2024年7月 Archives

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「●江戸時代の絵師たち」の インデックッスへ

素晴らしい写実絵画の数々。画家のアトリエが紹介されているのも興味深い。

写実絵画の画家たち.jpg写実絵画の画家たち02.jpg 写実絵画の新世紀2016.jpg 
島村信之「日射し」(2009)『写実絵画の新世紀: ホキ美術館コレクション (別冊太陽 日本のこころ 241) 』['16年]
写実絵画の画家たち ホキ美術館コレクション (別冊太陽 日本のこころ)』['20年]

「ホキ美術館」.jpg 千葉市の昭和の森に隣接する地にある、日本初の写実絵画専門美術館「ホキ美術館」(2010年開館)のコレクションをフィーチャーしたもので、『別冊太陽』のこの特集としては、『写実絵画の新世紀―ホキ美術館コレクション)』('16年)に続く第2弾になります。

青木敏郎「白デルフトと染付の焼き物の静物」(2012)
写実絵画の画家たち03.jpg 前回は、森本草介(1937-2015/78歳没)の追悼号の意味合いもありましたが、それでもほかに野田弘志、中山忠彦、羽田裕など25人ほどの画家の作品を紹介するものでした。こちもとトップにくるのは森本草介で(表紙も前回同様に森本作品)、以下、野田弘志をはじめ、中山忠彦、青木敏郎、五味文彦、生島浩、島村信之など、やはり同じくらいの人数の画家の作品が紹介されています。
  
野田弘志
写実絵画の画家たち0.jpg 画家ごとにプロフィール紹介や作品解説が丁寧にされているのは前回と同じですが、今回は画家自身のコメントが主となっており、また今回は、主だった画家の制作現場であるアトリエが紹介されているのが興味深いです。前回も石黒賢一郎のアトリエの紹介がありましたが、今回は十数人の画家について、基本的にまずアトリエ紹介から始まり、その後に作品がくる構成になっています。仕事場は(写実画家らしく?)整然としていて、画家のアトリエと言うよりデザイン事務所っぽいものも中にはあったように思いました。また、塩谷亮の「翠抄」などの制作過程が再現されており、写実絵画がどのような過程を経て描かれ、完成するのを知ることもできます。

生島浩「月隠り」(2011)/中山忠彦「トルコブルーの胸飾り」(1988)/五味文彦「飛行計画―南風の囁き(部分)」(2013)
写実絵画の画家たち04.jpg写実絵画の画家たち01.jpg五味文彦.jpg でも、やっぱり、掲載された写実絵画の緻密さ、素晴らしさがいちばんでしょうか。この点でも前回に劣るものではなく、観ていて飽きません。人物画、静物画、風景画、コラージュなど、それぞれの画家の得意とする分野も微妙に違っていて、バラエティに富んでいます。比較的近年に制作された作品が多いのも今回の特徴かと思います。前回との重複はほとんど無く、所蔵作品の豊富さを物語っています。ホキ美術館にはぜひ一度行ってみたいと思います。   
    
三重野慶画集 言葉にする前のそのまま』['21年] 三重野慶「言葉にする前にそのまま」(2017)
三重野慶画集.jpg三重野慶「言葉にする前にそのまま.jpg

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「●や 山本博文」の インデックッスへ 

日本的人事の歴史的ルーツを探る。現代に通じるところがあって面白かった。

人事の日本史 (朝日新書)01.jpg人事の日本史 3.jpg
人事の日本史』['05年/毎日新聞社]『人事の日本史 (新潮文庫 や 51-51)』['08年]『日本史から学ぶ「人事」の教訓』['13年/宝島社]
人事の日本史 (朝日新書) 』['21年]

 本書は、経済誌「エコノミスト」に2003年から2004年にかけて連載されたものが、連載終了後の2005年に毎日新聞社から単行本として刊行され、さらに2008年に新潮文庫に収められものを新書化したものです(その間 2013年に、テーマ別に大幅に改訂し『日本史から学ぶ「人事」の教訓』として宝島社より単行本として刊行されているが、本書は新潮文庫版を底本として誤字や誤記を修正したものである)。

 3人のが歴史学者が、日本史を古代・中世・戦国・近世の4章にわたって振り返り、「人事」の面から、①歴史上重要な意味を持つ人事はどのように決まったか、②古人は人事をどう考え行動したか、③日本史に貫通するに日本的人事の論理はあるか、の3つの観点から追究したものです。

聖徳太子.jpg 古代編ではまず、聖徳太子・厩戸皇子は抜擢人事の本邦第一号であったとし、その背景には、推古天皇が実力主義の人事を行ったことがあるとしています。冠位十二階によって、我が国で初めて「人事権」と呼ぶべきものが成立したと言えるとし、服務規程とも言うべき憲法十七条の原型も、この時代に制定されされた可能性があるとしています。

 人事が論功行賞の色合いを強めたのは大化の改新以降の孝徳天皇の代であり、クーデター実行に貢献した豪族らへの成功報酬的役割を果たしたが、豪族たちを初めて本格的に「能力評価」で選別・再編したという点では、「人事」の日本史上、画期的な変革だったとしています。

天武天皇.jpg 天武天皇のもと、律令制が整備される中で、「官僚」の勤務評定(考課)や昇進はどのように行われたかも紹介されていて、考課要素である「功過行能」の「功過」は職務遂行状況であり、「行能」は行状と技能であるとのことで、今で言う人事考課の3要素(成績・情意・能力)または2要素(業績評価・行動評価(コンピテンシー評価))と似ているのが興味深いです。

菅原道真.jpg 外交使節・遣唐使の選抜の決め手は、能力よりも「和やかに話し合える」性格が決め手だったとのことで、これも今の時代の採用面接に通じるところがあります。894年に第20次件遣唐使を拝命した菅原道真が、その無益を主張して白紙に戻したのを思い出しました。学者から大臣になった菅原道真の失脚の原因は、他の「学閥」からの嫉妬や攻撃だったのではないかとしています。

源頼朝.jpg源義経.jpg 中世編では、平清盛のバランス感覚と先見性(共に今でもリーダーの要件か)、源頼朝の人心掌握の巧みさ(部下一人ひとりに「お前だけが頼りだ」と囁いていたそうだ)が取り上げられていて、それに比べ弟・源義経は、組織の一員としての自覚が欠け、個人プレーの人だったとしています。

