態であるとの分析をしています。

 著者は、日本においてはこの原子力複合体(原子力村)の力があまりにも強すぎるとしながらも、最終第5章では、福島第一原発事故により脱原発に対する国民の支持が圧倒的に高まっており、また原発に頼らなくとも少し節電するだだけで電力供給を賄うことは可能であるとして(節電コストと節電による節約額の方が大きい)、原発を止める道筋を提唱すると共に、脱原発のコストを計算し、更には、再生可能エネルギー普及政策の考え方を示しています。

 環境経済学ってこういうことを計算するのかと初めて知りましたが、あとがきによれば、こと原子力政策については批判的に研究している専門家は極端に少なく、時として孤独な作業を強いられるとのこと、しかも本書は、ただ「計算してみました」というだけの内容を遥かに超えており、事故の経緯や安全性の問題など、著者自身の専門を超える範囲についても相当の勉強をした痕跡が窺えました。

 こうした学者がいることは心強いですが、同じ志を持った研究者がより多く出てくることを期待したいと思いました(著者は、現在は立命館大学教授。私立大学にもっと頑張って欲しい)。

原発コスト4割高.jpg 2011年11月23日 朝日新聞・朝刊

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脱原発の教科書であり、学際的集大成。今後の議論の継続・発展を望む。

原発を終わらせる.jpg    石橋 克彦.jpg 石橋克彦 氏(2011年5月23日参議院行政監視委員会)
原発を終わらせる (岩波新書)』(2011/07)

 地震学者・石橋克彦氏を編者とした14本の小論文集で、東日本大震災、福島第一原子力発電事故後、原発を巡る識者の共著の刊行は珍しくありませんが、事故後3ヵ月そこそこで、これだけの専門家(原子力工学の専門家、技術者、社会学者、地方財政論の専門家など。原発を長く取材してきたジャーナリストをも含む)の論文を集めることが出来るのは、岩波ならではかもしれません。

 全4部構成の第Ⅰ部が福島第一原発の現状、第Ⅱ部が原発の技術的問題点、第Ⅲ部が原発の社会的問題点、第4部が脱原発の経済・エネルギー戦略となっていて、口上には「原発を終わらせるための現実的かつ具体的な道を提案する」とありますが、どちらかと言うと、今回の事故を検証し、あらためて原発の何が問題なのかを多面的に考えるものとなっています。

 個人的に特に印象に残ったのは、冒頭の原発の圧力容器の設計に携わった田中三彦氏の「原発で何が起きたのか」で、この人には『原発はなぜ危険か―元設計技師の証言』('90年/岩波新書)という20年前の著書もありますが、今回の事故後に発表された東電の発表データを分析して、改めて1号機の耐震脆弱性を指摘しており、津波の前に地震で既に電源トラブルと原子炉の損傷があり、1号機原子炉は危険な状態に陥っていたと考えられるとしており、この指摘は、「津波対策をすれば原発は安全になる」という発想を根本から崩すものとして注目されるべきかと思います(実際、その後多くの識者がこの考えを支持した)。

 その他に、金属材料学が専門の井野博満・東大名誉教授も、「原発は先が見えない技術」と題した論文の中で、「圧力容器の照射脆化」の問題を取り上げると共に、高レベル廃棄物の地層処分(ガラス固化体)における「オーバーパックの耐食性」について、「1000年後もオーバーパックの健全性は保たれる」という財団法人原子力安全研究委員会の報告を、そうした「予測」を必要とする人達の「期待」に沿った安全ストーリーを作り上げているに過ぎないとしています。

 また、本書編者で地震テクトニクスが専門の石橋克彦・神戸大学名誉教授は、「地震列島の原発」と題した論文の中で、冒頭の石橋論文を受けて、福島第一原発は、地震動そのものによって「冷やす」「閉じ込める」機能を失うという重大事故が起きた可能性が強いとし、耐震基準の変遷を追いながら、その問題点を指摘しています(福島第一原発の耐震性を審議する委員会で896年の貞観地震の大津波を考慮するよう東電に求めたが、東電はこれを無視した―と巷で言われているのは事実では無く、委員会そのものが最終報告に津波の危険性について考慮を求めることを入れなかったため、津波対策は最初から対象外だったとのこと)。それにしても、地震地帯の真上に54基もの原子炉を造っている国なんて、日本ぐらいなんだなあ(116-117pの図)。

 論文の多くが根拠を明確にするために、所謂「論文形式」に近い形で書かれていて、専門度も高いために素人にはやや難解な部分もありましたが、自分なりに新たな知見が得られた箇所が多くありました。

 脱原発の教科書であり、学際的集大成。願わくば、もっと早くにこうした本が刊行されても良かったのではと思われ、今後も、こうした研究者間相互の情報共有が進み、更に問題の解決に向けての議論が継続・発展することを望みたいと思います。

《読書MEMO》
●目次
はじめに                        石橋克彦
Ⅰ 福島第一原発事故
    1 原発で何が起きたのか           田中三彦
    2 事故はいつまで続くのか          後藤政志
    3 福島原発避難民を訪ねて         鎌田 遵
Ⅱ 原発の何が問題かー科学・技術的側面から    
    1 原発は不完全な技術            上澤千尋
    2 原発は先の見えない技術         井野博満
    3 原発事故の災害規模            今中哲二
    4 地震列島の原発               石橋克彦
Ⅲ 原発の何が問題かー社会的側面から
    1 原子力安全規制を麻痺させた安全神話 吉岡 斉
    2 原発依存の地域社会            伊藤久雄
    3 原子力発電と兵器転用
        ―増え続けるプルトニウムのゆくえ  田窪雅文
Ⅳ 原発をどう終わらせるか
    1 エネルギーシフトの戦略
        ―原子力でもなく、火力でもなく     飯田哲也
    2 原発立地自治体の自立と再生       清水修二
    3 経済・産業構造をどう変えるか       諸富 徹
    4 原発のない新しい時代に踏みだそう    山口幸夫

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今まで、岩波新書に無かったなあ。「読む教科書」としてはやや硬いが、優れモノではないか。

労働法入門5.JPG労働法入門 水町.jpg 『労働法入門 (岩波新書)』 水町 勇一郎.bmp 水町勇一郎 氏(略歴下記)

 随分ストレートなタイトルですが、今まで岩波新書に同様のものが無かったからこのタイトルが使えるのかなあ(なぜ無かったのか、やや不思議。永らく、労働法というものをそれほど意識しなくても済んだ時代が続いたということ?)。
 
『労働法入門』.JPG 本書は、気鋭の労働法学者が、労働法は働く者にとってどう役に立つのかという観点から、大学で労働法を勉強したことがない一般社会人にも身近に感じられるようにとの考えのもと、労働法の全体像を解説した入門書です。

 まず、労働法の背景や基礎にある思想や社会のあり方から、労働法の構造や枠組みを掘り起こしたうえで、採用・人事・解雇・賃金・労働時間・雇用差別・労働組合・労働紛争などについて、近年の新しい動きも含めて、労働法の全体像を解き明かしています。

 「はじめに」の部分にある、聖書において、神によってアダムとイブに『罰』として課されたとされていた「労働」が、マルチン・ルターのよって『天賦』としての「労働」という新たな解釈になったという話や、日本の労働観は「家業」としての労働であり、日本における「労働」とは、イエという共同体に結びつき、家族のための「生業」と、自分の分を果たすという「職分」の二面が合体したものを指すという著者の見解などは、興味深いものでした。

 本編に入ると、「入門」と謳っていながらも専門書を圧縮したような感じで(「入門」だからこそ当然そうなるのかも知れないが)、労働法の全体像を網羅した、堅実且つオーソドックスな内容ではあるものの、やや硬いかなあという感じも(著者もそのことを意識したのか、その"硬さ"を和らげるかのように、各章の冒頭にエッセイ風のプロローグがあるが)。

 それでも、テーマごとに重要判例などを交えながら、これだけの内容が新書1冊にコンパクトに纏られているのは流石その著書が「水町・労働法」と呼ばれている著者という感じで、「読む教科書」として手頃な"優れモノ"ではないでしょうか。欧米諸国との比較なども随所に織り込まれていて、日本の労働法の特徴が、分かり易く浮き彫りにされているのもいいです。

 本書の中では、判例法理等が労働者にも会社にもきちんと認識されておらず、大学などで学ぶ「労働法」と実際に企業に入って味わう「現場」のギャップこそが、日本の労働法の最大の問題であるかもしれないとしていますが、そうなんだよなあと。
 
 最後には今後の労働法の方向性について述べられていて、「集団としての労働者」から「個々人としての労働者」に転換しつつある状況を踏まえて、労働法も「個人としての労働者」をサポートするシステムにシフトとしていくべきであるとする考え(菅野和夫・諏訪邦夫教授)と、労働者の自己決定を保障するためには国家による法規制が不可欠であり、とりわけ労働組合が脆弱な日本では国家法(労働法)がその役割を果たすべきであるとする考え(西谷敏教授)を紹介しています。

 その上で、著者は、「国家」と「個人」の間に位置する「集団」(労働組合や労働者代表組織など)に注目し、「集団」的な組織やネットワークによって問題の認識と解決・予防を図っていくこと、そのための制度的な基盤づくりが重要な課題であるとしています。

 こうした提言部分もありますが、全体としては、タイトル通りの「入門書」としてのウェイトが殆どでしょうか。本書の中で、使用者も労働者も労働法を知らな過ぎることを問題の1つに挙げていますが、近年、労働社会の変化に応じて労働法制にも変化が見られるにも関わらず、またそれは、労働者全般に関わる問題であるにも関わらず、こうした「入門書」が岩波新書に無かったことを考えると、意義ある刊行と言えるのではないかと。

 岩波新書にこのタイトル・ポジションを確保したということは、これから更に法改正があると、その都度改版していくのかなあ。

_________________________________________________

水町勇一郎 1967年生まれ 東京大学教授

1986年 - 佐賀県立佐賀西高等学校卒業
1990年 - 東京大学法学部卒業
1990年 - 東京大学法学部助手
1993年 - 東北大学法学部助教授
2004年 - 東京大学社会科学研究所助教授
2007年 - 東京大学社会科学研究所准教授
2010年 - 東京大学社会科学研究所教授

労働法入門 旧新.JPG【2019年新版[岩波新書]】

《読書MEMO》
●「アダムとイブ-『罰』として課された労働」と「ルター-『天賦』としての労働」という対比―前者は、フランスのバカンスの権利につながり、後者はドイツの就労請求権につながる(まえがき)
●日本の労働観は「家業」としての労働―日本における「労働」とは、イエという共同体に結びつき、家族のための「生業」と、自分の分を果たすという「職分」の二面が合体したものをさす(まえがき)
●大学などで学ぶ「労働法」と、実際に企業も入って味わう「現場」とのギャップこそが、日本の労働法の最大の問題(85p)
●以下、章立て
第1章 労働法はどのようにして生まれたか―労働法の歴史
1労働法の背景―二つの革命と労働者の貧困
2労働法の誕生―「個人の自由」を修正する「集団」の発明
3労働法の発展―「黄金の循環」
4労働法の危機―社会の複雑化とグローバル化
第2章 労働法はどのような枠組みからなっているか―労働法の法源
1「法」とは何か
2人は何を根拠に他人から強制されるのか
3労働法に固有の法源とは
4日本の労働法の体系と特徴
第3章 採用、人事、解雇は会社の自由なのか―雇用関係の展開と法
1雇用関係の終了―解雇など
2雇用関係の成立―採用
3雇用関係の展開―人事
第4章 労働者の人権はどのようにして守られるのか―労働者の人権と法
1雇用差別の禁止
2労働憲章
3人格的利益・プライバシーの保護
4内部告発の保護
5労働者の人権保障の意味
第5章 賃金、労働時間、健康はどのようにして守られているのか―労働条件の内容と法
1賃金
2労働時間
3休暇・休業
4労働者の安全・健康の確保
5労働者の健康を確保するための課題
第6章 労働組合はなぜ必要なのか―労使関係をめぐる法
1労働組合はなぜ法的に保護されているのか
2労働組合の組織と基盤
3団体交渉と労働協約
4団体行動権の保障
5不当労働行為の禁止
6企業別組合をどう考えるか
第7章 労働力の取引はなぜ自由に委ねられないのか―労働市場をめぐる法
1なぜ労働市場には規制が必要か
2雇用仲介事業の法規制
3雇用政策法
4日本の労働市場法をめぐる課題
第8章 「労働者」「使用者」とは誰か―労働関係の多様化・複雑化と法
1労働関係が多様化・複雑化するなかで
2「労働者」―労働法の適用範囲
3「使用者」―労働法上の責任追及の相手
4「労働者」という概念を再検討するために
第9章 労働法はどのようにして守られるのか―労働紛争解決のための法
1裁判所に行く前の拠り所
2最後の拠り所としての裁判所
3紛争解決の第一歩
第10章 労働法はどこへいくのか―労働法の背景にある変化とこれからの改革に向けて
1日本の労働法の方向性
2「個人」か「国家」か―その中間にある「集団」の視点
3これからの労働法の姿―「国家」と「個人」と「集団」の適切な組み合わせ
4労働法の未来の鍵

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雇用システムの「現実的・漸進的改革の方向」を示す。読めば読むほど味が出てくる"スルメ"みたいな本。

新しい労働社会3047.JPG新しい労働社会 雇用システムの再構築へ.jpg        濱口桂一郎.jpg 濱口桂一郎 氏(労働政策研究・研修機構)
新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)』['09年]

 「派遣切り」「名ばかり管理職」「ワーキングプア」「製造業への派遣」といった現在生じている労働問題をめぐる議論は、それぞれ案件ごとの規制緩和論と規制強化論の対立図式になりがちですが、本書は、そうした問題を個別的・表層的捉えるのではなく、国際比較と歴史的経緯という大きな構図の中で捉えようとしています。

 序章において、わが国おける雇用契約は、諸外国と異なり「職務(ジョブ)」ではなく「メンバーシップ」に基づくものであり、そのことが日本型雇用システムの特徴である長期雇用、年功賃金、企業内組合の形成要因となっていることを明快に説いています。

 個人的には「メンバーシップ」という表現及びこの部分の論旨がものすごく分かりよかったのですが(序章だけでも読んでおく価値あり!)、こうしたことを踏まえ、労働問題の各論へと進みます。

 第1章では働きすぎの正社員のワークライフバランス問題をとり上げ、「名ばかり管理職」「ホワイトカラーエグゼンプション」をめぐる議論においては、健康確保措置の問題が報酬問題にすり替えられたと指摘していますが、これは個人的にも同感。マクドナルド事件は、名ばかり管理職問題ではなく過重残業問題だったというのは、何人かの著名な弁護士(主に使用者側)などもそう指摘していたように思います。

 第2章では非正規労働者の問題をとり上げ、「偽装請負」「労働者派遣法」などに関する議論について歴史的経緯を踏まえて再整理していますが、「日雇い派遣」問題の本質は「偽装有期雇用」にあり、この「偽装有期雇用」こそが問題であるとの指摘には、目を見開かせられる思いをしました。

 第3章ではワーキングプア問題をとり上げ、メンバーシップ型正社員だけに手厚い生活給制度が適用されてきたという経緯の中、過去にもアルバイト等の非メンバーシップ労働者はいたものの、親の生活給賃金が子の生計を補填するといった構図で"日本的フレクシキュリティ(柔軟性+安定性)"が保たれていて、それが近年、非正規雇用労働者の増加により、そのフレクシキュリティが揺らいできたというのが、ワーキングプア問題の本質であるとしています。

 日本の法定の最低賃金の水準の低さは、最低賃金がアルバイトとパートという家計補助労働の対価を対象にしていることに起因としているとの指摘は卓見であり、こうした背景との繋がりがワーキングプア問題の基礎にあるということは、問題の案件をそれだけに絞って見てしまっていては見えてこないんだろうなあと。

 ここまでにも幾つかの提言はありますが、どちらかと言えば改革に繋げる前段階(下ごしらえ)の議論であり、それに対し第4章は、本書タイトルにより呼応した内容であり、非正規労働者も含めた労働組合再編など、集団的合意形成の新たな枠組みを提言するとともに、労働政策の決定に一部のステークスホルダーしか関与していないことなどを批判しています(そうなんだ。政労使三者構成というのが本来は、原則のはずなんだよなあ)。

 現行の労働法制の成立過程を追い、その矛盾や実態との乖離を指摘している点は参考になり、また、雇用システムというものが、法的、政治的、経済的、経営的、社会的などの様々な側面が一体となった社会システムであることを踏まえた上での論考は、「現実的・漸進的改革の方向」(著者)を示したものと言えるかと思います。

 労働法を学ぶ人にはブログなどでもお馴染みの論客ですが(大学のオープン講座で労働政策研究・研修機構のR・H先生の労働法の講義を聴いたときに、著者のブログを勧められた。個人的にも以前から読んでいたけれど)、この人、EUの労働法にも詳しかったりするけれど、労働経済学者なんだよね。労働法学と社会政策学の両方の分野を論じることができるのが著者の強みであり、かなりの希少価値ではないかと。

 新書という体裁上、コンパクトに纏まっていますが、読めば読むほど味が出てくる"スルメ"みたいな本です。
 評価で星半個減は、自分自身の理解が及ばなかった部分が若干あったためで、4章が、もやっとした感じ。自分の中に「労組=旧態然」というネガティブイメージがあるのもその一因かもしれません。

 折をみて再読したいと思いますが、ブログを読むよりは、ちょっと気合いを入れてかかる必要があるかも。そう思いつついたら、もう、本書の続編と言えるかどうかわからないけれど、『日本の雇用と労働法』('11年/日経文庫)というのが刊行されており、そちらも読み始めてしまった...。

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労働経済学者による社会哲学の本。自己啓発本にみたいな印象も。

希望のつくり方.jpg 『希望のつくり方 (岩波新書)

 労働経済学者で、『仕事の中の曖昧な不安』('01年/中央公論新社)などの著書のある著者の本ですが、『ニート―フリーターでもなく失業者でもなく』('04年/幻冬舎、曲沼美恵氏と共著)で「ニート」論へ行き、今度は「希望学」とのこと。
 但し、いきなりということではなく、東京大学社会科学研究所で'05年度に「希望学プロジェクト」というものを立ち上げており、既に『希望学』(全4巻/東大出版会)という学術書も上梓されているとのことです。

 冒頭で、希望の有無は、年齢、収入、教育機会、健康が影響するといった統計分析をしていますが、この人の統計分析は、前著『ニート』において、フリーターでも失業者でもない人を「ニート」と呼ぶことで、求職中ではないが働く意欲はある「非求職型(就職希望型)」無業者(本質的にはフリーターや失業者(求職者)に近いはず)を、(働く予定や必要の無い)「非希望型」無業者と同じに扱ってしまい、それらに「ひきこもり」や「犯罪親和層」のイメージが拡大適用される原因を作ってしまったと、同門後輩の本田由紀氏から手厳しく非難された経緯があり、個人的には、やや不信感も。

 但し、本書では、そうした数値で割り切れない部分に多くの考察を割いており、希望を成立させるキーワードとして、Wish(気持ち)、Something(大切な何か)、Come True(実現)、Action(行動)の4つを見出し、「希望とは、行動によって何かを実現しようとする気持ち」(Hope is a Wish for Something to Come True by Action)だと定義づけています。

 更に、これに「他者との関係性」も加え、社会全体で希望を共有する方策を探ろうとしていて、個人の内面で完結すると思われがちな希望を、「社会」や「関係」によって影響を受けるものとして扱っているのが、著者の言う「希望学」の特色でしょう。

 学際的な試みではあるかと思われ、「希望の多くは失望に終わる」が、それでも「希望の修正を重ねることで、やりがいに出会える」という論旨は、労働経済学やキャリア学の本と言うより「社会哲学」の本と言う感じでしょうか。

 実際、主に、キャリアの入り口に立つ人や、10代・20代の若い層に向けた本であるようで、語りかけるような平易な言葉で書かれていて(但し、内容的には難解な箇所もある)、本書文中にもある、'10年4月にNHK教育テレビで「ハーバード白熱教室」として放送されたマイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』('10年/早川書房)を意識した感もあります(あっちは「政治哲学」の話であり、ベストセラーになった翻訳本そのものは、そう易しい内容ではないように思ったが)。

 「希望は、後生大事に自分の中に抱え込んでいては生きてこない」「全開にはせずとも、ほんの少しだけでも、外へ開いておくべきだ」といった論調からは、啓蒙本、自己啓発本に近い印象も受け、『希望学』全3巻に目を通さずに論評するのはどうかというのもありますが、結局「希望学」というのが何なのか、もやっとした感じで、個人的にはよくわからなかったというのが正直な感想です。

 どちらかと言うと、中高生に向けて講演し、彼を元気づけるような、そんなトーンが感じられる本で、この人、労働経済学よりこっちの方面の方が向いているのではないかと思います。

「●か 河合 隼雄」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【1007】 河合 隼雄 『対話する人間
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「人の話を聴く」ことのプロであった河合氏の「自らを語る」力に改めて感服。

ジョルジュ・デ・ラ・ペーニャ.jpg未来への記憶 河合 上.jpg  未来への記憶 河合下.jpg 河合隼雄自伝 未来への記憶 (新潮文庫).jpg  河合隼雄 フル―ト.jpg
未来への記憶〈上〉―自伝の試み (岩波新書)』『未来への記憶―自伝の試み〈下〉 (岩波新書)』['01年] 『河合隼雄自伝: 未来への記憶 (新潮文庫)』['15年] 映画パンフレット 「ニジンスキー」 監督 ハーバート・ロス 出演 ジョルジュ・デ・ラ・ペーニャ/アラン・べイツ/レスリー・ブラウン/アラン・バデル

 河合隼雄(1928-2007)が自らの半生を語り下ろしたもので、上巻では、丹波篠山で5人の兄弟たちと過ごした子ども時代から大学卒業後、心理学に目覚めるまでを、下巻では、高校教師を経て、31歳でアメリカへ留学した1958年から、スイスのユング研究所で学び帰国する1965年までが語られています。

 地元で高校の数学教師をしていた河合隼雄が、どのようにして日本人初のユング派分析家となったのかという関心から読みましたが、上巻部分の、幼少期に6人兄弟の5番目として、兄・河合雅雄らの影響をどのように受けたかという、兄弟の関係性についての述懐が、思いの外に面白かったです(晩年フルートを習い始めたのも、この頃からの連綿とした伏線があったわけだ)。

 高校受験に失敗して高専に入り、何とか京大数学科に進学した後も自分の適性がわからずに休学したりしていて、結構廻り道している。結局、自宅で数学塾(元祖「河合塾」!)を開いたのを契機に、教師こそ天職と考え、育英学園で先生に。この頃は、自分が将来、京大の教授になるなんて、考えてもみなかったとのことです。

 それが、高校教師をしながら京大の大学院に通ううちに、ロールシャッハにハマり、天理大学で教育心理学の講師をしながら、2度目の挑戦でフルブライト試験に合格。英語が全然得意ではないのに、受かってしまったという経緯が面白いですが、ともかくも臨床心理学を学びにアメリカへ留学。

 下巻部分では、留学先で感じた日米の文化の違いについての自らの体験を語るとともに、そこでユング心理学を知り、教授の指示でスイスのユング研究所へ留学することになった経緯や、ユング研究所において分析家への道をどのように歩んでいったかが述べられています。

 後半部分は、やや順調過ぎる印象もありましたが、最後のユング分析家としての資格を得るための試験で、試験官と大論戦になり、「資格はいらん」と啖呵を切ったという話などは、面白く読めました。

 また、ハンガリーの神話学者ケレーニイとの思いがけない出会いや、「牧神の午後」で有名なロシアの舞踏家ニジンスキーの夫人の日本語の家庭教師をしたときの話なども、大変興味深く読めました。

ニジンスキー_01.jpg 以前にハーバート・ロス(1927-2001)監督の「ニジンスキー」('80年/米)という伝記映画を観ましたが(ハーバート・ロス監督は「愛と喝采の日々」「ダンサー」の監督でもあり、この監督自身ダンサー、振付師を経て映画監督になったという経歴の持ち主)、ニジンスキーはその映画でも描かれている通り、バレエ団の団長と同性愛関係にあり(映画で団長を演じていたのは、一癖も二癖もありそうなアラン・ベイツ)、また分裂病者でもあり(本書によれば、最初にそう診断したのはブロイラー)、夫人はその治療のために、フロイト、ユング、アドラー、ロールシャッハといったセラピストを訪れ(スゴイ面子!)、最後にヴィンスワンガーに行きついていますが、結局ニジンスキーは治らずに、病院で生涯を終えたとのことです。

 映画でニジンスキーを演じたのは、アルゼンチンとロシアの混血で、エキゾチックではあるもののあまりニジンスキーとは似ていないジョルジュ・デ・ラ・ペーニャ。但し、両性具有的な雰囲気をよく醸していて、映画の中で「牧神の午後」や「シェヘラザード」などニジンスキーの代表作をたっぷり観賞でき、踊りのテクニックについても、素人目にも高度であるように思えました。

ニジンスキー ロモラ.jpgニジンスキー ロモラ3.jpg ニジンスキー夫人となるハンガリー貴族の娘ロモラ・ド・プルスキー(「愛と喝采の日々」のレスリー・ブラウンが演じており、彼女は本職がバレエ・ダンサーであって、映画出演は「愛と喝采の日々」('77年/米)とこの「ニジンスキー」の以外では同じくハーバート・ロス監督の「ダンサー」('87年/米)のみ)がニジンスキーの元"追っかけ"の女性で、強引に彼の愛を手に入れてしまうというのは河合氏が本書で語っている通りですが、この映画は夫人の原作に基づいて作られていながらも(ニジンスキーの愛を獲得するという)目的のためには手段を選ばない夫人を相当な悪女として描いています(と言うより"怖い女として"と言った方がいいか)。

 結局ニジンスキーは、同性愛と異性愛の狭間で分裂病になったということでしょうか。映画からは、その原因を夫人側にかなり押し付けている印象も受け、ニジンスキーの後半生は殆ど描かれていないのですが、ラストは、ニジンスキーが拘束着を着せられて暗い部屋に独りでいるところで終わります(この作品は、日本ではビデオ化もDVD化もされていないようだ)。

 河合氏が存命していれば80代前半ぐらいですから、ニジンスキー夫人の話はともかくとして、全体としてはそんな古い人の話という印象は感じられず、また、万事を「心」とか「魂」に帰結させてしまうところから"心理主義"との批判もありますが、こうして本書を読んでみると、心理療法家として「人の話を聴く」ことのプロであった河合氏の「自らを語る」力というものに、改めて感服してしまいます(「聞き手」となった岩波の編集者の優れた能力も見落とせないが)。

 いろいろ批判もあり、個人的にも河合氏を全肯定しているわけではありませんが、氏が亡くなった際に抱いた"巨星墜つ"という感覚が、改めて自分の中で甦ってきました。
 
George De La Pena Nijinsky (1980)
ニジンスキー-4.jpgNIJINSKY 1980.jpg「ニジンスキー」●原題:NIJINSKY●制作年:1980年●制作国:アメリカ●監督:ハーバート・ロス●製作:スタンリー・オトゥール/ノラ・ケイ●脚本:ヒュー・ホイーラー●撮影:ダグラス・スローカム●音楽:ジョン・ランチベリー●原作:ロモラ・ニジンスキー「その後のニジンスキー」●時間:124分●出演:アラン・ベイツ/ジョルジュ・デ・ラ・ペーニャ/レスリー・ブラウン/ジェレミー・アイアンズ/カルラ・フラッチ/アントン・ドーリン/モニカ・メイソン/アラン・バデル/ロナルド・ピックアップ/ロナルド・レイシー●日本公開:1982/10●配給:パラマウント映画=CIC●最初に観た場所:新宿・シネマスクウェア東急(82-12-10)(評価:★★★☆)

【2015年文庫化[新潮文庫(『河合隼雄自伝:未来への記憶』)]】

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日本、お化け、看護婦、躁鬱の4テーマの「雑学記」。「お化けについて」が充実していた。

どくとるマンボウ航海記6.jpgマンボウ雑学記』.JPGマンボウ雑学記.jpg どくとるマンボウ航海記 1960.jpgどくとるマンボウ航海記 新潮文庫.jpg
マンボウ雑学記 (岩波新書 黄版 167)』 『どくとるマンボウ航海記 (1960年)』『どくとるマンボウ航海記 (1965年) (新潮文庫)』(カバーイラスト:佐々木侃司)

 どちらかというと小説よりもエッセイの方がよく読まれているのではないかと思われる著者ですが、自分自身も、一応は『夜と霧の隅で』('60年/新潮社、'63年/新潮文庫)などの小説から入ったものの、結局エッセイの方をより多く読んだように思われ、実際、ある年代以降はこの人は著作の殆どがエッセイになっています。

どくとるマンボウ航海記 中公文庫.jpg太平洋ひとりぼっち 文藝春秋新社.jpg その先駆けが、'60(昭和35)年刊行(『夜と霧の隅で』と同じ刊行年)の『どくとるマンボウ航海記』('60年/中央公論社、'62年/中公文庫、'65年/新潮文庫)であり(『夜と霧の隅で』は、'60年の芥川賞受賞作。一方、『どくとるマンボウ航海記』は児童文学にジャンル分けされていたりもする)、この本は40日ぐらいで一気に書かれたそうですが、そう言えば、堀江謙一氏の『太平洋ひとりぼっち』('62年/文藝春秋新社)も帰国後2ヵ月で書きあげたそうで、やはり、航海の際に日誌をつけているというのが大きいのかな(その堀江氏が日本帰国直後、ホテルに連れて行かれ最初に対談した相手が北杜夫氏だったと『太平洋ひとりぼっち』に書いてある)。

どくとるマンボウ航海記 (中公文庫)』['73年改版版]/『太平洋ひとりぼっち (1962年) (ポケット文春)』['62年/ポケット文春]

どくとるマンボウ航海記 (1960年).jpg北杜夫e.jpg 『どくとるマンボウ航海記』のあとがきには、「大切なこと、カンジンなことはすべて省略し、くだらぬこと、取るに足らぬことだけを書くことにした」とあり、ある意味これは、高度成長期の波に乗らんとし、一方で「政治の季節」でもあった当時ののぼせ上ったような社会風潮に対するアンチテーゼでもあったのかも。作者自身、「僕の作品の中で古典に残るとすれば、『航海記』ではないか」と、後に語っています。

[上写真]1960年、「夜と霧の隅で」で芥川賞を受けるとともに、『どくとるマンボウ航海記』がベストセラーになっていたころの北杜夫氏(兄の斎藤茂太氏邸に居候中)。

どくとるマンボウ航海記 (1960年)

 そんな著者のエッセイの中で、本書は「岩波新書」に書いているという点でちょっと変わっているかも知れず、また、当時の岩波新書のラインナップには、まだ今ほどこのようなこなれたエッセイは少なかったため、岩波としても思い切った試みだったのかも知れません(『航海記』などの"実績"も加味されていると思うが)。

 神話や伝承の中に民族の魂の遍歴を探った「日本について」、日本のお化けの怖さ・面白さを明らかにした「お化けについて」、自らの経験に基づく「看護婦について」「躁鬱について」の4編から成りますが、著者自らも言うように、前2編がメインで、まさに「雑学記」であり、後2編はオマケのエッセイといった感じでしょうか。

 中でも、最もボリュームのある「お化けについて」は、日本の中世・近世の文献にある様々なお化けを体系的に紹介していて、「雑学記」のレベルを超えており、それでいて(岩波新書らしからぬ?)ユーモアも交えて書かれていて、楽しく読めました。

 しかし、よく調べたものだなあ(かなりの執着ぶり)。水木しげる氏の「妖怪」モノの文章版みたいだと思ったら、最後にその水木氏の名が出てきましたが、水木氏にも岩波新書に『妖怪画談』('92年)などの著書があります。

 オマケ2編では、「躁鬱について」が、著者自身の昭和41年から昭和55年の間に6回ほど訪れた「躁病期」のことを書いていて、これがなかなか面白く、かなり常識人では考えられないようなこともやっているのだなあと(本書には無いが、後に、株投資で自己破産に陥る経験もしている)。

 かつての著者は、1年間のうちに2、3カ月の躁状態とその倍の鬱状態があったとのことで、「躁」と併せて「鬱」についても、その特徴や対処法が書かれていますが、分かり易く纏まっているように思えます。

北杜夫.jpg 著者はこの頃('81年)、世田谷の自宅を「マンボウ・マブゼ共和国」として独立を宣言しており、ムツゴロウこと畑正憲氏と対談した際、「ムツゴロウ動物王国」と「マンボウ国」を日本から分離独立し同盟を結ぶ提案をしたというから、躁状態だったのかも知れません。

 近年は、躁鬱病の症状は治まり、軽井沢の別荘でエッセイなどの執筆活動をするなど、落ち着いた老境にあるようです(「マンボウ夢草子」を月刊誌「J‐novel」に連載中)。

 『マンボウ雑学記』の文中に、友人の相場均・早稲田大学教授の話が出てきますが、「看護婦について」のところでは「故」とついていて、本書執筆中に亡くなったのだなあ。

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著者の厳格な姿勢が貫かれた「中公」版。推理小説を読むような面白さがある「岩波」版。

元朝秘史 中公新書.jpg 岩村 忍 『元朝秘史―チンギス・ハン実録 (中公新書 18)』 ['63年] 元朝秘史 岩波新書.jpg 小澤 重男 『元朝秘史 (岩波新書)』 ['94年]

 中公新書版『元朝秘史』は、東洋史学者・中央アジア探検家で、ヘディンの『さまよえる湖』の翻訳などでも知られた岩村忍(1905-1988)による、チンギス=ハンに関する唯一の原史料「元朝秘史」の読み解きで、「元朝秘史」は元朝全体の史料ではなく、モンゴル帝国の始祖チンギス=ハンからオゴタイ=ハンまでの歴史伝承の写本であり、主要な部分が書かれたのは1240年頃とのこと(最初ウイグル文字で書かれ、後に漢字を音に充てて書き直された)。フビライ=ハンによる元朝の成立は1271年ですから、元朝成立前で話は終わっていることになります。

