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ヒットメーカーによる自伝的歌謡曲史。楽しく、懐かしく読めた1冊。

愛すべき名歌たち.jpg 阿久悠1.jpg 
愛すべき名歌たち (岩波新書)』阿久 悠 作詞の初ヒット曲「白い蝶のサンバ」(1970、森山加代子)

 『愛すべき名歌たち』('99年/岩波新書)は、作詞家・阿久悠(あく・ゆう)(1937-2007/享年70)が、1997年4月から1999年4月にかけて「朝日新聞」夕刊芸能面に通算100回連載したコラムの新書化で、『書き下ろし歌謡曲』('97年/岩波新書)に続く著者2冊目の岩波新書です。

 サブタイトルに「私的昭和歌曲史」とあるように、高峰三枝子の「湖畔の宿」から始まって美空ひばりの「川の流れのように」まで全100曲を選び、自分史に重ねる形で、それぞれぞれの時代に流行った歌謡曲やそれに纏わる思い出が書き綴られており、半ば自伝とも言える体裁。当然のことながら、後半はヒットメーカーとして知られた著者自身が作詞家として関わった曲が多く取り上げられています(Wikipediaで取り上げている曲の一覧を見ることが出来る)。

 それらの時代区分としては、以下の通りとなっています。
  Ⅰ 〈戦後〉という時代の手ざわり(1940~1954)(幼年時代;高校まで)
  Ⅱ 都会の響きと匂い(1955~1964)(大学時代;広告の世界で)
  Ⅲ 時代の変化を感じながら(1964~1971)(放送作家時代;遅れてきた作詞家)
  Ⅳ 競いあうソングたち(1971~1975)(フリー作家の時代;新感覚をめざして)
  Ⅴ 時代に贈る歌(1976~1989)(歌の黄金時代)

 非常に読み易く、文章をよく練っている印象。個人的には第Ⅰ章の自伝色が強い部分と、やはり第Ⅱ章の最初の広告業界に入った頃の話が特に興味深く読めました。

 著者が就職活動をしたのは1958(昭和33)年で不況の折でしたが、当時はテレビ番組の「月光仮面」が驚異的な視聴率でブームを巻き起こしていて、その仕掛け人である広告会社が就職先の選択肢となり得たとのこと。但し、本書には書かれていませんが、この番組は当初スポンサーが付かず、広告会社(宣弘社)が自らプロダクションを興して制作にあたった番組でした(著者は結局、この会社=宣弘社にコピーライターとして7年間務めることになる)。

森山加代子 .jpg白い蝶のサンバ.jpg 作詞家に転じてからの著者は、最初の作品「朝まで待てない」を出して以来、3年間結果が残せていなかったとのことで、初の本格ヒットがが生まれたのは、本書の第Ⅲ章も終わり近い1970(昭和45)年の「白い蝶のサンバ」であたっとのこと(森山加代子はこの曲でこの年のNHK紅白歌合戦に8年ぶり4度目の出場)。個人的にもちょうど歌番組など観るようになった頃で、懐かしい曲でありました(早口言葉みたな感じの歌として流行ったけれど、著者が言うように、今みるとそんなに早口というわけでもない)。

 本書は、作詞家・阿久悠の「自分史」を軸とした歌謡曲史でしたが、一方、同じく岩波新書の高譲(こう・まもる)『歌謡曲―時代を彩った歌たち』('11年/岩波新書)の方は、客観的な「ディスコグラフィ(Discography)」としての歌謡曲史でした。この中で、目次をの'節'のタイトルに「阿久悠の時代」というのがあり、目次で個人名が出てくるは著者だけでした。こうしたことからも、やはり、歌謡曲史に大きな足跡を残した人物と言えるのでしょう。楽しく、また懐かしく読めた1冊でした。
阿久 悠 Collection

歌謡曲 岩波新書.jpg 『歌謡曲―時代を彩った歌たち』の方は、版元の紹介文によれば―、
 「ディスコグラフィ(Discography)」という言葉があります.日本では「アーティストの作品目録」として理解されることの多い言葉ですが、本来の意味からするとむしろ、その楽曲は、だれが、どのように作り出したのか、どう歌われているのかを客観的に考察する、学術的な分野を指します。著者の高護さんは、知る人ぞ知る、歌謡曲では唯一無二のディスコグラファーです。その該博な知識と確かな分析で、歌謡曲の魅力をあますところなく解説します
 ―とのことです。
歌謡曲――時代を彩った歌たち (岩波新書)

 歌謡曲とは何かということについてはいろいろ議論はあるかと思われますが、この本ではそうした"概論"乃至"総論"的な話はせず、いきなり歌謡曲史に入っており、各1章ずつ割いている60年代、70年代、80年代が本書の中核を成しています。ものすごく網羅的ですが、一方で、一世を風靡した、或いは時代を画した歌手や歌曲には複数ページを割いて解説するど、メリハリが効いています。読んでいくと、グループサウンズ、例えば「タイガース」などは、専らソロ歌手としての沢田研二に絞って取り上げていたりし、ジャニーズ系も「たのきんトリオ」以降グループとしては全然触れられておらず、後の方に出てくる「おニャン子クラブ」などもソロになった新田恵利だけが取り上げられています。この続きが書かれるとしたら、「AKB48」などは入ってこないのかなあ。「ザ・ピーナッツ」(伊藤エミ(1941-2012)、伊藤ユミ(1941-2016))とかは当然取り上げているわけで、和製ポップスは取り上げ、J-ポップは取り上げないというわけでもないでしょうが(J-ポップが登場したのが'88年頃なので、殆ど本書の対象期間とずれていて何とも言えない)。ニューミュージックも取り上げていますが、そもそもどこからどこまでがニューミュージックなのか分かりませんけれど(森進一が歌いレコード大賞曲となった「襟裳岬」は吉田拓郎の曲だった)。あまり考えすぎると楽しめないのかもしれず、本書が歌謡曲とは何かという議論を避けているのは、ある意味賢い選択であったかも。
ザ・ピーナッツ(活動期間:1959-1975)「恋のバカンス」(1975年 さようならピーナッツ)

 歌手に限らず、作詞家、作曲家、編曲家まで取り上げており、確かに阿久悠の存在は大きいけれど、その前にも 岩谷時子(作詞)・いずみたく(作曲)といった強力なコンビがいて「夜明けのうた」('64年/歌:岸洋子)、「太陽のあいつ」('67年/歌:ジャニーズ)、「恋の季節」('68年/歌:ピンキーとキラーズ)等々、数多くのヒットを生んでいるし(2人とも歌謡曲が"本業"でも"専業"でもなかったという点が興味深い)、五木ひろしの芸名の名付親だった「よこはま・たそがれ」('71年)の山口山口洋子.jpg洋子(1937-2014)なども平尾昌晃と最強タッグを組んでいたし(山口洋子は同じ作詞家で直木賞受賞作家でもあるなかにし礼よりも15年前に直木賞を受賞している)、作曲家では「ブルー・ライト・ヨコハマ」('69年/歌:いしだあゆみ)以来、この本の終わり、つまり80年代終わりまでこの世界のトップに君臨し続け、70年代、80年代を席巻した筒美京平なんてスゴイ人もいました(因みに、阿久悠作詞、筒美京平作曲で最初で最大のヒット曲は日本レコード大賞の大賞受賞曲「また逢う日まで」('71年/歌:尾崎紀世彦(1943-2012))。これもまた、懐かしい思いで読めた1冊でした。

《読書MEMO》
●『歌謡曲―時代を彩った歌たち』章立て
序 章
戦前・戦後の歌謡曲
第1章 和製ポップスへの道―1960年代  
1960年代概説
1 新たなシーンの幕開け
2 カヴァーからのはじまり
3 青春という新機軸
4 ビート革命とアレンジ革命
5 新しい演歌の夜明け 
第2章 歌謡曲黄金時代―1970年代  
1970年代概説
1 歌謡曲の王道
2 アイドル・ポップスの誕生
3 豊饒なる演歌の世界
4 阿久悠の時代 
第3章 変貌進化する歌謡曲―1980年代  
1980年代概説
1 シティ・ポップスの確立
2 演歌~AOR歌謡の潮流
3 アイドルの時代 
終 章 90年代の萌芽―ダンス・ビート歌謡

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自動車の社会的費用の内部化の道を探り、あるべき都市交通の姿を示唆。なかなか色褪せない本。

自動車の社会的費用 (1974年) (岩波新書)_.jpg 自動車の社会的費用 (岩波新書)_.jpg   宇沢弘文.jpg    宇沢弘文のメッセージ.jpg
自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47)』宇沢 弘文(1928-2014)『宇沢弘文のメッセージ (集英社新書)

 1974(昭和49)年・第28回「毎日出版文化賞」(人文・社会部門)受賞作。

 昨年['14年]9月に亡くなった宇沢弘文(1928-2-2014/享年86)の一般向け著書で、先に取り上げた宇野弘蔵(1897-1977/享年79)とは一世代ずれますが、この人も宇野弘蔵と同様、生前はノーベル経済学賞の有力候補として度々名前が挙げられていた人です。

 本書は、混雑や事故、環境汚染など自動車がもたらす外部不経済を、社会的費用として内部化する方法を試みたものです。社会的費用とは、受益者負担の原則が貫かれていないために社会全体が被っている損失のことですが、そのコストを明確にし自動車利用者に負担させようというのが外部費用の内部化であり、本書では、自動車の社会的費用を具体的に算出し、その内部化の道を探ることを通して、あるべき都市交通の姿をも示唆しています(そうした意味では社会学的要素も含んでいる)。

 著者は、自動車のもたらす社会的費用は、具体的には交通事故、犯罪、公害、環境破壊などの形で現われるが、何れも健康や安全歩行などという市民の基本的権利を侵害し、しかも人々に「不可逆的な損失」を与えるものが多いとし、一方、このように大きな社会的費用の発生に対して、自動車の便益を享受する人々はごく僅かしかその費用を負担しておらず、逆に言えば、自動車の普及は、自動車利用者がこのような社会的費用を負担しないでも済んだからこそはじめて可能になったとも言えるとしています。

 ここで著者が問題にするのは、「不可逆的な損失」という概念であり、損失が可逆的であるならば、元に戻すのに必要な費用を計算すれば社会的費用を見積もることが出来るが、その損失が不可逆的である場合、一体どれだけの費用が妥当とされるのかということです。交通事故による死傷の被害額を算出する方法にホフマン方式があますが、人間を労働を提供して報酬を得る生産要素とみなして、交通事故によってどれだけその資本としての価値が減少したかを算定するというのは、被害者側の立場に立てば、これほどヒトとして許せない算出方法もないだろうともしています(仮に純粋にこの方式に拠るとすれば、所得を得る能力を現在も将来も持たないと推定される人が交通事故に遭って死亡した場合、その被害額はゼロと評価されることになる)。

 よって著者は、自動車の社会的費用を算出する際に、交通事故に伴う損失をホフマン方式のような方法を用いるのは適切ではないとし、同様のことは,環境破壊についても言えるとしています。具体的には、公共投資などにおいて社会的便益と社会的費用の差を指標とするコスト・ベネフィット分析について、たとえどのように大きな社会的費用を発生したとしても、社会的便益がそれを大きく上回れば望ましい公共投資として採択されることになってしまい、結果として、実質的所得配分はさらにいっそう不平等化するという結果をもたらすとしています。

 なぜ「実質的所得配分はさらにいっそう不平等化する」のかと言うと、低所得者層ほど環境破壊などの影響を深刻に受けるからであり、例えば、公害が発生した場合、高所得者層はその土地から離れることができても低所得者層にそのような選択をする余裕はなく、また、ホフマン方式が示ように低所得者が被る損害は少額にしかなり得ず、更には、人命・健康、自然環境の破壊は不可逆的な現象であって、ここで考えられているような社会的費用の概念をもってしては元々計測することができないものであるとしていています。

 しかしながら、これまで不適切な社会的費用の計算方法がまかり通ってきたのは、社会的費用の計算根拠を新古典派経済理論に求めてきたことに原因があるとしています。新古典派経済理論の問題点は、1つは、生産手段の私有制が基本的な前提条件となっていて、共有される社会的資本に対する思慮が欠落しているという問題と、もう1つは、人間を単に労働を提供する生産要素として捉えるという面が強調され、社会的・文化的・歴史的な存在であるという面が捨象されていることだとし、新古典派経済理論は、都市問題や環境問題など現代社会においてもっとも深刻な社会的・経済的問題を引き起こしている現象を解明するための理論的フレームワークを提供していないとしています。

 では、どうすればよいのか。自動車について著者は、自動車を所有し運転する人々は、他の人々の市民的権利を侵害しないような構造をもつ道路について運転を許されるべきであって、そのような構造に道路を変えるための費用と自動車の公害防止装置のための費用とを負担することが、社会的な公正性と安定性という観点から要請されてくるとしています。つまりは、自動車の通行を市民的権利を侵害しないように行うとすれば、道路の建設・維持にどれだけの追加的な費用を必要とし、自動車の無公害化のためにどれだけの投資をしなければならないかということを計算するべきであり、市民的権利を金銭換算して評価関数に組み込むのではなく、市民的権利を守ることを制約条件とするとの考えに基づいて、自動車の社会的費用を算出する必要があるとのことです。

 そのうえで著者が試算した自動車の社会的費用(投資基準)は1台あたり200万円で、当時の運輸省の試算額7万円と大きく異なっており、これこそまさに著者の言う、社会的費用の発生に対して、自動車の便益を享受する人々はごく僅かしかその費用を負担していないという実態であり、その数字の差は、人の死や環境破壊など不可逆的な市民的権利の侵害を認めるか認めないかの違いであるということになります。

 著者はこうした投資基準は自動車通行のための道路だけでなく、一般に社会的共通資本の建設にも適用することが出来るとし、このような基準に基づき公共投資を広範な用途に、例えば代替的な公共交通機関や道路に配分するとき、社会的な観点から望ましい配分をもたらすものとなり、この基準を適用することで、どのような地域に住む人々も、またどのような所得階層に属する人々も、社会的な合意をえて決定された市民の基本的権利を侵害されることがなく、他人の基本的権利を侵害するような行動は社会的に許されないという原則が貫かれ、すべての経済活動に対してその社会的費用は内部化され、福祉経済社会への転換が可能となり、ヒトにとって住みやすい、安定的な社会を実現することが出来るとしています。

 今でこそ、外部費用の内部化と言う論点は自動車のみならず環境問題などでもよく見られる議論であり、特に東日本大震災以降、「原発」の社会的費用の議論が活発化したように思われ、「大佛次郎論壇賞」を受賞した大島堅一氏の『原発のコスト―エネルギー転換への視点』('11年/岩波新書)などもその1つでしょう(この本によれば、原発の事故リスクコストやバックエンドコストは計り知れないほどの金額となるという)。しかしながら、本書が早くからこうした観点を提起していたのは評価すべきだと思います(しかも、分かり易く)。

2015東京モーターショーX.jpg 但し、自動車の問題に立ち返っても、著者が提起した問題はなんら解消されたわけではなく、実はこれ書いている今日から東京モーターショーが始まるのですが、自動車メーカーの開発課題が、スピードやスタイリングからエコへ、更に自動&安全運転へ向かっているのは当然の流れかも。
 一方で、先だってフォルクスワーゲン(VW)の排出ガス不正問題が発覚したとの報道があったり、また、つい先日は宮崎市で、認知症と思われる高齢者による自動車死亡事故があったばかりなのですが(歩道を暴走した軽乗用車にはねられ2人が死亡、4人が重軽傷。最近、この種の事故が急に多くなった)。

 それらの意味でも本書は、(幸か不幸か)なかなか色褪せることのない本と言えるかもしれません。

 尚、宇沢弘文の"人と思想"については、没後ほぼ1年となる今年['15年]9月、大塚信一・岩波書店元社長による『宇沢弘文のメッセージ』(集英社新書)が刊行されています。『自動車の社会的費用』は宇沢弘文の初めての単著であるとともに、大塚氏にとっても最初に編集した宇沢弘文の著作であったとのことで、『自動車の社会的費用』が書かれた際の経緯などが紹介されていて興味深いですが、宇沢の方から初対面の挨拶が終わるや否や大塚氏に「ぼくに『自動車の社会的費用』というタイトルで新書を書かせてくれませんか」と言ってきたとのことです。

宇沢弘文のメッセージ obi.png 『宇沢弘文のメッセージ』では、宇沢が数学から経済学に転じアメリカで活躍するようになった頃から『自動車の社会的費用』を著すまで、更に、近代経済学を再検討して日本という《「豊かな国」の貧しさ》を課題視し、「成田」問題(三里塚闘争)、地球温暖化問題、教育問題へとそのフィールドを移していく過程を通して、彼の社会的共通資本という思想を解説していますが、宇沢の人柄を伝えるエピソードが数多く含まれていて「人」という部分では興味深い一方、著者の専門外ということもあって「思想」という部分ではやや弱いかも。但し、著者はまえがきで、「宇沢の場合、その人柄と学問は一体化したもので、両者は切り離すことはできない」としており、その点は読んでいてなるほどと思わせるものがあり、また、宇沢弘文の偉大さを伝えるものにもなっているように思いました。

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マルクスの愛の生涯、その情熱と幸福、悲惨と絶望を手紙や回想録から浮彫りに。

人間マルクス.JPG  マルクス&ジェニー.jpg KarlMarx_Tomb.jpg  マルクス・エンゲルス小伝.jpg フリードリヒ・エンゲルス.jpg
マルクス&ジェニー/マルクスの墓(ロンドン/ハイゲイト墓地) 『マルクス・エンゲルス小伝 (岩波新書 青版 543)』/フリードリヒ・エンゲルス
人間マルクス その愛の生涯 (岩波新書)

 本書は、カール・マルクス(1818-1883/享年64)の生涯をフランスのジャーナリストが追ったものです。サブタイトルに「その愛の生涯」とあり、また、本書の原題も"La vie amoureuse de Karl Marx"イェニー・マルクス.jpgであるように、カール・マルクスの愛情生活を徹底的に追ったものとなっており、マルクスが4歳年上の妻ジェニー(イェニー)をいかに愛し続けたか、その情熱と幸福、悲惨と絶望を、夫人や娘たちとの手紙や友人・知己の多くの回想録等をもとに炙り出しています。また、そうすることによって、マルクスの人間性そのものを浮き彫りにし、それが彼の膨大な仕事にどのように反映されたか推し量る貴重な資料にもなっています。
ジェニー(イェニー)・マルクス

 マルクスは、ベルリン大学卒業後、ケルンの「ライン新聞」の編集長になって政治・経済問題の論文に健筆を奮いますが、急進的な論調のためプロイセン政府の検閲に遭って新聞は発禁処分になり、それが原因で1849年にパリに追放され、ブリュッセルでの生活を経てロンドンに居住し、後半生をその地で過ごすことになります。このことは、生涯のかなりの部分を亡命者として過ごしたことなるとともに、本書を読むと、常に貧困と隣り合わせだったことが窺えます。ロンドンでの彼の運動と著作は、その後の世界の社会主義運動に大きな影響を与えることになりますが、生きていた間は、その名前すら一般の人には殆ど知られていなかったようです。

Marx+Family_and_Engels.jpg ジェシーとの間に生まれた2男4女のうち、成人を迎えることができたのは長女ジェニー(妻と同じ名)・次女ラウラ・四女エリナの3人だけで、あとは病気などで亡くなっており、家計が苦しく医者に診せる費用さえ十分に捻出し得なかったことも子ども達の早逝の一因として考えられるというのはかなり悲惨です(このほか更に、出生死の子が1人いた)。また、そうした苦境を乗り越えてきたからこそ、それだけ二人の愛は強まったとも言えるかと思います。

マルクスと妻ジェニー、次女ラウラ、四女エリナ、エンゲルス。

 一方で、マルクス家に献身的に仕え、マルクス夫婦と同じ墓地に埋葬されているマルクス家の女中ヘレーネ・デムート(マルクスの家のやり繰りが苦しい時は無償で働いた)が生んだ私生児フレディの父親が、実はマルクスであったということも、本書には既にはっきり記されています(本書の原著刊行は1970年。1989年に発見されたヘレーネ・デムートの友人のエンゲルス家の女中の手紙から、ヘレーネの息子の父親がマルクスであることが確実視されるようになった)。

イェニー・マルクス.png マルクスの妻ジェニー(イェニー)は夫の不義に悩みながらもそれを許したようですが、封印されたこの一家の秘密は、その後家族に多くの抑圧を残します(この辺りは、フランソワーズ・ジルー著『イェニー・マルクス―「悪魔」を愛した女』('95年/新評論)に詳しい)。そして妻ジェニーは1881年の年末に亡くなり、悲しみに暮れるマルクスに、更にその1年後に長女ジェニーが亡くなるという悲劇が襲い、その2か月後にはマルクスも息を引き取ります。月並みな解釈ですが、やはり、マルクスにとって、妻と娘たちが生きるエネルギーの源泉だったということでしょうか(因みに、マルクス逝去の時点で存命していた2人の娘のうち、マルクスと「告白」遊びをしたりした次女ラウラは1911年に夫と共に自殺、四女エリナは1898年に恋人と無理心中して自分だけ亡くなっているが、これについては偽装殺人の疑いがもたれている)。
イェニー・マルクス―「悪魔」を愛した女

 本書によれば、マルクスは、ロンドン時代も夜となく昼となく読み、且つ書いて、膨大な著作を生み出したものの、それらは殆ど金にならず彼は絶望したとのこと、現実にそれは何年も家庭に「貧困」が腰を据えるという形で妻や子度たちの苦しめたため、彼はイギリスの鉄道会社に書記として就職しようとしたとのこと、但し、非常な悪筆のため採用を断られたとのことです(何度も彼の原稿の清書をした妻ジェニーは、マルクスの字をハエの足跡のようと言っている)。これは1862年頃の話ということで、『資本論』の第1巻が世に出るのはその5年後ですから、もし生活のために鉄道会社に勤めていたら(もしマルクスが達筆だったなら)『資本論』の方はどうなっていたでしょうか。

大内兵衛.jpg この他に、マルクスの生涯をその「仕事」よりに辿ったものに、大内兵衛(1888-1980)による『マルクス・エンゲルス小伝』('64年/岩波新書)があり、『ドイツ・イデオロギー』『哲学の貧困』『共産党宣言』『経済学批判』そして『資本論』といった著作がどのような経緯で成立したのかが、マルクスの思想形成の流れやその折々の時代背景と併せて解説されています。多少エッセイ風と言うか、著者は、「これは勉強して書いた本ではない。一老人の茶話である」とはしがきで述べていますが、「茶話」としてこれだけ書いてしまうのはやはり大家の成せる技でしょうか。

 前半3分の2がマルクス伝であるのに対し、後半3分の1はフリードリヒ・エンゲルス(1820-1895/享年74)の小伝となっています。個人的に印象に残ったのはマルクスの死後まもなくエンゲルスが旧友に送った手紙で、その中でエンゲルスは、「僕は一生の間いつも第二ヴァイオリンばかり弾いていた。これならば相手上手といったところまでやれたように思う。が、何といっても、マルクスエンゲルス.jpgという第一ヴァイオリンが上手であったのですっかり有頂天になっていた。これからはこの学説を代表して僕が第一ヴァイオリンを弾かねばならぬのだ。よほど用心をしないと世間の物笑いになるかもしれない」と書いており、並々ならぬ決意と覚悟が窺えます。『共産党宣言』はマルクスとエンゲルスの共作であるし、エンゲルスはマルクスの『資本論』執筆に際しても多くの示唆を与え続けていたとのこと、そのマルクスが亡くなった時点で『資本論』は第1巻しか刊行されておらず、『資本論』の第2巻と第3巻は、マルクスとエンゲルスの共著とも言え、『資本論』が完結を見たのはエンゲルスの功績が大きいようです。
フリードリヒ・エンゲルス(1820-1895/享年74)

マルクスとエンゲルスの銅像.jpg エンゲルスは実業家でもあり、マルクスのロンドン時代に彼はマンチェスターでエルメン・エンエルス商会の番頭として「金儲け」をし(本人の本当の関心は勉学にあったようだが)、その産物の一部をマルクスに捧げることでマルクスとその家族の生活を支える一方、自らも仕事の傍ら勉強に力を入れたとのこと、また、堂々とした体躯と奥深い知識と智慧で「将軍」などと呼ばれたりもしていたようですが(実際、軍事分野における造詣が深く、この分野の著作もあった)、ユーモアと社交性に富み、非常に魅力的な人物像であったようです。大内兵衛は本書で何度か、マルクス=エンゲルスの関係を「管鮑の交わり」と表現しています。
東ドイツ時代に建てられたマルクスとエンゲルスの銅像(ドイツ・ベルリン)