徳川吉宗2.jpg 下って近世・江戸時代では、8代将軍・徳川吉宗は、「足高制」という「役職手当」を創設して人事を活性化したとのこと、田沼意次失脚後に権力者となった松平定信は、賄賂やコネでなく人柄や能力を重視したが、時代劇の鬼平こと火付盗賊改・長谷川平蔵については、能力は認めていたが「山師」的人物と見なして評価しておらず、平蔵は結局それ以上の出世はできなかったとのことです(上司とそりが合わなくてはどうしようもない、というのは今も同じか)。

 武家政権の担い手らは、朝廷から授かる官位と幕府内の役職を持っていた(徳川家康ならば「征夷大将軍」と「将軍」)というのが、今の会社組織の等級と役職という二重身分と同じであるというのが興味深いです。最初に位があって、それに役職がつくため、ある等級に達しないと、ある役職にもつけないというのは、まさに律令制における「官位相当制」であり、人事考課もそうですが、いろいろな意味で、日本的人事のルーツは律令制の時代にあるのだと思いました。

山本博文2.jpg 日本的人事の歴史的ルーツを探る、と言うか、別に大上段に構える必要もないのかもしれませんが、いろいろと現代に通じるところがあって面白かったです。著者の一人、山本博文氏は、Eテレの「先人たちの底力 知恵泉」などテレビでも活躍していましたが、'20年3月に63歳で亡くなっているのが惜しまれます。

山本博文 氏

Eテレ「先人たちの底力 知恵泉」
山本博文 eテレ 知恵泉.jpg山本 博文(東京大学史料編纂所 教授)(1957-2020/63歳没)
1990年、『幕藩制の成立と日本近世の国制』(校倉書房)により、東京大学より文学博士の学位を授与。1991年、『江戸お留守居役の日記』(読売新聞社)により第40回日本エッセイストクラブ賞受賞。江戸幕府の残した史料の外、日本国内の大名家史料を調査することによって、幕府政治の動きや外交政策における為政者の意図を明らかにしてきた。近年は、殉死や敵討ちなどを素材に武士身分に属する者たちの心性(mentality)の究明を主な課題としている。主な著書に、『徳川将軍と天皇』(中央公論新社)、『切腹』(光文社)、『江戸時代の国家・法・社会』(校倉書房)、『男の嫉妬』(筑摩書房)、『徳川将軍家の結婚』(文藝春秋社)『日本史の一級史料』(光文社)などがある。

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ブームの「金継ぎ」。単なる修復ではなく創作。ルーツを辿ると楽しい。

金継ぎと漆.jpg        継 金継ぎの美と心.jpg
金継ぎと漆 KINTSUGI & JAPAN』['21年]『継 金継ぎの美と心 The Spirituality of Kintsugi』['21年]

 ほぼ同時期に出た「金継」の本2冊で、どちらも、解説書、作品集、入門書を兼ねています。

 『金継ぎと漆―KINTSUGI & JAPAN』の方は、金継ぎの研究者であり、金継ぎ教室も主宰する著者が、金継ぎの歴史や基礎知識、「金継ぎ」が国際化している現況などを解説しています(因みに、"JAPAN"は「漆」)。

織田 信長.jpg 本書によれば、「金継ぎ」の歴史は、織田信長(1534-1582)が茶道を武家社会の中で欠くことのできないセレモニーとして位置付けたところから(これには織田信長主催の京の茶会を成功させた千利休(1522-1591)の貢献も大きい)、茶器が家臣への褒章となり、ただし茶器は壊れやすく、一方で殿様からいただいた茶器を破損したならば、国替えどころか、切腹ということにもなりかねない―そこで壊れたら修理して新たな価値を与える「金継ぎ」の技術が生まれたとのことです(現代の感覚だと、茶碗割って切腹では「冗談キツイ」という感じだが、名器は城一つに値するとも言われたから、冗談とも言えないのかも)。

馬蝗絆.jpg 「金継ぎ」の生みの親は、織田信長説のほかに、足利義政(1436-1490)説も有力説としてあり、義政が中国に壊れた青磁茶碗を送って替わりのものを求めたところ、同じ水準のものが中国に無いとのことで金継ぎして送り返されたという「青磁茶碗 銘 馬蝗絆(ばこうはん)」の写真があります。修復個所はイナゴ(蝗)に見えるとされてきましたが、実は「馬蝗」とは中国語でヒル(蛭)のことで、著者はヒルに例えた方が、ヒルの姿がホチキス針のように器をつなぎとめる「鎹」に似ているからいいのではないかと思うとし、ただし、ヒルは血を吸ってイメージが悪いので、誤りをそのままにしたのではないかという研究者の見解も紹介しています。

青磁茶碗 銘 馬蝗絆

 作品集として鑑賞できるとともに、やきもの修理の基礎知識(まったく別の陶磁器の破片で修理する「呼び継ぎ」というのが面白い)、「金継ぎ」の基礎知識(使う材料は貝殻や卵の殻まで多種多様) 、漆について天然の漆にこだわる理由や漆はいつから使われたのかなど、さらに、修理に見る日本と西洋の違いなど、幅広く解説しています、

 各章末にあるコラムも楽しく、第2章末の「こわれものハンター、3万3000円で名品を買う」での骨董屋さんとの遣り取りなどはほんわかした気分にさせられます(その時講入した器が本書の表紙に使われている)。

継 金継ぎの美と心2.jpg 『継―金継ぎの美と心 The Spirituality of Kintsugi』の方は、漆芸修復師として様々な分野の修復に携わりながら多くの外国人、会社経営者らに金継ぎの魅力を伝える講演会、ワークショップなどを行う著者が、国内外の人に向けて金継ぎの歴史、職人文化、美的感覚や感性が表現されたデザインのほか、海外で人気を博す理由を印象的なエピソードとともに紹介しています。

 全4章構成の第1章では、金継ぎとは何か、修復の工程や漆について解説し、今に伝わる繕いの名品を紹介しています(金継ぎのルーツと言われる「青磁茶碗 銘 馬蝗絆」の写真がこちらにもある)。第2章では、職人の世界がどのようなものであったか、第3章では、繕うということの精神性や文化について述べ、第4章で、著者自身の金継ぎの工程を詳しく紹介しています。