 なぜ「秘史」というかというと、チンギス=ハンの行ったことを非行も含め忠実に記録してあるため、正史である「元史」のように美化されておらず、あまり広く知られるとチンギス=ハンのカリスマ性を損なう可能性があったのと、チンギス=ハンの息子の中に、チンギス=ハンの妻が他国で囚われの身であった時に孕んだ子がいて、後継者の血統問題に差し障りがあるためだったらしいです。
 著者によれば、この「秘史」は、「ローランの歌」「アーサー王の死」など中世文学に比べても劣るロマンチシズムとリリシズムを湛え、関心を惹いた学者の数は日本の「古事記」どころか「史記」も及ばないとのことです。

 内容的には、"蒼き狼"と言われるあのチンギス=ハンが、いかにして人心を掌握してモンゴル族のリーダーになり、更に他のアジアのタタール族やキルギス族、ナイマン族(中央アジアにはモンゴル族だけがいたわけではない)などの部族を傘下に収めていくかが描かれていますが、登場人物の名前が似たり寄ったりのカタカナが多くて結構読むのが大変なため(原著の翻訳を見ると、ちょっと旧約聖書と似ているような感じも)、なかなか"血湧き、肉踊る"みたいな感じでは読み進めなかったというのが正直な感想。

 但し、ジャムハというチンギス=ハンの盟友で、後にチンギス=ハンと競うことになる人物がいて、著者はチンギス=ハンをドン=キホーテ型、ジャムハをハムレット型としていますが、こうした主要人物を念頭に置きつつ読むと、比較的読み易いかも知れません。

 史料の章変わりのところで、歴史的背景やどういうことがこの章で書かれているかが小文字で解説されていて、その上で本文に入っていく方法がとられていて、著者自身の考察は、この小文字の部分に織り込まれています。

 これは、読者の理解を助けるというより(それもあるが)、この「秘史」にも元々の語り手がいたわけで、例えばジャムハに対しては、同じくチンギス=ハンと競った他の部族の王や族長よりも好意的に伝承されており、そうした元の物語に入りこんでいる主観と、著者の主観を区分けするためだったと思われます。
 
 そのために「秘史」本文の方が、説明不足で読みにくい部分があり、これは著者の主観が入り込まないように翻訳した結果だと思いますが、ここまで史料と自らの主観を峻別しておいて、なおかつ、これは単なる翻訳ではなく、「わたくしの元朝秘史」だとしています。

歴史とh何か.jpg 著者の『歴史とは何か』('72年/中公新書)を読むと、歴史を文学や社会諸科学と対比させ、同じ史料を扱うにしても、歴史家は歴史家としての客観性を保持しなければならないとし、考証学者などに見られる「批判的歴史研究法」を"批判"していて(白石典之氏の『チンギス・カン―"蒼き狼"の実像』('06年/中公新書)などもこの手法で書かれているのだが、「秘史」にも多くを拠っている)、ましてや歴史小説家などは勝手に面白く「物語」を書いているにすぎないといった感じです。

岩村 忍 『歴史とは何か (1972年) (中公新書)

 歴史家はそんな自由に史料に自分の思想を織り込める立場にあるものではなく、例えば、森鷗外の歴史小説における史料の記述は、その文体において冷静客観を"装っている"が、彼が「歴史」と思っていたものはドイツ的実証主義の踏襲に過ぎない云々と手厳しいです。

 「事実を事実のまま記した」部分が多いと認められる司馬遷の「史記」に対する著者の評価は高く、一方、宋代に書かれた司馬光の「資治通鑑」に対する史書としての評価はそれに比べて落ち、但し、「すべての歴史は現代史である」と言われるように、「史記」にも、書かれた時代の「現代史」的要素が入り混じっていることに注意すべきだと。
 「個人的には、ここまで言うかなあと思う部分もありましたが、今の歴史家にも当てはまるのだろうか、この厳格姿勢は。
 この人は、「司馬史観」とか「清張史観」なんてものは認めなかったのだろうなあ、きっと。(評価★★★☆)

『元朝秘史』.jpg 尚、本書では冒頭に記したように、「元朝秘史」の主要な部分が書かれたのは1240年頃とのこととしていますが、「元朝秘史」がいつ書かれたのかについては諸説あり、言語学者でモンゴル語学が専門の小澤重男氏は『元朝秘史』('94年/岩波新書)で、これまである諸説の内の2説を選び、その両方を支持する(1228年と1258年の2度に渡って編纂されたという)説を提唱しています。
 
 「元朝秘史」の元のモンゴル語のタイトルは何だったのか、作者が誰なのかということも謎のようですが、これらについても小澤氏は大胆かつ興味深い考察をしていて、前者については「タイトルは無かった」(!)というのが正解であるとし、後者については、主要部分の「正集十巻」はオゴタイ=ハンに近い重臣が書いたのではなかという独自の考察をしています。 
 
 小澤氏は「元朝秘史」全巻の翻訳者でもあるモンゴル語学の碩学ですが、言語学の手法を駆使しての考察などには、この本の見かけの"硬さ"とは裏腹に、推理小説を読むような面白さがありました。
 
 但し、この本を読む前に、先に岩波文庫版の翻訳とまでもいかなくとも、岩波新書(岩村忍)版の『元朝秘史』や中公新書(白石典之)版の『チンギス・カン―"蒼き狼"の実像』などを読んで、その大まかな内容を掴んで(或いは、感じて)おいた方が、より本書を楽しく読めるかも知れません。 
 
元朝秘史(モンゴルン・ニウチャ・トブチャァン)」)...明初の漢字音訳本のみ現存する。中央下に「蒼色狼」との漢語訳がみえる。

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「萌え」論という言うより、日本人論、比較文化論に近いが、それなりに楽しめた。

鳴海 丈 萌えの起源.jpg「萌え」の起源.jpg「萌え」の起源 (PHP新書) (PHP新書 628)』['09年]四コマ漫画―北斎から「萌え」まで.jpg四コマ漫画―北斎から「萌え」まで (岩波新書)』['09年]

bannpaiya .JPG美少女」の現代史.jpg 時代小説家が「萌え」の起源を探るという本ですが、著者が熱烈な手塚治虫ファンであることもあって、著者によればやはり手塚作品が「萌え」の原点に来るようです。

 ササキバラ・ゴウ氏の『〈美少女〉の現代史―「萌え」とキャラクター』('04年/講談社現代新書)も、手塚作品(テレビアニメ「海のトリトン」)に「萌え」の起源を見出していましたが、本書で著者は、「リボンの騎士」の男装で活躍するサファイア姫、「バンパイヤ」の狼に変身する岩根山ルリ子(手塚作品では初めて女性のヌードが描かれたものであるらしい)、『火の鳥2772』の女性型アンドロイド・オルガなど、「変身するヒロイン」にその起源があるとしています。

『バンパイヤ』(秋田文庫版第1巻211pより)
       
松山容子 (「琴姫七変化」)/志穂美悦子
松山容子.jpg志穂美悦子2.jpg志穂美悦子.jpg そして、それ以前の「変身するヒロイン」の系譜として、著者が造詣の深い女剣劇のスターに着目し、こちらは松山容子(60年代は「琴姫七変化」のイメージが強いが、70年代は"ボンカレー"のCMのイメージか...)、更には志穂美悦子などへと連なっていくとのこと。著者によれば、こうしたヒロインが愛されるのは、「日本人は性の垣根が低く、人間でないものとの境界もないに等しい」という背景があり、それが手塚作品の特異なヒロイン像にも繋がっているとしています。

 「萌え」マンガのその後の進化を辿りつつ、話は次第に日本文化論のような様相を呈してきて、更にマンガ、アニメだけでなく、日本映画を多く取り上げ、そのヒーロー、ヒロイン像から、日本人の価値観、美意識など精神構造を考察するような内容になっています。

 結局、本のかなりの部分は、古い日本映画に着目したような話になっていますが、観ていない映画が多かったので、それはそれで楽しめ、それらの中に見られる主人公の価値観や行動原理が、現代アニメのヒーローやヒロインにも照射されていることを示すことで、多少、マンガ・アニメ論に戻っているのかなあという感じ。でも、日本映画の主人公とハリウッド映画の主人公の違いなどが再三(わかりやすく)論じられていて、全体としてはやはり「比較文化論」「日本人論」に近い本と言えるような気がします。

 ササキバラ・ゴウ氏の本もそうでしたが、マンガ・アニメについて論じる場合、自らの"接触"体験に近いところで論じられることが多いような気がし、そうした中でも「萌え」について論じるとなると、尚更その傾向が強まるのではないかと。著者で言えば、手塚ファンであるから手塚作品がきて、また時代小説家であることから女剣劇が出てきて、アクション小説も書いているから志穂美悦子といった具合に...(その他にも多数のマンガ・アニメ・映画が紹介されてはいるが)。しかも、実際に著者の書いているライトノベル時代劇には、女剣士がよく登場する...。一般論と言うより、著者個人の思い入れを感じないわいけにはいきませんでした(自分自身の「萌え遍歴」を綴った?)。

 但し、未見の日本の映画作品の要所要所の解説は楽しめ、「仇討ち」をテーマにしたものなど、日本人の精神性を端的に表して特異とも思えるものもあり、そのうちの幾つかは、機会があれば是非観てみたいと思いました。

hokusai manga.jpg 尚、本書第1章で解説されいる手塚治虫以前のマンガの歴史は、本書にも名前の挙がっている漫画研究家・清水勲氏(帝京平成大学教授)の『四コマ漫画―北斎から「萌え」まで』('09年/岩波新書)に四コマ漫画の歴史が詳しく書かれています。清水氏の『四コマ漫画』によると、手塚治虫のメディア(新聞)デビューも、新聞の四コマ漫画であったことがわかります。

 『北斎漫画』(左)から説き始め、体裁は学術研究書に近いものの、テーマがマンガであるだけにとっつき易く、その他にも、『サザエさん』のオリジナルは、福岡の地方紙「夕刊フクニチ」の連載漫画で、磯野家が東京へ引越したところで連載を打ち切られた(作者の長谷川町子自身が東京へ引っ越したため)とか、気軽に楽しめる薀蓄話が多くありました。
  
    
       
                
松山容子2.jpg松山容子1.jpg「琴姫七変化」●演出:組田秋造●制作:松本常保●脚本:尾形十三雄/西沢治/友田大助●音楽:山田志郎●原作:松村楢宏● 出演:松山容子/秋葉浩介/田中春男/栗塚旭/野崎善彦/国友和歌子/海江田譲二/松本錦四郎/名和宏/佐治田恵子/入川保則/乃木年雄/沢琴姫七変化e02.gif井譲二/手琴姫七変化7.jpg塚茂夫/花村菊江/乗松ひろみ(扇ひろ子)/朝倉彩子●放映:1960/12~1962/12(全105回)●放送局:読売テレビ

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「ブランド」とは何かを分り易く解説。入門書ながらも多角的(ポストモダン的)視点。

ブランド―価値の創造.jpg 『ブランド―価値の創造 (岩波新書)』 ['99年]

 現代資本主義経済の特徴となっている「ブランド」(「消費資本主義社会」の特徴となっていると言ってもいいが)―その「ブランド」とは一体何かということになると、自分自身は広告会社に勤めていた経験があるのに、それでいて永らく漠としたイメージしか持ち得なかったのですが、その「ブランド」というものについて分り易く解説したのが本書で、入門書でありながらも多角的かつ深く抉った内容となっています。

ポッキー1966.jpg 所謂「ブランド商品」の話から始まり、グリコの「ポッキー」の誕生秘話を通してのブランドがいかに生成され、どのような過程を経て定着していくかの解説は、入り込み易くて分り易いものでした(ポッキーは最初はプリッツ系の位置づけだったのか、とか)。
 続いて、日清食品のカップ麺、袋麺のブランド戦略を通して、ブランドと製品の違いをより明らかにし、競合商品の逆を行った戦略で成功した花王の「アタック」の事例を通して、ブランドの生成期においてはブランド・マーケッターの果たす役割が大きいこと、そして、これら全てを通して、ロングセラー商品は偶然では生まれないことを示しています。

コカ・コーラ.jpg そして、日本企業が得意とする新製品マーケティングのティピカルなものを紹介し、「ベンツ」と「トヨタ」のブランド戦略の違いを通して、内外のブランド戦略の違いを明らかにし、更に「無印商品」というブランドを通して、ブランドの本質を更に深く考察(「無印商品」というブランドは具体的な商品としては何も示していないが、固有の意味的世界を持つと言う意味では、極めてブランドらしいブランドであると)、常に自己否定し1つのスタイルに固着しないことがそのブランドが市場で生き続ける秘訣であることを「イッセイ・ミヤケ」に見て取り、そして、ああ、やっぱり出ました「コカ・コーラ」、スタイルや機能を超えた「ブランド価値」という話になると、絶対出てくるなあ。

 ブランドの創造的側面を記号論的に解き明かし(このポストモダン的視点が著者の本領)、この辺りからやや難しく感じる人もいるかと思いますが、常に実際の商品やブランドを事例に挙げて解説を進める姿勢がここでも貫かれていて、お陰で最後まで興味深く読めるものとなっています。

 著者は、経営学、マーケティングが専門の学者で、広告代理店出身者が書いた類書などに比べて視野が広く、最後はやはり、消費社会、消費欲望とブランドとの関係についての論に向かうわけですが、この辺りはポストモダン風の社会学的論調となっているように思えました(著者自身は、「ブランド=共同幻想」論を否定し、再生し続ける商品群との相互関係において、それは実態としてあるものと見ている)。

 著者によれば、ブランドの選択とライフスタイルの選択はどちらが先かは微妙だが、あるブランドを選んだ時点で、それはその人のライフスタイルに影響を及ぼしていることは間違いないと...。
 そうだなあ、スポーツの練習が終わった後、蛇口から出る水を一気に飲む爽快感―ってイメージは、もう今は、ポカリスエットやアクエリアスを飲むCMのイメージに置き換えられ、若い人たちは実際に後者の体験しかないんだろうなあ。

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内容が経年により陳腐化しているというよりは、むしろ著者の試行錯誤が却って新鮮。

知的生産の技術5.JPG知的生産の技術.jpg 梅棹 忠夫.jpg 梅棹 忠夫 氏 知的生産者たちの現場.jpg 
知的生産の技術 (岩波新書)』['69年]    藤本ひとみ『知的生産者たちの現場』['84年]  

 本書は「情報整理術」の元祖的な本で、著者は文化人類学者としてよりもこっちの分野で有名になり、今で言えば、経済学者の野口悠紀雄氏が一般には〈「超」整理法〉の方でより知られているのと似ているかもしれません。

 知的生産の「技術」について書かれたものですが、著者も断っているように、本書はその「技術」の体系的な解説書ではなく、自らの経験を通じての提言であり問題提起であって、ハウ・ツーものと違って、読者が自ら考え、選び、また試すことを願って書かれています。

 従って押し付けがましさがなく、また文章も平易で、天才ダ・ヴィンチがメモ魔だったという話から始まって、それに倣って「手帳」を持ち歩くようになり、更に「ノート」「カード」と変遷していく自らの情報整理術の遍歴の語り口は、まるでエッセイを読むようです(個人的にハマったなあ、「京大カード」。結構デカいので、途中からハーフサイズのものに切り替え、収納用の木箱まで買ったのを中身と共に今も持っている)。
 その後に出てくるファイリング・システムの話などは、野口悠紀雄氏の考えに連なるものがあり、〈「超」整理法〉もいきなり誕生したわけではないということかと思った次第。

 本書の後半では、「読書」「書く」「手紙」「日記と記録」「原稿」「文章」といったことにまで触れ、カバーしている範囲も幅広く、何れも示唆に富むものですが、文化人類学者らしく文化論的な論考も織り込まれていたりするのも本書の特徴でしょうか。

 再読して改めて興味深かったのは第7章の「ペンからタイプライターへ」で、著者は英文タイプライターにハマった時期があり、手紙などもローマ字で打ち、その後カナ・タイプライターが出るとそれも使っているという点で、ワープロの無い時代に既にこの人はそうしたものを志向していたのだなあと(更にカーボン紙を使って現在のコピーに当たる機能をも担わせている)。

 今でこそ我々はワープロやコピー機を、そうしたものがあって当然の如く使っているだけに、内容が技術面で経年により陳腐化しているというよりは、むしろ著者の試行錯誤が却って新鮮に感じられ、「より効率的、生産的な方法」を模索する飽くなき姿勢には感服させられます。

 自分は本をあまり読まないとか文章を書くのが得意ではないとかサラっと書いていますが、本当はスゴイ人であり、著者の秘書をしていた藤本ひとみ氏の『知的生産者たちの現場』('84年/講談社、'87年/講談社文庫)などを読むと、本書にある「技術」が現場でどのように応用されたのかということと併せて、著者の精力的な仕事ぶりが窺えます。

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'07-'09年にかけての労働者の置かれている現場の状況を改めて俯瞰する。

ルポ雇用劣化不況.jpg 『ルポ 雇用劣化不況 (岩波新書)』 ['09年] 竹信 三恵子.jpg 竹信 三恵子 氏(朝日新聞編集委員)

 著者は朝日新聞の編集委員で、長年にわたり労働問題を追い続けている人ですが、本書は規制緩和の後押しを受け悪化する非正社員・正社員の労働環境の現場をルポルタージュしたもの。
 '08年3月から5月にかけて朝日新聞に9回に渡って連載された「現場が壊れる」という企画記事がベースになっていますが、1年後の'09年4月の刊行ということで、'08年9月に起きたリーマン・ブラザーズの破綻に端を発する金融恐慌と世界経済の衰退に伴う国内の雇用情勢の悪化に関することも加筆修正の際に織り込まれ、結果としてタイムリーな出版となっています。

 序章・終章を除いて6章の構成で、第1章にある「派遣切り」と言われる問題などは、まさにリーマン・ショック以降、顕著なものとして注目された問題ですが、本書によれば、以前から自動車メーカーにとって派遣労働は「人間のカンバン方式」と呼ばれていたとか。
 派遣労働者には携帯メールで登録した人も多く、派遣会社の所在地も知らず、雇用保険の手続きもままならない、それでいて住居を追い出されてホームレスになれば、住所不定で再就職も出来ないという情況を伝えています。

現場が壊れる.jpg 第2章で派遣・請負に伴ってありがちな「労災隠し」(労災飛ばし)の問題を、第3章で正社員の削減等により様々なしわ寄せを受けるパート・派遣労働者の労働環境の問題を扱っていますが、この辺りは以前からマスコミなどでよく報道されており、但し、旅行業界の添乗員は「美空ひばり」タイプより「モーニング娘。」タイプ-要するに細かいサービスが出来るベテランよりも入れ替え可能な臨時雇用が求められているという現況は新たに知りました(この部分は内容的にはほぼ新聞記事の再掲のようだが...)。

2008.3.21朝日新聞(朝刊)

 結局、こうしたことのツケは利用者に回っているのだとういうこの章での著者の指摘は、考えさせられるものがありました。

 第4章で扱っている非常勤公務員などの「官製ワーキングプア」問題や第5章の「名ばかり正社員」問題は多くの人にとって目新しいかも。 
 「名ばかり正社員」の問題は「名ばかり管理職」とパラレルなのですが、「非正社員=ワーキングプア」というイメージから逃れるため若年社員の間で広がっており、かつて正社員と言われた人ほどに雇用保障があるわけでもなく、一方で非正社員のリーダー役として利用されているという...ひどい話。

 第6章では労働組合の現況を取材していますが、企業内組合の中には「御用組合」化しているものもやはりあるのだなあと。これからは個人加入のユニオンなどが本来の組合的役割を担っていくのかなあという気がしました。

 同じ岩波新書の『ルポ解雇』(島本慈子著/'03年)、『働きすぎの時代』(森岡孝二著/'05年)、『労働ダンピング』(中野麻美著/'06年)、『反貧困』(湯浅誠著/'08年)などの流れにある本ですが、解決策を提示するよりもルポそのものに重点が置かれているため、'07-'09年にかけての労働問題、労働者の置かれている現場の状況などを改めて俯瞰するうえでは悪くないものの、新聞をまとめ読みしているような感じも。

 本書『ルポ雇用劣化不況』は、労働ジャーナリストらが選ぶ「2010年日本労働ペンクラブ賞」を受賞しました。

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被害者・加害者の相談窓口とのやりとりをリアルに再現。男性側がひど過ぎ(人格障害?)。

壊れる男たち.jpg壊れる男たち―セクハラはなぜ繰り返されるのか (岩波新書)』['06年] 金子雅臣.jpg 金子雅臣 氏

 ルポライターである著者は、長年にわたり東京都の労働相談に従事していた人で、東京都は「セクハラ相談窓口」を早くから設け、解決に導く斡旋システムを作り、実績を残してきたとされる自治体ですが、本書では、どういった形でのセクハラ相談が「女性相談窓口」に持ち込まれ、役所命令で召喚された加害男性はどう抗弁し、それに対して彼自らに非があることをどのように認めさせ、斡旋に持ち込んだかが、会話のやりとりそのままに描かれています。

 とにかく、本書の大部分を占める5件の事例における、被害者、加害者と相談窓口とのやりとりが、秘密保持の関係で一部手直しされているとは言え、非常にリアルで(岩波新書っぽくない)、こうした当事者間の問題は、真相は「藪の中」ということになりがちなような気もしますが(実際、アンケート調査で用いた架空事例については、好意かセクハラか意見が分かれた)、本書で実際例として取り上げられているものは、何れもあまりにも男性の方がひどい、ひど過ぎる―。

 まず、セクハラの加害者としての意識がゼロで、被害者の気持ちを伝えると、今度は一生懸命、「藪の中」状況を作ろうとしていますが、すぐにメッキが剥がれ、それでも虚勢を張ったり、或いは、最後は会社を解雇されたり妻に離婚されたりでボロボロになってしまうケースも紹介されています。

 こうした問題に関連して最近よく発せられる、職場の男性は"壊れている"のか?という問い対し、著者は上野千鶴子氏から「男性はもともと壊れている」と言われ、著者自らが男性であるため、それではセクハラを「する男」と「しない男」の分岐点はどこにあるのかを検証してみようということで、本書を著したとのことです(と言うことは、自分はハナから「セクハラをしない男」に入っているということ? この辺がやや偽善系の感じもするが...)。

 加害者となった男性が「男の気持ちがわからない女性が悪い」「なぜ、その程度のことで大騒ぎするのだ」などと反論することがまま見られるように、著者の結論としては、男性の身勝手な性差別意識の問題を挙げていて、セクハラを「する男」には押しなべて男性優位の考えと甘え発想があり、実はセクハラは"女性問題"ではなく"男性問題"であると。

 著者は、「気になること」(198p)として、性的なトラブルなどに現れる男たちが「著しく他者への共感能力を欠いている」「相手の人格を否定してでも自らの欲望を遂げようとする」といった傾向にあることを指摘しています。
 男性の願望によって造られた性のイメージが巷に氾濫していることも、「意識」が歪められる一つの原因としてあるかと思いますが、もともと、こうして勝手に頭の中で相手とのラブストーリーを描いてしまい、相手の抵抗にあってもそれを好意の裏返し表現ととってしまう男性は、「人格」に障害があるのではないかという気がしました。

パーソナリティ障害―いかに接し、どう克服するか.jpg 精神科医の岡田尊司氏は『パーソナリティ障害』('06年/PHP新書)の中で、自己愛性パーソナリティ障害の人は、あまりにも自分を特別な存在だと思って、自分を諭す存在などそもそも存在しないと思っているとしながらも、一方で、非難に弱く、或いは、非難を全く受け付けず、過ちを指摘されても、なかなか自分の非を受け入れようとはしない、としていますが、本書に登場する加害男性は、プライドは尊大だが非難には脆いという点で、共通してこれに当て嵌まるような気がしました。

岡田 尊司 『パーソナリティ障害―いかに接し、どう克服するか (PHP新書)

 「意識」の面ではともかく、「人格(性格)」自体は変わらないでしょう。セクハラを繰り返す人は、意外と仕事面でやり手だったりするけれども、どこかやはり人格面で問題があり、権勢を振るったとしても、立っている基盤は不安定なのでは。
 セクハラ事件で退職に追い込まれた部長に対し、会社としてもいい厄介払いができたと思っているフシも見られる事例があったのが印象的でした。

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「色好み」を自ら体現したのは紫式部よりも清少納言、更にその上をいった和泉式部。

色好みの構造―王朝文化の深層.jpg 色好みの構造 ― 王朝文化の深層.jpg      中村真一郎.jpg 中村真一郎 (1918-1997/享年79)
色好みの構造―王朝文化の深層 (岩波新書 黄版 319)』['85年]

色好みの構造4.JPG タイトルからくるイメージとは異なり、かなりカッチリした内容の王朝文化論―、ではあるけれども、テーマが「色好み」であるだけに面白く読めました。
 
 著者によれば、平安朝における「色好み」という愛の形(性的習慣)は、今日から見ると、ほとんど特異で非常識なものであり、それは平安朝の生んだ愛の理想形であるとのことで、例えば、男が1人の女だけを盲目的に愛するのは、一種の病人でありモノマニアとして見られたとのこと。

 日本人の美意識は平安朝において完成し、以降は解体期であるとの見通しを著者は持っていて、平安朝の美意識を頂点とすれば、近世の「つきづきし」などもそのバリエーションに過ぎず、その美意識と不可分の関係にある「色好み」という"文明理想"は日本の伝統の根に潜み、今日でも我々の観念生活の中に残存しているかも知れないとのこと。

 しかし、「色好み」の頂点とされる『源氏物語』などの平安王朝文学を今日読み説くにあたっては、以降の儒教思想の影響、本居宣長の道徳的自然主義や明治期の日本的自然主義の影響などを経て、常に倫理観的なバイアスがかかったものにならざるを得なかったのではないかと。

 典型例が、光源氏が多数の女性に惹かれたのは「人間的弱さ」からであり、本来は1人の女性に対し貞節を守るべきだが、人間とは欲望に弱いものであり...とか、彼は1人1人の女性に対しては誠実だった...とかいったものですが、近代的感覚によって、光源氏の「色好み」の生活を現代の倫理観に調和させるのは無理があるというのが著者の主張です。

 著者によれば、平安期において「色好み」は隠しておきたい欠陥ではなく、1つの文明的価値であり美徳であったと。
 『源氏物語』の登場人物には実在のモデルが多くいて、それは当時週刊誌のように廻し読みされる「スキャンダル集」だったが、読者男女は、次は自分たちの秘事が暴かれるのではないか、この物語のモデルとなる名誉に浴したいものだ、という期待のもとに、新巻を待ち焦がれていたというのです。

 しかし、『紫式部日記』から察せられる紫式部自身の恋愛観は典型的な「色好み」とは言えず、むしろ、それを体現していたのは『枕草子』の清少納言だったというのが大変面白い指摘で、清少納言は相当な"発展家"だったみたい(作品においても、『枕草子』の「おかし」は『源氏物語』の「あわれ」よりも知的遊戯性の度合いが高いと著者は見る)。

 更にその上をいく「色好み」の女流は、『和泉式部日記』の和泉式部で、紫式部より遥かに気安く男性と付き合い、それを平然と人に見せびらかすとともに、清少納言のように色事の風情を楽しむだけでなく、いちいち相手に深入りし、情熱の燃え上がりを見せるというタイプだったらしいです。

 因みに、「色好み」の要件の第1は和歌の才能で、いかに優れた(凝った)恋歌が詠めるかということのようなので、ただ好色なだけではダメみたい。

  
 【2005年アンコール復刊[岩波新書]】

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新自由主義政策の弊害を「民営化」という視点で。前半のリアルな着眼点と、後半のアプリオリな視座。

ルポ貧困大国アメリカ.jpg ルポ 貧困大国アメリカ.jpg 『ルポ貧困大国アメリカ (岩波新書 新赤版 1112)』 ['08年]

 '08(平成20)年度・第56回「日本エッセイスト・クラブ賞」受賞作で、'08年上期のベストセラーとなった本('09(平成21)年度・第2回「新書大賞」も受賞)。

obesity_poverty.jpg 前半、第1章で、なぜアメリカの貧困児童に「肥満」児が多いかという問題を取材していて、公立小学校の給食のメニューが出ていますが、これは肥って当然だなあと言う中身。貧困地域ほど学校給食の普及率は高いとのことで、これを供給しているのは巨大ファーストフード・チェーンであり、同じく成人に関しても、貧困家庭へ配給される「フードスタンプ」はマクドナルドの食事チケットであったりして、結果として、肥満の人が州人口に占める比率が高いのは、ルイジアナ、ミシシッピなど低所得者の多い州ということになっているらしいです。

Illustration from geographyalltheway.com

 第3章で取り上げている「医療」の問題も切実で、国民の4人に1人は医療保険に加入しておらず、加えて病院は効率化経営を推し進めており、妊婦が出産したその日に退院させられるようなことが恒常化しているとのこと、こうした状況の背後には、巨大病院チェーンによる医療ビジネスの寡占化があるようです。

 中盤、第4章では、若者の進路が産業構造の変化や経済的事情で狭められている傾向にあることを取り上げていて、ここにつけ込んでいるのが国防総省のリクルーター活動であり、兵役との引き換え条件での学費補助や、第2章で取り上げている「移民」問題とも関係しますが、兵役との交換条件で(それがあれば就職に有利となる)選挙権を不法移民に与えるといったことが行われているとのこと。

 本書執筆のきっかけとなったのは、こうした学費補助の約束などが実態はかなりいい加減なものであることに対する著者の憤りからのようで、後半では、貧困労働者を殆ど詐欺まがいのような勧誘で雇い入れ、「民間人」として戦場に送り込む人材派遣会社のやり口の実態と、実際にイラクに行かされ放射能に汚染されて白血病になったトラック運転手の事例が描かれています。

 全体を通して、9.11以降アメリカ政府が推し進める「新自由主義政策」が生んだ弊害を、「民営化」というキーワードで捉え、ワーキングプアが「民営化された戦争」を支えているという第5章の結論へと導いているようですが、後半にいけばいくほど著者の(「岩波」の)リベラルなイデオロギーが強く出ていて(「あとがき」は特に)、「だから米国政府にとっては、格差社会である方が好都合なのだ」的な決めつけも感じられるのがやや気になりました(本書にある「世界個人情報機関」の職員の言葉がまさにそうであり、こうした見方さえ"結果論"的には成り立つという意味では、そのこと自体を個人的に否定はしないが)。

 著者は9.11テロ遭遇を転機にジャーナリストに転じた人ですが、本書が「○○ジャーナリスト賞」とか「○○ノンフィクション賞」とかでなく(まだこれから受賞する可能性もあるが)、その前に「エッセイスト・クラブ賞」を得たのは、文章の読み易さだけでなく、前半のリアルな着眼点と、後半のアプリオリな視座によるためではないかと。

《読書MEMO》
●「世界個人情報機関」スタッフ、パメラ・ディクソンの言葉
「もはや徴兵制など必要ないのです」「政府は格差を拡大する政策を次々に打ち出すだけでいいのです。経済的に追いつめられた国民は、黙っていてもイデオロギーのためではなく生活苦から戦争に行ってくれますから。ある者は兵士として、またある者は戦争請負会社の派遣社員として、巨大な利益を生み出す戦争ビジネスを支えてくれるのです。大企業は潤い、政府の中枢にいる人間たちをその資金力でバックアップする。これは国境を超えた巨大なゲームなのです」(177-178p)

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読み易く味わいのある文章。今でも充分に入門書として通用する。

宇宙と星2977.JPG宇宙と星.gif  畑中 武夫.jpg  畑中 武夫 (1914-1963/享年49)
宇宙と星 (岩波新書 青版 247)』 ['56年]

 著者の畑中武夫は理論天体物理学者で、萩原雄祐(1897-1979)門下で小尾信彌氏(東大名誉教授)などの兄弟子に当たる人、若くして日本の天文学界のリーダーになりましたが49歳で亡くなり、和歌山県新宮市の出身ということで、同じく夭折した中上健次(1946-1992)らと共に、新宮市の名誉市民になっています。(下図は「新宮市」ホームページより)

 本書は'56年の刊行で、岩波新書の宇宙学関係では超ロングセラーであり、宇宙物理学者の池内了氏(名大教授)なども「私が宇宙に研究を志すきっかけとなった本」と言っています。

 我々に馴染みの深い星座の話から説き起こして、太陽(恒星)と銀河系を語り、最後に、星の生涯や宇宙の生成と進化について天体物理学的な観点から解説しており、星の光度や距離をどのように決定するのかといったことや、恒星のHR図(星の光度と表面温度の相関図)からの星の来歴の読み取りなどがわかり易く解説されていて、今でも充分に入門書として読めるし、構成的にも文章そのものも読み易いように思います。

 細かい数字はともかくとして、「脈打つ星」(パルサー)の原理や、太陽および銀河系の構造、超新生爆発または白色矮星で終わる星の生涯のことなど、この頃もう既にここまで判っていたのだなあと思わせる記述が多い一方で、「惑星を伴う恒星」の存在など推論段階のものもあり(現在は200個以上発見されている)、宇宙の始まりを50億年前と推定しています(現在は137億年前とされている)。

 40代前半で書かれたわりには、エッセイ風の味わいのある記述もあり、「オリオンの名は、球団や、映画館や、またいくつかの商品の名にも使われていて、われわれに親しみ深い」などいう記述にぶつかると、ちょっとタイムスリップした感じで嬉しくなってしまいます(因みに、スペースシャトル引退後の後継機の名は「オリオン」に決定している)。

 同著者の、毎日出版文化賞を受賞した『宇宙空間への道』('64年/岩波新書)もお奨めです。

畑中武夫(新宮市出身).jpg

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「複雑系」疑似科学を取り上げたことで面白くなったが、全体的にインパクト不足。

疑似科学入門.gif 『疑似科学入門 (岩波新書 新赤版 1131)』 ['08年]