《読書MEMO》
●「告白」(ラウラからマルクスへの問いとマルクスの回答)(『人間マルクス』より)
最も高く評価する特質 ...... 一般には素朴、男性では力、女性では弱さ
性格の特徴 ...... 一貫した目的を追うこと
幸福とは ...... 闘うこと
不幸とは ...... 服従すること
最も赦しがちな欠点 ...... 軽信
最も嫌悪する欠点 ...... 奴隷根性
毛嫌いするもの ...... マーティン・タッパー ( 当時のイギリスの詩人 )
好きな仕事 ...... 古本屋あさり (あるいは本食い虫になること )
好きな詩人 ...... シェイクスピア、アイスキュロス、ゲーテ
好きな散文作家 ...... ディドロ
好きな英雄 ...... スパルタクス、ケプラー
好きなヒロイン ...... グレートヒェン ( ゲーテ『ファウスト』のヒロイン )
好きな花 ...... 月桂樹(laurel ... Laura=ラウラ)
好きな色 ...... 赤
好きな名 ...... ラウラ=ジェニー
好きな料理(Dish) ...... 魚(Fish)
好きな格言 ...... 人間に関することは何一つ私に無縁ではない(テレンティウス(ローマの劇作家)
好きな標語 ...... すべてを疑え

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この問題に対する著者の真摯な姿勢が感じられる。「労側」の弁護士が書いた本との捉え方は意味をなさない。

過労自殺 第二版.jpg過労自殺 第二版 (岩波新書)』  過労自殺 .jpg過労自殺 (岩波新書)』 

 同著者の1998年刊行の『過労自殺』の16年ぶりの全面改訂版であり、第1章では事例をすべて書き換え、著者が直接裁判などを担当して調査を行った資料を中心に、過労自殺の実態を具体的に示しています。
 それらの事例と、続く第2章の統計から、20代や30代の若者や女性たちの間にも、仕事による過労・ストレスが原因と思われる自殺が拡大していることがわかり、そのことはたいへん危惧すべきことであるように思いました。また、旧版『過労自殺』にもそうした事例はありましたが、パワハラが絡んでいるものが少なからずあるということと、こうした事件がよく名前の知られた大企業またはその系列会社で起きているということも非常に気になりました。

 第2章では、新しい統計・研究を組み込んで、過労自殺の特徴・原因・背景・歴史を考察しています。旧版『過労自殺』によれば、1995~1997年度の過労自殺の労災申請は、それぞれ10件、11件、22件で、それに対し労災認定件数は各0件、1件、2件しかなかったとありました(有名な「電通事件」裁判も、労災申請を認めなかった労基署の判断が退けられたという形をとっている)。
 それが、本書によれば、2007~2012年度の間では毎年度63~93件の自殺労災認定があったとのこと。しかし、これは厚労省労働基準局統計による数字であって、警察庁・内閣府統計では、2007~2012年の間「勤務問題」が原因・動機の自殺が毎年2,500件前後あったとなっており、著者が過労自殺の被災者は実質的には年間2,000人以上になるとしているのは、必ずしも大袈裟とは言えないように思いました。

 第3章では、そうした実態も踏まえ、過労自殺と労災補償の関係を整理し、具体的にQ&A式で説明しています。基本的には労働者や被災者とその家族向けに書かれていますが、企業の人事労務担当者が基礎知識として知っておくべきことも含まれています。

 第4章では、今年成立した過労死等防止対策推進法(略称・過労死防止法)などの情勢の進展を踏まえ、過労自殺をなくすにはどうすればよいかについて、職場に時間的なゆとりを持たせることや、精神的なゆとりを持たせることなど、いくつかの観点から提言を行っています。個人的には、「義理を欠くことの大切さ」を説いているのが興味深かったです(版元のウェブサイトの自著の紹介でも、著者は、女優の小雪さんが語りかける「風邪?のど痛い?明日休めないんでしょ?」というCMを見て、風邪気味でのどが痛くとも、熱っぽい状態であっても、仕事を休まずに出勤することを前提にしていることに違和感を感じたとしている)。

 過労自殺はあってはならないというこの問題に対する著者の真摯な姿勢が感じられるとともに、この問題は企業と働く側の双方で(それと社会とで)解決していかなければならない問題であるとの思いを改めて抱きました(本書では、元トリンプ・インターナショナル・ジャパン社長の吉越浩一郎氏の『「残業ゼロ」の仕事力』(2007年/日本能率協会マネジメントセンター)や株式会社ワークライフバランス社長の小室淑恵氏の『6時に帰る チーム術』(2008年/日本能率協会マネジメントセンター)などの著書からの肯定的な引用もある)。
 ともすると、「労(働者)側」の弁護士が書いた本だと捉えられがちですが、著者は実際には企業のコンプライアンス委員会などにも関与しており、過労自殺を予防するといった観点からは、「労(働者)側」「使(用者)側」という見方はあまり意味を成さないのかもしれません。
 人事労務担当者としては押さえておきたい1冊です。

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厳しい現況を概観するうえではよく纏まっている。企業側にも反省が求められるか。

森岡 孝二 『就職とは何か―〈まともな働き方〉の条件』.JPG就職とは何か 森岡孝二.jpg               森岡孝二氏.jpg 森岡孝二氏
就職とは何か―〈まともな働き方〉の条件 (岩波新書)』 

 学生の就職を巡る本は、ハウツー本が多く(所謂「就活本」)、なぜこうした厳しい就職環境になったのか、就職後にどのような状況が学生を待ち受けているかについて書かれた本は少なく、本書は、その空白を埋める試みであるとのこと。

 著者は『働きすぎ時代』('05年/岩波新書)、『貧困化するホワイトカラー』('09年/ちくま新書)などの著書がある労働経済学者であり、本書は主にこれから就職しようとする学生に向けて書かれたものですが、採用する側からみても、いろいろ考えさせられる面があったように思います。

 第1章「就職氷河期から新氷河期へ」では、大学生の就活スケジュールと内定までのおよその流れを説明するとともに、近年の内定率の悪化と長期的な採用減の実態を示し、大学のキャリア支援や就活ビジネスの動向を含む最近の就職事情を概観しています。
 労働経済学者らしく、本書全体を通して図表を多用し、統計データで議論の裏付けをしていますが、「失業率」と「就職 内定率」の算出方法、並びに、それぞれの実情との乖離などは、採用関係者にとっては既知のことであっても、それ以外の人にとっては、初めて知る事実かもしれません。

 第2章「就活ビジネスとルールなき新卒採用」では、就活ビジネスやインターンシップに言及するとともに、日本独特の定期採用制度の特徴を考察し、就職協定の発足から廃止に至る変遷を追いつつ、就活の早期化・長期化が学生・大学・企業にもたらす弊害と、その見直しの論議を行っています。
 人事部所属であっても採用業務を行ったことのない人や、採用の現場を離れて久しい人には、かつて自分が学生時代に就職活動したり、採用担当をしていたりした際の採用スケジュールと、現在の学生たちのそれが大きく異なっていることを確認するうえで、参考になるかと思います。
 「就職協定」に代わる日本経団連の「倫理憲章」で、3年生の12月から広報活動開始となっていても、これは自粛規定に過ぎず、多くの会員企業が大学3年10月からエントリーシートを受付け、12月から1月にかけて面接選考、3月から4月に「内々定」を出すというスケジュールであるため、4年生の4月までに内定を貰えなければ、5月には殆どの企業が内定通知を終了してしまっているというのが、現在の状況です。(これについては、今月('13年4月)、安倍晋三首相が経済3団体に対し、就職活動の解禁時期の後ろ倒しを要請し、2016年卒の大学生から就職活動の解禁時期が現在より3カ月遅い3年生の3月、面接などの企業の選考活動開始が4カ月遅い4年生の8月に、それぞれ変わる見通しとなった。これはこれで、中小企業にとっては大手の選考が一段落してから本格選考が始まるため、不利な立場に立たされるという問題点もあるとの指摘もある。
 
 第3章「雇われて働くということ」では、学生達を待ち受ける働き方にスポットをあて、学生が企業選択する際の一つの目安となる初任給の"記載"の問題、若者の労働組合意識の低下の問題、派遣労働の問題などを取り上げています。
 「正社員」という雇用身分が、70年代後半のパート社員の増加とともに定着し、同時期に労働組合の企業主義・協調主義路線が定まったという分析は興味深く、ユニオンショップ制が労働組合の組織率低下を緩慢に抑えた一方で(′09年の日本における組織率は18%台なのに対し、米国では組織率は12%台)、若者の労働組合への意識の低下の原因にもなっているとの考察にも頷かされるものがありました。

 第4章「時間に縛られて働くということ」では、正社員の働きすぎに焦点を絞り、最近言われる「社会的基礎力」に疑問を投げかけ、若者に広がる過労死・過労自殺の実態を示して、企業が新入社員にどんな働き方を求めているかを述べています。
 経済産業省が言うところの「社会的基礎力」というのが、残業推奨型の内容になっているというのにはやや驚き(これ、本省の若手キャリア官僚の働き方だなあと)。残業手当を組み込んだ「初任給」の事例は、"ブラック企業"に限られたケースとの印象を与えるかもしれませんが、個人的には、多くの企業でこうしたことが行われているとの印象があります。

 第5章「就職に求められる力と働き方」では、大学のキャリア教育から小中学校におけるキャリア教育に立ち帰り、それがひたすら「適応力」を育てることに狙いがあることを批判的に検証したうえで、採用に際して企業が学生に求める能力を検討しています。

 終章「<まともな働き方>を実現するために」では、<まともな働き方>の条件を賃金、労働時間、雇用、社会保障を柱に整理し、なぜ<まともな働き方>ができないのかを考察し、働き方改善策を提案しています。
 過労死(過労自殺)の件数の公式統計はないそうですが、過労死問題に取り組んできた川人博弁護士によると、犠牲者は年間1万人を超えるとのこと(過労からうつになり自殺に至ったケースも含めると、あながち大袈裟とは言えないのではないか)、三六協定の"ザル法"的性格を指摘しているのは妥当ですが、状況改善に向けての提案部分が、やや抽象的でインパクトが弱いのが、本書の難点かと(但し、全体としては、大学生の就職の厳しい現況と内包する問題を概観するうえで、よく纏まっている本)。

 ただ、人事担当者が、自分達の学生時代は、専門の勉強はそれなりにやった一方で、バイトして金貯めて海外旅行に行ったりもし、また仲間には留学して勉学と遊びの両方を海外で経験したヤツも多かったのに、今の若いのはガラパゴス化していてそうした海外経験が少ないなどボヤいていても、著者の言うように、そもそも3年生の半ばから就職戦線に赴かなければならないならば、専門の勉学を深めることも出来ないし、海外留学(従来は3年時に行くことが多かった)の機会も大いに失われるというもの。
 企業側も、若手のグローバル人材が不足していると言うばかりでなく、こうした事情を認識し、考えてみる(反省する)必要があるのではないかなあ。

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面白い本の面白い部分だけを紹介した『面白い本』。"オフ会"活動の延長としての『ノンフィクションはこれを読め!』。

面白い本 成毛.jpg  ノンフィクションはこれを読め2.jpg ノンフィクションはこれを読め1.jpg honzu.jpg
面白い本 (岩波新書)』『ノンフィクションはこれを読め! - HONZが選んだ150冊』 本紹介サイト「HONZ - ノンフィクションはこれを読め!」

HONZ.jpg 元マイクロソフト日本法人社長の成毛眞氏によるもので、そう言えば『本は10冊同時に読め!―本を読まない人はサルである!』(三笠書房)なんていうのもあったなあ、この人。基本的に小説などは読まないみたいで、ノンフィクション一本。それにしてもすごく広いジャンルの本を読んでいるなあと。

 「面白い本」の面白い部分だけを抜書きして紹介しているため、実際"面白く"読めましたが、ちょっと立花隆氏と似ている感じも。立花氏も、ノンフィクション一本だし、本の良し悪しよりも、面白い本の面白い部分だけを紹介するようなスタイルには共通するものがあります。

ぼくの血となり肉となった五〇〇冊そして血にも肉にもならなかった一〇〇冊.jpg 立花氏の『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』や『ぼくの血となり肉となった五〇〇冊 そして血にも肉にもならなかった一〇〇冊』(いずれも文藝春秋)などの「週刊文春」連載の書評を纏めたシリーズを読んで思ったのですが、紹介されている本を読破しようなんて思わないことだなあと。その本自体を愉しめばいいのだと―。
 
HONZ サイト.jpg 因みに著者は、2011年に自らのブログで呼びかけて始めた、ノンフィクションに限定した「HONZ」という書評サイト及び書評勉強会を始めていて、今やその「HONZ」のサイトの会員であるレビュアーによって紹介された本が、書店で売れ筋になるほどの影響力を持っているそうです(氏自身は、「HONZ」は書評サイトではなく、「おすすめ本」を紹介するサイトであると断っている)。

 その「HONZ」のレビューを抜粋・編集したものが、本書より少し前に刊行された『ノンフィクションはこれを読め!―HONZが選んだ150冊』('12年/中央公論新社)ですが、こちらもそれなりに面白いのですが、書評を読んだだけで満足してしまいそうなもの(いいのか悪いのか?)、普通の新刊案内レビューとあまり変わらないようなもの、個人的エッセイ風のものと、まあ20人くらいの書き手が書いているためトーンそのものが雑多な印象も。

 評論家の山形浩生氏が自らのブログで、「HONZにある書評のほとんどに共通するダメなところというのは、基本的に、評者が本を読んで『おもしろかった』というのを、その本の中だけで閉じて言っていることだ。その本の範疇を出る書評がほとんどない」と述べていましたが、やや厳し過ぎる批判のように思えるものの、そうした面は確かにあるかもしれません。でも、成毛氏にしても「HONZ」の書評家にしても、実生活に全く役に立たないような本を紹介することを敢えて身上としている面もあるんだよなあ。山形氏のように、自らの書評の「足元にも及ばない」とイキらなくても、それはそれでいいのではないかという気もします(「HONZ」のサイトによれば、成毛氏自身は「書評ブログ講座なんぞをやってみようかと企画中」とのこと)。

 「HONZ」のサイト自体は新刊書に限定しているので、ジャンルを問わず新刊で面白そうな本はないかという時には便利ですが、確かに「書き方に工夫がない」(山形氏)とまでは言わないけれど、やや物足りない面はあるかも。「HONZ」の書評家たちも著名人、書店員、フツーの人の区分けなく錚々たるメンバー並びに上質のレビュアーだと思いますが)「「HONZ」のレビュアーになるための審査をパスした人だけが書いているらしい)、それだけにレビュアー各自の纏め方自体は上手いと思いますが、「人の多様性」×「ジャンルの多様性」で、見ているとやや情報過多になってしまうキライも。。やはり、『面白い本』の場合は、成毛氏という著名な個人がこれだけの本に接しているという点が興味を引くのかもしれません。「立花氏が選んだ」とか「成毛氏が選んだ」というのは、自分の中で一つの指標になっているのかもね(これって権威主義的?)。

HONZ3.jpg 『ノンフィクションはこれを読め!』の方が情報量としては多いけれど、『面白い本』の方が新刊書に限っていない分、 『ノンフィクションはこれを読め!』よりある意味幅広いとも言えるかも。それでいてすらすら読めるのは、成毛氏のその本の「面白どころ」の掴み方が上手いのかも。この辺りも立花氏に通じます(面白くないところは、本人もスキップして読んでるんだろなあ。そうでないと、こんなに読めないよ)。

売れ行き左右-ノンフィクション書評サイト「HONZ」(BOOK asahi.com 2013年2月20日)

 「HONZO」というのは、書評勉強会が楽しいのでしょう。『ノンフィクションはこれを読め!』の刊行も、そうした"オフ会"活動の延長、1年の振り返りといった印象を受けます。今後、毎年刊行していくんだろなあ。サイトの内容を纏め読みできるという意味では便利かも。

《読書MEMO》
●『面白い本』で紹介されている本
第1章 ピンポイント歴史学
「ワンダフル・ライフ―バージェス頁岩と生物進化の物語 (ハヤカワ文庫NF)」 [文庫] スティーヴン・ジェイ・グールド
「イヴの七人の娘たち (ヴィレッジブックス)」 [単行本] ブライアン サイクス
「死海文書のすべて」青土社 [単行本] ジェームス・C. ヴァンダーカム
「ロゼッタストーン解読 (新潮文庫)」 [文庫] レスリー・アドキンズ
「トンパ文字―生きているもう1つの象形文字」マール社 [単行本] 王 超鷹
「ヴォイニッチ写本の謎」青土社 [単行本] ゲリー・ケネディ
「全国アホ・バカ分布考―はるかなる言葉の旅路 (新潮文庫)」 [文庫] 松本 修
「TOKYO STYLE (ちくま文庫)」 [文庫] 都築 響一
「マタギ 矛盾なき労働と食文化」エイ出版社 [単行本(ソフトカバー)] 田中康弘
「サルたちの遺言 宮崎幸島・サルと私の六十五年」祥伝社 [単行本] 三戸サツヱ
「オオカミの護符」新潮社 [単行本] 小倉 美惠子
「毛沢東の大飢饉 史上最も悲惨で破壊的な人災 1958?1962」草思社 [単行本] フランク・ディケーター
「ポル・ポト―ある悪夢の歴史」白水社 [単行本] フィリップ ショート
「悲しみの収穫―ウクライナ大飢饉」恵雅堂出版 [単行本] ロバート・コンクエスト
「731―石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く (新潮文庫)」 (新潮文庫) [文庫] 青木 冨貴子
第2章 学べない生き方
「ザ・ビッグイヤー 世界最大のバードウォッチング競技会に挑む男と鳥の狂詩曲」アスペクト [単行本] マーク・オブマシック
「解剖医ジョン・ハンターの数奇な生涯」河出書房新社 [単行本] ウェンディ・ムーア
「「李香蘭」を生きて (私の履歴書)」日本経済新聞社 [単行本] 山口 淑子
マリス博士の奇想天外な人生.jpg「マリス博士の奇想天外な人生 (ハヤカワ文庫 NF)」 [文庫] キャリー・マリス
「死にたい老人 (幻冬舎新書)」 [新書] 木谷 恭介
「ブッシュ妄言録」ぺんぎん書房 [単行本] フガフガ・ラボ (著), 村井 理子 (著)
「演歌よ今夜も有難うー知られざるインディーズ演歌の世界」平凡社 [単行本] 都築 響一
「なぜ人妻はそそるのか? 「よろめき」の現代史 (メディアファクトリー新書)」 (メディアファクトリー新書) [新書] 本橋信宏
「武士マニュアル (メディアファクトリー新書) [新書] 氏家幹人
「なかのとおるの生命科学者の伝記を読む」学研メディカル秀潤社 [単行本] 仲野徹
大村智 2億人を病魔から守った化学者.png「大村智 - 2億人を病魔から守った化学者」中央公論新社 [単行本] 馬場 錬成
「ミドリさんとカラクリ屋敷」集英社 [単行本(ソフトカバー)] 鈴木 遥
「クマムシ?!―小さな怪物 (岩波 科学ライブラリー)」 [単行本] 鈴木 忠
「ヒドラ――怪物?植物?動物! (岩波科学ライブラリー〈生きもの〉)」 [単行本(ソフトカバー)] 山下 桂司
ロウソクの科学改訂版.jpg「ロウソクの科学 (角川文庫)」 [文庫] ファラデー
第3章 ヘビーなサイエンス
「ヒトは食べられて進化した」化学同人 [単行本] ドナ・ハート、ロバート W.サスマン 
「笑うカイチュウ」 (講談社文庫) [文庫] 藤田 紘一郎
「ハダカデバネズミ―女王・兵隊・ふとん係」 (岩波科学ライブラリー) [単行本] 吉田 重人、岡ノ谷 一夫
「チェンジング・ブルー―気候変動の謎に迫る」岩波書店 [単行本] 大河内 直彦
凍った地球―スノーボールアースと生命進化の物語.jpg「凍った地球―スノーボールアースと生命進化の物語 」(新潮選書) [単行本] 田近 英一
「破局噴火-秒読みに入った人類壊滅の日 」(祥伝社新書) [新書] 高橋 正樹
「ノアの洪水」集英社 [単行本] ウォルター・ピットマン ウィリアム・ライアン
「恐竜はなぜ鳥に進化したのか―絶滅も進化も酸素濃度が決めた」 (文春文庫) [文庫] ピーター・D. ウォード
「医学探偵ジョン・スノウ―コレラとブロード・ストリートの井戸の謎」日本評論社 [単行本] サンドラ・ヘンペル
「ペニシリンはクシャミが生んだ大発見―医学おもしろ物語25話」 (平凡社新書) [新書] 百島 祐貴
「不死細胞ヒーラ ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生 」講談社[単行本] レベッカ・スクルート
「アンティキテラ古代ギリシアのコンピュータ」文春文庫 [単行本] ジョー・マーチャント
「フェルマーの最終定理」 (新潮文庫) [文庫] サイモン・シン
「暗号解読―ロゼッタストーンから量子暗号まで] (新潮文庫) [文庫] サイモン・シン
「完全なる証明―100万ドルを拒否した天才数学者」 (文春文庫) [文庫] マーシャ ガッセン
第4章 シチュエーション別読書法
「鑑賞のためのキリスト教美術事典」視覚デザイン研究所 [単行本] 早坂 優子
「死にカタログ」大和書房 [単行本] 寄藤 文平
「ゲームシナリオのためのSF事典 知っておきたい科学技術・宇宙・お約束110」ソフトバンククリエティブ [単行本] クロノスケープ (著), 森瀬 繚 (監修)
「ゲームシナリオのためのファンタジー事典 知っておきたい歴史・文化・お約束110」ソフトバンククリエティブ [単行本] 山北 篤
「ゲームシナリオのためのミリタリー事典 知っておきたい軍隊・兵器・お約束110」ソフトバンククリエティブ[単行本] 坂本 雅之
「ゲームシナリオのためのミステリ事典 知っておきたいトリック・セオリー・お約束110」ソフトバンククリエティブ [単行本] ミステリ事典編集委員会 (著), 森瀬 繚 (監修)
「原色金魚図艦―かわいい金魚のあたらしい見方と提案」池田書店 [単行本] 川田 洋之助 (監修), 岡本 信明
「はい、泳げません」新潮文庫 [単行本] 高橋 秀実
「日本全国津々うりゃうりゃ」廣済堂出版 [単行本] 宮田 珠己
「エロティック・ジャポン」河出書房新社 [単行本] アニエス・ジアール
「人間の大地 労働―セバスティアン・サルガード写真集」岩波書店 [大型本] セバスティアン サルガード
「ピュリツァー賞 受賞写真 全記録 」ナショナル ジオグラフィック社[単行本(ソフトカバー)] ハル・ビュエル (著)、ナショナル ジオグラフィック(編)
「BONES ― 動物の骨格と機能美」早川書房 [ハードカバー] 湯沢英治 (著), 東野晃典 (著), 遠藤秀紀 (監修)
「新装版 道具と機械の本――てこからコンピューターまで」岩波書店 [大型本] デビッド・マコーレイ
「絵本 夢の江戸歌舞伎 (歴史を旅する絵本)」岩波書店 [大型本] 服部 幸雄 (著), 一ノ関 圭 (イラスト)
「東海道五十三次 将軍家茂公御上洛図―E・キヨソーネ東洋美術館蔵」河出書房新社 [単行本] 福田 和彦
「宇宙創成」 (新潮文庫) [文庫] サイモン シン
「エレガントな宇宙―超ひも理論がすべてを解明する」草思社 [単行本] ブライアン グリーン
「宇宙を織りなすもの――時間と空間の正体」草思社 [単行本] ブライアン・グリーン
「バースト! 人間行動を支配するパターン」NHK出版 [単行本] アルバート=ラズロ・バラバシ
第5章 嘘のノンフィクション
「鼻行類―新しく発見された哺乳類の構造と生活」 (平凡社ライブラリー) [新書] ハラルト シュテュンプケ
「バチカン・エクソシスト」 (文春文庫) [文庫] トレイシー ウイルキンソン
「ご冗談でしょう、ファインマンさん」 (岩波現代文庫) [文庫] リチャード P. ファインマン
「二重らせん―DNAの構造を発見した科学者の記録」(講談社ブルーバックス)ジェームス・D.ワトソン
「ロザリンド・フランクリンとDNA―ぬすまれた栄光」草思社 [単行本] アン・セイヤー
「ヒトラー・マネー」講談社 [単行本] ローレンス・マルキン
「ジーニアス・ファクトリー」早川書房 [単行本] デイヴィッド・プロッツ
「私はフェルメール 20世紀最大の贋作事件」武田ランダムハウスジャパン [単行本] フランク・ウイン
「偽りの来歴 ─ 20世紀最大の絵画詐欺事件」白水社 [単行本] レニー ソールズベリー、アリー スジョ
「FBI美術捜査官―奪われた名画を追え」柏書房 [単行本] ロバート・K. ウィットマン, ジョン シフマン
「スエズ運河を消せ―トリックで戦った男たち」柏書房 [単行本] デヴィッド・フィッシャー