 なぜ金継ぎが世界に受け入れられ評価されるのか(今や「Kintsugi」という英単語になっているようだ。著者の工房にも様々な国の人が訪ねて来るし、著者も海外へ行く)、美しいだけではない金継ぎの魅力を知ることができる一冊であり、写真も楽しく見ることができます。全文英訳が付されており、外国人でも分かるようにしている点が、金継ぎというものの国際化を表していると思います。

東京パラ.jpg 『金継ぎと漆』の方にも、今「金継ぎ」が内外でブームであるといったような表現が出てきますが、ブームの1つのきかっけは、2021年開催のパラリンピック東京大会閉会式で、国際パラリンピック委員会(IPC)のアンドリュー・パーソンズ会長が閉会挨拶の中で、「金継ぎ」に言及したことにあるようです(パーソンズ会長は金継ぎについて「誰もが持つ不完全さを受け入れ、隠すのではなく大事にしようという考え方です」と紹介。その上で「スポーツの祭典の間、私たちは違いを認め、多様性の調和を見せました。私たちの旅をここで終わらせてはいけません」と訴えた)。

パラリンピック東京大会閉会式でパラリンピック旗を振るIPCのパーソンズ会長(左)2021年9月5日[中日スポーツ]

 個人的には、単に修復すると言うより、創作の要素が強くあること(破損してない箇所にも金継ぎを施すことも)を強く感じました。2冊を相対比較すると、『金継ぎと漆』の方は「お教室」的で、『継』は「工房」的という感じでしょうか。後者の方がちょっとハードルが高いかもしれません。

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「強いられた犠牲を"美談"にせず、忘れないための記録」。

孤塁 双葉郡消防士たちの3・11.jpg孤塁 双葉郡消防士たちの3・11 文庫.jpg
孤塁 双葉郡消防士たちの3.11』['20年]『孤塁 双葉郡消防士たちの3・11 (岩波現代文庫 社会333)』['22年]

 2020年・第42回「講談社本田靖春ノンフィクション賞」、第63回「日本ジャーナリスト会議(JCJ)賞」、 第8回「日隅一雄・情報流通促進賞(大賞)」受賞作。

 原発が爆発・暴走する中、地震・津波被害者の救助や避難誘導、さらには原発構内での給水活動や火災対応にも当たった福島県双葉消防本部125名の消防士たちのその活動と葛藤を、消防士たちが初めて語ったものを集めています。岩波書店の雑誌「世界」連載中も大きな反響がありましたが、著者はさらに取材を続け、それを単行本に纏め上げたものです。

 双葉消防本部の協力のもと、消防士たちから聴き取ったものを後で再構築していますが、原発事故ゆえ他県消防の応援も得られず、不眠不休で続けられた消化・復旧活動。自分たちは生きて戻れるのかという不安の中でも、危険に身を晒し、職務以上のことをこなした消防士たちに頭が下がります。

 また、今そこで事態が目まぐるしく推移しているような臨場感があります。とりわけ、地震発生(3月11日)から4号機火災発生(3月16日)までの6日間が詳しく、表紙写真はその4号機火災現場への出動前の消防士たちですが、それまでにも、爆発しないと言われていたはずなのに1号機が爆発し(3月12日)、さらに爆発が予想される事態となった3号機構内での作業(3月13日)、そして3号機爆発(3月14日)と、重篤な事態は続いていきます。

 3号機構内での作業は、すでに1号機が爆発した後なのに、放射線量も、ベントの可能性も、必要な情報は何も知らされかったということで、最も情報が必要な消防士たちにそうした命に関わる情報が知らされず、それでいて考える間もなく作業にあたらねばならないというのはキツイ。しかも、この情報不足の状況は、地震及び津波発生時からずっと続いており、自分たちは生きて戻れるのか?という不安のもと、家族に遺書を書いた消防士もいたとのことです。

チェルノブイリの祈り―未来の物語.jpg ジャーナリストとして初のノーベル文学受賞した、スベトラーナ・アレクシエービッチの『チェルノブイリの祈り―未来の物語』を思い出しました。チェルノブイリ原発事故では、大量の放射線被曝による急性障害が200名あまりの原発職員と消防士に現れ、結局33人が死亡しました(そのうちの一人の悲惨な被曝死を追ったものが冒頭にある)。幸い福島原発事故では直接的な死者は出なかったものの、多くの消防士が放射線被曝の不安を抱え、その後の人生を送ることになりました。
スベトラーナ・アレクシエービッチ 『チェルノブイリの祈り―未来の物語』 (2011/06 岩波現代文庫)

 2018年10月から双葉消防本部に1年ほど通い、原発事故当時に活動し、その時点でも活動を続けている66人から話を聴いたとのこと(事故当時活動していた125名のうち約半数は、原発避難に伴う家族との兼ね合いや定年などで退職していたという)。会議室や食堂、事務所内で、1人1時間半から長いと4時間、各人1回から3回ほど当時のことを聴き続け、その証言を時系列に並べたとのことで、労作です。

 ただ、単に労作である(著者の思い入れもある)というだけでなく、著者が、「原発事故が"なかったこと"のように語られる現在こそ、知らなければならないと改めて感じています」と語っているように、「強いられた犠牲を"美談"にせず、忘れないための記録」(宇都宮大学教員・清水奈名子氏)であると思います。

原発事故、ひとりひとりの記憶.jpg 2023年に文庫化された際に、「『孤高』その後」が加筆されています。また、10年間取材を重ねてきた著者は、あの日から今に続く日々を生きる18人の道のりを伝え、あの原発事故が何だったかを、浮き彫りにすることを試みた『原発事故、ひとりひとりの記憶―3.11から今に続くこと』('24年/岩波ジュニア新書)を上梓しています。
吉田 千亜 『原発事故、ひとりひとりの記憶―3.11から今に続くこと』 (2024/02 岩波ジュニア新書)

【2022年文庫化[岩波現代文庫]】

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虐待の後遺症の凄まじさ、「ファミリーホーム」による「育ち直し」支援。

誕生日を知らない女の子.jpg黒川 祥子  氏.jpg 黒川 祥子 氏
誕生日を知らない女の子 虐待――その後の子どもたち』['13年]