 冒頭、疑似科学と言われるものを、「第1種疑似科学」(占い系、超能力・超科学系、擬似宗教系など科学的根拠の無い言説)、「第2種疑似科学」(永久機関・ゲーム脳、マイナスイオン・健康食品・活性酸素・波動、各種確率や統計など、科学の装いを取りながら実態の無い言説)、「第3種疑似科学」(環境問題、電磁波被害、狂牛病、遺伝子組換え作物、地震予知、環境ホルモンなどの科学的に証明しづらい「複雑系」)の3つに分類しています。

水の記憶.jpg それぞれについてどういった種類のものがあるのか、「第1種疑似科学」を信じる人間の心理作用や「第2種疑似科学」が世の中にはびこる理由(これ、"健康"と"カネ"が結びついたものが多い)は何かを考察的に整理していますが、まあ、自分に関しては大丈夫かな、という感じで、「水の記憶」なんてバカバカしい"水ビジネス"もあるんだといった野次馬感覚で読み進み、著者の言っているそのワナに嵌まらないための"処方箋"というのも、真っ当過ぎてインパクトが弱いような気がしつつ読んでいました。

 ところが、「第3種疑似科学」=「複雑系」のところに入って、自分の疑似科学に対する"免疫"度に少し自信が持てなくなってきたというのが正直なところ(「複雑系」の全てが「疑似科学」に含まれるわけではないとは思うが)。
 著者自身、「第1種」「第2種」だけで本を纏めるにはあまりにインパクトがないと思いつつも、「第3種」を疑似科学に含めるかどうかについては逡巡したらしく、また、明確な科学違反とは言えない「第3種」への"処方箋"として持ち出した、「不可知論に持ち込むのではなく、危険が予想される場合はそれが顕在化しないような予防的な手を打つべきである。その予想が間違っていても、人類にとってマイナス効果は及ぼさない」という「予防措置原則」の考え方に対してすら、あとがきにおいて、金科玉条的な「予防措置原則」は疑似科学の仲間入りをすることも考えられると、慎重な姿勢を見せています(じゃあ、どうしてそんな曖昧な姿勢のまま本書を書いたのかということについては、批判を覚悟しながらも、これにより議論が拡がれば、ということらしい)。

 疑似科学を振りまく学者もどき(例えば「環境問題は存在しない」という"小言辛兵衛"型の科学者)は困ったものですが、それを批判する側の姿勢(多くが反論のための反論になってしまっている)にも、全否定で臨むのではなく、「部分的には受け入れても全面的に信用しない」姿勢が求められるとしている点が印象に残りました。

 著者の池内了(さとる)氏は、ドイツ文学者でエッセイストの池内紀(おさむ)氏の実弟で、宇宙物理学者でありながら、漱石や寺田寅彦などの再評価も行っている人(本書にも、寺田寅彦の言葉とされる「天災は忘れた頃にやってくる」が引用されている)、本書は社会評論としても読めますが、「複雑系」のところで具体例を挙げている分、この辺は諸説あるテーマが殆どであるために、本書自体がバッシング対象となる可能性もあるように思われます(著者の参照している情報源が限定的であることは確か)。

 著者の科学者としての眼は冷静であるように思え、また個人的には、著者の自省的な考え方に一定の共感を抱いたのですが、「第3種疑似科学」について触れた部分を含めても、本全体としてのインパクトはやや弱かったか。

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自分の無知に気づき嫌気がさす前に、読み終わってしまう気軽さ。

ことわざの知恵.gif 『ことわざの知恵 (岩波新書 新赤版 (別冊7))』 ['02年] 四字熟語ひとくち話.gif 『四字熟語ひとくち話 (岩波新書 新赤版 別冊 10)』 ['07年]

岩波ことわざ辞典.jpg 岩波書店編集部員がことわざ研究家・時田昌端氏の『岩波ことわざ辞典』('00年/岩波書店)の刊行を手伝った際に気がついた、ことわざの色々な側面や「目から鱗が落ちる」(57p)エピソードを拾い集めた本で、1ページにことわざ1つずつ収め、説明も至極簡潔、かつ軽妙洒脱で(「赤信号皆で渡れば怖くない」(27p)なんていうのも含まれている)、楽しく一気に読めました。

岩波ことわざ辞典』 ['00年]

 「医者の不養生」と「紺屋の白袴」のニュアンスの違い(9p)など、何となくわかっていても、きちんと説明されてなるほどという感じ。医者の場合は単なる言行不一致だけれど、紺屋の方は、忙しく手が回らないということか。「紺屋の明後日」(10p)なんて言われるのも、天候次第で納品が遅れることがあるわけだ。紺屋さん、大変だなあ(自社のサイトが更新されていないホームページ制作会社っていうのはどっちに当たる?)。

 「年寄りの冷水」(128p)とは、冷水を浴びているのではなく、冷たい生水をがぶ飲みしている図であり、「知らしむべからず、由らしむべし」(129p)とは、「十分な知識の無い民衆に、政策の意味や理由を理解させることはできないだろうが、政策が間違っていなければ従わせることはできる」という意味であって、民衆には何も知らせるなということではないのだ。

 こうしたことわざの誤釈も多く紹介されていますが、「船頭多くして船山に登る」(120p)が「大勢が力を合わせれば何でもできる」とかいうのはまさに珍解釈、「灯台下暗し」(135p)は「トーダイ、モト、クラシ」であり、ここで言うトーダイとは、岬の灯台ではないし、「天高く馬肥える秋」(138p)の馬とは、北方の騎馬民族の馬であり、もともとは事変に備えよということらしいけれども、こうなるともう元の意味では使われていないなあ。

 たまにこういうの読むと自分の無知に気づき、いやになることもありますが、ページ数も175ページしかなく、嫌気がさす前に読み終わってしまう気軽さも却っていい。

 このシリーズでは、あと、『四字熟語ひとくち話』('07年)がお薦めで、こちらも1ページに1つずつ四字熟語を収めていますが、解説がエッセイ風とでも言うか、時折世相への風刺も入って、「天声人語」を読んでるみたいな感じ。

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モンローの魅力の秘密を思い入れ込めて解くとともに、モンローをめぐる「文化」について考証。

マリリン・モンロー.gifマリリン・モンロー 岩波新書2.jpg    亀井 俊介.jpg 亀井俊介・東大名誉教授

マリリン・モンロー (岩波新書 黄版))』['87年]

Marilyn Monroe by Ben Ross.jpg 著者は、「近代文学におけるホイットマンの運命」研究で日本学士院賞を受賞したアメリカ文学者(この人、日本エッセイストクラブ賞も受賞している)。著者によれば、マリリン・モンロー(1926-1962/享年36)は、生きている間は「白痴美の女」と見られることが多かったのが、その死を契機として同情をもって見られるようになり、謀殺説などもあってハリウッドに殺された犠牲者とされる傾向があったとのこと。著者は、こうした、彼女を弱者に仕立て上げるあまり、彼女が自分を向上させていった力や、積極的に果たした役割を十分に認めない考えに与せず、確かにハリウッドの強制によって肉体美を発揮したが、それだけではなく、アメリカ娘の心の精華のようなものを兼備していて、それらが溶け合わさったものが彼女の永続的で普遍的な魅力であるとしています。
Marilyn Monroe photo by Ben Ross

 ノーマ・ジーンとしての生い立ちからマリリン時代になりスターの地位を築くまで、そして突然の死とそれに伴う風評について、彼女について書かれた幾つかの伝記も参照しながら語られていますが、本書自体は伝記を目的としたものではなく、1つは、そうしたマリリン・モンローの魅力とは何だったのかということについて、個人的な思い入れも含めて考察し、もう1つは、生前・死後を通じて、彼女の存在やその魅力がアメリカの文化とどのように呼応し合ったかということを考証しているような本です。

Norman Mailer.jpgNorman (Kingsley) Mailer (1923-2007).jpg 更に本書の特徴を挙げるならば、マリリン・モンローに強い関心を抱きながらも彼女に逃げられ続けたノーマン・メイラー(1923 -2007/享年84)のことが、少し偏っていると言ってもいいぐらい大きく扱われていて、これは、モンローとメイラーに"精神的な双生児"的共通点があるとしている論評があるのに対し、両者の共通点と相反部分を著者なりに解き明かしたもので、この部分はこの部分で興味深いものでした(メイラーは結局、モンローに会えないまま、モンローの死後、彼女の伝記を書いているが、モンローはメイラーに会うことで自分が何らかの者として規定されてしまうことを避けたらしい)。
 Norman (Kingsley) Mailer (1923-2007)

Milton Ebbins pushed Monroe onstage for her famous rendition of Happy Birthday (Mr President).jpgMonroe onstage for her famous rendition of Happy Birthday (Mr President)

 ジョン・F・ケネディ大統領の誕生祝賀パーティーで「ハッピー・バースデー」を歌ったという有名な場面も、歌の出向田邦子3.jpgだしはおぼつかなく、作家の向田邦子は、「大丈夫かな」と会場全員の男女を「子どもの学芸会を見守る親の心境」にさせておいて、最後は情感を込めて見事に歌い上げ、満場の拍手を得る―「影の演出者がいたとしたら、その人は天才だと思った」と書いていますが、著者は本書において「マリリン自身が天才だったのだ」とし、モンローには「政治家ふうの計算」はできなかったが、「政治家よりも豊かな心で、民衆の心と通い合うすべを完全に見につけていた」としています。

【1995年選書化[岩波新書評伝選]】

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インディ・ジョーンズ的自伝から、目立ちたがりと内向性の並立した複雑な性格をあぶり出す。

アラビアのロレンス37.JPG アラビアのロレンス 岩波改版版.jpg  『知恵の七柱』(全3巻).jpg アラビアのロレンス.jpg
アラビアのロレンス (1963年)』/『知恵の七柱 (1) (東洋文庫)』(全3巻)/映画「アラビアのロレンス」(1962)

アラビアのロレンス奥.JPG トーマス・エドワード・ロレンス(1888-1935)が第1次大戦後に書いた自伝『知恵の七柱(全3巻)』('68年/平凡社東洋文庫)の新訳の刊行が'08年8月からスタートしており、今もって根強い人気があるのかなあと。映画 「アラビアのロレンス」で知られるT・E・ロレンスは、第1次世界大戦中、トルコの圧政に抵抗して蜂起したアラブ人を率いて戦い、生涯で9回の戦傷、7回の航空機事故、33回の骨折に遭うなど何度もインディ・ジョーンズ   .jpg死地を脱してきた軍人で、考古学者でもあり、ちょっとインディ・ジョーンズっぽい感じもします(7回も航空機事故に遭えば、普通はその何れかで事故死しているのではないか。「知恵の七柱」というのも何だか冒険映画のサブタイトルみたい。映画「アラビアのロレンス」自体、その「知恵の七柱」を翻案したものなのだが)。

旧版(1940年初版)  映画ポスター (1963年日本公開)
アラビアのロレンス1.jpgアラビアのロレンス 映画ポスター.jpg 英文学者・中野好夫(1903-1985)による本書は、ロレンスの死後5年を経た'40年に初版刊行、'63年に同名の映画の公開に合わせ23年ぶりに改訂・補筆されています(自分が読んだのは改訂版の方で、著者が改訂版を書いた1963年時点でも、『知恵の七柱』の日本語訳は未刊だった)。

 ロレンスの生い立ちから活動の変遷とその時代背景の推移、自身の華やかな過去の名声からの隠遁とオートバイ事故によって死に至るまでを描いており、政治史的な背景についての説明もなされていますが、記述の大部分は、『知恵の七柱』を参照しており、文学書の読み解きといった感じもします。

 修辞的表現が多いからと言って『知恵の七柱』を"創作"と言ってしまったらロレンスに悪いのだろうけれど、著者自身は、書かれていることの真偽を考察しながらも、概ね事実とみなしているようです。デヴィッド・リーンの映画がそもそも、この"砂漠の冒険譚"的要素に満ちた『知恵の七柱』をベースにしており、そのため、本書と映画との相性はバッチリといったところで、しいて言えば著者の訳が古風すぎるのが難点でしょうか。

Lawrence of Arabia - Thomas Edward Lawence.jpg ロレンスを神格化しているという批判もあって(彼は実は英国の国益ためだけに行動したという説もある)、そうだったのかなと思って読み返しましたが、政治的動機はともかく、軍事的な天才であったことは確かで、とりわけ、アラブ人を組織化して戦闘ゲリラ部隊を創り上げてしまう才能は卓越しています。

 また、中野好夫は文学者らしく、ロレンスの目立ちたがり屋と内向性の並立した極端かつ複雑な性格を、自伝や書簡、逸話などからよくあぶり出しているように思えました。女性との交わりが無かったこと(一生を通じて偏見的なまでの女性憎悪を抱いていた)、同性愛者と言うより性癖としてはマゾヒストだった可能性がある(そう思わせる記述が『知恵の七柱』にある)としていますが、このことは映画でも、敵に囚われ拷問されるシーンでウットリした表情を見せることで示唆されています。

 Lawrence of Arabia - Thomas Edward Lawence (1888-1935)
 
 映画と実人物の違いで、最も差があるのは身長かも知れません(長身のピーター・オトゥールに比べ、ロレンスは身長165cmと英国人にしては低かった)。でも、生来のスタイリストで、顔つきも鋭く、アラブ服を着ると映画のピーター・オトゥールと同じように見え、やはりカッコいいです。

Arabia no Rorensu(1962)
アラビアのロレンス 62.jpgArabia no Rorensu(1962).jpg
「アラビアのロレンス」●原題:LAWRENCE OF ARABIA●制作年:1962年●制作国:イギリス●監督:デヴィッド・リーン●製作:サム・スピーゲル●脚本:ロバート・ボルト●撮影:フレデリック・A・ヤング/ニコラス・ローグ ●音楽:モーリス・ジャール●原作:T・E・ロレンス 「知恵の七柱」●時間:207分●出演:ピーター・オトゥール/アレック・ギネス/アンソニー・クイン/オマー・シャリフ/ジャック・ホーキンス/アーサー・ケネディ /アンソニー・クエイル/ホセ・ファーラー/クロード・レインズ/ドナルド・ウォルフィット/マイケル・レイ/ジョン・ディメック●日本公開:1963/12●配給:コロムビアラビアのロレンス(洋画ポスター).jpgアラビアのロレンス 1971.bmpアラビアのロレンス 1970.bmpア映画 ●最初に観た場所:高田馬場ACTミニシアター(84-01-14)(評価:★★★★)●併映:「七年目の浮気」(ビリー・ワイルダー)/「フロント・ページ」(ビリー・ワイルダー)

映画チラシ (1970年/1971年/1980年 各リヴァイバル公開時)

 
 

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ドストエフスキーが小説で使用する言葉の二重性・多義性を徹底分析。

ドストエフスキー 江川卓.gifドストエフスキー (岩波新書)』['84年] 謎解き「罪と罰」2.jpg謎とき『罪と罰』 (新潮選書)』['86年]

罪と罰.jpg 法学部出身、独学でロシア語を学び(但し、父親はロシア文学者、ロシアの収容所で亡くなっている)ドストエフスキー作品の第一級の翻訳者になったという江川卓(えがわ・たく、1927- 2001)の名が、ロシア文学者として一般に広く知られるようになったのは、'87年に読売文学書賞を受賞した『謎とき「罪と罰」』('86年/新潮選書)によると思われますが、優れた翻訳者ならではの独特の分析は、作品そのものがよりミステリアスな『カラマーゾフの兄弟』を論じた『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』('91年/新潮選書)や、更に『謎とき「白痴」』('94年/新潮選書)でも遺憾なく発揮されています。
『罪と罰』(江川卓・訳)

 但し、これらに見られる作品構成の重層的な分析、或いは、ドストエフスキーが用いた言葉や登場人物のネーミングなどの持つ二重性・多義性の分析は、'84年に刊行された本書で既にある程度されていて、当時としては画期的だったと思われるのですが、タイトルが単なる"入門書"や"評伝"のような印象を一般に与えたのか、この時は、研究者の間ではともかく、巷では一部においてしか話題にならなかったようです。

カラマーゾフの兄弟.jpg 「カラマーゾフ」で言えば、"カラマーゾフ"の意味が「黒く塗る」であるといったような興味深い指摘から、アリョーシャが皇帝暗殺者になるというこの作品の続編の構想の推察まで、後に「謎とき」で述べられることは既に本書で触れられているわけですが、「謎とき」シリーズが3作品に関するもので終わったのに対し、本書では、『貧しき人びと』『悪霊』などその他の作品についても触れられていて、それらについても「謎とき」の手法が展開されているのが注目されます。
『カラマーゾフの兄弟』(原卓也・訳)

 個人的に特に興味深かったのは、初期の"ゴーゴリ的"ヒューマンな作品とされている『貧しき人びと』の中で、主人公である小官吏マカール・ジェーヴシキンに、ゴーゴリの『外套』に対しては、「ワーレンカ(主人公に本を送った薄幸の少女の名)。まるでもうインチキです」と憤慨させ、プーシキンの『駅長』に対しては、貧しき人びと.jpgジェーヴシキン自身の"誤読"に基づく好感を抱かせていることを指し、これはこの2人の作家の限界を示しているものだとしていることで、主人公に文学評論させるという「メタ文学」的手法を使って、自分は既に処女作においてゴーゴリもプーシキンも超えたとしている(より高次のヒューマンな世界に作品を導いている)という自負が見られると指摘している点には、ナルホドなあと。
『貧しき人びと 』(木村浩・訳)

 本書全体としては、やはり、ドストエフスキーが用いた言葉の持つ二重性・多義性についての専門家としての分析が優れていますが、作品世界の背後にある、当時の異端や分派も含めた宗教世界についても、専門的な知識を駆使した分析に基づいて、作家や作品に与えた影響が縦横に語られており、(「謎とき」もそうだが)タイトルから受ける"入門書"のイメージを、いい意味で大きく"逸脱"したものとなっています。

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ディベート方式の「歌合わせ」で、短歌の愉しみや特性がわかる。

短歌パラダイス.jpg 『短歌パラダイス―歌合二十四番勝負 (岩波新書)』 ['97年]小林 恭二.jpg 小林恭二 氏 (作家)

俳句という遊び―句会の空間.jpg俳句という愉しみ.jpg 楽しい句会記録『俳句という遊び』、『俳句という愉しみ』(共に岩波新書)の著者が、今度は、ベテランから若手まで20人の歌人を集めて短歌会を催した、その際の記録ですが、そのやり方が、室町時代を最後に今では一般には行われていない「歌合」の古式に倣ったものということです。歌合わせ自体がどのように行われ、どのようなバリエーションがあったのか詳細の全てが明らかではないらしいですが、本書でのスタイルは、ちょっと「ディベート」に似ていて面白かったです。

 『俳句という遊び―句会の空間 (岩波新書)』['91年] 『俳句という愉しみ―句会の醍醐味 (岩波新書)』['95年]

 2つのチームに分かれ、テーマ毎に詠まれた短歌の優劣を1対1で競い合うのですが、チーム内を、自ら歌を作って俎上に乗せる「方人(かたうど)」と、歌は出さずに弁護に回る「念人(おもいびと)」に分け、本来のプレーヤーである「方人」は批評には参加できず、一方、弁護人である「念人」は自分では歌を作らず、個人的に敵味方の歌をどう思おうと、とにかく自陣の歌が相手方のものより優れていることをアピールし、そして最後に、「判者」が勝負の判定を下すというもの。やっぱり、これは「ディベート」そのものではないかと。

 『俳句という遊び』の時と異なり、作者名は最初から明かされているのですが、面白いのは、思い余って作った本人が自分の歌を解説したりすると(「方人」は「念人」を兼ねることはできないので、これは本来はルール違反)、これが意外とエクスキューズが多くてつまらなく、弁護人である「念人」の自由な(勝手な?)解釈の方がずっと面白かったりする点であり、短歌という芸術の特性をよく表しているなあと。

 『俳句という遊び』の時と同様、2日がかりですが、2日目は3チームに分けて、チーム内でとりまとめをした上で作品を俎上に提出するなど、趣向を変えて競っています(1日目の方が、より「「ディベート」的ではあったが)。

 良い歌を作っても、それ以上の出来栄えの歌とぶつかれば勝てないわけで、ここでは、あの俵万智氏がその典型、著者も「運が悪い」と言ってます。(彼女は元々"題詠"が苦手なそうだが、この時作った歌「幾千の種子の眠りを覚まされて...」と「妻という安易ねたまし春の日の...」は、『チョコレート革命』('97年/河出書房新社)-これ、大半が不倫の歌だったと思うが-に収録されている。やはり、愛着があるのか)。短歌をそれほど知らない人でも、誰のどのような歌が彼女の歌に勝ったのか、見てみたいと思うのでは。

 一方、題が作者らに沿わないと良い歌が出揃わず、互いの相手方の歌に厳しい批評が飛びますが、それぞれが舌鋒鋭いものの、どこか遊びの中でのコミュニケーションとして、言う側も言われる側もそれを愉しんでいる(実際はピリピリした面もあるかと思うが、そうした緊張こそ愉しみにしている)という点では『俳句という遊び』と同じ「大人の世界」―。でも結局、負ける場合は、自陣の歌を褒める根拠が人によってバラバラになっていることが敗因となていることが多いのが、興味深いです。

 『俳句という遊び』に続いて、これまた"野球中継"風の著者の解説が楽しく、読み始めると一気に読み進んでしまう本ですが、だいぶ解ってきた頃に、「座」や「連衆」という概念に表される日本の芸術観の特性についての解説などがさらっ入っているのもいい。

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国の介護福祉政策と現場の実態の解離を考えさせられた。

介護―現場からの検証.jpg 『介護―現場からの検証 (岩波新書 新赤版 1132)』['08年] 結城康博.jpg 結城康博 氏 (ケアマネジャー・淑徳大学准教授)

 '00年の施行後7年を経た介護保険制度のもとで、介護の現場はどのようになっているかを解説しつつ、国の介護福祉政策の問題点を浮き彫りにしたもので、日本の社会保障(介護福祉)は一体どうなってしまっているのだという暗澹とした思いにさせられる本でした。

 ルポルタージュ形式で挿入されている厳しい「老老介護」の実情や入所が困難な「特別養護老人ホーム」の状況など、読んでいるだけで自らが不安を感じるぐらい...。
 一方、国の施策としては、「特養」においては相部屋を減らし個室を増やしたり(数が足りていればいいが、不足している状況では入所できない人が増えるだけ)、それなのに、通所介助には保険が効かないなど、在宅介護に対する施策に不充分な点が目立つように思いました。

コムスン問題.jpgコムスン折口1.jpgコムスン折口2.jpg こうした中、在宅のお年寄りを騙して高額商品を売りつける悪徳業者がいるというのは腹立たしいことですが、問題となった訪問介護のコムソンなどは、国に対して、家事などの「生活援助」しかしていないものを「身体介護」をしたと偽って不正請求していたわけで、利潤追求の財源は国民の納めた保険料であったことを考えると、国民はもっと怒っていいのではないかと。

コムスンの「光と影」・日本経済新聞 (2007.6.19朝刊)

 しかし、一方でコムソン問題の底には、ケアプランニングにおいて区別される「生活援助」と「身体介護」が実際にはそんな明確に区分できるものだろうかという問題もあり、事件の処分として「連座制」による罰則適用により1事業所ではなく会社全体の業務が継続できなくなった問題(これが他の事業者にも波及して、ある法人のある事業所でフィリピン人を使用しただけで、法人の全事業所が業務停止命令を受けるといった事態まで生むことになっている)、更には、介護業界全体の人材不足の問題などを浮き彫りにしたということがわかります(コムソンのような事業者が、この業界における低賃金・低昇給モデルを既定のビジネスモデルにしてしまったから、人材不足が生じ、外国人を使わざるを得なくなるのだが)。
 介護福祉士資格を一定期間内に取得するということを条件に、フィリピン人の介護従事者の受け入れが徐々に始まっていますが(日本語を学ぶだけでも大変だと思うが)、規制緩和の前に規制強化することはよくあることです。

 政府の対応は、社会の批判に過敏になり、それをかわすことが目的化している面もあるように思え、長期の慢性疾患の患者が入院する「療養病床」の削減(「医療型」は削減、「介護型」は漸減的に全廃へ)なども、「社会的入院」に対する批判に応えたものと言えるでしょうが、本当に介護の必要な人への病院を追い出された後のケアが薄く、本書を読むと、少数の問題意識のある自治体だけがフォローに回っている感じがします。

 著者は、大学を卒業し(修士で経済学、博士で政治学を専攻)、その後数年間、福祉施設の介護業務に従事、今年('08年)4月からは大学で教鞭をとる傍らケアマネジャーの仕事もしているという人。本書では行政担当や政治家にも取材していますが、本書自体の政策提言はやや掘り下げが浅い感じもしました。
 本書は、「現場からの告発」とも言える本。本書執筆を機に学究にウェイトを移行するようで、その部分は次の展開を期待したいです。

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師匠(見田宗介)の本より面白い。但し、後半は、共感するしない以前に、よくワカラナイ...。

不可能性の時代.jpg 『不可能性の時代 (岩波新書 新赤版 (1122))』 ['08年]  社会学入門−人間と社会の未来.jpg 見田宗介 『社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)』 ['06年]

 著者は東大の見田宗介ゼミ出身の社会学者ですが、見田氏が'90年代に、戦後の時代を「現実」の反対語により「理想の時代」('45〜'60年)、「夢の時代」('60〜'75年)、「虚構の時代」('75〜'90年)と区分したのを受け、本書ではこれを補強解説していて、この部分は比較的わかり易いし、師匠の近著『社会学入門』('06年/岩波新書)よりもむしろ興味深く読めました。

 学者で言えば柳田國男・折口信夫から東浩紀・吉見俊哉まで触れ、創作で言えば、浦沢直樹の『20世紀少年』の読み解きから、松本清張『砂の器』と水上勉の『飢餓海峡』の類似点指摘まで、事件で言えば、三島由紀夫事件からオウム事件まで、或いは少年N(永山則夫)から少年A(酒鬼薔薇聖斗)まで幅広く触れていて、見田氏の言う「社会学」という学問が「なんでもあり」の学問であることをよく表しているという点では、こっちの方がむしろ「社会学入門」と言えるかも知れません。

 但し、部分部分でナルホドと思わせられる点はあったものの(例えば、柳田國男が戦後に復活を求めた「家」は、結果的に「マイホーム」に置き換わってしまった(内田隆三)とか)、他者からの引用の部分にむしろ感応させられたかも。
宮崎勤死刑囚.jpg 著者はそれらにまたひとひねり加えていて、オタク論においては、東浩紀や大塚英志を参照しながらも、M(宮崎勤)の事件をもとに独自の身体論や疎外論を展開していますが、この辺りから(共感する部分もあったことは確かだが)牽強付会気味なものを感じ始めて個人的にはついていけなくなり、酒鬼薔薇事件('97年2月)後まもなく永山則夫の処刑(同年8月)が行われたということが、秋葉原通り魔事件('08年6月)から10日もしないうちに宮崎勤死刑囚の処刑が行われたことにダブったのが、一番のインパクトだったりして...(本旨ではない細部に目が行きがちになってしまう)。

 本書において見田宗介の忠実な後継者であるようにも見える著者は、「虚構の時代」の次に来たものを「不可能性の時代」とし、現代社会の特徴として「現実から逃避」するのではなく、「現実へと逃避」する者たちがいること、大衆文化の中で、破壊的な「現実」への嗜好や期待が広く共有されていること(218p)を捉え、それはむしろ、真の〈現実〉、真の〈破局〉に向き合うことを回避する社会傾向だとしていて、こうした"逃避"の行き先である「現実嗜好」、或はその裏返しとしての「破局嗜好」は、真の破局を直視することを避けようとするものであると―(そう述べているように思った)。
 破局への嗜好を、真の〈破局〉を直視することで断ち切ることに、普遍的な連帯への手掛かり(可能性)があるといった論旨でしょうか。

文明の内なる衝突.jpg 著者の本を読むのは、『文明の内なる衝突』('02年/NHKブックス)に次いで2冊目ですが、9.11テロとそれに対するアメリカの反攻に内在する思想的な問題を、「文明の衝突」というハンチントンの概念を援用して読み説いたこの本においても、テロリズムとナショナリズムの同位性などの着眼点は面白かったが、解決の手掛かりが抽象的であるように思えました。
 今回もテーマの一部としてこの問題は扱われていますが、対象とする問題の範囲が広い分、結論の抽象度は更に高まったように思います。
 後半部分は、共感するしない以前に、ワカラナイ部分が多すぎたというのが正直なところです。

《読書MEMO》
●現代社会は、二つのベクトル―現実への逃避と極端な虚構化―へと引き裂かれているように見える。(中略)究極の「現実」、現実の中の現実ということこそが、最大の虚構であって、そのような「現実」がどこにあるのかという想定が、何かに対する、つまり〈現実〉に対する最後の隠蔽ではないか。(中略)一方には、危険性や暴力性を除去し、現実を、コーティングされた虚構のようなものに転換しようとする執拗な挑戦がある。他方には、激しく暴力的で、地獄のような「現実」への欲望が、いたるところに噴出している(165-166p)

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読み易いが、読み易さと理解のし易さは別。抽象的で、構成上もモザイク的な印象。

社会学入門−人間と社会の未来.jpg 『社会学入門―人間と社会の未来 (岩波新書)』 ['08年] 現代社会の理論.jpg 『現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)』 ['96年]

 前著『現代社会の理論』('96年/岩波新書)に比べれば読み易かったですが、社会学の入門書としてはどうかなあという感じで、読み易さと理解のし易さはまた別であるというのが、本書を読み終えた感想です。

 確かに前半部分、第1章「鏡の中の現代社会」と第2章「魔のない世界」は、文化人類学的な視点などを示していて(著者の専門は文化社会学)、学問の入り口に立つ人に社会学という学問の幅の広さを理解してもらう上では良いと思いましたが(社会学は"越境せざるを得ない学問"である著者は言う)、体系的に纏まっているわけでもなく、エッセイみたいな部分もあり、第3章の「夢の時代と虚構の時代」において、現代日本の"感覚"の歴史を割合に手際よく纏めているかと思うと、第4章「愛の変容/自我の変容」で短歌評みたいになったりして、「論」としての纏まりを感じたのは第5章の「二千年の黙示録」と、約40ページ9節に分かれる「補章」の部分でしょうか。

 第5章の「二千年の黙示録」で提示しているテーマは、「関係の絶対性」をどう超えるかということであり、これは、黙示録にある"バベルの塔"の崩壊以来、2001年の同時多発テロに象徴されるような、原理主義的な"イズム"の衝突をどう克服するかということだと解釈したのですが、その結論は、「補章」の最後にあるように、この著者特有の「〈至高なもの〉を解き放つこと」的な言い方に収斂されており、これに感動するか、韜晦されたと感じるかによって、本書への評価は分かれると思いました(この著者には、熱狂的な読者が多い。一般読者だけでなく、大澤真幸、宮台真司、小熊英二ら多くの見田ゼミ出身の社会学者がいる)。

 敢えて具体的(でもないが)、解決案的記述を探せば、「補章」の"間奏"にあたるという(「補章」は交響曲構成になっているらしい)第6節で、近代社会学における「ゲゼルシャフト(社会態)からゲマインシャフト(共同態)へ」という社会様態の段階理論を止揚し(人間のこれまでの全ての社会は「ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへ」の複層構造にあるが、ゲゼルシャフトは虚構であり、それは微分化されたゲマインシャフトの相互の関係としてのゲゼルシャフトであると)、そこに「意思以前の関係」(要するに自由がきかない関係とういうこと)か「自由な意志による関係」かという軸を入れ、その第1象限にあたる「ゲマインシャフト/自由な意志による関係」を「交響体」(ゲマインシャフトだが自由がきかない「共同体」の発展系)として捉え、そこに活路を見い出しているようです(序章で既にこのことは述べられていた)。

 やはり抽象的? 大学の講義ノートを再整理したものらしいですが、その講義科目が幾つかに渡るうえに、すでに発表済みの論文等も織り交ぜていて、結果的に各章の関係がモザイク的な感じになっているように思いました(著者の信奉者には、それが綺麗な模様に見える?)。モザイクの部分部分はそれなりに、イイこと書いてあるのだが...。

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情報化・消費化社会がもたらす環境・資源問題は既にグローバル化した"常識問題"に。
やや古く、解決糸口も見えにくい。

現代社会の理論.jpg 『現代社会の理論―情報化・消費化社会の現在と未来 (岩波新書)』 ['96年]

 我々が生きる「現代社会」とはどんな社会か? その基本的な特質は何か? 本書は、社会学の方法を用いてその問題に迫った"名著"とされている本―ですが、自分との相性はイマイチだったかも。

 著者は、現代社会を「情報化/消費化社会」として特徴づけていて、例えば、我々が商品を購入する場合に、商品の機能や性能より、デザインやイメージから選択することがあるが、そうしたイメージはテレビCMなどで植えつけられたものであり、情報を通して欲望が喚起されたともとれ、情報は無限性を持つため、消費も無限に生み出される、そして、それに応えるようにモノも生産される―、その意味においては、現代の「情報化/消費化社会」システムが社会主義システムよりも相対的に優秀かつ魅力的だったことは確かであるが(ここまでは、計画経済の限界を説いた経済学者の先行理論と変わらない)、一方で、このシステムは、「大量採取」と「大量廃棄」を伴うために、環境・公害問題、資源・エネルギー問題、貧困・飢餓問題などの危機的な矛盾と欠陥を孕む、と言っています。

 「大量生産→大量消費」という現代社会の図式は、実は「大量採取→大量生産→大量消費→大量廃棄」という全体図になっているのに、その始めと終わりの部分は我々の目には見えにくく、その"盲点"を指摘した点が、本書が"名著"とされている理由の1つでしょうが、本書の書かれた'96年時点では、本書に取り上げている「南北問題」とかで、「採取」と「廃棄」はそうした見えない地域へ押しやられて我々の目に触れにくかったということだろうか(個人的には、今現在ほど「環境/資源問題」がグローバルな問題になっていなかったにしても、当時においてもそれなりに問題視されていたように思うが)。