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マヤ文明入門の新旧2冊。マヤ文明に関心がある人にはどちらもお薦め。

マヤ文明 青山和夫 岩波新書.jpg  青山和夫.jpg 青山和夫氏  石田英一郎 マヤ文明―世界史に残る謎.jpg  石田英一郎.jpg 石田英一郎(1903-1968)
マヤ文明―密林に栄えた石器文化 (岩波新書)』['12年] 『マヤ文明―世界史に残る謎 (中公新書 127)』['63年]

 『マヤ文明―密林に栄えた石器文化』は('12年/岩波新書)、2008(平成20)年3月に「古典期マヤ人の日常生活と政治経済組織の研究」で第4回(平成19年度)日本学士院学術奨励賞を受賞した青山和夫・茨城大学教授の著書ですが、近年のマヤ考古学の成果から、その時代に生きていた人々の暮らしがどのようなものであったかを探るとともに、マヤ文字の解読などから、王や貴族の事績や戦争などの王朝史を解き明かしています。

マヤ文明の謎.jpg 個人的には、青木晴夫『マヤ文明の謎』('84年/講談社現代新書)以来のマヤ学の本であったため、知識をリフレッシュするのに役立ちましたが、本書の前半部分では、著者とマヤ文明との出会いから始まって、マヤ文明に対する世間一般の偏見や誤謬を、憤りをもって指摘しており、読み物としても興味深いものでした。

人類大移動 アフリカからイースター島へ.jpg マヤ人はどこから来たかというと、1万2000年以上前の氷河期にアジア大陸から無人のアメリカ大陸に到達したモンゴロイドの狩猟採集民が祖先であるとのこと(この辺りは、印東道子・編『人類大移動―アフリカからイースター島へ』('12年/朝日新書)の中の関雄二「最初のアメリカ人の探求―最初のアメリカ人」に詳しい)、従って、コロンブスがアメリカ大陸を「発見」したのではないと。

 コロンブスがアメリカ大陸をインドだと思い込んだためにこの地を「インディアス」(東洋)と呼び、この地の住民をスペイン語で「インディオ」、英語で「インディアン」と呼ぶようになったわけで、これはヨーロッパ人が誤解して名付けた差別的用語であるとのことです。

 著者によれば、マヤ文明をはじめとするメソアメリカ(メキシコと中央アメリカ北部)と南米のアンデスというアメリカの二大文明は、旧大陸の「四大文明」(メソポタミア、エジプト、インダス、黄河)と共に何も無いところから発した一次文明であり、「四大文明」史観は時代遅れで、「六大文明」とするのが正しいと(マヤとアステカ・インカを一纏めにすることも認めていない)。

吉田洋一『零の発見』.jpg マヤ文明では、文字、暦、算術、天文学が発達し、6世紀の

    古代インドに先立って人類史上最初にゼロを発見
しており、算術は二十進法が基本、また、マヤ暦は様々な周期の暦を組み合わせたもので、長期暦は暦元が前3114年で、2012年12月23日で一巡したことになり、この長期暦の「バクトゥン」という5125年の単位が最も大きいスパンを表すとされていた(吉田洋一『零の発見』('49年/岩波新書)にもそうあった)ために、ここから、映画「2012」('09年/米)のモチーフにもなった「マヤ文明の終末予言」なるものが取り沙汰されたわけですが、実際にはマヤには長期暦よりもそれぞれ20倍、400倍、8000倍、16万倍の長さの周期の4つの暦があることが判っており、16万倍だと6312万年周期になりますが、更にこの上に19もの二十進法の単位(200兆年×兆倍)があり、2京8000千兆年×兆倍の循環暦も見つかったとのことです(ちょっと凄すぎる)。従って、2012年で暦が終わるので世界も終末を迎える―などという話はまったくの捏造映画「2012」.jpgであり、こうした捏造されたマヤ文明観がオカルトブーム、商業主義と相まって横行していることに対して著者は憤りを露わにしています。

映画「2012」('09年/米)

クリスタルスカルの魔宮.jpg 映画「インディー・ジョーンズ」シリーズの「インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国」('08年/米)などに出てくる"クリスタルスカル"のモチーフとなった"マヤの水晶の髑髏"も19世紀にドイツで作られたものと判っているそうで、東京ディズニーシーのアトラクション「クリスタルスカルの魔宮」も、その名からしてマヤ文明への正確な理解を妨げるものということになるようです。

 因みに、マヤ人というのも別に滅んだわけではなく、今もグアテマラなどに多数生活しているわけで、但し、「マヤ人」を一つの民族として規定すること自体が誤りであるようです。第1章でこうしたマヤ文明への誤った理解にも言及したうえで、第2章以下第6章まで、ホンジュラスでの世界遺産コバン遺跡発掘調査のレポートと考察(マヤ文明の衰退の主因は森林伐採による環境破壊説が有力だが、コバン衰退の原因は戦争だったようだ)、マヤ文明における国家・諸王・貴族たち(インカなどとは異なり、諸王朝が遠距離交換ネットワークを通して様々な文化要素を共有しながら共存した)、農民の暮らし(社会の構成員の9割以上が被支配層で、その大部分が農民だった。トウモロコシは前7000年頃にマヤ人が栽培化し、品種改良を重ねた)、宮廷の日常生活などについての解説がなされています。

 それらの記述に比べると、むしろマヤについて多くの人が関心を持つ文字、算術、暦などに関する記述は第1章に織り込まれていて、相対的には軽く触れられているだけのような印象も受けますが、それは著者が石器研究を専門とする考古学者であることとも関係しているのかもしれないものの、自分が最初に読んだマヤ学の本である石田英一郎の『マヤ文明―世界史に残る謎』('67年/中公新書)に立ち返ると、既に当時の時点で、マヤ文字やマヤの算術、暦学、天文学などについてはかなりのことが判っていたことが窺えます(よって本書は、専ら近年の新たな知見にフォーカスした本であるとも言える)。

『マヤ文明―世界史に残る謎』.jpg 石田英一郎(1903-1968)は考古学者ではなく"桃太郎"研究などで知られる文化人類学者であり、中公新書版のこの本を書くにあたって、「これは専門家のための専門書でもなければ、また専門家によって書かれた通俗書でもない」と断っていますが、1953年と63年の2度に渡ってマヤ地帯を旅した経験をも踏まえ、マヤ文明に関する当時のスタンダード且つ最新の知識を紹介するとともに、それを人類文化史の中に位置付ける構成になっており、文字、算術、暦などに関する解説はもとより、文化人類学者の視点から宗教等に関するかなり専門的な記述も見られます。
それは、最初の"謙遜"っぽい断りが専門家に対する若干の嫌味に思えるくらいであり、但し、当時"マヤ学者"と呼ばれるほどにマヤに特化した専門家は殆ど皆無だったようですが、そうした背景があるにしても、昔の学者は、自らの専門に固執せず、どんどん未開拓の分野へ踏み込んでいったのだなあと(本書は第21回(1967年)毎日出版文化賞[人文・社会部門]受賞)。

 また、第1章は、著者個人のマヤへの想いが迸ったエッセイ風の記述になっており(冒頭の、スペイン船の乗組員で船が難破してマヤの捕虜となり、マヤの酋長に仕えるうちにマヤの習慣に同化した男の話が興味深い)、そうしたことも含め、青山和夫氏の新著に共通するものを感じました。

 新旧両著とも新書の割には図版が豊富で読み易く、マヤ文明に関心がある人にはどちらもお薦めです。

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軍医、作家ではなく、一家庭人としての鷗外の人間味が滲み出ている書簡集。

妻への手紙.JPG   森鷗外 妻への手紙.jpg    森鷗外.jpg 森鷗外(1862-1922/享年60)
森鴎外妻への手紙 (昭13年) (岩波新書〈第17〉)』『妻への手紙 (ちくま文庫)

志げ夫人.jpg 今年(2012年)は森鷗外(1862-1922/享年60)没後150周年。本書は、鷗外の二度目の妻・しげ(志げ)への書簡集で(最初の妻・登志子とは、別居後に離婚)、編纂者の小堀杏奴(1909-1998)は鷗外の次女です。しかし、長男(登志子との間の子)の名前が於菟(おと)で、長女が茉莉(まり)(作家の森茉莉)、次女が杏奴(あんぬ)で二男が不律(ふりつ)、三男が類(るい)というのはすごいネーミングだなあ。オットー、マリ、アンヌ、フリッツ、ルイと片仮名で書いたほうがよさそうなぐらいです。

 1904(明治37)年から鷗外の没年である1922(大正11)年までの手紙を収めていて、その多くは鷗外が軍医部長として従軍した日露戦争(1904-05)中のもので、とりわけ1905(明治38)年に集中していますが、この年は、(前年末からの)旅順攻略、奉天会戦、日本海海戦、講和へとめまぐるしい戦局の変化があった年。

 しかし、鷗外の手紙の中で戦局の報告は極めて簡潔になされており、後は「新聞を読むように」とかいった具合で、むしろ、妻の健康と日常の暮らしぶり、生まれたばかりの娘・茉莉(1903-1987)の成長の様子を窺う文章で埋め尽くされているといった感じ(茉莉は何が出来るようになったか、病気はしてないか、といった具合に)。
志げ夫人

森茉莉.jpg "しげ"とは1902(明治35年)、鷗外が41歳、彼女が23歳で結婚しており、結婚して3年、娘・茉莉が生まれて2年ということで(しかも妻との年の差18歳)、手紙文は読みやすい文体で書かれており、中には(娘に対して)でれでれ状態と言ってもいいくらいのトーンのものもあるのは無理もないか(鷗外の堅いイメージとは裏腹に、ごくフツーの親ばかといった感じ)。

 ドイツ留学時代に彼の地に残してきた恋人のことを生涯胸に秘めつつ、家族に対してはこうした手紙を書いていたのだなあというのはありますが、妻や子への鷗外の想いは偽らざるものであったのでしょう。

 鷗外の妻への過剰とも思える気遣いの背景には、小堀杏奴があとがきに該当する「父の手紙」のところでも記しているように、妻と鷗外の母との不仲(所謂"嫁姑の確執"があったことも関係しているのかも。

森茉莉(12歳) 1915(大正4)年
    
森鷗外 妻への手紙 奥.JPG 手紙の多くが、「○月○日のお前さんの手紙を見た」「その後はまだお前さんお手紙は来ない」といった文章で始まっているように、妻の方からも、近況を伝える返信を書き送っていたと思われ、その妻の手紙は公表されていないわけですが、鷗外が自らの手紙でその内容をなぞったりしているので、大方の内容の見当はつきます。

 鷗外は必ずしも戦地で常に多忙を極めていたわけではないようで、妻から手紙は鷗外自身の無聊を慰めてもいたのでしょう。写真の感想なども多く、そうした鷗外の気持ちを察するかのように、妻しげは、家族の写真などもしばしば送っていたことが窺えます。

 鷗外の手紙の現物は杏奴の死後にも多く見つかっており、その殆どは既に杏奴を通して公表され全集にも収められていたとのことで、杏奴による時系列の並べ順の誤り(ミス)などが一部に見られるものの、少なくとも日露戦争時の手紙はそのまま全部収められているとみていいのではないかと思われます。

 軍医、作家といった鎧を脱ぎ棄て、一家庭人としての鷗外の人間味が滲み出ている書簡集でした。

【1996年文庫化[ちくま文庫(森鷗外『妻への手紙』)]】

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分かれば分かるほど、分からないことが増える。「宇宙論」って奥が深い。

宇宙は何でできているのか1.jpg宇宙は何でできているのか2.jpg 宇宙は何でできているのか3.jpg  野本 陽代 ベテルギウスの超新星爆発.jpg  宇宙論入門 佐藤勝彦.jpg
宇宙は何でできているのか (幻冬舎新書)』 野本 陽代 『ベテルギウスの超新星爆発 加速膨張する宇宙の発見 (幻冬舎新書)』 佐藤 勝彦 『宇宙論入門―誕生から未来へ (岩波新書)

 村山斉氏の『宇宙は何でできているのか―素粒子物理学で解く宇宙の謎』は、「宇宙はどう始まったのか」「私たちはなぜ存在するのか」「宇宙はこれからどうなるのか」という誰もが抱く素朴な疑問を、素粒子物理学者が現代宇宙物理学の世界で解明出来ている範囲で分かり易く解説したもので、本も売れたし、2011年の第4回「新書大賞」の第1位(大賞)にも輝きました。

 分かり易さの素は「朝日カルチャーセンター」での講義が下敷きになっているというのがあるのでしょう。但し、最初は「岩波ジュニア新書」みたいなトーンで、それが章が進むにつれて、「ラザフォード実験」とか「クォークの3世代」とかの説明に入ったくらいから素粒子物理学の中核に入っていき(小林・益川理論の基本を理解するにはいい本)、結構突っ込んだ解説がされています。

 その辺りの踏み込み具合も、読者の知的好奇心に十分応えるものとして、高い評価に繋がったのではないかと思われますが、一般には聞きなれない言葉が出てくると、「やけに難しそうな専門用語が出てきましたが」と前フリして、「喩えて言えば次のようなことなのです」みたいな解説の仕方をしているところが、読者を難解さにめげさせることなく、最後まで引っ張るのだろうなあと。

 本書によれば、原子以外のものが宇宙の96%を占めているというのが分かったのが2003年。「暗黒物質」が23%で「暗黒エネルギー」が73%というところまで分かっているが、暗黒物質はまだ謎が多いし、暗黒エネルギーについては全く「正体不明」で、「ある」ことだけが分かっていると―。

 分からないのはそれらだけでなく、物質の質量を生み出すと考えられている「ヒグス粒子」というものがあると予言されていて、予想される量は宇宙全体のエネルギーの10%の62乗―著者は「意味がさっぱり分かりませんね」と読者に寄り添い、今のところ、それが何であるか全て謎だとしています。

 しかしながらつい最近、報道で「ヒッグス粒子」(表記が撥音になっている)の存在が確認されたとあり、早くも今世紀最大の発見と言われていて、この世界、日進月歩なのだなあと。

 小林・益川理論は粒子と反粒子のPC対称性の破れを理論的に明らかにしたもので、それがどうしたと思いたくもなりますが、物質が宇宙に存在するのは、宇宙生成の最初の段階で反物質よりも物質の方が10億分の2だけ多かったためで、このことが無ければ宇宙には「物質」そのものが存在しなかったわけです(但し、それがなせ「10億分の2」なのかは、小林・益川理論でも説明できていないという)。

 本書はどちらかというと「宇宙」よりも「素粒子」の方にウェイトが置かれていますが(著者の次著『宇宙は本当にひとつなのか―最新宇宙論入門 (ブルーバックス)』('11年)の方が全体としてはより"宇宙論"的)、最後はまた宇宙の話に戻って、宇宙はこれからどうなるかを述べています。

 それによると、10年ばかり前までは、減速しながらも膨張し続けているという考えが主流だったのが(その中でも、膨張がストップすると収縮が始まる、減速しながらも永遠に膨張が続く、「永遠のちょっと手前」で膨張が止まり収縮もしない、という3通りの考えがあった)、宇宙膨張は減速せず、加速し続けていることが10年前に明らかになり、そのことが分かったのは超新星の観測からだといいます(この辺りの経緯は、野本陽代氏の『ベテルギウスの超新星爆発-加速膨張する宇宙の発見』('11年/幻冬舎新書)にも書かれている)。

 加速膨張しているということは、膨張しているのにエネルギーが薄まっていないということで、この不思議なエネルギー(宇宙の膨張を後押ししているエネルギー)が「暗黒エネルギー」であり、その正体は何も分かっていないので、宇宙の将来を巡る仮説は、今は「何でもアリ」の状況だそうです。

 分かれば分かるほど、分からないことが増える―それも、細部においてと言うより、全体が―。「宇宙論」って奥が深いね(当然と言えば当然なのかもしれないけれど)。

 そこで、更に、著者が言うところのこの「何でもアリ」の宇宙論が今どうなっているかについて書かれたものはと言うと、本書の2年前に刊行された、佐藤勝彦氏の『宇宙論入門―誕生から未来へ (岩波新書)』('08年)があります。

佐藤 勝彦.jpg この本では、素粒子論にも触れていますが(『宇宙は何でできているのか』の冒頭に出てくる、自分の尻尾を飲み込もうとしている蛇の図「ウロボロスのたとえ」は、『宇宙論入門』第2章「素粒子と宇宙」の冒頭にも同じ図がある)、どちらかというとタイトル通り、宇宙論そのものに比重がかかっており、その中で、著者自身が提唱した宇宙の始まりにおける「インフレーション理論」などもより詳しく紹介されており、個人的にも、本書により、インフレーション理論が幾つかのパターンに改変されものが近年提唱されていることを知りました(著者は「加速的宇宙膨張理論の研究」で、2010年に第100回日本学士院賞を受賞)。
佐藤 勝彦

  第4章「宇宙の未来」では、星の一生をたどる中で「超新星爆発」についても解説されており、最後の第5章「マルチバースと生命」では、多元宇宙論と宇宙における生命の存在を扱っており、このテーマは、村山斉氏の『宇宙は本当にひとつなのか―最新宇宙論入門』とも重なるものとなっています(佐藤氏自身、『宇宙はわれわれの宇宙だけではなかった (PHP文庫)』('01年)という著者もある)。

 『宇宙論入門』は、『宇宙は何でできているのか』よりやや難解な部分もありますが、宇宙論の歴史から始まって幅広く宇宙論の現況を開設しており、現時点でのオーソドックスな宇宙論入門書と言えるのではないかと思います。

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人類はなぜ戦争をするようになったのか。96歳の老ジャーナリストの自伝的エッセイ風社会批評。

希望は絶望のど真ん中に.jpg 『希望は絶望のど真ん中に (岩波新書)』 [10年]

 著者(武野武治氏)は1915年秋田県生まれで、本書執筆時点(2011年)で96歳。自伝的エッセイ風社会批評とでもいうか。一見して最近の世の中を大いに悲観しているようで、実はその中に無限の未来を見出そうとしていて、例えば、「ジャーナリズムは死んだか」という問いに対し、ジャンーナリズムはとっくにたばっており、それを生き返らせるために皆で命がけで頑張ろうというスタンス。まさにタイトル通り、希望を失わない楽天性がこの人の本質なのかも。

 著者は東京外国語学校を卒業し、報知新聞社秋田支局に入社した2年後に盧溝橋事件から日中戦争が始まり、東京支社社会部記者として北京から内モンゴルを取材した際に、中国民衆は日本に屈服することはなく、日本軍に勝利はないと確信したとのこと(但し、そんなことは記事には書けない状況だった)。

 中国から帰国後に報知新聞を辞めると朝日新聞社から声が掛かり、1940(昭和15)年に同社会部の遊軍となり、2年後にジャカルタ支局に異動、ジャワ上陸作戦に従軍するなどしますが、終戦を迎え、戦時にジャーナリズムが軍事国家の先鋒を担いだ反省から、自らにけじめをつけるべく朝日新聞を退社し、秋田に戻ります。そして1948(昭和23)年に横手市で週刊新聞「たいまつ」を創刊し、30年間にわたり主幹を務めるも、1978(昭和53)年に経営難により休刊(63歳)、その後も執筆・講演活動を通じて30年以上にわたりジャーナリストとして活動してきた人です。

 先ず「人類はなぜ戦争をするようになったのか」ということを、独自の人類史観から考察していて、人類の歴史は700万年前まで遡るが、約2万5000年前にひとつの系統のみが生き残り(言語を話すホモ・サピエンスの系統)、農耕が1万年前に始まり、5500年前にチグリス河流域に都市文明(国家)が発生、最も手っ取り早い富の拡大手段として戦争が始まったとのこと。

この辺り、クニの原初形態が「国際」となる過程が詳しく説かれていて興味深く、以下、大航海時代から帝国主義時代、20世紀へと、戦争と国家の関係史を追っていますが、戦争は国家間の権力抗争の決め手となるもので、戦争は人間の本姓であるとか、戦争は消費を促進し不景気対策の必要悪だとかいうのは、みんな支配者の嘘であるとのこと、これは、先の太平洋戦争でも同じことが言えるようです。

 続いて「人類に未来はあるのか」ということを考察していて(テーマがデカイね)、人類の余命は、世界中で大戦争が起り、核兵器で人類が死滅するとすればあと40年ほど、地球の寿命であるガス星雲化するまでとすればあと40億年あるとのことで、40年か40億年かは人類次第だという―確かに。

 著者の批判は日本の現状に向けられ、東日本大震災後の福島第一原発事故対応で明らかになった産業構造の腐敗、政治の無責任、科学技術者の退廃を糾弾するとともに、戦後の日本社会は過ちばかりが目立ち、日本人は真摯な反省と真面目な努力をどこに忘れてしまったのとしつつも、大局的に見れば「ヒューマニズム」そのものは人類が国家をつくるまでには存在していたが、国家が形成され欲望を達成しようとした5500年前に戦争が始まってヒューマニズムは地に堕ち、爾来、人類は戦争ばかりやってきたのを「進歩」したと錯覚していると―国家権力と結びついた金融経済もまた謀略と戦争を孕んでおり、資本主義の綻びはいつも戦争で償われてきたが、2008年のリーマンブラザーズの破綻は恐慌を予感させる危険な兆候であり、新自由主義の行き着く先は労働者の貧困化と奴隷化であって、あと一歩で国民の奴隷化に行き着くだろうとしています。

 そうした中、労働から疎外された若者は、同じ苦しみや悲しみを背負う若者とは協力する方向へ努力せず、秋葉原事件などを起こしたりして自滅する方向へ流れるのはなぜか―こうしたことを皆の問題として受け止め取り組もうと、若者と触れ合ってきた著者は、この問題を、希望と絶望、学習、コミュニティに分けて論じています。

 先ず絶望すべき対象にはしっかり絶望し、それを克服する努力を重ねて希望に転化してゆこう、希望は絶望のど真ん中に実在している。みんなで学習する時は対等に隔てなく意見を述べ合うことが大事である―というのが著者の結論であり、後半は啓発的であるともにやや抽象的なメッセージになっていますが、96歳にして、大いに絶望しつつもその絶望を突きぬけて、そこから前向きなメッセージを発信しているそのパワーが、そもそもスゴイなあと思いました。

 個人的には、終戦を迎えた際の朝日新聞社内の様子などの記述が興味深かったです(う~ん、日本人の国民性としての当事者意識の無さがよく分かる。新聞記者だって宮仕えなんだなあと)。
むのたけじ.jpg 全体としてはやや牽強付会なところもありますが、何せ96歳ですから、目の前で話されたらもう大人しく聴くしかないかも。この人、所謂"優秀老人"と言うか、ボケないタイプなんだろなあ。「書く」という行為は、ボケ防止にいいのかも。喋りもスゴクしっかりしている...。
むのたけじ「希望は絶望のど真ん中に」刊行記念講演(2011年)

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学術書を一般向けに噛み砕いた感じ。アルツ予防にはカロリー摂取の制限と、運動、知的活動か。

ぼけの防止2.JPG ぼけの予防 岩波新書.jpg 『ぼけの予防 (岩波新書)

 第1章「ぼけとは何か」と第2章「ぼけの診断」において認知症(老人性痴呆症)について概説し、認知症の中でも90年代以降アルツハイマー病が増えてきていることを指摘、本書のメインとなる第3章「アルツハイマー病の予防」で、その予防法を、本書刊行時における最新の臨床研究の成果を紹介しながら、傾向的に解説しています。

 そのため、認知症全般の予防というよりは、アルツハイマー病の予防に関する研究成果を紹介した入門書と言ってよく、但し、アルツハイマー病との関連上、健康・長寿に関する話なども出てきます。