 2013年・第11回「開高健ノンフィクション賞」受賞作(『壁になった少女 虐待―子どもたちのその後』改題)。

 虐待を受けた子どもたちは、成長するにつれ、心身ともに障害を生じ、問題行動に苦しんでいた。そうした被虐待児が暮らす多人数養育施設「ファミリーホーム」を密着取材。心の傷と闘う子供たちと彼らを支える人々の現実と育ち直しの時を、あたたかく見つめる―。

 虐待を受け保護された子どもたちをて家庭に引き取り、生活を共にするファミリーホームや里親に取材し(基本的には「社会的養護」の場を取材)、心身に残る虐待の後遺症に苦しみながらも同じ境遇の子らや里親と暮らし、笑顔を取り戻していく「育ち直し」の時を生きる子らを追っています(文庫化の際には、3年後の子どたちの「今」を追加取材し、大幅加筆)。

  第1章「美由―壁になっていた女の子」は、親から受けた虐待の後遺症で「解離性障害」を抱える女の子のケースが紹介されています。この障害の症状としては、多重人格や」幻聴・幻覚などで、その凄まじさに驚かされるととも、それでも懸命に生きようとする女の子と、それを支える周囲の努力が胸をうちます。

 第2章「雅人―カーテンのお部屋」は、「愛着障害」を抱えるも、最初はそれが虐待の後遺症であると分からなかった男の子の例で、症状としてはADHDのような行動態様が見られ、虐待と発達障害が複雑に絡み合っていることが分かります(本書は、ただ保育士や里親が頑張っているという話だけでなく、こうした精神医学的知見も随所に織り込まれている)。

 第3章「拓海―「大人になるって、つらいことだろう」」は、「母親の養育困難」ということで保護された児童養護施設から、新たにファミリーホームにやって来たこども例で、児童養護施設が子どもを規則で縛ることに躍起で、家庭的な経験をする機会を奪っているケースもある(だだし、自分たちにはその認識がなく、子どもの受け渡しを拒否する)という問題もあることを知りました。

 第4章「明日香―「奴隷でもいいから、帰りたい」では、実親の許に戻ればまた虐待されることが明らかなのに、戻ることを希望する子どももいるという例で、実際に親元に戻ってから虐待死したという報道があったケースなども紹介されていて(これは今でも新聞などで時々見かける)、痛々しく思うと同時に、問題の難しさを感じます。

 第5章「沙織―「無条件で愛せますか」」は、大人になった「被虐待児」を取材したもので、父親の暴行や性的虐待、継母の精神的虐待に苦しんだ末に、何とか生き延び結婚もしたものの、子育ての際にフラッシュバックし、うつ病状態になったり、子どもに殺意を抱いたりする自分(自分の娘の誕生日を祝っている時、娘に対し憎しみや怒りが湧くという。自分は祝われたことはなかったと...)と今まさに闘っている女性の例。話を聴けるタイミングを図りつつ、かなり突っ込んだ取材になっています。

代理ミュンヒハウゼン症候群.jpg まえがきで紹介されている「代理ミュンヒハウゼン症候群」とは、子どもの世話をする人物(多くは母親)が、自らではなく「子どもを代理として」病気の状態を作り出し、それによって医療機関に留まろうとする虐待のことを指し、以前に読んだ、本書でも紹介されている南部さおり氏の『代理ミュンヒハウゼン症候群』は(氏は「代理ミュンヒハウゼン症候群」は精神状態ではなく「行為」を指し、その行為は虐待であって犯罪だと言う)海外の事例を主に扱っていましたが、今や日本でも珍しくなく(かなり前から珍しくなかったのかもしれないが)、表面化しているものも氷山の一角に過ぎないのだと思いました。
南部 さおり 『代理ミュンヒハウゼン症候群』 (2010/07 アスキー新書)

 こうした中、「被虐待児」の人間性回復において「家族体験」は重要で、「里親制度」というのはよく知られていますが、「ファミリーホーム」による「育ち直し」の支援というものが大きな役割を占めていることを知りました。

エンジェルフライト 国際霊柩送還士1.jpg 前年の第10回「開高健ノンフィクション賞」受賞作の佐々涼子氏の『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』('12年/集英社)が、著者が取材対象に入り込んで一体となっているのに対し、こちらは、取材対象との関わりはあるものの、基本的には距離を保ちつつ事象を一途に追っていく作りで、同じノンフィクションでもいろいろなスタンスがあるなあと思いました。

佐々 涼子 『エンジェルフライト 国際霊柩送還士』 (2012/11 集英社)


 因みに本書の解説を、ネグレクトを扱った映画「誰も知らない」('04年)の是枝裕和監督が書いています。

【2015年文庫化[集英社文庫]】

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「●た 滝田 ゆう」の インデックッスへ

昭和迷走絵図.jpg
昭和迷走絵図01.jpg
滝田ゆうの私版昭和迷走絵図』['87年]
滝田ゆう.jpg昭和迷走絵図03.jpg 滝田ゆう(1932-1990/享年58)のイラスト画集(本人にしてみればこれも漫画なのだろう)。発刊時に書き下ろしたものもありますが、過去10年ほどの作品に加筆したものが多くを占めるとこと。「人情夢明かり」「遊情無情」「浮世巷譚」「赤猫タマのいる風景」「ぼくの空想旅行」昭和迷走絵図02.jpgという章の括りで、68作品が収められており、「人情夢明かり」から「浮世巷譚」までの51作品が単体カラーイラスト、「赤猫タマのいる風景」の9作品が2色刷りのイラスト+文章、「浮世巷譚」の8作品の内「キヨシの世界」だけが単体物モノクロ作品で、残り7作品が、1話見開きのコマ漫画という構成です。

 いずれも作者ならではの独特の味わいがあります。滝田ゆうの作品には普段コマ漫画で接することが多く、コマ漫画でもどこか絵画的なのですが、入手しやすいのは文庫だったりするので、細かい筆のタッチまで味わえなかったりします。その点、大判である本書は細部まで堪能でき、そうした"欲求不満"をしっかり解消してくれるような感じです(あの独特の吹昭和迷走絵図04.jpgき出しの中に小さく描かれているものもよく分かる)。

 それと、「キヨシの世界」に象徴される少年時代の思い出への懐かしさやや憬が随所にみられ、今は無き下町の情景が作者の心の中にはしっかり在り、またそこから新たな空想も拡がっていっているのだろうと思われます。「キヨシの世界」の前に、"空想"を巡るやや哲学的な思惟を綴った短文があります(最後、「一体全体、ぼくはなにを言おうとしているのでしょう。あーしんど...。」という言葉で締め括ってはいるが)。