 後半部に、この「環境/資源問題」をどう乗り越えるかがテーマとして取り上げられていますが、バタイユなどを引くうちにだんだん抽象的な学術論文みたいになってきて、あまり具体的な解決案というものが、読んでも見えてきませんでした(結局、「モノからココロへ」ということが言いたかったのか?)。
 後半部では、スーザン・ジョージ『なぜ世界の半分が飢えるのか』 ('80年/朝日新聞社・'84年/朝日選書)から例証・反駁したゼネラル・ミルズ社のトウモロコシ原料商品「ココア・パフ」の話が唯一面白かったですが、読み物としては面白いけれど、あまりに楽観的すぎる気もして、こうした楽観性は、本書の随所に見られたような...。

 広告が商品に付加価値を付けることがやたら強調されていますが、広告があるがゆえに単一商品に対する(大量需要が生じて)大量消費が可能となり、それに応えるための大量生産が可能となり、よって商品の単価が下がるのであり(コマーシャルが流れると苦々しくテレビのチャンネルを切り替える人も多いと思うが、そうした人だって新聞の書籍広告には目を通したりする)、こうした伝達機能がなければ、商品はどれもプレミア商品にならざるを得ず、出版物の多くは稀覯本になってしまう―、本書では、広告のそうした「商品の単価を下げる」というベーシックな機能には、あまり目がいってないように思えました。

《読書MEMO》
(スーザン・ジョージ著『なぜ世界の半分が飢えるのか』より) 「私は週末に大スーパーに買い物に出かけ、ゼネラル・ミルズ社が、トウモロコシを1ブッシェル当たり75ドル4セントで売っているのを知りました(商品名は「ココア・パフ」)。先月のトウモロコシの1ブッシェル当たり生産者価格は平均2ドル95セントでしたから、消費者の手に届くまでに生産者価格の25倍になったわけです。(中略)トウモロコシ1ブッシェルを消費者に75ドル4セントで買わせるということについては、あきれた社会的な無駄使いであると申しあげたい。」(中略)
 ジョージが付記しているとおり、「アメリカの食料需給システムは、量的な消費をうながすという面ではほぼ限界に達している。だが、とるべき道としては、拡大か、あるいは停滞から崩壊に至るかしかないから、とにかくたべものの、「価格」を上げるほかはない。」というわけである。(中略)実際に、「豊かな」諸社会の食料需給が「量的な消費をうながすという面ではほぼ限界に達し」、市場的「価値」を上げるためには「おいしさ」の差異を競合するビジネスとなり、(中略)貧しい国の土地利用の形態を変え、家畜やその飼料のための土地を設定し拡大するために、人間のための(中略)土地を侵食し、「自然の災害」にさらされやすい辺地に追いやり、数億という人々の飢えの主要な原因の1つとなっている...(中略)
 この文脈自体はまったく正当なものであるが、「ココア・パフ」の事例自体には、この論理の文脈には収まりきらない部分があって、(中略)ゼネラル・ミルズ社は、この当時ブッシェル2ドル95セントであったというトウモロコシを、75ドル4セントで、25倍以上の価格で売ることに成功している。秘密の核心は、第一に(中略)食品デザインのマージナルな差異化であり、第二に、「ココア・パフ」というネーミング自体にあったはずである。「ココア・パフ」を買った世代は、「トウモロコシ」の栄養をでなく、「パフ」の楽しさを買ったはずである。「おいしいもの」のイメージを買ったのである。(中略)
 基本的に情報によって創り出されたイメージが、「ココア・パフ」の市場的価格の根幹を形成している。
 ゼネラル・ミルズ社が同じブッシェルのトウモロコシから25倍の売上を得たということは、逆にいえば、同じ売上を得るために、25分の1のトウモロコシしか消費していないということである。つまり、この場合、飢えた人びとのからの収奪はそれだけ少ないということである。(中略)情報化/消費化社会というこのメカニズムが、必ずしもその原理として不可避的に、資源収奪的なものである必要もないし、他民族収奪的なものである必要もないということ、このような出口の一つのありかを、この事例は逆に示唆しているということである。(143p‐145p)

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禅の伝道者としての面目躍如。禅の入門書としても日本文化論としても読める。

鈴木 大拙 『禅と日本文化』.JPG禅と日本文化.jpg  禅と日本文化1.bmp       鈴木大拙 没後40年.jpg
禅と日本文化 (岩波新書)』 (復刻版)/『禅と日本文化 (1948年) (岩波新書〈第75〉)』旧版/『鈴木大拙 (KAWADE道の手帖)』 ('06年/河出書房新社)

 仏教学者の鈴木大拙(1870‐1966)が、禅とは何か、禅宗が日本人の性格を築きあげる上でいかに重要な役割を果たしたかを外国人に理解してもらうために、禅と日本文化の関連を、美術、武士、剣道、儒教、茶道、俳句の各テーマについて論じたもので、英米で鈴木大拙が行った講演をベースに、北川桃雄(1899‐1969)が翻訳し、1940(昭和15)年に刊行されたものです。

 内容的には、禅の入門書としても読めますが、日本文化にいかに禅というものが染み込んでいるかという日本文化論としても読め、外国人に説明的に話されているのと、一度英語で記されたものを和訳したものであるため、文章の主格・従格がはっきりしていることもあって読み易いと思われます。
 例えば、「禅と美術」の章で、〈わび〉の真意は「貧困」(ポヴァティー)である、などとあり、外国人に限らず、今の一般的日本人にとっても、こういう風に説明してもらった方が、はいり込み易いかも。
 但し、それだけではなく、「禅と茶道」の章では、〈さび〉と〈わび〉は同義であるが、そこには美的指導原理が在り(これを除くとただのビンボーになってしまう)、〈さび〉も〈わび〉も貧乏を美的に楽しむことである、更に、〈さび〉は一般に個々の事物や環境に、〈わび〉は通常、貧乏、不十分を連想させる生活状態に適用される、とあります。

 禅の問答話も多く紹介されていて、これを聞いた外国人は、それらの話の展開が西洋的なロジックと全く逆であるため、一瞬ポカンとしたのではないでしょうか。その辺りを、日本の文化や芸術に具象化されているもので解説する(この時点で、外国人よりは日本人の方が、イメージできるだけ理解し易いのでは)、更に、必要に応じて、先の〈さび〉と〈わび〉の説明のような概念整理をしてみせる(ここで何となく外国人も理解する)、といったことを丁寧に繰り返しているような感じで、禅の伝道者(advocator)としての面目躍如といったところ。

 鈴木大拙の業績の要は、まさにこの点にあったと思われるのですが、外国人を惹きつける魅力を持った彼の話には、20代後半から12年間アメリカで生活して西洋人と日本人の違いを体感してきたこともあり、また、仏教に対する造詣だけでなく、東西の宗教や文化・芸術に対する知識と理解があったことがわかり、この人自身は、禅者であったことは確かですが、併せて、傑出した知識人であったことを窺わせます。
 79歳からも9年間西欧に渡り、仏典の翻訳の傍ら、フロム、トインビー、ハイデガー、ヤスパースら20世紀を代表する知識人に禅や老荘思想を伝授し、大拙の元秘書だった岡村美穂子氏によると、'66年に96歳で亡くなる前日まで、仕事に励んでいたとのこと(死因は腸閉塞)。

禅と日本文化 対訳.jpg 個人的には、最初に本書を読んだ時に、第1章の「禅の予備知識」を入門書として重点的に読みましたが、第2章以下の各文化との関連については、読み込み不足だったと思われ、今回の読書でもその印象は残っており(星半個マイナスは自分の理解度の問題)、また何度か読み返したい本です。
 岩波の旧赤版ですが、復刻されているので古書としては入手し易い部類ではないかと思われ、汚れナシのものを古本屋で200円で購入し、再読しました。
 '05年には、講談社インターナショナルより対訳版も刊行されています。

 『対訳 禅と日本文化 - Zen and Japanese Culture』 ['05年/講談社インターナショナル]

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実践と学識に裏打ちされた、「自己責任論」の過剰に対する警鐘。

反貧困.jpg反貧困―「すべり台社会」からの脱出 (岩波新書 新赤版 1124)』['08年]湯浅 誠.jpg 湯浅 誠 氏 (NHK教育「福祉ネットワーク」(2007.12.19)「この人と福祉を語ろう 見えない『貧困』に立ち向かう」より)

 著者が立ち上げたNPO法人自立生活サポートセンター〈もやい〉には、「10代から80代まで、男性も女性も、単身者も家族持ちや親子も、路上の人からアパートや自宅に暮らしている人まで、失業者も就労中の人も、実に多様な人々が相談に訪れ」、〈もやい〉では、こうした貧困状態に追いやられてしまった人々のために、アパートを借りられるように連帯保証人を紹介したり、生活保護の申請に同行したりするなどの活動をしているとのことです。
 本書には、その活動が具体例を以って報告されているとともに、こうした活動を通して著者は、日本社会は今、ちょっと足をすべらせただけでどん底まですべり落ちていってしまう「すべり台社会」化しているのではないかとしています。
ルポ貧困大国アメリカ.jpg 冒頭にある、生活困窮に陥ってネットカフェや簡易宿泊所を転々とすることになった夫婦の例が、その深刻さをよく物語っていますが、ネットカフェ難民自体は、既にマスコミがとりあげるようになった何年か前から急増していたとのこと。「帯」にあるように、本書でも参照している堤未果氏の『ルポ 貧困大国アメリカ 』('08年/岩波新書)に近い社会に、日本もなりつつあるのかも、と思わせるものがります。

 国の社会保障制度(雇用・社会保険・公的扶助の「3層のセーフティネット」)が綻んでいるのが明らかであるにも関わらず、個人の自助努力が足りないためだとする「自己責任論」を著者は批判していますが、一方で、「貧困」の当事者自身が、こうした「自己責任論」に囚われて単独で頑張りすぎてしまい、更に貧困のスパイラルに嵌ってしまうこともあるようです(「もやい(舫い)」〉というネーミングには、そうした事態を未然に防ぐための「互助」の精神が込められている)。
 著者は、こうした横行する「自己責任論」に対する反論として、個々の人間が貧困状況に追い込まれるプロセスにおいて、親世代の貧困による子の「教育課程からの排除」、雇用ネットや社会保険から除かれる「企業福祉からの排除」、親が子を、子が親を頼れない「家族福祉からの排除」、福祉機関からはじき出される「公的福祉からの排除」、そして、何のために生き抜くのかが見えなくなる「自分自身からの排除」の「5重の排除構造」が存在すると指摘していて、とりわけ、最後の「自分自身からの排除」は、当事者の立場に立たないと見えにくい問題であるが、最も深刻な問題であるとしています。

グッドウィル・折口会長.jpg 個人的には、福祉事務所が生活保護の申請の受理を渋り、「仕事しなさい」の一言で相談者を追い返すようなことがままあるというのが腹立たしく、また、違法な人材派遣業などの所謂「貧困ビジネス」(グッドウィルがまさにそうだったが)が興隆しているというのにも、憤りを覚えました。
 折口雅博・グッドウィル・グループ(GWG)前会長

 著者自身、東大大学院在学中に日雇い派遣会社で働き、その凄まじいピンはねぶりを経験していますが、実体験に基づくルポや社会構造の変化に対する考察は、実践と学識の双方をベースにしているため、読む側に重みを持って迫るものがあります。

 結局、著者は博士課程単位取得後に大学院を辞め、〈もやい〉の活動に入っていくわけですが、今のところ学者でも評論家でもなく社会活動家であり、但し、今まではNPO活動の傍ら「生活保護申請マニュアル」のようなものを著していたのが、2007年10月には「反貧困ネットワーク」を発足させ、更に最近では本書のような(ルポルタージュの比重が高いものの)社会分析的な著作を上梓しており、今後、「反貧困」の活動家としても論客としても注目される存在になると予想されます。

(本書は2008(平成20)年度・第8回「大佛次郎論壇賞」受賞作。第14回「平和・協同ジャーナリスト賞」も併せて受賞)


《読書MEMO》
●「どんな理由があろうと、自殺はよくない」「生きていればそのうちいいことがある」と人は言う。しかし、「そのうちいいことがある」などとどうしても思えなくなったからこそ、人々は困難な自死を選択したのであり、そのことを考えなければ、たとえ何万回そのように唱えても無意味である。(65p)
●〈もやい〉の生活相談でもっとも頻繁に活用されるのは、生活保護制度となる。本人も望んでいるわけではないし、福祉事務所に歓迎されないこともわかっている。生活保護は、誰にとっても「望ましい」選択肢とは言えない。しかし、他に方法がない。目の前にいる人に「残念だけど、もう死ぬしかないね」とは言えない以上、残るは生活保護制度の活用しかない。それを「ケシカラン」という人に対しては、だったら生活保護を使わなくても人々が生きていける社会を一緒に作りましょう、と呼びかけたい。そのためには雇用のセーフティネット、社会保険のセーフティネットをもっと強化する必要がある。(132‐133p)

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「俳句とは、詠む人間と読む人間がいて初めて俳句たりうる」―。確かに、と思わせる。

俳句という遊び―句会の空間.jpg 『俳句という遊び―句会の空間 (岩波新書)』['91年]  俳句という愉しみ.jpg  『俳句という愉しみ―句会の醍醐味 (岩波新書)』['95年]           

飯田龍太の時代.jpg 『俳句という遊び』は、飯田龍太(1920‐2007)ら8人の俳人が会した句会の記録で、句会どころか俳句自体が個人的にはあまり馴染みのない世界であるにも関わらず(メンバーの中でも名前を知っているのは高橋睦郎ぐらい)、著者(作家の小林恭二氏)の軽妙な導きのお陰で、読んでいる間中ずっと楽しめました(自ら"野球中継"に喩えていますが、ホントそんな感じ。或いは、将棋のユーモラスな盤解説みたいな感じも)。

飯田龍太の時代―山廬永訣 (現代詩手帖特集版)』 ['07年]

 俳句は17文字しか使えないだけに、様々な決め事があるのでしょうが、そうした俳句に関する細かい知識が殆どなくとも十分に楽しめ、むしろ、17文字しかないだけに、俳人たちの一語一句に込める思いの深さに感嘆させられます(メンバーの批評や著者の解説を読んで、初めてナルホドと思うのだが)。

 ただ、本人の思い入れとは別に、一旦作者の手を離れると、同じ句でも、「なんだ、これ」と首を傾げる人も入れば、作者以上に(?)鋭い読みをして絶賛したりする人もいたりするのが面白いです。
 「正選」と併せて「逆選」もしているので、句会のメンバーから酷評され、著者も「何ら意味がない」「あえなく撃沈」みたいに書いている句もありますが、そうした中にも嫌味がなく、大人のコミュニケーションだなあという感じ。
 作者は、論評が終わった後に名乗るシステムで、「この句はここが弱い」とか言ってる評者が、実はその作者だったりするのもおかしい。
 俳句とは、こうしたコミュニケーションの文学なのだ―、そういうことを、知らず知らずのうちに理解させてくれる本でもあります。

 それでも、2日がかりで8人の俳人が評点の累計を競っているだけに、終わった後は、皆、疲れた〜という感じ(やはり、そうだろうなあ)。
 なのにこれに懲りず、新書本にすることを前提に、多少メンバーを入れ替えて、何年か後にもう1度句会をやっています(こちらは、『俳句という愉しみ』に収録)。

 1冊目の『俳句という遊び』の方の句会は、飯田龍太を求心力として催されている感じもするのに対し、2冊目の『俳句という愉しみ』は、飯田が抜け、物理学者で元東大総長の有馬朗人らの俳人、或いは歌人などが加わって、よりオープンな感じ。でも、有馬朗人にしてもそうですが、1冊目の飯田龍太にしても、上座に鎮座しているような雰囲気は全然なく、どちらも飄々としたいい感じで、そうしたものが全体の「座」のムードを楽しくしています。

 「俳句とは、詠む人間と読む人間がいて初めて俳句たりうる」(『俳句という愉しみ』(144p))―。確かに、と思わせるものがありました。

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楽しい講演会を聞いているような印象の本。体系的ではないが、息抜きにはちょうどいい。

だます心 だまされる心.jpg 
だます心 だまされる心 (岩波新書)』['05年]
霊はあるか―科学の視点から (ブルーバックス)』['02年]
霊はあるか.jpg 「だます」という行動を人間関係や自然界について様々な角度から捉えた本で、著者は工学博士(専門は放射線防護学、因みに、東大在学中からの筋金入りの"反原発"派)であるとともに、「ジャパン・スケプティクス」という、超常現象を批判的・科学的に究明する会の会長で、松田道弘著『超能力のトリック』('85年/講談社現代新書)でも紹介されているユリゲラーのスプーン曲げのトリックなどを公開講座で実演してみせたりもしており、『人はなぜ騙されるのか-非科学を科学する』('96年/朝日新聞社)、『霊はあるか-科学の視点から』('02年/講談社ブルーバックス)などの著作もある人です(特に後者の著作は、日本の仏教宗派の主要なものは教義上は霊は存在しないと考えている点をアンケート調査で明かしていて、「超心理学」とはまた違った観点で興味深い)。

不可能からの脱出.jpg 本書『だます心 だまされる心』では、最初の方で、人間の錯覚などを生かした手品や、それを超能力と称しているもののトリックを、著者自身の実演写真入りで解説し("物質化現象"のトリックを実演したりしている)、また、小説に現れたり、だまし絵に見られたこれまでのトリックを紹介しています。本書にある、コナン・ドイルが"妖精写真"にだまされた話は有名で、コナン・ドイルと一時期親交があった奇術師フーディーニは、インチキ霊媒師のトリックを幾つも暴いたことで知られていますが、ある人への手紙の中でコナン・ドイルのことを非常にだまされやすい人物と評しています(松田道弘著『不可能からの脱出』('85年/王国社))。
不可能からの脱出―超能力を演出したショウマン ハリー・フーディーニ』 ['85年/王国社]

 本書では更にまた、過去の有名な霊媒師や予言者という触れ込みの人の手法を明かしていますが、個人的には、実際にあったという"地震予言者"の話が面白かったです。自分宛のハガキを毎日出すことで、消印のトリックをしていたなんて!(自分に来たハガキならば、後から「2日後に地震があります」とか書いて、地震があった直後に、今度は宛名を消してご近所さんの宛名に書き換え...)。 

 特に、科学者もだまされた(と言うか、誤った方向へのめりこんだ)例として、世界的な物理学者・長岡半太郎が、水銀から金をつくり出す研究に没頭していたという話は興味深く、また、野口英世が為した数々の病原菌の発見は殆ど誤りだったという話は、分子生物学者・福岡伸一氏のベストセラー『生物と無生物のあいだ』('07年/講談社現代新書)の中でも紹介されていました。

賢いハンス.jpg この話の後に、"計算の出来る馬"として世間を騒がせた「賢いハンス」の話がきたかと思うと、旧石器発掘捏造事件(所謂"ゴッド・ハンド事件")の話やナスカの地上絵の話などがきて、英国のミステリー・サークルは2人の老画家がその全てを描いたという話は一応これに繋がりますが、更に、動物の「擬態」の話(科学者らしいが)がきたかと思うと、社会的な問題となった詐欺事件や戦争報道の捏造などがとり上げられていて、読者を飽きさせはしないけれども、体系的ではないという印象。
"計算の出来る馬"「賢いハンス」

 霊視能力などの"超能力"や簡単に出来る"金儲け"を喧宣する人に対する「そんなことできるのなら、どうしてこうしないのか」(例えば、警察に行って未解決事件の捜査協力するとか、他人にわざわざ勧めなくとも、勝手に自分だけが大金持ちになるとか)という問いかけは、単純なことながらも、そうした怪しい(ウマすぎる)話に直面したときに、冷静にその問いかけを自分に出来るかどうかが理性の分かれ目であるという点で核心を突いていると思います。

 ただ、本書全体としては、心理学半分、科学エッセイ半分という感じで、どちらかというと、楽しい講演会を聞いているような印象の本でした。あまり体系的でないということで、個人的評価は星3つとやや辛めですが、息抜きにはちょうどいいかも。

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なぜアメリカ人の"巡礼地"となったのかを、文化社会学的に分析。ビジネス書としても人物評伝としても読める。
ディズニーランドという聖地.gif   ウォルト・ディズニー (1901-1966).jpg ウォルト・ディズニー(1901-1966)
ディズニーランドという聖地 (岩波新書)』 
 主にアメリカのディズニーランドの歩んできた道を描いた本書は、ビジネス書としての要素もウォルト・ディズニーの評伝としての要素もありますが、タイトルの通り、いかにしてディズニーランドがアメリカ人の「聖地」となり得たのかを分析した「文化社会学」的な本としての要素が最も強いと言えます。但し、ディズニーについて米国人などが書いた大概のビジネス書よりもずっと楽しく読め、しかも、'90年の刊行でありながら、その後に刊行されたディズニー関連の多くのビジネス書よりも、含蓄にも富んだものとなっているように思われます。

 著者は、米国の大学院に学んだアメリカ研究者(文化人類学者)ですが、もともとディズニーランドにはあまり楽しくない印象を抱いていたのが、たまたま仕事で東京ディズニーランド開設に関与することになり、また、そこで知り合った人に勧められてディズニーの伝記を訳すことになったということで、ディズニーランドのコンセプト、ウォルトの個人史を通じて、ディズニー文化とアメリカ人、アメリカ社会との関わりを探るうえでは、ピッタリの人と言えるかも(ディズニーに関わりながらも、普通のライターやマニアとは異なる冷静な視線がいい)。

Disneyland Railroad.jpgSanta Fe & Disneyland Railroad.jpg ウォルト・ディズニーの幼少時代は、家庭的・経済的に暗いもので、ディズニーランドは彼にとって単なる遊園地ではなく(映画プロデューサーが本職の彼には、遊園地を作るという発想は無かった)、そうした暗いものを全部裏返しにしたような、彼にとっても「夢の国」であったということを本書で知りました。

Santa Fe & Disneyland Railroad (Disneyland Railroad)

 共同作業で機械的に生産されるようになったアニメーションの仕事で行き詰っていたときに、鉄道模型にハマり、それで心癒されたウォルトの気持ちが、「サンタフェ鉄道」(ディズニーランド鉄道)に込められているとのことで、その他にも、ディズニーランドのアトラクション1つ1つの歴史や意味合いがわかり、楽しく読めます(東京ディズニーリゾートに同じものがコピーされているというのも、本書が親しみ易く読める理由)

The third most elaborate Pirate walk-through plan  circa 1963.gifWalt.gif ウォルトが最後に関与したアトラクションが「カリブの海賊」ですが、実際の"カリブの海賊"に勇ましい歴史などは無く(死因のトップは性病だった)、ウォルトの故郷を模したというメインストリートも、実は彼の故郷は殺風景な町並みであり、ミシシッピーの川下りで川辺に見える景色についても、同じことが言える―。つまり彼は、「本物の佳作」を作ろうとしたのでなく、「ニセモノの大傑作」を作ろうとしたのであり(ディズニーランド内の開拓時代風の建物や島などは、確かにそれらの殆どがセメントで出来ている)、そこに「死と再生」の意匠が反映されていると著者は分析しています。

 アメリカ人の方が日本人よりもアメリカの歴史を知っているだろうし、ディズニーランドにある多くのニセモノに気づくのではないかと思われますが、それでも、アメリカ人にとってディズニーランドは、どんな離れた所に住んでいても1度は行きたい「巡礼地」であり、訪れた人の多くが、ディズニーランドのゲートをくぐった途端に多幸感に包まれる...。どうしてディズニーランドが、アメリカの歴史と文化を象徴するものとしてアメリカ人に承認されるのか、本書を読み、アイデンティtティって、リアリズムじゃなくて"ドリーム(夢見=幻想)"なのだなあと(ディズニーランドででは"夢見"を阻害するものは徹底して排除されているわけだ)、そう思いました。

「ディズニーランド」.jpgディズニーランド(テレビ番組).jpg 因みに、ディズニーランドがアメリカでオープンする前年の1954年にテレビ番組「ディズニーランド」がスタートしており、日本では4年遅れで日本テレビ系列で放送が開始され、'72年まで続きました。番組の冒頭、ウォルト・ディズニー本人が喋って、ティンカー・ベルが「未来の国」「おとぎの国」「冒険の国」「開拓の国」の4つ中から、妖精の粉を振りかけたものがその日の番組内容のジャンルになるという趣向が懐かしく思われます。

「ディズニーランド」Disneyland (ABC 1954~61/NBC 1961~81/CBS 1981~83)○日本での放映チャネル:日本テレビ(1958~72)

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アンデスに夢を馳せ、山脈の隅々に潜むインカの囁きを聴くには充分な1冊。

インカを歩く.jpgカラー版 インカを歩く (岩波新書)』['01年]高野 潤.jpg高野 潤 氏(写真家/略歴下記)

 アンデスの雄大な自然と伝統を30年にもわたり撮り続けてきた写真家による写文集。

インカを歩く.jpg 第1章で、世界遺産である「天空の都市」マチュピチュを紹介しているのは一般的であるとして、その後インカ道を奥深く分け入り、チョケキラウという「パノラマ都市」をフィーチャーしていますが、ここも凄く神秘的で、要するにマチュピチュみたいなのが山奥にまだまだあったということなのかと、インカ文明の懐の深さに驚かされます。

 そして更に幾多の山や谷を抜け、インカ族がスペイン人に最後の抵抗を試みた際に籠もったとされるビルカバンバ地方へ。
 ここは、本当にジャングルの"奥地"という感じで、そこに至るまでに、また幾つかの大神殿があるのですが、これらを見ていると、インカ文明が「石の文明」であったことがよくわかります。

 続いて、幅広い年代の遺跡が眠る北ペルー(ここの「空中墳墓」もかなり凄い)を紹介し、更に、ペルー南部のインカ帝国の首都があったクスコ周辺や、もっとアンデスを下った地域まで、ポイントを押えながらも、広い地域をカバーしています。

 文章がしっかりしているのもさすがベテランという感じで、文献の引用が多いことを著者は予め断っていますが、非常に信頼できる記述・解説及び歴史考察ぶりとなっています。

 写真の方も、写真家らしい写真というか、トウモロコシが地に溢れる農園や海抜4千メートルにあるアルパカの放牧地、クスコから星空に望む霊山アウサンガテ峰など、そのままカレンダー写真にしたいような美しさです。

 一応、こうした写真のうち主要なものは見開きになっていますが、他にも遺跡などの写真が数多く収められていて、新書1冊にちょっと詰め込みきれなかった感じもあり、もったいないというか、気の毒な感じも。
 でも、著者が読者に願うように、「アンデスに夢を馳せ、山脈の隅々に潜むインカの囁きを聴く」には充分な1冊です。

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高野 潤 (たかの じゅん)
1947年新潟県生まれ。写真家。1973年から毎年ペル―、ボリビア、アルゼンチン、エクアドルなど主に南米太平洋側諸国のアンデスやアマゾン源流地域を歩き続ける。
南米に関する著書や写真集として、「神々のアンデス=世界の聖域18」講談社、「アンデスの貌」(教育社)、「アンデス大地」(山と渓谷社)同書はフランス、スイス、イタリアにて各国語出版される、「インカ」「どこまでも広く」「マドレの森」(以上三冊は情報センター出版局)、「アンデス=風と霧の聖蹟」(集英社)、「アンデス家族」(理論社)、「風のアンデスへ」(学習研究社)、「アンデスの抱擁」、「アマゾン源流生活」(以上二冊は平凡社)、「アンデス 食の旅」(平凡社新書)、「インカを歩く」(岩波新書)、「インカの野生蘭」(新潮社)。

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水木流に視覚化、キャラクター化された面も。

妖怪画談.jpg 妖怪画談 続.jpg 『妖怪画談 (岩波新書)』 ['92年] 『続 妖怪画談 (岩波新書)』 ['93年]

 水木しげるの妖怪画集で、この人には先行して『妖怪談義』という柳田國男の著作と同名タイトルの本もあり、更に『水木しげる妖怪画集』('70年)などもありますが、この『妖怪画談』('92年)は新書で比較的入手し易いのが長所。『続・妖怪画談』('93年)では、中国の妖怪なども紹介されていますが、同じ岩波新書の『妖精画談』('96年)で、ケルト地方、北欧、ドイツ、フランス、ロシアほか海外の妖精まで追っかけて調べ、水木流の画にしています。
 『妖怪談義』は'00年にソフトカバーで復刊しているほか、『妖怪画談』も'02年に愛蔵版が刊行されています(内容がそれぞれ同じかどうかは未確認)。
「塗壁」-『続・妖怪画談』より
ぬりかべ.jpg ところで、『続・妖怪画談』には、「塗壁」(ぬりかべ)という妖怪が紹介されていて、これは、水木氏のマンガの比較的主要なキャラクターにもなっていますが(本書のデラックス版とも言える『愛蔵版 妖怪画談』('02年/岩波書店)の表紙にも、鬼太郎ファミリーの後ろにどんと構えている)、その解説に柳田國男の『妖怪談義』を参照しており、柳田國男の『妖怪談義』('77年/講談社学術文庫版)の「妖怪名彙」('38年)にある「ヌリカベ」の解説には、「筑前遠賀郡の海岸でいう。夜路を歩いていると急に行く先が壁になり、どこへも行けぬことがある。それを塗り壁といって恐れられている。棒を以て下を払うと消えるが、上の方をたたいてもどうもならぬといふ。壱岐島でいうヌリボウというのも似たものらしい」とあります。

 水木氏はこれを、目と足を備えた壁のような画に描いていて、水木氏自身、戦時中に,南方で「ぬりかべ」に出会った(色は白ではなく黒だった)と書いていますが、'07年になって、川崎市民ミュージアムの学芸室長の所有する妖怪画が、アメリカのある大学の図書館に寄贈されている妖怪画と一致することが判り、後者に「ぬりかべ」と名があることから、これが「塗壁」を描いたものであるとされ、その姿は、水木氏の画とは全く異なり、中国風の「巨大な狛犬」のようなものに見えるものです(柳田の解説とも符号しないように思える)。  

 どこから食い違ってきたのか自分は専門家ではないのでよくわかりませんが、水木氏は、「柳田國男のあたりのものは愛嬌もあり大いに面白いが、形がないので全部ぼくが作った」と述べていて、水木氏の段階で、個人的な体験や見聞の影響も含めた創作が多分に入っているのは間違いなく、他の妖怪たちも皆、水木氏のマンガに配置されるとちょうど収まるようデフォルメのされかたをしているのは、それほど深く考えなくとも、見た感じでわかることではないでしょうか。

 だからと言って、水木氏がインチキだというのではなく、柳田國男だって画にしなかっただけで、想像逞しく大いに"創作"していた部分はあったに違いないという気がし、"妖怪"というのは、元々がそうした想像力の産物だから、時と共に変遷するものなのだろうなあと。

水木しげるさん死去(11月30日).jpg朝日新聞「号外」2015年11月30日



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1つ1つの漢字の成り立ちの話はどれも面白く、新書で新説を発表しているのが興味深い。

漢字 生い立ちとその背景.jpg 『漢字―生い立ちとその背景 (岩波新書)』 ['70年] 白川静の世界.jpg 『白川静の世界』 別冊太陽 ['01年]

カレンダー.jpg 白川静(1910‐2006)と言えば漢字、漢字と言えば白川静で、最近では象形字体を解説したものがカレンダーになったりしていますが、本人が一般向けに直接書いた本は意外と少ないのでは(中公新書に4冊、岩波新書は本書のみ)。但し、一般向けだからと言って手抜きは無く、本書もカッチリした内容。

 言われてみれば、漢字という文字は確かに不思議。四大文明発祥の地で起きた文字文化のうち、インダスの古代インド文字などは早くに姿を消し、楔形文字やエジプト文字も紀元前の間に「古代文字」化しているのに、漢字だけが連綿と現代にまで続いている―。漢字にも、現在の漢字と古代象形文字(竜骨文字)の間には断絶がありますが、多くの古代文字が発見(発掘)から解読まで長い年月を要している(或いは未解読である)のに比べ、竜骨文字は比較的短い期間で解読されていて、著者はその理由の1つに、象形文字としての古代文字が音標化されず表意文字のまま形だけを変えて現代にまで使われていることをあげています。

 このように、漢字の基本が表意文字であるというのは誰もが知ることですが、一方で、古代から表音文字としても使われていたことなど、本書を読むといろいろと意外な事実が明らかになり、1つ1つの漢字の成り立ちの話はどれも面白く、古代呪術の話が多く出てきて、ほとんど文化人類学の世界です。

常用字解.jpg 最初に本書を読んだときは、書かれた時点では定説となっていたことが記されているのかと思いましたが、例えば本書にある「告」という字は、もともと「牛」が「口」を近づけて何か訴える様とされていたのが、「口」には神への申し文(祝詞)を入れる「器」という意味もあると著者が言ったのは本書が初めてで、当時の学会における新説だったそうです(別冊『太陽』の白川静特集('01年)では、「1970年の出来事-口(サイ)の発見」として、その衝撃を顧みている)。

漢字百話.jpg こうした1つ1つの文字の成立は、新書では『漢字百話』('78年/中公新書、'02年/中公文庫)により詳しく書かれていますが、「新説」を「新書」で発表してしまうのが興味深く、一般書でも手を抜かない証しとも言えるのでは(本人はそれ以前に気づいていたわけだから、計画的?)。

漢字百話 (中公新書 (500))

 東大学派と対立し、後に同じ京都学派でも京大派とも意見を異にし、自身の母校である立命館大学に奉職していますが、もともと立命館も最初は夜学で学んで、卒業後しばらくは高校の先生をしていたという遅咲きの人(94歳での文化勲章受賞というのも遅い)。

 いまだにこの人の言っていたことは本当なのかという解釈を巡る議論はありますが、一方で、没後も「白川静 漢字暦」は刊行されていて(勿論、『字統』や『字訓』も改版されている)、「白川学」の学徒やファンの多いようですが、個人的にもこの人のファンです。

 (本人は、名前の読みが1文字違いのフィギアスケートの荒川静香のファンだったとか、将棋が趣味で、任天堂DSで将棋ゲームをやっていたとか、晩年の逸話として親近感を抱かせるものがあるが、言語学者・金田一京助もそうだったように、年齢が進んでもボケない脳味噌を持った所謂"優秀老人"だったのではないか)。

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武帝が中国の歴史・文化に与えた影響が、親しみやすさをもってキッチリわかる良書。

漢の武帝.jpg 『漢の武帝 (岩波新書 青版 (24))』 ['49年] 吉川幸次郎.jpg 吉川幸次郎 (1904‐1980/享年76)

 吉川幸次郎(1904‐1980)の40歳代前半の著作で、同じ岩波新書では『新唐詩選』という著作もあり、漢字学の白川静(1910‐2006)などとも京都学派ということで繋がりの深かった「中国文学者」ですが(50歳過ぎだった白川静に博士論文を書くよう勧めたのは吉川幸次郎)、本書は一般向けに書かれた「歴史書」です。

 漢の武帝の時代(前141‐前87)を中国史上最も輝かしい時代の1つと捉え、武帝の治世を4期に分けて、この希代の天子の業績を検証するとともに中国史において果たした役割を考察した本、と言いっても硬い内容ではなく、歴史小説を読むように面白く読めます(但し、書かれていることは史書に基づいていて、「史記」や「漢書」といった史書自体が面白く書かれているという面もある)。

 著者に言わせれば、武帝の時代は「輝かしい時代」などとカッコつけて言うよりは、「威勢の良い・にぎやかな」時代ということであり、匈奴討伐の衛青、霍去病ら英傑をはじめ登場人物からして派手。ただし、軍事面だけでなく、武帝の目を西域に向けさせた張騫や、公孫弘、張湯といった文臣の功績など外交・内政(経済政策)面での臣下の多岐にわたる活躍を、彼らの人となりも含めて描いていて、武帝が国家改革を進め中央集権を完成するにあたって、炯眼をもって柔軟な人材登用を行ったことがよくわかります。

 そんな武帝も治世の後半は逸材と言える臣下に恵まれず、晩年には神仙思想に染まり、歴代皇帝の中で最も深く呪術に嵌まってしまう、それが、皇太子との間での確執と悲劇に繋がり、ある意味、人間の哀しさを体現した生涯のようにも思え、そうした点も、中国史上最も人々の印象に残る人物の1人となっている一因なのかも。

 戦後まもなくに書かれた本ですが、「皇帝の目は、一人のコーラス・ガールのの上にそそがれた」、「夫婦二人でバアをひらき、夫はショート・パンツをはいて皿を洗い」、「放逸な不良マダムぶりを発揮した」等々、親しみやすい(?)表現が多く、歴史小説よりもむしろ柔らかい部分さえあるかも知れません。

 一方で、武帝という人物が、政治・経済から儒学・宗教までいかに多くの面で、その後の中国の歴史と文化の方向付けをしたかということがキッチリわかる良書、陳舜臣などの中国時代小説を読むきっかけとなった本であるという個人的な思い入れもあり星5つ。

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太平洋戦争降伏を決意したのは、「国民」のためではなく「三種の神器」を守るため !?