 「臨床研究からこうした傾向が見られるが、その原因は幾つか考えられ(諸説あり)、一つは○○...」といった書かかれ方をしている部分が多いですが、アプリオリに特定の原因と予防法を押し付けるのではなく、データを基に傾向として示しているところに、かえって信頼感が持てました。

 アルツハイマー病の予防に関しては、食生活、嗜好品のとり方、生活習慣と頭の使い方、薬とサプリメントの効用の4つの点から解説していますが、食生活のおいては、摂取カロリーを制限することが予防に有効であることは、統計的に証明されているようです。

日野原重明.bmp 個別事例としては、1911年生まれの日野原重明氏が紹介されていて(本書刊行時94歳)、NHKのドキュメンタリーで紹介された、当時のある一日の暮らしぶり、仕事ぶりを改めて紹介していますが、朝起きて柔軟体操をした後に、りんごジュース、にんじんスープ、牛乳とコーヒーという液体だけの朝食(りんごジュースにはサラダ油をちょっと落とす)、午前中に講演した後の昼食は立食パーティで牛乳コップ1杯のみ、午後は大学で90分立ちっぱなしで講義し、夕食は茶碗少し目のご飯に味噌汁、サラダと副食二品、1日の摂取カロリーは1300キロカロリー。

 年齢によって理想の摂取カロリーは変わってきますが、摂取カロリーの高い人は低い人の1.5倍の率でアルツハイマーになりやすく(これも原因は分かっていない)、日野原氏自身が言う「腹七分目」というのは、アルツハイマー病予防の一つの鍵なのだろうなあと。

 但し、日野原氏と同じような生活をしても日野原氏のように長生きできるかどうかは、寿命には様々な要素が絡むため分からないとのこと(この人、100歳を超えて今も元気だなあ。やや怪物的かも)。

 食生活ではそのほか、動物性脂肪のとりすぎは悪く、野菜や果物をよくとることは予防にいいとし、「酒」は飲み過ぎは良くないが適量であれば飲まないよりはよく、「運動すること」や「頭を使うこと」はアルツ予防にいいと―。

 このあたりは大方の予想がつきそうな内容でしたが、統計的にそのことを示す一方で、原因が科学的に解明されている部分と未解明の部分があることを示し、未解明の部分については考えられている仮説を逐一紹介したりしているのが「岩波新書」らしいところ(学術研究書を一般向けに噛み砕いた感じ)。

 「頭を使うこと」が予防にいいということについて、大変興味深い海外のケースが紹介されていて、ある修道院の修道女を対象に行った加齢と認知症に関する追跡調査で、調査協力の意思表明後101歳で死亡した修道女の脳を解剖したら、脳萎縮などのアルツハイマー病の症状が見られたものの、この修道女は亡くなる直前まで聡明で知能検査でも高い得点を出していたと。

 彼女に認知症の症状がなく聡明だった理由は、若い時分からから老年期に至るまで知的好奇心と知的活動を維持してためと考えられるようですが、脳を使えば使うほど、神経細胞の一部は数が多くなり、脳内のネットワークが強化され、加齢による神経細胞の脱落をカバーして、認知症になるのを遅らせることに繋がるようです。

 それにしても、脳が実際にルツハイマー病の症状を呈していたのに、生活面でそれが症状として現れることが無かったというのは、実に興味深い事例だと思いました。

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屠場の仕事とそこで働く人たちをルポ。差別問題に偏り過ぎず、食文化の根源を見つめ直すうえでも好著。

『ドキュメント屠場』.jpgドキュメント 屠場 (岩波新書)』['98年] 本橋成一写真展「屠場」.jpg 本橋成一『屠場』['11年]

鎌田慧  .jpg 『自動車絶望工場』『日本の原発地帯』『原発列島を行く』の鎌田慧氏が、東京・芝浦屠場、横浜屠場、大阪・南港屠場などで働く人びとを取材したもので、そうすると何だか「暗い職場」だというイメージを抱きかねませんが、全然違います。皆、職人気質で明るい!
 
 鎌田氏自身、本橋成一氏の写真集『屠場』('11年/平凡社)に寄せて、「機械化される前の職人の熟練とプライドの世界」「屠殺は生き物を相手にする労働であって、自動車工場のように、画一化された部品に支配された労働ではない。たとえ機械化されたにしても、労働の細分化と単純化は不可能である」と書いています。

 屠場で働く人たちが、プライドを持って活き活きと仕事する様、牛や豚の解体作業の技術的高度さ、職人たちの仕事にかける心意気などが伝わってくるとともに、こうした仕事に対する差別の歴史と、それを彼らが乗り越えてきたか、若い職人たちは自分たちの仕事をどう考えているかなどが分かります。

 更に、歴史記録に遡って屠殺(食肉加工)のルーツを辿るとともに(牛などの肉食文化は基本的には明治以降に外国人が入ってきてから一般化したわけだが、江戸時代にもあったことはあった)、日本書紀の時代からある「殺生禁断」(殺生戒)の思想や「穢れ感」が部落差別と結びついて、こうした仕事を「賤業」と見做す風潮が今にも続いていることを分析しています。

 確かに職人には伝統的に被差別部落出身者が多いようですが、全てを部落差別に結び付けて考えるのも事実誤認かも知れず、それまでの仕事よりも給料がいいから転職してきたという人もいるようです。

 それぞれの取材先でのインタビューに加えて、職人同士の座談会などもあって、精神的な差別よりも、ちょっと前の昔まで、雇用形態が安定していなかったことの方がたいへんだったみたいで(今で言えば、偽装請負で働かされているようなもの)、それが組合運動等で随分と改善されたとのこと。

 横浜屠場の取材では、若い職人たちの座談会も組まれていて、これがなかなか興味深く、2代目・3代目が多いのですが、現実に差別に遭いそれと闘ってきた親の代と違って、親の職業により差別を受けた人もいれば、差別を何となく感じながらも、この仕事に就いた後で、あれが差別だったのだなあと振り返って再認識したという人もいます。

 自らの仕事にプライドを持ち、自分の技術を少しでも高めることを目標にしている点では皆同じで、先輩に少しでも追いつこう、後輩に負けまいと切磋琢磨していて、その意味ではスペシャリスト同士の競争の場ですが、元々公私にわたって職場の仲間同士の繋がりが強いうえに、今は協働化が進みつつある、そんな職場のようです(機械化が進んでも、機械の方が人間より上手に処理するとは限らないとのこと。そうした意味では、職人の技は、ある意味"伝統技能"と言える)。

 「屠場」は「屠殺場」の略語のようなもので、この言葉自体は差別用語ではないようですが、小説などで「戦場は屠殺場のようだった」というような"差別的意味合い"を込めて使われていることが縷々あるわけなのだなあ(岩波書店の刊行物の中にもあったそうだ)。

 使われ方が差別的であるために、言葉自体が"差別用語"だと思われてしまうという(だから、「食肉市場」とか名称を変えても根本解決にはなっていない)―こうした事例は外にもあるね。

 但し本書は、「差別」の問題を丹念に取り上げながらもそこに偏り過ぎず、食肉加工の工程なども細かく紹介されており、興味深く読めるとともに、人間の食文化の根源にあるものを見つめ直してみるうえでも好著です。

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原発推進もオウムやテロと同じ世界破壊「信仰」?! 相変わらず、もやっとした感じの本。

夢よりも深い覚醒へ9.JPG夢よりも深い覚醒へ―3・11後の哲学.jpg            文明の内なる衝突.bmp  不可能性の時代.jpg
夢よりも深い覚醒へ――3・11後の哲学 (岩波新書)』['12年]『文明の内なる衝突―テロ後の世界を考える (NHKブックス)』['02年]『不可能性の時代 (岩波新書 新赤版 (1122))』['08年] 

 自分のイマジネーションが著者に追いつかないのか、はたまた単に相性が悪いだけなのか、相変わらず、本当にもやっとした感じの本でした。

 朝日新聞に掲載されていた比較文化学者の田中優子氏の書評によると、タイトルの「夢よりも深い覚醒へ」というのは、著者の師匠である見田宗介の言葉だそうで、悪夢から現実へと覚醒するのではなく、夢よりも深く内在することで覚醒するという意味だそうです。

 著者によれば、阪神・淡路大震災とオウム事件は何かの終りであり、おそらく東日本大震災と原発事故は、その終わり始めたものを本当に終わらせる出来事であったとのことで、要するにこれらは、破局と絶望に一連の流れ上にあると。

 9.11(テロ・アフガニスタン)と3.11(震災・原発事故)を同種の破局であるとして、進化論を持ち出してどちらも「理不尽な絶滅」であるとしているのは、震災とテロを一緒くたにして何だかハルマゲドンを煽っているっぽいなあという気がしたのですが、著者の論点は、まさにこの"同一視"に依拠しています。

 著者が、9.11テロとそれに対するアメリカの反攻に内在する思想的な問題(ナショナリズム)を、「文明の衝突」というハンチントンの概念を援用して読み説いた『文明の内なる衝突―テロ後の世界を考える』('02年/NHKブックス)を著した理由は、9.11テロが世界同時性を持ちながら、日本の知識人にとっては対岸の火事であって実存的問題にならず、著者自身も、社会学者としての無力感に見舞われざるを得なかったとのことからではなかったと思います。

 そうした忸怩たる思いでいたところが、3.11によってやっと著者自身、「理不尽な絶滅」を実感することができたというところでしょうか。前著『不可能性の時代』('08年/岩波新書)に既にその傾向はありましたが、全ての事象を、この「理不尽な絶滅」へ強引に収斂させているという印象を受けました。

 著者は、『文明の内なる衝突』において、イスラームやキリスト教の中にある資本主義原理を指摘する一方、「資本主義は徹底的に宗教的な現象である」としていましたが、本書では、世界を破壊する否定の力への信仰がオウムであるとすれば、原子力もまた、その破壊潜在力への「信仰」ではないかとしています。

 「日本人の戦後史の中で、原子力は、事実上、神のように信仰されていた」とあり、原爆の恐怖を知って間もないはずの日本人が、活発な地震帯の上に50基以上もの原子炉を建設してきたことは、まさに「破壊への欲望」であり、これは、オウム、9.11テロと重なる―という論旨は、個人的にはかなり牽強付会に思えるのですが...。

 マイケル・サンデルの「暴走機関車」の例え話から始まって、原発問題を倫理哲学的に考察し、後半はカント、ヘーゲルを持ち出し、イエス・キリストの思想を持ち出し、「神の國」と現実をいろいろ行ったり来たりしているのですが、これ、サブタイトルにあるように思想哲学の本だったのか―(だとすれば、ある程度の牽強付会はありなのか?)。

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ソーシャルメディアの活躍と「公式報道」のていたらく、海外の報道と日本のマスコミ報道のギャップ。

震災と情報 岩波新書.jpg 『震災と情報――あのとき何が伝わったか (岩波新書)

 東日本大震災の発生直後、警報も届かずに津波で命を落とした人は数多くいたわけで、更に、電話の不通など情報経路の寸断は首都圏にまで及び、また、その後も繰り返される政府発表の「安全神話」的報道を、どこまで信じたらいいのかも分からず、首都圏にいてもこうした状況でしたから、被災した現地にいた人の混乱と不安は、尚のこと大きなものだったでしょう。

 本書は、ソフトウェア生成系や情報ネットワークが専門である理学博士の著者が、震災後の情報伝達のあり方、マスコミ報道とインターネットやモバイル機器を通しての報道のスピードや正確さのギャップなどを、再検証したものですが、興味深いのは、震災後「最初の1時間」「最初の24時間」「最初の1週間」「最初の1ヵ月」「最初の6ヵ月」というように、何れも震災直後を起点としてスパンのみ変えて、そのスパンの長さに沿ったイシューを追っている点です。

 尚且つ、報道された事実を克明に織り込み、一つ一つのイシューについてはそれほど深く突っ込まず、情報を「数」の面で多く拾っていて、そうした「数」の集積から、実態を浮かび上がらせようとしており、こうした"記録"の残し方も一つの方法かと思いました。

 最初の1時間は、主に大津波警報がどのように伝わったかなどが検証されていますが、福島第一原発事故が明るみになってからは、やはり原発事故報道が本書の大部分を占め、最後は「日本では原子力発電は終わらせよう。地震の多い日本では、リスクが巨大すぎて商業的発電方式として合理的コストに見合わないからである」との言葉で締め括られており、やはりこの辺りは岩波系か。

 振り返ってみると、原発事故発生当初から、ソーシャルメディアを含む海外の報道と、所謂「公式報道」に近い日本のマスコミ報道に、事の重大さに対する認識の度合いに大きな温度差があったことが窺えます。

 淡々と記している中にも、日本のテレビと原子力工学者が、毎回「ただちに心配することはない」を繰り返したことにはさすがに義憤を覚えているようで、「現時点で特に心配する必要はないと言っていると、一号機建屋の爆発が起こる。爆発が起こっても、これは作業の一環でわざと起こした爆発かもしれないと擁護的に説明する。いよいよ水素爆発だったということになると、今度は爆発によって外部へ放射性物質が漏洩することはないだろうと言う。やがて放射性物質が外部へ出たことがわかると、今度は放出量は人体に影響がない範囲だろうと言う」と―確かにこの通りだったなあ。憤りを感じない方がおかしいよ。

 保育園や心身障害児施設の子供達が緊急避難先の公民館で孤立し、電話が繋がらないため園長が電子メールでロンドンの家族に連絡し、家族からの救援要請が東京都副知事に届いて救援のヘリコプターが来たとか、停車した電車の中で、乗客が携帯ワンセグ放送で津波が迫っているのを知り、乗り合わせていた若い巡査らが乗客を避難誘導して全員無事だったとか、インターネット等が人命を救った話はあったなあ。

 極めつけは、NHKテレビで災害放送を見ていた広島の中学生が、テレビ・ラジオに接することのできない被災現地の人々のために、ユ―ストリームのサイトを利用して自宅からNHKをライブ中継したというもので、著作権法違反ではないかとのと問い合わせがNHKにあったけれども、担当者が、自分の責任において容認すると発信したそうです。

 この他にも、様々なケースでこうしたソーシャルメディアが活用された一方で、政府の避難勧告やSPEEDIなどのデータ公表の遅れにより、多くの人が、高濃度放射能汚染地域からの初期避難が遅れたり、放射性物質の飛んでいく風下の方へ避難したりしたわけで、今考えると、国の罪は重いと言うか、情報は自分で集めなければならないということなのか。

 日本のマスコミの政府や東電の話をそのまま横流ししているような報道姿勢に早くから不信を抱いていた外国人特派員らは、テレビに出ている擁護的な原子力工学専門家の説明とは違う説明を聞くために、3月15日には、原子炉格納容器の元設計者・後藤政志氏を講師に招いて講演会を開催し、4月25日の原子力安全・保安院と東電による海外メディア向けの合同記者会見の参加者はゼロ、保安院と東電は、誰もいない記者席に向かって説明を行ったとのことです。

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やはり代替エネルギーも一応は考える必要があるが、「節電」=「発電」にはナルホドと。

脱原子力社会へ.jpg 『脱原子力社会へ――電力をグリーン化する (岩波新書)

 社会学者が、電力の「グリーン化」をキーワードに、海外の事例を引きながら、政府・企業・NGO・消費者の協働に基づく、未来志向的な「脱原子力大国」への政策転換を提言した本。

 冒頭第1章で、今回の福島第一原発の事故を振り返りつつ、なぜ原子力は止まらないのかを考察しています。その中で、原発の非常用発電機がタービン建屋内の「地下」にあったために津波で浸水し機能しなくなったことが指摘されていますが、これは広河隆一氏の『福島 原発の人びと』('11年8月/岩波新書)の中にもありましたが、竜巻やハリケーンを想定した「米国式設計」をそのまま採用し、東電は「フル・ターン・キ―契約」という始動気キーをひねるだけの契約で、全てはGEに丸投げだったということだったのだなあと。

 第1章で、地震列島に54基もの原発が立地することの「環境リスク管理」の技術的・経済的・社会的困難さがフクシマの事故で明らかになったとし、続く第2章で、エネルギーの効率利用と、脱原子力に基づく電力のグリーン化への転換を説いていいて、ここが本書の肝であると思われます。

 海外の事例の中ではアメリカの事例が冒頭にあり、アメリカは原発推進国とされてきたように感じていましたが、70年代後半には原子力ブームはもう終わっていたのだなあと。地域的な事例ですが、電力設備は増やさずに稼働率を高めるなどして脱原発を果たしたり、住民と電力会社が協働で太陽光発電の導入を推進したりといった事例が紹介されていて、それぞれに、「省電力は発電である」というコンセプトが根底にあるという点が興味深かったです。

 「グリーン・エネルギー」というと風力や太陽光発電が思い浮かびますが、節電することも、効果的には発電していることと同じになるわけか。「クリーン・エネルギー」という言葉は実際海外で使われているようですが、「クリーン電力」と言わず「グリーン電力」という言葉を著者が推すのは、「クリーンな電力」というのが原発の宣伝の常套句であったということもあるためのとのこと。

 グリーン化のために消費者ができることを、例えば、希望者が自発的に再生可能エネルギーの発電事業者に寄付する「寄付方式」など5通り挙げていて、その他「出資金方式」「「電力証書方式」「電力力金転嫁方式」などが紹介されてますが、主に海外の事例を参照しつつも、一部、国内でも限定的に試行されたりしているものもあり、この点は個人的には新たな知見でした。

 第3章では、日本の各地域からも脱原発の声が上がっていることを、住民投票などの事例で紹介していますが、まだ「脱原発」を訴えるだけで「代替エネルギー」等の提案までいってないのが大方の状況ながらも、前章の事例のほか、再生エネルギーによる地域おこし、市民風車や市民共同発電といったプロジェクトなどが紹介されています。

 「脱原発」を訴えるのはいいが、やはり次の代替エネルギーを考えないとね。そうした意味では、「脱原子力社会」へ向けての具体的な提案の書。
 但し、風力発電などは、効率面での失敗例もあるし、電磁波障害など新たな"公害"問題を引き起こしているケースもあったはず。そうしたネガティブ情報については、意識的に触れられていないように思えるのが、ややどうかなあという気も。

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写真の伝える力もさることながら、取材文章にも緊迫感があり、今後の課題についても考察。

福島 原発と人びと 岩波新書.jpg福島原発事故~チェルノブイリから何を学ぶか.jpg
広河隆一氏.jpg 広河隆一氏 (フォトジャーナリスト、戦場カメラマン、市民活動家)
写真展「福島原発事故~チェルノブイリから何を学ぶか」(2011年5月3日~18日)
福島 原発と人びと (岩波新書)

 スリーマイル島やチェルノブイリの原発事故の際に、実態を現地に行って取材し報道したことで講談社出版文化賞を受賞している筋金入りのフォトジャーナリストである著者が、'11年3月11日に東日本大震災が発生し、福島第一原発でメルトダウン事故が起きたのを受けて直ぐに現地を訪れ、その後も何度か現地を取材したものを纏めたルポルタージュ。

 全体を通して写真が多く、やはり写真の伝える力というのは凄いと思いましたが、それだけでなく、文章の方も、冒頭第1章の原発事故の報を受けて急遽現地入りするまでの経過などは非常に緊迫感に満ちていて、避難指示地域に入って放射線測定器の針が振り切れてしまったというのにはぞっとさせられました。

 著者は基本的に、現地から避難してくる人たちと逆方向に、出来るだけ原発事故被災地の中心部へと向かったわけですが、一方、事故当時の現地の人々の避難は漫然としたものであり、事故後3日目の、その"測定器の針が振り切れた"という原発から3キロ地点の双葉町の街中でさえ人々がいて、自転車やバイクで移動していたというのには驚かされました。

 こうした状況を目の当たりにし、著者は急遽取材を止め、道で会った人々に避難を呼びかけるとともに、市区町村役場を廻り、住民により緊急の避難を促すよう説いていて、政府の初動体制の緩慢さから、多くの人が相当量被曝したであろうことが窺えます。

 続く第2章の原発作業員への取材や、第3章の浪江町に住むある老夫婦とその娘たちの家族にフォーカスした取材も、震災並びに事故直後から動きを時系列で追っていて、たいへん緊迫感がありました。

 第4章では、原発事故報道で東電、保安院、官邸が隠蔽した情報を検証し、第5章では、地域の農家などを取材し、拡がる放射能被害の実態を伝え、第6章では、学校や住民は子供達を放射能被害からどう守ろうとしたかが報じられています。

 更に、チェルノブイリの現在を伝えることで、そこから何を学ぶべきかを示唆していますが、著者がチェルノブイリ取材で甲状腺ガンに苦しむ子供達やその家族と接して以来、「チェルノブイリ子ども基金」などを通じて、現地の子供達の支援活動を続けているということは、この章の記述で初めて知りました。

 チェルノブイリ原発火災の消火活動で多くの消防士を失った消防隊長が、「当時は放射能の恐ろしさを知らされてなかった」と語るとともに、「放射能防護服といわれるものは世界中にまだ一着も存在していないのです」と言っているのが印象に残りました(放射能物資の身体への付着を避けるだけであって、γ線や中性子線は、どんどん身体を突き抜けているわけだから)。

 最後の、チェルノブイリの現状を参照しつつ、フクシマにおいて今後懸念されることを考察していますが、やはり、放射能被害が顕在化してくることが一番危惧されるべきことなのでしょう。

 一方で、長崎大学の長瀧名誉教授らを筆頭に多くの原発推進派の学者が早々と現地に送り込まれ、住民を安心させるためだけの根拠無い安全講話をして廻ったため、そうした危機意識の持ち方にも被災した住民の間でムラがあるようで、こうした御用学者の犯した罪は重いように思われました。

 岩波はフリージャーナリストを多く受け入れ本も出していますが、原発事故の記録として岩波新書に加えるに相応しい一冊。

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反原発科学者の遺作。立ち上がりから杜撰だった日本の原子力開発の実態がわかる。

原発事故はなぜくりかえすのか.jpg原発事故はなぜくりかえすのか (岩波新書)』 高木 仁三郎.jpg 高木仁三郎(1938-2000/享年62)

高木仁三郎06.jpg 『プルトニウムの恐怖』('81年/岩波新書)などで早くから原発とそれを巡る放射能汚染事故発生の危険性を訴え、原子力科学者でありながら「反原発の旗手」でもあった高木仁三郎(1938-2000)が直腸ガンと告知されたのは'98年夏のことであり、最後に書き遺しておきたいこととして『市民科学者として生きる』('99年/岩波新書)を著します。

                 原子力資料情報室の設立総会(1999年1月30日)

東海村JCO臨界事故.bmp しかし、その「最後の著書」が刊行された'99年9月に、茨城県東海村でJOCの臨界事故が起きたことで、さらに「言い遺しておきたいこと」ができた著者が、闘病生活の病床で口述筆記により著したのが本書です。

東海村JOCの臨界事故

 実際に録音が行われたのが'00年の夏で、著者は同年10月、本書刊行前に帰らぬ人となってしまいましたが、すでに本書口述中に自らの死を覚悟していたと思われ、本書の最後には「偲ぶ会」での最後のメッセージが付されています。

 原子力発電の科学的・社会的な問題点と放射能汚染事故の危険性を訴える語り口は淡々としており、それでいて、JOCの臨界事故という悲惨な出来事が、原子力産業・技術・文化の様々な問題点の集積の結果として起きたものであることを、鋭く指摘しています。

 自らが原子化学者として日本原子力事業や東大原子力研究所といった企業・機関で研究に携わっていたころの原子力・放射能の危険性に対する認識の甘さや管理の杜撰さ―これは体質的なものであり、どうしてそのような体質が成り立ったか、更にそれが綿々と続いているのは何故かということを、体験的に分かり易く述べています。

 それによれば、国の原子力開発事業というものは、徹頭徹尾、科学という実態も或いは産業的基礎もないままに、上からの非常に政治的な思惑によってスタートし、更に、三井・三菱・住友といった財閥系企業や大手銀行がそれに乗っかり、「議論なし」「批判なし」「思想なし」の中で進められとのこと。この「三ない主義」は徹底されていた、と言うより、むしろ強制であったとしています。

 そうしたことに疑問を感じた科学者も当初は少なからずいて、著者もその一人でありそうしたことから反原発に転じましたが、反原発に転じなくとも多くの優秀な科学者が他分野の研究に転じ、上から指示を唯々諾々と守る、思想無き体制順応型の技術者や科学者だけが"エリート"として後に残った末に、国・企業と一体となって、所謂「原子力村」という特殊な社会を形成していったようです。