ぼくの昭和ラプソディ.jpg 滝田ゆうは1990年、肝不全のため死去しましたが、58歳というのは勿体ない若さだったように思います。巻末に「ぼくの仕事場」というイラストがあり、張り紙風に「規則正しい食事と睡眠‼ 作品はその至極常識的な明け暮れの中から生まれる!」とありますが、「しかし、マンガの世界はひたすら人畜無害というわけにはいかない...」ともあり、さたに、タマと思しきネコに「...とカッコうけているわりには仕事はあまりはかどらない」と言わせています(しかし、どうして台所の片隅が仕事場なのだ?)。生前、入院中に作品の手直しとあとがきを手掛けた、本書と同じ画集形式の『ぼくの昭和ラプソディ』('91年/双葉社)が遺稿集となりました。やはり、良い作品をより多く残したいという気持ちは強かったのでしょう。
昭和迷走絵図お5.jpg
 

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有酸素運動で脳細胞が増える。週3回30~40分のランニングを推奨。動機づけにはなるか。

The Real Happy Pill.jpg運動脳.jpg 一流の頭脳.jpg アンデシュ・ハンセン2.jpg
『The Real Happy Pill: Power Up Your Brain by Moving Your Body』『運動脳』['22年/サンマーク出版]アンダース・ハンセン『一流の頭脳』['18年/サンマーク出版] アンデシュ・ハンセン(Anders Hansen)
スマホ脳3.jpgスマホ脳 (新潮新書) 』['20年]『最強脳 ―『スマホ脳』ハンセン先生の特別授業― (新潮新書) 』['21年]『ストレス脳 (新潮新書)』['22年]『脱スマホ脳かんたんマニュアル (新潮文庫 ハ 60-1)』['23年]『メンタル脳 (新潮新書 1024)』['24年]

 スウェーデンの精神科医で、ベストセラーとなった『スマホ脳』('20年/新潮新書)の著者によるものですが、書かれたのは本書(原題:The Real Happy Pill(「最高の薬」): Power Up Your Brain by Moving Your Body)の方が先で、『一流の頭脳』('18年/サンマーク出版)として訳出もされています(この時の著者名の表記は"アンダース・ハンセン")。『スマホ脳』がベストセラーになったので、旧著を加筆・再編集して再出版したようです(新潮新書の『スマホ脳』はタイトルの付け方が巧かったということか。因みに、『スマホ脳』の原題は、スウェーデン語で「Skärmhjärnan」という作者が作った造語で、英訳すると「shade brain」となり、「ぼやけ脳」「霞脳」などと訳すことができる)。

シニア運動1.jpg 全体としては、運動(有酸素運動)で脳細胞が増え、脳が活性化することを説いていて、第1章では、運動で脳が物理的に変えられることを先ず述べています。20分から30分ほどで十分効果があると。第2章では、脳からストレスを取り払うにはどうすればよいかを説いています。運動でストレス物質「コルチゾール」をコント―ロールでき、また、運動は海馬や前頭葉を強化するとし(「長時間1回」より「短時間複数回」がいいとも)、運動がおそらくストレスの最も優れた解毒剤であるとしています。ウォーキングとランニングでは、ランニングの方が有効であるようです。

ランニング イメージ.jpg 第3章では、「集中力」を高めるにはどうすればよいかを説いています。ここでは、集中物質「ドーパミン」を総動員せよとし、ドーパミンを増やすにも、ウォーキングよりランニングの方がやはりいいようです。第4章では、うつ病を防ぎ、モチベーションを高めるにはどうすればよいかを説いています。近年の研究で、うつ病を防ぐにに最も効果がある運動はランニングで、ウォーキングにもうつ病を防ぐ効果があることが明らかになったそうです。また、運動で「海馬の細胞数」が増え、「性格」も変わるとのことです。30~40分のランニングを週に3回行うこと、その活動を3週間以上は続けることを推奨しています。

 第5章では、「記憶力」を高めるにはどうすればよいかを説き、持久系のトレーニングは海馬を大きくする効果があることが実験で判ったとしています。第6章では、頭の中から「アイデア」を出すのにも運動は効果的あるとしています(例として村上春樹が出てくる)。第7章では、「学力」を伸ばすにも運動は効果的であるとしています。

 第8章では、「健康脳」を維持するにはどうすればよいかを説き、やはり運動が効果的であると。第9章では「移動」することの効用を説き、「脱・スマホ脳」のプランを示しています。第10章では、どんな運動をどれくらいやればよいかを説いていますが、ランニングを週に3回、45分以上行うのが良いと。

 運動が脳にいいというのは以前から言われていたし、運動によってストレスが解消されるというのは多くの人が体験していることではないかと思います。分かりやすく書かれていて、納得させられることも多いですが、何となく感覚的に分かっていることもありました(ウォーキングよりランニングの方が有効であるとか)。やや「ある調査によると」的な根拠不明の表現が多かったでしょうか。後半にいくと、前半部分との重複も多かった気がします。

スマホ脳2.jpg 「本国スウェーデンで最も売れた本!」「人口1000万人のスウェーデンで驚異の67万部超え!」という触れ込みです(『スマホ脳』より売れたとうことか)。『スマホ脳』は(読みやすく書かれているが)どちらかと言うと各論で、先に読むとしたら「健康脳」という意味で総論的なこちらかもしれません。運動をしていない人は「明日から運動しよう」、している人は「このまま続けよう」「頻度を増やそう」という動機づけにはなる、そうした意味では「いい本」かもしれません。自分自身にとってもそう運動脳3.jpgした要素はあったので、敢えて△とはせず○にしました。

 しかし、「○○脳」というタイトルの本、著者のものに限らず増えているなあ。漢字3文字の造語タイトルも増えているみたい(『食欲人』(著者はデイヴィッド・ローベンハイマー、スティーヴン・J・シンプソン他)とか『熟睡者』(著者はクリスティアン・ベネディクト、ミンナ・トゥーンベリエル他)とか)。

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〈暴走する〉イスラエルの現況を、歴史的背景から分かりやすく解き明かしている。