昭和天皇.jpg 『昭和天皇 (岩波新書 新赤版 1111)』['08年] 原 武史.jpg 原 武史 氏(政治学者)

 2008(平成20)年・第11回「司馬遼太郎賞」受賞作。

 本書によれば、天皇の地方視察や外国訪問などの政治的活動は一般国民に可視の(お濠の外側の)ものであリ、御用邸を訪れたり園遊会を催したりすることは政治的活動ではないが、これもお濠の外側のものであると。
昭和天皇の新嘗祭.jpg 一方、不可視の(お濠の内側での)活動は、戦前は「統治権の総攬者」として上奏に対し下問するという政治活動があったが、今は象徴天皇なのでそれは無い。そうすると残るのは、お濠の中での非政治的活動で、宮中祭祀とか生物学研究がそれに当たるが、本書では、その、国民の目から見えにくい宮中祭祀に注目し(天皇が勤労感謝の日に新嘗祭を行っているのを今の若い人の中でで知っている人は少ないのではないか)、昭和天皇の宮中祭祀へのこだわりを通して、天皇は何に対して熱心に祈ったのかを考察しています。
昭和天皇による「新嘗祭」

 もともと昭和天皇は宮中祭祀に熱心ではなかったようですが、そのことで信仰に口うるさかった貞明皇太后との間で軋轢を生じ、逆に新嘗祭などの祖宗行事を熱心に行うようになり―最初は皇太后口封じのために行っていたのが、太平洋戦争時には、敗色濃厚になるにつれアマテラスに熱心に戦勝祈願するようになっていた―「万世一系」の自覚のもと晩年まで祭祀の簡素化を拒み続けてきたとのことです。

 「皇祖神」信仰(或いは皇太后に対する責任意識)に比べれば、国民に対する責任意識は希薄だったようで(戦争降伏を決意したのは「三種の神器」を守るため !?)、そのことは、戦後の祈りについても同じで、敗戦を招いたことを「皇祖神」に詫び続け、平和への祈願も国民に向けてよりもまず「皇祖神」に向けてのものであり、戦争責任について記者会見で問われても国民に対する責任意識が無いために俄かに反応できず、ましてや戦争で辛酸を舐めたアジア諸国の人々を思い遣るといった発想はどこにもない―ということでしょうか。

 ショッキングな内容の本ですが、昭和天皇が貞明皇太后に抗えず祭祀を執り行うにあたり、どうやって自分を合理化したのかについて、生物学研究を通して神的なものに惹かれていったと考察しており、こうした考察を含め、先に結論ありきで進めていて、確証の部分が少し弱いようにも感じられました。
 ただ、個人の信仰や責任意識の度合いは不可知ではないかという気はするものの、『昭和天皇独白録』が、昭和天皇自らが作成に関与した戦争責任の「弁明の書」であること(吉田 裕 『昭和天皇の終戦史』('92年/岩波新書))などからも(高松宮は昭和天皇がA級戦犯に全責任を押しつけたことを批難している)、意識は国民より「皇祖神」の方へ向いていたというのは、生身の人間して考えた場合にあり得ることではないかと思った次第です。

《読書MEMO》
 1937年に勃発した日中戦争以降、天皇は毎年続けていた地方視察を中断する。また戦争の激化とともに、御用邸での滞在や生物学研究も中断されるが、宮中祭祀だけは一貫して続けられた。いやむしろ、天皇はますます祭祀に熱心になり、宮中三殿のほかに、靖国神社や伊勢神宮にもしばしば参拝する。特に靖国神社には45年まで毎年欠かさず参拝し、飛躍的に増えつつあった「英霊」に向かって拝礼するようになる。
 天皇の祈りを本物にしたのは、戦争であった。太平洋戦争が勃発した翌年の1942年、天皇は伊勢神宮に参拝し、アマテラスに僭称を祈った。戦況が悪化した45年になっても、天皇は祭祀を続け、勝利にこだわった。6月にようやく終結に向けて動き出すが、天皇が最後まで固執したのは、皇祖神アマテラスから受け継がれてきた「三種の神器」を死守することであって、国民の生命を救うことは二の次であった。(12p)

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終戦工作の全容をわかり易くまとめつつ、「昭和天皇独白録」が天皇の戦争責任弁明書であることを検証。
昭和天皇の終戦史.jpg昭和天皇の終戦史 (岩波新書)』['92年] 「大元帥」 昭和天皇.jpg「大元帥」昭和天皇(昭和3年11月)

吉田 裕 『昭和天皇の終戦史』.jpg皇居.jpg 1990年に発見された「昭和天皇独白録」は、その率直な語り口を通し戦争時における天皇の苦悩や和平努力が窺え、国民を感動させましたが、歴史家の秦郁彦氏は、これは東京裁判で天皇を無罪にするために「作成」されたものであり、その英文版がどこかに在るはずだと言ったら、本当にその通りだった―。

 本書は、戦後処理、戦争責任を巡る政局において、天皇をとりまく宮中グループが、「国体保持」とういう旗印のもと、どのように終戦工作に走ったのかを追うとともに、15年戦争開戦に遡って、開戦に至る経緯や泥沼化の過程での国の指導者たちの果たした影響を洗い出し、「独白録」が作られた経緯とその内容を検証しています。
近衛文麿
近衛文麿.jpg 天皇の側近者である宮中グループは、軍部と積極的に同調し15年戦争を推進したのですが(天皇自身も大元帥として東條英機らに指示を下した)、中には近衛文麿のように、太平洋戦争開戦に反対し、戦争末期には天皇に早期終戦を上奏しつつ、一方で秘密裡に「天皇退位工作」に動いた分派的な人もいたとのことで、但し、自らもインドシナ侵攻などには賛成した経緯がありながら、東條英機ら軍部に全責任を押し付けるという点では本流グループと同じだったのが、自らに戦争責任が及び逮捕されるに至って自殺してしまう―。

昭和天皇独白録.jpg その後も内外に天皇の責任を追及する声はあったけれど、戦争末期から「天皇制維持工作」をしていた宮中グループ(この時間稼ぎの間にも原爆が投下されたりしているのだが)の意向は、詰まるところ、占領統治を円滑にするには「天皇制維持」が望ましいとする米国の考えに一致するものであり、あとは連合軍諸国を納得させ、且つ天皇に戦争責任が及ぶのを防ぐにはどうするかということで、宮中グループ、中でも米国とのパイプの強い寺崎英成らが、「天皇の無罪」の証拠を作る―それが「昭和天皇独白録」だったのだなと。
昭和天皇独白録

寺崎英成.jpg 寺崎英成(柳田邦男の『マリコ』では日米の架け橋的人物として描かれている)という人物の光と影、「独白録」にも記されていない満州事変や日中戦争の責任問題(加害者意識ゼロ)、東條英機に全責任を負わせるための本人への説得工作(担当した田中隆吉は天皇から「今回のことは結構であった」と"ジョニ赤"を東條英機に賜った)等々、改めて驚くような内容が書かれています。
寺崎英成

 著者が30代後半の時の著作ですが、膨大な資料調査を背景としつつ、終戦工作の全容をわかり易くまとめていて、更に、「独白録」が昭和天皇の戦争責任弁明書であることを検証しています(当然のことながら、こうした本を頭から否定する人もいるだろう)。
 「独白録」発見の2年後に刊行されたのは、当時、「独白録」の実態解明に向けて学者間に競争原理が働いたこともあったでしょうが、著者の力量を感じました。

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「原因」も「基準」もわからない部分が多いが、対策は一応あります、という感じ。

人はなぜ太るのか 肥満を科学する.jpg人はなぜ太るのか―肥満を科学する (岩波新書)』['06年]岡田 正彦.jpg 岡田正彦氏(略歴下記)
 
ダイエット.jpg 本書の内容を自分なりの印象で大きく分けると、肥満の「原因」「基準」「対処」についてそれぞれ述べられていると考えられ、そのうち、本書タイトルにあたる「原因」については、まだわかっていないことが多いということがわかった―という感じです(後天的なものか先天的なものかというのは、ヒトを使った長期的実験が出来ないため、完全に検証することは事実上不可能ということ)。

 それと、最近話題になっている「肥満の基準」についてですが、本書では〈BMI(体重/身長の2乗)〉が有効であり、〈ウエスト周囲長〉も、心筋梗塞の発生率などとの相関は高いとしていますが、最近、自宅でも使える電気抵抗を利用した測定器がブームの〈体脂肪率〉は、皮下脂肪と内臓脂肪を区分せず測定した結果であるなどの問題点があるそうです(個人的には、スポーツクラブでこの「ボディスキャン」体験した。体組成を"部位別"に測定できるのが売りで、筋肉量・骨量・体脂肪・基礎代謝などが5分間程度で測定できて手軽ではあったが、この場合の"部位別"とは、上半身や脚部ということであり、身体の内側・外側ということではないようだ)。

 だから〈BMI〉が基準として完璧かと言うと、スポーツ選手などでは当て嵌まらないケースもあり(BMI批判として体脂肪率が提唱された)、また、メタボリックシンドロームの主たる判定基準となっている〈ウエスト周囲長〉も、数値区分の根拠を明確化できていないため、実際にメタボリックかどうかを判定する際は、中性脂肪比、血圧、血糖値などと併せて総合判定しているとのこと。

 「原因」も「基準」もわからない部分が多いけれども、肥満対策は一応考えねば、という感じですが、予防医学の専門家であるだけに、運動療法や食事療法、医学療法などは、コンパクトに網羅されていて、一方、酒の飲み方と肥満の関係では俗説を正したりもし、また、同じ食事内容でもコレステロールの蓄積度には個人差が大きいことを指摘していて、なかなか興味深かったです。

 ダイエット本が多く出版されていますが、著者によれば、その多くは個人的体験を綴ったものにすぎず、そこで示されるダイエット法には、ナンセンスなものや、時に有害なものあるとのこと、それに対して本書は、「学術論文と同じぐらい新しく、間違いがなく、役に立つ情報を、わかりやすく纏めたつもり」であるとのこと、肥満の原因のわからない部分や、肥満の基準の曖昧な点を明かしているのは、学者としては良心的であるということになるかも。
 本書の内容の信用度自体は高いと思われるので、肥満が気になる人には啓蒙書として手元に置いておくと、少し安心できるかも知れません(安心するだけではいけないのだが)。
_________________________________________________
岡田 正彦 (新潟大学医学部教授)
経 歴
1972年 新潟大学医学部卒業
1972年  同  医学部附属病院内科研修医
1974年  同  脳研究所助手
1990年  同  医学部教授
受 賞
・新潟日報文化賞(1981年度)
・臨床病理学研究振興基金「小酒井望賞」(2001年度)
実用化した研究
・悪玉中性脂肪の測定法(2005年):「悪玉中性脂肪(VLDL-TG)」の開発に成功、商品化の準備中。メタボリック・シンドロームを診断するための究極の検査法になると考えている。
・新潟スタディ(2000年):健常者約2,000名の健康状態を追跡調査している。目的は、日本人における動脈硬化症の危険因子を探るため。LDLコレステロール、HbA1c、肥満度、収縮期血圧が重要であることを発見。

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今でもそこそこにオーソドックスな入門書として読める。

脳の話16.JPG脳の話 岩波新書.jpg  時実利彦(1909-1973).gif 時実利彦(生理学者、1909-1973/享年63)
脳の話 (岩波新書)』['62年]

 1962(昭和37)年刊行という古さですが(1963年・第17回「毎日出版文化賞」受賞)、本論の最初で系統発生(脳の進化)と個体発生(脳の発達)、マクロ解剖の構造(脳の構造)を解説し、次にニューロンなどシステムの話(ネウロン)に入っていくという体系は、現代の専門教育におけるオーソドックスな講義の進め方と何ら変わらないものです。
 中盤は、大脳皮質の分業体制を示し、感覚、運動、感情、言語などのメカニズムを説き、後半では、記憶や学習、眠りと夢見、意識や行動などを、脳がどのように司っているかが書かれています。

 教科書的な並び方ですが、例えば「脳の重さ」についてだけでも、
 ・古代人類の脳の重さは現代人類の何歳のそれに相当するか(例えば北京原人は、3歳児ぐらいの脳の重さ)、
 ・偉人たちの脳の重さは普通の人より重かったのか(重い場合もあるが、必ずしもそうであるとは言えない)、
 ・脳の重さは高等動物の証しなのか(クジラの脳は7000gある)、
 ・では「脳重:体重」の比率が高等・下等を示しているのか(日本人の脳の重さの体重比は、スズメやテナガザル、シロネズミより小さい―だったらアメリカ人もフランス人もそうだろうが)、
 等々。
 そうなると、高等・下等を決めるのは、脳細胞の数か、皺の数か、はたまた細胞の絡み方か、と...読者の関心を引き込むような記述がなされています。

 図説も豊富ですが、著者は、実験脳生理学の手法を日本に導入した人であり、これまでの有名な海外での実験を紹介するだけでなく、自らの実験室で行ったマウス実験などを、写真と併せて紹介しているのが興味深く、電気生理学と分子生物学、とりわけ電気生理学の面での脳研究は、記憶の仕組みと海馬の役割などについても、この頃には既にここまでわかっていたのか、という思いにさせられます。

 「生の意欲」「生の創造」は前頭葉がその座であるとし、「生の創造」が人類滅亡の危機を抱かせることになった今日、「生の意欲」を達成するためには、シュバイツァーの説くところの「生への尊敬」が平和への唯一の道であり、脳の仕組みを凝視し、この心に徹してこそ豊かな実りが期待できると結んでいて、この頃の偉い先生って、思想と学問をきっちり結び付けていたのだなあという思いがしました。

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その書き方をしたときの作家の意識のありようを追うという方法論。

小説の読み書き.jpg 『小説の読み書き (岩波新書)』 ['06年]  考える人.jpg 坪内 祐三 『考える人』['06年]

 作家である著者が、岩波書店の月刊誌「図書」に'04年1月号から'05年12月号まで24回にわたって連載した「書く読書」というエッセイを新書に纏めたもの。

 編集者の方から持ち込まれた企画で、著者自身は、原則、自分が若い頃に好きで読んだ小説を、いま中年の目で読み返して何か書く、という大雑把なスタンスで臨んだらしいですが、とり上げている作品が、「雪国」「暗夜行路」「雁」「つゆのあとさき」「こころ」「銀の匙」...と続くので、何だか岩波文庫のロングセラー作品を追っているような感じも...(実際、「読者が選ぶ〈私の好きな岩波文庫〉」というアンケートを、途中、参照したりしている)。

 そこで、文庫本の後ろにある解説みたいなのが続くのかなと思って読んだら、確かに作品の読み解きではあるけれども、その方法論に一本筋が通っていて、なかなか面白かったです。

 作品の中の特徴的な文体にこだわり、作中の文章一節、短いものでは1行だけ抜き出して、そうした書き方をしたときの作家の意識のありようのようなものを執拗に追っていて、その時、書き手が大家であるということはとりあえず脇に置いといて、著者自身が作家として小説を書く作業に臨むときの意識と照らし合わせながら、どうしてその時代、その時々にそうした文章表現を作家たちが用いたのかを探っています。

 実際、新書の表紙見返しの概説でも、「近代日本文学の大家たちの作品を丹念に読み解きながら、『小説家の書き方』を小説家の視点から考える。読むことが書くことに近づき、小説の魅力が倍増するユニークな文章読本」とあったことに、後から気づいたのですが、確かに、こうした方法論が、別の視点からの小説の楽しみ方を教えてくれることに繋がっているかも。

 前後して、坪内祐三氏の作家・評論家論集『考える人』('06年/新潮社)を読みましたが、坪内氏が1958年生まれ、著者(佐藤正午氏)は'55年生まれと、比較的年齢が近く(とり上げている作家では、吉行淳之介、幸田文がダブっていた)、この2著の共通するところは、考えの赴くままに書いているという点でしょうか。

 とりわけ、この著者は、知ったかぶりせず、読書感想文に近いタッチで書いていて、むしろ、"知らなかったぶり"をしているのではないかと勘ぐりたくなるぐらいですが、実際、知識不足から誤読したものを読者に訂正されていて(本当に知らなかったということか)、それを明かしながらもそのまま新書に載せている、こうした姿勢は共感を持てました。

《読書MEMO》
●目次
川端康成 『雪国』
志賀直哉 『暗夜行路』
雁 新潮文庫.jpg森鴎外 『
永井荷風 『つゆのあとさき』
夏目漱石 『こころ』
銀の匙.jpg中勘助 『銀の匙
樋口一葉 『たけくらべ』
豊饒の海.jpg三島由紀夫 『豊饒の海
青べか物語1.jpg山本周五郎 『青ベか物語
林芙美子 『放浪記』
井伏鱒二 『山椒魚』
人間失格.jpg太宰治 『人間失格
横光利一 『機械』
織田作之助 『夫婦善哉』
羅生門・鼻 新潮文庫.jpg芥川龍之介 『
菊池寛 『形』
痴人の愛.jpg谷崎潤一郎 『痴人の愛
松本清張 『潜在光景』
武者小路実篤 『友情』
田山花袋 『蒲団』
幸田文 『流れる』
結城昌治 『夜の終る時』
開高健 『夏の闇』
吉行淳之介 『技巧的生活』
佐藤正午 『取り扱い注意』
あとがき

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一葉日記に現れた明治の季節感を通して味わいながら読める評伝。

一葉の四季.jpg 『一葉の四季 (岩波新書)』 〔'01年〕  樋口一葉p.png 樋口一葉 (1872-1896/享年24)

 地域雑誌「谷中・根津・千駄木」の編集人で作家・エッセイストでもある著者が、樋口一葉の日記や周囲の人の証言などから、彼女の人となりを、当時の東京の四季の情景と併せて浮かびあがらせたもので、全3章を通して1項目2ページの見開きで構成されていて、読みやすいものとなっています。

 第1章で、一葉が暮らした土地など東京の彼女の馴染みの地を巡ることでその生涯を振り返り、第2章で、彼女の日記から季節に関するテーマを拾って四季の順に並べ、折々に彼女が感じたり思ったりしたことを、当時の彼女の暮らしぶりや江戸情緒の残る季節風物と併せて取り上げています。
 この「明治の東京歳時記」と題された第2章がメインですが、3章では、一葉をとりまいた文人たちを取り上げて一葉との接点を探り、全体として、味わいながら読める一葉の評伝となっています。

 一葉の日記は死の直前まで書かれましたが(最初の記述は一葉15歳のときのもの)、本書では明治20年代半ば、彼女が二十歳前後の頃のものが多く取り上げられていて、季節風物に対する彼女の繊細な感興は、明治の時代に現れた和泉式部か清少納言かと言った感じ、但し、実際の彼女の暮らしぶりは、極貧とまではいかなくとも慎ましやかで、そうした雅の世界とは程遠かったようです。

 むしろ江戸時代の庶民のものからの連続した生活情景だった言えますが、近代化に向けた時代の変遷期でありながら、東京の下町にはまだまだ江戸情緒が多く残っていたようで、そうした中、彼女自身は、生活に埋没しそうになりながらも文学への志を常に保って研鑽を怠らず、また、新聞などをよく読み、時事的な話題への関心が高かったが窺えます。

半井桃水.jpg 一方で、半井桃水に対する女性らしい思慕が、桃水と会う際の浮き足立った様子などからよく伝わってくる。
 その桃水は、実は面食い男で(一葉もいい男好きなのだが)、一葉の求愛を素直に受け容れられなかったという証言が3章に記されていて、ちょっと一葉が可哀想になった―。

半井桃水(1860-1926/享年65)

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太宰"再入門"の試み。読み易く、作品の魅力、味わい処をよく示している。

太宰 治78.JPG太宰治3.jpg太宰治2.jpg     Dazai_Osamu.jpg 太宰 治(1909‐48/享年38)
太宰治 (岩波新書)』〔'98年初版/復刊版〕

 「再入門への招待」と帯にあったように、社会生活に追われ「今さら文学など」という大人のための、太宰文学に対する"再入門"の試みが本書のコンセプトで、個人的にも、「太宰は卒業するもの」という考えはおかしいのではという思いがあり、本書を読みました。

 前期・中期・後期の太宰作品(長編と主要な中・短篇)をかなりの数ととり上げ平易に解説していて、その分入門書にありがちな突っ込みの浅さを指摘する評を見かけたことがありましたが、個人的には必ずしもそう思わず、それぞれの作品の魅力、味わい処をよく示しているのではないかと(冒頭の『たづねびと』の解説などは秀逸)。

 「作品と作者を混同してはならない」とはよく言われることですが、著者はそれぞれの作品と、それを書いたときの太宰の状況を敢えて照合させようとしているようで、太宰の場合、意図的に作品の中に自分らしき人物を登場させたり、「自分」的なものを忍ばせていたりしているケースが多いので、そうした禁忌に囚われない著者のアプローチ方法で良いのではないかと思った次第です。

 後期の作品は、作者が心理的に追い詰められている重苦しいイメージが付きまといがちですが、実際読んでみるとユーモアに満ちた描写が多く、また、その背後に人間に対する鋭い洞察がある―、また、太宰自身が理想とした人間像のブレ(家庭に対する屈折した憧憬など)が本書で指摘されていますが、中村光夫なども「自負心・自己主張の弱さ」という言い方で同じような指摘をしていたなあ。

 但し、中村光夫は、太宰が「嘘」を書くことで逆説的に自信を獲得したとしながらも、晩年の作品は戦前の作品に及ばないものが大部分であるとしていましたが、著者は、晩年の作品も中期の作品と同等に評価しているようで、こちらの方が納得できました。

 太宰の"道化的"ユーモアを突き詰めていくと、対他存在・対自存在といった実存的なテーマになっていくのだろうけれど、そこまで踏み込んではいないのは(匂わせてはいるが)、やはり入門書であるための敢えてのことなのか。

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問題の根は深く、児童相談所を責めるだけでは解決にはならないと知った。

児童虐待の相談件数.gif児童虐待 現場からの提言.gif 『児童虐待―現場からの提言 (岩波新書)』 〔'06年〕

 児童虐待事件が報じられる度に批判に晒されるのが児童相談所であり、自分自身も憤りを感じていたのですが、児童相談所に長く勤務し、児童福祉士(ソーシャルワーカー)として現場に携わっている著者による本書を読んで、問題の根は深く、児童相談所を責めるだけでは何ら問題の解決にはならないことを思い知りました。

 そもそも、何が「児童虐待」に該当するのか定義づけが難しく(アンケートでは、家庭での躾の一環としての体罰はやむ得ない場合があるとする親が半数を占めている)、「子どもの安全確保」のためにと言っても、体罰を含む「親の懲戒権」を全部認めないわけにもいかない―。ネグレクトにしても、『はじめてのおるすばん』('72年/岩崎書店)という3歳の子が1人で留守番をする話の絵本がありますが、カナダではこれはネグレクトに該当するので出版できないとか。日本ではそこまで言えないでしょう。

 最も難しい問題は、「子どもの安全確保」のための一時保護などに対し、「児童相談所が福祉警察になりつつある」という批判があることで、子どもを保護しても保護しなくてもそれぞれに批判されるならば、相談員は動きがとれないだろうなあと。'00年に成立した児童虐待防止法は、その後も「岸和田事件」など悲惨な事件が相次いだために、児童相談所の立ち入り権限を強化する方向で改正されていますが、司法(家裁)や警察は、それを認めたり援助したりするだけで、自ら率先しては動かず一歩引いたところにいるという感じ。

 虐待をしている母親自身が被害者であることも多く、児童相談所の仕事は家族カウンセリングの要素を多く含むが、カウンセリングしているところが立ち入り調査や子どもの強制的な一時保護をするとしたら、カウンセリングに必要な信頼関係を築くのは難しいという著者の指摘は尤も。

 本書では、相談員の質・量にわたる不足も指摘していますが、自治体職員として勤務している人は、ローテーション人事で児童相談所や自治体の窓口に居るだけで、まったくの素人みたいな人が多いのも事実。著者は、この問題にあたる人材の育成の必要性を力説していますが、大いに共感させられるとともに、国レベルでの対応の必要(相談所は都道府県の所管)を感じました。

《読書MEMO》
●その後の児童虐待相談件数の推移(平成29年度まで)
平成29年度の児童虐待.jpg

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日本語・言語学の基本書。著者の碩学に驚かされる。

日本語113.JPG日本語 金田一春彦.jpg  日本語 上.jpg 日本語 下.jpg  金田一春彦先生.jpg 金田一 春彦 (1913-2004/享年91)
日本語 (1957年) (岩波新書)』/『日本語〈上〉〈下〉)

 旧版(全1冊)は著者の40代前半の著作で、「日本語はどんな性格を持つ言語か」をテーマに、地域や職業、身分・性別、場面等の違いにおける日本語の諸様相を外国語との比較において検証し、更に、発音・語彙・文構成の各側面で見たその特性を述べたもので、日本語・言語学の基本書とも言える本。

 後書きに、「日本語をあらゆる角度から眺め、その性格を明らかにするつもりだった。が、日限と紙数の制限の関係で、予定したちょうどなかばで、ペンをおかなければならないことを残念に思う」とありますが、一方で、「形態論から見た日本語に言及しないで、日本語の特色を論ずることはナンセンスに近い」ともあります。

 言語学者ソシュールは、「言語には、ラングとパロールの2側面があり、ラングとは、ある言語社会の成員が共有する音声・語彙・文法の規則の総体(記号体系)であるのに対し、パロールは、ラングが具体的に個人によって使用された実体である」としています。

 本書を最初に読み始めたときは、言語学的な(ソシュールが言うところのラングの)解説が続いて入り込みにくかったのですが、引いてくる事例が古今東西の言語、日本の古典・近代文学作家から我々の日常表現まで多彩で、読み進むうちにハマってくるという感じ。
 その碩学には驚かされますが、語り口には、一般読者に配慮したかのような暖かみがあります。

 もともと日本語のアクセント研究からスタートした人ですが、本書以降、日本人の言語表現(パロール)、更には日本人論・日本文化論の方へまで領域を拡げていたように思え、一方で、アクセント研究も続けていたようです(10代の頃は作曲家志望だったとか)。
 本書についても、初版刊行後30年をを経た'88年に改訂増補(2分冊になった)するなどのフォローしています。

《読書MEMO》
● 日本語はどこからきたか→世界の言語の中で、日本語ほど多くの言語と結びつけられた言語はない→日本語がそれだけ〈どの言語とも結びつきにくい言語だ〉ということを示す。(11p)
● 日本語はシナ語の影響をかなり受けているが、外国語へ日本語が与えた影響はきわめて少ない。これは文明国の国語として珍しいことである。(28p)
● 日本語の方言の違いが激しいのは、日本人がこの領土へ着てからの年月が長いから(34p)
● 日本語は拍の特質がポリネシア語に近い。日本語の単語が長くなるのはそのため―例:小田急電鉄の駅名Soshigayaookura、Seijyoogakuenmae 外国人には読みづらい(110p)
● 「湯」の英語は無い(129p)
● 「惜シイ」「モッタナイ」はアメリカ人などに説明しにくい単語(141p)
● もやもやした気分を表す語句が多い「何となく・そろそろ・ぼつぼつ・そのうちに・なんだか・どこか」(142p)

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思想家が、中学時代を送った昭和十年代の自らの読書体験を回想。

安田 武 『昭和青春読書私史』.jpg昭和青春読書私史.jpg 『昭和青春読書私史 (1985年)』岩波新書

銀の匙.jpgモンテ・クリスト伯.jpg 昭和十年代、戦争に向かう世相の中で中学時代を送った著者の当時の読書体験の回想。

 昭和12年春、中学1年の終わり頃手にしたアレクサンドル・デュマ『モンテ・クリスト伯』から始まり、中学2年の時に読んだ中勘助(『銀の匙』)、モーパッサン(『ピエルとジャン』)、田山花袋、ジョルジュ・サンドらの作品、更に島木健作(『生活者の探求』)やツルゲーネフ(『父と子』)、ジイド(『狭き門』)などが続いています。

狭き門.jpg父と子.jpg 著者の安田武(1923‐1986/享年63)は鶴見俊輔氏らの起こした月刊誌「思想の科学」の同人で、本稿は岩波の『図書』に'84(昭和59)年から翌年にかけて連載されたものですから、60歳過ぎの思想家が自分の読書体験を振り返っているということになります。
 
 中学2年の時に読んだ本が最も多く取り上げられているのが興味深かったのと(旧制中学なので現在の中学と1年のズレがあり、当時14歳)、内容的には青春文学の定番を意外と外れていないようにも思えますが、夏目漱石などはそれ以前から読んでいたようで、やはり読み始めるのが早いなあと思いました。

西部戦線異状なし.jpg 昭和12年というと日華事変の年でもあり、学生生活に未だそれほど戦争の影響は無かったとは言え、軍靴の足音から意識的に距離を置くような読書選択をしているようにも思えました(但し、昭和17年には『西部戦線異状なし』を読んでいる)。

 日本文化を論じた著作が多く、多田道太郎(1924‐2007)などとの共通項を感じる人ですが、本書の印象は、中勘助(『銀の匙』)的ノスタルジーで、さらっと読める分、「読書の栞(しおり)」的な物足りなさもやや感じます。

ぼく東綺譚.jpg雪国.jpg ただし、終盤に取り上げられている『濹東綺譚』や『雪国』の著者なりの感想が面白く、また、『濹東綺譚』の挿画を担当した木村荘八の描いた「玉の井」が、実は「亀戸」の町並みであったことを武田麟太郎が見抜いていたという話が、たいへん興味深かったです(武田麟太郎の本からの抜粋ではあるが)。

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ナショナリズムからスタートし、「スモールタウンの幻像」を携えたベースボール。

ベースボールの夢.jpg 『ベースボールの夢―アメリカ人は何をはじめたのか (岩波新書 新赤版 1089)』 〔'07年〕

 ベースボールは、南北戦争の将軍アブナー・ダブルデーが若い頃、1839年にニューヨーク州中部の村・クーパーズタウンで始めたのが最初とされ、以来当地は「野球殿堂」が建てられるなど"ベースボール発祥の地"とされていますが、この"ベースボールの起源"論については、英国生まれのジャーナリスト、ヘンリー・チャドウィックが、英国でそれ以前から行われていた「ラウンダーズ」がベースボールの起源であると主張していたとのことです。

Al_Spalding_Baseball.jpg ところが、これを否定し、調査委員会まで設置して「クーパーズタウン伝説」を強引に「事実」にしてしまったのが、往年の名投手でスポーツ用品メーカーの創立者としても知られるアルバート・G・スポルディング(Albert Spalding)で、本書前半部では、こうしたベースボールの成り立ちと歴史の"捏造"過程が描かれていて興味深く読めます。
Albert Spalding (1850-1915) 
      

Ty Cobb.jpg ベースボールは、英国のクリケットなどとの差異において、ナショナル・スポーツとしての色合いを強め、実業家スポルディングが、ベースボールを通じて「ミドルクラス・白人・男性」のイメージを「アメリカ人」のあるべき姿と重ね(これが後に排他的人種主義にも繋がる)、ミドルクラスを顧客としたビジネスとして育て上げていく、そうした中、それを体現したような選手・打撃王タイ・カップが現れ、さらに彼がコカ・コーラの広告に登場するなどして、商業主義とも結びついていく―。
Tyrus Raymond "Ty" Cobb (1886-1961)