 著者は20代の頃からそうした実態を生身で体験していたわけですが、自分たちが研究に携わっていたころ安全管理意識の希薄さ、実験研究等における放射能管理の杜撰さなども語っており、そうした意味では、著者の研究人生を反省と共に振り返るものともなっている一方で、特定の科学者に見られる思考回路の科学的な弱点を指摘し、更には、科学者として「自分の考え」を持つことの重要さを訴えています。

 また、こうした科学者個々に対する啓蒙だけでなく、国・政府機関などの原子力行政の在り方の問題点を指弾するものとなっており、更に一方では前著同様に、原子力科学の入門書にもなっており、プルトニウムをはじめとする様々の放射能性物質の特性やその危険性が、分かり易く解説されています。

 原子力推進派の科学者の中には、著者のことを蛇蝎の如く嫌う人も多くいたかと思われますが(そうした人には著者の死は安堵感を与えたかも知れない)、一方で、その科学的水準の高さ、指摘の的確さに密かに畏敬の念を抱いていた人もいたように聞きます。

 東日本大震災による福島第一原発事故が起きてみれば、ある意味、予見的な著者であったとも言えますが、本書刊行以前にも多くの原発事故及び事故隠しが行われていたことが本書の中で一覧に示されており、むしろ、本書におけるプルトニウムの危険性の記述を読んで、本書刊行の契機となったJOCの事故が、使用済み核燃料からプルトニウムを取り出すためのMOX燃料を巡る事故とであったことを思うと、更に先々の危険を予言している本であるとも言えます(その予言が的中しないことを祈るのみだが)。

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ただ「計算してみました」というだけの内容を遥かに超え、脱原発への道筋を示している。

原発のコスト 岩波新書.jpg 『原発のコスト――エネルギー転換への視点 (岩波新書)』 大島 堅一.jpg 大島 堅一 氏

 40代半ば中堅の環境経済学者による著書で、第1章で東日本大震災による福島第一原発の事故では一体何が起きたのかを振り返り、環境被害の深刻さ、人体への影響、生活への影響を検証しています。

 続く第2章では、被害補償をどのように進めるべきかを論じていて、事故費用を①損害賠償費用、②事故収束・廃炉費用、③原状回復費用、④行政費用に区分し、それぞれ試算しています。

 それによると、①の住民の被害に直接関わる費用である「損害賠償費用」を、直接的な被害だけでなく、営業費用(実害と風評被害)や就労不能による損害、財産価値の喪失・減少など経済的被害なども併せた「被害の総体」を賠償する費用と捉えると、それだけで5.9兆円になり、これに②~④を加えると8.5兆円になるとしていますが(④の行政費用は、国や自治体が行う防災対策と放射能汚染対策、それに放射能汚染により出荷できなくなった食品の買い取り費用も含まれる)、廃炉費用を東京電力の試算を基に1.68兆円と見積もっているものの、これは1号機から4号機の被害状況が十分確認されていない段階での試算であり(チェルノブイリ原発の廃炉費用は19兆年かかっていることからもっと増える可能性がある)、更には、この「8.5兆円」という数字には、③の原状回復費用は"試算不能"として含まれていません(放射性廃棄物貯蔵施設の建設費用だけで80兆円かかるという報道もあるとのこと)。

 そこで次には、このうちの何がどこまで賠償されるかということが問題になってきますが、原子力損害賠償制度というのは、事業者である東京電力の過失責任であった場合、賠償措置が一定の限度額を超えると国が補完援助することになっていて、更には、新たな損害賠償スキームとして登場した原子力損害賠償支援機構は、仕組み上は、この東京電力への援助に上限を設けず、必要があれば何度でも援助できるようにして、東京電力が債務超過に陥らせないようにするようになっているとのこと。こうなると、著者が言うように、東京電力を守るための機構であり、また、原賠法が事業者の責任を明確にした上での国の援助を定めていたのに、東京電力の責任もどんどん曖昧になっていくのではないかなあ(それが、機構を設立した目的なのかもしれないが、最終的な負担は国民の税金にかかってくるため、東京電力にオブリゲーションが無いまま、負担増だけが国民に強いられるというのは解せない)。

 第3章では、原子力は水力・火力に比べ発電コストが安いとされているが、本当にそうなのかを検証していて、この計算のまやかしは以前から言われていたかと思いますが、本書では、原子力発電に不可欠な技術開発コスト、立地対策コストを政策コストとして勘案すると、火力や水力よりも電力コストは高くなることを計算によって示しています(一キロワット当たり、原子力は10.25円、火力は9.91円、水力は7.19円)。

 これらに加えて、原子力発電には、原子力事故後に発生するコスト(事故コスト)が高く、これを事故リスクコストとして計算すること自体に無理あり、更には、核燃料の使用後に発生する使用済燃料の処理・処分にかかる所謂バックエンドコスト(総合資源エネルギー調査会がこれを18.8兆円と計算しているが、実際の額はもっと高くなると想定される)まで含めると、その「経済性」は疑われるとしていますが、尤もだと思いました。

 このようにコストがかかる上に、危険でもある原子力発電ですが、第4章では更に踏み込んで、こうした中、原子力複合体(所謂「原子力村」)がいかにして「安全神話」を作り上げてきたかが検証されていて、そこには反対派の徹底排除を進めるうちに、推進する当事者の側で、危険性を問題視すること自体がタブーとして形成されてしまったというのが実態であるとの分析をしています。

 著者は、日本においてはこの原子力複合体(原子力村)の力があまりにも強すぎるとしながらも、最終第5章では、福島第一原発事故により脱原発に対する国民の支持が圧倒的に高まっており、また原発に頼らなくとも少し節電するだだけで電力供給を賄うことは可能であるとして(節電コストと節電による節約額の方が大きい)、原発を止める道筋を提唱すると共に、脱原発のコストを計算し、更には、再生可能エネルギー普及政策の考え方を示しています。

 環境経済学ってこういうことを計算するのかと初めて知りましたが、あとがきによれば、こと原子力政策については批判的に研究している専門家は極端に少なく、時として孤独な作業を強いられるとのこと、しかも本書は、ただ「計算してみました」というだけの内容を遥かに超えており、事故の経緯や安全性の問題など、著者自身の専門を超える範囲についても相当の勉強をした痕跡が窺えました。

 こうした学者がいることは心強いですが、同じ志を持った研究者がより多く出てくることを期待したいと思いました(著者は、現在は立命館大学教授。私立大学にもっと頑張って欲しい)。

 2012(平成24)年度・第12回「大佛次郎論壇賞」受賞作。

原発コスト4割高.jpg 2011年11月23日 朝日新聞・朝刊

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脱原発の教科書であり、学際的集大成。今後の議論の継続・発展を望む。

原発を終わらせる.jpg    石橋 克彦.jpg 石橋克彦 氏(2011年5月23日参議院行政監視委員会)
原発を終わらせる (岩波新書)』(2011/07)

 地震学者・石橋克彦氏を編者とした14本の小論文集で、東日本大震災、福島第一原子力発電事故後、原発を巡る識者の共著の刊行は珍しくありませんが、事故後3ヵ月そこそこで、これだけの専門家(原子力工学の専門家、技術者、社会学者、地方財政論の専門家など。原発を長く取材してきたジャーナリストをも含む)の論文を集めることが出来るのは、岩波ならではかもしれません。

 全4部構成の第Ⅰ部が福島第一原発の現状、第Ⅱ部が原発の技術的問題点、第Ⅲ部が原発の社会的問題点、第4部が脱原発の経済・エネルギー戦略となっていて、口上には「原発を終わらせるための現実的かつ具体的な道を提案する」とありますが、どちらかと言うと、今回の事故を検証し、あらためて原発の何が問題なのかを多面的に考えるものとなっています。

 個人的に特に印象に残ったのは、冒頭の原発の圧力容器の設計に携わった田中三彦氏の「原発で何が起きたのか」で、この人には『原発はなぜ危険か―元設計技師の証言』('90年/岩波新書)という20年前の著書もありますが、今回の事故後に発表された東電の発表データを分析して、改めて1号機の耐震脆弱性を指摘しており、津波の前に地震で既に電源トラブルと原子炉の損傷があり、1号機原子炉は危険な状態に陥っていたと考えられるとしており、この指摘は、「津波対策をすれば原発は安全になる」という発想を根本から崩すものとして注目されるべきかと思います(実際、その後多くの識者がこの考えを支持した)。

 その他に、金属材料学が専門の井野博満・東大名誉教授も、「原発は先が見えない技術」と題した論文の中で、「圧力容器の照射脆化」の問題を取り上げると共に、高レベル廃棄物の地層処分(ガラス固化体)における「オーバーパックの耐食性」について、「1000年後もオーバーパックの健全性は保たれる」という財団法人原子力安全研究委員会の報告を、そうした「予測」を必要とする人達の「期待」に沿った安全ストーリーを作り上げているに過ぎないとしています。

 また、本書編者で地震テクトニクスが専門の石橋克彦・神戸大学名誉教授は、「地震列島の原発」と題した論文の中で、冒頭の石橋論文を受けて、福島第一原発は、地震動そのものによって「冷やす」「閉じ込める」機能を失うという重大事故が起きた可能性が強いとし、耐震基準の変遷を追いながら、その問題点を指摘しています(福島第一原発の耐震性を審議する委員会で896年の貞観地震の大津波を考慮するよう東電に求めたが、東電はこれを無視した―と巷で言われているのは事実では無く、委員会そのものが最終報告に津波の危険性について考慮を求めることを入れなかったため、津波対策は最初から対象外だったとのこと)。それにしても、地震地帯の真上に54基もの原子炉を造っている国なんて、日本ぐらいなんだなあ(116-117pの図)。

 論文の多くが根拠を明確にするために、所謂「論文形式」に近い形で書かれていて、専門度も高いために素人にはやや難解な部分もありましたが、自分なりに新たな知見が得られた箇所が多くありました。

 脱原発の教科書であり、学際的集大成。願わくば、もっと早くにこうした本が刊行されても良かったのではと思われ、今後も、こうした研究者間相互の情報共有が進み、更に問題の解決に向けての議論が継続・発展することを望みたいと思います。

《読書MEMO》
●目次
はじめに                        石橋克彦
Ⅰ 福島第一原発事故
    1 原発で何が起きたのか           田中三彦
    2 事故はいつまで続くのか          後藤政志
    3 福島原発避難民を訪ねて         鎌田 遵
Ⅱ 原発の何が問題かー科学・技術的側面から    
    1 原発は不完全な技術            上澤千尋
    2 原発は先の見えない技術         井野博満
    3 原発事故の災害規模            今中哲二
    4 地震列島の原発               石橋克彦
Ⅲ 原発の何が問題かー社会的側面から
    1 原子力安全規制を麻痺させた安全神話 吉岡 斉
    2 原発依存の地域社会            伊藤久雄
    3 原子力発電と兵器転用
        ―増え続けるプルトニウムのゆくえ  田窪雅文
Ⅳ 原発をどう終わらせるか
    1 エネルギーシフトの戦略
        ―原子力でもなく、火力でもなく     飯田哲也
    2 原発立地自治体の自立と再生       清水修二
    3 経済・産業構造をどう変えるか       諸富 徹
    4 原発のない新しい時代に踏みだそう    山口幸夫

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今まで、岩波新書に無かったなあ。「読む教科書」としてはやや硬いが、優れモノではないか。

労働法入門5.JPG労働法入門 水町.jpg 『労働法入門 (岩波新書)』 水町 勇一郎.bmp 水町勇一郎 氏(略歴下記)

 随分ストレートなタイトルですが、今まで岩波新書に同様のものが無かったからこのタイトルが使えるのかなあ(なぜ無かったのか、やや不思議。永らく、労働法というものをそれほど意識しなくても済んだ時代が続いたということ?)。
 
 本書は、気鋭の労働法学者が、労働法は働く者にとってどう役に立つのかという観点から、大学で労働法を勉強したことがない一般社会人にも身近に感じられるようにとの考えのもと、労働法の全体像を解説した入門書です。

 まず、労働法の背景や基礎にある思想や社会のあり方から、労働法の構造や枠組みを掘り起こしたうえで、採用・人事・解雇・賃金・労働時間・雇用差別・労働組合・労働紛争などについて、近年の新しい動きも含めて、労働法の全体像を解き明かしています。

 「はじめに」の部分にある、聖書において、神によってアダムとイブに『罰』として課されたとされていた「労働」が、マルチン・ルターのよって『天賦』としての「労働」という新たな解釈になったという話や、日本の労働観は「家業」としての労働であり、日本における「労働」とは、イエという共同体に結びつき、家族のための「生業」と、自分の分を果たすという「職分」の二面が合体したものを指すという著者の見解などは、興味深いものでした。

 本編に入ると、「入門」と謳っていながらも専門書を圧縮したような感じで(「入門」だからこそ当然そうなるのかも知れないが)、労働法の全体像を網羅した、堅実且つオーソドックスな内容ではあるものの、やや硬いかなあという感じも(著者もそのことを意識したのか、その"硬さ"を和らげるかのように、各章の冒頭にエッセイ風のプロローグがあるが)。

 それでも、テーマごとに重要判例などを交えながら、これだけの内容が新書1冊にコンパクトに纏られているのは流石その著書が「水町・労働法」と呼ばれている著者という感じで、「読む教科書」として手頃な"優れモノ"ではないでしょうか。欧米諸国との比較なども随所に織り込まれていて、日本の労働法の特徴が、分かり易く浮き彫りにされているのもいいです。

 本書の中では、判例法理等が労働者にも会社にもきちんと認識されておらず、大学などで学ぶ「労働法」と実際に企業に入って味わう「現場」のギャップこそが、日本の労働法の最大の問題であるかもしれないとしていますが、そうなんだよなあと。
 
 最後には今後の労働法の方向性について述べられていて、「集団としての労働者」から「個々人としての労働者」に転換しつつある状況を踏まえて、労働法も「個人としての労働者」をサポートするシステムにシフトとしていくべきであるとする考え(菅野和夫・諏訪邦夫教授)と、労働者の自己決定を保障するためには国家による法規制が不可欠であり、とりわけ労働組合が脆弱な日本では国家法(労働法)がその役割を果たすべきであるとする考え(西谷敏教授)を紹介しています。

 その上で、著者は、「国家」と「個人」の間に位置する「集団」(労働組合や労働者代表組織など)に注目し、「集団」的な組織やネットワークによって問題の認識と解決・予防を図っていくこと、そのための制度的な基盤づくりが重要な課題であるとしています。

 こうした提言部分もありますが、全体としては、タイトル通りの「入門書」としてのウェイトが殆どでしょうか。本書の中で、使用者も労働者も労働法を知らな過ぎることを問題の1つに挙げていますが、近年、労働社会の変化に応じて労働法制にも変化が見られるにも関わらず、またそれは、労働者全般に関わる問題であるにも関わらず、こうした「入門書」が岩波新書に無かったことを考えると、意義ある刊行と言えるのではないかと。

 岩波新書にこのタイトル・ポジションを確保したということは、これから更に法改正があると、その都度改版していくのかなあ。

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水町勇一郎 1967年生まれ 東京大学教授

1986年 - 佐賀県立佐賀西高等学校卒業
1990年 - 東京大学法学部卒業
1990年 - 東京大学法学部助手
1993年 - 東北大学法学部助教授
2004年 - 東京大学社会科学研究所助教授
2007年 - 東京大学社会科学研究所准教授
2010年 - 東京大学社会科学研究所教授

《読書MEMO》
●「アダムとイブ-『罰』として課された労働」と「ルター-『天賦』としての労働」という対比―前者は、フランスのバカンスの権利につながり、後者はドイツの就労請求権につながる(まえがき)
●日本の労働観は「家業」としての労働―日本における「労働」とは、イエという共同体に結びつき、家族のための「生業」と、自分の分を果たすという「職分」の二面が合体したものをさす(まえがき)
●大学などで学ぶ「労働法」と、実際に企業も入って味わう「現場」とのギャップこそが、日本の労働法の最大の問題(85p)
●以下、章立て
第1章 労働法はどのようにして生まれたか―労働法の歴史
1労働法の背景―二つの革命と労働者の貧困
2労働法の誕生―「個人の自由」を修正する「集団」の発明
3労働法の発展―「黄金の循環」
4労働法の危機―社会の複雑化とグローバル化
第2章 労働法はどのような枠組みからなっているか―労働法の法源
1「法」とは何か
2人は何を根拠に他人から強制されるのか
3労働法に固有の法源とは
4日本の労働法の体系と特徴
第3章 採用、人事、解雇は会社の自由なのか―雇用関係の展開と法
1雇用関係の終了―解雇など
2雇用関係の成立―採用
3雇用関係の展開―人事
第4章 労働者の人権はどのようにして守られるのか―労働者の人権と法
1雇用差別の禁止
2労働憲章
3人格的利益・プライバシーの保護
4内部告発の保護
5労働者の人権保障の意味
第5章 賃金、労働時間、健康はどのようにして守られているのか―労働条件の内容と法
1賃金
2労働時間
3休暇・休業
4労働者の安全・健康の確保
5労働者の健康を確保するための課題
第6章 労働組合はなぜ必要なのか―労使関係をめぐる法
1労働組合はなぜ法的に保護されているのか
2労働組合の組織と基盤
3団体交渉と労働協約
4団体行動権の保障
5不当労働行為の禁止
6企業別組合をどう考えるか
第7章 労働力の取引はなぜ自由に委ねられないのか―労働市場をめぐる法
1なぜ労働市場には規制が必要か
2雇用仲介事業の法規制
3雇用政策法
4日本の労働市場法をめぐる課題
第8章 「労働者」「使用者」とは誰か―労働関係の多様化・複雑化と法
1労働関係が多様化・複雑化するなかで
2「労働者」―労働法の適用範囲
3「使用者」―労働法上の責任追及の相手
4「労働者」という概念を再検討するために
第9章 労働法はどのようにして守られるのか―労働紛争解決のための法
1裁判所に行く前の拠り所
2最後の拠り所としての裁判所
3紛争解決の第一歩
第10章 労働法はどこへいくのか―労働法の背景にある変化とこれからの改革に向けて
1日本の労働法の方向性
2「個人」か「国家」か―その中間にある「集団」の視点
3これからの労働法の姿―「国家」と「個人」と「集団」の適切な組み合わせ
4労働法の未来の鍵

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雇用システムの「現実的・漸進的改革の方向」を示す。読めば読むほど味が出てくる"スルメ"みたいな本。

新しい労働社会3047.JPG新しい労働社会 雇用システムの再構築へ.jpg        濱口桂一郎.jpg 濱口桂一郎 氏(労働政策研究・研修機構)
新しい労働社会―雇用システムの再構築へ (岩波新書)』['09年]

 「派遣切り」「名ばかり管理職」「ワーキングプア」「製造業への派遣」といった現在生じている労働問題をめぐる議論は、それぞれ案件ごとの規制緩和論と規制強化論の対立図式になりがちですが、本書は、そうした問題を個別的・表層的捉えるのではなく、国際比較と歴史的経緯という大きな構図の中で捉えようとしています。

 序章において、わが国おける雇用契約は、諸外国と異なり「職務(ジョブ)」ではなく「メンバーシップ」に基づくものであり、そのことが日本型雇用システムの特徴である長期雇用、年功賃金、企業内組合の形成要因となっていることを明快に説いています。

 個人的には「メンバーシップ」という表現及びこの部分の論旨がものすごく分かりよかったのですが(序章だけでも読んでおく価値あり!)、こうしたことを踏まえ、労働問題の各論へと進みます。

 第1章では働きすぎの正社員のワークライフバランス問題をとり上げ、「名ばかり管理職」「ホワイトカラーエグゼンプション」をめぐる議論においては、健康確保措置の問題が報酬問題にすり替えられたと指摘していますが、これは個人的にも同感。マクドナルド事件は、名ばかり管理職問題ではなく過重残業問題だったというのは、何人かの著名な弁護士(主に使用者側)などもそう指摘していたように思います。

 第2章では非正規労働者の問題をとり上げ、「偽装請負」「労働者派遣法」などに関する議論について歴史的経緯を踏まえて再整理していますが、「日雇い派遣」問題の本質は「偽装有期雇用」にあり、この「偽装有期雇用」こそが問題であるとの指摘には、目を見開かせられる思いをしました。

 第3章ではワーキングプア問題をとり上げ、メンバーシップ型正社員だけに手厚い生活給制度が適用されてきたという経緯の中、過去にもアルバイト等の非メンバーシップ労働者はいたものの、親の生活給賃金が子の生計を補填するといった構図で"日本的フレクシキュリティ(柔軟性+安定性)"が保たれていて、それが近年、非正規雇用労働者の増加により、そのフレクシキュリティが揺らいできたというのが、ワーキングプア問題の本質であるとしています。

 日本の法定の最低賃金の水準の低さは、最低賃金がアルバイトとパートという家計補助労働の対価を対象にしていることに起因としているとの指摘は卓見であり、こうした背景との繋がりがワーキングプア問題の基礎にあるということは、問題の案件をそれだけに絞って見てしまっていては見えてこないんだろうなあと。

 ここまでにも幾つかの提言はありますが、どちらかと言えば改革に繋げる前段階(下ごしらえ)の議論であり、それに対し第4章は、本書タイトルにより呼応した内容であり、非正規労働者も含めた労働組合再編など、集団的合意形成の新たな枠組みを提言するとともに、労働政策の決定に一部のステークスホルダーしか関与していないことなどを批判しています(そうなんだ。政労使三者構成というのが本来は、原則のはずなんだよなあ)。

 現行の労働法制の成立過程を追い、その矛盾や実態との乖離を指摘している点は参考になり、また、雇用システムというものが、法的、政治的、経済的、経営的、社会的などの様々な側面が一体となった社会システムであることを踏まえた上での論考は、「現実的・漸進的改革の方向」(著者)を示したものと言えるかと思います。

 労働法を学ぶ人にはブログなどでもお馴染みの論客ですが(大学のオープン講座で労働政策研究・研修機構のR・H先生の労働法の講義を聴いたときに、著者のブログを勧められた。個人的にも以前から読んでいたけれど)、この人、EUの労働法にも詳しかったりするけれど、労働経済学者なんだよね。労働法学と社会政策学の両方の分野を論じることができるのが著者の強みであり、かなりの希少価値ではないかと。

 新書という体裁上、コンパクトに纏まっていますが、読めば読むほど味が出てくる"スルメ"みたいな本です。
 評価で星半個減は、自分自身の理解が及ばなかった部分が若干あったためで、4章が、もやっとした感じ。自分の中に「労組=旧態然」というネガティブイメージがあるのもその一因かもしれません。

 折をみて再読したいと思いますが、ブログを読むよりは、ちょっと気合いを入れてかかる必要があるかも。そう思いつついたら、もう、本書の続編と言えるかどうかわからないけれど、『日本の雇用と労働法』('11年/日経文庫)というのが刊行されており、そちらも読み始めてしまった...。

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労働経済学者による社会哲学の本。自己啓発本にみたいな印象も。

希望のつくり方.jpg 『希望のつくり方 (岩波新書)

 労働経済学者で、『仕事の中の曖昧な不安』('01年/中央公論新社)などの著書のある著者の本ですが、『ニート―フリーターでもなく失業者でもなく』('04年/幻冬舎、曲沼美恵氏と共著)で「ニート」論へ行き、今度は「希望学」とのこと。
 但し、いきなりということではなく、東京大学社会科学研究所で'05年度に「希望学プロジェクト」というものを立ち上げており、既に『希望学』(全4巻/東大出版会)という学術書も上梓されているとのことです。

 冒頭で、希望の有無は、年齢、収入、教育機会、健康が影響するといった統計分析をしていますが、この人の統計分析は、前著『ニート』において、フリーターでも失業者でもない人を「ニート」と呼ぶことで、求職中ではないが働く意欲はある「非求職型(就職希望型)」無業者(本質的にはフリーターや失業者(求職者)に近いはず)を、(働く予定や必要の無い)「非希望型」無業者と同じに扱ってしまい、それらに「ひきこもり」や「犯罪親和層」のイメージが拡大適用される原因を作ってしまったと、同門後輩の本田由紀氏から手厳しく非難された経緯があり、個人的には、やや不信感も。

 但し、本書では、そうした数値で割り切れない部分に多くの考察を割いており、希望を成立させるキーワードとして、Wish(気持ち)、Something(大切な何か)、Come True(実現)、Action(行動)の4つを見出し、「希望とは、行動によって何かを実現しようとする気持ち」(Hope is a Wish for Something to Come True by Action)だと定義づけています。

 更に、これに「他者との関係性」も加え、社会全体で希望を共有する方策を探ろうとしていて、個人の内面で完結すると思われがちな希望を、「社会」や「関係」によって影響を受けるものとして扱っているのが、著者の言う「希望学」の特色でしょう。