ガザ紛争の正体1.jpgガザ紛争の正体 宮田.jpg ガザ紛争の正体3.jpg JBpress
ガザ紛争の正体: 暴走するイスラエル極右思想と修正シオニズム (平凡社新書 1055)』['24年] 宮田 律(おさむ)現代イスラム研究センター理事長

中東 迷走の百年史.jpg イスラム研究者(学位は歴史学修士)である著者の本は、かなり以前に『中東 迷走の百年史』('04年/新潮新書) を読み、分かりよかったですが、今回も(と言っても刊行年に20年の隔たりはあるが)、〈暴走する〉イスラエルの複雑かつ特異な現況を、その歴史的背景から分かりやすく解き明かしています。

 第1章では、イスラエルの過激な行動の背景に、ナチによるユダヤ人迫害の歴史が強く影響を及ぼしていることが指摘されており、それは本書全体を通じての流れにもなっています。

 第2章から第4章では、現在イスラエルの政権を担うイスラエル極右と修正シオニズムの思想について解説し(第2章)、アメリカで生まれた、ラビ・メイル・カハネに由来する、「ユダヤのナチズム」と形容される「カハネ主義」がその源流で(第3章)、以降、「排除・殺戮の論理」を旨とするシオニズムというナショナリズムが、歴史的にどう展開されていったかが解説されています。また、ユダヤ教の本質は、現在のイスラエル極右の考えとは相容れないものであるともしています(第5章)。

 第6章では、意図的に民間人や病院・学校を攻撃するイスラエルの軍事ドクトリンの表向きの理由は、ハマスの戦闘員がそこに潜んでいるというものであるだけでなく、住民たちに多くの損害を与えることで「テロリスト」への支持を失わせるという理由もあるとのだとしています。

 第7章では、イスラエルが右傾化しているに対し、アメリカはリベラル化しているという両者の解離傾向を指摘し、第8章では、イスラエルの極右主義がは中東イスラーム世界にどういった大変動をもたらすかを考察、第9章で、パレスチナ和平に世界の世論の後押しが求められていると主張し、最後に、日本はイスラエルの極右政権に対して何をすべきなのかを述べています。

 著者は歴史研究が専門なだけに、ハマスとイスラエルの泥沼の戦争が何処から来たのか、歴史的経緯が説明されていてわかりやすいです。日常の新聞、ニュースなどの報道がどうしても歴史的な視点が抜け落ちて、今起きていることだけ報道されるので、こうした視点は大事だと思いました。

《読書MEMO》
●イスラエルは、エルサレムは古代ユダヤ王国の首都だったからイスラエルの首都であると主張する。しかし、アラブ・イスラーム勢力はエルサレムを1200年間にわたって支配したのに対して、ユダヤ支配は424年間にすぎない。(中略)古代に支配していたから自らの土地であるという理由は現在の国際社会の秩序を混乱に陥れるものだ。そのような主張を世界の多くの国が行うようになったら、さらに多くの地域紛争が発生することだろう。
スモトリッチ財務相.jpg●過激な修正シオニズムの流れを受け継ぐ極右カハネ主義者であるネタニヤフ政権のスモトリッチ財務相は、2023年3月、ヨルダン川西岸のパレスチナ自治区のフワーラ村(人口7000人)を「消滅させる必要がある」と発言し、同年6月、ベングビール国家治安相は、イスラエルの治安状況を安定させるために数十人、あるいは数百人、さらには数千人のパレスチナ人を殺害することがイスラエル政府の責務であると語った。
イスラエルのネタニヤフ首相とスモトリッチ財務相
●ネタニヤフ首相を頂点とするイスラエルの極右を含む政権は占領地であるヨルダン川西岸にさらに100万人のユダヤ人たちを住まわせることを考え、将来的にはヨルダン川西岸をイスラエルに併合するつもりである。

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なぜ長引くのか、終わらせることはできるのかを問うた対談集。

終わらない戦争.jpg 小泉 悠.jpg ウクライナ戦争はなぜ終わらないのか.jpg
終わらない戦争 ウクライナから見える世界の未来 (文春新書 1419) 』['23年] 小泉 悠 氏(東京大学 先端科学技術研究センター准教授) 『ウクライナ戦争はなぜ終わらないのか デジタル時代の総力戦 (文春新書 1404)』['23年]
ウクライナ戦争の200日 (文春新書 1378) 』['22年]
ウクライナ戦争の200日.jpg ウクライナ戦争の情勢分析で定評があり、メディアへの露出も多い小泉悠氏の本ですが、前著『ウクライナ戦争の200日』('22年9月/文春新書)同様に対談集で、3人の識者との対談が6本収められています。2022年2月24日のロシアによるウクライナへの本格的な軍事侵攻から始まった戦争から200日を過ぎ、さらに500日が過ぎるまでの期間の対談集で、当初は『ウクライナ戦争の500日』というタイトルにするつもりだったのが、500日を過ぎても停戦の気配がないため、このようなタイトルになったようです。

小泉悠×千々和泰明が.jpg 第Ⅰ章「ウクライナ戦争を終わらせることはできるのか」は、防衛研究所の千々和泰明・主任研究官との、「文藝春秋ウェビナー」での対談「なぜ太平洋戦争の"終戦"は特殊だったのか」(2022年9月9日)を活字化したもの。朝鮮戦争など二十世紀以降の主要な戦争終結をヒントに、ウクライナ戦争の「出口戦略」を考えていますが、「紛争原因の根本的解決」と「妥協的和平」という戦争終結の二つの極のどちらも困難さを孕むとし、「現在の犠牲」と「将来の危機」のどちらを取ってっも、双方はなかなか武器を置けないだろうと。また、日本の安全保障(これは小泉氏の継続的な講演テーマでもある)をどう考えるかにも言及しています。

プーチンと習近平.jpg 第Ⅱ章「プーチンと習近平の急所はどこにあるのか?」は、中国研究が専門の法政大学の熊倉潤教授との「中央公論」(2023年3月号)での対話で、戦争の長期化はプーチン政権に打撃を与えるのか、中露の権威主義体制の比較をもとに検討したもので、小泉氏が「今回の戦争で、仮にクーデターが起きてプーチンが排除されたとしても、それはあまり解決にならないと思っているんです。先に触れたように、プーチンはロシア社会の中から出てきた存在ですから、プーチンがいなくなっても今のロシアは変わらないと思います。」(p58)と述べているのが興味深いです。