 本書では、ややスポルディング個人の影響力を過大評価している感じもありますが、後半部は社会学者らしく、アメリカにフロンティアが無くなった南北戦争後、地方に分散する従来のスモールタウンを基盤とした社会から、産業の発展に伴って大都市に人口が集中する社会への転換期を迎える、そうした過程に呼応した形で、ベースボールが「ゲームの源泉としての農村」、「農村から都市へのゲームの発展」という流れにおいて、「スモールタウンの幻像」を携えながら振興していく構図を捉えていてます。

ナチュラル.jpgフィールド・オブ・ドリームス.gif 個人的はこの部分に関しては、そういう見方もあるかもしれないと思い、確かに、映画「フィールド・オブ・ドリームス」('89年/ケビン・コスナー主演)や「ナチュラル」('84年/ロバート・レッドフォード主演)も、著者の言う「農村神話」というか、田舎(スモールタウン)へのノスタルジーみたいなものを背負っていたなあと。

フィールド・オブ・ドリームス.jpg 「フィールド・オブ・ドリームス」は、アイオワ州のとうもろこし畑で働いていた農夫(ケビン・コスナー)が、ある日「それを造れば彼が来る」という"声"を聞き、畑を潰して野球場を造ると、「シューレス・ジョー」ことTHE NATURAL 1984.jpgジョー・ジャクソンなど過去の偉大な野球選手たちの霊が現れ、その後も死者との不思議な交流が続くというもので、「ナチュラル」は、ネブラスカ州の農家の息子で若くして野球の天才と呼ばれた男(ロバート・レッドフォード)が、発砲事件のため球界入りを遅らされるが、35歳にして「ニューヨーク・ナイツ」に入団し、"奇跡のルーキー"として活躍するというもの。

 この2作品は、アメリカ中部の田舎が物語の最初の舞台になっていること、"家族の絆"という古典的なテーマのもとにハッピーエンドで収斂していること、「夢」そのもの(「フィールド・オブ・ドリームス」)または「夢みたいな話」(「ナチュラル」ではレッドフォードが最後の公式戦でチームを優勝に導く大ホームランを放つ)である点などで共通していて、一面では日本人のメンタリティにも通じる部分があるように思え、興味深かったです(但し、とうもろこし畑を潰して自力で野球場を建てるというのは、日本人には思いつかないスゴイ発想かも)。

Derek Jeter.jpg こうした今まで観た映画のことを思い浮かべながらでないと、歴史的イメージがなかなか湧かない部分もありましたが、個人的には、例えば、アフリカ系とアングロサクソン系の混血であるデレク・ジーターが、ここ何年にもわたり"NYヤンキースの顔"的存在であり、アメリカ同時多発テロ事件の後はニューヨークそのものの顔になっていることなどは、ベースボールが人種差別という歴史を乗り越え、近年ナショナル・スポーツとしての色合いが強まっているという意味で、何だか象徴的な現象であるような気がしています。

Derek Jeter(New York Yankees)

フィールド・オブ・ドリームス05.jpg「フィールド・オブ・ドリームス」●原題:FIELD OF DREAMS●制作年:1989年●制作国:アメリカ●監督・脚本:フィル・アルデン・ロビンソン●製作:ローレンス・ゴードンほか●音楽:ジェームズ・ホーナー●原作:W・P・キンセラ 「シューレス・ジョー」●時間:107分●出演:ケヴィン・コスナー/エイミー・マディガン/ギャビー・ホフマン/レイ・リオッタ/ジェームズ・アール・ジョーンズ/バート・ランカスター●日本公開:1990/03●配給:東宝東和 (評価:★★★☆)
   
ナチュラル 03.jpg「ナチュラル」●原題:THE NATURAL●制作年:1984年●制作国:アメリカ●監督:バリー・レヴィンソン●製作:マーク・ジョンソン●脚本:ロジャー・タウンほか●音楽:ジTHE NATURAL, Robert Duvall, 1984.jpgェームズ・ホーナー●原作:バーナード・マラマッド●時間:107分●出演:ロバート・レッドフォードロバート・デュヴァル/グレン・クロース/キム・ベイシンガー●日本公開:1984/08●配給:コロムビア映画●最初に観た場所:自由が丘武蔵野推理(85-01-20) (評価:★★★☆)●併映:「再会の時」(ローレンス・カスダン)

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マンハッタン島をブロードウェイ沿いに縦断しながら語るニューヨークの歴史と文化。

ニューヨーク.jpg 『ニューヨーク (岩波新書)』 〔'02年〕 亀井 俊介.jpg 亀井 俊介 氏 (東大名誉教授・岐阜女子大大学院教授(アメリカ文学・比較文学))

 マンハッタン島を最南端からブロードウェイに沿って北上し、時に左右のアヴェニューに入り込みながらハーレムまでを辿った紀行文ですが、著者も述べているように、移動手段やショッピングのガイド的解説があるわけでもなく、また高尚な都市論が展開されているわけでもありません。
 ニューヨークを何度も訪れた文学者である著者がそこで語っているのは、バックパッカー的な視点から見た、地区ごとの歴史であり文化の起源です。でも、それらが、今まで知らなかったことばかりで、なかなか面白かったです。

ブロードウェイ.jpg 自分も何年か前にマンハッタン島縦断を思い立ち、島最南端のバッテリー・パークからウォールストリートや世界貿易センタービルに行き、ブロードウェイに沿って、チャイナタウンやトライべカに立ち寄りながら、ソーホー、タイムズスクエアを経て、セントラルパーク沿いを北上し、途中ホットドックを食べながらハーレムの手前のコロンビア大学まで歩いたことがあり(125ストリートぐらい歩いたことになる)、この本を読んで懐かしさを覚えるとともに、見落とした歴史の痕跡を改めて知ることができました。

 ニューヨークという街の南から北に拡大して言った歴史がよくわかりますが、さすが文学者、永井荷風の『あめりか物語』を随所に引き、メトロポリタン美術館では、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』とカニグズバーグの『クローディアの秘密』のことに触れていたりして、それらの作品に対する著者の考え方がまた面白かったです。

Flatiron_8775.jpgChrysler-Building.jpgEmpire State Building.jpg 著者が本書の原稿を脱稿しかけた頃に「9.11テロ」が起き、WTCビルは崩壊しますが、かつてエンパイア・ステート・ビルにもB25爆撃機が誤って衝突したことがあったが大した被害はなかったとのこと。
 著者は、WTCビルの脆さとエンパイア・ステートの頑強さを比喩的に(科学的にではなく)対比させていますが、著者ならずとも、何となく、エンパイアビルやクライスラービルのような昔のビルの方が頑強そうに思えてくるのでは。本書で紹介されているフラット・アイアン・ビルも、個人的には好きな建物。この3つのビルは何れも、それぞれの完成時において世界一高いビルであった点で共通している―と思っていましたが、Wikipediaによれば、「フラットアイアンビルは完成当時高さ世界一だったとしばしば勘違いされるが、実際には、1899年に完成した119.2mのパークロウビルの方が高く、フラットアイアンビルは一度も世界一になったことはない」とのことです。

ny2.jpg ny3.jpg ny4.jpg ny7.jpg ny5.jpg ny1.jpg

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'60年代のアメリカに留学記。"異邦人の憂鬱"とでも言うべき感情が素直に記されている。

安岡 章太郎 『アメリカ感情旅行』.jpgアメリカ感情旅行.jpg 『アメリカ感情旅行 (岩波新書 青版)』 〔'62年〕

 作家・安岡章太郎がロックフェラー財団の招きにより、'60年から翌年にかけて半年間アメリカに留学した際のことを綴った日記風の紀行文ですが、留学先に選んだヴァンダビルト大学のあるテネシーの州都ナッシュヴィルは、公民権運動の勃興期にあたる当時においては、黒人を入れない映画館があったり(それに対する学生の抗議運動なども本書で描かれている)、また近辺には、黒人に選挙権を与えていない町が未だ残っていたりしています(テネシーの南のジョージア・アラバマ・ミシシッピ・ルイジアナの4州は更に遅れていたと思われる)。

nashville.jpg 40歳の留学生である安岡は、自分たち夫妻に親切にしてくれる人の中にも、黒人に対するあからさまな偏見があり、また、それを堂々と口外することに戸惑う一方、黄色人種である自分は彼らにどう見られているのだろうかということを強く意識せざるを得なくなりますが、そうした"異邦人の憂鬱"とでも言うべき感情が素直に記されています。
 滞米中、常に人から見られているという意識から逃れられなかったとありますが、ニューヨークのような都会に行ったときの方が、そうした不安感から解放されているのは、何となくわかる気がしました。

 テネシーは、いわゆる「北部」に接した「南部」ですが(実際、安岡はここで、自販機のコーラが凍るといった厳しい寒さを体験する)、南北戦争の余韻とも思えるような、人々の「北部」への敵愾心は彼を驚かせ、ますます混乱させます。

nashville_2.jpg 一方で、たまたま巡業でやってきた「リングリング・サーカス」を見て"痛く"感動し、住民の日常に触れるにつれ次第に彼らとの間にあった自身との隔たりを融解させていきます(ロバート・アルトマン監督(1925-2006)の映画「ナッシュビルにもあったようにカントリーのメッカでもあるのに、そうした方面の記述がないのが不思議ですが)。

 再読して、自分が初めてアメリカの南部に行ったときのことを思い出し、ナッシュヴィルは"何もない町"だと本書にありますが、テキサスの州都オースティンも、同じく何もない町だったなあと(アメリカの場合、州都だから賑わっているというわけでもないらしい。日本でも、県庁所在地の一部にそういう例はあるが)。
 文中に「病気になりそうなほどの土地の広大さ」という表現がありましたが、テキサス州だけで日本の面積の1.8倍という想像がつかないような広さであり、こうした土地面積の感覚の違いが国民性に与える影響というのは、やはり少なからずあるように思いました。

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「笑いの効用」について、三者三様に語る。ちょっと、パンチ不足?

笑いの力.jpg笑いの力』岩波書店['05年]人間性の心理学.jpg 宮城音弥『人間性の心理学』〔'68年/岩波新書〕

 '04年に小樽で開催された「絵本・児童文学研究センター」主催の文化セミナー「笑い」の記録集で、河合隼雄氏の「児童文化のなかの笑い」、養老孟司氏の「脳と笑い」、筒井康隆氏の「文学と笑い」の3つの講演と、3氏に女優で落語家の三林京子氏が加わったシンポジウム「笑いの力」が収録されています。

 冒頭で河合氏が、児童文学を通して、笑いによるストレスの解除や心に与える余裕について語ると、養老氏が、明治以降の目標へ向かって「追いつけ、追い越せ」という風潮が、現代人が「笑いの力」を失っている原因に繋がっていると語り、併せて「一神教」の考え方を批判、このあたりは『バカの壁』('03年)の論旨の延長線上という感じで、筒井氏は、アンブローズ・ビアスなどを引いて、批判精神(サタイア)と笑いの関係について述べています。

 「笑い」について真面目に語ると結構つまらなくなりがちですが、そこはツワモノの3人で何れもまあまあ面白く、それでも、錚錚たる面子のわりにはややパンチ不足(?)と言った方が妥当かも。 トップバッターの河合氏が「これから話すことは笑えない」と言いながらも、河合・養老両氏の話が結構笑いをとっていたことを、ラストの筒井氏がわざわざ指摘しているのが、やや、互いの"褒め合戦"になっているきらいも。

『人間性の心理学』.JPG 人はなぜ笑うのか、宮城音弥の『人間性の心理学』('68年/岩波新書)によると、エネルギー発散説(スペンサー)、優越感情説(ホッブス)、矛盾認知説(デュモン)から純粋知性説(ベルグソン)、抑圧解放説(フロイト)まで昔から諸説あるようですが(この本、喜怒哀楽などの様々な感情を心理学的に分析していて、なかなか面白い。但し、学説は多いけれど、どれが真実か分かっていないことが多いようだ)、河合氏、養老氏の話の中には、それぞれこれらの説に近いものがありました(ただし、本書はむしろ笑いの「原因」より「効用」の方に比重が置かれていると思われる)。

 好みにもよりますが、個人的には養老氏の話が講演においても鼎談においても一番面白く、それが人の「死」にまつわる話だったりするのですが、こうした話をさらっとしてみせることができるのは、職業柄、多くの死者と接してきたことも関係しているかも。

桂枝雀.jpg その養老氏が、面白いと買っているのが、桂枝雀の落語の枕の創作部分で、TVドラマ「ふたりっ子」で桂枝雀と共演した三林京子も桂枝雀と同じ米朝門下ですが、彼女の話から、桂枝雀の芸というのが考え抜かれたものであることが窺えました。桂枝雀は'99年に自死していますが(うつ病だったと言われている)、「笑い」と「死」の距離は意外と近い?

《読書MEMO》
養老氏の話―
●(元旦に遺体を病院からエレベーターで搬出しようとしたら婦長さんが来て)「元旦に死人が病院から出ていっちゃ困る」って言うんですよ。それでまた、四階まで戻されちゃいました。「どうすりゃいいんですか」って言ったら、「非常階段から降りてください」と言うんです。それで、運転手さんとこんど、外側についている非常階段を、長い棺をもって降りる。「これじゃ死体が増えちゃうよ」って言って。
●私の父親が死んだときに、お通夜のときですけれども、顔があまりにも白いから、死に化粧をしてやったほうがいいんじゃないかということになったんです。まず白粉をつけようとしたら、弟たちが持ってきた白粉を、顔の上にバッとひっくり返してしまった...
●心臓マッサージが主流になる前は長い針で心臓にじかにアドレナリンを注入していたんですね。病院でそれをやったお医者さんが結局だめで引き上げていったら、後ろから看病していた家族の方が追っかけてきて、「先生、最後に長い針で刺したのは、あれは止めを刺したんでしょうか」

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医学が進んでも、難治性がんは残る。進行がんへの向き合い方、さらには人生について考えさせられる本。

がんとどう向き合うか.jpg 『がんとどう向き合うか』(2007/05 岩波新書) 額田 勲.jpg 額田 勲 医師 (経歴下記)

 著者は長年地方医療に携わり、多くのがん患者と接してきた経験豊富な医師で、がん専門医ではないですが、がんという病の本質や特徴をよくとらえている本だと思いました。

 がん細胞というのは"倍々ゲーム"的に増殖していくわけですが、本書によれば、最初のがん細胞が分裂するのに1週間から1年を要し、その後次第に分裂速度が速まるということで(「ダブリング・タイム」)、1グラム程度になるまでかなり時間がかかり、その後は10回ぐらいの分裂で1キロもの巨大腫瘍になる、その間に症状が見つかることが殆どだとのこと。

 細胞のがん化の開始が30代40代だとしても数十年単位の時間をかけてがん細胞は増殖することになり、つまり、がんというのは潜伏期間が数十年ぐらいと長い病気で、早期発見とか予防というのが元来難しく、長生きすればするほどがん発生率は高まるとのことです。

 以前には今世紀中にがんはなくなるといった予測もあり、実際胃がんなどは近年激減していますが、一方で膵臓がんはその性質上依然として難治性の高いがんであり、またC型肝炎から肝臓がんに移行するケースや、転移が見つかったが原発巣が不明のがんの治療の難しさについても触れられています。

 こうした難治性のものも含め、"がんと向き合う"ということの難しさを、中野孝次、吉村昭といった著名人から、著者自らが接した患者まで(ああすればよかったという反省も含め)とりあげ、更に自らのがん発症経験を(医師としてのインサイダー的優位を自覚しながら)赤裸々に語っています。

 医学的に手の打ち様がない患者の場合は、対処療法的な所謂「姑息的な手術」が行われることがあるが、それによって死期までのQOL(Quality of Life)を高めることができる場合もあり、抗がん剤の投与についても、「生存期間×QOL」が評価の基準になりつつあるとのこと。

 著者は、がんについて「治る」「治らない」の二分法で医療を語る時代は過ぎたとし(最近のがん対策基本法に対しては、こうした旧来のコンセプトを引き摺っているとして批判している)、進行がん患者にはいずれ生と死についての「選択と決断」を本人しなければならず、それは人それぞれの人生観で違ったものとなってくることが実例をあげて述べられていて、医療のみならず人生について考えさせられる本です。
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糠田 勲 (ぬかだ・いさお)
1940年、神戸市灘区生まれ。専門は内科。2003年、全国の保健医療分野で草の根的活動をする人を対象にした「若月賞」を受賞。著書に「孤独死―被災地神戸で考える人間の復興」(岩波書店)など。

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認知症についての基礎知識が得られるとともに、著者の人間的な研究姿勢に頭が下がる。

認知症とは何か.jpg 『認知症とは何か (岩波新書)』 〔'05年〕  小澤 勲.jpg 小澤 勲 医師 (略歴下記)

 本書によれば、認知症というのは、記憶障害や思考障害などいくつかの症状の集まりを指す本来は「症候群」と呼ぶべきものであるとのことですが、代表的な疾患として、変性疾患アルツハイマー病など脳の神経細胞が死滅、脱落して、脳が萎縮することによるもの)脳血管性認知症(脳の血管が詰まったり破れたりすることによるもの)があるとのこと。

 中核症状としての記憶障害が現れるのは、身体に染み込んだ記憶(非陳述的記憶)よりも言語で示される記憶(陳述的記憶)においてが先で、その中でも、単語の意味や概念などの「意味記憶」よりも、「いつ、どこで、何をした」というような「エピソード記憶」の障害から始まることが多いとのこと、また、「リボーの原則」というものがあり、代表的な原則の1つが「記憶は最近のものから失われていく」というもので、認知症患者に接した経験のある人には、何れもそれなりに得心する部分が多いのではないでしょうか。

 老人医療施設などで老人が輪になってデイケアを受けている場面がよくありますが、著者によれば、アルツハイマー病と脳血管性認知症では「生き方」が全く異なり、アルツハイマー病患者は共同性を求めるが脳血管性の患者は個別性を求めるので、こうした輪には馴染みにくいとのことです。
 知り合いの老人医療施設に勤める人が、こうした集団的デイケアにまったく参加しようとしない患者さんも多くいるという話をしていたのを思い出しました。

吾妹子哀し.jpg 本書前半の第1部は、こうした認知症に関する客観的・医学的知識を紹介しているのに対し、後半の第2部では、文学作品(青山光二『吾妹子哀し(わぎもこかなし)』)を通して、認知症患者の心のありかを探るとともに、クリスティーンさんという認知症を抱えながらも講演活動で世界中を飛び回っている女性患者を通して、認知症の不自由とは何かを考察しています。

 彼女のケースはかなり稀有なものであるような気がしますが、「高機能認知症」という著者オリジナルの推論的概念は興味深いものがあり、また、著者自身が余命1年というがん宣告を受けている身でありながら、精神科医として、また人間として、認知症患者の世界に深く関わり続けようとする姿勢には頭が下がる思いがしました。
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小澤 勲 (おざわ いさお)
1938年、神奈川県生まれ。京都大学医学部卒業。京都府立洛南病院勤務。同病院副院長、老人保健施設「桃源の郷」施設長、種智院大教授を歴任。著書に「痴呆老人からみた世界」「物語としての痴呆ケア」など。

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朴正煕政権圧制の闇をリアルタイムでレポート。韓国政治って不思議だ。

韓国からの通信』.JPG韓国からの通信.jpg  韓国からの通信〈続.jpg韓国からの通信―1972.11~1974.6 (岩波新書 青版 905)』〔'74年〕 『韓国からの通信〈続(1974.7-1975.6)〉 (1975年)
朴正煕(パク・チョンヒ).jpg 韓国の朴正煕政権(1963‐79年)は'72年に戒厳令を発してから急速に独裁色を強めましたが、本書は、その思想・言論統制が敷かれた闇の時代において、政府の弾圧に苦しみながらも抵抗を続ける学生や知識人の状況をつぶさに伝えたレポートです。正編は'72年11月から'74年6月までを追っていて、'73年1月の「金大中(キム・デジュン)氏拉致事件」が1つの"ヤマ"になっています。
朴正煕(パク・チョンヒ)

金鐘泌(キム・ジョンピル).jpg '06年に韓国・盧武鉉大統領は、田中角栄首相(当時)と金鍾泌(キム・ジョンピル)首相(当時)との間で交わされた事件の政治決着を図る機密文書を発表('73年11月、金鐘泌当時国務総理(左)が、東京の首相官邸で田中角栄首相に会っている。金総理は金大中拉致事件に関連し、朴正煕大統領の謝罪親書を持って陳謝使節として日本を訪問した)、'07年には、韓国政府の「過去事件の真相究明委員会」の報告書で、KCIAが組織的にかかわった犯行だったことを認めていますが、これらのことは既に本書において推察済みのことでした。しかし、金鍾泌というのは、朴政権パク・クネ3.jpgパク・クネ2.jpgパク・クネ1.jpgの立役者でありながら、後の金大中政権でも総理になっているし、朴正煕の娘・朴槿恵(パク・クネ)も政治家として活躍しています。この辺りが韓国政治のよくわからないところで、韓国政治って不思議だなあと思います(朴槿恵は2013年に大統領に就任。2015年の大統領弾劾訴追での罷免後、懲役24年の実刑判決を受けた)

 朴正煕は、自己の権力の座を守るために"北傀(北朝鮮)の脅威"というものを最大限に利用した政治家であり、そのために多くの学生や言論人が、"北のスパイ"として拷問されたり処刑されたりしていく様が、本書ではリアルタイムで生々しく伝えられており、これでも経済成長を遂げている近代国家なのかと震撼せざるを得ませんでした。

 翌年刊行された続編は'74年7月から'75年6月までを追っていて、'74年8月の「文世光事件」以降、朴政権の学生運動家らに対する弾圧はさらに強まり、拷問や処刑がますます繰り返されるようになりますが、朴正煕の生育歴(厳格な父の下でスパルタ教育を受けた)などにも"T・K生"の考察は及んでいて、「ファシズム統治のためには社会不安が必要である」(「続」224p)とありますが、彼自身が完璧主義から来る一種の不安神経症状態だったのではないかという気がします(本書を読んだとき、こうした独裁者は暗殺されるしかないなあと思ったが、結局その通りになったものの"謎"の多い結末で、朴政権の負の遺産も続く何代かの大統領に引き継がれてしまった)。

池明観〔チ・ミョンクワン〕氏.jpg 本シリーズは第4部まで続き、後に"T・K生"が自分であることを明かした池明観(チ・ミョンクワン)氏によると、書かれていることの80%以上は事実であると今でも信じている」とのことです。
 多分に伝聞情報に頼らざるを得なかったのと、この本自体が1つの反政権運動的目的を持ったプロジェクトの産物であるとすれば、記述のすべてに正確さを求めるのは土台無理なのかも知れず、だからと言って、本書を通じて隣国がつい30年前ぐらい前はどんな政治状況にあったかに思いを馳せることが無意味なわけでも無く、このレポートを過去の遺物であるとして葬り去る必要もないと思います。

南ベトナム政治犯の証言』川本邦衛編、『韓国からの通信』『第三・韓国からの通信』T・K生、「世界」編集部編
『韓国からの通信』『第三・韓国からの通信』T・K生、「世界」編集部編、 『南ベトナム政治犯の証言』川本邦衛編.jpg

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国策的に殺人マシーンに改造された米兵たち。"べトコン"と比べて野蛮なのはどちらか。
ベトナム帰還兵の証言.jpg タイガーフォース.jpg 南ベトナム政治犯の証言.jpg ディア・ハンター.jpg ディア・ハンター ド.jpg
ベトナム帰還兵の証言 (1973年) (岩波新書)』『タイガーフォース』('07年)『南ベトナム政治犯の証言 (1974年) (岩波新書)』 映画「ディア・ハンター [DVD]
Iベトナム8.JPGvvawa.gif '71年に「戦争に反対するベトナム帰還兵の会」(VVAW=Vietnam Veterans Against the War, Inc.)が、インドシナでアメリカが実施した政策を暴露するための集会をデトロイト開き、それに参加した100人以上の帰還兵が、自由発砲、濃密爆撃、捕虜虐待、部落殲滅などの犯罪的戦術行為が"上官命令"により行われたことを証言したもので、本書はその1000ページ近い証言記録を、在野の現代アメリカ政治研究者・睦井三郎氏(故人)が抜粋・編訳したもの。

 最近では、当時の南ベトナム駐留米軍の空挺部隊小隊が、非武装の村を焼き払い、半年間で数百人の住民を殺戮したことが約35年ぶりに明るみにされ、『タイガーフォース』('07年/WAVE出版)という本になって話題を呼びましたが、本書『ベトナム帰還兵の証言』によれば、ソンミ村の虐殺程度のことはいくらでもあったらしいです。本書で語られている米兵による村落の殲滅や農地の破壊、捕虜の虐待や組織的な強姦などは凄まじいものがあり、語っている兵士たちも、自分たちがどうしてそうした残虐行為の"下手人"となり得たのか、半ば整理がつかないでいる様子が窺えます。 

 彼らの証言を通して、戦争犯罪そのものである"上官命令"は、アメリカの"政策"として設定されていたことが浮き彫りになり、そのために兵士たちは、戦場に赴く前から"殺人マシーン"となるよう訓練されていたことがわかります(冒頭の兵士たちが可愛がっていた兎を、戦場に行く前に上官が惨殺する話は実に怖い)。

 人種差別意識、女性差別意識も徹底的に吹き込まれ、普通の生活を送っていた若者や道徳的なキリスト教徒が、ベトナムの地では、捕虜を生きたまま嬲り殺し、女子供を強姦することに無感覚になる、こうした"人間の非人間化"を政策として行うアメリカという国は、本当に恐ろしい側面を持つと言えますが、こうした集会に参加して証言をする帰還兵たちは、自分たちがしたことに罪の意識を抱き、過去から逃避しようとしないだけ、"アメリカの良心"の存続に一縷の希望を抱かせる存在なのかも知れません。

ベトナム戦争-サイゴン・ソウル・東京.jpg 本書は'73年7月刊行ですが、岩波新書で同じくベトナム戦争について書かれたものでは、共同通信記者の亀山旭氏によるベトナム戦争-サイゴン・ソウル・東京』('72年5月刊)川本邦衛氏編集の『南ベトナム政治犯の証言』('74年6月刊)などがあり、前者は、政治的観点からベトナム戦争の経緯を追いながらも、やはり、米兵の民間人に対する残虐行為をとりあげ、後者は、捕虜となった北ベトナム兵士(民間人を多く含む)の証言を集めていて、「虎の檻」と呼ばれたコンソン島の監獄などで捕虜たちが受けた拷問や残虐行為が生々しく証言されています(亀山旭『ベトナム戦争』は、取材で激戦地にさしかかった際の記者の恐怖感が伝わってくる。この取材には作家の開高健が同行している)。 亀山 旭『ベトナム戦争―サイゴン・ソウル・東京 (岩波新書)』 (1972/05)

 『ベトナム帰還兵の証言』の中には、"べトコン"の捕虜となったアメリカ人の証言もありますが、彼らはアメリカ人捕虜もベトナム人(政府軍側)捕虜も丁寧に扱ったということで(マイケル・チミノ監督の「ディア・ハンター」('78年)では、極めて野蛮な人種のように描かれていたが、往々にしてハリウッド映画には政治的プロパガンダが込められる)、一方、アメリカ兵は、"べトコン"を捕らえると、ヘリコプターで搬送中にヘリから突き落としたりしていたという証言もあります(野蛮なのはどっちだ!)。
ディア・ハンター テアトル東京.jpg映画「ディア・ハンター」.png 映画「ディア・ハンター」そのものは、アカデミー賞やニューヨーク映画批評家協会賞の作品賞を受賞した一方で、以上のような観点から「ベトナム戦争を不当に正当化している」との批判もあります(橋本勝氏などもそうであり、その著書『映画の絵本』ではこの映画を全く評価していない)。しかしながら、解放戦線(映画内では「ベトコン」)の捕虜となったことがトラウマとなり、精神を病んでいく男を演じたクリストファー・ウォーケンの演技には、鬼気迫るものがあったように思います(クリストファー・ウォーケンはこの作品でアカデミー賞助演男優賞、ニューヨーク映画批評家協会賞助演男優賞を受賞している)。当時ガンを病んディア・ハンターges.jpgMeryl Streep and John Cazale.jpgいたジョン・カザール(享年42)の遺作でもあり、ロバート・デ・ニーロが彼を説得して出演させたとのことです。因みにジョン・カザールは、舞台「尺には尺を」で共演し、この作品でも共に出演しているメリル・ストリープとの婚約中のガン死でした(メリル・ストリープにとってはこの作品が映画デビュー2作目だったが、彼女この作品高倉健G.jpgディア・ハンター 6.jpg全米映画批評家協会賞助演女優賞を受賞している)。俳優の高倉健が絶賛している映画であり、その高倉健の親友でもあるロバート・デ・ニーロが高倉健に「もう二度とあんな映画は作れない」と言ったそうです。

 因みに、ジョン・カザールは、生前に出演したすべての作品(下記5作品)がアカデミー賞の最高賞である「作品賞」にノミネートされたという稀有な俳優となりました(そのうち3作が「作品賞」を受賞した)。
・「ゴッドファーザー」(1972年、ノミネート10部門、受賞3部門)
・「カンバセーション...盗聴...」(1974年、ノミネート3部門)
・「ゴッドファーザー PART II」(1974年、ノミネート11部門、受賞6部門)
・「狼たちの午後」(1975年、ノミネート1部門、受賞1部門)
「ディア・ハンター」(1978年、ノミネート9部門、受賞5部門)
     

ディア・ハンター2.9.2.jpegディア・ハンター2.jpg「ディア・ハンター」●原題:THE DEER HUNTER●制作年:1978年●制作国:アメリカ●監督:マイケル・チミノ●製作:マイケル・チミノ/バリー・スパイキングス/マイケル・ディーリー/ジョン・リヴェラル●脚本:デリック・ウォッシュバーン●撮影:ヴィルモス・スィグモンド●音楽:スタンリー・マイヤーズ●時間:183分●出ディア・ハンター ages.jpg演:ロバート・デ・ニーロ/クリストファー・ウォーケン/ジョン・カザール/ジsマイケル・チミノed.jpgョン・サヴェージ/メリル・ストリープ/チャック・アスペグラン/ジョージ・ズンザ/ピエール・セグイ/ルタニア・アルダ●日本公開:1979/03●配給:ユニバーサル映画●最初に観た場所:銀座・テアトル東京(80-02-15)(評価:★★★★)

マイケル・チミノ&ロバート・デ・ニーロ

テアトル東京 1955 七年目の浮気3.jpgテアトル東京2.jpg

テアトル東京内.jpg
テアトル東京
1955(昭和30)年11月1日オープン (杮落とし上映:「七年目の浮気」)
1981(昭和56)年10月31日閉館 (最終上映」マイケル・チミノ監督「天国の門」)

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軍部の度重なる判断ミスの犠牲になったのはどういった人たちだったかがわかる。

アジア・太平洋戦争.jpg 『アジア・太平洋戦争 (岩波新書 新赤版 1047 シリーズ日本近現代史 6)』 〔'07年〕

 岩波新書の「シリーズ日本近現代史(全10巻)」の1冊ですが、このシリーズは、「家族や軍隊のあり方、植民地の動きにも目配りをしながら、幕末から現在に至る日本の歩みをたどる新しい通史」というのがコンセプトだそうです。
 "通史"と言いながらも年代区分された各巻ごとにそれぞれ筆者が異なり、執筆方針もかなり執筆者側に委ねられているようですが、家族、軍隊、植民地の3つがポイントになっているという点ではほぼ共通しているように思えます。

 本書では、1941年から45年までの5年間、つまり太平洋戦争に絞って解説していますが、著者はこの戦争を、満州事変・日中戦争も含めたうえでの「アジア・太平洋戦争」という捉え方をしています。
 日米戦であると同時に、アジア権益をめぐる日英戦として本戦はスタートしており、実際に41年12月の開戦時も、真珠湾攻撃よりも1時間早く英領マレー半島のコタバル上陸が始まっていているのは、それを象徴するような事実です。

 本書では、なぜ当時の日本は開戦を回避できず、また戦いが長期化して周辺アジア諸国に犠牲を強い、日本とアジアの関係に深い傷跡を残したのかを、さまざまな記録から検証していますが、「御前会議」において昭和天皇が果たした「能動的君主」としての役割など、最近の資料研究も織り込まれていて興味深いものがあります。

 開戦後すぐにこの戦争は対米戦としての様相を強め、なぜ国力が桁違いの大国アメリカと戦争したのかと今でも疑問視されますが、本書を読むと、軍事面だけで見ると、開戦時においては日本の軍事力の方がアメリカより上だったことがわかります。
 ミッドウェー海戦やガダルカナル戦で日本が劣勢に向かう転機になったとされていますが、例えばガダルカナルにおいては艦艇の損失は日米拮抗しており、日本にとって痛手だったのは、地上戦において米軍の十倍以上の2万余の死者を出したことで(その4分の3は病死または餓死)、こうした人的損失が兵員の不足やレベル低下を招いたと―。
 ガダルカナルの敗因は補給路を絶たれるという戦略的ミスですが、日本軍はその後もインパール作戦などで同様の過ちを繰り返すわけです。

 こうした軍部の度重なる判断ミスの犠牲になったのは、まず第1に、戦場に散った兵士たちですが、本書では、戦場における兵士の惨状だけでなく、軍隊内の私刑や特攻隊員の不条理な選ばれ方、軍に苦役させられた中国人や殺害された沖縄県民のことなども書かれています。
 「アジア・太平洋戦争」という事例を通してですが、戦争とはどのようなものなのか、結果としてどのような人々が苦しむのか、戦争というものが孕む矛盾がよくわかる本です。

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「過労自殺」に注目が集まる契機となった本。教訓としての「電通事件」。