 学際的な試みではあるかと思われ、「希望の多くは失望に終わる」が、それでも「希望の修正を重ねることで、やりがいに出会える」という論旨は、労働経済学やキャリア学の本と言うより「社会哲学」の本と言う感じでしょうか。

 実際、主に、キャリアの入り口に立つ人や、10代・20代の若い層に向けた本であるようで、語りかけるような平易な言葉で書かれていて(但し、内容的には難解な箇所もある)、本書文中にもある、'10年4月にNHK教育テレビで「ハーバード白熱教室」として放送されたマイケル・サンデルの『これからの「正義」の話をしよう』('10年/早川書房)を意識した感もあります(あっちは「政治哲学」の話であり、ベストセラーになった翻訳本そのものは、そう易しい内容ではないように思ったが)。

 「希望は、後生大事に自分の中に抱え込んでいては生きてこない」「全開にはせずとも、ほんの少しだけでも、外へ開いておくべきだ」といった論調からは、啓蒙本、自己啓発本に近い印象も受け、『希望学』全3巻に目を通さずに論評するのはどうかというのもありますが、結局「希望学」というのが何なのか、もやっとした感じで、個人的にはよくわからなかったというのが正直な感想です。

 どちらかと言うと、中高生に向けて講演し、彼を元気づけるような、そんなトーンが感じられる本で、この人、労働経済学よりこっちの方面の方が向いているのではないかと思います。

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「人の話を聴く」ことのプロであった河合氏の「自らを語る」力に改めて感服。

未来への記憶 河合 上.jpg  未来への記憶 河合下.jpg      河合隼雄自伝 未来への記憶 (新潮文庫).jpg     河合隼雄 フル―ト.jpg
未来への記憶〈上〉―自伝の試み (岩波新書)』['01年] 『河合隼雄自伝: 未来への記憶 (新潮文庫)』['15年]
未来への記憶―自伝の試み〈下〉 (岩波新書)

 河合隼雄(1928-2007)が自らの半生を語り下ろしたもので、上巻では、丹波篠山で5人の兄弟たちと過ごした子ども時代から大学卒業後、心理学に目覚めるまでを、下巻では、高校教師を経て、31歳でアメリカへ留学した1958年から、スイスのユング研究所で学び帰国する1965年までが語られています。

 地元で高校の数学教師をしていた河合隼雄が、どのようにして日本人初のユング派分析家となったのかという関心から読みましたが、上巻部分の、幼少期に6人兄弟の5番目として、兄・河合雅雄らの影響をどのように受けたかという、兄弟の関係性についての述懐が、思いの外に面白かったです(晩年フルートを習い始めたのも、この頃からの連綿とした伏線があったわけだ)。

 高校受験に失敗して高専に入り、何とか京大数学科に進学した後も自分の適性がわからずに休学したりしていて、結構廻り道している。結局、自宅で数学塾(元祖「河合塾」!)を開いたのを契機に、教師こそ天職と考え、育英学園で先生に。この頃は、自分が将来、京大の教授になるなんて、考えてもみなかったとのことです。

 それが、高校教師をしながら京大の大学院に通ううちに、ロールシャッハにハマり、天理大学で教育心理学の講師をしながら、2度目の挑戦でフルブライト試験に合格。英語が全然得意ではないのに、受かってしまったという経緯が面白いですが、ともかくも臨床心理学を学びにアメリカへ留学。

 下巻部分では、留学先で感じた日米の文化の違いについての自らの体験を語るとともに、そこでユング心理学を知り、教授の指示でスイスのユング研究所へ留学することになった経緯や、ユング研究所において分析家への道をどのように歩んでいったかが述べられています。

 後半部分は、やや順調過ぎる印象もありましたが、最後のユング分析家としての資格を得るための試験で、試験官と大論戦になり、「資格はいらん」と啖呵を切ったという話などは、面白く読めました。

 また、ハンガリーの神話学者ケレーニイとの思いがけない出会いや、「牧神の午後」で有名なロシアの舞踏家ニジンスキーの夫人の日本語の家庭教師をしたときの話なども、大変興味深く読めました。

ニジンスキー_01.jpg 以前にハーバート・ロス(1927-2001)監督の「ニジンスキー」('80年/米)という伝記映画を観ましたが(ハーバート・ロス監督は「愛と喝采の日々」「ダンサー」の監督でもあり、この監督自身ダンサー、振付師を経て映画監督になったという経歴の持ち主)、ニジンスキーはその映画でも描かれている通り、バレエ団の団長と同性愛関係にあり(映画で団長を演じていたのは、一癖も二癖もありそうなアラン・ベイツ)、また分裂病者でもあり(本書によれば、最初にそう診断したのはブロイラー)、夫人はその治療のために、フロイト、ユング、アドラー、ロールシャッハといったセラピストを訪れ(スゴイ面子!)、最後にヴィンスワンガーに行きついていますが、結局ニジンスキーは治らずに、病院で生涯を終えたとのことです。

ジョルジュ・デ・ラ・ペーニャ.jpg 映画でニジンスキーを演じたのは、アルゼンチンとロシアの混血で、エキゾチックではあるもののあまりニジンスキーとは似ていないジョルジュ・デ・ラ・ペーニャ。但し、両性具有的な雰囲気をよく醸していて、映画の中で「牧神の午後」や「シェヘラザード」などニジンスキーの代表作をたっぷり観賞でき、踊りのテクニックについても、素人目にも高度であるように思えました。

映画パンフレット 「ニジンスキー」 監督 ハーバート・ロス 出演 ジョルジュ・デ・ラ・ペーニャ/アラン・べイツ/レスリー・ブラウン/アラン・バデル

ニジンスキー ロモラ.jpgニジンスキー ロモラ3.jpg ニジンスキー夫人となるハンガリー貴族の娘ロモラ・ド・プルスキー(「愛と喝采の日々」のレスリー・ブラウンが演じており、彼女は本職がバレエ・ダンサーであって、映画出演は「愛と喝采の日々」('77年/米)とこの「ニジンスキー」の以外では同じくハーバート・ロス監督の「ダンサー」('87年/米)のみ)がニジンスキーの元"追っかけ"の女性で、強引に彼の愛を手に入れてしまうというのは河合氏が本書で語っている通りですが、この映画は夫人の原作に基づいて作られていながらも(ニジンスキーの愛を獲得するという)目的のためには手段を選ばない夫人を相当な悪女として描いています(と言うより"怖い女として"と言った方がいいか)。

 結局ニジンスキーは、同性愛と異性愛の狭間で分裂病になったということでしょうか。映画からは、その原因を夫人側にかなり押し付けている印象も受け、ニジンスキーの後半生は殆ど描かれていないのですが、ラストは、ニジンスキーが拘束着を着せられて暗い部屋に独りでいるところで終わります(この作品は、日本ではビデオ化もDVD化もされていないようだ)。

 河合氏が存命していれば80代前半ぐらいですから、ニジンスキー夫人の話はともかくとして、全体としてはそんな古い人の話という印象は感じられず、また、万事を「心」とか「魂」に帰結させてしまうところから"心理主義"との批判もありますが、こうして本書を読んでみると、心理療法家として「人の話を聴く」ことのプロであった河合氏の「自らを語る」力というものに、改めて感服してしまいます(「聞き手」となった岩波の編集者の優れた能力も見落とせないが)。

 いろいろ批判もあり、個人的にも河合氏を全肯定しているわけではありませんが、氏が亡くなった際に抱いた"巨星墜つ"という感覚が、改めて自分の中で甦ってきました。
 
George De La Pena Nijinsky (1980)
ニジンスキー-4.jpgNIJINSKY 1980.jpg「ニジンスキー」●原題:NIJINSKY●制作年:1980年●制作国:アメリカ●監督:ハーバート・ロス●製作:スタンリー・オトゥール/ノラ・ケイ●脚本:ヒュー・ホイーラー●撮影:ダグラス・スローカム●音楽:ジョン・ランチベリー●原作:ロモラ・ニジンスキー「その後のニジンスキー」●時間:124分●出演:アラン・ベイツ/ジョルジュ・デ・ラ・ペーニャ/レスリー・ブラウン/ジェレミー・アイアンズ/カルラ・フラッチ/アントン・ドーリン/モニカ・メイソン/アラン・バデル/ロナルド・ピックアップ/ロナルド・レイシー●日本公開:1982/10●配給:パラマウント映画=CIC●最初に観た場所:新宿・シネマスクウェア東急(82-12-10)(評価:★★★☆)

【2015年文庫化[新潮文庫(『河合隼雄自伝:未来への記憶』)]】

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日本、お化け、看護婦、躁鬱の4テーマの「雑学記」。「お化けについて」が充実していた。

マンボウ雑学記.jpg 『マンボウ雑学記 (岩波新書 黄版 167)』 どくとるマンボウ航海記 1960.jpgどくとるマンボウ航海記 新潮文庫.jpg 『どくとるマンボウ航海記 (1960年)』『どくとるマンボウ航海記 (1965年) (新潮文庫)』(カバーイラスト:佐々木侃司)

 どちらかというと小説よりもエッセイの方がよく読まれているのではないかと思われる著者ですが、自分自身も、一応は『夜と霧の隅で』('60年/新潮社、'63年/新潮文庫)などの小説から入ったものの、結局エッセイの方をより多く読んだように思われ、実際、ある年代以降はこの人は著作の殆どがエッセイになっています。

どくとるマンボウ航海記 中公文庫.jpg太平洋ひとりぼっち 文藝春秋新社.jpg その先駆けが、'60(昭和35)年刊行(『夜と霧の隅で』と同じ刊行年)の『どくとるマンボウ航海記』('60年/中央公論社、'62年/中公文庫、'65年/新潮文庫)であり(『夜と霧の隅で』は、'60年の芥川賞受賞作。一方、『どくとるマンボウ航海記』は児童文学にジャンル分けされていたりもする)、この本は40日ぐらいで一気に書かれたそうですが、そう言えば、堀江謙一氏の『太平洋ひとりぼっち』('62年/文藝春秋新社)も帰国後2ヵ月で書きあげたそうで、やはり、航海の際に日誌をつけているというのが大きいのかな(その堀江氏が日本帰国直後、ホテルに連れて行かれ最初に対談した相手が北杜夫氏だったと『太平洋ひとりぼっち』に書いてある)。

どくとるマンボウ航海記 (中公文庫)』['73年改版版]/『太平洋ひとりぼっち (1962年) (ポケット文春)』['62年/ポケット文春]

どくとるマンボウ航海記 (1960年).jpg北杜夫e.jpg 『どくとるマンボウ航海記』のあとがきには、「大切なこと、カンジンなことはすべて省略し、くだらぬこと、取るに足らぬことだけを書くことにした」とあり、ある意味これは、高度成長期の波に乗らんとし、一方で「政治の季節」でもあった当時ののぼせ上ったような社会風潮に対するアンチテーゼでもあったのかも。作者自身、「僕の作品の中で古典に残るとすれば、『航海記』ではないか」と、後に語っています。

[上写真]1960年、「夜と霧の隅で」で芥川賞を受けるとともに、『どくとるマンボウ航海記』がベストセラーになっていたころの北杜夫氏(兄の斎藤茂太氏邸に居候中)。

どくとるマンボウ航海記 (1960年)

 そんな著者のエッセイの中で、本書は「岩波新書」に書いているという点でちょっと変わっているかも知れず、また、当時の岩波新書のラインナップには、まだ今ほどこのようなこなれたエッセイは少なかったため、岩波としても思い切った試みだったのかも知れません(『航海記』などの"実績"も加味されていると思うが)。

 神話や伝承の中に民族の魂の遍歴を探った「日本について」、日本のお化けの怖さ・面白さを明らかにした「お化けについて」、自らの経験に基づく「看護婦について」「躁鬱について」の4編から成りますが、著者自らも言うように、前2編がメインで、まさに「雑学記」であり、後2編はオマケのエッセイといった感じでしょうか。

 中でも、最もボリュームのある「お化けについて」は、日本の中世・近世の文献にある様々なお化けを体系的に紹介していて、「雑学記」のレベルを超えており、それでいて(岩波新書らしからぬ?)ユーモアも交えて書かれていて、楽しく読めました。

 しかし、よく調べたものだなあ(かなりの執着ぶり)。水木しげる氏の「妖怪」モノの文章版みたいだと思ったら、最後にその水木氏の名が出てきましたが、水木氏にも岩波新書に『妖怪画談』('92年)などの著書があります。

 オマケ2編では、「躁鬱について」が、著者自身の昭和41年から昭和55年の間に6回ほど訪れた「躁病期」のことを書いていて、これがなかなか面白く、かなり常識人では考えられないようなこともやっているのだなあと(本書には無いが、後に、株投資で自己破産に陥る経験もしている)。

 かつての著者は、1年間のうちに2、3カ月の躁状態とその倍の鬱状態があったとのことで、「躁」と併せて「鬱」についても、その特徴や対処法が書かれていますが、分かり易く纏まっているように思えます。

北杜夫.jpg 著者はこの頃('81年)、世田谷の自宅を「マンボウ・マブゼ共和国」として独立を宣言しており、ムツゴロウこと畑正憲氏と対談した際、「ムツゴロウ動物王国」と「マンボウ国」を日本から分離独立し同盟を結ぶ提案をしたというから、躁状態だったのかも知れません。

 近年は、躁鬱病の症状は治まり、軽井沢の別荘でエッセイなどの執筆活動をするなど、落ち着いた老境にあるようです(「マンボウ夢草子」を月刊誌「J‐novel」に連載中)。

 『マンボウ雑学記』の文中に、友人の相場均・早稲田大学教授の話が出てきますが、「看護婦について」のところでは「故」とついていて、本書執筆中に亡くなったのだなあ。

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著者の厳格な姿勢が貫かれた「中公」版。推理小説を読むような面白さがある「岩波」版。

元朝秘史 中公新書.jpg 岩村 忍 『元朝秘史―チンギス・ハン実録 (中公新書 18)』 ['63年] 元朝秘史 岩波新書.jpg 小澤 重男 『元朝秘史 (岩波新書)』 ['94年]

 中公新書版『元朝秘史』は、東洋史学者・中央アジア探検家で、ヘディンの『さまよえる湖』の翻訳などでも知られた岩村忍(1905-1988)による、チンギス=ハンに関する唯一の原史料「元朝秘史」の読み解きで、「元朝秘史」は元朝全体の史料ではなく、モンゴル帝国の始祖チンギス=ハンからオゴタイ=ハンまでの歴史伝承の写本であり、主要な部分が書かれたのは1240年頃とのこと(最初ウイグル文字で書かれ、後に漢字を音に充てて書き直された)。フビライ=ハンによる元朝の成立は1271年ですから、元朝成立前で話は終わっていることになります。

 なぜ「秘史」というかというと、チンギス=ハンの行ったことを非行も含め忠実に記録してあるため、正史である「元史」のように美化されておらず、あまり広く知られるとチンギス=ハンのカリスマ性を損なう可能性があったのと、チンギス=ハンの息子の中に、チンギス=ハンの妻が他国で囚われの身であった時に孕んだ子がいて、後継者の血統問題に差し障りがあるためだったらしいです。
 著者によれば、この「秘史」は、「ローランの歌」「アーサー王の死」など中世文学に比べても劣るロマンチシズムとリリシズムを湛え、関心を惹いた学者の数は日本の「古事記」どころか「史記」も及ばないとのことです。

 内容的には、"蒼き狼"と言われるあのチンギス=ハンが、いかにして人心を掌握してモンゴル族のリーダーになり、更に他のアジアのタタール族やキルギス族、ナイマン族(中央アジアにはモンゴル族だけがいたわけではない)などの部族を傘下に収めていくかが描かれていますが、登場人物の名前が似たり寄ったりのカタカナが多くて結構読むのが大変なため(原著の翻訳を見ると、ちょっと旧約聖書と似ているような感じも)、なかなか"血湧き、肉踊る"みたいな感じでは読み進めなかったというのが正直な感想。

 但し、ジャムハというチンギス=ハンの盟友で、後にチンギス=ハンと競うことになる人物がいて、著者はチンギス=ハンをドン=キホーテ型、ジャムハをハムレット型としていますが、こうした主要人物を念頭に置きつつ読むと、比較的読み易いかも知れません。

 史料の章変わりのところで、歴史的背景やどういうことがこの章で書かれているかが小文字で解説されていて、その上で本文に入っていく方法がとられていて、著者自身の考察は、この小文字の部分に織り込まれています。

 これは、読者の理解を助けるというより(それもあるが)、この「秘史」にも元々の語り手がいたわけで、例えばジャムハに対しては、同じくチンギス=ハンと競った他の部族の王や族長よりも好意的に伝承されており、そうした元の物語に入りこんでいる主観と、著者の主観を区分けするためだったと思われます。
 
 そのために「秘史」本文の方が、説明不足で読みにくい部分があり、これは著者の主観が入り込まないように翻訳した結果だと思いますが、ここまで史料と自らの主観を峻別しておいて、なおかつ、これは単なる翻訳ではなく、「わたくしの元朝秘史」だとしています。

歴史とh何か.jpg 著者の『歴史とは何か』('72年/中公新書)を読むと、歴史を文学や社会諸科学と対比させ、同じ史料を扱うにしても、歴史家は歴史家としての客観性を保持しなければならないとし、考証学者などに見られる「批判的歴史研究法」を"批判"していて(白石典之氏の『チンギス・カン―"蒼き狼"の実像』('06年/中公新書)などもこの手法で書かれているのだが、「秘史」にも多くを拠っている)、ましてや歴史小説家などは勝手に面白く「物語」を書いているにすぎないといった感じです。

岩村 忍 『歴史とは何か (1972年) (中公新書)

 歴史家はそんな自由に史料に自分の思想を織り込める立場にあるものではなく、例えば、森鷗外の歴史小説における史料の記述は、その文体において冷静客観を"装っている"が、彼が「歴史」と思っていたものはドイツ的実証主義の踏襲に過ぎない云々と手厳しいです。

 「事実を事実のまま記した」部分が多いと認められる司馬遷の「史記」に対する著者の評価は高く、一方、宋代に書かれた司馬光の「資治通鑑」に対する史書としての評価はそれに比べて落ち、但し、「すべての歴史は現代史である」と言われるように、「史記」にも、書かれた時代の「現代史」的要素が入り混じっていることに注意すべきだと。
 「個人的には、ここまで言うかなあと思う部分もありましたが、今の歴史家にも当てはまるのだろうか、この厳格姿勢は。
 この人は、「司馬史観」とか「清張史観」なんてものは認めなかったのだろうなあ、きっと。(評価★★★☆)

『元朝秘史』.jpg 尚、本書では冒頭に記したように、「元朝秘史」の主要な部分が書かれたのは1240年頃とのこととしていますが、「元朝秘史」がいつ書かれたのかについては諸説あり、言語学者でモンゴル語学が専門の小澤重男氏は『元朝秘史』('94年/岩波新書)で、これまである諸説の内の2説を選び、その両方を支持する(1228年と1258年の2度に渡って編纂されたという)説を提唱しています。
 
 「元朝秘史」の元のモンゴル語のタイトルは何だったのか、作者が誰なのかということも謎のようですが、これらについても小澤氏は大胆かつ興味深い考察をしていて、前者については「タイトルは無かった」(!)というのが正解であるとし、後者については、主要部分の「正集十巻」はオゴタイ=ハンに近い重臣が書いたのではなかという独自の考察をしています。 
 
 小澤氏は「元朝秘史」全巻の翻訳者でもあるモンゴル語学の碩学ですが、言語学の手法を駆使しての考察などには、この本の見かけの"硬さ"とは裏腹に、推理小説を読むような面白さがありました。
 
 但し、この本を読む前に、先に岩波文庫版の翻訳とまでもいかなくとも、岩波新書(岩村忍)版の『元朝秘史』や中公新書(白石典之)版の『チンギス・カン―"蒼き狼"の実像』などを読んで、その大まかな内容を掴んで(或いは、感じて)おいた方が、より本書を楽しく読めるかも知れません。 
 
元朝秘史(モンゴルン・ニウチャ・トブチャァン)」)...明初の漢字音訳本のみ現存する。中央下に「蒼色狼」との漢語訳がみえる。

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「萌え」論という言うより、日本人論、比較文化論に近いが、それなりに楽しめた。

鳴海 丈 萌えの起源.jpg「萌え」の起源.jpg「萌え」の起源 (PHP新書) (PHP新書 628)』['09年]四コマ漫画―北斎から「萌え」まで.jpg四コマ漫画―北斎から「萌え」まで (岩波新書)』['09年]

bannpaiya .JPG美少女」の現代史.jpg 時代小説家が「萌え」の起源を探るという本ですが、著者が熱烈な手塚治虫ファンであることもあって、著者によればやはり手塚作品が「萌え」の原点に来るようです。

 ササキバラ・ゴウ氏の『〈美少女〉の現代史―「萌え」とキャラクター』('04年/講談社現代新書)も、手塚作品(テレビアニメ「海のトリトン」)に「萌え」の起源を見出していましたが、本書で著者は、「リボンの騎士」の男装で活躍するサファイア姫、「バンパイヤ」の狼に変身する岩根山ルリ子(手塚作品では初めて女性のヌードが描かれたものであるらしい)、『火の鳥2772』の女性型アンドロイド・オルガなど、「変身するヒロイン」にその起源があるとしています。

『バンパイヤ』(秋田文庫版第1巻211pより)
       
松山容子 (「琴姫七変化」)/志穂美悦子
松山容子.jpg志穂美悦子2.jpg志穂美悦子.jpg そして、それ以前の「変身するヒロイン」の系譜として、著者が造詣の深い女剣劇のスターに着目し、こちらは松山容子(60年代は「琴姫七変化」のイメージが強いが、70年代は"ボンカレー"のCMのイメージか...)、更には志穂美悦子などへと連なっていくとのこと。著者によれば、こうしたヒロインが愛されるのは、「日本人は性の垣根が低く、人間でないものとの境界もないに等しい」という背景があり、それが手塚作品の特異なヒロイン像にも繋がっているとしています。

 「萌え」マンガのその後の進化を辿りつつ、話は次第に日本文化論のような様相を呈してきて、更にマンガ、アニメだけでなく、日本映画を多く取り上げ、そのヒーロー、ヒロイン像から、日本人の価値観、美意識など精神構造を考察するような内容になっています。

 結局、本のかなりの部分は、古い日本映画に着目したような話になっていますが、観ていない映画が多かったので、それはそれで楽しめ、それらの中に見られる主人公の価値観や行動原理が、現代アニメのヒーローやヒロインにも照射されていることを示すことで、多少、マンガ・アニメ論に戻っているのかなあという感じ。でも、日本映画の主人公とハリウッド映画の主人公の違いなどが再三(わかりやすく)論じられていて、全体としてはやはり「比較文化論」「日本人論」に近い本と言えるような気がします。

 ササキバラ・ゴウ氏の本もそうでしたが、マンガ・アニメについて論じる場合、自らの"接触"体験に近いところで論じられることが多いような気がし、そうした中でも「萌え」について論じるとなると、尚更その傾向が強まるのではないかと。著者で言えば、手塚ファンであるから手塚作品がきて、また時代小説家であることから女剣劇が出てきて、アクション小説も書いているから志穂美悦子といった具合に...(その他にも多数のマンガ・アニメ・映画が紹介されてはいるが)。しかも、実際に著者の書いているライトノベル時代劇には、女剣士がよく登場する...。一般論と言うより、著者個人の思い入れを感じないわいけにはいきませんでした(自分自身の「萌え遍歴」を綴った?)。

 但し、未見の日本の映画作品の要所要所の解説は楽しめ、「仇討ち」をテーマにしたものなど、日本人の精神性を端的に表して特異とも思えるものもあり、そのうちの幾つかは、機会があれば是非観てみたいと思いました。

hokusai manga.jpg 尚、本書第1章で解説されいる手塚治虫以前のマンガの歴史は、本書にも名前の挙がっている漫画研究家・清水勲氏(帝京平成大学教授)の『四コマ漫画―北斎から「萌え」まで』('09年/岩波新書)に四コマ漫画の歴史が詳しく書かれています。清水氏の『四コマ漫画』によると、手塚治虫のメディア(新聞)デビューも、新聞の四コマ漫画であったことがわかります。