小泉悠×高橋杉雄.jpg 第Ⅲ章「ウクライナ戦争「超精密解説」」、第Ⅳ章「逆襲のウクライナ」、第Ⅴ章「戦線は動くのか 反転攻勢のウクライナ、バイタリティ低下のプーチン」、第Ⅵ章「戦争の四年目が見えてきた」は、防衛研究所の高橋杉雄氏との対談で、2023年春から夏にかけて4回にわたり行われたもの(第Ⅲ章、第Ⅳ章、第Ⅴ章はそれぞれ「文藝春秋」2023年5月号7月号、8月号に掲載のものを加筆修正、第Ⅵ章は「文藝春秋ウェビナー」での対話「ウクライナ侵攻『超マニアック』戦場・戦術解説⑥」(2023年7月25日)を活字化したもの)。焦点化するバフムトの戦い、プリゴジンの存在感(ワグネルの反乱)、2023年6月に始まったウクライナの反攻など、この時期における戦争のタイムラインとして読め、「激しくも停滞した戦争」という印象は、現在(2024年7月)まで続いているように思います。

 因みに、本書刊行準備中の2023年8月23日、モスクワ北西部のトヴェリ州で墜落したビジネスジェットの乗客名簿にプリゴジンの名前があったことは周知の事実で、このことは、「プリゴジンは大衆人気が高いので、なかなか手が出せない」という小泉悠氏の言葉の後に「註」として付記されています(さすがに"暗殺"までは読めなかったか)。

Su-34.jpg あとがきに、自分は「我々が目指すべき秩序、とかいう話」よりは「シリアに派遣された『Su-34』は迷彩が褐色していてかっこいいですねグフフ」みたいなことばっかり言っている人間で「高邁な話には適任ではない」としていますが、こうした兵器オタク的な気質を隠さないところにも、この人の人気の秘密があるのかも(同じくオタク気質の高橋杉雄氏との対談で、パトレイバー、エヴァ、ナウシカ、ガンダム、ヤマトといったアニメや戦争の中の「戦争と兵器」を論じてもいる)。
ロシア軍Su-34戦闘爆撃機


小泉・高橋.jpg 『ウクライナ戦争の200日』からのメインの対談相手で、今回も対談の半分以上を占める高橋杉雄氏もメディアの露出が多いですが(二人ともBSフジの「プライムニュース」でよく見かけたが、高橋杉雄氏はその後防衛本省との併任となった関係でメディア露出を控えるようになり、小泉悠氏との対談もこれ(『終わらない戦』第Ⅵ章)が最後となった)、その高橋氏は本書に先行して『ウクライナ戦争はなぜ終わらないのか―デジタル時代の総力戦』('23年6月/文春新書)を出しており、こちらは共著で、下記の通り第2章から第4章はそれぞれ、笹川平和財団の福田純一・主任研究員、防衛研究所の福島康仁・主任研究官、中曽根康弘世界平和研究所の大澤淳・主任研究員が担当しています。

 第1章 ロシア・ウクライナ戦争はなぜ始まったのか 高橋杉雄
 第2章 ロシア・ウクライナ戦争―その抑止破綻から台湾海峡有事に何を学べるか 福田潤一
 第3章 宇宙領域からみたロシア・ウクライナ戦争 福島康仁
 第4章 新領域における戦い方の将来像―ロシア・ウクライナ戦争から見るハイブリッド戦争の新局面 大澤淳
 第5章 ロシア・ウクライナ戦争の終わらせ方 高橋杉雄
 終 章 日本人が考えるべきこと       高橋杉雄

 両著に共通しているのは、この戦争が「国家のアイデンティティーを巡る対立」であるということで、『ウクライナ戦争はなぜ終わらないのか』の方は、この戦争を「デジタル時代の総力戦」とし、ハイブリッド戦争として捉えている傾向が強いように思いました。ただ、その点は多くの論者が述べていることでもあり、むしろ小泉悠氏がこの戦争を「古い戦争」と捉えていることがユニークで、それがまた本質を突いているように思います(単なるオタクではない)。(●「古い戦争」であることを象徴するような報道があった。[下記])

《読書MEMO》
ロシア軍のオートバイ大集団が肉弾突撃、19台爆破され血の海に(2024.07.04 Forbes JAPAN(フォーブス ジャパン) )
ロシア軍はウクライナで装甲車両を大量に失っており、その数はウクライナ国防省の発表に従えば戦車以外の装甲戦闘車両だけで1万6000両近くにのぼる。その補充に苦労しているロシア軍はこの春、窮余の一策として突撃部隊に安価なオフロードバイクを配備し始めた。
ロシアがウクライナで拡大して2年4カ月あまりたつ戦争のおよそ1000kmにおよぶ戦線で、ウクライナ側は小型の自爆ドローン(無人機)を1日に何千機と投入している。ロシア軍の思いついたアイデアは、兵士をオートバイですばやく移動させれば、自爆ドローンの攻撃を浴びる前に目的地点までたどり着けるのではないか、というものだった。
この戦術は功を奏することもある。ロシア軍は、5月9日にウクライナ北東部で始めた新たな攻勢では国境から数kmの小都市ボウチャンシクですぐに失速することになったが、この間、ほかのいくつかの正面では数km前進を遂げている。現在、ウクライナに展開しているロシア軍の兵力は50万人近くにのぼる。
しかし、たいていの場合、オートバイによる突撃はうまくいかない。これは、第一次大戦中や戦間期に突撃バイクを試験した欧州各国の軍隊にとっては驚くような結果ではないだろう。
オードバイ突撃はそれどころか、ロシア兵の血の海になることもある。6月28日、数十台規模とみられる突撃バイクの大集団が、ウクライナ東部ドネツク州南部の小都市ブフレダルでウクライナ軍の第72独立機械化旅団を攻撃した。
ロシアの戦争特派員アレクサンドル・スラドコフによれば、作戦の目的は、ウクライナ側の陣地の背後に回り込み、孤立化させることだった。攻撃前にスラドコフは「ウクライナ側に背後から、より正確に言えば後方から打撃を加えることが計画されている」と報告していた。
だが、それは実現しなかった。オートバイのほか、T-80戦車を含む装甲車両からなるロシア軍の車列をウクライナ側はドローンなどで攻撃した。ミサイルや大砲も使われたもようだ。地雷も破壊に一役買ったのかもしれない。
煙が晴れると、残されていたのは残骸と死体の山だった。第72旅団は、ロシア側の戦車16両、それ以外の戦闘車両34両、オートバイ19台などを撃破し、人員800人あまりを死傷させたと主張している。