過労自殺.jpg 『過労自殺 (岩波新書)』 〔'98年〕

Bridge、templateId=blob.jpg 本書刊行は'98年で、その頃「過労死」という言葉はすでに定着していましたが、「過労自殺」という言葉はまだ一般には浸透しておらず、本書は「過労自殺」というものに注目が集まる契機となった本と言ってもいいのではないかと思います。

 冒頭に何例か過労自殺事件が紹介されていますが、その中でも有名なのが、著者自身も弁護士として関わった「電通事件」でしょう。
 自殺した社員(24歳のラジオ部員)の残業時間が月平均で147時間(8カ月の平均)あったというのも異常ですが、会社ぐるみの残業隠蔽や、当人に対し、靴の中にビールを注いで無理やり飲ませるような陰湿ないじめがあったことが記されています。

 事件そのものの発生は'91(平成2)年で、電通の対応に不満を持った遺族が'93(平成5)年に2億2千万円の損害賠償請求訴訟を起こし(電通がきちんと誠意ある対応をしていれば訴訟にはならなかったと著者は言っている)、'96(平成8)年3月、東京地裁は電通側に1億2千万円の支払を命じていて、それが'97(平成9)年9月の東京高裁判決では3割の過失相殺を認め、約9千万円の支払命令となっています。

 本書105ページを見ると、'95〜'97年度の過労自殺の労災申請は、それぞれ10件、11件、22件で、それに対し認定件数は各0件、1件、2件しかなく、電通事件も労災申請を認めなかった労基署の判断が退けられたという形をとっていますが、それがそのまま損害賠償命令に直結したのがある意味画期的でした(しかも金額が大きい。因みに'06年度の「過労自殺」の労災認定件数は66件にも及んでいる)。

 さらに、本書刊行後の話ですが、'00(平成12)年の最高裁小法廷判決では、2審判決の(本人の自己管理能力欠如による)過失相殺を誤りとし、電通に対し約1億7千万円の支払い命令を下しており、上場を目前に控えた電通は、やっと法廷闘争を断念して判決を受け入れ、遺族との和解交渉へと移ります。

 企業が労務上の危機管理や事件に対する適切な初期対応を怠ると、いかに膨大な時間的・金銭的・対社会的損失を被るかということの、典型的な例だと思います。

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新しい型の「やさしさ」を通して現代人の価値意識の変化を探る。

やさしさの精神病理.jpg 『やさしさの精神病理 (岩波新書)』 〔95年〕 大平 健.jpg 大平 健 氏 (精神科医/略歴下記)

 精神科医である著者の面接室を訪れた患者の症例を通して、彼らがしばしばこだわる "やさしい関係"とは何かを考察しています。

 彼らが言う"やさしさ"とは、例えば、席を譲らない"やさしさ"であったり、親から小遣いをもらってあげる"やさしさ"であったり、好きでなくても結婚してあげる"やさしさ"であったり、ポケベルを持ち合いながらそれを使わない"やさしさ"であったりします。
 旧来の「やさしさ」が他人と気持ちを共有する連帯志向の言わば"ホット"なそれであったのに対し、彼らの"やさしさ"は、相手の気持ちに立ち入らず、傷つけないように見守る"ウォーム"な「やさしさ」であると著者は言います。

 彼らにとって、一見「やさしそう」な人は「なにかうっとーしく」敬遠したくなるような感じがする人であり、彼らはそうした「無神経な人」を避け、彼らなりの"やさしさ"を理解できる人としか付き合わないが、その関係は必ずしも安定的ではなく、些細なことで関係はこじれる。
 その際に相談相手のいない彼らは、"ホット"なイメージのカウンセラーよりも"クール"な印象を持つ精神科医を訪ねることが多いとのことです。

 「時代の気分」と言われるまでに"やさしさ"が横溢する世の中の背後に、「相手にウザイ思いをさせたくない」という新しいタイプの「やさしさ」があるという。精神科の面接室からそれを考察するという意味では確かにこれは一種の"病理学"なのかもしれません。
 どんなに親しい人の前でも本当の自分は出さないという彼らは、やがて自分とは何かも分からなくなり「自分探し」の旅にはまり込んでいく...。

 こうしたスパイラルに対する解決方法を著者が自ら示しているわけではありません(それは正統的なカウンセリング姿勢とも言える)。
 紹介された事例には、フィクションの要素も入っていると思われます。
 また、軽度のものから完全な分裂症までこの1冊に含まれてしまって、それが良かったのかどうかは疑問です。
 それらを考慮しても、現代人の人間関係における価値意識の変化を探るうえでの示唆を含んだ1冊ではあると思いました。
_________________________________________________
大平 健 (おおひら・けん)精神科医・聖路加国際病院精神科部長
1949年鹿児島県生まれ。1973年東京大学医学部卒業。著書に『豊かさの精神病理』『やさしさの精神病理』『純愛時代』(以上岩波新書)、『診察室にきた赤ずきん』(早川書房)。近著に『ニコマコス恋愛コミュニケーション』(岩波書店)があり、複雑なこころの問題を柔らかな語り口で解き明かしている。

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「●岩波新書」の インデックッスへ ○日本人ノーベル賞受賞者(サイエンス系)の著書(利根川 進)

文学や哲学はいずれ脳科学に吸収されてしまう? 教授自身にまつわる話がかなり面白い。

私の脳科学講義77.JPG 私の脳科学講義.jpg     利根川 進.jpg 利根川 進 博士
私の脳科学講義 (岩波新書)』 〔'01年〕

 ノーベル賞学者(1987年ノーベル生理学・医学賞受賞)であるのに、海外で活躍する期間が長かったゆえに岩波新書にその著作が入っていないのは...ということで、岩波の編集部が口述でもいいからと執筆依頼したかのような印象も受けないではないのですが、本題の脳科学講義もさることながら、利根川教授自身にまつわる話が面白かったです。 

 京都大学では卒業論文を書かなかったとか、バーゼルの研究所で契約切れで解雇されたが居座って研究を続けたとか、英語の同じ単語の発音の間違いを米国育ちの3人の子どもが3歳になるごとに指摘されたとか...。

 今の著者の夢は、自分の研究室からノーベル賞学者を出すこと―。"日本人から"でなく"自分の研究室から"という発想になるわけだ。

 著者の考え方の極めつけは、巻末の池田理代子氏との対談の中の言葉(利根川教授はこの対談の中で、池田氏が40才を過ぎてから音大の声楽科へ入学し(この人、音大に通っている時に、マンションの同じ棟に住んでいたことがあった)、イタリア語を勉強をし始めてモノにしたことを大変に稀なケースだと評価していますが、利根川氏の理論から言うとまんざらお世辞でもないみたい)。
 利根川氏はこの対談の中で次のように述べている―。 

 ―文学や哲学はいずれ脳科学に吸収されてしまう可能性がある、と。

 ほんとにエーッという感じですが、以前、立花隆氏に対しても同じようなことを言っていたなあ(立花氏もちょっと唖然としていた)。
 世界中の脳科学者の中には同じように考えている人が多くいるらしく、一方それととともに、こうした考え方に対する哲学者らなどからの反論もあるようです(知られているところでは2005年に来日した女性哲学者カトリーヌ・マラブーなど)。

《読書MEMO》
●抗体は一種のタンパク質で、B細胞(Bリンパ球)がつくる(26p)/抗体と抗原はいわば鍵と鍵穴の関係(27p)
●バ-ゼル研究所で契約切れで解雇されたが、研究を続けた(30p
●多様性発現とダーウィン進化論の類似(32p)
●カスパロフVS.ディープ・ブルー(54p)
●rice(米)とlice(しらみ)の発音の違いを3歳の子供に指摘される(60p)
●海馬のどの部分に記憶と想起の部位があるかを、ノックアウトマウスで調べた
●夢は自分の研究室からノーベル賞学者を出すこと
●文学や哲学はやがて脳科学に吸収される

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望遠鏡の修理打ち切り? 本当にこれらの写真は"ハッブルの遺産"になってしまうのか。

カラー版 ハッブル望遠鏡の宇宙遺産.jpgカラー版 ハッブル望遠鏡の宇宙遺産 (岩波新書)swap.gif

 岩波新書の「カラー版ハッブル望遠鏡が見た宇宙」シリーズの3冊目ですが、美しい天体写真の数々には、ついにここまできたかと思わせられる一方、この宇宙望遠鏡が使えなくなるかも知れないというのは本当に残念に思います。

 「ハッブル・ヘリテッジ」は"地球遺産"に対する"宇宙遺産"という意味合いでのNASAのネーミングですが、著者の指摘のように、この宇宙望遠鏡が使えなくなれば、これらの写真は"ハッブルの遺産"になるという意味にもとれます。

 なぜハッブル望遠鏡が存亡の危機にあるのかは、本書の4章にこの望遠鏡の歴史と併せて述べられています。
 つまり、宇宙望遠鏡の軌道と国際宇宙ステーションの軌道が一致していないため、望遠鏡の修理保全がたいへんであるとのこと。
 今までこの望遠鏡を守るために何人もの宇宙飛行士が命を賭けてきたことに感動するとともに、長期間に及び、その間に不測の事態がまま起こる宇宙計画の難しさというものを知りました。
 
 ただし、本書出版後しばらくして('04年12月)、全米科学アカデミーは、老朽化が進むハッブル宇宙望遠鏡の改修をめぐり、「スペースシャトルで飛行士を送って改修するのがベスト」という報告書をまとめています。 
 ロボットによる改修構想もあったようですが、「技術面で確実性に欠ける」とし、「ハッブル望遠鏡の価値を考えると、有人飛行による改修はリスクを負うに値する」と結論づけています。

 全米科学アカデミーはNASAに勧告する立場にあり、ハッブル望遠鏡の部品を交換しないと望遠鏡は3,4年後に使えなくなるとしていますが、その補修のためには国際宇宙ステーション向けとは別にスペースシャトルを打ち上げなければならないというのは、本書の内容とも符号するところで、こうなると人命問題だけだなく、費用問題、政治問題など色々絡んでくるなあ(素人目にもハッブル望遠鏡は国際宇宙ステーションよりは軍事的効果はないように思えるし)。

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世界中の科学者を丹念に取材。宇宙はまだわからない課題が多い。

宇宙の果てにせまる.jpg 『宇宙の果てにせまる』 岩波新書 〔'98年〕

 同じ岩波新書の「カラー版ハッブル望遠鏡が見た宇宙」シリーズの著者である科学ジャーナリスト野本陽代さんが、シリーズ1冊目の後に書いたもの。

 宇宙論の現況とこれまでの展開、そしてハッブル宇宙望遠鏡の登場などによる新発見、新理論と、新たな謎に迫る科学者たちの活躍を書いています。

ngc3370.jpg どうして宇宙の年齢や星までの距離、絶対光度がわかるのかといったことから、最新の宇宙論に至るまでをわかりやすく解説するとともに、現在活躍中の世界中の宇宙物理学者を数多く丹念に取材し、彼らの考え方を、その人となりと併せて生の声で伝えています。

 宇宙に関する研究成果が多くの科学者の洞察と努力や工夫によるものであり、そこには様々な競争や運があったということ、宇宙にはまだわからない課題が多くあるということがわかる1冊です。

多数のセファイド型変光星が観測されたしし座の銀河NGC3370 (NASA)

《読書MEMO》
●セファイド型変光星(56p)...変光の周期によって絶対光度がわかる
●余分な運動...宇宙は膨張しているが、個々の天体は特異運動の影響を受ける(86p)
●銀河系・アンドロメダを含む銀河群はおとめ座銀河団の方へ
●光速の70%で遠ざかるクエーサーから2つの光が届く(重力レンズ)(110p)
●1987年カミオカンデが大マゼラン雲の超新星からのニュートリノ検出(140p)
●ビックバン(1/1)から最初の天体形成(1/20)までの間のことがわかっていない(160p)

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河合氏が児童文学に触れて書いたものではベスト。

河合 隼雄 『子どもの宇宙』.jpg子どもの宇宙.jpg 『子どもの宇宙 (岩波新書)』 〔'87年〕

 河合隼雄氏が児童文学について書いているものは、この新書の出版前後にも何冊か文庫化されていて、いずれも素晴らしい内容です。
 ただしそれらが過去に各所で発表したものを再編したものであるの対し、本書は丸々1冊書き下ろしであり、まとまりと深みにおいてベスト、渾身の1冊だと思います。

 子どもと、家族・秘密・動物・時空・老人・死・異性という7つのテーマに全体を切り分け、子どもの世界にこれらがどう関わるのか、著者の深い洞察を展開しています。
 そして、その中で家出や登校拒否などの今日的問題を扱いつつ、優れた児童文学に触れ、それらから得られるものを解き明かし、読者に子どもの持つ豊かな可能性を示しています。

日本幻想文学集成13・小川未明.jpg 児童文学について書かれた従来の氏の著作に比べ、遊戯療法や夢分析の事例など、臨床心理学者としての視点が前面に出ている一方、育児・児童教育についての示唆も得られる本です。
 もちろん児童文学案内としても読め、本書の中で紹介された本は、是非とも読んでみたくなります。

 ちなみに個人的に一番強い関心を抱いたのは、太郎という7歳で病気で死んでいく子どもの眼から見た世界を描いた小川未明の「金の輪」で、この極めて短く、かつ謎めいた作品を、小川未明の多くの作品の中から河合氏が選んだこと自体興味深かったですが、河合氏なりの解題を読んで、ナルホドと。
 
《読書MEMO》
●主要紹介図書...
 ◆ベバリイ=クリアリー『ラモーナとおかあさん』
 ◆E・L・カニグズバーグ『クローディアの秘密』...美術館に家出する
 ◆E・L・カニグズバーグ『ジョコンダ夫人の肖像』
 ◆エーリヒ・ケストナー『ふたりのロッテ』
 ◆F・E・H・バーネット『秘密の花園』
 ◆キャサリン・ストー『マリアンヌの夢』
トムは真夜中の庭で.jpg ◆フィリパ・ピアス『トムは真夜中の庭で』『まぼろしの小さい犬』
 ◆C・S・ルイス『ナルニア国ものがたり』
 ◆キャサリン・ストー『マリアンヌの夢』
時の旅人1.jpg ◆アリソン アトリー『時の旅人
日本幻想文学集成13・小川未明.jpg ◆小川未明『金の輪』...死んでいく子どもの眼から見た世界
 ◆ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』
あのころはフリードリヒがいた.jpg ◆ハンス・ペーター・リヒター『あのころはフリードリヒがいた
ぼんぼん1.jpg ◆今江祥智『ぼんぼん
 ◆佐野洋子『わたしが妹だったとき』
 ◆I・ボーゲル『さよなら わたしのおにいちゃん』
 ◆イリーナ・コルシュノウ『だれが君を殺したのか』

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年月を経ても現代に通じるものが多く、それは驚きに近い。

母親のための人生論.gif 私は赤ちゃん.jpg 私は二歳5_.jpg 松田 道雄.jpg 松田道雄(1908‐1998/享年89)定本育児の百科.jpg
母親のための人生論 (岩波新書 C (140))』〔'64年〕/『私は赤ちゃん』〔'60年〕/『私は二歳 (岩波新書)』〔'61年〕/『定本育児の百科
映画「私は二歳」.jpg ロングセラー『育児の百科』(岩波書店)の著者として知られる松田道雄(1908‐1998)は、小児科医でしたがアカデミズムの世界では在野の人でした。

 本書は、同じく岩波新書の『私は赤ちゃん』('60年)、『私は二歳』('61年)が共にベストセラーになった後(『私は二歳』は市川昆監督の映画にもなった)、1964年に出版されたものですが、物語風の前二著に対してこちらは純粋エッセイ風です。一部に時代を感じるものの、子育てをする母親に対する示唆という点では年月を経ても現代に通じるものが多く、それは驚きと言ってもいいぐらいです。まさに、松田道雄が現代に語りかけているように思えました。

私は二歳 [DVD]」('62年/大映)

 本書の内容は、子育て・教育・家庭問題から文化・芸術論、人生観・死生観まで多彩です。個人的には、お稽古ごとについて親バカを大切な楽天主義だと肯定し、保育園と家庭の役割ついて集団教育と家庭教育は別のものとし、虚栄心からと見える行為は向上心の表れであることも多いことを指摘している点に頷かされ、アイバンク登録した中学生に率直に敬意を示している著者の姿勢に共感しました。

 章の合間に入る京都に関するエッセイも楽しい。映画「私は二歳」のイメージと重なって、"昭和"の匂いが大いに感じられたものの、今もって(現代のような時代だからこそ?)母親である人、また、これから母親になる人にお薦めしたい気がします。こういう本を奨めると「保守的」と思われるかも知れませんが、子育ては「普遍的」要素って、やっぱりあるなあと。基本原理があって、それを時代の変化に合わせて応用していく―ということになるのでは。男性が読んでも得るところが大いにある本だと思うし、家族社会学などに関心がある人には特にお薦めです。

「私は二歳」 船越英二/山本富士子
私は二歳 映画 .jpg 因みに、映画「私は二歳」は、船越英二と山本富士子が演じる夫婦が子育てをする様が描かれていて、前半部分は新興団地が舞台で、後半は父方の祖母(浦辺粂子)と同居するために一軒家に移りますが、やがて祖母が亡くなるというもの。子育てを巡ってごく普通にありそうな夫婦の衝突などがテンポよく描かれていますが、とりたてて珍しい話はなく、1962年・第36回「キネマ旬報ベストテン」の日本映画第1位に選ばれてはいますが(1962年度「芸術選奨」受賞作でもあるのだが)、まあどうってことない映画でしょうか。ただ、こうして子育てする夫婦の日常を観察日記風に描いた作品はそうなく、また、今観ると昭和30年代の本格的な核家族社会に入った頃の家庭育児の風景として、風俗記録的な価値は年月とともに加わってきているようにも思われ、星半個プラスしました(因みに「核家族」という言葉は1963年の流行語だった)。

私は二歳8b.jpg私は二歳 映画6.jpg私は二歳 映画22.jpg「私は二歳」●制作年:1962年●監督:市川崑●製作:永田秀雅/市川崑●脚本:和田夏十●撮影:小林節雄●音私は二歳25.jpg楽:芥川也寸志●アニメーション:横山隆一●原作:松田道雄「私は二歳」●時間:88分●出演:船越英二/山本富士子/鈴木博雄/浦辺粂子/京塚昌子/渡辺美佐子/岸田今日子/倉田マユミ/大辻伺郎/浜村純/夏木章/潮私は二歳 7.jpg万太郎/(ぼくの声)中村メイ子●公開:1962/11●配給:大映(評価:★★★☆)
 
《読書MEMO》
●おけいこごと...親ばかは大切な楽天主義(42p)
●理想論の立場...住環境の夢と現実、向上心(88p)
●保母さんとお母さん...集団教育は家庭教育とは別なもの(103p)
●京都のお菓子...宮廷との結びつきが強い(114p)
●京都の食べ物...金さえ持っていれば誰でも楽しめることを、自分の特技のように吹聴するのは悪趣味(154p)
●女らしいということ...根気のいる仕事は女性が得意(220p)
●細君の虚栄心...向上心の表れであることも多い(236p)
●中学生のアイバンク登録...死後も明るいという錯覚にとらわれていない(252p)

「●司法・裁判」の インデックッスへ Prev|NEXT ⇒ 【320】 佐藤 幹夫 『自閉症裁判
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一般からは見えにくい裁判官という「人間」に内側から踏み込んだ1冊。

裁判官はなぜ誤るのか.jpg 『裁判官はなぜ誤るのか (岩波新書)』 〔'02年〕 秋山賢三.bmp 秋山 賢三 氏 (弁護士)

 元判事である著者が、裁判官の置かれている状況をもとに、日本ではなぜ起訴された人間が無罪になる確率が諸外国に比べ低いのか、また、なぜ刑事裁判で冤罪事件が発生するのかなどを考察したもの。

 その生活が一般の市民生活から隔絶し、その結果エリート意識は強いが世間のことはよく知らず、ましてや公判まで直接面談することも無い被告人の犯罪に至る心情等には理解を寄せがたいこと、受動的な姿勢と形式マニュアル主義から、検察の調書を鵜呑みにしがちなことなどが指摘されています。

 一方で、絶対数が少ないため1人当たりの業務量は多く、仕事を自宅に持ち帰っての判決書きに追われ、結局こうした「過重労働」を回避するためには手抜きにならざるを得ず、また、身分保障されていると言っても有形無形の圧力があり、そうしたことから小役人化せざるを得ないとも。

 著者自身が関わったケースとして、再審・無罪が確定した「徳島ラジオ商殺し事件」('53年発生、被害者の内縁の妻だった被告女性はいったん懲役刑が確定したが、再審請求により'85年無罪判決。しかし当の女性はすでに亡くなっていた)、再審請求中の「袴田事件」('66年に発生した味噌製造会社の役員一家4人が殺され自宅が放火された事件で、従業員で元プロボクサーの袴田氏の死刑が、'80年に最高裁で確定)、最高裁へ上告した「長崎事件」を代表とする痴漢冤罪事件などが取り上げられています。

 誤審の背景には、裁判官の「罪を犯した者を逃がしていいのか?」という意識が 「疑わしきは被告人の利益に」という〈推定無罪〉の原則を凌駕してしまっている実態があるという著者の分析は、自身の経験からくるだけに説得力があるものです。

 司法改革はやらねばならないことだとは思いますが、弁護士の数を増やすことが裁判官の質の低下を招き、訴訟の迅速化を図ることが冤罪の多発を招く恐れもあることを考えると、なかなか制度だけですべての問題を解決するのは難しく、裁判官1人1人の人間性に依拠する部分は大きいと思いましたが、本書はまさに、一般からは見えにくい裁判官という「人間」に、内側から踏み込んだ1冊です。

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冤罪事件が起きる原因を検証。ヒッチコック映画か小説のような話も。

後藤昌次郎著『冤罪』 .jpg  『冤罪 (1979年)』 岩波新書  誤まった裁判  ―八つの刑事事件―.gif 上田誠吉/後藤昌次郎 『誤まった裁判―八つの刑事事件 (1960年) (岩波新書)

 本書では、清水事件、青梅事件、弘前事件という3つの冤罪事件をとりあげ、冤罪事件がどのようにして起きるかを検証しています。

 何れも昭和20年代に起きた古い事件ですが、〈青梅(列車妨害)事件〉は自然事故が政治犯罪に仕立て上げられた事件として、また〈弘前(大学教授夫人殺人)事件〉は、後で真犯人が名乗り出た事件として有名で、真犯人が名乗り出る経緯などはちょっとドラマチックでした。

「間違えられた男」.jpg この2事件に比べると、冒頭に取り上げられている〈清水(郵便局)事件〉というのは、郵便局員が書留から小切手を抜き取った容疑で起訴されたという、あまり知られていない "小粒の"事件ですが、ある局員が犯人であると誤認される発端が、たった1人の人間のカン違い証言にあり、まるでヒッチコックの 「間違えられた男」のような話。

 結局、被告人自身が「警察も検察も裁判所も頼りにせず」、弁護士と協力して真犯人を突き止めるのですが、まるで推理小説のような話ですけれど、実際にあったことなのです。
 この事件で、真犯人の方が冤罪だった局員の当初の刑より量刑が軽かったというのも、考えさせられます。
 冤罪を訴え続けた人は、改悛の情が無いと見られ、刑がより重くなったということでしょう。

 著者の前著(上田誠吉氏との共著)『誤まった裁判-八つの刑事事件』('60年/岩波新書)が1冊で三鷹事件、松川事件、八海事件など8つの冤罪事件を扱っていたのに対し、本書は事件そのものは3つに絞って、事件ごとの公判記録などを丹念に追っていて、それだけに、偏見捜査、証拠の捏造、官憲の証拠隠滅と偽証、裁判官の予断と偏見などの要因が複合されて冤罪事件の原因となるということがよくわかります。

 事件が風化しつつあり、関係者の多くが亡くなっているとは言え、前著ともども絶版になってるのが残念。

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"読み忘れ"はないかのチェックに良かった(実際にはなかなか読めないが...)。

現代を読む.jpg  『現代を読む―100冊のノンフィクション』 岩波新書 〔'92年〕 戦後を読む 50冊のフィクション.jpg戦後を読む―50冊のフィクション』 岩波新書 〔'95年〕

 ノンフィクションというのは、その時のテーマ乃至は過去の限定的なテーマを追うことが多いので、発刊から時間が経つと書評などで取り上げられることも少ないものです。
 本屋も商売、つまらない本は多く並んでいるのに、いい本でも刊行が古いというだけでどんどん消えていき、版元も重版しなくなる。
 刊行時に話題になったり高い評価を得た本でも、やがてその存在すら忘れてしまいがちになり、そうした本を掘り起こしてみるうえでは、あくまでも佐高信という評論家の眼でみた"100選"ですが、本書は手引きになるかも。

 自分にとっても、ノンフィクション系の"読み忘れ本"はないか、チェックしてみるのに良かったと思います。
 う〜ん、読んでない本の方が多い、と言うより、新たに知った本がかなりある...。
 比較的そうした本を新たに知ることが出来るのも、"個人の選"であることの良さですが、と言って、いま全部読んでいる時間もなかなか無い...。
 ただし、そうした本の存在を知るだけでも知っておき、あるいは思い出すだけでも思い出して、薄れかけた記憶を焼き付け直しておくことで、何かの機会に偶然その本に出会ったときに、思い出して手にとるということはあるかも知れないとは思います。

 同じ著者による、戦後を読む-50冊のフィクション』('95年/岩波新書)という本もあり、こちらは所謂「社会派」小説を中心に紹介されていて、連合赤軍の息子の父を描いた円地文子の小説『食卓のない家』や、歌人・中条ふみ子をモデルにした渡辺淳一の『冬の花火』(この頃はいいものを書いていたなあ)、更には松本清張『ゼロの焦点』や宮部みゆき『火車』、村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』といった、何らかの社会問題をモチーフとした作品やドキュメンタリー性の強い作品を中心に、それらの内容紹介と書評があります。
(紹介書籍リストは「新書マップ」で見ることが可能 htttp://shinshomap.info/book/4004303931.html

《読書MEMO》
●松下竜一 『風成の女たち』/●内橋克人 『匠の時代』/●船橋洋一 『通貨烈烈』・●千葉敦子 『「死への準備」日記』/●鎌田慧 『自動車絶望工場』(トヨタ)/●柳田邦男 『マリコ』/●沢村貞子 『貝のうた』/●桐島洋子 『淋しいアメリカ人』/●石川好 『ストロベリー・ロード』/●吉田ルイ子 『ハーレムの熱い日々』/●立花隆 『脳死』/●石牟礼道子 『苦海浄土』(水俣病)/●野添憲治 『聞き書き花岡事件』(戦時中の鹿島による中国人強制労働と虐殺)/●田中伸尚 『自衛隊よ、夫を帰せ!』(靖国合祀問題)/●山本茂 『エディ』(エディ・タウンゼントの話)/●吉野せい 『洟をたらした神』(開拓農民の生活)/●佐野稔 『金属バット殺人事件』(1980年発生)/●梁石日(ヤン・ソルギ) 『タクシードライバー日誌』(映画「月はどっちに出ている」の原作)/●吉永みち子 『気がつけば騎手の女房』(吉永正人は結婚に反対した姑の前に鞭を差し出した)/●杉浦幸子 『六千人の命のビザ』(リトアニア領事・杉浦千畝(ちうね)の話)/●藤原新也 『東京漂流』("文化くさい"広告を批判しフォーカスの連載打ち切りになった話が)...

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「きれいごと」は何の役にもたたないかという問いかけ、で終わっている?

いまどきの「常識」.jpg 『いまどきの「常識」』 岩波新書  〔'05年〕  香山リカ.jpg 香山 リカ 氏 (精神科医)

 各章のタイトルが、「自分の周りはバカばかり」、「お金は万能」、「男女平等が国を滅ぼす」、「痛い目にあうのは「自己責任」、「テレビで言っていたから正しい」、「国を愛さなければ国民にあらず」となっていて、こうした最近の社会的風潮に対して、はたしてこれらが"新しい常識"であり、これらの「常識」に沿って生きていかなければ、社会の範疇からはみ出てしまうのだろうかという疑問を呈しています。

 前書きの「「きれいごと」は本当に何の役にたたないものなのか?」という問いのまま、本文も全体的に問題提起で終わっていて、実際本書に対しては、現状批判に止まり、なんら解決策を示していないではないかという批判もあったようです。

 確かに著者の問題提起はそれ自体にも意味が無いものではないと思うし、精神分析医で、社会批評については門外漢とは言えないまでも専門家ではない著者が、人間関係・コミュニケーション、仕事・経済、男女・家族、社会、メディア、国家・政治といった広範なジャンルに対して意見している意欲は買いたいと思いますが、それにしても、もっと自分の言いたいことをはっきり言って欲しいなあ。

本当はこわいフツウの人たち.jpg より著者の専門分野に近い『本当はこわいフツウの人たち』('01年/朝日新聞社)などにも、こうした読者に判断を預けるような傾向が見られ、これってこの著者のパターンなのかと思ってしまう。
 すっと読める分、これだけで判断しろとか、「ね、そうでしょ」とか言われてもちょっとねえ...みたいな内容で、世の中の風潮を俯瞰するうえでは手ごろな1冊かも知れませんが、読者を考えさせるだけのインパクトに欠けるように思えました。

 社会の右傾化に対する著者の危惧は、『ぷちナショナリズム症候群』('02年/中公新書ラクレ)から続くものですが、今回あまり「イズム」を前面にだしていないのは、より広範な読者を引き込もうという戦略なのでしょうか。

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個人主義(自尊心)についての読み応えのある「文芸社会学」的考察。

個人主義の運命  .jpg                 ドストエフスキー―二重性から単一性へ.jpg
個人主義の運命―近代小説と社会学』 岩波新書 〔'81年〕 ルネ・ジラール 『ドストエフスキー―二重性から単一性へ (叢書・ウニベルシタス)』 ['83年/法政大学出版局]

 「文芸社会学」の試みとも言える内容で、3章から成り、第1章でルネ・ジラールの文芸批評における、主体(S)が客体(O)に向かう際の「媒介」(M)という三項図式の概念を用いて、主にドストエフスキーの一連の作品を、三角関係を含む三者関係という観点から読み解き、第2章では個人主義思想の変遷を、共同態(家族・農村・ギルド・教会など)の衰退と資本主義、国家(ナショナリズム)等との関係において理性→個性→欲望という流れで捉え、第3章でまた第1章の手法を受けて、夏目漱石の『こころ』、三島由紀夫の『仮面の告白』、武田泰淳の『「愛」のかたち』、太宰治の『人間失格』における三者関係を解読しています。

永遠の夫.jpg 第1章では、ドストエフスキー小説における「媒介者」を、主人公(S)が恋人(O)の愛を得ようとする際のライバル (M)や、世間(O)からの尊敬を得るために模倣すべき「師」(M)に見出していますが、主人公がライバルの勝利を助けようとするマゾヒスティックにも見える行動をしたり、「師」を手本とする余り、神格化することが目的化してしまったりしているのはなぜなのか、その典型的キャラクターが描かれているのが「永遠の夫」であるとして、その際に主人公(トルソーツキイ)の自尊心(この場合、個人主義は「自尊心」という言葉に置き換えていいと思う)はどういった形で担保されているのか、その関係を考察しています。

 第2章で興味深かったのは、ナショナリズムと個人主義の関係について触れている箇所で、国家は中間集団(既成の共同体)の成員としての個人の自律と自由の獲得を外部から支援することで、中間集団の個人に対する影響力を弱めたとする考察で、中間集団が無力化し個人主義の力を借りる必要が無くなった国家は、今度は個人主義と敵対するようになると。著者はナショナリズムと宗教との類似、ナショナリズムと個人主義の双子関係を指摘していますが、個の中で全体化するという点では「会社人間」などもその類ではないかと思われ、本書内でのG・ジンメル「多集団への分属により個人は自由になる」という言葉には納得。ただし、それによって複数集団(会社と家庭、会社と組合など)の諸要求に応えきれず自己分裂する可能性もあるわけで、ある意味「会社人間」でいることは楽なことなのかも知れないと思いました。

 第3章では、漱石の『こころ』の「先生」と「私」の師弟関係の読み解きが、土居健郎の『「甘え」の構造』を引きながらも、それとはまた違った観点での(つまり「先生」とKとの関係を読者に理解させるために書かれたという)解題で、なかなか面白かったです。

ルネ・ジラール 『ドストエフスキー―二重性から単一性へ
(叢書・ウニベルシタス)
』 ['83年/法政大学出版局]帯
ドストエフスキー―二重性から単一性へ - コピー.jpg 第1・第3章と第2章の繋がりが若干スムーズでないものの(「文芸」と「社会学」が切り離されている感じがする)、各章ごとに読み応えのある1冊でした。著者・作田啓一氏が参照しているルネ・ジラールの『ドストエフスキー―二重性から単一性へ』('83年/叢書・ウニベルシタス)と併せて読むとわかりよいと思います。ルネ・ジラールの『ドストエフスキー』は版元からみても学術書ではありますが(しかもこの叢書は翻訳本限定)、この本に限って言えば200ページ足らずで、箇所によっては作田氏よりもわかりやすく書いてあったりします(ルネ・ジラールは「永遠の夫」の主人公トルソーツキイを「マゾヒスト」であると断定している)。

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ロビンソン人間論を軸としたマルクス、ヴェーバー論。噛んで含めたようなわかりやすさ。

社会科学における人間.jpg       

      大塚久雄(1907-1996).jpg 大塚久雄(1907-1996/享年89)
社会科学における人間』 岩波新書 〔'77年〕

 資本主義の歴史研究を通して「近代」の問題を独自に考察した社会学者・大塚久雄(1907‐1996)は、マルクス経済学とヴェーバー社会学から独自の人間類型論を展開したことでも知られていますが、本書は'76(昭和51)年に放映されたNHK教育テレビでの25回にわたる連続講演を纏めたもので、人間類型論を軸としたマルクス、ヴェーバー論という感じの内容です。