 『北斎漫画』(左)から説き始め、体裁は学術研究書に近いものの、テーマがマンガであるだけにとっつき易く、その他にも、『サザエさん』のオリジナルは、福岡の地方紙「夕刊フクニチ」の連載漫画で、磯野家が東京へ引越したところで連載を打ち切られた(作者の長谷川町子自身が東京へ引っ越したため)とか、気軽に楽しめる薀蓄話が多くありました。
  
    
       
                
松山容子2.jpg松山容子1.jpg「琴姫七変化」●演出:組田秋造●制作:松本常保●脚本:尾形十三雄/西沢治/友田大助●音楽:山田志郎●原作:松村楢宏● 出演:松山容子/秋葉浩介/田中春男/栗塚旭/野崎善彦/国友和歌子/海江田譲二/松本錦四郎/名和宏/佐治田恵子/入川保則/乃木年雄/沢琴姫七変化e02.gif井譲二/手琴姫七変化7.jpg塚茂夫/花村菊江/乗松ひろみ(扇ひろ子)/朝倉彩子●放映:1960/12~1962/12(全105回)●放送局:読売テレビ

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「ブランド」とは何かを分り易く解説。入門書ながらも多角的(ポストモダン的)視点。

ブランド―価値の創造.jpg 『ブランド―価値の創造 (岩波新書)』 ['99年]

 現代資本主義経済の特徴となっている「ブランド」(「消費資本主義社会」の特徴となっていると言ってもいいが)―その「ブランド」とは一体何かということになると、自分自身は広告会社に勤めていた経験があるのに、それでいて永らく漠としたイメージしか持ち得なかったのですが、その「ブランド」というものについて分り易く解説したのが本書で、入門書でありながらも多角的かつ深く抉った内容となっています。

ポッキー1966.jpg 所謂「ブランド商品」の話から始まり、グリコの「ポッキー」の誕生秘話を通してのブランドがいかに生成され、どのような過程を経て定着していくかの解説は、入り込み易くて分り易いものでした(ポッキーは最初はプリッツ系の位置づけだったのか、とか)。
 続いて、日清食品のカップ麺、袋麺のブランド戦略を通して、ブランドと製品の違いをより明らかにし、競合商品の逆を行った戦略で成功した花王の「アタック」の事例を通して、ブランドの生成期においてはブランド・マーケッターの果たす役割が大きいこと、そして、これら全てを通して、ロングセラー商品は偶然では生まれないことを示しています。

コカ・コーラ.jpg そして、日本企業が得意とする新製品マーケティングのティピカルなものを紹介し、「ベンツ」と「トヨタ」のブランド戦略の違いを通して、内外のブランド戦略の違いを明らかにし、更に「無印商品」というブランドを通して、ブランドの本質を更に深く考察(「無印商品」というブランドは具体的な商品としては何も示していないが、固有の意味的世界を持つと言う意味では、極めてブランドらしいブランドであると)、常に自己否定し1つのスタイルに固着しないことがそのブランドが市場で生き続ける秘訣であることを「イッセイ・ミヤケ」に見て取り、そして、ああ、やっぱり出ました「コカ・コーラ」、スタイルや機能を超えた「ブランド価値」という話になると、絶対出てくるなあ。

 ブランドの創造的側面を記号論的に解き明かし(このポストモダン的視点が著者の本領)、この辺りからやや難しく感じる人もいるかと思いますが、常に実際の商品やブランドを事例に挙げて解説を進める姿勢がここでも貫かれていて、お陰で最後まで興味深く読めるものとなっています。

 著者は、経営学、マーケティングが専門の学者で、広告代理店出身者が書いた類書などに比べて視野が広く、最後はやはり、消費社会、消費欲望とブランドとの関係についての論に向かうわけですが、この辺りはポストモダン風の社会学的論調となっているように思えました(著者自身は、「ブランド=共同幻想」論を否定し、再生し続ける商品群との相互関係において、それは実態としてあるものと見ている)。

 著者によれば、ブランドの選択とライフスタイルの選択はどちらが先かは微妙だが、あるブランドを選んだ時点で、それはその人のライフスタイルに影響を及ぼしていることは間違いないと...。
 そうだなあ、スポーツの練習が終わった後、蛇口から出る水を一気に飲む爽快感―ってイメージは、もう今は、ポカリスエットやアクエリアスを飲むCMのイメージに置き換えられ、若い人たちは実際に後者の体験しかないんだろうなあ。

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内容が経年により陳腐化しているというよりは、むしろ著者の試行錯誤が却って新鮮。

知的生産の技術.jpg 梅棹 忠夫.jpg 梅棹 忠夫 氏   知的生産者たちの現場.jpg 
知的生産の技術 (岩波新書)』['69年]    藤本ひとみ『知的生産者たちの現場』['84年]

 今から40年も前に刊行された「情報整理術」の元祖的な本で、著者は文化人類学者としてよりもこっちの分野で有名になり、今で言えば、経済学者の野口悠紀雄氏が一般には〈「超」整理法〉の方でより知られているのと似ているかも。

 知的生産の「技術」について書かれたものですが、著者も断っているように、本書はその「技術」の体系的な解説書ではなく、自らの経験を通じての提言であり問題提起であって、ハウ・ツーものと違って、読者が自ら考え、選び、また試すことを願って書かれています。

 従って押し付けがましさがなく、また文章も平易で、天才ダ・ヴィンチがメモ魔だったという話から始まって、それに倣って「手帳」を持ち歩くようになり、更に「ノート」「カード」と変遷していく自らの情報整理術の遍歴の語り口は、まるでエッセイを読むようです(個人的にハマったなあ、「京大カード」。結構デカいので、途中からハーフサイズのものに切り替え、収納用の木箱まで買ったのを中身と共に今も持っている)。
 その後に出てくるファイリング・システムの話などは、野口悠紀雄氏の考えに連なるものがあり、〈「超」整理法〉もいきなり誕生したわけではないということかと思った次第。

 本書の後半では、「読書」「書く」「手紙」「日記と記録」「原稿」「文章」といったことにまで触れ、カバーしている範囲も幅広く、何れも示唆に富むものですが、文化人類学者らしく文化論的な論考も織り込まれていたりするのも本書の特徴でしょうか。

 再読して改めて興味深かったのは第7章の「ペンからタイプライターへ」で、著者は英文タイプライターにハマった時期があり、手紙などもローマ字で打ち、その後カナ・タイプライターが出るとそれも使っているという点で、ワープロの無い時代に既にこの人はそうしたものを志向していたのだなあと(更にカーボン紙を使って現在のコピーに当たる機能をも担わせている)。

 今でこそ我々はワープロやコピー機を、そうしたものがあって当然の如く使っているだけに、内容が技術面で経年により陳腐化しているというよりは、むしろ著者の試行錯誤が却って新鮮に感じられ、「より効率的、生産的な方法」を模索する飽くなき姿勢には感服させられます。

 自分は本をあまり読まないとか文章を書くのが得意ではないとかサラっと書いていますが、本当はスゴイ人であり、著者の秘書をしていた藤本ひとみ氏の『知的生産者たちの現場』('84年/講談社、'87年/講談社文庫)などを読むと、本書にある「技術」が現場でどのように応用されたのかということと併せて、著者の精力的な仕事ぶりが窺えます。

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'07-'09年にかけての労働者の置かれている現場の状況を改めて俯瞰する。

ルポ雇用劣化不況.jpg 『ルポ 雇用劣化不況 (岩波新書)』 ['09年] 竹信 三恵子.jpg 竹信 三恵子 氏(朝日新聞編集委員)

 著者は朝日新聞の編集委員で、長年にわたり労働問題を追い続けている人ですが、本書は規制緩和の後押しを受け悪化する非正社員・正社員の労働環境の現場をルポルタージュしたもの。
 '08年3月から5月にかけて朝日新聞に9回に渡って連載された「現場が壊れる」という企画記事がベースになっていますが、1年後の'09年4月の刊行ということで、'08年9月に起きたリーマン・ブラザーズの破綻に端を発する金融恐慌と世界経済の衰退に伴う国内の雇用情勢の悪化に関することも加筆修正の際に織り込まれ、結果としてタイムリーな出版となっています。

 序章・終章を除いて6章の構成で、第1章にある「派遣切り」と言われる問題などは、まさにリーマン・ショック以降、顕著なものとして注目された問題ですが、本書によれば、以前から自動車メーカーにとって派遣労働は「人間のカンバン方式」と呼ばれていたとか。
 派遣労働者には携帯メールで登録した人も多く、派遣会社の所在地も知らず、雇用保険の手続きもままならない、それでいて住居を追い出されてホームレスになれば、住所不定で再就職も出来ないという情況を伝えています。

現場が壊れる.jpg 第2章で派遣・請負に伴ってありがちな「労災隠し」(労災飛ばし)の問題を、第3章で正社員の削減等により様々なしわ寄せを受けるパート・派遣労働者の労働環境の問題を扱っていますが、この辺りは以前からマスコミなどでよく報道されており、但し、旅行業界の添乗員は「美空ひばり」タイプより「モーニング娘。」タイプ-要するに細かいサービスが出来るベテランよりも入れ替え可能な臨時雇用が求められているという現況は新たに知りました(この部分は内容的にはほぼ新聞記事の再掲のようだが...)。

2008.3.21朝日新聞(朝刊)

 結局、こうしたことのツケは利用者に回っているのだとういうこの章での著者の指摘は、考えさせられるものがありました。

 第4章で扱っている非常勤公務員などの「官製ワーキングプア」問題や第5章の「名ばかり正社員」問題は多くの人にとって目新しいかも。 
 「名ばかり正社員」の問題は「名ばかり管理職」とパラレルなのですが、「非正社員=ワーキングプア」というイメージから逃れるため若年社員の間で広がっており、かつて正社員と言われた人ほどに雇用保障があるわけでもなく、一方で非正社員のリーダー役として利用されているという...ひどい話。

 第6章では労働組合の現況を取材していますが、企業内組合の中には「御用組合」化しているものもやはりあるのだなあと。これからは個人加入のユニオンなどが本来の組合的役割を担っていくのかなあという気がしました。

 同じ岩波新書の『ルポ解雇』(島本慈子著/'03年)、『働きすぎの時代』(森岡孝二著/'05年)、『労働ダンピング』(中野麻美著/'06年)、『反貧困』(湯浅誠著/'08年)などの流れにある本ですが、解決策を提示するよりもルポそのものに重点が置かれているため、'07-'09年にかけての労働問題、労働者の置かれている現場の状況などを改めて俯瞰するうえでは悪くないものの、新聞をまとめ読みしているような感じも。

 本書『ルポ雇用劣化不況』は、労働ジャーナリストらが選ぶ「2010年日本労働ペンクラブ賞」を受賞しました。

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被害者・加害者の相談窓口とのやりとりをリアルに再現。男性側がひど過ぎ(人格障害?)。

壊れる男たち.jpg壊れる男たち―セクハラはなぜ繰り返されるのか (岩波新書)』['06年] 金子雅臣.jpg 金子雅臣 氏

 ルポライターである著者は、長年にわたり東京都の労働相談に従事していた人で、東京都は「セクハラ相談窓口」を早くから設け、解決に導く斡旋システムを作り、実績を残してきたとされる自治体ですが、本書では、どういった形でのセクハラ相談が「女性相談窓口」に持ち込まれ、役所命令で召喚された加害男性はどう抗弁し、それに対して彼自らに非があることをどのように認めさせ、斡旋に持ち込んだかが、会話のやりとりそのままに描かれています。

 とにかく、本書の大部分を占める5件の事例における、被害者、加害者と相談窓口とのやりとりが、秘密保持の関係で一部手直しされているとは言え、非常にリアルで(岩波新書っぽくない)、こうした当事者間の問題は、真相は「藪の中」ということになりがちなような気もしますが(実際、アンケート調査で用いた架空事例については、好意かセクハラか意見が分かれた)、本書で実際例として取り上げられているものは、何れもあまりにも男性の方がひどい、ひど過ぎる―。

 まず、セクハラの加害者としての意識がゼロで、被害者の気持ちを伝えると、今度は一生懸命、「藪の中」状況を作ろうとしていますが、すぐにメッキが剥がれ、それでも虚勢を張ったり、或いは、最後は会社を解雇されたり妻に離婚されたりでボロボロになってしまうケースも紹介されています。

 こうした問題に関連して最近よく発せられる、職場の男性は"壊れている"のか?という問い対し、著者は上野千鶴子氏から「男性はもともと壊れている」と言われ、著者自らが男性であるため、それではセクハラを「する男」と「しない男」の分岐点はどこにあるのかを検証してみようということで、本書を著したとのことです(と言うことは、自分はハナから「セクハラをしない男」に入っているということ? この辺がやや偽善系の感じもするが...)。

 加害者となった男性が「男の気持ちがわからない女性が悪い」「なぜ、その程度のことで大騒ぎするのだ」などと反論することがまま見られるように、著者の結論としては、男性の身勝手な性差別意識の問題を挙げていて、セクハラを「する男」には押しなべて男性優位の考えと甘え発想があり、実はセクハラは"女性問題"ではなく"男性問題"であると。

 著者は、「気になること」(198p)として、性的なトラブルなどに現れる男たちが「著しく他者への共感能力を欠いている」「相手の人格を否定してでも自らの欲望を遂げようとする」といった傾向にあることを指摘しています。
 男性の願望によって造られた性のイメージが巷に氾濫していることも、「意識」が歪められる一つの原因としてあるかと思いますが、もともと、こうして勝手に頭の中で相手とのラブストーリーを描いてしまい、相手の抵抗にあってもそれを好意の裏返し表現ととってしまう男性は、「人格」に障害があるのではないかという気がしました。

パーソナリティ障害―いかに接し、どう克服するか.jpg 精神科医の岡田尊司氏は『パーソナリティ障害』('06年/PHP新書)の中で、自己愛性パーソナリティ障害の人は、あまりにも自分を特別な存在だと思って、自分を諭す存在などそもそも存在しないと思っているとしながらも、一方で、非難に弱く、或いは、非難を全く受け付けず、過ちを指摘されても、なかなか自分の非を受け入れようとはしない、としていますが、本書に登場する加害男性は、プライドは尊大だが非難には脆いという点で、共通してこれに当て嵌まるような気がしました。

岡田 尊司 『パーソナリティ障害―いかに接し、どう克服するか (PHP新書)

 「意識」の面ではともかく、「人格(性格)」自体は変わらないでしょう。セクハラを繰り返す人は、意外と仕事面でやり手だったりするけれども、どこかやはり人格面で問題があり、権勢を振るったとしても、立っている基盤は不安定なのでは。
 セクハラ事件で退職に追い込まれた部長に対し、会社としてもいい厄介払いができたと思っているフシも見られる事例があったのが印象的でした。

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「色好み」を自ら体現したのは紫式部よりも清少納言、更にその上をいった和泉式部。

色好みの構造―王朝文化の深層.jpg 色好みの構造 ― 王朝文化の深層.jpg      中村真一郎.jpg 中村真一郎 (1918-1997/享年79)
色好みの構造―王朝文化の深層 (岩波新書 黄版 319)』['85年]

色好みの構造4.JPG タイトルからくるイメージとは異なり、かなりカッチリした内容の王朝文化論―、ではあるけれども、テーマが「色好み」であるだけに面白く読めました。
 
 著者によれば、平安朝における「色好み」という愛の形(性的習慣)は、今日から見ると、ほとんど特異で非常識なものであり、それは平安朝の生んだ愛の理想形であるとのことで、例えば、男が1人の女だけを盲目的に愛するのは、一種の病人でありモノマニアとして見られたとのこと。

 日本人の美意識は平安朝において完成し、以降は解体期であるとの見通しを著者は持っていて、平安朝の美意識を頂点とすれば、近世の「つきづきし」などもそのバリエーションに過ぎず、その美意識と不可分の関係にある「色好み」という"文明理想"は日本の伝統の根に潜み、今日でも我々の観念生活の中に残存しているかも知れないとのこと。

 しかし、「色好み」の頂点とされる『源氏物語』などの平安王朝文学を今日読み説くにあたっては、以降の儒教思想の影響、本居宣長の道徳的自然主義や明治期の日本的自然主義の影響などを経て、常に倫理観的なバイアスがかかったものにならざるを得なかったのではないかと。

 典型例が、光源氏が多数の女性に惹かれたのは「人間的弱さ」からであり、本来は1人の女性に対し貞節を守るべきだが、人間とは欲望に弱いものであり...とか、彼は1人1人の女性に対しては誠実だった...とかいったものですが、近代的感覚によって、光源氏の「色好み」の生活を現代の倫理観に調和させるのは無理があるというのが著者の主張です。

 著者によれば、平安期において「色好み」は隠しておきたい欠陥ではなく、1つの文明的価値であり美徳であったと。
 『源氏物語』の登場人物には実在のモデルが多くいて、それは当時週刊誌のように廻し読みされる「スキャンダル集」だったが、読者男女は、次は自分たちの秘事が暴かれるのではないか、この物語のモデルとなる名誉に浴したいものだ、という期待のもとに、新巻を待ち焦がれていたというのです。

 しかし、『紫式部日記』から察せられる紫式部自身の恋愛観は典型的な「色好み」とは言えず、むしろ、それを体現していたのは『枕草子』の清少納言だったというのが大変面白い指摘で、清少納言は相当な"発展家"だったみたい(作品においても、『枕草子』の「おかし」は『源氏物語』の「あわれ」よりも知的遊戯性の度合いが高いと著者は見る)。

 更にその上をいく「色好み」の女流は、『和泉式部日記』の和泉式部で、紫式部より遥かに気安く男性と付き合い、それを平然と人に見せびらかすとともに、清少納言のように色事の風情を楽しむだけでなく、いちいち相手に深入りし、情熱の燃え上がりを見せるというタイプだったらしいです。

 因みに、「色好み」の要件の第1は和歌の才能で、いかに優れた(凝った)恋歌が詠めるかということのようなので、ただ好色なだけではダメみたい。

  
 【2005年アンコール復刊[岩波新書]】

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新自由主義政策の弊害を「民営化」という視点で。前半のリアルな着眼点と、後半のアプリオリな視座。

ルポ貧困大国アメリカ.jpg ルポ 貧困大国アメリカ.jpg 『ルポ貧困大国アメリカ (岩波新書 新赤版 1112)』 ['08年]

 '08(平成20)年度・第56回「日本エッセイスト・クラブ賞」受賞作で、'08年上期のベストセラーとなった本('09(平成21)年度・第2回「新書大賞」も受賞)。

obesity_poverty.jpg 前半、第1章で、なぜアメリカの貧困児童に「肥満」児が多いかという問題を取材していて、公立小学校の給食のメニューが出ていますが、これは肥って当然だなあと言う中身。貧困地域ほど学校給食の普及率は高いとのことで、これを供給しているのは巨大ファーストフード・チェーンであり、同じく成人に関しても、貧困家庭へ配給される「フードスタンプ」はマクドナルドの食事チケットであったりして、結果として、肥満の人が州人口に占める比率が高いのは、ルイジアナ、ミシシッピなど低所得者の多い州ということになっているらしいです。

Illustration from geographyalltheway.com

 第3章で取り上げている「医療」の問題も切実で、国民の4人に1人は医療保険に加入しておらず、加えて病院は効率化経営を推し進めており、妊婦が出産したその日に退院させられるようなことが恒常化しているとのこと、こうした状況の背後には、巨大病院チェーンによる医療ビジネスの寡占化があるようです。

 中盤、第4章では、若者の進路が産業構造の変化や経済的事情で狭められている傾向にあることを取り上げていて、ここにつけ込んでいるのが国防総省のリクルーター活動であり、兵役との引き換え条件での学費補助や、第2章で取り上げている「移民」問題とも関係しますが、兵役との交換条件で(それがあれば就職に有利となる)選挙権を不法移民に与えるといったことが行われているとのこと。

 本書執筆のきっかけとなったのは、こうした学費補助の約束などが実態はかなりいい加減なものであることに対する著者の憤りからのようで、後半では、貧困労働者を殆ど詐欺まがいのような勧誘で雇い入れ、「民間人」として戦場に送り込む人材派遣会社のやり口の実態と、実際にイラクに行かされ放射能に汚染されて白血病になったトラック運転手の事例が描かれています。

 全体を通して、9.11以降アメリカ政府が推し進める「新自由主義政策」が生んだ弊害を、「民営化」というキーワードで捉え、ワーキングプアが「民営化された戦争」を支えているという第5章の結論へと導いているようですが、後半にいけばいくほど著者の(「岩波」の)リベラルなイデオロギーが強く出ていて(「あとがき」は特に)、「だから米国政府にとっては、格差社会である方が好都合なのだ」的な決めつけも感じられるのがやや気になりました(本書にある「世界個人情報機関」の職員の言葉がまさにそうであり、こうした見方さえ"結果論"的には成り立つという意味では、そのこと自体を個人的に否定はしないが)。

 著者は9.11テロ遭遇を転機にジャーナリストに転じた人ですが、本書が「○○ジャーナリスト賞」とか「○○ノンフィクション賞」とかでなく(まだこれから受賞する可能性もあるが)、その前に「エッセイスト・クラブ賞」を得たのは、文章の読み易さだけでなく、前半のリアルな着眼点と、後半のアプリオリな視座によるためではないかと。

《読書MEMO》
●「世界個人情報機関」スタッフ、パメラ・ディクソンの言葉
「もはや徴兵制など必要ないのです」「政府は格差を拡大する政策を次々に打ち出すだけでいいのです。経済的に追いつめられた国民は、黙っていてもイデオロギーのためではなく生活苦から戦争に行ってくれますから。ある者は兵士として、またある者は戦争請負会社の派遣社員として、巨大な利益を生み出す戦争ビジネスを支えてくれるのです。大企業は潤い、政府の中枢にいる人間たちをその資金力でバックアップする。これは国境を超えた巨大なゲームなのです」(177-178p)

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読み易く味わいのある文章。今でも充分に入門書として通用する。

宇宙と星2977.JPG宇宙と星.gif  畑中 武夫.jpg  畑中 武夫 (1914-1963/享年49)
宇宙と星 (岩波新書 青版 247)』 ['56年]

 著者の畑中武夫は理論天体物理学者で、萩原雄祐(1897-1979)門下で小尾信彌氏(東大名誉教授)などの兄弟子に当たる人、若くして日本の天文学界のリーダーになりましたが49歳で亡くなり、和歌山県新宮市の出身ということで、同じく夭折した中上健次(1946-1992)らと共に、新宮市の名誉市民になっています。(下図は「新宮市」ホームページより)

 本書は'56年の刊行で、岩波新書の宇宙学関係では超ロングセラーであり、宇宙物理学者の池内了氏(名大教授)なども「私が宇宙に研究を志すきっかけとなった本」と言っています。

 我々に馴染みの深い星座の話から説き起こして、太陽(恒星)と銀河系を語り、最後に、星の生涯や宇宙の生成と進化について天体物理学的な観点から解説しており、星の光度や距離をどのように決定するのかといったことや、恒星のHR図(星の光度と表面温度の相関図)からの星の来歴の読み取りなどがわかり易く解説されていて、今でも充分に入門書として読めるし、構成的にも文章そのものも読み易いように思います。

 細かい数字はともかくとして、「脈打つ星」(パルサー)の原理や、太陽および銀河系の構造、超新生爆発または白色矮星で終わる星の生涯のことなど、この頃もう既にここまで判っていたのだなあと思わせる記述が多い一方で、「惑星を伴う恒星」の存在など推論段階のものもあり(現在は200個以上発見されている)、宇宙の始まりを50億年前と推定しています(現在は137億年前とされている)。

 40代前半で書かれたわりには、エッセイ風の味わいのある記述もあり、「オリオンの名は、球団や、映画館や、またいくつかの商品の名にも使われていて、われわれに親しみ深い」などいう記述にぶつかると、ちょっとタイムスリップした感じで嬉しくなってしまいます(因みに、スペースシャトル引退後の後継機の名は「オリオン」に決定している)。
畑中武夫(新宮市出身).jpg

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「複雑系」疑似科学を取り上げたことで面白くなったが、全体的にインパクト不足。

疑似科学入門.gif 『疑似科学入門 (岩波新書 新赤版 1131)』 ['08年]

 冒頭、疑似科学と言われるものを、「第1種疑似科学」(占い系、超能力・超科学系、擬似宗教系など科学的根拠の無い言説)、「第2種疑似科学」(永久機関・ゲーム脳、マイナスイオン・健康食品・活性酸素・波動、各種確率や統計など、科学の装いを取りながら実態の無い言説)、「第3種疑似科学」(環境問題、電磁波被害、狂牛病、遺伝子組換え作物、地震予知、環境ホルモンなどの科学的に証明しづらい「複雑系」)の3つに分類しています。