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話題も豊富、文章も巧み、読んでいて楽しいが、総花的で1つ1つはやや浅いか。

Jellyfish Age Backwards.jpg寿命ハック1.jpg寿命ハック2.jpg
Nicklas Brendborg『Jellyfish Age Backwards: Nature's Secrets to Longevity』『寿命ハック (新潮新書) 』['22年]

 アンチエイジングから不死に至るまで研究が隆盛を極める今日、「不老不死」はどこまで実現可能になっているのか。研究の最先端と未来を、デンマークの若手分子生物学者が、ユーモアを交えて分かりやすく解説し、実践的アドバイスも紹介した本です。全3部構成で印象に残ったのは―、

Quallen altern rückwärts.jpgベニクラゲ.jpg 第Ⅰ部「自然の驚異」(第1章~第4章)では、第1章「長寿の記録」で、自然界には、ストレスにさらされると種子のような休眠状態(芽胞)になるバクテリアや、成体の前のポリプ状態に若返るクラゲ(ベニクラゲ)などがいて(本書の原題は「Quallen altern rückwärts: Was wir von der Natur über ein langes Leben lernen können」、英題「Jellyfish Age Backwards: Nature's Secrets to Longevity」)、寿命を延ばす巧妙なテクニックを進化させた生物(食料が足りなくなると自分を食べるプラナリアなど)がいることを紹介しているのが興味深かったです

 第2章「太陽とヤシの木と長寿」では、長寿の人が住む「ブルーゾーン」というものが世界に幾つかあり、その一つが沖縄県だとのことです。ただし、沖縄がブルーゾーンだったのは20世紀末までで、現在の沖縄はBMIは日本最高で、ハンバーガーの消費量も日本一で、長寿ランキングも男性は国内中位まで下がり、もうブルーゾーンとは言えないようです。

サウナ.jpg 第Ⅱ部「科学者の発見」(第5章~第17章)では、第5章「あなたを殺さないものは......」の「ホルミシス」効果(ストレスが生物を強くする現象)というのが興味深かったです。少量のヒ素などの毒物が線虫の生命力を強めるのも、ヒトが運動して鍛えられるのもホルミシス効果であると。逆境で耐久力(レジリエンス)が向上するようです。北欧文化にある「サウナ&寒中水泳」が健康にいいのもホルミシス効果ということのようです。

 第8章「すべてを結びつけるもの」で、ホルミシスには、ノーベル生理学・医学賞を受賞した大隅良典教授の研究で知られる「オートファジー(細胞のゴミ収集車)」が重要な役割を果たしているとあり、オートファジーが適切に機能しなければ、ホルミシスは実験動物の寿命を延伸しなくなると。

 第13章「血液の驚異」によると、マウスの研究では、若い血を加えることよりも、古い血を抜くことのほうが若返りに効果があったそうで、継続的に献血する人は、献血しない人々より長生きするという研究結果もあるようです。

 第16章「長生きするためのデンタルフロス」で、歯周病はアルツハイマー病や老化と関係があるらしいというのは初めて知りました。

シニア インターバルトレーニング.jpg 第Ⅲ部「役立つアドバイス」(第18章~第24章)では、第18章「楽しく飢える」で、カロリーは摂り過ぎないのがよく、最も寿命が延びるのは飢餓状態であると(腹八分目は理にかなっている)。

 第23章「測定できるものは管理できる」では、高血圧になりにくい人は長生きすると(まあ、そうだろう)。それと、運動習慣は素晴らしいが、「時間がない」ことを運動できないことの理由にする人には、「高強度のインターバルトレーニング」を薦めています。また、筋肉の減少は長寿の阻害要因となり、長生きするには有酸素運動が最も重要だが、ウエイトリフティングを加えるとさらに効果的だとしています(筋トレをせよということか)。

 第24章「物質より心」では、プラセボ手術で変形性膝関節症での痛みが軽減した例や、プラセボ薬で過敏性腸症候群の患者の症状が改善した例が紹介されていて、プラセボ効果は心が体をコントロールしていることを示していると。また、人間関係が健康に影響するとしています。

 この他にも「テロメラーゼを作る遺伝子」(第10章)や、「ゾンビ細胞を標的にする薬(老化細胞除去薬)」(第11章)、「山中因子と多能性幹細胞で細胞をリプログラミングする」(第12章)など、さまざまな長寿研究が進んでいることが紹介されてました。

 アンチエイジングの現在を知るにはよく、話題も豊富で、文章も巧みで、読んでいて楽しいです。ただ、著者自身が何か提唱しているといったものではなく(著者は大学院博士課程在学中、といことはまだ学生!)、総花的で、一つ一つがやや浅い印象も受け、断片的な知識しか得られない気もました(学者といよりノンフィクション作家か科学ジャーナリストが書いた本のよう)。

 「長寿に関するフィールド調査で常に明らかになるのは、長寿の人々は意義と目的について意識が高く、いくつになっても熱心に社会参加しているということだ」とあり、この辺りが著者個人としての結論になるのかもしれません(訳者も自身のあとがきで、この言葉が印象に残ったとしている)。

《読書MEMO》
●目次
プロローグ――若返りの泉
Ⅰ 自然の驚異
第1章 長寿の記録
第2章 太陽とヤシの木と長寿
第3章 過大評価される遺伝子
第4章 不老不死の弱点
Ⅱ 科学者の発見
第5章 あなたを殺さないものは......
第6章 サイズは重要か?
第7章 イースター島の秘密
第8章 すべてを結びつけるもの
第9章 高校で教わる生物学の誤り
第10章 不死への冒険
第11章 ゾンビ細胞とその退治法
第12章 生物時計のねじを巻く
第13章 血液の驚異
第14章 微生物との闘い
第15章 見えるところに隠れる
第16章 長生きするためのデンタルフロス
第17章 免疫の若返り
Ⅲ 役立つアドバイス
第18章 楽しく飢える
第19章 歴史ある習慣を見直す
第20章 カーゴカルトの栄養学
第21章 思索の糧 フード・オブ・ソート
第22章 中世の修道士から現代科学へ
第23章 測定できるものは管理できる
第24章 物質より心

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