ロビンソン漂流記.jpg 本書でまず取り上げられているのは『ロビンソン漂流記』のロビンソン・クルーソウで、著者は、初期経済学の理論形成の前提となった人間類型、つまり経済合理性に基づいて考え行動する「経済人」としてロビンソンを捉えており、マルクスの『資本論』の中の「ロビンソン物語」についての言及などから、マルクスもまた「ロビンソン的人間類型」を(資本主義経済の範囲内での)人間論的認識モデルとしていたと。そして、ヴェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で前提としているのも「ロビンソン的人間」であるとしています。
『ロビンソン漂流記』 講談社青い鳥文庫

 プロテスタンティズムのエートス(世俗内禁欲)が「資本主義の精神」として伝えられ、資本主義の発展を支えたというヴェーバーの説がわかりやすく解説されていて、この「隣人愛」が"結果として"利潤を生じるという目的・価値合理性が最もフィットしたのは主に中産的生産者(ドイツよりむしろ英国の)だったとしており、資本家においては両者の乖離が既に始まっていたと―この点は今日的な問題だと思いました。

 著者の考えは必ずしも全面的に世に受け入れられているわけでは無いのですが(ロビンソンを植民地主義者の原型と見なす人も多い)、自分としては、大学の一般教養で英文学の授業を受けた際に、最初の取り上げた『ロビンソン漂流記』の解題が本書とほぼ同じものだった記憶があり、「ロビンソン的人間類型」論に何となく親しみもあったりもします。

 '70年代の著作でありながらすでに「南北問題」などへの言及もあり、大学ではほとんど講義ノートを見ないで講義していたとか言う逸話もある人物ですが、本人曰く「教室で一番アタマ悪そうな学生に向けていつも話をした」そうで、本書も、マルクスの「疎外論」やヴェーバーの「世界宗教の経済倫理」などの難解な理論にも触れていますが、その噛んで含めたようなわかりやすさが有り難いです。

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エコノミスト批判の本と割り切って読めば、示唆に富むものだった。

判断力.jpg  『判断力 (岩波新書 新赤版 (887))』 〔'04年〕 奥村宏.jpg 奥村 宏 氏(経済評論家)

 著者は、新聞記者としてスタートし、その後証券会社に転じ、研究員としての長年の勤務を経て大学教授になり、退官後は経済評論家として活躍している人。
 本書で、情報に振り回されて判断を誤るのはなぜかを考察し、また理論のための学問でない「実学」の大切さを説いているのも、こうした経歴によるところが大きいのでしょう。
 経済にまつわる様々な「陰謀説」についての著者の分析は、大いに参考になりました。

 外国に判断を任せる政治家や、責任感欠如で判断しない経営者、外国理論を輸入するだけの経済学者を批判していますが、その矛先は企業の従業員やジャーナリスムにも向けられていて、組織に判断を任せる「会社人間」を生んだ構造の背景にあったのは、「法人資本主義」つまり会社本位の経済成長第一主義であるとし、新聞社も組織の肥大化で同じ罠に陥っており、新聞記者は全て独立してフリーになった方がいい記事が書けるのではとまで言っています。

 最も辛辣な批判はエコノミストに向けてのもので、議論が盛んなインフレターゲット論と財政投資有効論の対立も、政府や日銀の政策をめぐっての議論であり、日本経済の構造分析の上に立った主張ではない「御用学者」たちの間でのやりとりでしかなく、「経済論戦」などもてはやすのはおかしいと、手厳しいです。

 主張には骨があるように思えましたが、テーマである「判断力」ということについて、方法論的には「新聞の切り抜き」みたいなレベルで終っているのが残念でした。
 ただし、エコノミスト批判の本と割り切って読めば、多分に示唆に富む内容のものでした。

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参考書的には面白かったが、肝心の主張部分の具体性に欠ける。

市場主義の終焉.jpg 『市場主義の終焉―日本経済をどうするのか (岩波新書)』 〔'00年〕 佐和 隆光氏.jpg 佐和 隆光 氏

 著者は本書で、市場主義を否定しているのではなく、「市場主義改革はあくまでも『必要な通過点』である」としながらも、市場の暴走による社会的な格差・不平等の拡大を避けるためには、「市場主義にも反市場主義にもくみしない、いってみれば、両者を止揚する革新的な体制」(140p)としての「第三の道」をとるべきだとしています。

 「第三の道」とは社会学者ギデンズが提唱した「旧式の社会民主主義と新自由主義という二つの道を超克する道」(142p)であり、著者によれば「リベラリズム」がそれにあたり、最もそれを体現しているのが英国のブレア首相(労働党)であるということのようです(サッチャリズムの保守主義、市場主義政策が破綻してリベラルなブレア政権が誕生したと...)。

 効率重視の"保守"と公正重視の"リベラル"という対立軸で経済を読み解くのが著者の特徴で、「自由な市場競争を大義名分とする市場主義と、伝統と秩序を『保守』することを大義名分とする保守主義は両立不可能」(41p)という政治経済学的な分析は面白いし、その他にも政治・経済・社会に対する多角的な分析があり、経済の参考書として門外漢の自分にも興味深く読め、本書が「2000年ベスト・オブ・経済書」(週刊ダイヤモンド) に選ばれたのも"むべなるかな"といったところ。

 ただし、肝心の主張部分「第三の道」についてもう少し具体的に説明してもらわないと、一般に言う「福祉国家」とどう違うのかなどがよくわからず、学者的ユートピアの話、議論のための議論のようにも聞こえます。
 確かに「大学改革」については、市場主義、経済的利益のみで学問の価値が測れないことを示しています(それはそれでわかる)が、何だかこの問題だけ特別に具体的で、浮いているような気がしましたけど。

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英文に内在する論理構造を知ることができる良書。

日本人の英語21.JPG日本人の英語.jpg 日本人の英語 続.jpg
日本人の英語 (岩波新書)続・日本人の英語』 岩波新書 〔'88年/'90年〕

 英語における冠詞や前置詞、時制や関係代名詞、受動態などの使い方を通して、英文に内在する論理構造を知ることができる好著です。

 日本人の英語表現のよくある誤謬を単に正すのではなく、日本語と英語のもともとの発想や論理の隔たりがどこにあるのかを、ユーモアを交えながら説き明かしていく展開は、楽しく読めて、かつ奥が深いものであり、日本語と英語の両方に通じた著者の慧眼を示すものです。
 面白いだけでなく、ある意味、今まで誰も示さなかった習得の近道かも知れません。

 例えば冒頭の、「名詞にaをつける」のではなく、むしろ「aに名詞をつける」のだという話は、初めての人には何を言っているのかよく解らないかもしれませんが、読んでみればaもtheも名詞につけるアクセサリーのようにしか思っていなかった人は「目からウロコ」の思いをするのではないでしょうか。
 ここを理解するだけでも元が取れてしまう1冊です。

 '90年には「続」編が出ていて、構成は、冠詞、前置詞、副詞、時制、知覚動詞、使役動詞というように「正」編とほぼ同じですが、日本文学や映画から素材を選び、比較文化論的エッセイ風の色合いが強まった感じがします。 

 それは冒頭の、アメリカ人は日本人を the Japanes eと言うのに、自分たちを the Americans と言わず、Americans というのはなぜだろうという疑問提示にも表れていて、著者による「文化論的」謎解きに触れたときには、思わずう〜んと唸ってしまいました。

 全体的には、「続」も「正」と同様に楽しく、また「正」よりスイスイ読めますが、先に多少時間をかけてでも「正」の方を読んでおいた方がいいかも。

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プロ野球審判歴40余年の回想。味わい深く、楽しめた1冊。

プロ野球審判の眼3050.JPGプロ野球審判の眼.jpg    島秀之助.jpg 島秀之助(1908-1995)
プロ野球審判の眼』 岩波新書 〔86年〕

 プロ野球審判歴40余年に渡った島秀之助(1908-1995)が78歳で記した回想録で、淡々とした語り口は味わい深く、試合の様々な逸話は読み物としても面白いものです。

 著者は1936(昭和11)年の日本プロ野球発足時に選手としてスタート、その後審判に転じ、1950(昭和25)年から31年間はセリーグ審判部長でした。本書を読むと審判という仕事の大変さがよくわかります。こんな名審判にもメンターとでもいうべき人がいて、その人がまさに "俺がルールブックだ"みたいな人物で面白い。

1942(昭和17)年の名古屋-大洋戦延長28回引き分け.jpg 著者は初の日本シリーズや初の天覧試合の審判もしていますが、日本最多イニング試合の審判をした話がスゴイ。1942(昭和17)年の名古屋-大洋戦で、延長28回引き分けだったそうですが、大リーグでもこれを超える記録はありません。しかもその試合が"トリプル・ヘッダー"の第3試合だったというから、想像を絶する!(試合時間が3時間47分と"短い"のも意外。テンポいい試合だった?)。こうしたトリビアルなデータは、今はウェッブサイトなどでも見ることができますが、当事者の証言として語られているところがいいと思いました。

 本書後半は、「こんなプレーの判定は?」という100問100答になっていて、あたりそこねのゴロを犬がくわえて走り出した場合どうなるのかといった話から、インフィールドフライを故意落球した場合の扱いは?といった話まで書かれていて、こちらも楽しい内容です。インフィールドフライは、「インフィールドフライ」の宣告があった時点で(野手が落球しても)打者はアウトですが、ボールインプレイ(ボールデッドとはならない)、ただし打者アウトのためフォースプレイは成立しないとのこと。

 本書刊行後も、'91年に広島の達川捕手が大洋戦で、走者満塁でインフィールドフライを故意落球し、本塁を踏んで1塁送球して相手チームをダブルプレーに仕留めたつもりで、結果として自チームがサヨナラ負けを喫した「サヨナラインフィールドフライ事件」というのを起こしています(このとき相手チームの3塁走者もルールを理解しておらず、ベンチに戻る際にたまたま無意識に本塁ベースを踏んだのが決勝点になった)。より最近では、'06年8月の巨人-広島戦では、広島の内野手がインフィールドフライを見失って落球したのですが、巨人の打者走者や塁上のランナーは、一瞬どうすればいいのか混乱した(もちろん広島の選手たちも、さらに審判たちも)ということがありました。ルールとしてわかっていても、めったにないことがたまたま起きると、その次にどうすればいいのか一瞬わからなくなるものなのだなあと。(2015年5月4日の巨人-広島戦では、逆に広島が"サヨナラインフィールドフライ"勝利を収めた。達川捕手以来の教訓が生きた?)

2012年7月12日 神奈川大会1回戦日大藤沢vs武相 、2対2同点9回裏1死満塁の場面で打者は内野フライインフィールドフライ宣告。捕球後に武相野手陣が審判によるタイムのコールが無いことを確認せずマウンド付近へ。それに気付いた日大藤沢3塁走者が隙を突いてサヨナラのホームイン(記録上は本盗)


《読書MEMO》
2015年5月4日広島カープ サヨナラインフィールドフライ

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ルネッサンスから近代絵画まで、1作ずつ謎解きから入る読みやすい入門書。

名画を見る眼3.JPG名画を見る眼.jpg名画を見る眼17.JPG 名画を見る眼 族.jpg
名画を見る眼』〔'69年〕『名画を見る眼 続 (2) (岩波新書 青版 785)』〔'71年〕

アルノルフィニ夫妻の肖像.jpg ルネッサンス期から印象派の始まり(マネ)までの代表的な画家の作品15点選び、その絵の解説から入って、画家の意図や作風、歴史的背景や画家がどのような人生を送ったのかをわかりやすく解説した手引書です。高踏的にならず読みやすい文章に加え、まず1枚の名画を見て普通の人がちょっと変だなあと感じるところに着目して解説しているので、謎解きの感じで楽しめます。

 例えば、ファン・アイク「アルノルフィニ夫妻の肖像」は、絵の真ん中の鏡の中に微細画として室内の全景が描かれていることで知られていますが、著者は、その上に書かれた「ファン・アイクここにありき」という画家の署名に注目し、なぜこんな変わった署名をしたのかを問うて、これが婚礼の図であり、画家は立会人の立場でこの作品を描いていると...といった具合。
                                 「アルノルフィニ夫妻の肖像」 部分拡大
アルノルフィニ夫妻の肖像2.jpg 新書なので絵そのものの美しさは楽しめませんが、比較的有名な作品が多いので画集や教育用のサイトでも同じ作品を見つけることは可能だと思います。

ラス・メニーナス(女官たち)1.jpg ただし、例えばベラスケス「宮廷の侍女たち」のような、離れて見ると柔らかい光沢を帯びた衣裳生地のように緻密に見えるのに、近づいてみるとラフな筆触で何が描かれているのか判らないという不思議さなどは、マドリッドのプラド美術館に行って実物を見ない限りは味わえないないわけですが...、これを200年後の印象主義の先駆けと見る著者の視点は面白いと思いました(というか、ベラスケス恐るべし!といったところでもある)。

 2年後に刊行の『続』は、歴史的に前著に続く印象派(モネ)から、後期印象派、さらにはピカソなど近代抽象絵画まで14点をとりあげています。カンディンスキーが自分のアトリエに美しい絵があると思ったら、自作が横倒しになっていたのだったというエピソードは面白い。それで終わらないところが天才なのですが...。

ベラスケス 「宮廷の侍女たち(ラス・メニーナス)」 全体と部分拡大
ラス・メニーナス(女官たち).jpgラス・メニーナス(女官たち)1.jpg ラス・メニーナス(女官たち)2.jpg ラス・メニーナス(女官たち)3.jpg
《読書MEMO》
●とりあげている作品(正)
ファン・アイク「アルノルフィニ夫妻の肖像」/ボッティチェルリ「春」/レオナルド「聖アンナと聖母子」/ラファエルロ「小椅子の聖母」/デューラー「メレンコリア・1」/ベラスケス「宮廷の侍女たち」/レンブラント「フローラ」/プーサン「サビニの女たちの掠奪」/フェルメール「画家のアトリエ」/ワトー「愛の島の巡礼」/ゴヤ「裸体のマハ」/ドラクロワ「アルジェの女たち」/ターナー「国会議事堂の火災」/クールベ「アトリエ」/マネ「オランピア」

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小説に対する真摯な姿勢を感じたが、パッチワーク的印象も。

一億三千万人のための小説教室.jpg  『一億三千万人のための小説教室』 岩波新書 〔'02年〕

 評判はいいし、実際に読んでみると面白い、でも読んだ後それほど残らない本というのがたまにあり、本書は自分にとってそうした部類に入るかも知れません。

 内容は、小説作法ではなく、「小説とは何か」というある種の文学論だと思えるし、ユーモアのある筆致の紙背にも、小説というものに対する著者の"生一本"とでも言っていいような真摯な姿勢が窺えました。
 しかし一方で、良い小説を書く前にまず良い読み手でなければならない、という自説に沿って小説の「楽しみ方」を示すことが、同時に「書き方」を示すことに踏み込んでいるような気もして、その辺の混在感がインパクトの弱さに繋がっているのではないだろうかとも。

文章読本さん江.jpg この本もともとは、NHKの各界著名人が母校の小学校で授業をするという番組企画からスタートしているようですが、著者は本稿執筆中に斎藤美奈子氏の『文章読本さん江』('02年2月 筑摩書房刊/小林秀雄賞受賞)を読み、
 「この『文章読本さん江』の誕生によって、我が国におけるすべての「文章読本」はその息の根を止められたのである」
 とこれを絶賛していて、併せて本稿を全面的に書き直す必要を感じたようで、その辺りがこうしたパッチワーク的印象になっている原因かなという気もしました。
 
 「模倣」することの意義については、それなりに納得性がありましたが、今までにもこうした考え方はいろいろな人によって示されていたような気がします。
 事例の採りあげ方などから、ブンガクの現況をより広い視野で読者に知らしめようという著者の意図を感じましたが、随所に見られる過剰なサービス精神が個人的にはやや気になりました。
 頭のいい著者のことですから、こうしたこともすべて計算のうえでやっているのかも知れませんが...。

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横光から大江までの昭和文学史。読書ガイドとしても結構"便利"に使える。

日本の現代小説46.JPG日本の現代小説.jpg  『日本の現代小説 (1968年)』 岩波新書

 横光利一で始まり大江健三郎で終わる昭和の文学史で、年代的には関東大震災の翌年('24年)以降から石原慎太郎・開高健・大江のデビューした'58年あたり(それぞれ昭和31-33年にかけて芥川賞受賞)までの小説家とその作品を追っています。

 前著日本の近代小説』('54年/岩波新書)と時代的に繋がり、構成も文体も同じで、前著あとがきで予告されていた続編だと言えますが、どうしたわけか、読者により身近な作家の多い本書の方が絶版になっているようです。

 前半のうち約50ページを「プロレタリア文学」、「転向文学」に費やしており、その後に続く「昭和十年代」、「敗戦前後」の章も含め、プロレタリア文学運動が作家たちに与えた影響の大きさが窺えますが、数多くいたプロレタリア文学作家そのもので今も読まれているのは、作品の芸術性を重視した小林多喜二ぐらいなのがやや皮肉な感じ(多喜二のリアリズムは"ブルジョア作家"志賀直哉を手本にしている)。

 「敗戦前後」の作家で一番社会的影響力があったのは、「転向」者であるとも言える太宰治で、著者は、戦前の太宰の完成度の高い作品に戦後の作品(「斜陽」「人間失格」など)は及ばないとしながらも、その死によってそれらは青春文学の象徴となったとしています。
 さらに、戦後一時期の青年の偶像となった三島由紀夫が見せる演技性に、太宰との類縁関係を見出しています(本書執筆時点で、三島はまだ存命していた)。

 前著同様、巻末に主要文学作品の発刊年譜が付いており、因みにその年譜では、前著は1868年(明治元年)から1927(昭和2)年までを、本書では'24(大正13)年から'67(昭和42)年をカバーしていますが(昭和42年は、後にノーベル文学賞受賞対象作となる『万延元年のフットボール』が発表された年)、本文の作家の概説と併用すれば、作家や作品の文学史的位置づけが簡単に出来、読書ガイドとしても結構"便利"に使える本だと思います(絶版になったのはタイトルに「現代」とあるせいか?)。

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逍遥から龍之介までの文学潮流を俯瞰。構成・文章ともに読みやすい。

日本の近代小説2.JPG日本の近代小説.jpg    中村 光夫.jpg 中村光夫 (1911‐1988/享年77)
日本の近代小説 (1954年)』 岩波新書

 文芸評論家で小説家でもあった中村光夫(1911‐1988)による、明治から大正期にかけての「近代日本文学」入門書。
 刊行は'54年('64年改版)と旧いですが、作家を1人ずつとりあげながら文学潮流を鳥瞰していくかたちで、「です・ます調」で書かれているということもあり、構成・文章ともに読みやすい内容です。

 坪内逍遥から芥川龍之介までをカバーしていますが、前段では登場する作家(明治中期まで)は人数が少ないせいか1人当たりの記述が比較的詳しく、知識人向けの硬いものより仮名垣魯文のような戯作の方が後世に残ったのはなぜか、言文一致運動に及ぼした二葉亭四迷の影響力の大きさがどれだけのものであったか、などといったことから、樋口一葉がなぜ華々しい賞賛を浴びたのかといったことまでがよくわかります。

 中盤は、藤村・花袋などの自然主義運動を中心にその日本的特質が語られており、「夜明け前」や「蒲団」などを読むうえで参考になるし(「蒲団」などは、小説としてあまり面白いとは思わないが、文学史的な流れの中で読めばまた鑑賞方法が違ってくるのかも)、それに反発するかたちで台頭した耽美派・白樺派なども、著者の説によれば同時代思想の二面性として捉えることができて興味深いです。

 後段では、森鴎外、夏目漱石という「巨星」の果たした役割やその意味とともに、多くの気鋭作家を輩出した大正期の文学潮流の特質を解き明かしています。

 著者は私小説や風俗小説を痛烈に批判したことでも知られていますが、本書は特定の傾向を批判するものではなく、それでいて自然主義運動がわが国独特の「私小説」の伝統を決定づけたことを、冷静に分析しているように思えました。

 「わが国の近代小説は、すべてそれぞれの時代の反映に過ぎなかったので、それが完璧な反映であった場合にも、よりよい人生を示唆する力は乏しかったのです」という著者の結語は、現代文学にもあてはまるのではないでしょうか。

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面白い指摘もあったが、そんなに売れるほどの内容かなと...。

日本語練習帳.jpg 日本語練習帳.gif 『日本語練習帳』岩波新書 〔'99年〕 大野晋.jpg 大野 晋 氏(学習院大学名誉教授/略歴下記)

 それまで岩波新書で一番売れた『大往生』(永六輔/'94年)の記録230万部に迫る、180万部を売り上げたベストセラー。「練習帳」というスタイルは編集者のアイデアではなく、著者自身が以前から考えていたもので、編集者を実験台(生徒)にして問題の練り込みをしたそうです。

日本人の英語.jpg 面白いが指摘がありました。助詞「は」は、主語+「は」の部分で問題提示し、文末にその「答え」が来る構造になって、一方、「が」は、直前の名詞と次にくる名詞とをくっつけて、ひとかたまりの名詞相当句を作る「接着剤」のような役割があるというものです。そして、「は」はすでに話題になっているものを、「が」は単に現象をあらわすというのです。
 この指摘を読み、『日本人の英語』(マーク・ピーターセン著/'88年/岩波新書)の中にあった、「名詞」にaをつけるという表現は無意味であり、先行して意味的カテゴリーを決めるのは名詞ではなく、aの有無であるという指摘を連想しました。
バカの壁.jpg つまり「は」は、aという冠詞と同じ働きをし、「が」はtheという定冠詞と同じ働きをするのだと。
 そうすると、後に出た『バカの壁』(養老孟司著/'03年/新潮新書)でまったく同じ指摘がされていました。

声に出して読みたい日本語.jpg このように部分的には面白い点がいくつかありましたが、果たしてベストセラーになるほどの内容かという疑問も感じました。
 "ボケ防止"で売れるのではという声もあり、なるほど『声に出して読みたい日本語』(齋藤孝/2001)などで本格化する日本語ブームのハシリかなとも思えなくもないが、『声に出して読みたい日本語』の方こそ"ボケ防止"っぽい気もする。
 むしろ著者の、日本語の敬語や丁寧語が、社会の上下関係からではなく、身内と外部の関係でつくられてきたといった指摘が日本文化論になっていて、そうした点が「日本人論」好きの国民性にマッチしたのでは。
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大野 晋 (オオノ・ススム)
1919(大正8)年、東京深川生れ。東京大学文学部国文学科卒。学習院大学名誉教授。「日本とは何か」という問題意識から古代日本語の研究を始め、上代特殊仮名遣・万葉集・古事記・日本書紀などを研究し「日本語はどこから来たか」を追究。著書に『岩波古語辞典』(共編)『日本語の起源 新版』『係り結びの研究』『日本語練習帳』『日本語と私』など。研究の到達点は『日本語の形成』に詳述されている。

《読書MEMO》
●「私が読んだこの本は、多くの批判もあるが面白かった」...「は」は文末にかかり、「が」は直下にかかって名詞と名詞を"接着"する
●「花は咲いていた」と「花が咲いていた」...「は」すでに話題になっているもの(the)、「が」は単に現象をあらわす(気がついてみたら...)(a)
●「日本語を英語にしろ」と言った志賀直哉は、小説の神様でなく、写実の職人

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父親が自分のことを「パパ」というのは日本だけ。

ことばと文化4.JPGことばと文化.jpg   ことばと文化(英).jpg     鈴木孝夫.jpg
ことばと文化』岩波新書〔'73年〕 『英文版 ことばと文化 - Words in Context --A Japanese Perspective on Language and Culture』英訳新装版   鈴木 孝夫 氏(慶応義塾大学名誉教授/略歴下記)

 言語学の入門書として知られる本ですが、一般読者が気軽に読めるよう平易に、かつ面白く書かれています。

 前半部分で、言葉が「もの」に貼られるレッテルのようなものではなく、逆に言葉が「もの」をあらしめているという考え方を示していますが、そのことを、英語と日本語で「同じ意味」とされている言葉がいかに不対応であるかを引例するなどして説明しています(英語のlipは、赤いところだけでなく、口の周囲のかなりの部分をも指す言葉だというような話を聞いたことがあれば、そのネタ元は本書だったかも知れません)。

ことばと文化 岩波新書.jpg 言葉の意義や定義が、文化的背景によっていかに違ってくるかという観点から、中盤は「動物虐待」にたいする日英の違いなど比較文化論的な、ややエッセイ風の話になっていますが、本書の持ち味は、終盤の、対人関係・家族関係における「人称代名詞」の日本語独特の用法の指摘と、そこからの文化心理学的考察にあるかと思います。

 例えば、家族の最年少者を規準点にとり、この最年少者から見て何であるかを表す傾向(父親が自分のことを「パパ」という)というのは、指摘されればナルホドという感じで、こうした日本語の「役割確認」機能の背後にあるものを考察しています。

 前半部分に書かれていることは、ウンチクとして楽しいものも多く、英語学習者などは折々に思い出すこともあるかと思いますが、終盤の方の指摘は、普段は日常に埋没していて意識することがないだけに、時間が経つと書かれていたことを忘れていましたが、久しぶりに読み直してみて、むしろ後半に鋭いものがあったなあと再認識しました。
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鈴木 孝夫 (スズキ タカオ)
大正15年生まれ。慶應義塾大学名誉教授。
慶大医学部より文学部英文科を経て、言語文化研究所教授。その間マギル大学イスラーム研究所員、イリノイ大・イェール大客員教授、ケンブリッジ大エマヌエル・ダウニング両校客員フェローなど歴任。国内では約20大学の訪問教授を務めた。
専門は文化人類学、生物学的観点からの言語社会学。近年は自然保護、環境問題に関する著作が多い。

《読書MEMO》
●英語には日本語の「湯」に当ることばがない(waterを状況次第で「水」のことにも「湯」のことにも使う)(36p)
●米俗語「元気を出す、へこたれない」keep one's chin up → 日本語では「アゴを出せば、弱ったことの意味になってしまう(57p)
●現代日本語では(中略)一人称、二人称の代名詞は、実際には余り用いられず、むしろできるだけこれを避けて、何か別のことばで会話を進めていこうとする傾向が明瞭である(133p)
●印欧系言語 → 一人称代名詞にことばとしての同一性あり/日本語 → 有史来、一人称、二人称の代名詞がめまぐるしく交代(場所や方向を指す指示代名詞の転用など、暗示的・迂回的用法)(139-141p)
●(日本語は)他人を親族名称で呼ぶ習慣が特に発達している(158p)→ 他人である幼児に対し、「おじいさん」「おばあさん」/子供向け番組の「歌のおばさん」「体操のおにいさん」
●(日本人は)年下の他人に親族名称を虚構的に使う(159p)→「さあ泣かないで。おねえちゃんの名前なあに」
●外国人には奇異に映る使用法 → 母親が自分の子を「おにいちゃん」と言ったり、父親が、自分の父のことを「おじいさん」と呼ぶ(161p)→ 子供と心理的に同調し、子供の立場に自分の立場を同一化(168p)
●父親が自分のことを「パパ」というのは「役割確認」→ 日本人が、日常の会話の中でいかに上下の役割を重視しているかが理解できる(187p)
●日本人の日本語による自己規定は、相対的で対象依存的(197p)→ 赤の他人と気安くことばを交わすことを好まない
●日本の文化、日本人の心情の、自己を対象に没入させ、自他の区別の超克をはかる傾向 → 日本語の構造の中に、これを裏付けする要素があるといえる

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50年史に10年分足したものが60年史になるのではないのだと認識させられる。

中村 政則 『戦後史』.jpg戦後史.jpg  『戦後史 (岩波新書 新赤版 (955))』  〔'05年〕

 戦後60年の日本の歴史が、政治・外交・経済から、思想・社会・文化・風俗に至るまでの幅広い視点でコンパクトに書かれて、「戦後」を俯瞰するのに"手頃な"著作となっています。また、終戦時10歳だったという著者の時代ごとの個人的記憶も盛り込まれていて、著者の年齢だからこそ語れるリアリティがありました。

 戦後50年に「戦後」とは何かがいろいろ論じられたのに、敢えてここで戦後60年史を書くことについて著者は、この10年間の地殻変動のような国際的環境の変化を挙げていますが、それはイタリアの歴史家の「すべての歴史は現代史である」という言葉とも符合します。

 つまり、50年史に10年分足したものが60年史になるのではなく、新たな事態や事実に直面した場合に、今までの歴史認識の再検証を迫られることがままあるということでしょう。それらは本文通史の中で度あるごとに具体例として示されています。

 そして著者は、日本においては「終った戦争」と「終らない戦争」の二重構造があり、戦後民主主義(国際ジャーナリストの松本重治は「負け取った民主主義」と呼んだ)を否定的に捉える論調が強まるなかで、"戦後"をどういうかたちで終らせるか、我々は岐路に立っているとしていて、この指摘は"重い"と思いました。

 個人的には、司馬遼太郎の愛読者でありながら"司馬史観"というものを批判しているという著者に関心があって本書を手にしましたが、本文中に示された多くの参考文献(比較的新しいものが中心)は、著者の旺盛な研究意欲とバランス感覚を表すとともに、それらの巻末索引が読者への親切な手引きともなっています。

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「靖国」に纏わる戦後史を時系列で追いつつ、国家が死者を追悼することの意味を問う。

靖国の戦後史76.JPG  靖国の戦後史.jpg靖国の戦後史 (岩波新書 新赤版 (788))』〔'02年〕

Yasukuni Shrine.jpg '05年に入り、『靖国問題』(高橋哲哉/ちくま新書)、『靖国神社』(赤澤史朗/岩波書店)、『国家戦略からみた靖国問題』(岡崎久彦/PHP新書)、『首相が靖国参拝してどこが悪い!!』(新田均/PHP研究所)、『靖国問題の原点』(三土修平/日本評論社)など「靖国」関連本の刊行が相次ぎ、'06年に入っても『戦争を知らない人のための靖国問題』(上坂冬子/文春新書)などの、この問題の関連本の出版は続きました。
 これら書籍は過去のものも含め、その多くが首相の靖国参拝などについて賛成派と反対派に明確に分かれ、本書もその例外ではありません。

 ただし本書の特徴として、「靖国」に纏わる戦後史を時系列で追っていて、基本的な知識を得るうえで参考になります。そうした歴史を通して、著者は、国家が死者を追悼することの意味を批判的視点から問うているのですが、こうして見ると、「靖国問題」の不思議な歴史的側面も見えてきました。

 戦後、GHQの国家神道廃止方針により靖国神社は一宗教法人となりますが、'52年の安保条約発効前後に、民間宗教法人となって初の首相参拝(吉田茂)や天皇の参拝が行われている。また、'58年の前後数年にほとんどの軍属戦没者が合祀されている(その膨大な情報を神社側はどうやって入手したのかというのも本書が指摘する問題点の1つ)。'78年のA級戦犯合祀は秘密裏に行われましたが、翌年に判明。しかしその時々においては、何れも今日ほど大きな議論にはなっていない。う〜ん。仮に外圧(中国・韓国からの批判)がなければ、「靖国問題」がここまでクローズアップされたかどうか。

 「靖国問題」が注目されるようになったのは、'85年の中曽根首相の10回目の参拝で(所謂「公式参拝」とした問題、この時も中国・韓国からの批判が問題化の契機になった)、以来11年間首相参拝は途絶えましたが、'96年に橋本首相が1度だけ参拝し、問題が再燃。首相参拝は以後、小泉首相までありませんでした。結局のところ、首相参拝を合法であるとする根拠説明が出来ないということでしょうが(靖国神社を特別宗教法人にしようという動きなどもそこから派生しているのだろう)、にも関わらず小泉首相は'01年から6年連続して「靖国参拝」を敢行したわけです。
 う〜ん。「公的とか私的とか私はこだわりません。総理大臣である小泉純一郎が心をこめて参拝した」という話では、中国・韓国が納得しないでしょうね。

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米軍同行取材に対する批判もあるが、多くのカラー写真が訴えるものはやはり重い。

カラー版  ベトナム 戦争と平和.gifカラー版 ベトナム 戦争と平和.jpg  『ベトナム戦争と平和―カラー版』 岩波新書 〔05年〕

 ベトナム戦争で新聞社所属のカメラマンとして活動した著者に対して、たとえ著者が心情的に解放戦線寄りだったとしても、米軍に同行し、目の前でその米軍に虫けらのように殺されるベトナムの兵士や民間人を撮影していることに対する批判的な見方はあるかも知れませんが、イラク戦争にしてもそうですが、こうした取材スタイルになるのはある程度やむを得ないのではないでしょうか(本書には"北側"からの取材も一部ありますが)。
 
 故沢田教一のように、被写体となった家族を自ら救い、さらにその写真がピュリツァー賞を受賞すると、戦時中に関わらずその家族を訪問し、賞金の一部を渡したというスゴイ人もいましたが、本書は本書なりに、多くのカラー写真が訴えるものは重いと思いました。

 どうも個人的には、1973年の和平協定で米軍が撤退した時の印象が強いのですが、本書はサイゴン陥落はその2年後だったことを思い出させました。戦争終結直前に死亡した政府軍兵士の墓も哀しい。政府や軍の幹部がとっくに海外に逃亡した頃に亡くなっているのです。その後もカンボジア、中国との武力紛争を繰り返し、国力が衰退を極めたにも関わらず、よくこの国は立ち直ったなあという感想を持ちました。ドイモイ政策もありますが、戦時においても爆弾の跡を灌漑用の溜池として利用するような、国民のバイタリティによるところが大きいのではないでしょうか。

 現在のべトナムの姿もあり、経済振興と人々の明るい表情の一方で、枯葉剤の影響を受けて生まれてきた子どもの写真などが、戦争の後遺症の大きさを感じさせます。今やハノイなどは観光ブームですが、ここを訪れるアメリカの観光客は、ただ異国情緒だけ満喫して帰って行くのでしょうか。ベトナムという国の観光収入だけ考えれば、それでいいのだろうけれど...。

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