水の記憶.jpg それぞれについてどういった種類のものがあるのか、「第1種疑似科学」を信じる人間の心理作用や「第2種疑似科学」が世の中にはびこる理由(これ、"健康"と"カネ"が結びついたものが多い)は何かを考察的に整理していますが、まあ、自分に関しては大丈夫かな、という感じで、「水の記憶」なんてバカバカしい"水ビジネス"もあるんだといった野次馬感覚で読み進み、著者の言っているそのワナに嵌まらないための"処方箋"というのも、真っ当過ぎてインパクトが弱いような気がしつつ読んでいました。

 ところが、「第3種疑似科学」=「複雑系」のところに入って、自分の疑似科学に対する"免疫"度に少し自信が持てなくなってきたというのが正直なところ(「複雑系」の全てが「疑似科学」に含まれるわけではないとは思うが)。
 著者自身、「第1種」「第2種」だけで本を纏めるにはあまりにインパクトがないと思いつつも、「第3種」を疑似科学に含めるかどうかについては逡巡したらしく、また、明確な科学違反とは言えない「第3種」への"処方箋"として持ち出した、「不可知論に持ち込むのではなく、危険が予想される場合はそれが顕在化しないような予防的な手を打つべきである。その予想が間違っていても、人類にとってマイナス効果は及ぼさない」という「予防措置原則」の考え方に対してすら、あとがきにおいて、金科玉条的な「予防措置原則」は疑似科学の仲間入りをすることも考えられると、慎重な姿勢を見せています(じゃあ、どうしてそんな曖昧な姿勢のまま本書を書いたのかということについては、批判を覚悟しながらも、これにより議論が拡がれば、ということらしい)。

 疑似科学を振りまく学者もどき(例えば「環境問題は存在しない」という"小言辛兵衛"型の科学者)は困ったものですが、それを批判する側の姿勢(多くが反論のための反論になってしまっている)にも、全否定で臨むのではなく、「部分的には受け入れても全面的に信用しない」姿勢が求められるとしている点が印象に残りました。

 著者の池内了(さとる)氏は、ドイツ文学者でエッセイストの池内紀(おさむ)氏の実弟で、宇宙物理学者でありながら、漱石や寺田寅彦などの再評価も行っている人(本書にも、寺田寅彦の言葉とされる「天災は忘れた頃にやってくる」が引用されている)、本書は社会評論としても読めますが、「複雑系」のところで具体例を挙げている分、この辺は諸説あるテーマが殆どであるために、本書自体がバッシング対象となる可能性もあるように思われます(著者の参照している情報源が限定的であることは確か)。

 著者の科学者としての眼は冷静であるように思え、また個人的には、著者の自省的な考え方に一定の共感を抱いたのですが、「第3種疑似科学」について触れた部分を含めても、本全体としてのインパクトはやや弱かったか。

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自分の無知に気づき嫌気がさす前に、読み終わってしまう気軽さ。

ことわざの知恵.gif 『ことわざの知恵 (岩波新書 新赤版 (別冊7))』 ['02年] 四字熟語ひとくち話.gif 『四字熟語ひとくち話 (岩波新書 新赤版 別冊 10)』 ['07年]

岩波ことわざ辞典.jpg 岩波書店編集部員がことわざ研究家・時田昌端氏の『岩波ことわざ辞典』('00年/岩波書店)の刊行を手伝った際に気がついた、ことわざの色々な側面や「目から鱗が落ちる」(57p)エピソードを拾い集めた本で、1ページにことわざ1つずつ収め、説明も至極簡潔、かつ軽妙洒脱で(「赤信号皆で渡れば怖くない」(27p)なんていうのも含まれている)、楽しく一気に読めました。

岩波ことわざ辞典』 ['00年]

 「医者の不養生」と「紺屋の白袴」のニュアンスの違い(9p)など、何となくわかっていても、きちんと説明されてなるほどという感じ。医者の場合は単なる言行不一致だけれど、紺屋の方は、忙しく手が回らないということか。「紺屋の明後日」(10p)なんて言われるのも、天候次第で納品が遅れることがあるわけだ。紺屋さん、大変だなあ(自社のサイトが更新されていないホームページ制作会社っていうのはどっちに当たる?)。

 「年寄りの冷水」(128p)とは、冷水を浴びているのではなく、冷たい生水をがぶ飲みしている図であり、「知らしむべからず、由らしむべし」(129p)とは、「十分な知識の無い民衆に、政策の意味や理由を理解させることはできないだろうが、政策が間違っていなければ従わせることはできる」という意味であって、民衆には何も知らせるなということではないのだ。

 こうしたことわざの誤釈も多く紹介されていますが、「船頭多くして船山に登る」(120p)が「大勢が力を合わせれば何でもできる」とかいうのはまさに珍解釈、「灯台下暗し」(135p)は「トーダイ、モト、クラシ」であり、ここで言うトーダイとは、岬の灯台ではないし、「天高く馬肥える秋」(138p)の馬とは、北方の騎馬民族の馬であり、もともとは事変に備えよということらしいけれども、こうなるともう元の意味では使われていないなあ。

 たまにこういうの読むと自分の無知に気づき、いやになることもありますが、ページ数も175ページしかなく、嫌気がさす前に読み終わってしまう気軽さも却っていい。

 このシリーズでは、あと、『四字熟語ひとくち話』('07年)がお薦めで、こちらも1ページに1つずつ四字熟語を収めていますが、解説がエッセイ風とでも言うか、時折世相への風刺も入って、「天声人語」を読んでるみたいな感じ。

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モンローの魅力の秘密を思い入れ込めて解くとともに、モンローをめぐる「文化」について考証。

マリリン・モンロー.gifマリリン・モンロー 岩波新書2.jpg    亀井 俊介.jpg 亀井俊介・東大名誉教授

マリリン・モンロー (岩波新書 黄版))』['87年]

Marilyn Monroe by Ben Ross.jpg 著者は、「近代文学におけるホイットマンの運命」研究で日本学士院賞を受賞したアメリカ文学者(この人、日本エッセイストクラブ賞も受賞している)。著者によれば、マリリン・モンロー(1926-1962/享年36)は、生きている間は「白痴美の女」と見られることが多かったのが、その死を契機として同情をもって見られるようになり、謀殺説などもあってハリウッドに殺された犠牲者とされる傾向があったとのこと。著者は、こうした、彼女を弱者に仕立て上げるあまり、彼女が自分を向上させていった力や、積極的に果たした役割を十分に認めない考えに与せず、確かにハリウッドの強制によって肉体美を発揮したが、それだけではなく、アメリカ娘の心の精華のようなものを兼備していて、それらが溶け合わさったものが彼女の永続的で普遍的な魅力であるとしています。
Marilyn Monroe photo by Ben Ross

 ノーマ・ジーンとしての生い立ちからマリリン時代になりスターの地位を築くまで、そして突然の死とそれに伴う風評について、彼女について書かれた幾つかの伝記も参照しながら語られていますが、本書自体は伝記を目的としたものではなく、1つは、そうしたマリリン・モンローの魅力とは何だったのかということについて、個人的な思い入れも含めて考察し、もう1つは、生前・死後を通じて、彼女の存在やその魅力がアメリカの文化とどのように呼応し合ったかということを考証しているような本です。

Norman Mailer.jpgNorman (Kingsley) Mailer (1923-2007).jpg 更に本書の特徴を挙げるならば、マリリン・モンローに強い関心を抱きながらも彼女に逃げられ続けたノーマン・メイラー(1923 -2007/享年84)のことが、少し偏っていると言ってもいいぐらい大きく扱われていて、これは、モンローとメイラーに"精神的な双生児"的共通点があるとしている論評があるのに対し、両者の共通点と相反部分を著者なりに解き明かしたもので、この部分はこの部分で興味深いものでした(メイラーは結局、モンローに会えないまま、モンローの死後、彼女の伝記を書いているが、モンローはメイラーに会うことで自分が何らかの者として規定されてしまうことを避けたらしい)。
 Norman (Kingsley) Mailer (1923-2007)

Milton Ebbins pushed Monroe onstage for her famous rendition of Happy Birthday (Mr President).jpg 本書の中で再三にわたり明かされているのが、モンローの頭の良さと天才的かつ自然な自己アピール力。

Monroe onstage for her famous rendition of Happy Birthday (Mr President)

ジョン・F・ケネディ大統領の誕生祝賀パーティーで「ハッピー・バースデー」を歌ったという有名な場面も、歌の出向田邦子3.jpgだしはおぼつかなく、作家の向田邦子は、「大丈夫かな」と会場全員の男女を「子どもの学芸会を見守る親の心境」にさせておいて、最後は情感を込めて見事に歌い上げ、満場の拍手を得る―「影の演出者がいたとしたら、その人は天才だと思った」と書いていますが、著者は本書において「マリリン自身が天才だったのだ」とし、モンローには「政治家ふうの計算」はできなかったが、「政治家よりも豊かな心で、民衆の心と通い合うすべを完全に見につけていた」としています。

【1995年選書化[岩波新書評伝選]】

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インディ・ジョーンズ的自伝から、目立ちたがりと内向性の並立した複雑な性格をあぶり出す。

アラビアのロレンス37.JPG アラビアのロレンス 岩波改版版.jpg  『知恵の七柱』(全3巻).jpg アラビアのロレンス.jpg
アラビアのロレンス (1963年)』/『知恵の七柱 (1) (東洋文庫)』(全3巻)/映画「アラビアのロレンス」(1962)

アラビアのロレンス奥.JPG トーマス・エドワード・ロレンス(1888-1935)が第1次大戦後に書いた自伝『知恵の七柱(全3巻)』('68年/平凡社東洋文庫)の新訳の刊行が'08年8月からスタートしており、今もって根強い人気があるのかなあと。
 映画 「アラビアのロレンス」で知られるT・E・ロレンスは、第1次世界大戦中、トルコの圧政に抵抗して蜂起したアラブ人を率いて戦い、生涯で9回の戦傷、7回の航空機事故、33回の骨折に遭うなど何度もインディ・ジョーンズ   .jpg死地を脱してきた軍人で、考古学者でもあり、ちょっとインディ・ジョーンズっぽい感じもします(7回も航空機事故に遭えば、普通はその何れかで事故死しているのではないか。「知恵の七柱」というのも何だか冒険映画のサブタイトルみたい。映画「アラビアのロレンス」自体、その「知恵の七柱」を翻案したものなのだが)。

旧版 (1940年初版)  映画ポスター (1963年日本公開)
アラビアのロレンス1.jpgアラビアのロレンス 映画ポスター.jpg 英文学者・中野好夫(1903-1985)による本書は、ロレンスの死後5年を経た'40年に初版刊行、'63年に同名の映画の公開に合わせ23年ぶりに改訂・補筆されています(自分が読んだのは改訂版の方で、著者が改訂版を書いた1963年時点でも、『知恵の七柱』の日本語訳は未刊だった)。

 ロレンスの生い立ちから活動の変遷とその時代背景の推移、自身の華やかな過去の名声からの隠遁とオートバイ事故によって死に至るまでを描いており、政治史的な背景についての説明もなされていますが、記述の大部分は、『知恵の七柱』を参照しており、文学書の読み解きといった感じも。

 修辞的表現が多いからと言って『知恵の七柱』を"創作"と言ってしまったらロレンスに悪いのだろうけれど、著者自身は、書かれていることの真偽を考察しながらも、概ね事実とみなしているようです。
 デヴィッド・リーンの映画がそもそも、この"砂漠の冒険譚"的要素に満ちた『知恵の七柱』をベースにしており、そのため、本書と映画との相性はバッチリといったところで、しいて言えば著者の訳が古風すぎるのが難点か。

Lawrence of Arabia - Thomas Edward Lawence.jpg ロレンスを神格化しているという批判もあって(彼は実は英国の国益ためだけに行動したという説もある)、そうだったのかなと思って読み返しましたが、政治的動機はともかく、軍事的な天才であったことは確かで、とりわけ、アラブ人を組織化して戦闘ゲリラ部隊を創り上げてしまう才能は卓越しています。

 また、中野好夫は文学者らしく、ロレンスの目立ちたがり屋と内向性の並立した極端かつ複雑な性格を、自伝や書簡、逸話などからよくあぶり出しているように思えました。
 女性との交わりが無かったこと(一生を通じて偏見的なまでの女性憎悪を抱いていた)、同性愛者と言うより性癖としてはマゾヒストだった可能性がある(そう思わせる記述が『知恵の七柱』にある)としていますが、このことは映画でも、敵に囚われ拷問されるシーンでウットリした表情を見せることで示唆されています。

 Lawrence of Arabia - Thomas Edward Lawence (1888-1935)

 映画と実人物の違いで、最も差があるのは身長かも知れません(長身のピーター・オトゥールに比べ、ロレンスは身長165cmと英国人にしては低かった)。でも、生来のスタイリストで、顔つきも鋭く、アラブ服を着ると、映画のピーター・オトゥールと同じように見え、やはりカッコいい。
Arabia no Rorensu(1962)
アラビアのロレンス 62.jpgArabia no Rorensu(1962).jpg
「アラビアのロレンス」●原題:LAWRENCE OF ARABIA●制作年:1962年●制作国:イギリス●監督:デヴィッド・リーン●製作:サム・スピーゲル●脚本:ロバート・ボルト●撮影:フレデリック・A・ヤング/ニコラス・ローグ ●音楽:モーリス・ジャール●原作:T・E・ロレンス 「知恵の七柱」●時間:207分●出演:ピーター・オトゥール/アレック・ギネス/アンソニー・クイン/オマー・シャリフ/ジャック・ホーキンス/アーサー・ケネディ /アンソニー・クエイル/アラビアのロレンス(洋画ポスター).jpgアラビアのロレンス 1971.bmpアラビアのロレンス 1970.bmpホセ・ファーラー/クロード・レインズ/ドナルド・ウォルフィット/マイケル・レイ/ジョン・ディメック●日本公開:1963/12●配給:コロムビア映画 ●最初に観た場所:高田馬場ACTミニシアター(84-01-14)(評価:★★★★)●併映:「七年目の浮気」(ビリー・ワイルダー)/「フロント・ページ」(ビリー・ワイルダー)  映画チラシ (1970年/1971年/1980年 各リヴァイバル公開時)

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ドストエフスキーが小説で使用する言葉の二重性・多義性を徹底分析。

ドストエフスキー 江川卓.gifドストエフスキー (岩波新書)』['84年] 謎解き「罪と罰」2.jpg謎とき『罪と罰』 (新潮選書)』['86年]

罪と罰.jpg 法学部出身、独学でロシア語を学び(但し、父親はロシア文学者、ロシアの収容所で亡くなっている)ドストエフスキー作品の第一級の翻訳者になったという江川卓(えがわ・たく、1927- 2001)の名が、ロシア文学者として一般に広く知られるようになったのは、'87年に読売文学書賞を受賞した『謎とき「罪と罰」』('86年/新潮選書)によると思われますが、優れた翻訳者ならではの独特の分析は、作品そのものがよりミステリアスな『カラマーゾフの兄弟』を論じた『謎とき「カラマーゾフの兄弟」』('91年/新潮選書)や、更に『謎とき「白痴」』('94年/新潮選書)でも遺憾なく発揮されています。
『罪と罰』(江川卓・訳)

 但し、これらに見られる作品構成の重層的な分析、或いは、ドストエフスキーが用いた言葉や登場人物のネーミングなどの持つ二重性・多義性の分析は、'84年に刊行された本書で既にある程度されていて、当時としては画期的だったと思われるのですが、タイトルが単なる"入門書"や"評伝"のような印象を一般に与えたのか、この時は、研究者の間ではともかく、巷では一部においてしか話題にならなかったようです。

カラマーゾフの兄弟.jpg 「カラマーゾフ」で言えば、"カラマーゾフ"の意味が「黒く塗る」であるといったような興味深い指摘から、アリョーシャが皇帝暗殺者になるというこの作品の続編の構想の推察まで、後に「謎とき」で述べられることは既に本書で触れられているわけですが、「謎とき」シリーズが3作品に関するもので終わったのに対し、本書では、『貧しき人びと』『悪霊』などその他の作品についても触れられていて、それらについても「謎とき」の手法が展開されているのが注目されます。
『カラマーゾフの兄弟』(原卓也・訳)

 個人的に特に興味深かったのは、初期の"ゴーゴリ的"ヒューマンな作品とされている『貧しき人びと』の中で、主人公である小官吏マカール・ジェーヴシキンに、ゴーゴリの『外套』に対しては、「ワーレンカ(主人公に本を送った薄幸の少女の名)。まるでもうインチキです」と憤慨させ、プーシキンの『駅長』に対しては、貧しき人びと.jpgジェーヴシキン自身の"誤読"に基づく好感を抱かせていることを指し、これはこの2人の作家の限界を示しているものだとしていることで、主人公に文学評論させるという「メタ文学」的手法を使って、自分は既に処女作においてゴーゴリもプーシキンも超えたとしている(より高次のヒューマンな世界に作品を導いている)という自負が見られると指摘している点には、ナルホドなあと。
『貧しき人びと 』(木村浩・訳)

 本書全体としては、やはり、ドストエフスキーが用いた言葉の持つ二重性・多義性についての専門家としての分析が優れていますが、作品世界の背後にある、当時の異端や分派も含めた宗教世界についても、専門的な知識を駆使した分析に基づいて、作家や作品に与えた影響が縦横に語られており、(「謎とき」もそうだが)タイトルから受ける"入門書"のイメージを、いい意味で大きく"逸脱"したものとなっています。

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ディベート方式の「歌合わせ」で、短歌の愉しみや特性がわかる。

短歌パラダイス.jpg 『短歌パラダイス―歌合二十四番勝負 (岩波新書)』 ['97年]小林 恭二.jpg 小林恭二 氏 (作家)

俳句という遊び―句会の空間.jpg俳句という愉しみ.jpg 楽しい句会記録『俳句という遊び』、『俳句という愉しみ』(共に岩波新書)の著者が、今度は、ベテランから若手まで20人の歌人を集めて短歌会を催した、その際の記録ですが、そのやり方が、室町時代を最後に今では一般には行われていない「歌合」の古式に倣ったものということです。歌合わせ自体がどのように行われ、どのようなバリエーションがあったのか詳細の全てが明らかではないらしいですが、本書でのスタイルは、ちょっと「ディベート」に似ていて面白かったです。

 『俳句という遊び―句会の空間 (岩波新書)』['91年] 『俳句という愉しみ―句会の醍醐味 (岩波新書)』['95年]

 2つのチームに分かれ、テーマ毎に詠まれた短歌の優劣を1対1で競い合うのですが、チーム内を、自ら歌を作って俎上に乗せる「方人(かたうど)」と、歌は出さずに弁護に回る「念人(おもいびと)」に分け、本来のプレーヤーである「方人」は批評には参加できず、一方、弁護人である「念人」は自分では歌を作らず、個人的に敵味方の歌をどう思おうと、とにかく自陣の歌が相手方のものより優れていることをアピールし、そして最後に、「判者」が勝負の判定を下すというもの。やっぱり、これは「ディベート」そのものではないかと。

 『俳句という遊び』の時と異なり、作者名は最初から明かされているのですが、面白いのは、思い余って作った本人が自分の歌を解説したりすると(「方人」は「念人」を兼ねることはできないので、これは本来はルール違反)、これが意外とエクスキューズが多くてつまらなく、弁護人である「念人」の自由な(勝手な?)解釈の方がずっと面白かったりする点であり、短歌という芸術の特性をよく表しているなあと。

 『俳句という遊び』の時と同様、2日がかりですが、2日目は3チームに分けて、チーム内でとりまとめをした上で作品を俎上に提出するなど、趣向を変えて競っています(1日目の方が、より「「ディベート」的ではあったが)。

 良い歌を作っても、それ以上の出来栄えの歌とぶつかれば勝てないわけで、ここでは、あの俵万智氏がその典型、著者も「運が悪い」と言ってます。(彼女は元々"題詠"が苦手なそうだが、この時作った歌「幾千の種子の眠りを覚まされて...」と「妻という安易ねたまし春の日の...」は、『チョコレート革命』('97年/河出書房新社)-これ、大半が不倫の歌だったと思うが-に収録されている。やはり、愛着があるのか)。短歌をそれほど知らない人でも、誰のどのような歌が彼女の歌に勝ったのか、見てみたいと思うのでは。

 一方、題が作者らに沿わないと良い歌が出揃わず、互いの相手方の歌に厳しい批評が飛びますが、それぞれが舌鋒鋭いものの、どこか遊びの中でのコミュニケーションとして、言う側も言われる側もそれを愉しんでいる(実際はピリピリした面もあるかと思うが、そうした緊張こそ愉しみにしている)という点では『俳句という遊び』と同じ「大人の世界」―。でも結局、負ける場合は、自陣の歌を褒める根拠が人によってバラバラになっていることが敗因となていることが多いのが、興味深いです。

 『俳句という遊び』に続いて、これまた"野球中継"風の著者の解説が楽しく、読み始めると一気に読み進んでしまう本ですが、だいぶ解ってきた頃に、「座」や「連衆」という概念に表される日本の芸術観の特性についての解説などがさらっ入っているのもいい。

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国の介護福祉政策と現場の実態の解離を考えさせられた。

介護―現場からの検証.jpg 『介護―現場からの検証 (岩波新書 新赤版 1132)』['08年] 結城康博.jpg 結城康博 氏 (ケアマネジャー・淑徳大学准教授)

 '00年の施行後7年を経た介護保険制度のもとで、介護の現場はどのようになっているかを解説しつつ、国の介護福祉政策の問題点を浮き彫りにしたもので、日本の社会保障(介護福祉)は一体どうなってしまっているのだという暗澹とした思いにさせられる本でした。

 ルポルタージュ形式で挿入されている厳しい「老老介護」の実情や入所が困難な「特別養護老人ホーム」の状況など、読んでいるだけで自らが不安を感じるぐらい...。
 一方、国の施策としては、「特養」においては相部屋を減らし個室を増やしたり(数が足りていればいいが、不足している状況では入所できない人が増えるだけ)、それなのに、通所介助には保険が効かないなど、在宅介護に対する施策に不充分な点が目立つように思いました。

コムスン問題.jpg こうした中、在宅のお年寄りを騙して高額商品を売りつける悪徳業者がいるというのは腹立たしいことですが、問題となった訪問介護のコムソンなどは、国に対して、家事などの「生活援助」しかしていないものを「身体介護」をしたと偽って不正請求していたわけで、利潤追求の財源は国民の納めた保険料であったことを考えると、国民はもっと怒っていいのではないかと。

コムスンの「光と影」・日本経済新聞 (2007.6.19朝刊)

 しかし、一方でコムソン問題の底には、ケアプランニングにおいて区別される「生活援助」と「身体介護」が実際にはそんな明確に区分できるものだろうかという問題もあり、事件の処分として「連座制」による罰則適用により1事業所ではなく会社全体の業務が継続できなくなった問題(これが他の事業者にも波及して、ある法人のある事業所でフィリピン人を使用しただけで、法人の全事業所が業務停止命令を受けるといった事態まで生むことになっている)、更には、介護業界全体の人材不足の問題などを浮き彫りにしたということがわかります(コムソンのような事業者が、この業界における低賃金・低昇給モデルを既定のビジネスモデルにしてしまったから、人材不足が生じ、外国人を使わざるを得なくなるのだが)。
 介護福祉士資格を一定期間内に取得するということを条件に、フィリピン人の介護従事者の受け入れが徐々に始まっていますが(日本語を学ぶだけでも大変だと思うが)、規制緩和の前に規制強化することはよくあることです。

 政府の対応は、社会の批判に過敏になり、それをかわすことが目的化している面もあるように思え、長期の慢性疾患の患者が入院する「療養病床」の削減(「医療型」は削減、「介護型」は漸減的に全廃へ)なども、「社会的入院」に対する批判に応えたものと言えるでしょうが、本当に介護の必要な人への病院を追い出された後のケアが薄く、本書を読むと、少数の問題意識のある自治体だけがフォローに回っている感じがします。

 著者は、大学を卒業し(修士で経済学、博士で政治学を専攻)、その後数年間、福祉施設の介護業務に従事、今年('08年)4月からは大学で教鞭をとる傍らケアマネジャーの仕事もしているという人。本書では行政担当や政治家にも取材していますが、本書自体の政策提言はやや掘り下げが浅い感じもしました。
 本書は、「現場からの告発」とも言える本。本書執筆を機に学究にウェイトを移行するようで、その部分は次の展開を期待したいです。

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